君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

あっという間にコンサート当日がやってきた。
何度コンクールを経験しても、この独特の雰囲気には緊張してしまう。
控え室でいつものように深呼吸を繰り返す。

「白石さん」

そんな時に、かけられた声。

「橋田くん」

見知った顔のその人は、目が合うとにこりと微笑んだ。

「久しぶり。
同じ高校なのに、学校では全然会わないね」

「橋田くんのいる特進科とは棟も違うもんね」

彼―――橋田千尋(はしだ ちひろ)くんは、同い年で、昔からのピアノ仲間だ。
一時期は私も彼のお母さんがやっているピアノ教室に通っていた。

私が母の仕事の都合で引っ越すことになってからは、ピアノ教室には通えなくなってしまったけれど、
何の縁か高校は(棟は違えど)同じ高校になって。その甲斐もあり、こうして顔を顔を合わせれば自然と会話をするくらいには、交流が続いていた。

橋田くんのどこか中性的な綺麗な顔に似合う、細くて長い指。
私にもその長さを分けて貰えたらオクターブがもう少し楽に届くだろうかと、いつも少し羨ましくなる。

「……何かあった?」

ぼうっと指先を見つめていると、橋田くんが覗き込んでくる。

「え?」

「不安そうな顔してる」

心の内を見透かされたようでドキリとした。

橋田くんは人のことをよく見ている。

特に落ち込んでいる人に対しては、それを気遣い、寄り添った言葉をかけられる人だと思う。
昔、ピアノ教室で顔を合わせていた時なんかもこうしてよく声をかけてくれていた。

本当は不安でいっぱいだ。
恭介は今日、ここに来てくれるだろうか。

「……凝りもせず緊張してるからかな?」

誤魔化すように言えば、橋田くんはそれ以上突っ込んではこなかった。

「実は俺も緊張してる。
お互い頑張ろう」

その代わりに向けられた優しい笑みが、入りすぎた肩の力を少し抜いてくれるようだった。


橋田くんが先に演奏を終えて、やはりあっという間に私の番がやってくる。
番号を呼ばれ、ステージ上でその存在感を輝かせるピアノの前へ。

頭を下げて、後頭部に突き刺さる人々の視線。
高まる自分の鼓動。
望んでここに立っているのに、いつもどこか逃げたくなる。
それでも

大丈夫、きっと大丈夫。
言い聞かせるように顔を上げた。

観客席の中から見つけたのはお母さん、そして彩音。
恭介の姿は―――どこにもなかった。

来月三日の、バレーの試合。
「誘ってみようかな」と言ったあの時のあの子の言葉が頭をよぎる。

もし、そうだとしても責められない。
だって来るという保証はなかった。
恭介本人がそう言っていたのだから。

私がただ、それでもきっとって期待してしまっただけ。

ピアノの前に座り、息を吐いて、鍵盤に手を置いた。

“奈子ちゃんの弾くピアノが好きだ”
そう言ってくれた恭介。
でも、今はどうやったって届かない。

弾かないと。
でも金縛りにあったように、指先のひとつも動かせない。

―――あれ?
私、今までどうやってピアノを弾いていたんだっけ。