最後の瞬間に立ち会うことはできなかった。
 病院に駆けつけた時には既に息を引き取っていた。
 覚悟をしていたつもりだったが、彼女の死を受け入れることはできなかった。昨日まで息をしていたのだ。酸素マスクの力を借りてではあったが、間違いなく息をしていたのだ。生きていたのだ。この世に存在していたのだ。ほんの少ししか会話をすることはできなかったが、握った手は温かかったのだ。
 しかし、触れた手に温かみは残っていなかった。これからどんどん冷たくなっていくのかと思うと、居たたまれなくなり、病室から逃げ出すように廊下に出た。
 壁に背を付けて天井を見上げると、明かりが滲んで見えた。残っていないはずの涙が零れ、生きている意味と共に流れ落ちた。
 立っていられなくなった。うずくまって両手で頭を抱えた。何かを叫びたかったが、何を叫んだらいいのかわからなかった。う~~~~~~~~~~っという詰まったような声しか出せなかった。
 その時、手が肩に触れた。彼女の義兄だった。彼女と会うきっかけを作ってくれた恩人であり、交際を温かく見守ってくれた人だった。彼の目は真っ赤に腫れ、鼻から水が滴り落ちていた。声を出そうとしたようだったが、彼の口からは何も出てこなかった。それでも何かを伝えるような目で見つめられ、腕を取られた。そして、立ち上がるようにと引き上げられた。よろけながらもなんとか立ち上がると、背中を押された。
 病室に戻ると、彼が私の右手を取り、彼女の顔に触って欲しいというように誘導された。
 頬を撫でた。
 冷たかった。

 ツルツルの頭を撫でた。
 冷たかった。
 閉じた瞼に触れた。
 冷たかった。
 目が開かないことはわかっていたが、それでも奇跡が起こるのを待った。待ち続けた。
 でも、瞼が開くことはなかった。彼女は永遠の闇の中に連れ去られたのだ。後ずさりするように彼女から離れて病室を出ると、逃げるように病院をあとにした。

        *

 彼女のいない人生を生きることに意味があるのだろうか……、

 出会った時から24時間、常に彼女のことを考えていた。
 心は常に彼女と一緒だった。
 彼女がいるから仕事を頑張れた。
 彼女がいるから引っ越しをした。
 彼女がいるから料理を覚えた。
 彼女がいるから毎日が楽しかった。
 彼女がいるから……、

 でも、もう彼女はいない。人生のすべてだった彼女はもういない。もうどこにもいないのだ。
 それは、彼女と出会う前に戻る事とは違っていた。部屋の中はもちろん、病院から駅までの間にあるレストラン、コーヒーショップ、鮨屋、ラーメン屋、居酒屋、牛丼屋、スーパー、コンビニ、ドラッグストア、100円ショップ、花屋、公園、池、橋、道路、路地、そのすべてに彼女との思い出が詰まっているのだ。彼女と出会う前はただの池だったところが、2人で足漕ぎボートに乗った瞬間から特別な場所に変わったのだ。

 いつの間にか、思い出が詰まった公園に来ていた。池で恋人同士が楽しそうに乗るボートを見ていると、彼女と交わした会話がすべて蘇ってきた。繋いだ手の温もりが蘇ってきた。代わりばんこに飲んだキャラメルマキアートの甘い香りが蘇ってきた。もうそこはただの池ではなかった。彼女と過ごした池なのだ。
 彼女を見て、
 彼女を感じて、
 彼女に触れて、
 彼女に見つめられた特別な場所なのだ。もう彼女と出会う前に戻る事なんてできるわけがない。

 彼女の洋服、パジャマ、下着、靴下、スリッパ、靴、サンダル、化粧品、歯ブラシ、食器、コップ、そして、写真。それに、2人で聴いたCD、2人で観たDVD、2人で頭をくっつけて寝た大きな枕、それから、彼女が裸の上に羽織った男物の白いワイシャツ、2人で入ったバスタブ、2人で取り合いをしてシャワーを掛け合ったシャワーノズル、2人で体を拭き合ったバスタオル、2人で髪を乾かし合ったドライヤー、2人で使った爪切り、どちらが早く覚えるか競い合ったイタリア語の本、それ以外にも、彼女がアイロンをかけて新品のようにしてくれたハンカチ、スーツやシャツやズボンにもアイロンをかけてくれた。それから、膝の上で耳掃除をしてくれた綿棒の入ったプラスチックのケース。
 何を見ても、どこを見ても、部屋中彼女だらけなのに、もう彼女はいない。彼女との思い出だけが取り残されて、独りぼっちになった自分を取り囲んでいる。
 切なくて……、
 寂しくて……、
 どうしたらいいのかわからない……、
 会いたい……、