君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

とりあえずは腹ごしらえということで、駅前にあるファーストフード店にやって来た。
今の自分の胃袋キャパシティを鑑みて、ドリンクとポテトのsサイズを注文する。

橋田くんと向かい合って席に座り、ポテトをつまむ。
ハンバーガーとポテトのセットを頼んでいた橋田くんが、目の前であ、と大口を開けてハンバーガーにかぶりつく。

「……なんか意外」

思わずそう呟けば、「何が?」と橋田くんが不思議そうに瞬きをする。

「橋田くんって、なんか上品っていうか優雅なイメージがあったから……思ったより豪快に食べるな、って」

橋田くんが「何それ」と笑う。

「残念ながら、ハンバーガーには豪快にかぶりつくタイプの男子高校生だよ」

それにつられて、私の頬もゆるむ。
忘れかけていた空腹が、少しだけ戻ってきたような気がした。

「この後、どうする?
行きたいところとかある?」

橋田くんに尋ねられて、思考すること数秒。

「映画、とか?」

「いいね。今やってるやつ、なんか気になるのある?」

橋田くんが手早くスマホで、今上映中の映画を調べてくれる。
私にも見えるようテーブルの上に置いたスマホを、一緒にのぞき込んだ。

「うーん……このホラー、観たいかも。最新のやつ」

一瞬、橋田くんの笑みが引きつったように見えた。

「……ホラー?」

「……苦手だった?」

「いや、大丈夫。全然大丈夫……大得意」

そう言ったあと、心の底からわかりやすい苦笑を浮かべた橋田くんに、思わず吹き出した。
こんなふうに笑ったのは、どれくらいぶりだろう。胸の奥で、小さく何かが溶けていく音がした。

あの後、苦手だったら別のにしようといっても橋田くんは大丈夫だと言い張って、予定通りホラーを観ることになった。
上映時間ギリギリに行ったからか、前の方の席しか空いていなくって、二人横並びに座る。

上映が始まる。
真っ暗な中、響くのは悲鳴と不協和音。

さすが映画館というべきか、前の方の座席なことも手伝って、ホラーが得意な方である奈子からしても怖いと感じるような大迫力。

横目でちらりと見ると、橋田くんはぎゅっと肘掛けを握りしめ、顔をこわばらせていた。
耳を塞ぎたいのを我慢しているのが伝わってきて、奈子は思わず口元を押さえる。

やっぱり、ホラー苦手だったんだ。

無理をさせて申し訳ない気持ちと、それ以上に感じる橋田くんの優しさ。
エンドロールが流れ出した時には、胸に残った苦しさの代わりに、少しだけ温かいものが胸に残っていた。


映画を見終わって、駅までの帰り道。
私はふと足を止めた。
視線の先に、ストリートピアノが見えたからだ。

先客はいなかった。
学生や、仕事帰りのサラリーマン。様々な人が忙しそうに行き交って、素通りしていく。

長年ピアノに触れてきた性か、ピアノを見るとつい足が吸い寄せられそうになる。
でも、もう私の指は動かない。

「ねえ、橋田くん」

「ん?」

「……弾いてくれない?」

橋田くんは少し驚いたように目を見開き、それからふっと笑った。

「いいよ。白石さんが聴きたいなら」

橋田くんがピアノに向かって歩いていって、腰かける。

私の方をちらりと横目に見てから、両手を持ち上げて―――彼の指が鍵盤に触れる。

音がこぼれ落ちて、静かな夜の駅に優しい旋律が流れていった。

ああ、綺麗だな。

私の音に似ているようで、どこか違う。
温かくて、まっすぐで、心に染み込んでくる音。

気づけば、頬をひとすじ、涙が伝って落ちていた。

気づいたら何人かの人が足を止めて橋田くんの演奏を聴いていて、演奏が終わると控えめな拍手が聞こえた。

その人たちに丁寧にお辞儀をしてから、こちらに戻ってきた橋田くんが、心配そうに私の顔を覗き込む。

「……白石さん?」

大丈夫?と見つめ合ったその瞳が言っていた。

私は慌てて涙を指でぬぐい、笑ってみせた。

「ううん、大丈夫。今日は、ありがとう」

橋田くんは何か言いたそうに口を開きかけて、けれどやめた。
代わりに、いつもの優しい声で言う。

「……何かあったら、いつでも頼ってね」

「……うん。ありがとう」

橋田くんとは乗る電車の路線が違っていて、改札のところで解散となった。

「またね」と手を振りあって、背を向ける。

その日の帰り道、まだ心は傷口のように痛むけれど、少しだけ軽くなった気がした。
それだけで、今日は充分だった。