君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「奈子ちゃん」

恭介の声に、はっと意識を取り戻す。

「ぼーっとしてたけど、どうした?」

「ちょっと私たちがはじめて会った頃のこと考えてた」

あの頃と比べて、更に背が伸びて、より声も低くなった恭介。
高校に上がっても、音楽室が使えるのが第三金曜日とか奇遇だよなぁ。
でも、さすがに第五金曜日は違うけどね。

「奈子ちゃんにもイキってたあの頃の自分思い返されると、ちょっと恥ずいな」

ピアノの前に座る私の背後から、恭介がもたれかかってくる。

「あれってイキってたんだ?」

「……そういうお年頃でしたね」

そう言ってぐりぐりと頭を擦り付けてくる恭介に、笑みがもれた。

「ところで、本当に作った曲はどこかに公開しなくていいの?」

私は恭介の描いた楽譜を見ながら尋ねる。
恭介はこれまでに何曲もオリジナル曲を作り出しているが、そのどれも世に公開することはしていない。
贔屓目なしでもとてもいい曲ばかりだから、その才能が隠れてしまうのは勿体無いような気がしてしまう。

「しなくていいよ。
全部奈子ちゃんのためだけに作った曲だから、奈子ちゃんだけが聞いてくれればそれでいい」

そう言われたら、嬉しくなってしまう私がいる。
だからいつも、恭介がそれでいいならと頷いてしまうのだ。

「ていうことで、たまには奈子ちゃんの下手……可愛い歌もきかせてよ」

「絶対にイヤ」

断固拒否してみせれば、笑い皺を作りながら恭介が笑って。
こんな幸せな日常がいつまでも続くはずだと、この時の私は思っていた。


「ねえ、“片思い病“って知ってる?」

隣の席に集まった女子たちの会話は、聞こうとしなくても耳に入ってくる。

「あー知ってる。
好きな人のことを忘れちゃうってやつでしょ?」

「そうそう。
しかも忘れちゃうだけじゃなくて、その人のことが嫌いになるんだってね。
拒絶反応が出るらしいよ」

「うっわー何それ。
好きな人に忘れられた上に拒絶されるなんて辛すぎ。
私なら絶対に耐えられない」

私は席に座って頬杖をつきながら、その言葉に心の中で同意した。

片思い病。
正式名称は、解離性健忘愛症候群。
想い合う相手がいることを条件に発症されると言われている病だ。

発症すると、突如として愛している人に関する全ての記憶を失ってしまう。
そして、その人の全てに嫌悪を抱き、拒絶するようになる。

ひとたび発症してしまえば、愛し合っていた相手と再び想いが通じ合うことはない。
発症者のパートナーは“永遠の片思い状態”となる。
そのことから、通称“片思い病”と呼ばれるようになったのだ。

この間もとある地下アイドルがSNS上で、数年前から発症していたことを明かし話題となっていた。

もし恭介が発症して、忘れられて拒絶されたとしたら。
想像しただけでゾッとする。
そんなことになったら、とてもじゃないが耐えられない。

「そう思うとさ、誰かと両思いになるのって怖いよね」

「まぁめっちゃ珍しい病気らしいから、よっぽどない限り大丈夫でしょ」

発見されてからそう月日も経っていないこの病は、発症のメカニズムもまだ解明されておらず、治療法だってない。
世界的に見ても発症例が少なく、非常に珍しい病とされている。
だからこそ恐ろしい病だと震えながらも、自分の身に降りかかることはないと思っている。
私もその中の一人だ。

予鈴が鳴って、女子たちがバタバタと自席に戻っていく。
授業が始まってしまえば、後はもう睡魔との戦いだ。
眠気防止のため、ひたすらに今日のデートで恭介と行きたい場所のことを考えていたら、いつの間にか奇病のことも頭から抜けていた。


何とか午後の授業を耐え切って、やって来た放課後。
楽しみにしていた恭介とのデートの時間だ。

まずは、気になっていた新作ドリンクを飲むためカフェに来た。
恭介と向かい合わせに座って、ストローに口をつける。

「はー美味しい……」

甘さが体に染み渡り、溢れ出す幸福感に頬が緩む。

恭介は微笑みながら私のことを見ている。

「なに?」

「可愛いなって思って」

さらりと言ってくる恭介。
付き合ってもうすぐ三年になるというのに、恭介はいつまでも私に甘いのだ。

そろそろ飲み終わるという頃、恭介が一瞬こめかみを抑えて顔をしかめたのが見えた。

「大丈夫? 頭痛い?」

「あー、少しだけ。
もう治ったから大丈夫」

そう言って何でもない顔をする恭介のことを、じっと見つめる。

「嘘。恭介無理してる。
本当はまだ結構痛むでしょ」

これだけ一緒にいたら、それくらいは分かる。

「やっぱバレたか」

お手上げというように、恭介が眉を下げて笑う。

「恭介はすぐに平気なフリしようとするんだから」

「でも、そこらの薬局で薬でも買って飲んでおけば治るよ」

そんなことを言っている恭介のおでこに手を伸ばす。

「……いや恭介、多分これ熱あるよ」

触れたおでこは、いつもより熱を持っているように感じた。

「ごめん、もっと早く気づいてあげれば良かった。
よし、今日はもう帰ろう」

そうと決めたらバックを持って立ち上がる。
恭介が「でも」と声を上げた。

「今日は奈子ちゃんの欲しい限定グッズの発売日でしょ?
それ行ってからにしよう。どうせただの風邪だろうし」

「もーこんな時まで私優先しようとしなくていいの!
今は恭介の体の方が大事に決まってる!」

ただの風邪を舐めたら怖いんだよ。
そう説き伏せて、恭介と共にカフェを出る。

「今日は私が送るからね。
今日はゆっくり休んで、明日も良くならないようだったら病院に―――」

「……ごめん、奈子ちゃん」

苦しげな声が聞こえたかと思うと、次の瞬間、恭介は道端に膝をついた。

「恭介!?」

慌ててそばにしゃがみ込むと、恭介の体が更にぐらりと傾いた。
その体を支えようと両手を伸ばす。
勢いに負けて尻もちをついた私の手の中には、力なく倒れ込んだ恭介の姿。

意識を失って、閉ざされた瞳。
触れた肌は、先ほどとは比べようもないくらい熱い。

「恭介……恭介……!」

呼びかけても応えてくれない。
けれどこのままでは、恭介がどこかに連れて行かれてしまう、そんな気がして。
私はひたすらに、恭介の名前を呼び続けた。