君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

休日には、彼に誘われて水族館に行った。

暗い水槽の前で、ゆらゆら揺れるクラゲを見ていたら、千尋くんが横から小声で「奈子、似てる」と言った。

「え、どういう意味?」

「ふわふわしてて、見てると落ち着く」

そんな風に真顔で答えるから、思わず笑ってしまった。

いつの間にか、自然に笑える時間が増えていった。

別の日には、街の小さな雑貨屋巡りをした。

目に留まったのは、棚に並んでいた一つのマグカップ。
淡いブルーの花が描かれていて、素直に綺麗だと思って、手に取った。

「綺麗だね」

隣で見ていた千尋くんが言うのに頷きながら、私はマグカップを棚に戻そうとする。

「奈子に似合うと思う」

そう何気なく呟いて、千尋くんが私からひょいっとカップを取り上げた。
そのままレジに持っていこうとする。

「いいよ、そんな……」

慌てて止めようとしたけれど、「俺があげたいだけだから」と柔らかく笑うその顔に、もう何も言えなかった。

少しずつ、私の中で千尋くんは“大切な人”になりつつあった。
それを確かめるように、親友の彩音に紹介することにした。

放課後、駅前のカフェで待ち合わせ。

「おお〜、やっと本人に会えた」

彩音が、私と千尋くんを見るなりそう笑った。

甘党の彩音は、期間限定の新作ドリンクに、更にホイップクリームとチョコソースを追加して頼んでいた。
それでも「甘さが物足りない」といってガムシロップを1つ追加する様子を見て、千尋くんは驚いたように瞬きをしていた。

「えっと、初めまして。奈子のと……親友の彩音です」

わざわざ”親友”と言い直した彩音に思わず笑みがこぼれる。

「橋田千尋です。奈子にはいつもお世話になってます」

千尋が少し照れながら頭を下げると、彩音はじっと彼を見つめてから、私に目配せをした。

「いい人そうじゃん」その視線がそう言っているようで、少し安心した。

「千尋くんもピアノ長いんだね。じゃあ、奈子とも結構付き合い長いんだ?」

彩音はその場で千尋に色々と質問した。好きな食べ物、趣味、ピアノのこと。

「そうだね、奈子と初めて会ったのは小学5年生だったかな」

千尋くんはいつもの穏やかな声と表情で、すべて丁寧に答えてくれた。

「それでズバリ、奈子のことはいつから好きだったの?」

「ちょ、彩音……」

話が弾むにつれ、彩音が切り込んだ質問をするようになってきた。
さすがにどうかと止めようとしたけれど、千尋くんは「そうだなぁ……」と真剣に考え始める。

「自覚したのは、小学六年生の時かな」

「え」

思わず声が出た。……そんなに前から?

「え、嘘! 思った以上に早かった!
何かきっかけとかがあったり?」

すかさず彩音がさらに切り込む。
私はというと、驚きすぎて何も口に出せなかった。

「ごめんね、それは秘密」

千尋くんはそう言って、私と目が合うと少し悪戯っぽく微笑む。

彩音は「えー」と少し残念そうにしたけれど、「あ、じゃあ家族構成は?」とすぐに別の話題に切り替えた。

私は少し早くなった鼓動を落ち着かせるために、彩音と違いカスタムなしの新作ドリンクを飲み干すように口付けた。

「じゃあ私、そろそろ帰るね。あとは二人でごゆっくり」

1時間ほどした頃、彩音がそう言って立ち上がった。

「千尋くん、いいね。奈子、幸せそうだよ」

帰り際、そうこっそりと私に耳打ちをして。
颯爽と帰宅する彩音。

ありがとう、とその背中に呟いた。