8月に入ってすぐ。
予行演習の日がやってきた。
矢代君が家に迎えに行こうかと言ってくれたが、目的地が俺の最寄り駅からも矢代君の最寄り駅からもさらに向こうだったのと、小中の校区が違う矢代君は当然俺の家を知らない。
そこまでしてもらうのは気が引けて、すぐに断った。
ていうか、高校生にもなって家まで友人が迎えに来るという感覚は俺にはない。
一軍の人たちの間ではポピュラーなのだろうか……。
(あ)
電車が矢代君の最寄り駅のホームに入った。
窓の外に視線を送っていると、一号車の乗降場所に矢代君が見える。
同じ電車の一号車を待ち合わせ場所にしよう、と示し合わせていたのだ。
電車が止まる。矢代君が俺のいる場所を見たのがわかった。
(あ、ちょっとびっくりしてる? 気づいた?)
実は今日の俺は、張り切ってコンタクトレンズをしている。
かっこいい矢代君の隣に並ぶのに、ちょっとでもブス成分を薄めたいと思ったのと、それと……。
前に、矢代君が俺の目がいいな、と言ってくれたから、ちょっとでも「いいな」って思ってほしくて……こっちの方が大きいかな。
好きな人に良く思われたい気持ちは、きっと誰でも持っているはずだ。
だからいつもより丁寧にヘアアイロンもしてきたし、Tシャツもいつも好んで着ている黒じゃなく、ユニセックスな形のピンク系を着た。
ピンク系なんて俺が? と思ったけど、今日遊びに行くことを水野に話したときに服の相談をしたら、柊木さん(水野の彼女のココちゃんだ)と三人で買い物に行くことになって、彼女がコーディネートをしてくれたのだ。
『三上君は色白だし、ちょっと中性的な雰囲気があるから絶対似合うって!』と。
そうだったのか。知らなかった……と水野を見ると、柊木さんにウンウン頷いていた。
そして、柊木さんは、ボトムスにはグレーのワイドパンツを勧めてくれた。
ただそれは流石に抵抗があり、もともと持っている濃い色のジーンズにしたのだが。
(おかしくないかな? 柊木さんの言うとおりグレーのパンツがよかった?)
ソワソワしながらドアが開くのを待つ。
やがてドアが開いて、矢代君は少し目を丸くしたまま俺の前に立った。
「おは、よ」
見上げて挨拶するものの、矢代君はまだ目を丸くして俺を見ている。
そんな矢代君は、裾に英字のプリントがある白Tシャツに黒のストレートパンツという出で立ちだ。そのシンプルさが矢代君のカッコよさを存分に引き出している。
本物のイケメンは違う……。
そう思いながら矢代君に見惚れていると、スイと視線を外された。
でも、首の裏に手のひらを当てながら、また俺の顔にスイと視線を戻した。
外が暑かったせいだろう、ちょっと頬が赤い。
「……眼鏡、ない」
矢代君がやっと喋った。小さい声でポツリとだけど。
「あ、うん、夏休みだし、ワンデーのコンタクトレンズしてきた。俺、すごいドライアイだから普段は使わないんだけど、今日は特別」
「特別」
どうした矢代君。
単語だけで話すの、初めて聞いたかも。それに、さっきからなんか目が泳いでる。
「……あっ、もしかして違和感ありすぎ? 変?」
そう言われてたとしても、今はコンタクトレンズを外すことはできないんだけど。
「ちがっ……」
あ、また目が合った……と思ったら横に流れた。
(でも今、違うって言いかけた?)
いいと思ってもらえなくても、せめて変でさえなければ、と期待を込めながら返事を待つ。
すると、矢代君は首の後ろに当てていた手を軽くグーにして、甲を口元に当てた。
頬が電車に乗ってきたときより赤い。身体が大きい分、弱冷房では暑さを逃せないんだろうか。
「っ、いい。今日の三上、いつもの倍ヤバい。外に連れて行きたくなくなる」
「んん?」
やっと俺を真っすぐに見て答えてくれたけど、結局どういう意味?
いいの、ヤバイの? どっちだ。
外に連れていきたくないということは、「いい」と思っていないのでは。……?
