午後二時前。
俺は私服に着替えもせず、結局食事もせず、帰宅してから『同性への恋愛感情』『男が男を好きになる理由』などをパソコンで猛検索している。
気持ちを自覚したときは初めての感情に浮き立っていたのだろうか。自分では今日までなんの違和感も持たなかった。
「……ソースが少なすぎる」
眼鏡を外して、ふう、と息をひとつ落としたときだった。
ベッドの上に置いたスマホが振動した。
(っ、矢代君?)
俺は肩をビクリと揺らし、危険生物にでも近寄るがごとくそろそろとスマホを取りに向かう。
だが、違った。ポップアップに表示されたアイコンは水野のものだった。
俺と矢代君が一緒にいると疑っていないメッセージだ。
『楽しんでる~?』
(いえ、まったくです)
心の中でそう呟きながらベッドに座り、スマホを操作する。
『逃げてきてしもた』
せめて情けなくならないように、エセ関西弁を使ってみる。
水野からすぐに返ってきたのは、『みずのびっくり」と文字が書かれたスタンプだった。
その後に『どゆこと』、『逃げた?』、『もしかして迫られちゃった?』がポンポンポンと続く。
(なんでやねーん)
なにを迫られると言うんや。
『食いもん、三上が金払えや』とか?
矢代くんに限ってありえんやろ。
内心でエセ関西弁ひとりツッコミ大会をしながら返信を打つ。
『どう言っていいのかわからん。矢代君と俺って釣り合わんなと改めて思たんや』
送信。
すぐに返信。
『もしかして、ふたりでいるところを一組の人たちになんか言われた?』
『いや、そうじゃないんだけど』
『わかったいまからいく』
「えっ?」
急いで打って平仮名になったと思われるそのメッセージを最後に、『行くってどこへ』、『おーい水野』と送信しても既読は付かない。
まさか、と思っていると、十五分もしないうちに家のチャイムが鳴った。
「あら、水野君。今日は来ないのかと思った。朋哉~、水野君来てるよ~!」
母親は今日はパートが休みで家にいる。
応対した母親のその声に「まさか」が命中したことを悟りつつ、階段を下りて玄関へと向かう。
自転車を走らせてきたのだろう。髪を乱し、汗でシャツを濡らした水野が玄関に立っていた。
「こんにちは、お邪魔します」
「はぁい、どうぞ~」
水野は切らした息を整えつつ、まず初めに母親に挨拶をする。
母親は俺たちに少し待つよう告げ、いったんリビングルームに戻ると、麦茶の入ったグラスとビッグプリンがふたつずつ載ったトレイをすぐに持ってきた。
俺はそれを受け取り、水野と共に自室に戻る。
水野は部屋に着くなり、立ったままグラスを掴んでグビグビと飲み干した。
「で、なにがあったの?」
トイプーに似た奥目で俺に視線を定める水野。普段はゆるキャラ系だが三人の弟がいるせいか、中学二年くらいからここぞってときは目に力強さがある。
かと言って自分の気持ちを話すわけにもいかず、なにも悪くない矢代君のことも、水野が直接知らないフジタ君のことを話すこともできない。
……ひどい言われようだったが、間違いじゃないし……。
俺はひとまず勉強机兼パソコンデスクにトレイを置いた。
そのとき、二十四インチのデスクトップパソコンの画面が目に入った。
「あっ」
パソコンの画面には、【同性を好きになったきっかけ〜僕の場合〜】というタイトルで、男性二人が手を繋いでいるイラストがバーン! と表示されている。
バッと水野を振り返ると、水野の奥目はしっかりと画面を見ていた。
「あ、あの、えっとこれはっ」
やばい。なんの言い訳も出てこない。文章にならない言葉ばかりが出てくる。
すると、水野は「朋哉、落ち着いて」と両手を胸の前に出し、続けた。
「あの、ちょっと聞くけど、矢代氏に告白されたり、した?」
「はっ? なにをっ」
この画面を見た上でなぜそんなことを。
(あっ! そうか。俺が逃げてきたと言ったから、男に告白されて驚いて逃げてきたんだと誤解してるんだな?)
矢代君の名誉のために撤回しなくては!
