最寄り駅で降りて10分ほど歩くと、マンションが見えてきた。でも、目指す部屋に明かりはついていなかった。当然だ。独り身の男を待っている人はいない。そして、殺風景な部屋に温かさは微塵もなかった。
2LDKの部屋にあるのは、台所用品や水回り関連製品を除くと、セミダブルベッドとソファとローテーブルと本棚、そして、テレビとステレオと一体型CDコンポとノート型パソコンだけだった。
リビングの明かりを点けて、エアコンの暖房をONにして、テーブルの上に紙袋を置いた。広告賞授賞式の手土産が入っている紙袋だ。中から小さな包みを取り出して包装紙を剥がすと、ソムリエナイフ型のワインオープナーがお出ましになった。柄の部分が木製になっているちょっと高級そうなものだった。但し、テレビ局のネームが印刷されていた。
センスないなあ、
男が毒づくと、ソムリエナイフは無言で顔をしかめたように見えた。自分のせいじゃないというように。
まあね、
同情すると、しかめ面が消えたような気がした。
小腹が空いたので、何かないかと冷蔵庫の扉を開けた。でも、目ぼしいものは何もなかった。
途中で何か買ってこいよ!
今度は自分に毒づいた。すると突然、思い出した。昨日の残りがあることを。コンロの上に置きっぱなしの鍋にビーフシチューが残っていたはずだ。蓋を開けると、牛肉の塊と崩れかけたジャガイモがそれぞれ3個、そして、ニンジンが2個残っていた。
焦がさないように弱火で温めて、スープ皿に装い、缶ビールを取るために冷蔵庫を開けた。その時、野菜室に赤ワインを冷やしていたことを思い出した。ビーフシチューの皿の右横に缶ビールを、左横にワインボトルを置いて、どっちにするか悩んでいると、リビングから声が聞こえたような気がした。
ビーフシチューには赤ワインでしょ!
声の主はソムリエナイフに違いなかった。
わかったよ。
男は缶ビールを冷蔵庫に戻してから、赤ワインと皿を持ってリビングのテーブルに運んだ。そして、食器棚からスプーンとワイングラスを取り出し、両方を皿の左側に置いた。
そう、男は左利きなのだ。鉛筆と箸は小学校に上がる時に無理矢理右に変えられたが、それ以外は変えられることに抵抗して、すべて左で押し通している。
ソムリエナイフのナイフ部分でボトルの口を覆っているキャップシールに切れ目を入れて1回転くるりと回し、キャップシールを切り取った。そして、コルクに対してスクリュー部分を垂直に差し込み、コルクの底を突き破らないように直前で止めて、テコの力を応用してゆっくりと引き上げた。
きれいに抜けた。その瞬間、拍手が聞こえたような気がした。見事! という声も聞こえたような気がした。ソムリエナイフが親指を立てているように見えた。
コルクからソムリエナイフを抜き、丁寧に折り畳んだ。そして、ありがとうと告げて、そっとテーブルに置き、ボトルの口の部分をティッシュで軽く拭き取って、香りを鼻に通した。すると、熟成香が嗅覚にお辞儀をし、嗅覚はボウ・アンド・スクレイプ(貴族風のお辞儀)で応えた。
暫し余韻を楽しんでから、グラスの縁に沿ってゆっくりと静かに注ぎ込み、下から三分の一を満たしたところで注ぐのを止め、ワインボトルに酸化防止栓を付けたあと、ワイングラスに左手を添えた。適度なスピードでグラスを回すと、何年もボトルに閉じ込められていたワインが空気と触れ合っていく。すると、蕾が開くように香りが立ち、固く閉じていた味がこなれていく。スワリングを終えてグラスをそっと鼻に近づけると、チョコレートのような、黒コショウのような香りが鼻を抜けていった。男の大好きなシラー独特の香りだ。
ひと口含むと、濃厚な味わいが口の中に広がった。流石にローヌ地方のシラーは違う。それでも、冷蔵庫から出したばかりなので、まだ十分に花開いていない。少し時間をおいて温度を上げた方が良さそうだ。
グラスをテーブルに置き、スプーンを左手に持った。ビーフシチューをすくって口に運ぶと、思わず声が出た。
うまい!
1日置いたせいで、味が濃厚かつまろやかになり、旨味が増している。それに、牛肉の塊がホロッと解けて、噛まなくても溶けていく。すると、ワイングラスにせっつかれた。
今だ、早く合わせろ!
一刻の猶予もないといったせっつき方だった。
わかった、わかった。
ワイングラスをなだめながらスプーンを置いて、左手を伸ばし、さっとスワリングをして、ひと口含んだ。
ん~、合う!
最高のマリアージュ!
口福、至福、
も~たまらん。
思わず目を瞑って、暫し余韻に浸った。
それからまたビーフシチューに戻り、平らげてしまうと、赤ワインはボトル半分になっていた。
どうする?
ボトルに問いかけた。ボトルは何も言わなかったが、ワイングラスに唆された。
飲んじゃえよ。
そうだな、そうしよう。でも、ツマミがないな……、
冷蔵庫にはチーズも何もなかった。どうしようかと思い悩んでいると、本棚から声が聞こえてきたような気がした。
音楽を肴にして飲んだらいいんだよ。
CDが唆しているようだった。
なるほど、それもいいな。
本棚のガラス扉を開けて、どのCDにするか物色した。すると、勢いよく手を上げるCDがいた。私を選びなさいというように。それはビリー・ジョエルの2枚組ベストアルバムだった。手に取って裏面を見た途端、最初の曲に目が止まった。
『Piano Man』
彼のデビュー曲だった。
CDをセットして再生ボタンを押すと、ピアノのイントロに導かれてハーモニカの演奏が始まり、彼のハスキーヴォイスが静かに、そして、次第に力強く迫ってきた。
男はリズムに乗って体を揺らした。歌声に酔いしれた。でも、それがいつまでも続くことはなかった。エンディングが訪れ、ピアノの音が静かに消えていった。それでも心は満ち足りていた。
Piano Manに乾杯!
グラスを掲げると、シラーが舌を、喉を、心を満たしていった。
初期のヒット曲が続いたあと、6曲目が始まった。男の大好きな曲、『The Stranger』だった。クリスタルのようなピアノのイントロに導かれて寂しげな口笛がメロディを奏でると、ふっとピアニストの姿が浮かんできた。哀しそうにピアノを弾いていた後姿が。