「なんでもない。三上、ちょっとこっち」
「んん?」
車内は混んでいなくて、俺たち以外の乗客は座っている。だから端っこという端っこに立っていなかったのだが、矢代君に軽く肩を押されて、出入り口ドアの脇の壁と座席の角のところに背を付けられた。
矢代君は俺の前に立ち、肘を曲げた状態で壁に手のひらを付ける。
どういう状態だ、これは。
めちゃくちゃ距離が近いんだが。そして俺からは景色がほぼ見えないのだが?
「矢代君?」
「二駅の間、守り切る」
「? ? ?」
矢代君は俺を子どもかなにかと勘違いしているのだろうか。
そうだとしても、満員電車でもないから誰かに潰される要素もないのだが?
(ていうか! 近すぎる!)
矢代君の家の柔軟剤だろうか、甘くて爽やかな香りが、俺の鼻をくすぐる。
(どうしよう、どうしよう)
よく考えなくても壁ドン状態(肘ドンか?)で、体温まで伝わってきそうな距離に、恥ずかしさで顔が熱くなる。めちゃくちゃドキドキする。
(静まれ俺の心臓)
珍しく矢代君が目線を少しずらしてくれているのが救いだ。
コンタクトレンズをしているために目をぎゅっと閉じることができない俺も、斜め下に視線をずらす。
ボディバッグを左胸の前にずらして抱きしめて、ドキドキと跳ねている心臓がバレないように、なんとか二駅をやり過ごした。
***
「うわ、こっちもすごい人だな」
商業施設内にある映画館で映画を見終わり、館内から出て商業ブースに足を踏み入れた途端、思わずと言ったように矢代君が声を漏らした。
俺は「うん」と頷いて返事をする。
「夏休み真っ只中だからかな。映画館もすごい人だったね」
俺たちが観たのは、俺が希望したホラーモキュメンタリー小説の映画化作品だったけど、混雑の主な原因は、一週間で前作の興行収入を大きく超えたアニメと、前評判から良かった映画の影響だ。
売店が回らないから臨時休業となり、ジュースもポップコーンも買えず、なんと館内の自販機も売り切れだった。
「喉乾いたな。店、行くか」
矢代君に促され、最近新しく入ったというハワイアンカフェに向かった。
雑誌で掲載されているらしく、エッグベネティクトなどという難しい名前の料理が人気なのだそうだ。
矢代君には大学生のお姉さんがいて、食べに行ったときの写真を見せてもらって良さそうだったから、と決めてくれた。
「――大行列だな」
飲食店は1階に立ち並び、外の通路に面している。
太陽が照りつける暑い中でも、店の中の待合スペースに入り切らない人たちが日傘や携帯ファンを持って外でズラリと並んでいた。
「ほんとだ。一時前でちょうど混雑時間だもんね。予約の時間って何時だっけ」
「予約……」
あれ? 矢代君の顔が曇ったぞ。もしかして。
「昼飯食うのに予約って、必要だっけ?」
「できたばかりのお店だと、そうかも」
「してない……」
口をあんぐりと開いた後、矢代君は顔の前でパン、と手を合わせた。
「ごめん!」
「いや、俺も事前に確認したらよかった」
今日も誕生日も矢代君が計画してくれるという話で、映画のチケット予約もしてくれていたから昼の予約を心配していなかった。
ただ俺だって、家族で出かけるときの予約担当をしていなかったら昼飯に予約が必要なんて思いもしなかったかもしれない。
高二の男同士で行く店と言ったらファーストフードにファミレス、ラーメン屋。予約不要な場所ばかりだ。
「どうすっか。これから並んでも一時間はかかるな」
「もっとかもね。他の店も……」
飲食店ブースだから視線を配れば他の店の状況もすぐわかる。どこも大行列だ。しかも並んでいる人のほとんどが予約客だろう。
そこで、ファーストフード店にする? と提案してみると、矢代君が答えたのは同意ではなく、別の提案だった。
「俺んち、行かねぇ?」
「………えっ」
突然の誘いに小さな驚きを抱き、矢代君を振り仰ぐ。
「外、暑さやばくね? 待ってるだけでもきつそう」
確かにそれはあった。
この夏は、熱中症警戒アラートが連日表示されている。
とはいえインドア派の俺はともかく、矢代君は慣れてるんじゃないのか?
(ていうか、矢代君の家?)
