翌年の四月、真鶴公園の桜は、かつてないほど見事に咲き誇った。これまで以上に花を付け、これまで以上に優雅に花びらを散らしていた。
その美しさは話題になり、多くの人々が足を運んだ。
優し気な顔つきの壮年の男性が、車椅子に乗った祖母を連れて公園に足を踏み入れた。それまでぼうっとしていた老女は、しかし、桜の木に近付くと涙を流した。
頬に大きな傷がある、無表情な五十代の大柄の男性も訪れた。彼の傍らには同じ位の歳で、色白かつ柔和な雰囲気の男性が居て、にこにこと何かを話しかけている。と、大柄な方の男性は、うんうんと頷くとふっと小さく微笑んだ。それからそっと、二人は手を繋ぐ。
ブルーシートを広げて、花見を楽しむ四人家族も居た。
「こら!あなた達はしゃがないの!他に人もいるんだから、迷惑かけません!全く、誰に似たのかしら……」
「どう考えても旭じゃろ」
「何か言った?」
「うんや、何も」
小柄で可愛らしい母親と、包容力のある父親、そして活発な子供二人が、揃って上げた笑い声が桜の花びらが舞う空へと吸い込まれていく。
そして。
涙を流しながら抱き合う男女の姿。
「遅くなってごめん、紅華。待っててくれて、ありがとう……!」
「いいの、独りじゃなかったの。お帰り、琴平」
男性は包帯を頭に巻いていたが、力の限り女性を抱き締めていた。そして、囁く。
「俺と結婚して下さい。ちゃんと、一人前になったから。プロになったから。俺、カメラマンになりたかったんだ」
だが女性は、男性の頬をきゅっとつねる。
「いたっ」
「馬鹿、ほんと馬鹿。別に一人前じゃなくたって、私は琴平のことが好きなの。でも」
ちゅ、と女性はつねったばかりの場所に、キスを落とした。
「おめでとう。夢が叶って、私も嬉しい」
目を丸くして、男性は目の前の女性を見つめる。気弱だと評価されがちな彼女だが、何かを信じる力の強さには、琴平も敵わない。今日だって、もう紅華には会えないものだと半ば諦めていたのだから。
彼女への愛おしさが身体の内側から溢れ出て、琴平はもう一度、紅華を力いっぱい抱き締める。
「ああ、大好き、大好きだよ紅華」
「……私の方が、好きなのよ」
四月の公園は、桜の木を中心として、愛に溢れていた。
桜の木はそれを喜ぶかのように、一度、全身をゆさ、と揺らした。
翌月の初め、桜の木は突然枯れた。
急な事態で市は専門家なども呼んだが、寿命だろうとあっけなく片付けられてしまった。
この後も、この桜で儲けようと計画していた市役所の担当者は大いに凹んだが、仕方がないと桜を撤去する方針に切り替えた。倒れなどして、子供が怪我しては危ないからだ。
依頼を受けて公園を訪れた木の伐採業者は、若者と年配者の二人だった。
鮮やかにチェーンソーを揮い、速やかに古木を倒した彼らだったが、帰り際にふと、若者の方が何かを見つめているのを年配者が発見した。
二人は話す。
「どうしたんだ」
「ああ、いえ。あのこれ、この子の枝ですよね?」
「ん、ああ、そうだな」
「これ、挿しときません?切り株のとこに」
「……なんでだ?」
「噂で、桜の木ってクローンだって聞いて。この子もまた、復活できるんじゃないかって思ったんです」
「馬鹿だな、それはソメイヨシノっていう桜の種類だけだぞ。この木がそうとは限らない」
「でも、可能性があるなら……」
「あ?」
「沢山の人が、見に来たんでしょう、この子を。愛されていたはずなんです。だったらワンチャンあげても良くないですか?」
「お前はものの言い方がチャラいから、頭が悪いのか良いのか分からんな。まあいい、ちょっと枝を挿しとくぐらい、問題ないだろう。こっそりな」
「……!ありがとうございます!」
また咲くと良いな。
張り切って駆けていく若い背中に、年配の業者はそう、呟いた。
──……クヤ。サクヤ。
「ううん、もう少し寝かせて頂いてもよろしいですか……。私、途轍もなく眠くて眠くて……」
──サクヤ、サクヤ。
「煩いですわ……。どなたでしょう、一体何の用がおありなのですか全く……」
──サクヤ!
「あらまあ。大変失礼致しました。私眠っておりまして、気付きませんでしたの」
──こんなに大きな声を出したのなど、スサノオとの喧嘩以来ですよ……。遍く生き物は私の声に一度で反応するというのに。
「申し訳ございません。なんだかまだ、ぼうっとしておりまして。ところで、どちら様で──、?
いえ、私は、存じておりますわ。この声を、このやり取りを」
──そうでしょうね、お会いするのは初めてではありませんから。
「初めてではない……?だって私は、今目を覚ましたはずで……、いえ、目とは何でしょう、そんな実体は私に備わっていなくて……。それでも、何かをずっと、見ていた気がしていて……」
──何を見ていたのですか?
「朧げで、まるで白昼夢の様な映像で、人々の営みを……。しかし、私は実際に、彼ら、彼女らとお話ししたことがあります。この記憶に、間違いはありません。ええ、ええ、そうです。直接お会いせずとも、観察はしてきました。見守ってきました。ああ、思い出して、思い出してきました。記憶が、蘇っています。全て、全て」
──それは良かった。それで、どこまで思い出しました?
「私が生きていたかつての八十年間のこと……。いえ、いいえ、ソメイヨシノがこの世に生を受けてからの全部ですわ。だって私は、ずっとずっと見てきていたのです」
──そうですね、ようやく気が付きましたか?
「ええ、天照大神。私は、朽ちた枝から記憶を、使命を受け取って生まれ変わってきた、ソメイヨシノ種の中の、サクヤヒメ。やるべきことを忘れていた新しい個体に、こうして思い出す機会を与えてくれたことを、感謝いたします。
私はずっと、見守ってきていました。受け継いできました。人々の笑顔、想い、愛を、確かに。私は、私は──」
時代と共に、移り変わるもの。流行り、価値観、風景、その他たくさん。それは否応なく、そして、必ず。どれだけ拒んでも、悲しんでも、避けられないもの。
それでも、脈々と時代を超えて、受け継がれるものが確かにあって。
例えば、愛情。或いはそれを越えた、親愛。
それから、強さ。
誰かを想う、強さ。
そういったものを、私は──、
ソメイヨシノは、
ずっとずっと、見てきたのだ。


