君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

病室のベッドの上で、一日を終える。
それが今の私の日常。

恭介が来なくなってからも、そんな日常は続いていた。

彩音と千尋くんは、こまめにお見舞いに来てくれている。
彩音だけの時もあるし、千尋くんだけの時もある。
二人一緒に来る時もあって、何だかそのたびに二人も仲良くなっているように見えて、それが何だか嬉しかった。


ある日の午後。私はうとうと眠ってしまっていた。

病室のカーテン越しに、夕方の柔らかい光が差し込む。
ドアがそっと開き、「……奈子?」

そう、控えめな声がした。
彩音と千尋くんが入ってきたのだと、霞ががっている意識の中で思う。
でも瞼は張り付いたように重いままで、私は目を開けられなかった。

「ごめんなさいね、奈子……まだ起きそうになくて」

次いで、母の声がする。

「これ、私たちからの差し入れです」

「あら、ありがとう。奈子、きっと喜ぶわ」

「じゃあ、俺たちは帰ります。
奈子さんに、よろしくお伝えください」

二人の気配が遠ざかっていく頃には、私の意識はすっかり夢の中だった。



目を覚ました私は、母の腕に支えられ、ゆっくりと起き上がった。

「彩音ちゃんと、千尋くんが来てくれたのよ。
それで、これを奈子にって」

そう言って渡された箱を、母に手伝ってもらいながら開けてみる。
中には、病院で食べられるゼリーやプリン、ハーブティーなどの小さな差し入れが詰まっていた。
彩音と千尋くんが選んでくれた色とりどりのそれらが、とても眩しく輝いて見えた。

「……嬉しい……」


小さく呟くと、母はにっこり笑った。

「奈子はいい友だちを持ったわね。
あとでちゃんと、奈子からもお礼言うのよ」


私は目を閉じ、胸がじんわり温かくなるのを感じた。友達も母も、みんな私のことを思ってくれている。
冷たい病室の空気に、ほんの少し春の光が差し込んだように感じられた。


その夜、母は私のそばに座って、少し言いにくそうに尋ねてきた。

「奈子……あなたのお父さんのこと、覚えてる?」


一瞬、時が止まったように感じた。
「お父さん」―――その響きは、ほとんど記憶の中には存在していない。私が二歳の時に家を出ていった人だ。

私のその反応で粗方察したのだろう、母が苦笑いするように続けた。

「奈子の病気のことをどこかで知ったみたいでね、会いたいって言ってるの」

母の離婚理由は、父の不倫。

父が二十一歳、母が十九歳。
まだ若い二人の間に私が産まれて、それでも母は必死に育ててくれた。
けれど父は「まだまだ遊びたい」その気持ちに勝てずに、女を作って出ていった。

昔、法事で親戚の家に出向いた時に、噂好きな親族の一人からそう聞かされたことがあった。

だから、父に会いたいかと問われれば、答えは正直「別に」だった。
けれど―――死ぬ前に、一度くらい会っておいてもいいのかもしれない。
そう思って、私は母の申し出を受け入れた。



数日後。

病室のドアが開き、現れたのは背が高く、どこか軽薄さを纏った中年の男だった。
茶色に染めた髪、少し派手なシャツ。年齢のわりに落ち着きがなく、若作りをしているのが痛々しい。

「……奈子……!」

その声は、どことなく血のつながりを感じさせた。
けれど胸の奥に響くものはなかった。