部活をやっていない俺の高二の夏休みは、学校の課題、塾、オーキャンと、それなりに忙しく過ぎていく。誕生日はあと3日後に迫っていた。
「あれ……あんた」
『フジタ君』に出会ったのはその日の昼下がり、塾からの帰り道。
水野と寄り道をして、アーケード商店街の和菓子屋さんのベンチでかき氷を食べていたときだった。
フジタ君は部活帰りなのだろう。バレー部の青いTシャツを着ていて、部活の同級生と思われる三人とここに立ち寄った様子だ。
学校から少しだけ足を伸ばした場所にある人気の店だから、他の生徒と出くわすことは多々あった。
それにしても……。
『あんた』はよしとしても、背の高いフジタ君に見下ろされて睨まれるのは居心地がとても悪い。
「誰?」
白玉二個付きいちご味のかき氷を食いつつ、水野が俺に聞く。
ちなみに、俺のは練乳がけいちご味だ。
「矢代君の後輩」
ひそっと答えていると、バレー部の人たちもフジタ君に「誰?」と聞いている。
「樹先輩に付きまとってる二年」
フジタ君は俺を睨んだまま答え、水野が顔をしかめた。
(ああ……これは他の人達にも睨まれる流れか)
そう思った瞬間。
バシッ! といい音がして、フジタ君の肩あたりをバレー部の仲間のひとりが叩いた。
「おまえ、先輩に失礼か」
「すんません、先輩」
「フジタ、謝れよ」
俺と水野が唖然としていると、他のバレー部の三人はフジタ君に注意したり、礼儀よく俺に頭を下げてくる。
「うっせえ」
それでもフジタ君は、謝らせようと頭を押さえた人の手を振り払い、俺をキッと睨んで続けた。
「アンタ、まだ先輩を追っかけまわしてんの?」
「「追っかけ回すって」」
俺と水野の声が揃った。同時に、さっきフジタ君を叩いた人が彼の肩を抱いた。
「いい加減にしろよ。誰かれ構わず牽制すんな」
そう宥められて、フジタ君は不服そうに眉をひそめた。
別の人は苦笑して俺に言う。
「すんません、こいつ、樹先輩の番犬なもんで、これまで樹先輩に寄ってくるにわかファンの女子を撃退してたんですよね」
「番犬じゃねーよ。信者だ」
「信者の方が言い方こええわ。だけど先輩は女子じゃねえだろが。追いかけ回すとかじゃねーだろ。ほら、謝れよ」
むすっとしたままのフジタ君に、また別のひとりがツッコミ、俺はあわてて片手を振った。
「あっ、いいよ、いいよ」
「よくないっす。もし樹先輩がここにいたら注意すると思うし。ほら、フジタ」
トン、とひとりに肘をつつかれ、ひとりに肩を揺らされ、もうひとりにはじっと見られるフジタ君。
「……スンマセンデシタ」
めちゃくちゃ小さい声で、明後日の方向を見ながら謝った。
「おーまーえーは!」
「あの、ほんとにもういいから。かき氷、食べにきたんだろ? 買いなよ。俺たちもう食べ終わるから、店の人が作ってる間にこのベンチ空くしさ」
「な?」と水野を見ると、機嫌が悪いときのショコラみたいな顔をしている。
それでも、かき氷がほぼ溶けていたからか、水野は最後に取っておいたらしいかき氷の白玉を食べ、赤い水になった残りを飲み干した。
フジタ君以外の三人が「さーせん」と言ってくれたのに頷き、俺もいちごミルクジュースになった元かき氷を飲み込む。
その間に水野がゴミ入れに白いカップ容器とプラスチックのスプーンを捨てにベンチを立った。
すると、水野が空けた場所に……つまり俺の隣に、フジタ君がドカンと座った。
なんか、全体的に圧がすごい。
俺は顔を見ていることができずに身を竦めた。
「俺、樹先輩のこと、マジなんで」
「……え?」
圧とは正反対に、ボソッと話しかけられた。聞き間違えかとフジタ君を見ると、ボソボソっと続ける。
「だからわかるんだよね、ホントに牽制が必要なヤツって。これまで男も数人いたし。でも先輩、ノーマルだから諦めて」
「な……」
声が出なかった。
フジタくんの「好き」は俺と同じ「好き」だ。
そして、可能性はなくても自分は諦めない。だがおまえは引き下がれ、そう目が物語っている。
「朋哉、食べ終わった?」
「おい、フジタ、何味にすんの?」
俺達の間に一瞬の沈黙が生まれると、水野とバレー部の人の声がスッと入ってきた。
「俺、ブルーハワイ」
フジタ君が立ち上がり、和菓子屋のおじさんのところに注文に向かう。
水野は俺の前にやってきながらフジタ君の背中を見て、次に俺の顔を覗き込んだ。
「朋哉、もしかして、またなんか言われた?」
「……いや。なんでも、ない」
いつの間にか握りしめていた片手の力を抜き、俺もかき氷の容器を捨てに向かう。
そのとき、バレー部の人たちの目が俺に向き、「さよーならー」と小さく会釈をされた。
フジタくんも同じように頭を下げたが、その目は笑っていない。 俺はサッと頭を下げ、すぐに彼らに背を向けた。
フジタ君が矢代君への思いを周囲に公言しているのかはわからない。
だけどたとえ皆に黙っていたとしても、俺にははっきりと宣告してきた。
俺はひと言も言い返せず、その隠さない強さから逃げてしまったのだった。
***
かき氷を食べた後は、水野に買い物に付き合ってもらっていた。
誕生日に音楽フェスに行くことになっているので、そのための買い物だ。
フェスに行くことを聞いたのは予行演習の日、矢代君の部屋でだった。
大きめのフェスで、俺でも知ってるアーティストが出るやつだ。
まさかフェスとは思っていなくて、行くのも初めてだった俺は、その場で該当のフェスをスマホ検索した。
そうしたら、チケット代がめちゃめちゃ高くて!