「矢代君じゃねえよ」
「じゃあ、朋哉が?」
「へっ」
「朋哉が矢代氏を好きだって自覚して告ったらまさかのお断りでしたとかそういうこと!?」
「だーーーー! 違う、違う、違うって……ん?」
畳み掛けてくる水野に抗いながらも、俺の頭の回路が今の水野の言葉の一部をすくい上げる。
『好きだって自覚した』……?
そして、今朝の会話も脳裏に蘇ってくる。
『誕生日のデート』、『ふたりの世界を邪魔したりしないんだ』
なんて、そんなことを言ってきた水野……。
俺はあのとき、水野は俺の矢代くんへの想いを察しているんじゃないかと思ったのに、チャイムが鳴ったから聞きそびれたままだった。
俺はゴクリと息を呑み下した。
水野を見つめる。
水野もじっと俺を見つめている。
(そうだ。水野は昔から俺のことについて察しがいい)
だが、やはり俺のことについてのみだ。他は間違えている。
「あのな、水野」
「うん」
「俺な、あれ、俺のことなんだ」
俺は水野と顔を合わせたまま、右手の指だけを背後のパソコンに向けた。
「うん」
水野は驚かない。やっぱり察していたのか。
「俺な、矢代君のこと、好き、らしくて」
「うん」
カミングアウトをして、流れるように頷いてもらうと、言葉は次々と出た。
堰を切ったように、とはこういうことかもしれない。
「でも、俺って矢代君に釣り当ってない、とか。それ以前に話すようになってからまだ一か月も経ってないのに矢代くんを好きになってる俺ってなんだ、とか、相手は男じゃないか、とかなんかもう頭ン中がグルグルグルグルしてきて……自爆した」
「そう思うきっかけがあったの?」
水野が床に正座する。アイコンタクトで促され、俺も対面で正座をした。
「ぅ……まあ、ちょっと。それについては突っ込まないでくれ」
「矢代氏になにか言われたりされたりしたわけじゃないんだね?」
「もちろんだ。矢代君はそんな人じゃない」
「じゃあ他の人に『そんな』ことを指摘されたんだね?」
「ぅ」
頭にフジタ君を思い浮かべつつ口ごもる。
水野は「そっかぁ」と頷いてから続けた。
「朋哉が昔から同じ場所にいない人について話さないの、わかってるからこれ以上は突っ込まないね。だから朋哉のグルグルに関してだけ言うけど」
水野が俺の太ももをぽん、と叩いた。
「なにがいけないんだよ」
「え……」
「人を好きになる理由ってそれぞれなんじゃないの? 脊髄反射みたいに人を好きになる人もいる。長いこと一緒にいて好きになる人もいる。顔がいいとか声がいいとか、話を聞いてくれたとか、好みが同じとか……それこそSNS投稿に一回だけイイネをもらったことがきっかけで、とか、人それぞれでしょ。好きになった時間も日数もそれぞれじゃないの?」
「でも相手が男……」
「それはねえ、矢代氏にあの臨戦態勢で来られたら勝てないでしょ」
「ん? なんだって?」
水野が『矢代がどうの』と言ったが、呟くように声が小さく、聞き取れなかったので問い返す。
「あ、いやいや。本人がいないのに話題に出すのは俺もやめておくね。その代わりに言っちゃうとさ」
水野がにこっと笑った。一拍の間を置き、また続ける。
「俺ね、実は朋哉のこと、好きだったの」
「……ぇつ?」
目を瞬く俺。
『好き』とは。
この流れでの『好き』って『ライク』じゃないよな?