それは外で会うよりも、俺の家に来てもらうよりも、難易度が高くないか。
どうしよう。嬉しいけど、絶対テンパる。
「ほら三上、もう顔真っ赤。汗もかいてる」
「わ」
び、びっくりだ。
内心で焦っていると、矢代君の大きな手が俺に触れた。指の背側でそっと頬を撫で上げられている。
俺は慌ててボディバッグからタオルハンカチを取り出し、矢代君の指を拭こうとした。
「ごめん、矢代君の手、汚した!」
「汚れねぇよ」
ふ、っと微笑む矢代君。
スッと手を引っ込めた、と思ったら。
「こっちにも、汗」
そう言って、俺の反対側の頬にも指の背で触れた。
(うわー、うわー、うわー)
なにが起こってる? 叫び出しそう。こういうの、俺は水野としたことないけど、普通のこと? だって汗だぞ? 男の汗とか手で拭うもの? スポーツ選手界隈じゃ当たり前?
必死で動揺を隠していると、矢代君は俺の頬に指を当てたまま、目をじっと見つめた。
「俺の家、来てくれる?」
そんなのもう、ただただ頷くしかできないと思いませんか?
ドキドキマックスで、なにも言葉が出ないんだから。
そして、俺たちは電車に乗り直した。
商業施設を出る前に矢代君が奢ってくれたお茶がなかったら、ドキドキとこの暑さで顔から発火していたかもしれない。
熱を冷まし、喉を潤わせてくれたそのお茶は、たまに自分でも買うけどいつもより甘く感じた。
昼食は終業式の日のリベンジをしようぜ、と矢代君が言い、矢代君の家の近所のスーパーマルトモに向かう。
「今さらだけど、突然家にお邪魔するのって失礼じゃない? 連絡を入れておかなくていい?」
店内に入る前に気になって聞いてみた。
商業施設からマルトモまで移動してくる間、例のごとく矢代君は一度もスマホを触らなかった。
大丈夫だろうか。
「親、どっちも仕事。姉ちゃんも旅行でいねぇし。家にいるのはチョコだけだから気楽にして。あと、飲み物もデザートも用意してるから、買うのはメシだけでいいからな」
用意?
その言葉に違和感を感じつつ、誰もいない家に上がることがもっと気がかりで、俺は再度訊ねた。
「本当に大丈夫? 親御さんが知らないのにお邪魔するのって、かなり気が引けるんだけど」
「三上らしいな。大丈夫だって。もしかしたら家に呼ぶかも、って言ってあるから」
「そ、そっか……」
(そんなことも考えてくれてたんだ……)
「ああ。ほら、食いもん買おうぜ。腹減った。俺カツ丼にしようかな。三上はサンドイッチセットだよな」
カツ丼を持ってもかっこいい矢代君にニコッと微笑まれる。
「サンドイッチ……もしかして、修行式の日に水野が言ったこと、覚えてた?」
「当然」
さらっと言って俺より先にサンドイッチコーナーに向かい、俺の到着を待つ矢代君。
「どれ?」
俺の顔を覗き込みながらそう訊いてきて、「これ」と手を伸ばすと、俺より先にパッケージを手に取った。
「水野の好きなヤツ、覚えとく」
「ぅ、ん」
(ヤバい、ドキドキしてまともな返事ができない)
矢代君、君はどうしてそんなになにもかもが大人っぽくて包容力に溢れているんですか。
俺はもう、恋する乙女になりそうです。
……乙女になったことんかないからどんなものか知らんけど!
「じゃ、買ってくる」
カツ丼とサンドイッチを持った矢代君がレジの方向へ身体を向けた。
エセ乙女になっている場合ではない。
「待って待って、自分の分は自分で払うから」
「いいよ。俺のせいで昼食が遅くなったから、お詫び」
『サンドイッチを渡して』、という意味で手を伸ばすと、そんなことを言う。
だが、これは譲れない。俺たちの高校はアルバイトが禁止だから、矢代君が使うお金はお小遣いのはずだ。
ただ、これを口で言うと矢代君の厚意を否定している気がするので、俺は『伝われ』の気持ちで矢代君の目をじっと見た。
俺には矢代君のような眼力はないが、今日は眼鏡がないからいつもよりはあるはず……!