無理だと伝えたら、矢代君のお父さんがチケットをツテで貰っていて、大学生のお姉さんとじゃんけん大会の末に勝ち取ったやつだから行こう、と言ってくれた。
「――そのわりに、予行演習以来浮かない顔だよね。今なんて心ここにあらず」
「……へ? あ」
買い物のために入ったドラッグストアで水野に顔を覗き込まれ、我にかえる。
冷感タイプのボディシートを選んでいるつもりだったのに、俺が手に持っていたのは日焼け止めだった。
「いや、これも必要だよな! 日中の日差し、ヤバイし!」
「まあね。……で、なにがあったの」
水野は俺の挙動不審にはもう触れず、静かに見つめてくる。
「ぅ……その」
水野は過去の俺への気持ちを話してくれた。だから俺も自分の弱い部分を曝け出せる。
俺と水野が立っている陳列棚の付近に人の姿がないことを確認し、その場で打ち明け始めた。
「水野が教えてくれたように、誰が誰を好きになってもいいと思う。でもな、俺が矢代君を思う気持ちは、矢代君からの純粋な好意を裏切ってるような気がしてさ」
俺は日焼け止めをギュッと握りしめた。
水野はまだなにも答えてくれない。「だから?」と言われている気がした。
「……だから、好きだと思う気持ち、隠さないとって……。俺な、自分の気持ちはすぐに確定したんだ。それで、この気持ちを今後どうしていくか考えようと思ってたんだけど……予行演習をした日に、矢代君が今までよりずっと距離を縮めてくれてさ。嬉しい反面、これって俺が男友達だから安心してくれてるんだよな、って気づいて」
いつかの昼休みの会話のとき、はっきりと言ったわけじゃないけど矢代君は女子が苦手っぽい発言をしていた。
矢代君はイケメンだから、フジタ君の言うように女子に囲まれやすいのだろう。そして、少しのやり取りでも勘違いをする人がいて、一度ならず数度、困った経験があるのだろうと想像ができた。
「これってさ、俺が女子だったら絶対にないんだよ。俺が男友達だから肩に手を回したりとか手を繋いだりとか自然にできる。な、そう思うだろ?」
知らず知らず日やけ止めに落ちていた視線を水野に戻す。
すると、水野は額に手を当て、ややうつむいていた。
「水野? 気分でも悪くなった?」
「……違う、違うんだ。なんかもう、口を割りそうな己が辛み」
「んん?」
「深呼吸するから待ってて」
「あ、うん」
よくわからないが、スーハーと深呼吸をする水野を見て、俺も鼻から息を吸う。
話せたこともあるのか、ほんの少しだけどモヤモヤが消えた気がした。
水野が深呼吸を終え、話し始める。
「えっとね、朋哉の気持ち、半分わかる」
「半分?」
「うん。俺もね、朋哉を好きだって自覚したとき、気持ちをとても伝えられなかった。もし言ったとしても朋哉は避けたりはしないってわかってても、きっと今みたいな距離じゃいられないなくなるんだろうな、と思って」
(水野も俺と同じだったのか)
そう思っていると、水野の声が少し大きくなった。
「でもさ!」
「お、おう」
返事をしながら、あたりをキョロキョロと見回した。
今のところ周囲に来ている人はいないが、人差し指を口の前に立てて「静かにな」と示すと、水野も同じポーズを取ってから声を落とし、続ける。
「だからこそ、俺は朋哉からの友情の好意をたっぷり利用したよ。小学校の頃なんてベタベタくっつきまくりだったでしょ」
「いや……でもそれは小学生だからこそできたことだろ。今同じ状況ならベタベタするか?」
頭の中に小学生の頃の水野を浮かべながら答えた。
確かにあの頃の水野はまさにショコラにそっくりで、俺にくっついてはいたが。
「まあ、それ言われたらそうだけど、朋哉は恋愛幼稚園児だからよくない?」
「よくねーよ」
「まーいいじゃん。俺が思うにね。相手がくっついてきてくれるときって、その相手も『自分にもくっついてきて』と思ってると思うんだよ。ましてや矢代氏は……」
水野がそこで言葉を止め、口元にパッと手を当てた。
「矢代君がなに?」
「あー。えっと、その……あっ、犬。矢代氏もトイプー飼ってるんでしょ? なら属性が犬だろうなって。猫派の人って気まぐれだけど、犬派はワチャワチャするのが好きなんじゃないかっていう、俺の勝手なイメージ!」
水野が身振り手振りで言うのがどこか必死に見える。
俺は首をかしげつつも、『相手がくっついてくるときはくっついてほしいとき』というのはなんとなくわかるので頷いた。
「まあ、人によるだろうけど、矢代君はチームでやるスポーツをしてたし、あるかもな」
「でしょ。それで朋哉が我慢して引いちゃうと、きっと悲しいよ?」
「そうなのかなぁ」
そこはトンデモ理論のような気がしないでもなく、苦笑するものの水野は「絶対にそうだよ〜」と呑気に笑った。
根本的な解決はなにもしていないのだが、水野の明るさに救われる。
その後、必要なものを買い揃えていると、品定めの途中で水野がフジタ君を話題に出した。
「あのフジタって子、矢代氏が本当に好きなんだねぇ。だから矢代氏が退部した今でも番犬センサーがピンピンに立ってるんだろうね」
ドキッとした。
フジタ君と直接会話していない水野はフジタ君の『好き』をどういう意味で言ってるんだろう。
返事ができずに黙ってしまっていると、水野がニコッと笑った。
「俺もホラ、一応経験者だから。そういう矢印、感知しちゃうんだよね。というわけで朋哉」
「お、おう?」
「誰と一緒にいたいのか決めるのは矢代氏でしょ。矢代氏は今、朋哉といたいって思ってくれてるんだから、朋哉もそう思うなら考え込みすぎずに素直に喜んでなよ、ねっ」
パン、と背中を叩かれる。
胸の中に詰まっていたものも一緒に叩き出された気がした。
「ありがとな。詩愛瑠」
水野がトイプーではなく、キッズプログラミングのガイドキャラのシエルに見えてくる。
水野と親友になれてよかった、という口に出すにはこっ恥ずかしい言葉の代わりに、名前で呼んでみた。
「だからそれ、今更だってば。名前呼び、ココちゃんと矢代氏の前ではやめてよね」
ほんのちょっと頬を赤くした水野が肘でつついてくる。
「なんで矢代君?」
「ん? いやほら、仲がいい相手が自分以外を名前で呼んだりするとちょっと妬かない?」
「うーん? 俺は呼び方なんてなんでもいいと思うけど」
「……ノンデリ。恋愛幼稚園児」
「んん? なんで今それ言う?」
「なんででしょうねぇ。とりあえず、イジイジしてないで、ジャイアンに負けるのび太になってないで、頑張んな!」
俺の眼鏡のツルを人差し指でクイッと上げて言う水野。
ジャイアンとのび太とはフジタ君と俺のことか?
「ならおまえはミズエモンだな」
「万能じゃん」
そんな馬鹿なことを言いつつ別れた。
シエル、もといミズエモン、もとい水野に活を入れられた俺は、帰ってすぐに矢代君に電話を入れた。
『――三上?』
スマホを携帯していない人だから出ないかも、とも思ったのに、矢代君はすぐに電話に出てくれた。
それで一瞬怖気づきはしたものの、通じたからには逃げるわけにはいかない。
「うん。夕方にごめん。忙しい?」
『いや、大丈夫。オーキャン行ってて、その帰り。もう家のすぐ近く』
「そうなんだ。もう少ししてからかけ直す?」
『いや、このまま。なんか、あった?』
矢代君の声が怪訝そうな低い声になった。
俺がメッセージや通話を避けていたから気に病ませていたのだろうか。
「なにもないんだけど、フェスの準備、ちゃんとできた、って、なんか伝えたくて。買い物に誘ってくれてたのに、行けなかったから」
一緒に行くのも怖かったけど、塾の模擬テストの日だったから断ってしまっていたのだ。
『は……そっか。よかった。断られんのかと思って身構えた』
矢代君の声が息を吐くような声から明るい声に変わっていく。
「断るなんて! そんなことあるわけないよ。すごく楽しみなんだ」
『ホッとした。俺、電話とか誘いとか多くてウザかったかな、と思ってたからさ』
「そんなこと!」
わ、思ったよりも大きな声が出てしまった。
ゴクンと息を呑んで、多少でも気持ちを落ち着けてから続ける。
(大丈夫。矢代君は犬属性。こう言ってくれてるんだから俺も言って大丈夫。変なふうには取られない!)
「そんなこと、ない。電話もメッセも楽しい。ただ夏休みで生活が狂ってただけ、ごめん!」
ああ、また声が大きくなってしまった。
でも、電話の向こうで矢代君が「ふは」って笑ってくれたのがわかった。
『俺も三上と話すの、楽しい。明後日も、めちゃくちゃ楽しみ。っていうか、実はちょっと緊張もしてる』
「緊張?」
『ああ。誕生日祝い以外に、言いたいことがあるから。ちゃんと言えそうでよかった』
言いたいこと?
含みをもたせた言い方に、おかしな妄想をしてしまう。
男女の場合なら、どっちかの誕生日に遊びに行って、お祝い以外に伝えたいことがあると言われたら……?
『三上、聞いてる?』
「ぅあ、はい! 聞いてます!」
(俺のアホ! あるわけないだろ 俺たちは男だぞ!)
