翌週の水曜日、いつものように7時前にベーカリーに着くと、様子が変だった。シャッターが半分しか開いていなかった。

 えっ? どういうこと? 

 女は急いでシャッターをくぐって店の中に入った。すると、憔悴した表情の奥さんがアルバイトの女性2人に向かって何か話していた。

 大変なことになっていた。昨日の夜、ご主人の体調が急変し、救急車で運ばれたのだと言う。39度2分の熱が出て、呼吸困難を訴えたらしい。今はICUに入院していて、それも、隔離された状態で治療を受けているのだと言った。新型コロナウイルスの感染が疑われるためだ。まだ検査結果は出ていないが、万が一のことがあれば大変なので、休業することに決めたのだと言う。今後のことは、検査結果とご主人の体調と保健所の指導を受けながら考えていくしかないと肩を落とした。そして、「申し訳ないけど当面のあいだ店を閉めるのでごめんなさい」と言って、シャッターを下ろし、病院に戻っていった。シャッターの目の高さの位置には『当分の間休業します』という紙が貼られていた。

 ポカンとした表情で見送ったアルバイト3人は、ふと現実に戻って、青ざめた顔でお互いを見つめ合った。店を閉めるということは、その間の収入が途絶えてしまうことを意味している。大変なことになってしまった。ホテルに続いてベーカリーまでも……、女は立っているのがやっとだった。

「どうしよう……」

 大学生が涙をためていた。秋田から上京した彼女は、親の仕送りだけでは生活ができず、アルバイトで凌いでいたのだ。午前中のベーカリーと夜の居酒屋のアルバイトで家賃と授業料以外の費用を賄っていた。しかし、4月10日の都の緊急事態措置によって居酒屋の営業時間が夜8時までとなり、収入が激減することになった。その上、ベーカリーが休業になって、暫くの間アルバイト料を稼げなくなった。貯金がほとんどない彼女にとって、最悪のシナリオが目の前に現れたのだ。彼女も立っているのがやっとの様子だった。シャッターにもたれかかってなんとか体を支えていた。

「生きていけない……」

 シングルマザーが嗚咽を漏らした。小学生の子供を抱えた彼女は、午前中のベーカリーと夜のスナックのアルバイトで生活費と子供の学費を賄っていた。しかし、酒類の提供が夜7時までと決められた途端、スナックは営業できなくなり、彼女は職を失った。それに加えてベーカリーが休業となると、彼女の収入は完全に断たれることになる。

「生活保護を申請するしかない……」

 重たそうな足取りでよろよろと立ち去る彼女にかける言葉は、何もなかった。

 バーやキャバレー、スナックなどの店は全国で10万店くらいあると聞いたことがある。そこで働く女性はかなりの数になるだろう。もしかしたら100万人というレベルかもしれない。その中でシングルマザーの人たちも少なくないだろう。

 その人たちが一斉に職を失うとなると……、

 大変なことが起ころうとしていた。しかし、他人の心配をしている場合ではなかった。女も無収入になるのだ。生活保護は他人ごとではなかった。それに、ベーカリーのご主人が陽性だったら女は濃厚接触者になる。自分が感染していることもあり得るのだ。目の前が真っ暗になった。しゃがみこんで膝の間に頭を入れた。

        *

 ベーカリーのご主人は陽性だった。奥さんとアルバイト全員が濃厚接触者として2週間の自宅待機を求められた。奥さんはすぐにPCR検査をして欲しいと訴えたが、受けさせてはもらえなかった。

 どうして? 仕事も寝室も共にしている夫が陽性なのに何故受けられないの? 

 奥さんは食ってかかったが、発熱や咳などの症状がない人は自宅待機で様子を見てもらっているという説明しか返ってこなかった。そのやりとりを憤慨した表情でぶちまけた奥さんの顔は歪んでいた。しかし、それも少しの間だった。なんの前触れもなく、奥さんは頭を抱えるようにして、うずくまった。夫のこと、自分のこと、店のこと、心配なことだらけで八方塞がりの状況が奥さんを追い込んでいるようだった。
 それにお客さんのことがある。ご主人はほとんどの時間厨房にいたので客と直接触れ合う機会は少なかったが、奥さんとアルバイトたちは常に客と接していた。万が一陽性なら、その影響は客にも及ぶことになる。もし連絡しなければならなくなったら大変なことになる。紙ベースのポイントカードは発行していたが、顧客データベースは持っていないので、連絡する手段が無いのだ。アルバイトに支えられてなんとか奥さんが立ち上がったが、「もし誰かに症状が出たら」と言った途端、顔がまた大きく歪んだ。それはまるで恐怖に支配されているような青ざめた顔だった。
 女の精神状態も最悪だった。無収入になった上に自宅待機が重なるのだ。生活設計が根本から崩れることになる。感情のすべてが恐怖で占められた。

        *

 自宅待機初日は、起きていても目を瞑っていても最悪のことしか考えられなかった。しかし、そんな精神状態でもお腹は空く。日が暮れる時間になるとさすがに我慢できなくなって、冷蔵庫の扉を開けた。何があるか確かめると、牛乳とミネラルウォーターのペットボトルが各1本、発泡酒が2缶、卵が8個、豚肉の細切れがワンパック、焼きそば3人前が一つ、納豆3個入りが一つ、梅干が10個ほど、トマト、ピーマン、玉ねぎが各数個、キャベツの半玉が一つ、冷凍うどん3個入りが一つ、ご飯を保存ケースに詰めて冷凍したものが4個、鮭の切り身を冷凍したものが2個入っていた。それ以外に、即席カップ麺が2つ、食パン6枚入りが一つ、お茶漬け海苔が2袋、ふりかけが少々あるだけだった。

 暫し考えた。しかし調理する気が起きなかったので、卵かけ納豆ご飯を食べることにした。冷凍ご飯をチンしている間に丼に納豆とタレと辛子を入れてかき混ぜ、その上に卵を割り入れて更にかき混ぜる。そして、上からご飯を入れて端の方から少しずつ混ぜていく。見た目の美味しさにつられて箸を口に持っていったが、直前で止めた。

 ビールを飲もう! 

 突然思い立った。アルコールで恐怖心を中和させるのだ。

 よし、そうしよう。

 冷蔵庫から発泡酒を取り出してプシュッと開け、グビッと飲んだ。

 喉越し最高! 
 それに、すきっ腹に沁みる! 

 もう一口グビッと飲むと、少し神経が緩んできた。すると腹の虫が催促の声を上げた。卵かけ納豆ご飯を一気に掻き込んだ。

 発泡酒と卵かけ納豆ご飯でひと息ついたので、これからのことを考えた。当面の問題は2週間をどうやって乗り切るかだ。家の中の食材ではとても足りない。といって、不要不急の外出禁止を要請されている身としては、おいそれとスーパーに買い物に行くわけにはいかない。罹患者(りかんしゃ)ではないのだから少しくらいは、と思わないでもなかったが、「人様のご迷惑になることはしてはいけない」と幼い頃から教え込まれていたので、父親の顔が瞼に浮かんだ瞬間、良からぬ考えを頭から追い出した。

 もう一度冷蔵庫の扉を開けた。最後の発泡酒を取り出し、躊躇わずプシュッと開けた。グビグビグビグビッと喉に流し込んだ。恐怖心を飲み込むように、もう一度グビグビグビグビッと一気に流し込んだ。すると、恐怖心が胃の中に落ち、怯えがげっぷと共に口から出て行った。

 先ずは2週間。
 そのあとのことはその時のこと! 

 頬をパンパンと叩いて気合を入れて自らに言い聞かせた。