ベーカリーは今日も朝から賑わっていた。いつもより若干少ないかなと思う程度で、緊急事態宣言の影響はほとんど感じなかった。開店前に心配していたオーナー夫妻の顔にも安堵の表情が浮かんでいるように見えた。
勤務時間が終わると、いつものようにパンを2つ貰って、店を出た。4月上旬とは思えない強い日差しが照りつけていたので、日陰になっている所を探しながら自転車を漕いだが、太陽は真上に近かったので、結構な紫外線を浴びてしまった。明日からはもっとしっかりUVをしなければ、と思いながら葉が生い茂っている樹の下にあるベンチを探して座った。
もうすぐ昼休みの時間が始まる。いつものようにOLでいっぱいになるだろうと思っていたが、12時を過ぎても公園にやってくる人はまばらだった。
自粛?
緊急事態宣言を受けて?
これからずっと?
いつまで?
公園内を歩くまばらな人影を見ながら、何か得体のしれない嫌な予感が首筋から背中にかけて撫でるように落ちていった。そしてそれは、部屋に戻ってからも続いた。
*
夕方、いつもの時間に品川駅に着いた。今日演奏する曲を思い浮かべながらホテルへ向かい、いつものように従業員通用口から中に入ったが、様子が違った。なんか変だった。人が少ないのだ。この季節は観光シーズン真只中なので、毎年宿泊客でごった返しているのに、今日はオフシーズンよりも人が少なかった。
嫌な予感がした。すぐにカフェラウンジに向かったが、誰もいなかった。従業員もいなかった。それだけでなく、閉鎖されていた。入口には『本日(4月8日)より当面の間、営業を休止いたします』と張り紙がされていた。
えっ、どういうこと?
慌ててバックオフィスに駆け込んだ。
スタッフの話では、昨日の緊急事態宣言を受けて、ラウンジやブッフェ、飲食専門店などが当面のあいだ営業休止になり、それ以外の場所も大幅な営業時間短縮になるのだという。
嫌な予感が当たってしまった。当分の間、仕事がなくなるのだ。茫然としてしまったが、それで終わりではなかった。フロア責任者の所へ行くようにと促された。
*
「申し訳ないけど、解雇させて下さい」
顔を見るなり、いきなり酷いことを言われた。
「解雇って……」
息が止まりそうになった。
「カフェラウンジは当面のあいだ営業休止になります。そして、いつ再開できるかまったく見通しが立っていません。そういう事情ですのでご理解ください」
顔色を変えずに淡々と言われた。
「でも……」
声が震えた。
「通常、雇用契約を終了する場合は1か月前に予告することになっていますが、大きな災害や営業継続に支障をきたすようなアクシデントがあった場合はその限りではないと明記されています」
契約書を机の上に広げた。その箇所に赤線が引かれていた。
「でも」
しかし、神経質そうにメガネのフレームを直した彼は、わざとらしい深刻そうな声で遮った。
「宿泊予約のキャンセルが殺到しています。宴会もほとんどキャンセルされました。このままではホテルは立ちいかなくなります。もし緊急事態宣言の期間が長引けば、最悪の場合、倒産ということもありえます。ホテルも緊急事態なのです」
睨むように女を見た。
「すべての従業員の雇用を守ることができればいいのですが、今回の事態はそれを許してくれません。大変申し訳ないのですがご理解いただければと思います」
目礼程度に頭を下げて女から視線を外した。
「気持ちと言ってはなんですが、本日の分も合わせて振り込みますので、ご了承ください」
視線を外したまま告げられた。こちらの意見を聞く気はまったくないようだ。でも、このまま引き下がるわけにはいかない。
「営業を再開したらもう一度働けますよね!」
しかし彼は首を横に振った。
「わかりません。その時になってみないとわかりません。いま安易なお約束をすることはできません」
また何度も首を横に振った。
「再開してピアニストを雇うことになったら真っ先に連絡をください!」
必死に訴えた。生活が懸かっているのだ。なんらかの言質を取らなければ救われない。でも、彼は首を横に振るだけで、二度と口を開かなかった。それだけでなく、椅子から立ち上がり、横を通り過ぎようとした。
「逃げないでください!」
腕を掴んで引き止めたが、「緊急の会議があるんです。生き残りのための対策会議が」ときつい目つきで睨まれた。そして、手を振り解いて、歩き去った。
呆然と後姿を見送るしかなかった。しかし、寂しそうに歩くその背中を見ていると、彼も人生の岐路に立たされていることに思い至った。もし首になったら、その影響は自分のそれをはるかに上回るだろう。彼も被害者予備軍なのだと思うと、責める気が無くなった。それに、ごねても結論が変わるわけではない。彼の背中に向かって、「首になりませんように」と呟いた。