『そっか。じゃあさ、俺、もう言いたくて言いたくてヤバいから、この電話が終わったらメッセージだけにしとくな』
「えっ、なにそれ。いったいどんな話?」
……ドキ。
ドキドキ。
ドキドキドキ。
絶対に違うってわかっているのに、どこまでも含みを持たせる言い方に、俺の胸は勝手に高鳴る。
「だからその日まで秘密。俺がなにを言うか、予想してて」
「予想?」
そんなの、都合のいい、そしてあり得ない予想しかできない。
頼むから今もう言ってほしい。おかしな期待のままであと二日過ごすなんて爆死する。
だが、いつも優しい矢代君なのに今は無情だった。
「そ。俺のことを思い浮かべながら予想してて……っと、家、着いた。もう切るな」
「ええっ、待って」
「三上の頼みでもこれだけは無理。じゃあ、またメッセで」
「やし」
ろ君……と言いきる前に、本当に通話が切れてしまった。
胸が騒いで痛いくらいなのと、喉が焼けるような息苦しさを感じながら、通話の切れたスマホを見る。
ポシュン、とすぐに通知が来て、すぐに開くと矢代君からのスタンプ。
踊るトイプーに「またなー」の文字が付いていた。
言われなくても頭の中は矢代君でいっぱいで、ドキドキが落ち着かない俺はそれに返信をすることができなかったのだけれど。
***
そして、八月十五日。俺の誕生日の日になった。
昨日も本当にメッセだけのやり取りして、『言いたいこと』にはまったく触れずに今日の最終確認だけをした。
ただ、夜中の零時、もう今日だ。
矢代君が『通知音、切っておいてな。誕生日祝いのスタンプ送りたいから』と言ってくれて、誰よりも早く誕生日を祝ってくれた。
それでなくても今日が楽しみなのと緊張が重なって眠れなかったのに、俺は明け方まで目が冴えて眠れなくなってしまった。
「でもまあ、顔はいつもと同じだな」
いいのか悪いのか、いつもと同じ平凡な顔は睡眠不足を感じさせず、まさにいつもと同じ。
今日もコンタクトレンズにしようかとは思ったものの、家から遠い場所だからコンタクトレンズの不具合が生じてもよくない。
(いつもの俺で行こう。平常心!)
鏡の前で、矢代くんへの想いも過度な期待も封じ込める念を入れて家を出た。
ずいぶん早く待ち合わせ場所に着いてしまい、メッセージアプリを見ながら待つ。
今までのやり取り……予行演習前まではほとんど通話だったからそこまで多くないけど、いつも最後のしめくくりは『またな』。
誰とでも、当たり前の言葉だろう。
それでも、たった一度の短い間違いメッセージから、繋がることがなかったかもしれない矢代君との『また』があることは、俺にとっては特別を通り越して奇跡だ。
(いつまでも続きますように)
そう願っていると、スマホに矢代君からのメッセージが入った。
『もう着くけど、三上は?』
確認して、すぐに返信をする。
『俺も着いてる』
すると、またすぐにメッセージが入った。
『悪いけど、待ち合わせ場所変えて。駅の構内にいて。またメッセするから』
「え……」
どうしたんだろうとスマホから顔を上げると、少し先に矢代君の姿が見えた。人混みの中でも背が高いからすぐにわかる。ただ、誰かと話している様子だ。
目を凝らすと、人と人の間から矢代君と同じクラスの人の姿が見える。
男子がふたりに、女子もふたり……女子は矢代君に腕を絡めていた。
一瞬でわかった。
(俺と一緒だと知られたくないんだ)
駅へ行かなければ。
そう思うのに、足がうまく動かない。その間に距離が縮まってきて、俺は苦し紛れに待ち合わせ場所の時計柱の裏に隠れた。
(どうか見つかりませんように)
他にもたくさんの人が周囲にいるから大丈夫そうだが、息を潜めて様子を窺う。
矢代君たちも正面側に到着し、声が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、今からどこ行くの? タッキー最近付き合い悪いよ。ウチらとも遊ぼうよ」
「そーだよ。この夏全然遊んでねーじゃん。来年は受験一色になるんだからたまに付き合えよ~」
矢代君が皆に問われ、答える。
「今からもうやっとけよ。塾で何時間も勉強してるやつだっているんだぞ。てか、ほらもう行けって。俺、人と予定があるから」
「その人が来るまでいーじゃん。それまで暇でしょ。話そうよぅ」
女子の甘い声が続き、その言葉に、矢代君ではなく別の男子がその子に話しかけた。
「おまえ、タッキーにオンナの影がないか見たいんだろ」
「もぅ! 違うよ。あたしは別にぃ」
「カレン、タッキー好きだもんね」
「ちょっとぉ、ヒナまで。そこはそう、だけど」
「ははは、公開告白してんじゃん。タッキーどうすんの」
別の女子も男子も楽しそうに言い合っている。
(矢代君のこと、好きなんだ……女子はスルッと言えていいな)
胸がチクンと痛んだ。
矢代君はどう答えるんだろう。
「どうもしねぇよ。カレンのは本気じゃねぇだろ。手、どけろ」
「タッキーひっどぉ。本気だもん。タッキーの彼女にしてくれたらもっと好きになるし」
「はいはい。ないから。ぜったいないから。ほら行けって」
跳ね除けた。それでも、今はなくてもいつかは矢代君の彼女になれる可能性があるその子を名前で呼んだことが、思いのほか胸を締め付けた。
昨日水野に名前の呼び方なんてどうでもいいと言ったくせに……。
「しゃーねーな。んじゃ行くわ。あっ、でもさ。タッキーって夏休み明けも他クラスのやつと昼飯食うの?」
冷たい水を頭からかぶせられた気がした。
これって俺のことだ。知られてたのか?
……当たり前か。同じ学年だし、目立つ矢代君が他クラスで弁当を食べていることくらいすぐに広まるよな。
「そういやそうだ。ん? もしかして、今日の予定そいつだったりして?」
「マジで!? ねえ、あの地味男子とどういう繋がりなの?」
「え、ほんとにあいつと今日会うの? てかこれまでも遊んだりしてたとか?」
質問が重なるたびビクビクする。
今度こそ、矢代君はなんて答える……?
「うっさい」
第一声は強めの声。それから、煩わしそうな声が続いた、
「アイツじゃねーよ。全然別のやつ。だから早く行けって。お前らとは今度遊んでやるから」
……隠した。やっぱり俺と遊びに行くって知られたくないのか。
もしかして今日の言いたいことって、二学期からは昼飯食べるのやめようとか、そういうことだったりして。
思考がまた暗い方へ流れていく。矢代君を好きになってから気持ちの乱高下が激しい。
どうしよう、ここにいるのが辛い。この後、笑って「おはよう」と言えるだろうか。
スマホをギュッと握りしめる。
また皆の声が聞こえてくる。
「タッキー上からだなー」
「しゃーねえ。そろそろ行くわ。俺らも行くとこの予約あるし」
「じゃな、タッキー」
「おう、ちゃんと勉強もしろよ」
矢代君の声が普段のトーンに戻る。
皆は「真面目か」など言いつつ他の場所へと向かっていった。
(すぐ出たら、ここに隠れてたの、バレるよな。ちょっと待ってからにしよう)
その間に気持ちと顔を整えようと、浅く息を吸った。そのときだった。
「三上、待たせて悪かったな」
「えっ」
背後で声がして、振り仰ぐと矢代君がいる。
隠れてたの、知ってたのか?
「あの、あの、俺」
盗み聞きしていたことが恥ずかしく、聞いてしまった内容が辛い。口ごもってしまう。
だが、矢代君はからっと晴れた太陽のように明るい笑顔で言った。
「あいつら騒がしいから、今日じゃなくて学校で改めて紹介しようと思ってさ」
「……え?」
「それと。今日は三上の誕生日だから、学校の奴らの中で会うのも話すのも、俺だけがいいな、って思って」
「え……」
「あっ、もしかして、水野に先超された?」
「いや、水野からは朝にメッセージだけ」
「やった。今日三上と話せるのは俺だけだな。最高の気分」
「え……」
え、しか言えない。
それってどういう意味なんだ。
戸惑いと驚きで、それを声に出せずに唇だけ動かすと、矢代君は顔中に笑顔を咲かせた。
それこそ太陽が輝くように。
「誕生日おめでとう、三上。今日一緒にいられて嬉しい。来てくれて、ありがとな!」
(う、わ。)
目の前と胸の中が光でぱちぱち弾けてる。刺激が強すぎて、泣きそうになる。
(駄目だ、泣くな)
必死に我慢するものの、俺はぽろりと涙をこぼしてしまった。
「えっ? どうした。どっか痛む?」
矢代君は大焦りする。
俺はブンブンと頭を振って、手で頬を拭きながら笑顔を作った。
「お祝いが嬉しすぎて感動した! ありがとう!」
作った笑顔はもう本物の笑顔だ。嬉しい。本当に嬉しい。
コンタクトレンズをしてこなくて大正解。また涙が滲んできてしまう。
俺は眼鏡を外し、目元も拭いながら矢代君を見上げる。
すると、かぶっていた帽子のツバを降ろされた。
「そーいう顔、ここですんな」
「ええ? どういう顔」
いや、男の泣き顔なんてブサイクだ。というか、男が泣くなんてみっともないか。
俺はちゃんと涙を拭い取り、眼鏡をかけ直した。
帽子も整え、再び矢代君を見上げる。
矢代君は予行演習の日に見たのと同じで、目を泳がせて丸めた手の甲を口元に当てていた。
泳いでいた目が俺に戻る。次の瞬間、矢代君が俺の手を掬った。
「よし、行こ」
「えっ」
手を繋いだ状態で矢代君が足を踏み出した。
俺は「え」の連続だったが、俺を振り返った矢代君が「楽しもうな」とフワッと笑ってくれたから、俺の胸の中もフワッと軽くなった。
ほんと、気持ちが乱高下。
でもきっと今日は、このまま気持ちは高気圧だ。
俺は晴天の空の下、矢代君から手が離れないよう、その背中に付いていった。
フェスは最高に楽しかった。入場証のリストバンドも宝物になりそうだ。
ただ、俺は矢代君の『言いたいこと』が気になっていて、どこかソワソワしていた。
矢代君がそれを告白してくれたのは、夕飯のビフテキ丼を食べているときだ。
「俺、進路を確定したから三上に聞いてほしくて」
「進路」
「ああ」
進路……そうか、伝えたいことって進路のことだったのか!
