ベーカリーでのアルバイトがある日は、パンを2つ持って見舞いに行くのが日課になった。花屋敷の奥さんと分け合って食べるのだ。
今日、店から貰ったパンはフォカッチャとスコーンだった。スコーンが大好きだと奥さんが言っていたからだ。途中に立ち寄ったスーパーで買ったティーバッグで紅茶を入れてあげると、少女のような顔をして、「スコーンと紅茶は相思相愛よね」とウインクを投げてくれた。
女が立ち寄る日は必ず果物を用意してくれていた。分けっこした分だけ女のパンが減るので気を遣っているのだ。それに、少し元気が出て、歩けるようになったので、病院の売店で買い物をするのは気分転換になると言って、女を安心させた。
今日はバナナを用意してくれていた。バナナは女の大好物だった。なのでそれを伝えると、「娘もバナナが大好きだったのよ」と微笑みを返してくれたが、それによって在りし日の姿を思い出してしまったようだった。
「まだあの日の朝のことを覚えているわ。『行ってきます』って、いつも通り元気に出かけていったのに……」
顔が歪んだ。
「ごめんなさい。もう泣かないと決めていたのに、ダメね……」
右手の人差し指で目の下を拭った。そして当時のことを辛そうに話し始めたが、その内容は驚きを超えていた。
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10年前の2月、ミモザが満開を迎えようとしていた時だった。駅へ向かう交差点が青に変わって横断歩道を渡っていた時、信号無視をした自動車が猛スピードで突っ込んできて、娘さんを20メートルも跳ね飛ばして、逃げて行った。その上、地面に叩きつけられた娘さんを対向車が轢いた。即死だった。
2日後、犯人が捕まった。80代後半の高齢者だった。そして、元高級官僚だった。犯人は「信号が変わったのでブレーキを踏もうとしたがアクセルを踏み込んでしまった」と供述した。逃げたことに対しては、「気が動転して何も覚えていない」と言い訳をした。捜査の結果、自動車運転処罰法違反(過失致死傷)の容疑があるとして書類送検された。しかし、逮捕はされなかった。証拠隠滅の恐れがなかったことと事故後入院していて逃亡の恐れがないというのが理由だった。
対して花屋敷のご主人と奥さんは、危険運転致死傷だと訴えた。しかし、わざと暴走させたのではなく、ブレーキとアクセルの踏み間違いが原因だったと結論付けられ、過失という判断が下された。
もちろん、主人と奥さんは納得しなかった。すぐに厳罰を求める署名活動を行い、50万人の署名を集めることができた。しかし、判決が覆ることはなく、略式起訴で罰金刑が申し渡されて終わってしまった。それでも世論とマスコミは許さなかった。「上級国民に対する特別扱いだ!」という声があちこちから上がったのだ。それによって流れが一気に変わるかと思われたが、残念ながらそうはならなかった。犯人は豪華な自宅で悠々と暮らし続け、5年後に老衰のため亡くなった。厳罰も収監もないまま、遺族の目の前から姿を消した。
人の噂は75日と言うが、この事件もあっという間に忘れ去られていった。犯人が死んだことでマスコミが取り上げることもなくなった。50万人の署名は保存期間終了後、破棄された。残されたのは、娘さんの死と遺族の絶望だけだった。
娘さんの死を無駄にしたくないと頑張ってきた奥さんから気力が失せた。食欲がなくなり、体力が低下していった。そんな状態の時、健康診断で右の乳房にしこりが見つかった。幸いにも早期がんでリンパ節への転移もなかったことから、乳房温存手術の上、薬物療法と放射線療法が行われた。その後、再発は認められず、退院した。
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「娘が助けてくれたのだと思います」
枕元脇の台に置いてある娘さんの写真を見て手を合わせた。
「娘が救ってくれた命だから、くよくよして沈み込んでいるわけにはいかないとリハビリに励みました。それが功を奏したようで、少しずつ元気を取り戻していきました。そんなある日、主人に勧められて庭いじりを始めるようになりました。その時々に一番綺麗に咲いた花に娘の名前を付けて話しかけるのが日課になりました。すると、毎日娘と暮らしているような気になっていきました。でも……」
今年の1月下旬、入浴中に左の乳房にしこりを発見した。奥さんはすぐに主治医の元に走り、再度入院して検査を受けた。幸い今回も早期がんで転移がなかったことから、右の乳房の時と同じ手術と治療を行った。そしてもうすぐ退院という時、ご主人の感染が判明した。ご主人は別の病院に移送されたが、症状が軽かったため、すぐに治癒すると思われていた。しかし、容体が急変し、二度と生きて会うこともなく、別れの時がやって来た。
「ミモザが満開の時に娘が無謀運転で殺され、10年後の満開の写真を持ってきた主人は新型コロナウイルスに殺されました。大好きなミモザの季節に何故こんな悲惨なことが起こるのか、花言葉に『別れ』の2文字はないのに……」
ご主人の遺品であるミモザの写真を虚ろな目で見つめながら、切なそうに溜息をついた。とても深い溜息だった。
女はその溜息を拾って、奥さんに向き合った。胸に秘めていた母親とのことを包み隠さず話したいと思った。この人になら話せると思った。この人なら受け止めてくれると思った。18歳に戻った女が母親とのことを話し始めた。



