君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「恭介」

私はそんな恭介の手を取った。

「この病気は体が動かなくなる訳でもない。死ぬ訳でもない。
だから医者も言うんだ。
どうか気を落とさずに、って」

声は掠れ、震える恭介の手を、そっと包み込む。

「でもこれは、死と同等だ」

そこで初めて恭介と目が合った。
その目は涙を流さない。
希望なんて何にも宿らない色をして、笑っているのに、泣いている。

「病に侵された、奈子ちゃんを拒絶する立花恭介。
―――そんなの、俺にとってはただの怪物だよ」

多分私たちは、離れて生きていかなければならないんだと思う。
どうしたって傷つけ合うことしかできないのだから。

「……恭介」

それでも。

顔を上げた恭介に、キスをする。

「……奈子ちゃん……」

それでも私たちは足掻いてしまう。

いつかは正解がふって湧いてこないかと待ち続けるだけの子どものように。
無力で、滑稽で。
ただそこにある想いだけが純粋だった。

私は恭介から離れ、ピアノの前に座った。

蓋を上げて、鍵盤に両手を置く。
そして私は笑顔で振り返った。

「ねえ恭介、歌って?」

「……え……?」

「せっかく一緒にいれるのに、ずっとしんみりしてたら勿体無いよ。
だから、ね?」

返事を待たず、私は伴奏を始める。

「……そうだね」

恭介も眉を下げて笑って。息を吸い込んだ。

いつもより少し掠れて、震える恭介の歌声。
歌っているのは、私の大好きな曲の一つ。

タイトルは“海”

今年の春、少し遠出して湘南の海に二人で行った。
潮風が冷たくて、お洒落を優先して薄着で来たのを少し後悔して。
そうしたら、それを見越したように恭介がさっと鞄からカーディガンを取り出した時には思わず笑っちゃったな。

それからシーグラスや桜貝を夢中になって探したっけ。
あの時集めたものたちは、ガラスの小瓶に入れて今も部屋に飾っている。
そうやって過ごしていた時に思いついた歌だからのタイトルだと、恭介は言った。
作曲の才能は天才的なのに、その安直なネーミングセンスはどうなのって、二人で笑い合った。

そんな思い出がつまっている。

歌い終わると、私を見つめながら恭介が言う。

「俺、本当に奈子ちゃんのピアノが好きだ」

「ありがとう。
私も恭介の歌が大好きだよ」

いつだってこの時間が、お互いが唯一無二であることを強く実感させてくれた。
白と黒の鍵盤を見つめながら思う。
この時間がある限り、私たちはきっと繋がっていられるはずだ。

「今度のコンクールもますます頑張らないとね」

恭介が見に来るんだし、そう言いかけて止めた。
一人三枚までもらえるコンクールの関係者招待チケットは、勿論恭介に渡すつもりだった。
でもこうなった今、恭介が来れる保証はない。

「行きたい。
奈子ちゃんの晴れ舞台を見に行きたい。
でも、怪物に戻った俺はこの気持ちもきっと失う」

目を伏せる恭介。
まだ断定はできないけれど、一時的な記憶の回復が見られるのは、今のところ第三週目の金曜日のみ。
“思い入れの強い日や、特別な日”
医者が言っていたそれに当て嵌まっているからなのだろう。

その条件でいけば、コンクールの日だってその対象になるかもしれない。
そう思ったけれど、そもそも未知なことが多すぎる病だ。
何の保証もないのに口に出すことは躊躇われた。

その代わりに私は言う。

「そうなっても、私がその恭介にも頼んでみるよ。
どうかコンクールを見にきてくれって。
関わるなって言われてても、一生のお願いレベルで頼み込んだら来るだけ来てくれるかも」

関わるなと告げられたあの日から、面と向かって話すことはできていない。
あれ以上の拒絶を受ければ、弱い私の心はきっと壊れてしまうと思った。

「そうしたらさ、恭介がまた思い出してくれた時に記憶としてだけでも残るでしょ?」

でも、それが少しでも愛する人のためになるのなら。
私は迷わずそうしたいと思った。

恭介は、しばらく言葉を失ったかのように黙っていた。

「……奈子ちゃん」

そして息を吸うみたいに私の名を呼んで。

「もう一回抱きしめてもいい?」

縋るようにそう言うのだ。

私は自分から恭介の腕の中に飛び込んだ。

「俺がまたどんな酷いことを言って、奈子ちゃんを傷つけるかも分からない。
だからしなくていいって、そう言っても奈子ちゃんはやめないよね」

「……さすがよく分かってる」

恭介は切なげに微笑む。

「傷つけたくないのに、傷つけてばっかりだ。
ごめんね……ありがとう」