(こ、告白とか、あるわけないってわかってたのに、自分が恥ずかしい~)
「……あの、どうして俺に?」
「言ったじゃん。三上のおかげで夢中になれるものを見つけようと思えたって。俺さ、高一の夏休み明けに事故に巻き込まれたって話したじゃん。あれ、膝の靭帯を傷つけちゃったんだよな」
矢代君はお茶を飲むと、当時のことを話してくれた。
その怪我が小学生から続けてきたバレーボールを辞める原因にはなったが、実はその前から膝に痛みを抱えていたこと。
それなのにメンバーから外されるのが怖くて、メンバーに迷惑をかけるのが怖くて……誰にも言わずに病院にも行かなかったこと。
「事故ったことで、それまで張り詰めていた糸が切れた感じがした。ああ、もう嘘をつかなくていいんだな。無理しなくていいんだな、ってそっちの方な。バレーを続けられない悔しさよりも、そう考えてホッとしてる自分が情けなかった。それで思いきって部活を辞めてみたら、クラスのやつらに誘われるようになって、それまでとはぜんぜん違う生活が最初は面白くて、楽で……甘んじてた。でも」
バレーの話になってから、ときどき宙に流れていた目がまた俺を捉えた。
並びのいい白い歯を見せて、矢代君が微笑む。
「三上に会った」
その言葉と微笑みに、胸の中にじわりとした熱が広がる。
「まさか情報の授業の課題で、バレーを純粋に楽しんでたときの自分とか、仲間を思い出すとは思わなかったな……三上、ほんと楽しそうに授業を受けてたよな」
「それは……結構恥ずかしい、かも」
「なんで。誇れよ。夏の特番で、頑張ってる人を見て頑張るってやつあるじゃん。俺は運動やってたけど、努力とか根性とかを人前で見せるっていうの苦手だし、ちょっと暑苦しいなって思う方なんだよな。だからかな、楽しそうにやってる姿の方がここに触れた」
自分の胸をポンと叩く矢代君。
俺はなんだか背中も胸もくすぐったくて、肩を竦めてはにかみ笑いをした。
「それで、進路はどうしたの? そう言えばオーキャンにも行ってたね」
「ああ。よく考えようと思って、ひとりで行ってじっくり聞いてきた。急だったから希望の大学じゃないけど、気持ちが決まった」
「職業を決めたってこと?」
問うと、矢代君が頷く。
「笑うなよ?」
「笑わないよ」
「俺、医者を目指すわ」
「えっ! お医者さん!?」
「ああ、スポーツ整形って分野があってさ。そっちに行きたい」
矢代君は自分もスポーツ整形の診察にかかったことを話してくれ、時代とともにきっと選手の復帰までの期間も早くなるだろうから、自分もその一助になりたいと思う、と力強く言った。
親御さんも喜び、大賛成してくれているそうだ。
「すごい。かっこいいよ。矢代君」
俺は心からそう言った。
矢代君は手を首の後ろに当てて照れ笑いをする。
「ま、医学部行くんならもっともっと頑張らないとな。でも塾も決めてきました! ってことで。報告終了。三上には親以外では一番に伝えたくてさ」
「そっかぁ……」
(確かにこれは予想外だったな。いや、ほんと、俺の予想はずかしっ)
だけど胸がいっぱいだ。自分が楽しんでいただけなのに、その姿で矢代君の力になれたなんて。
そして、俺に一番に伝えてくれるなんて。
朝の誕生祝いの言葉に続いて、最高のプレゼントだ。
「一番に教えてくれてありがとう。応援するね!」
「サンキュ」
俺は気になっていた『矢代君の言いたいこと』を知ることができて、満足した。
その後、日が暮れ始めた頃、会場のライトアップと共に夜の部が始まった。
俺たちは八時までを会場で過ごすことにしていたから、数人、数グループのサウンドに身を揺らして楽しんだ。
(全部思い出の曲になるな)
そう思いながらパンフを見る。
今はメッセージタイムの時間になっていた。
今日のフェスの感想をサイトで随時募集していて、動画サイトでも人気のピアノ演奏者が演奏している間に、それが読み上げられる時間だ。
中には恋人との初デートで来ることができて嬉しい、などもある。
(匿名だから、俺も好きな人と来ることができた、って書けばよかったかな)
似た感想だから弾かれただろうけど。
『――はい。次の感想です。これね、エモいのでよく聞いてくださいね〜』
パーソナリティのお姉さんの声がひときわ華やかになり、俺と矢代君は耳を澄ませた。
『今日は友達の誕生日で、誕生日の日をちょうだい、とお願いをして、ここに二人で来ました』
……えっ……。
忘れられない言葉が聞こえてきて、隣に立つ矢代君を見上げる。
矢代君は「お」と小さく言って一度瞬きすると、首をかしげるようにして俺に微笑みかけた。
『その友達は自分をしっかりと持ち、目標を持っている人でかっこいいです。一時期トラブルで目標を失った俺には、眩しく見えました』
間違いない。これ、矢代君の感想だ。いつの間に?
『それと、物静かに見えて、好きなもののことになるとよく話すし、表情がくるくる変わるのがとてもかわいかった。元気付けられました。ほぼ一目惚れに近かったです……きゃ〜素敵ですね!』
お姉さんが机をバンバンと叩く音がスピーカーから響き、会場からも楽しそうな声が上がっている。
「え……え……?」
俺の心臓は暴れ出していた。
頭の中にまで、お姉さんが叩く机の音よりも大きく鼓動が響いている。
(一目惚れ、って。え? え?)
