君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「コンクールが近いけど調子はどう?」

お風呂から上がると、リビングにいる母がそう声をかけてきた。
テーブルに置かれたカップの中身は、なみなみと注がれたアイスブラックコーヒー。
母は夜勤前には眠気覚ましにこれを飲むのが定番だ。

「あー……うん。
前より練習の時間増やしてるし、大丈夫だと思う」

恭介と過ごす時間がなくなった分、その穴を埋めるように私はピアノに打ち込んでいた。
打ち込むというよりは、現実逃避に近いのかもしれない。
ピアノを弾いている間は、少しだけ辛い気持ちも忘れられる気がしたから。

そんな私の様子をじっと見つめ、母が口を開く。

「ねえ奈子……最近、顔色が悪いんじゃない?」

「……そうかな?」

夜勤ありの看護師をしている母とは、すれ違いの生活になることも多い。
それでも娘の様子がおかしいことに気づくのは、さすが母親というべきだろうか。

「……何かあったの?
恭介くんとは仲良くやってる?」

母も、私に中学から付き合っている彼氏がいることは知っている。
簡単な挨拶程度にだけれど、実際に会わせたことだってあった。

でも、恭介の病気のことはまだ話していない。
話してみようか、と思った。
だけど、そうしたら私はきっとまた泣いてしまう。
もう母が家を出る時間も近づいているというのに。

「……奈子?」

女手一つで私をここまで育て上げてくれた母。
毎日クタクタになるまで働いて、ピアノだって習わせてくれて。
せめて、母の仕事の邪魔にだけはなりたくない。
どこかで臆病になるこの思いは、今でも変わらなかった。

「ううん、何でもない。
心配されなくても恭介と仲良くやってるよ」

だから私は嘘をつく。

「ていうかお母さんそろそろ出る時間じゃない?
大丈夫なの?」

作り笑いがバレないように話を変えれば、母が慌てたように時計を見る。

「本当だわ、そろそろ行かないと。
ありがとう」

残っていたコーヒーを一気に飲み干すと、慌ただしく玄関に向かう母。

「行ってらっしゃい」

声色だけを明るく保って、私はその背中を見送った。



「―――別れたらしいよ。
立花くんと白石さん」

トイレで用を足して出ようとしたその時、聞こえてきた声に思わず動きを止める。

「えー噂本当なんだ。
結構長かったらしいよねあの二人」

「私はそもそも、白石さんみたいなのが立花くんと付き合ってたっていうのが謎だったけどね。
だってあの人、別に顔も普通じゃん?」

洗面所の前を独占して話しているのだろう女子二人組。
出るに出られなくて、私は鍵からそっと手を離して立ち尽くす。

私が認めようが認めまいが、“立花恭介と白石奈子は別れた”
というのが周知の事実となっていた。

「まーね。
それなら私らにもチャンスあるかな」

「でも競争率高いっしょ。
もうすでに何人か告って玉砕してるみたいよ」

二人の言う通り、途端に恭介はモテ出していた。
私がいた時から寄ってくる人もいたくらいだから、そうなるのも当然と言えた。

でも今のところ、恭介は誰にも靡いていない。
女性に対しては、出会った頃のような塩対応を貫いているようだった。
そのことを知って安堵する自分がいた。

共にいることが叶わないのなら、せめて他の誰のものにもならないで欲しい。
まるで醜いエゴの塊だ。でも、そう願わずにはいられなかった。