君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

父を名乗るその人が、ベッドの脇に座る。

「大きくなったなぁ……また会えてうれしいよ」

そう、感慨深げに私を見つめる父。
私にとっては、限りなく他人に近い存在で、どう返したらいいか分からず曖昧に頷いた。

父は今、居酒屋の店長をしているらしい。
左手には指輪の類はなく、「寂しい独り身だよ」と冗談めかして言う父。

「それで、さ。お前が病気になったって……風の噂で聞いたんだ。そしたら、居ても立ってもいられなくなってさ……」

父はそう言って、いきなり声を震わせて大げさに泣き出した。

「ごめんな……ごめんなぁ、奈子……!
俺はまだ幼いお前を置いて……本当に、父親失格だ……」

ベッドの前で泣き崩れる姿を見ても、私の胸は不思議と静かだった。
だって知っているから。父が出て行った後、母がどれだけ必死に働いて、ボロボロになりながらも私を育ててくれたか。
涙を見ても、心は動かなかった。

「お前のお母さんは、本当にすごい人だよ」

父は涙を拭きながら続けた。

「どれだけ生活が苦しい時だって、お前を抱くたびに『私の宝物』って言って、愛おしそうに笑ってた。
……それなのにお前が病気だなんて……本当に、可哀そうになぁ」

その言葉に、心の奥がざわめいた。


思い出す。小さい頃のこと。

あの頃の母は、いつも疲れた顔をしていた。
それもそのはずだ。だって母は、私のためにずっと働き詰めだったのだから。
夜中にトイレに起きた時、そんな母が誰かと電話しているのを聞いてしまった。

『後悔してるかって?
……そうね、あの子がいなければ、私の人生もっと変わっていたかもね』

私は息を呑んだまま、布団に潜り込んだ。
幼い私の心に、その言葉はまるで棘のように深く突き刺さった。

以来ずっと、心のどこかで思っていた。
私は母の足かせなのではないか、と。


「……でも、私がいなければ、お母さんはもっと幸せだったのかもしれない……」

気づけば私は、独り言のようにそんな心情を吐露していた。

「え?
なんでそんなこと思うんだよ?」

途端に父はキョトンした顔になって、次いで眉をひそめた。

「だって……前に、私聞いたの。
”あの子がいなければ”って……お母さん、そう言ってた」

「……んー?
それ、何年前の話だ?」

当時の年齢を伝えれば、父はまた腕を組み、考えるように目を閉じる。
そして「ああ!」と一瞬驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。

「それ、多分俺だ。電話の相手、俺だったんだよ」

今度は私が驚く番だった。

「そうかそうか、まさか聞かれてたとはなぁ……」

父は一人でうんうんと頷くように呟いて、それから私に向き直った。

「あのな、あの時お前のお母さんは―――」