『ただ、周囲とは違う形の好きだから、認めるのに時間がかかってなかなか確かめに行けなかった。でもある日、その人から間違えてスマホメッセージが来て、これはチャンスだと思いました……うわーエモい〜! まるでドラマじゃないですか!』
心臓が破れそうになる。足がガクガク震えてきた。
よろけてしまうと、すぐに矢代君が腰に手を回して支えてくれる。
『それで、昼食を一緒に食べようと誘って近づき、一緒に過ごすうちに気持ちを確信しました。だから、その人の誕生日でここに来れた今日、ここから先は、自分の口で伝えます……ちょ、もう、ほらっ、頑張れ! 応援してますよ〜! いけー! 成就しろ!』
お姉さんの拍手が聞こえて、会場からも拍手が上がる。
周囲の人たちがどの人だろうと頭を振っているのが見えた。
とはいえ多分、誰も俺達だとは気づかないだろう。男同士の俺たちに注目する人はいない。
でも……矢代君の瞳は俺を見ている。いつもの力のある瞳で、俺だけをじっと見つめている。
そして、腰を支えてくれたまま、ゆっくりと口を開いた。
「好きだ。三上のこと、好きだ」
「……!」
誕生日に、俺は生涯忘れられないプレゼントをもらった。
こんな幸せな誕生日はもう二度とないと思った。
――それは思い違いで、毎年幸せが積み重なることになったのだけれど。
「あれ……あんた」
『フジタ君』に出会ったのはその日の昼下がり、塾からの帰り道。
水野と寄り道をして、アーケード商店街の和菓子屋さんのベンチでかき氷を食べていたときだった。
フジタ君は部活帰りなのだろう。バレー部の青いTシャツを着ていて、部活の同級生と思われる三人とここに立ち寄った様子だ。
学校から少しだけ足を伸ばした場所にある人気の店だから、他の生徒と出くわすことは多々あった。
それにしても……。
『あんた』はよしとしても、背の高いフジタ君に見下ろされて睨まれるのは居心地がとても悪い。
「誰?」
白玉二個付きいちご味のかき氷を食いつつ、水野が俺に聞く。
ちなみに、俺のは練乳がけいちご味だ。
「矢代君の後輩」
ひそっと答えていると、バレー部の人たちもフジタ君に「誰?」と聞いている。
「樹先輩に付きまとってる二年」
フジタ君は俺を睨んだまま答え、水野が顔をしかめた。
(ああ……これは他の人達にも睨まれる流れか)
そう思った瞬間。
バシッ! といい音がして、フジタ君の肩あたりをバレー部の仲間のひとりが叩いた。
「おまえ、先輩に失礼か」
「すんません、先輩」
「フジタ、謝れよ」
俺と水野が唖然としていると、他のバレー部の三人はフジタ君に注意したり、礼儀よく俺に頭を下げてくる。
「うっせえ」
それでもフジタ君は、謝らせようと頭を押さえた人の手を振り払い、俺をキッと睨んで続けた。
「アンタ、まだ先輩を追っかけまわしてんの?」
「「追っかけ回すって」」
俺と水野の声が揃った。同時に、さっきフジタ君を叩いた人が彼の肩を抱いた。
「いい加減にしろよ。誰かれ構わず牽制すんな」
そう宥められて、フジタ君は不服そうに眉をひそめた。
別の人は苦笑して俺に言う。
「すんません、こいつ、樹先輩の番犬なもんで、これまで樹先輩に寄ってくるにわかファンの女子を撃退してたんですよね」
「番犬じゃねーよ。信者だ」
「信者の方が言い方こええわ。だけど先輩は女子じゃねえだろが。追いかけ回すとかじゃねーだろ。ほら、謝れよ」
むすっとしたままのフジタ君に、また別のひとりがツッコミ、俺はあわてて片手を振った。
「あっ、いいよ、いいよ」
「よくないっす。もし樹先輩がここにいたら注意すると思うし。ほら、フジタ」
トン、とひとりに肘をつつかれ、ひとりに肩を揺らされ、もうひとりにはじっと見られるフジタ君。
「……スンマセンデシタ」
めちゃくちゃ小さい声で、明後日の方向を見ながら謝った。
「おーまーえーは!」
「あの、ほんとにもういいから。かき氷、食べにきたんだろ? 買いなよ。俺たちもう食べ終わるから、店の人が作ってる間にこのベンチ空くしさ」
「な?」と水野を見ると、機嫌が悪いときのショコラみたいな顔をしている。
それでも、かき氷がほぼ溶けていたからか、水野は最後に取っておいたらしいかき氷の白玉を食べ、赤い水になった残りを飲み干した。
フジタ君以外の三人が「さーせん」と言ってくれたのに頷き、俺もいちごミルクジュースになった元かき氷を飲み込む。
その間に水野がゴミ入れに白いカップ容器とプラスチックのスプーンを捨てにベンチを立った。
すると、水野が空けた場所に……つまり俺の隣に、フジタ君がドカンと座った。
なんか、全体的に圧がすごい。
俺は顔を見ていることができずに身を竦めた。
「俺、樹先輩のこと、マジなんで」
「……え?」
圧とは正反対に、ボソッと話しかけられた。聞き間違えかとフジタ君を見ると、ボソボソっと続ける。
「だからわかるんだよね、ホントに牽制が必要なヤツって。これまで男も数人いたし。でも先輩、ノーマルだから諦めて」
「な……」
声が出なかった。
フジタくんの「好き」は俺と同じ「好き」だ。
そして、可能性はなくても自分は諦めない。だがおまえは引き下がれ、そう目が物語っている。
「朋哉、食べ終わった?」
「おい、フジタ、何味にすんの?」
俺達の間に一瞬の沈黙が生まれると、水野とバレー部の人の声がスッと入ってきた。
「俺、ブルーハワイ」
フジタ君が立ち上がり、和菓子屋のおじさんのところに注文に向かう。
水野は俺の前にやってきながらフジタ君の背中を見て、次に俺の顔を覗き込んだ。
「朋哉、もしかして、またなんか言われた?」
「……いや。なんでも、ない」
いつの間にか握りしめていた片手の力を抜き、俺もかき氷の容器を捨てに向かう。
そのとき、バレー部の人たちの目が俺に向き、「さよーならー」と小さく会釈をされた。
フジタくんも同じように頭を下げたが、その目は笑っていない。 俺はサッと頭を下げ、すぐに彼らに背を向けた。
フジタ君が矢代君への思いを周囲に公言しているのかはわからない。
だけどたとえ皆に黙っていたとしても、俺にははっきりと宣告してきた。
俺はひと言も言い返せず、その隠さない強さから逃げてしまったのだった。
***
かき氷を食べた後は、水野に買い物に付き合ってもらっていた。
誕生日に音楽フェスに行くことになっているので、そのための買い物だ。
フェスに行くことを聞いたのは予行演習の日、矢代君の部屋でだった。
大きめのフェスで、俺でも知ってるアーティストが出るやつだ。
まさかフェスとは思っていなくて、行くのも初めてだった俺は、その場で該当のフェスをスマホ検索した。
そうしたら、チケット代がめちゃめちゃ高くて!
