君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「ずっと、好きだったんだ。白石さんのこと」

胸の奥がぎゅっと締めつけられて、息がうまくできなかった。
それでも頭に浮かんだのは、恭介の顔。

笑っている顔、拗ねている顔、怒っている顔。
私だけを見つめてくれた頃の顔。

「……ごめん。私、まだ……恭介のことを忘れられない」

そう言うと、橋田くんは少しだけ目を伏せて、それでも穏やかに笑った。

「いいよ」

「え?」

「それでも、いいよ」

その言葉は、温かくて、ずるかった。
弱っている私の心に、ゆっくりと入り込んで、痛みを和らげてくれる。

そして―――そんな橋田くんの優しさに甘えるように頷いてしまった私は、それ以上にずるい人間だ。


それからの日々、私は橋田くんの隣にいた。

特進科で棟も違う橋田くんとは、学校では待ち合せない限り会うことは少ない。
その分、放課後に一緒に駅まで歩いたり、カフェに寄ったり、商店街をぶらぶらしたり。
私が急に黙り込んでも、彼は理由を聞かず、ただ歩調を合わせてくれた。

ある日、私たちは夕暮れのカフェで並んで座っていた。

橋田くんはコーヒーに砂糖少しを入れて飲むのが好みらしい。
私にはまだコーヒーは苦すぎるから、ホットのキャラメルラテを頼んだ。

いつものように呼びかければ、橋田くんがカップから顔を上げる。

「ねえ、橋田くん」

「……千尋でいいよ」

コーヒーの湯気が、間に流れる空気をほんのり揺らす。

「え……でも」

「“橋田くん”のままだと、距離を感じるっていうか。
……ていうか俺が、呼ばれたい」

その言葉に、心臓が一瞬だけ早く脈打った。

「わ、かった。
……じゃあ、千尋くん」

名前を呼ぶと、彼はふわりと嬉しそうに笑う。

「じゃあ俺は、奈子ちゃんかな」

”奈子ちゃん”―――恭介の声が、重なった。

「……奈子でいい。呼び捨てでいいよ」

反射的に、そう声に出していた。

そうしなければきっと、呼ばれるたびに思い出してしまうから。
そして恭介の私を呼んだあの声が、あの表情が。上書きされてほしくない、そう確かに思ってしまった。

千尋くんは、何かを察したようで、でも何も言わなかった。

「奈子」

ただそうやって、私の名前を呼んで。

「何だか照れるね」

そう言って、はにかむように笑うのだった。

それからは、私たちは名前で呼び合うようになった。
その響きは、想像以上に近くて、心の奥まで届いてしまう。