君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

その後は、もう少しそのカフェでお喋りをしてから、本屋に行った。
千尋くんお目当ての本が無事見つかって、「良かったね」と言いながら二人並んで歩く。

他愛もない話をしながら、自然とぶつかる手のひらと手のひら。

ごめん、と言うよりも早く千尋くんが口を開いた。

「あの、さ。手……繋いでもいい?」

心臓が一瞬跳ねて、妙に気恥ずかしくなった。

「……うん」

答える声は小さく窄んで、でもしっかり届いたようで、千尋くんの指が私の指にそっと触れる。
優しく握られた手のひら。
千尋くんの手はさらさらとしていて、少し冷たかった。

手をつないだ先に見える千尋くんの横顔も、少し赤く染まっているようで。
それを見たら何だか胸の奥がきゅっとなるようだった。

「……さっきのカフェでの続き、聞いてくれる?」

「え?」

千尋くんがポツリと呟いた言葉を、問い返す。

「奈子を好きになったきっかけのこと」

まさか、話してくれるとは思わなかった。
少し戸惑って、視線をさまよわせて、私はまた「……うん」と頷いた。

「小六の時、俺たちがピアノの連弾したこと覚えてる?」

尋ねられて、私は「覚えてるよ」と即答した。


そう、あれは確か小学校六年生の秋頃。

千尋くんのお母さんは、自宅でピアノ教室を開いていた。
その日レッスンがあった私は千尋くん宅を訪ねたけれど、出てきたのは千尋くん一人だけ。

今日レッスンがあることを伝えると、千尋くんは驚いた顔をして「お母さんは今外出中」と言った。
ちょっとした伝達ミスも重なって、千尋くんのお母さんがレッスン日を勘違いしていたというのが真相だった。

「ごめんね、すぐ戻るって」

千尋くんがお母さんに電話をしてくれて、私はお母さんが帰ってくるまで家の中で待たせてもらうことになった。

千尋くんがお茶をだしてくれて、それを飲みながら雑談をしたりする中で、私は気づいたことがあった。

……千尋くん、何だかちょっと元気がない?

当時から千尋くんはいつも穏やかで、にこにこしていた。
その時も私の話に頷いて、優しく笑ってくれていたけれど、どこか影が差すような、そんな風に見えた。

気のせいかもしれない。
それに正解だったところで、千尋くんが普段してくれるような気の利いた声かけは思いつかなかった。

だから、私は―――「橋田くん!」

すくっと立ち上がって、早口に言った。

「待ってる間、一緒に弾かない?」

気の利いた言葉も、同世代の男子とする楽しい遊びも思いつかない私の、唯一の案だった。

少し戸惑いながらも「いいよ」と言ってくれた千尋くんと二人で一つの椅子に座り、鍵盤に触れた。

「なに弾く?」

「うーん……橋田くんあれ弾ける?
〇〇のテーマ!」

そうして一緒に弾いたのは、某有名アニメのテーマ曲。
即興だから結構適当で、たまに音もずれたりして。
でも、楽しくってそれでよかった。

ショパンもベートーヴェンも弾かず、その後もお互いの小学校の校歌とか、童謡とか。
そんなものばかりを一緒に奏でて、笑い合った。

いつの間にか千尋くんから暗い影は消えていて、安心した―――そんな記憶。