無理だと伝えたら、矢代君のお父さんがチケットをツテで貰っていて、大学生のお姉さんとじゃんけん大会の末に勝ち取ったやつだから行こう、と言ってくれた。
「――そのわりに、予行演習以来浮かない顔だよね。今なんて心ここにあらず」
「……へ? あ」
買い物のために入ったドラッグストアで水野に顔を覗き込まれ、我にかえる。
冷感タイプのボディシートを選んでいるつもりだったのに、俺が手に持っていたのは日焼け止めだった。
「いや、これも必要だよな! 日中の日差し、ヤバイし!」
「まあね。……で、なにがあったの」
水野は俺の挙動不審にはもう触れず、静かに見つめてくる。
「ぅ……その」
水野は過去の俺への気持ちを話してくれた。だから俺も自分の弱い部分を曝け出せる。
俺と水野が立っている陳列棚の付近に人の姿がないことを確認し、その場で打ち明け始めた。
「水野が教えてくれたように、誰が誰を好きになってもいいと思う。でもな、俺が矢代君を思う気持ちは、矢代君からの純粋な好意を裏切ってるような気がしてさ」
俺は日焼け止めをギュッと握りしめた。
水野はまだなにも答えてくれない。「だから?」と言われている気がした。
「……だから、好きだと思う気持ち、隠さないとって……。俺な、自分の気持ちはすぐに確定したんだ。それで、この気持ちを今後どうしていくか考えようと思ってたんだけど……予行演習をした日に、矢代君が今までよりずっと距離を縮めてくれてさ。嬉しい反面、これって俺が男友達だから安心してくれてるんだよな、って気づいて」
いつかの昼休みの会話のとき、はっきりと言ったわけじゃないけど矢代君は女子が苦手っぽい発言をしていた。
矢代君はイケメンだから、フジタ君の言うように女子に囲まれやすいのだろう。そして、少しのやり取りでも勘違いをする人がいて、一度ならず数度、困った経験があるのだろうと想像ができた。
「これってさ、俺が女子だったら絶対にないんだよ。俺が男友達だから肩に手を回したりとか手を繋いだりとか自然にできる。な、そう思うだろ?」
知らず知らず日やけ止めに落ちていた視線を水野に戻す。
すると、水野は額に手を当て、ややうつむいていた。
「水野? 気分でも悪くなった?」
「……違う、違うんだ。なんかもう、口を割りそうな己が辛み」
「んん?」
「深呼吸するから待ってて」
「あ、うん」
よくわからないが、スーハーと深呼吸をする水野を見て、俺も鼻から息を吸う。
話せたこともあるのか、ほんの少しだけどモヤモヤが消えた気がした。
水野が深呼吸を終え、話し始める。
「えっとね、朋哉の気持ち、半分わかる」
「半分?」
「うん。俺もね、朋哉を好きだって自覚したとき、気持ちをとても伝えられなかった。もし言ったとしても朋哉は避けたりはしないってわかってても、きっと今みたいな距離じゃいられないなくなるんだろうな、と思って」
(水野も俺と同じだったのか)
そう思っていると、水野の声が少し大きくなった。
「でもさ!」
「お、おう」
返事をしながら、あたりをキョロキョロと見回した。
今のところ周囲に来ている人はいないが、人差し指を口の前に立てて「静かにな」と示すと、水野も同じポーズを取ってから声を落とし、続ける。
「だからこそ、俺は朋哉からの友情の好意をたっぷり利用したよ。小学校の頃なんてベタベタくっつきまくりだったでしょ」
「いや……でもそれは小学生だからこそできたことだろ。今同じ状況ならベタベタするか?」
頭の中に小学生の頃の水野を浮かべながら答えた。
確かにあの頃の水野はまさにショコラにそっくりで、俺にくっついてはいたが。
「まあ、それ言われたらそうだけど、朋哉は恋愛幼稚園児だからよくない?」
「よくねーよ」
「まーいいじゃん。俺が思うにね。相手がくっついてきてくれるときって、その相手も『自分にもくっついてきて』と思ってると思うんだよ。ましてや矢代氏は……」
水野がそこで言葉を止め、口元にパッと手を当てた。
「矢代君がなに?」
「あー。えっと、その……あっ、犬。矢代氏もトイプー飼ってるんでしょ? なら属性が犬だろうなって。猫派の人って気まぐれだけど、犬派はワチャワチャするのが好きなんじゃないかっていう、俺の勝手なイメージ!」
水野が身振り手振りで言うのがどこか必死に見える。
俺は首をかしげつつも、『相手がくっついてくるときはくっついてほしいとき』というのはなんとなくわかるので頷いた。
「まあ、人によるだろうけど、矢代君はチームでやるスポーツをしてたし、あるかもな」
「でしょ。それで朋哉が我慢して引いちゃうと、きっと悲しいよ?」
「そうなのかなぁ」
そこはトンデモ理論のような気がしないでもなく、苦笑するものの水野は「絶対にそうだよ〜」と呑気に笑った。
根本的な解決はなにもしていないのだが、水野の明るさに救われる。
その後、必要なものを買い揃えていると、品定めの途中で水野がフジタ君を話題に出した。
「あのフジタって子、矢代氏が本当に好きなんだねぇ。だから矢代氏が退部した今でも番犬センサーがピンピンに立ってるんだろうね」
ドキッとした。
フジタ君と直接会話していない水野はフジタ君の『好き』をどういう意味で言ってるんだろう。
返事ができずに黙ってしまっていると、水野がニコッと笑った。
「俺もホラ、一応経験者だから。そういう矢印、感知しちゃうんだよね。というわけで朋哉」
「お、おう?」
「誰と一緒にいたいのか決めるのは矢代氏でしょ。矢代氏は今、朋哉といたいって思ってくれてるんだから、朋哉もそう思うなら考え込みすぎずに素直に喜んでなよ、ねっ」
パン、と背中を叩かれる。
胸の中に詰まっていたものも一緒に叩き出された気がした。
「ありがとな。詩愛瑠」
水野がトイプーではなく、キッズプログラミングのガイドキャラのシエルに見えてくる。
水野と親友になれてよかった、という口に出すにはこっ恥ずかしい言葉の代わりに、名前で呼んでみた。
「だからそれ、今更だってば。名前呼び、ココちゃんと矢代氏の前ではやめてよね」
ほんのちょっと頬を赤くした水野が肘でつついてくる。
「なんで矢代君?」
「ん? いやほら、仲がいい相手が自分以外を名前で呼んだりするとちょっと妬かない?」
「うーん? 俺は呼び方なんてなんでもいいと思うけど」
「……ノンデリ。恋愛幼稚園児」
「んん? なんで今それ言う?」
「なんででしょうねぇ。とりあえず、イジイジしてないで、ジャイアンに負けるのび太になってないで、頑張んな!」
俺の眼鏡のツルを人差し指でクイッと上げて言う水野。
ジャイアンとのび太とはフジタ君と俺のことか?
「ならおまえはミズエモンだな」
「万能じゃん」
そんな馬鹿なことを言いつつ別れた。
シエル、もといミズエモン、もとい水野に活を入れられた俺は、帰ってすぐに矢代君に電話を入れた。
『――三上?』
スマホを携帯していない人だから出ないかも、とも思ったのに、矢代君はすぐに電話に出てくれた。
それで一瞬怖気づきはしたものの、通じたからには逃げるわけにはいかない。
「うん。夕方にごめん。忙しい?」
『いや、大丈夫。オーキャン行ってて、その帰り。もう家のすぐ近く』
「そうなんだ。もう少ししてからかけ直す?」
『いや、このまま。なんか、あった?』
矢代君の声が怪訝そうな低い声になった。
俺がメッセージや通話を避けていたから気に病ませていたのだろうか。
「なにもないんだけど、フェスの準備、ちゃんとできた、って、なんか伝えたくて。買い物に誘ってくれてたのに、行けなかったから」
一緒に行くのも怖かったけど、塾の模擬テストの日だったから断ってしまっていたのだ。
『は……そっか。よかった。断られんのかと思って身構えた』
矢代君の声が息を吐くような声から明るい声に変わっていく。
「断るなんて! そんなことあるわけないよ。すごく楽しみなんだ」
『ホッとした。俺、電話とか誘いとか多くてウザかったかな、と思ってたからさ』
「そんなこと!」
わ、思ったよりも大きな声が出てしまった。
ゴクンと息を呑んで、多少でも気持ちを落ち着けてから続ける。
(大丈夫。矢代君は犬属性。こう言ってくれてるんだから俺も言って大丈夫。変なふうには取られない!)
「そんなこと、ない。電話もメッセも楽しい。ただ夏休みで生活が狂ってただけ、ごめん!」
ああ、また声が大きくなってしまった。
でも、電話の向こうで矢代君が「ふは」って笑ってくれたのがわかった。
『俺も三上と話すの、楽しい。明後日も、めちゃくちゃ楽しみ。っていうか、実はちょっと緊張もしてる』
「緊張?」
『ああ。誕生日祝い以外に、言いたいことがあるから。ちゃんと言えそうでよかった』
言いたいこと?
含みをもたせた言い方に、おかしな妄想をしてしまう。
男女の場合なら、どっちかの誕生日に遊びに行って、お祝い以外に伝えたいことがあると言われたら……?
『三上、聞いてる?』
「ぅあ、はい! 聞いてます!」
(俺のアホ! あるわけないだろ 俺たちは男だぞ!)
