君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

夕方。母が病室に戻ってきた。

「大丈夫? 何もなかった?」

「うん、普通に話して普通に帰っていったよ」

そんな当たり障りのない会話をしながら、私の心臓は脈打っていた。

―――確かめたいことが、ある。

私は意を決して、母に尋ねた。

「……お母さん。私を産んだこと、後悔してない?」

母は目を見開いた。

「なに言ってるの、奈子?」

私は震える声で続けた。

「小さい頃……聞いちゃったの。
お母さんが電話で『あの子がいなければ』って、そう話してたこと。
私……それがずっと、心に残ってて……っ」

言うつもりなんてなかった。でも、ずっと言いたかった。
私の心。

私の頭の中には―――父の言葉が蘇る。

「あのな、あの時お前のお母さんは―――続けてこう言ってたんだよ。
『それでも私は、奈子のいない人生なんて考えられない。もし過去に戻れたって、私は絶対この子を産むわ』……って」

それは、私の知らなかった”母の真意”だった。

「そうやって、お父さんが教えてくれたの。
お母さんは、私がいても幸せだった?
私は産まれてきてよかったのかなぁ……?」

母は黙って私の手を握った。その瞳が潤んでいる。

「違うわ、奈子。
お母さんは、奈子がいたから幸せだったのよ。
あなたのいない人生なんて、絶対、絶対に考えられないわ……っ」

母は私の手を強く握りしめた。

「愛してるわ、奈子。
あなたは私の宝物よ」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に長年澱んでいたわだかまりが、ふっと溶けていくのを感じた。
ずっと、確かめたかったこと。聞きたかった答え。

「……よかった」

小さく呟いた声が、涙に震えていた。

母は泣きながら私を抱きしめてくれた。
温かさに包まれながら、私は思った。

大きなこの母の愛を、知ることがないまま死ななくて、良かった。
病気になったことを、はじめて少しだけ良かったとさえ思った。

これでもう心残りなく、死ねるかもしれない。

けれど……心の隅には、どうしても消えない影があった。

「……あの、ね」

私はもう一つ、母に隠していたことを打ち明けた。

「ずっと、言えてなかったんだけど……恭介は、片思い病にかかってるの」

まだ涙に濡れた母の目が、驚いたように私を見た。

「え……?
片思い病って、じゃああなたたちが別れたっていうのは……」

「……うん。片思い病のせい」

私は頷いて、事実を伝える。

「でも、この間お見舞いに来てたでしょう?」

「あれが最後だよ。
……もう恭介とは、会わないから」

母の顔が、再び泣きそうにくしゃりと歪んだ。

「……辛かったね……奈子、頑張ったね……」

母はまた、私を抱きしめてくれた。
私はそっと目を閉じて、全てを包み込んでくれる母の愛に身をゆだねる。


少し開けた病室の窓からは、消毒液の匂いに紛れて、かすかに土の息吹が混じる。
それはまるで、ほんのひと筋、春の前触れが忍び込んできたようで。
こうして次の季節へ歩き始めている世界に、もうすぐ私は置いていかれるのだろう。


―――私の余命は、あと三か月を切っていた。