君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

ピアノの前に座って、ひとつの深呼吸。
鍵盤に指を乗せて―――「……やっぱりだめだ……」

あの日のコンクールで、私は結局一音も奏でることはできなかった。
そしてそれ以降、ピアノを弾くことができなくなってしまった。

私の指も脳みそも、まるで別のものに作り変えられたように。
弾き方が分からない。
そんなはずがないと指に力を込めたら、鳴り響くのは不協和音。
途端に頭が真っ白になってしまう。

ピアノがあれば、恭介の作る曲を奏でることができる。
私たちはきっと繋がっていられると、そう思っていたのに。

「なくなっちゃったよ……ピアノ」

今日も私は、ピアノを弾くことができない。


『インフルだった……ごめんしばらく学校休む』

彩音からそんな連絡がきたのは今日のお昼のことだった。
昨夜から体調を崩したと聞いていたけれど、まさかインフルだったとは。
確かに最近肌寒さを感じることが多くなってきたけれど、それでもまだインフルの流行には少し早いような気がするこの季節。
今年は、予防接種早めに受けたほうがいいのかな。

そんなことを考えながら彩音に返信をする。
よく休んでね、お大事に。
きっと今は熱が出て、一番しんどい時だろう。
手短に会話を終えて、私はスマホを仕舞い込んだ。

「あ、私ら購買行くけど奈子はどうする?」

そう話しかけてきたのは、同じクラスの友人の一人。
私は今、学校生活のほとんどを彩音と一緒に過ごしている。
それでもこんな風に、彩音が不在の時に声をかけてくれるくらいの友人はいる。

「私は大丈夫。今日はちょっと用事があって……ごめんありがとね」

相手を不快をさせないように眉を下げて手を合わせ、複数人で教室を出ていく後ろ姿を見送った。

実際、用事なんてない。
でも食欲がわかなくて、購買に行ったところで無駄になってしまうだろう。
彩音がいたら、せめて少しでも食べなさいってお母さんみたいに言われて、何かを詰め込まれていたかもしれないけれど。

用事があると言った手前、教室でぼうっと過ごして終わる訳にもいかない。
購買に行った友人たちが帰ってくる前に離れようと、私は重い腰を上げた。