君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

その日の夜は、眠るのが怖かった。
だって寝て起きたら、きっと恭介が私を忘れてしまう。

だけど、恭介の方がもっと怖いはずだ。
目が覚めたら怪物と呼ぶ、自分が望まない自分に成り果ててしまう。
そう分かっていながら目を閉じるのに、どれだけの勇気が必要だろうか。

寝付くまでに時間はかかったけれど、結局はいつの間にか眠りに落ちていた。

その日は長い夢を見た。
断片的に覚えているのは、しわくちゃのおばあちゃんとおじいさんになった私と恭介が、手を繋いで並木道を歩いているところ。
木々は色づき始めていて、風がほのかな金木犀香りを運んでくる。
穏やかで理想的な幸せの時間。

けれど瞬きをした次の瞬間には、繋いでいたはずの手が解けていた。
私だけが今の私の姿に戻っていて、先を歩く丸まった恭介の背中。

待って、置いていかないで。
叫びたくても声は出なくて、動きがスローモーションになったみたいに重い体。

必死に手を伸ばしても届かない。
待って……待ってよ。

「……ひとりにしないで……」

はっと目が覚める。
寝てる間に汗をかいたようで、背中がぐっしょりと濡れていた。

「……夢……」

どうせなら、夢くらい幸せなものを見せてくれたらいいのに。
心の中でそう独りごちた。

当然のように、スマホには何の連絡もきていなかった。
だから恭介はまた、私を忘れている。

でも、私には昨日の恭介とした約束がある。
それだけは何としても叶えたい。


「興味ない」

その意気込みは、呆気なく散ることになった。


恭介のクラスを訪ね、話があると呼び出した。
顔をしかめて無視しようとした恭介を、何とか廊下まで連れ出して、誘った。

そして「今度のコンサートに来て欲しい」とお願いしてチケットを差し出したのが、この結果。
迷いもなく「興味がない」と切り捨てられた。
ある意味予想通りだ。

「待って!」

踵を返そうとする恭介を引き止めた。

「きょ……立花くんが、私のこと嫌いなのは分かってる。
だけどこれだけ……これだけは、どうか来てもらえないかな」

黙って私を見返す恭介に、畳みかけるように続ける。

「そしたらもう、こうやって話しかけたりしないから……!
だから……お願いします」

こうやって必死に頭を下げることしか私にはできない。
はあ、とため息の後に私の手からチケットが抜き取られる。

「……保証はしない。
でも頭の片隅には入れとく」

「……ありがとう……!」

今度こそ踵を返し、教室に戻っていく恭介の背中を見送る。

どうか今の恭介にも、その耳で目で、私のピアノを聴いてもらえますように。
そうすればきっと、記憶を通じて届くはずだから。