『そっか。じゃあさ、俺、もう言いたくて言いたくてヤバいから、この電話が終わったらメッセージだけにしとくな』
「えっ、なにそれ。いったいどんな話?」
……ドキ。
ドキドキ。
ドキドキドキ。
絶対に違うってわかっているのに、どこまでも含みを持たせる言い方に、俺の胸は勝手に高鳴る。
「だからその日まで秘密。俺がなにを言うか、予想してて」
「予想?」
そんなの、都合のいい、そしてあり得ない予想しかできない。
頼むから今もう言ってほしい。おかしな期待のままであと二日過ごすなんて爆死する。
だが、いつも優しい矢代君なのに今は無情だった。
「そ。俺のことを思い浮かべながら予想してて……っと、家、着いた。もう切るな」
「ええっ、待って」
「三上の頼みでもこれだけは無理。じゃあ、またメッセで」
「やし」
ろ君……と言いきる前に、本当に通話が切れてしまった。
胸が騒いで痛いくらいなのと、喉が焼けるような息苦しさを感じながら、通話の切れたスマホを見る。
ポシュン、とすぐに通知が来て、すぐに開くと矢代君からのスタンプ。
踊るトイプーに「またなー」の文字が付いていた。
言われなくても頭の中は矢代君でいっぱいで、ドキドキが落ち着かない俺はそれに返信をすることができなかったのだけれど。
***
そして、八月十五日。俺の誕生日の日になった。
昨日も本当にメッセだけのやり取りして、『言いたいこと』にはまったく触れずに今日の最終確認だけをした。
ただ、夜中の零時、もう今日だ。
矢代君が『通知音、切っておいてな。誕生日祝いのスタンプ送りたいから』と言ってくれて、誰よりも早く誕生日を祝ってくれた。
それでなくても今日が楽しみなのと緊張が重なって眠れなかったのに、俺は明け方まで目が冴えて眠れなくなってしまった。
「でもまあ、顔はいつもと同じだな」
いいのか悪いのか、いつもと同じ平凡な顔は睡眠不足を感じさせず、まさにいつもと同じ。
今日もコンタクトレンズにしようかとは思ったものの、家から遠い場所だからコンタクトレンズの不具合が生じてもよくない。
(いつもの俺で行こう。平常心!)
鏡の前で、矢代くんへの想いも過度な期待も封じ込める念を入れて家を出た。
ずいぶん早く待ち合わせ場所に着いてしまい、メッセージアプリを見ながら待つ。
今までのやり取り……予行演習前まではほとんど通話だったからそこまで多くないけど、いつも最後のしめくくりは『またな』。
誰とでも、当たり前の言葉だろう。
それでも、たった一度の短い間違いメッセージから、繋がることがなかったかもしれない矢代君との『また』があることは、俺にとっては特別を通り越して奇跡だ。
(いつまでも続きますように)
そう願っていると、スマホに矢代君からのメッセージが入った。
『もう着くけど、三上は?』
確認して、すぐに返信をする。
『俺も着いてる』
すると、またすぐにメッセージが入った。
『悪いけど、待ち合わせ場所変えて。駅の構内にいて。またメッセするから』
「え……」
どうしたんだろうとスマホから顔を上げると、少し先に矢代君の姿が見えた。人混みの中でも背が高いからすぐにわかる。ただ、誰かと話している様子だ。
目を凝らすと、人と人の間から矢代君と同じクラスの人の姿が見える。
男子がふたりに、女子もふたり……女子は矢代君に腕を絡めていた。
一瞬でわかった。
(俺と一緒だと知られたくないんだ)
駅へ行かなければ。
そう思うのに、足がうまく動かない。その間に距離が縮まってきて、俺は苦し紛れに待ち合わせ場所の時計柱の裏に隠れた。
(どうか見つかりませんように)
他にもたくさんの人が周囲にいるから大丈夫そうだが、息を潜めて様子を窺う。
矢代君たちも正面側に到着し、声が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、今からどこ行くの? タッキー最近付き合い悪いよ。ウチらとも遊ぼうよ」
「そーだよ。この夏全然遊んでねーじゃん。来年は受験一色になるんだからたまに付き合えよ~」
矢代君が皆に問われ、答える。
「今からもうやっとけよ。塾で何時間も勉強してるやつだっているんだぞ。てか、ほらもう行けって。俺、人と予定があるから」
「その人が来るまでいーじゃん。それまで暇でしょ。話そうよぅ」
女子の甘い声が続き、その言葉に、矢代君ではなく別の男子がその子に話しかけた。
「おまえ、タッキーにオンナの影がないか見たいんだろ」
「もぅ! 違うよ。あたしは別にぃ」
「カレン、タッキー好きだもんね」
「ちょっとぉ、ヒナまで。そこはそう、だけど」
「ははは、公開告白してんじゃん。タッキーどうすんの」
別の女子も男子も楽しそうに言い合っている。
(矢代君のこと、好きなんだ……女子はスルッと言えていいな)
胸がチクンと痛んだ。
矢代君はどう答えるんだろう。
「どうもしねぇよ。カレンのは本気じゃねぇだろ。手、どけろ」
「タッキーひっどぉ。本気だもん。タッキーの彼女にしてくれたらもっと好きになるし」
「はいはい。ないから。ぜったいないから。ほら行けって」
跳ね除けた。それでも、今はなくてもいつかは矢代君の彼女になれる可能性があるその子を名前で呼んだことが、思いのほか胸を締め付けた。
昨日水野に名前の呼び方なんてどうでもいいと言ったくせに……。
「しゃーねーな。んじゃ行くわ。あっ、でもさ。タッキーって夏休み明けも他クラスのやつと昼飯食うの?」
冷たい水を頭からかぶせられた気がした。
これって俺のことだ。知られてたのか?
……当たり前か。同じ学年だし、目立つ矢代君が他クラスで弁当を食べていることくらいすぐに広まるよな。
「そういやそうだ。ん? もしかして、今日の予定そいつだったりして?」
「マジで!? ねえ、あの地味男子とどういう繋がりなの?」
「え、ほんとにあいつと今日会うの? てかこれまでも遊んだりしてたとか?」
質問が重なるたびビクビクする。
今度こそ、矢代君はなんて答える……?
「うっさい」
第一声は強めの声。それから、煩わしそうな声が続いた、
「アイツじゃねーよ。全然別のやつ。だから早く行けって。お前らとは今度遊んでやるから」
……隠した。やっぱり俺と遊びに行くって知られたくないのか。
もしかして今日の言いたいことって、二学期からは昼飯食べるのやめようとか、そういうことだったりして。
思考がまた暗い方へ流れていく。矢代君を好きになってから気持ちの乱高下が激しい。
どうしよう、ここにいるのが辛い。この後、笑って「おはよう」と言えるだろうか。
スマホをギュッと握りしめる。
また皆の声が聞こえてくる。
「タッキー上からだなー」
「しゃーねえ。そろそろ行くわ。俺らも行くとこの予約あるし」
「じゃな、タッキー」
「おう、ちゃんと勉強もしろよ」
矢代君の声が普段のトーンに戻る。
皆は「真面目か」など言いつつ他の場所へと向かっていった。
(すぐ出たら、ここに隠れてたの、バレるよな。ちょっと待ってからにしよう)
その間に気持ちと顔を整えようと、浅く息を吸った。そのときだった。
「三上、待たせて悪かったな」
「えっ」
背後で声がして、振り仰ぐと矢代君がいる。
隠れてたの、知ってたのか?
「あの、あの、俺」
盗み聞きしていたことが恥ずかしく、聞いてしまった内容が辛い。口ごもってしまう。
だが、矢代君はからっと晴れた太陽のように明るい笑顔で言った。
「あいつら騒がしいから、今日じゃなくて学校で改めて紹介しようと思ってさ」
「……え?」
「それと。今日は三上の誕生日だから、学校の奴らの中で会うのも話すのも、俺だけがいいな、って思って」
「え……」
「あっ、もしかして、水野に先超された?」
「いや、水野からは朝にメッセージだけ」
「やった。今日三上と話せるのは俺だけだな。最高の気分」
「え……」
え、しか言えない。
それってどういう意味なんだ。
戸惑いと驚きで、それを声に出せずに唇だけ動かすと、矢代君は顔中に笑顔を咲かせた。
それこそ太陽が輝くように。
「誕生日おめでとう、三上。今日一緒にいられて嬉しい。来てくれて、ありがとな!」
(う、わ。)
目の前と胸の中が光でぱちぱち弾けてる。刺激が強すぎて、泣きそうになる。
(駄目だ、泣くな)
必死に我慢するものの、俺はぽろりと涙をこぼしてしまった。
「えっ? どうした。どっか痛む?」
矢代君は大焦りする。
俺はブンブンと頭を振って、手で頬を拭きながら笑顔を作った。
「お祝いが嬉しすぎて感動した! ありがとう!」
作った笑顔はもう本物の笑顔だ。嬉しい。本当に嬉しい。
コンタクトレンズをしてこなくて大正解。また涙が滲んできてしまう。
俺は眼鏡を外し、目元も拭いながら矢代君を見上げる。
すると、かぶっていた帽子のツバを降ろされた。
「そーいう顔、ここですんな」
「ええ? どういう顔」
いや、男の泣き顔なんてブサイクだ。というか、男が泣くなんてみっともないか。
俺はちゃんと涙を拭い取り、眼鏡をかけ直した。
帽子も整え、再び矢代君を見上げる。
矢代君は予行演習の日に見たのと同じで、目を泳がせて丸めた手の甲を口元に当てていた。
泳いでいた目が俺に戻る。次の瞬間、矢代君が俺の手を掬った。
「よし、行こ」
「えっ」
手を繋いだ状態で矢代君が足を踏み出した。
俺は「え」の連続だったが、俺を振り返った矢代君が「楽しもうな」とフワッと笑ってくれたから、俺の胸の中もフワッと軽くなった。
ほんと、気持ちが乱高下。
でもきっと今日は、このまま気持ちは高気圧だ。
俺は晴天の空の下、矢代君から手が離れないよう、その背中に付いていった。
フェスは最高に楽しかった。入場証のリストバンドも宝物になりそうだ。
ただ、俺は矢代君の『言いたいこと』が気になっていて、どこかソワソワしていた。
矢代君がそれを告白してくれたのは、夕飯のビフテキ丼を食べているときだ。
「俺、進路を確定したから三上に聞いてほしくて」
「進路」
「ああ」
進路……そうか、伝えたいことって進路のことだったのか!
