君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

懐かしいな、と目を細める。

「……実は俺、あの時ピアノが嫌になってたんだ」

「え」

今度は細めた目を見開くようだった。
それは完全に初耳だ。

「スランプっていえばいいのかな……上手くいかない自分と、周囲からの期待とか、そういうのが全部辛くなって。
中学上がったらきっぱり辞めようかって、思い悩んでた」

「……そうだったんだ……」

あの時、千尋くんが落ち込んでいるように見えたのは間違いじゃなかったのだと、頭の隅で考える。

「でもあの時、奈子が無邪気に一緒に弾こうって言ってきて、それで弾くのは校歌とかそんなので。
間違えちゃいけないとか上手い下手とか、そういうこと何も考えずにピアノに向き合えた。
ピアノの楽しさを思い出すことができたんだ」

柔らかな声音が、胸の奥深くまでそっと染み込んでくる。

「それで、俺はピアノを続ける気になれた。
今の俺がいるのは、奈子のおかげなんだよ」

私たちは、自然と足を止めていた。
繋いだ手はそのままに向かい合い、愛おしさが滲むように細められた彼の瞳が私を見つめる。

「その時からずっと、俺は奈子が好きだった」

千尋くんの言葉が、真っ直ぐに私の耳へ飛び込んできた。
心臓が大きく跳ねて、胸の奥で暴れる鼓動をどうしても止められない。

「……っ」

嬉しい。
でも、怖い。
胸が張り裂けそうなほどドキドキしているのに、どうしようもなく切なくて、ぎゅっと締めつけられる。

私に向けられた「好き」が、あまりにも眩しすぎて―――視線を逸らしたいのに、どうしても千尋くんから目を離せなかった。

「でも……今の私にはそんなこと言ってもらえる資格、ないよ」

その真っすぐさを受けて、偽れない本音が口からこぼれる。

「だって私ね、ピアノが弾けないの。
今までどうやってピアノを弾いていたのかも分からなくて……多分もう、ダメなのかもしれない」

恭介を失った日から、私の世界からは音が消えた。

「いいよ。奈子が弾けない間は、俺が代わりにいくらでも弾くよ。
それで何十年後でもいい、もしもう一度弾ける日が来たら……今度は俺が、一緒に弾こうって誘うから」

千尋くんの言葉に、鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなっていく。
必死に堪えようとしたのに、瞳の端からぽろりと涙が零れ落ちた。

「……千尋くん……」

声が震える。
でも、その優しい笑顔に触れるだけで、張り詰めていた何かがふっと緩んでしまう。

弱さも痛みも、そのまま受け止めてくれる。
この人は、そんな強くて温かい人なんだ。

もし―――もしこのまま千尋くんのことを好きになれたら。

―――このまま、恭介のことを忘れられたら。

そうすれば、私はもっと楽になれるのかもしれない。

「……ありがとう」

涙を拭いながら、私は笑おうとした。
上手く笑えていなかったかもしれないけれど、それでも千尋くんは、私の表情を見て安心したように頷いてくれた。

その仕草に、胸がまたぎゅっと痛んだ。
忘れたいのに、忘れられない。
でも、こんなふうに隣にいてくれる人がいることが、今はただ、ありがたかった。


ただきっと、「もしも」は叶わないから“もしも“なんだ。