翌日、フィレンツェに到着した男はホテルに荷物を預けて、ミケランジェロ広場に急いだ。
アルノ川を渡った小高い丘にある広場からの眺めは最高だった。風薫る5月、爽やかな風が川面から吹き上げて、彼女の頬を撫でていた。
花の都が一望できるだろう。
ナイチンゲールが生まれた町だよ。
ルネサンスが始まった町だよ。
写真の彼女に語りかけた。
川の反対側にあるのがウフィツィ美術館で、その後ろがヴェッキオ宮殿。そして、更に後ろにあるのが花の聖母教会だよ。
彼女が頷くのを見て、男は西の方を向いて大きな建物を指差した。
あそこがピッティ宮殿だよ。あの中にあるパラティーナ美術館に君の大好きな絵が飾ってあるんだよ。
すると彼女のねだるような声が聞こえた。
早く見てみたいわ。
わかった、すぐに行くからね。
斜面の小道を通って川沿いまで下りて、ピッティ宮殿へ向かった。
一刻も早く彼女に見せてあげたかった。ラファエッロの代表作『小椅子の聖母』を。
切符売場の前に行列はなかった。すぐに入れたので、見逃さないように一つ一つ確かめながらゆっくり進んでいくと、ドアの上にひっそりと飾られている絵が迎えてくれた。丸く縁どられたトンドと呼ばれる円形画だった。1514年頃に制作されたラファエッロの代表画。
この眼差しを見てみたかったの。
優しい眼差しだね。
それに温かいわ。
そうだね、それに慈しみに満ちているね。
こんな眼差しを送れる女性になりたかったの。
男は写真に写る彼女の目を見た。
負けないくらい優しい眼差しだよ。
本当?
それどころか世界一だと思うよ。
お上手ね。
そんなことはないさ、嘘偽りない気持ちだよ。
ありがとう。
こちらこそ。
彼女の目にキスをして聖母を見上げると、お熱いのね、と聖母が笑った。
*
ピッティ宮殿を出て、別の美術館へ向かった。誰もが知っている有名な彫刻が飾られている館、アカデミア美術館。
中に入ると、それはすぐに見えた。
まっすぐ伸びた通路の奥にそれは飾られていた。
ミケランジェロの傑作『ダヴィデ像』
近づくと、その巨大さに驚いた。
大理石の土台の上に5メートルを超える彫刻が乗っているのだ。
筋肉隆々で左手には石を持っていた。最強の敵、巨人ゴリアテを倒すためだ。
それにしても……、
体の中心部を見て、ちょっと驚いた。
小さい。
体の大きさに対して小さすぎる。
ゴリアテに対峙した時の恐怖であそこが縮んでしまったという説もあるらしいが、それにしても小さい。
どう思う?
彼女に問いかけた。
バカね。
相手にされなかった。
*
夕暮れになった。アルノ川に架かるヴェッキオ橋に向かった。フィレンツェ最古の橋で、1345年に建造されたものだという。
橋の両側には貴金属店や宝石店が並んでいる。彼女に似合いそうなものを探そうと店頭を覗きながら歩いていると、音楽が聞こえてきた。
目をやると、中央部の開けた場所で男女のデュオが演奏をしていた。でも、知らない曲だった。イタリア語なので現地のヒット曲かもしれなかった。
その曲が終わって拍手をしていると、「次は私の一番好きな曲を歌います」と英語で言った。ジーンズの上に花柄のシャツを着た髪の長い女性ピアニストがギターを持つ長身の男性に目配せをすると、演奏が始まり、大好きな曲が耳に届いた。
『YOUR SONG』
エルトン・ジョンとは趣の違う優しい歌声が観光客の足を止めた。すると、それに合わせるかのように、エレキピアノを弾きながら歌う彼女の背中に夕陽が沈んでいった。幻想的なシーンに目と耳が釘づけになる中、演奏が終わると、大きな拍手が沸き起こった。と共に観光客の多くが蓋が開いたギターケースの中に小銭を投げ入れた。男も同様にしようとしたが、手が止まった。ケースの中のCDに気づいたからだ。そのうちの1枚を手に取って裏面を見ると、『YOUR SONG』というクレジットを見つけた。手放せなくなって、これ貰うよ、とピアニストに目配せをして、ギターケースの中に10ユーロを置いた。すると、「グラッツェ」と笑みを返してくれた。幸せな気分でヴェッキオ橋をあとにした。