(こ、告白とか、あるわけないってわかってたのに、自分が恥ずかしい~)
「……あの、どうして俺に?」
「言ったじゃん。三上のおかげで夢中になれるものを見つけようと思えたって。俺さ、高一の夏休み明けに事故に巻き込まれたって話したじゃん。あれ、膝の靭帯を傷つけちゃったんだよな」
矢代君はお茶を飲むと、当時のことを話してくれた。
その怪我が小学生から続けてきたバレーボールを辞める原因にはなったが、実はその前から膝に痛みを抱えていたこと。
それなのにメンバーから外されるのが怖くて、メンバーに迷惑をかけるのが怖くて……誰にも言わずに病院にも行かなかったこと。
「事故ったことで、それまで張り詰めていた糸が切れた感じがした。ああ、もう嘘をつかなくていいんだな。無理しなくていいんだな、ってそっちの方な。バレーを続けられない悔しさよりも、そう考えてホッとしてる自分が情けなかった。それで思いきって部活を辞めてみたら、クラスのやつらに誘われるようになって、それまでとはぜんぜん違う生活が最初は面白くて、楽で……甘んじてた。でも」
バレーの話になってから、ときどき宙に流れていた目がまた俺を捉えた。
並びのいい白い歯を見せて、矢代君が微笑む。
「三上に会った」
その言葉と微笑みに、胸の中にじわりとした熱が広がる。
「まさか情報の授業の課題で、バレーを純粋に楽しんでたときの自分とか、仲間を思い出すとは思わなかったな……三上、ほんと楽しそうに授業を受けてたよな」
「それは……結構恥ずかしい、かも」
「なんで。誇れよ。夏の特番で、頑張ってる人を見て頑張るってやつあるじゃん。俺は運動やってたけど、努力とか根性とかを人前で見せるっていうの苦手だし、ちょっと暑苦しいなって思う方なんだよな。だからかな、楽しそうにやってる姿の方がここに触れた」
自分の胸をポンと叩く矢代君。
俺はなんだか背中も胸もくすぐったくて、肩を竦めてはにかみ笑いをした。
「それで、進路はどうしたの? そう言えばオーキャンにも行ってたね」
「ああ。よく考えようと思って、ひとりで行ってじっくり聞いてきた。急だったから希望の大学じゃないけど、気持ちが決まった」
「職業を決めたってこと?」
問うと、矢代君が頷く。
「笑うなよ?」
「笑わないよ」
「俺、医者を目指すわ」
「えっ! お医者さん!?」
「ああ、スポーツ整形って分野があってさ。そっちに行きたい」
矢代君は自分もスポーツ整形の診察にかかったことを話してくれ、時代とともにきっと選手の復帰までの期間も早くなるだろうから、自分もその一助になりたいと思う、と力強く言った。
親御さんも喜び、大賛成してくれているそうだ。
「すごい。かっこいいよ。矢代君」
俺は心からそう言った。
矢代君は手を首の後ろに当てて照れ笑いをする。
「ま、医学部行くんならもっともっと頑張らないとな。でも塾も決めてきました! ってことで。報告終了。三上には親以外では一番に伝えたくてさ」
「そっかぁ……」
(確かにこれは予想外だったな。いや、ほんと、俺の予想はずかしっ)
だけど胸がいっぱいだ。自分が楽しんでいただけなのに、その姿で矢代君の力になれたなんて。
そして、俺に一番に伝えてくれるなんて。
朝の誕生祝いの言葉に続いて、最高のプレゼントだ。
「一番に教えてくれてありがとう。応援するね!」
「サンキュ」
俺は気になっていた『矢代君の言いたいこと』を知ることができて、満足した。
その後、日が暮れ始めた頃、会場のライトアップと共に夜の部が始まった。
俺たちは八時までを会場で過ごすことにしていたから、数人、数グループのサウンドに身を揺らして楽しんだ。
(全部思い出の曲になるな)
そう思いながらパンフを見る。
今はメッセージタイムの時間になっていた。
今日のフェスの感想をサイトで随時募集していて、動画サイトでも人気のピアノ演奏者が演奏している間に、それが読み上げられる時間だ。
中には恋人との初デートで来ることができて嬉しい、などもある。
(匿名だから、俺も好きな人と来ることができた、って書けばよかったかな)
似た感想だから弾かれただろうけど。
『――はい。次の感想です。これね、エモいのでよく聞いてくださいね〜』
パーソナリティのお姉さんの声がひときわ華やかになり、俺と矢代君は耳を澄ませた。
『今日は友達の誕生日で、誕生日の日をちょうだい、とお願いをして、ここに二人で来ました』
……えっ……。
忘れられない言葉が聞こえてきて、隣に立つ矢代君を見上げる。
矢代君は「お」と小さく言って一度瞬きすると、首をかしげるようにして俺に微笑みかけた。
『その友達は自分をしっかりと持ち、目標を持っている人でかっこいいです。一時期トラブルで目標を失った俺には、眩しく見えました』
間違いない。これ、矢代君の感想だ。いつの間に?
『それと、物静かに見えて、好きなもののことになるとよく話すし、表情がくるくる変わるのがとてもかわいかった。元気付けられました。ほぼ一目惚れに近かったです……きゃ〜素敵ですね!』
お姉さんが机をバンバンと叩く音がスピーカーから響き、会場からも楽しそうな声が上がっている。
「え……え……?」
俺の心臓は暴れ出していた。
頭の中にまで、お姉さんが叩く机の音よりも大きく鼓動が響いている。
(一目惚れ、って。え? え?)
『ただ、周囲とは違う形の好きだから、認めるのに時間がかかってなかなか確かめに行けなかった。でもある日、その人から間違えてスマホメッセージが来て、これはチャンスだと思いました……うわーエモい〜! まるでドラマじゃないですか!』
心臓が破れそうになる。足がガクガク震えてきた。
よろけてしまうと、すぐに矢代君が腰に手を回して支えてくれる。
『それで、昼食を一緒に食べようと誘って近づき、一緒に過ごすうちに気持ちを確信しました。だから、その人の誕生日でここに来れた今日、ここから先は、自分の口で伝えます……ちょ、もう、ほらっ、頑張れ! 応援してますよ〜! いけー! 成就しろ!』
お姉さんの拍手が聞こえて、会場からも拍手が上がる。
周囲の人たちがどの人だろうと頭を振っているのが見えた。
とはいえ多分、誰も俺達だとは気づかないだろう。男同士の俺たちに注目する人はいない。
でも……矢代君の瞳は俺を見ている。いつもの力のある瞳で、俺だけをじっと見つめている。
そして、腰を支えてくれたまま、ゆっくりと口を開いた。
「好きだ。三上のこと、好きだ」
「……!」
誕生日に、俺は生涯忘れられないプレゼントをもらった。
こんな幸せな誕生日はもう二度とないと思った。
――それは思い違いで、毎年幸せが積み重なることになったのだけれど。