じーっ。
イケメンの目を見続ける俺の方が恥ずかしくなってくるけど、見つめ続けてみる。
すると。
「……たまんねぇな」
矢代君が目線を泳がせ、ポツリと声を漏らした。
ただしその声は、俺にはほとんど聞きとることができなかった。
「ん?」
なんて言ったんだろうと首をかしげると、矢代君は「なんでもない」と言ってサンドイッチを渡してくれる。
そして、カツ丼だけを持ってそそくさと有人のレジへ進む。
(嫌な気持ちにさせたのかも)
そう気になりながら、俺は電子マネー専用の自動レジで精算を終え、矢代君の姿を探した。
矢代君は精算を先に終えていて、スッと手を上げて存在を知らせてくれる。
フワッとした笑顔付きだ。
「家、行こ」
俺のすぐ目の前まで来て、またフワッと笑ってくれる。
ああ。もう。
本当に、矢代君のこの包容力……たまりません。俺は語彙力崩壊で、身体の力も抜けてしまいそうです。
とはいえ、矢代家に近づいているんだと思うとやっぱり緊張してくる。
矢代君は部活で仲間もいたし、今も一軍メンバーにいる。だから遊びに出かけた流れで家に人を誘うことはよくあるんだろうけど、俺には中学以降初めてのことだった。
水野の言葉を借りるわけじゃないけど、これは俺にとって「特別なこと」だ。
ますます緊張が高まっていく。
訪れた矢代家はマンションで、矢代君が玄関に入ると、リビングルームと思われるドアの隙間からチョコちゃんが現れた。
そのかわいい姿に、緊張がわずかにほぐれる。
「ただいま、チョコ」
チョコちゃんを片手でひょいと抱き上げる矢代君。
俺の家のショコラと同じくらいの大きさだけど、矢代君が抱き上げると小さく見えた。
「かわいい。写真、撮っていい?」
「ああ」
すぐにスマホを用意する。カメラをチョコちゃんに向けて……少し身体を引いて矢代君も入れてカメラをタップ。
「あ、今俺も入れただろ」
「バレた」
「やられた。どんなん?」
矢代君が撮った画像を覗こうとする。
俺はスマホを自分の胸に押し当てた。
「消せって言わない?」
「写りによる。それと……」
矢代君の顔がもっと近づく。ドキッとしていると、耳の近くで囁くように言われた。
「三上の写真と交換な。この後撮らせて」
「ひっ……だ、駄目っす」
思わず小さく叫びそうになった。慌てて声を飲み込んで、小さく首を振る。
「なんで」
「ブスだから。矢代君みたいにかっこよければいくらだって撮らせるよ」
「ふーん……俺って三上から見てかっこいいの?」
顔を傾けて、間近で俺の顔を覗き込んでくる。
やばい、眩しい、めちゃめちゃかっこいいです。
だけど、眩しすぎて目線を矢代君に向けていられない。床を見つめながらの返事になってしまう。
「……かっこいいよ。矢代君、みんなからも言われてるだろ」
「みんなは知らん。どうでもいい。けど、三上がそう思ってくれるのはうれしい。今日みたいに遊びの計画がさんざんでも、カッコ悪くない?」
「っ全然、全然だよ。矢代君はいっつもカッコいいって!」
あっ、勢いで顔を戻してしまった。
そうしたら矢代君の顔がすごく近くにあって。
フワッ……目の前でいつもの柔らかい笑みが零れた。
「スマホ、貸して」
「え、あ」
矢代君が床に買い物袋を置き、俺の手からスルッとスマホを抜き去る。
少し操作をすると、俺の背中から腕を回し、身体同士が密接した状態で自撮りをした。
矢代君の腕が長いからか、矢代君とチョコちゃんと俺が、綺麗に一枚に収まる。
だけど、俺の顔、びっくり目になってる。めちゃくちゃダサい。
「ちょ、これはっ」
「ふ。三上、かわいい」
「……はっ?」
うわっ、顔を横に向けたら矢代君の横顔が真横にあって、鼻がくっつきそうになった。
でもまだ肩を抱かれたみたいになってて、逃げられない。
(どうしよ)
ひとまず顔を前に向け直そうとすると、チョコちゃんが矢代君の腕からピョコッと下りた。
「チョコ、戻んのか?」
チョコちゃんは矢代君の声には振り返らず、テテテ、とリビングルームに戻っていった。
そのおかげで密着状態から抜けられたものの、ドキドキはいっこうに収まらない。
「後で写真送ってな。部屋いこ」
スマホを返され、背中をポンと、叩かれた。
背中に汗をじんわりとかいてるの、バレなかっただろうか。
部屋に進む矢代君の、ピンと伸びた広い背中を見る。
動揺しっぱなしの俺だけど、矢代君はどうなんだろう。
男をサラッとかわいいなんて言って、肩に腕を回して密着して写真を撮って……うん、全然普通みたいだな。
バレーボールをやっていたし、一軍ならこんなコミュニケーションの取り方も、当たり前か。
そう思いながら、握っていたままのスマホの画像に視線を落とす。
チョコちゃんは可愛く、矢代君はやっぱりかっこいい。
