君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

結局、紙切れが示す場所に行くことはしなかった。

白石奈子がどんな状態であろうと、俺には関係ない。
むしろ会いに行けば、嫌悪感を煽られるだけのはずだ。
それにいくら嫌いな相手だろうと、病人に鞭打つような悪趣味はない。

十分に理解していて、頭は冷静なはずだ。
……なのに、どうして胸の奥がこんなにざわついていたままでいる?

ベッドに横になっても、天井の染みばかり見つめて眠れない。

「……考えるだけ無駄」

自分に言い聞かせるように呟こうが、まるで効果はない。
逆に心臓は乱暴に脈打ち、落ち着きが失われていくようだった。

気を紛らわせようと机の引き出しを整理していた時。
まず目に入ったのは、手書きの譜面が書かれた五線紙だった。

曲を作る趣味は、前からあった。
この曲を、自分で作ったことも覚えていた。
ただ、どうやって作ったのかだけは綺麗に抜け落ちている。

最近は、まるでなんの音もわいてこない。曲を作る気にはなれなかった。
たまたま俺が曲を作ると知った美優が、聴かせて欲しいとせがんできたこともあった。
けれどどうしてもその気にならなくて、適当に理由をつけて流していた。

五線譜をしまい込もうとすると、一冊のノートが目に入った。

何の変哲もない、ありふれたノートのその表紙には”今の俺へ”
そう、マジックで走り書きのように書かれていた。
紛れもなく、俺の字だった。

その瞬間、息が詰まった。
書いた覚えもない代物。

眉を潜めながら、ページを開く。

《第三週目の金曜日、放課後の音楽室。
俺はそこで、一時的に奈子ちゃんとの記憶を取り戻すことができる。
その間の記憶は保持できない。
翌日目が覚めるとまた全てを忘れている》

初めに飛び込んできたその文章に、目を見張る。
けれどどこかで、ああ、と納得した。

確かに片思い病―――この病気にかかってから、数か月ほどの期間。
第三週目の金曜日、放課後。その辺りから、翌日目覚めるまでの記憶がなかった。

その間も、特に問題行動を起こすようなことはないようだったし、いつの間にかそれが起こることもなくなった。
だから対して気に留めてはいなかった。

《奈子ちゃんの笑顔が好きだ。笑い上戸で、あの無防備な顔が愛おしい。
奈子ちゃんにはずっと笑っていて欲しかった。
でも今は俺が、奈子ちゃんを泣かせている。自分が世界一憎い》

《「海」二人で海に行った時に作った曲を、また歌った。
ネーミングセンスが安直だと、可笑しそうに笑っていた奈子ちゃんのことを思い出した》

これは、日記だ。
白石奈子との記憶を、一時的に思い出していた時の俺が、残したもの。

《ピアノのコンサートが近い。
奈子ちゃんは「今の俺にも頼んでみる」そう言って笑ってくれた。行きたい。
奈子ちゃんの音が聞きたい》

白石奈子が、「今度のコンサートに来て欲しい」と、必死な顔で頼んできたことがあったと思い出す。
チケットを受け取ると、本当に嬉しそうな顔をしていた。

……あの時、本当は。行こうかと思っていた、白石奈子のコンサートに。
しかし当日、コンサート会場の最寄り駅まで行くはずの電車は、不慮の事故で一時運休となっていた。
再開の見通しは経たず、それならバスかタクシーか……そこまで考えて、我に返った。

必ず行くと約束もしていない。何より、嫌いな相手のためにそこまでする必要はない。
―――本当に?

別に、美優の試合の応援に行きたかったわけではない。
けれど、反発しようとする何かを抑え込むかのように、あの時体は動いていたのだ。

《どうして、片思い病なんてものがある。どうして俺なんだ。どうして、》

書き殴られたかのように繰り返される、「どうして」の文字。
さらにページをめくる。いつの間にか震えている指で。

そのページは、表紙と同じ文字から始まっていた。