君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

そして放課後。

私は一人、音楽室にあるグランドピアノの前に座っていた。
そっと鍵盤に手を置いて、指慣らしに簡単なメロディを奏でる。

ピアノを弾くことが、私の唯一の趣味だ。
幼い頃からそれは変わらない。

一曲弾き終わったタイミングで、コンコンとノックされる扉。

「いらっしゃい」

現れた恭介にそう声をかけた。

「お待たせ。
ごめん、結構長引いた」

中に入ってきた恭介は、そのままピアノのそばに置かれた椅子に座る。

「大丈夫。
あのね、こないだ作ってくれた曲ちゃんと覚えてきたんだ」

そう言葉にしながら、私は新たなメロディを奏で始める。
私にとっての一番のメロディ。それは恭介が作る曲。

恭介がふっと微笑んで、静かに息を吸い込む。
そして私のピアノに合わせて歌い始めた。

私が奏でるピアノと、耳に馴染む恭介の低音が混ざり合って、二人だけの空間に響く。

第三週目の金曜日。
吹奏楽部が休みとなるこの日は、この音楽室が私たちだけの特別となる。

それはあの頃―――私たちが中学生だった時から変わらない。



中学二年生の春。
隣のクラスに転校生としてやって来たのが恭介だった。
当時から目を惹く外見をしていた恭介は、転校生の物珍しさもあって学年中の注目を集めていた。

私のクラスの女子の中でも、話題になるのは専ら恭介のこと。

けれど噂には、次第にネガティブなものが混じっていって。
「挨拶しても無視された」
「話しかけようとしたらうざいって言われた」
「顔はカッコ良くてもちょっと酷くない?」

そんな風に囁かれ出したところで、もう一つの噂が回り始めた。

「あいつって両親が事故で死んで、今は施設で暮らしてるらしいぜ」

隣クラスの男子生徒が発祥となった噂は、事実だった。
その話を人づてに聞いた当時は、漠然と「辛い思いをしたんだろう」と同情を感じた。
けれど同じクラスでもない私には、噂の転校生と関わる機会なんてなかったし、これからもそうだと思っていた。

―――けれど。

私は誰もいない音楽室に入り、ピアノの前に座る。

部活動には入っていない私は、普段は音楽室を使うことはない。
けれど吹奏楽部が休みの日だけ、使用する許可をもらうことができた。
こうして時折、いつもとは違う場所で、いつもとは違うピアノに触れることが私にとっての息抜きになっていた。

鍵盤蓋を持ち上げ、楽譜をセットして、さあ今から弾き出そうという時。
音を立てて入り口の扉が開かれた。

そこに立っていたのは噂の転校生―――立花 恭介(当時の恭介)

私の存在を認識して、恭介は少し驚いたように目を見開いた。
初めて真正面から見た彼の顔は、何だか疲れているように見えて。

「……待って!」

だから咄嗟に、すぐに踵を返そうとした恭介のことを引き止めた。

「な、何か用があったんじゃないの?」

少しの間を置いて、恭介が答える。

「別に、少し休めるところ探してただけ」

“両親が死んで施設暮らし”
そんな噂話が頭をよぎる。

帰りたくないとか、あるのかな。

「えと、じゃあ良かったらどうぞ。
入って大丈夫だよ」

そう言えば、真意をはかるじっとこちらを見つめてくる恭介。
何だか、警戒心の強い猫みたい。

「あ、もし一人がいいとかだったら私退くから……」

「なんで?
あんたが先にいたんだから、わざわざ退く必要ないだろ」

そう言われて、私は中途半端に腰を浮かしたまま固まった。

「いや私はまたいつでも来れるし、必要な人に使ってもらった方がいいかと……思って……」

恭介は無言のまま音楽室に足を踏み入れると、壁を背にもたれるようにして、床に直接座り込んだ。

「気が済んだら勝手に出てくから、こっちは気にせずやってていい」

「え?」

「練習中だったんだろ、それ」

恭介はそう言って、ピアノを指差した。

「ありがとう。
うるさかったりしたら言ってね」

恭介はそれ以上何も言わなかった。

椅子に座り直し、改めて鍵盤に両手を置いた。
少しだけ緊張するな、なんて思いながらまずは前奏から。
視界の端で、恭介が目を閉じたのが見えた。

結局恭介は、そのまま一言も話さないままそこに佇んでいて。
締め切られた音楽室の中では、私が奏でるピアノのメロディだけが響いていた。

三十分くらい経った頃、恭介がおもむろに立ち上がった。

「……帰る」

それだけを言って、歩き出そうとする背中に、私は声をかけた。

「……あの!
毎月三週目と五週目の金曜日は、今日みたいに音楽室誰もいなくて……あ、私はこうして使わせて貰ってるんだけど。
えっとだから……またよかったら休みにきてね」

そう言ったことに、特別な意味はなかった。
休む場所さえもわざわざ探さなくてはならないような彼にとっての、選択肢の一つになれたらいい。
漠然とそう思ったのだ。

恭介は足を止めて、横目でこちらを振り返った。

「また来るかは知らないけど、……あんたのピアノは結構良かった」

そう言い残して、もう振り返ることなく音楽室を出て行った恭介。

―――これが、私たちの出会いだった。