君が私を忘れたことを、私はよかったと笑いたい

「……奈子ちゃん……」

恭介は、私の顔を見るなりくしゃりと顔を歪ませた。

「……きょう、すけ……」

私は立ち上がって、恭介の元に駆け寄った。

「思い出したの……!?
私のこと、分かるの……!?」

まさかという思いと、そうであってほしいという願い。
恭介の腕を掴み、ごちゃ混ぜになった感情をぶつける。

「……分かるよ……俺が奈子ちゃんのことを、忘れるはずない。
そう思ってたはずなのに……っ」

震える声と、私の手にこぼれ落ちてくる水滴。

「……ごめん、奈子ちゃん……」

それは、初めて見る恭介の涙だった。

恭介の手を引いて中に入り、横並びで地べたに座った。
そして恭介の目元に、そっとハンカチをあてる。

「……ありがとう」

いくらかの涙を吸い込んだそれを、恭介は大切そうに手の中に握った。

「恭介」

こうして堂々と名前を呼べるのが、随分久しぶりのように感じた。

「……今の恭介には、私に対する嫌悪感や不快感はない?」

「ない。そんなの一切ないよ」

即答する恭介。
今の恭介の目を見れば、それが嘘でないことがすぐに分かる。

確信する。ここにいる恭介は、私の会いたくてたまらなかった恭介だ。

「病気になってからのことは、全て覚えてる。
奈子ちゃんのことを忘れた俺が、どれだけ奈子ちゃんに酷い仕打ちをしたのかも……全て」

握り込んだ恭介の手が震える。

「世界で一番大切な女の子を、俺は一番最低な方法で傷つけた」

その表情は、見たこともないくらい苦しそうで。

「ごめん……本当にごめん。
これしか言えない自分を殺してやりたい」

その目からは、十分すぎる程の後悔と怒りが感じ取れた。

私の口は、自然と動いていた。

「……ねえ、私のこと好き……?」

「……っ、好きだよ。
俺の世界には奈子ちゃんしかいない。
奈子ちゃんだけがいればいい」

恭介が言ってくれる言葉は、紛れもなく本当だって分かるのに。
どうしてこんなに、悲しさで溢れてしまうのだろう。

「私も恭介のことが好き。大好きだよ」

目頭が熱くなって、視界が歪む。
大好きだから、これからも共に在りたいと思うのに。

「……思い出したってことは、片思い病なんてもう治ったってことかなぁ……?」

「……それは……」

恭介が言葉に詰まる。
何故だか頭の中に妙に冷静な私がいて、その理由を理解してしまう。

「……ごめんね。
私、お医者さんに聞いたんだ。
片思い病は、稀にだけど一時的に記憶が戻ることがあるって」

そして、この話には続きがある。

「だけどそれはあくまで一時的な症状で……この病気が完治することはないんだって」

きっと恭介も、そのことを知っていたのだろう。
この再会は、一時の魔法にすぎないのだと。

「一時的ってさ、どれくらいなんだろう?
一時間? 一日?
何なら一年くらいは続いてくれたりしないのかな」

恭介を責める言い方にはしたくない。
雰囲気が暗くなりすぎないように、私は笑ってみせようとする。

「奈子ちゃん」

あれ、おかしいな。
口角が引き攣ったように動かない。

「それとも瞬きした次の瞬間、また元に戻っちゃったりするのかな」

「……奈子ちゃん」

優しく包み込まれる感覚。
私は恭介の腕の中にいた。

「ごめん。
奈子ちゃん、泣かせてごめん」

目から涙が溢れていたことに、やっと気づいた。
私はあと何回泣いたら気が済むのだろうか。

「もしかしたらさ、このまま治っちゃうことだってあるかもしれないよね?
何せすごい珍しい病気って言うんだし。
前例がないってだけなら、その第一認者になれるかもしれないじゃん」

声だけは明るくまくし立てる。
けれど私の頬を伝うのは、大粒の涙。

涙と共に、隠れない本音が零れ落ちた。

「……私もう、恭介に忘れられたくないよ……」

恭介の腕の力が強くなる。
私は震えるその体を抱きしめ返した。
肩口の冷たさがじわりと広がり、シャツに染み込んでいくのを肌で感じた。