矢代君が嬉しそうに見えるの、気のせいじゃなければいいな。
俺はやっぱりブスに写っていたけど、矢代君の写真を手に入れたことが嬉しかった。
加工アプリを使う時がやってきたのだろうけど、もったいないからそのままにしておこう。
そう思いながら、矢代君のスマホに画像を送信した。
そして、足を踏み入れた矢代君の部屋は、目を見張るほど整頓されていた。
勉強机の上のものは大きさや高さを揃えて並べられ、ベッドも売り場の展示品みたいに整えられている。
「すごい。いつもこんなに綺麗にしてるの?」
「うん? いやまあ、最近三日くらいかけて掃除したから。あ、そこ座って待ってて。飲むものとか取ってくる」
ベッドと勉強机の間のローテーブル。そこに平たいクッションがふたつ敷いてあって、ドアから半分出ている状態の矢代君の指はそこを指している。
何度目かになる「お邪魔します」を言って座らせてもらうと、改めて部屋の様子が見えた。
棚には長期連載の人気コミックに、参考書。中学のときのものだろうか、寄せ書きされたバレーボール。
それらが勉強机同様、きれいに並べられている。
(矢代君は年末じゃなくて夏に大掃除するのかな?)
どこもかしこも整然とした様子にそんなことをぼんやりと考えていると、矢代君が部屋に戻ってきた。
開いたままだったドアを片方の肩で押して部屋に入ってくる。
片脇には大きいペットボトルのお茶と炭酸ジュース二本を器用に抱え、もう一方の片手にはトレイを持っていた。
「手伝うよ」
「ん。じゃあ、こっち頼む」
顎で示されたのはトレイだ。
そこには高級そうなシュークリームがふたつ、きれいなガラス皿に載せられている。
「それ、食後のデザートな」
「えっ、でもこれって、矢代君の家の人が食べるやつなんじゃない?」
「いや? 頼んで買ってきてもらったやつ。三上、カスタードクリーム好きだろ? あとで食お」
頼んで? 【もしかしたら】誘うかも、くらいだった相手のために?
それに、それに……。
「……なんで知ってんの。カスタードクリームが好きだって」
「最初にメシ食った日、クリームパンチョイスしてたから」
「ああ……なるほど……」
納得……いや、納得でいいのか? えっと。あれ? なんか考えること、多くないか?
だが、考える間もなく矢代君が俺の隣に座った。ペットボトル二本を俺に見せる。
「どっち」
「炭酸で」
「ん。三上は炭酸が好み、と」
そう言うと、矢代君は「ドボドボドボ」と、グラスに豪快にジュースを注いだ。
炭酸がパチパチと弾け、ジュースが少しだけグラスの外側に零れて、ローテーブルが濡れる。
「っと。ごめん、そこのティッシュ取って」
顎で示され、ベッド棚に置いてあるティッシュを取って拭いた。
(矢代君、豪快というか、意外と大雑把)
大人っぽい矢代君の高校生らしいところが見えた。
親近感を覚えて、つい矢代君の顔を観ながら顔を綻ばせてしまう。
すると。
「矢代君、溢れる!」
「んっ? お、やべっ」
矢代君がもう一方のグラスに注いでいたジュースがジュワッと溢れた。
ふたりで交互にティッシュを取り合って、慌ててテーブルを拭く。
拭き終わると、俺はまた口元が緩むのを自覚した。ニヒヒ、と笑って矢代君に言う。
「矢代君の意外なところ、見た感じ。矢代君もそそっかしいとき、あるんだな」
「誰のせいだと……」
「ん?」
矢代君が手の甲を口元に当て視線を泳がせる。
電車の中でもこんな顔してたな、と思いながら首をかしげると、矢代君は口元から手を下ろし、手のひらを上に向けて開いた。
「それ貰う」
テーブルを拭いたティッシュのことだ。
「うん」
俺は矢代君の大きくて指の長い手にそっとそれを置いた。
その直後、ティッシュからまだ離れていない手をギュッと握られた。
「えっ、なに」
「イタズラ」
「……っ」
しっかりと手を包み込まれた状態で、ニヤッと笑われる。
やばいやばいやばい。
手の中が湿っていくけど、これは拭き取ったジュースだけじゃなく、絶対に俺の手汗もある。
(どうしよう、どう反応したら)
固まっていると、矢代君は今度は「ふは」と息を漏らして笑った。
「手、拭いてやる」
そう言って、手を握ったまま立ち上がる。
勉強机の上にワンタッチのウエットティッシュボックスがあって、そこから数枚抜き取ると、俺の手を丁寧に丁寧に拭いてくれた。
「三上の手、ちっこいな。かわいい」
「っ、みんなこれくらいだろ。矢代君の手が大きいだけだよ」
「そっか」
ぺたり、と手のひらを合わされる。
「やっぱかわいい」
「…っ」
なにこれ、すんげぇ恥ずかしい。
イタズラとか、何回もかわいいとか……どうしたんですか、矢代君。
なんか今日の矢代君、朝から距離が近くないですか?
でも……俺も水野と部屋にいるときはそうかも。
素手で汗を拭かれるとか、手を拭いてやる、とかは流石にないけど、学校とは違うリラックスした空間で、一個のイスにふたりで座ってパソコンゲームの画面を見ることもあるし、疲れたらベッドに並んで寝転ぶこともある。
(よし、大丈夫。水野との方がまだ距離が近い!)
なにが大丈夫なのかって、ドキドキしないために自分にそう言い聞かせているのだ。平常心でいないと変にぎこちなくなってしまう。
――だけど。
(……ダメだ、水野といるときとは全然違う)
ひとつの行動を取っても、友人と好きな人でここまで気持ちの揺れが違うなんて知らなかった。
学校よりも近い距離で隣合って、目が合って、矢代君の肩や手が俺に触れるたびに、胸の奥がギュッと締め付けられる。
(矢代君が好きだ)
その実感が身体の奥で熱い塊になって、どんどん膨らんでいくのがわかる。
言葉に出ていなくても、全身から思いが溢れ出して伝わってしまいそう。
矢代君がふわっと笑うともう抑えられそうになくて、俺は手を強く握りしめた。
(出るな、外に出るな、俺の気持ち)
矢代君は俺が男友達だから、警戒なく距離を詰めてくれているのだ。
俺が矢代君に恋してるなんて、思いもしないだろう。
だから部屋にも呼べる。俺のことを知りたいと熱心に話しかけてくれる。俺が話せば優しく笑ってくれる。
安心しきってる……男友達だから。
こんなに楽しくて幸せな時間なのに、頭の隅から後ろめたい気持ちが生まれてくる。
俺は矢代君をただの友達なんて思ってない。思えない。
――ちょっと優しくすると勘違いして。
フジタ君の言葉もまた頭に浮かんでくる。
俺は、勘違いはしていない。矢代君が友達以上の感情を持つことは決してないとわかってる。
だけど、自分の中の気持ちはどんどん膨らんでいく。
自分から矢代君の大きな手に触れてみたい。矢代君の友人たちのように、名前で呼んでみたい……もっと、もっと近づきたい。
そんな欲張りな気持ちを持ってしまう。
「俺さ、高校になって部屋に人を呼んだの、実は三上が初めて。来てもらえて嬉しかった。めちゃくちゃ楽しかった」
帰りにチョコちゃんと一緒に駅まで送ってくれた矢代君が、改札に入る寸前にそんなことを言った。
この場所で言われてよかった。矢代君の部屋の中で言われていたら、きっと変に思われた。
俺は、ホームに下りるために矢代君に背を向けた途端、情けなくも涙を浮かべたから。
好きな気持ちが、こんなにも切ないなんて知らなかった。言えない気持ちが、こんなにも苦しいなんて、知らなかった。
(これからも気持ちを隠し通せるか? ……しないと)
だから俺は、この日以降、スマホメッセージの交換はするけど通話をそれとなく断った。
用事もないくせに、誕生日までにまた遊びに行こうというせっかくの誘いも断った。
矢代君との日々をこれからも持ち続けたいなら、この気持ちを絶対に知られてはならない。