水野は俺の内心を察したようで、躊躇いなく言ってのけた。
「うん。友達としてじゃなくね、恋の好き」
「え? う? え? だって水野、彼女が」
「うん。朋哉のことを好きだったのは中一の途中までだからね。俺だって当時は戸惑ったんだ。それで、ココちゃんに話を聞いてもらううちに気持ちが変化していった。こういう好きのなりかたもあるんだよ」
ココちゃんというのは水野の彼女の『柊木心音』さんのことだ。彼女もおなじ小中だったから俺もよく知っている。だが馴れ初めは知らなかった。
水野は彼女のことも交えつつ、俺への過去の気持ちを話してくれた。
水野は小学生の頃、クラスで悪ふざけの常習犯的な生徒からからかわれやすかった。
水野のお母さんは外国の人で、そのお母さんに容姿が似ている水野は当時女子にも見える容姿で、赤茶色のふわふわくせ毛は黒い髪の子どもたちの中で目立っていた。
そして、名前だ。
水野の名前は『詩愛瑠』。世間一般の枠の中ではキラキラネームと受け止められやすい名前だ。
小学校では友人に呼びかけるとき、「姓+さん」で呼ぶよう指導されていたが、休み時間まで守る子どもは少ない。水野はなにかあっちゃ「ガイジン(お母さんの出身国名)』、『オトコオンナシエル』など、先生のいないところで囃し立てられ、容姿もからかわれていた。
「でも朋哉だけは絶対に俺を『水野』って呼んでくれた。それと、初めて俺を『友達の家』に招待してくれた。あっ、ココちゃんは赤ちゃんの頃からの幼馴染だから別枠ね」
「お、おう」
水野の言う『友達の家』とは俺の家のことだ。
水野は揶揄われていたが、明確ないじめがあったわけじゃない。事実、俺以外でも『水野』と呼ぶ生徒がちゃんといたし、グループ行動で仲間外れをされるなんてこともなかった。
だけど、水野のお母さんは日本語を話せないことを理由に学校のPTA関連にまったく不参加だったり、夜の仕事をしているという噂が母親たちの間にあって(それは結局夜間のライン製造工場だったのだが)、親たちは水野と遊ばないように、というような暗黙の指示を出していた。
ただ俺の母親は、良く言えば大らか、悪く言えば無頓着な人で、覚えている範囲ではママさんたちの噂話に加わったことがない。
俺の学校生活や友人関係で判断が必要なときは、俺が楽しそうかそうでないかで判断する人だった。
そして俺は、三年生で初めて同じクラスになった水野の容姿がとても好きだった。
水野は髪の色や瞳が我が家の愛犬ショコラにそっくりで、なにより俺が幼稚園のときに初めて使用したプログラミングソフトのガイドキャラクター、『シエル』という名の天使そのものだった。
だから愛着を持って『シエル君』と呼びかけてみたいと思ったこともあったが、名前のために学校で揶揄われてきた水野の心中を思うとできなくて、結局今まで一度も名前で呼んだことがない。
それでも家族で食卓を囲むときには名前のことも含めて話題に出していて──母親も父親も家に遊びに来てもらえば? と言ってくれて、水野を誘った。
……とまあ、そんな歴史が俺と水野にはある。
あるが。
「それのどこに俺を好きになる要素があった……?」
「だからぁ。『一緒に遊ぼうよ』って、朋哉が笑って言ってくれた。初めて家に誘ってくれた。それだけでドキドキしたよ。それで家にお邪魔したら、朋哉が言いにくそうに、だけど顔を赤くして『シエル』のことを教えてくれた。そのとき、心臓にトスッと矢が刺さったんだよ」
「? ? ?」
「うーわー。わからんって顔してる」
水野がケラケラと笑う。
「いや、わからんだろ。たったそれだけで……あ……」
「あ。わかった? そう、たったそれだけのことなんだ。他人からすれば。でも俺にとっては特別なことだったんだよ。朋哉もそうだったんじゃないのかなぁ」
そう言われて、胸の中にじんわりと灯るものがあった。
俺との絡みが一度しかなかったのに、たった一通の間違いメッセージでたくさんのパンを買ってきてくれた矢代君。
目をちゃんと見て、俺のペースに合わせて話してくれて、俺の熱中していることや目標をかっこいいって言ってくれた。だから話したかったんだと教えてくれた。
他の人とはしないというメッセージのやりとりを毎日のようにして、 通話もしてくれた。
他人からすれば、『それだけのこと』だったと思う。
でも俺には驚きの連続で新鮮で、とてもとても特別で。
「じゃあ、いいのかな。特別な気持ちを持ってても、いいのかな」
「いいに決まってるじゃん。てか、駄目だって言う人いるなら、俺はその意見を知りたいけどね」
真剣に(?)胸をときめかせている俺に対して、どこまでも呑気で陽気な水野。
もう正座をやめて足を崩したので、俺もそうした。
俺たちはあぐらをかき、リラックスしながら話す。
「でもさ、やっぱほら、男が男にって……これはどうなんだ? ていうか、水野、俺のこと好きだったくせに心変わりかよ」
「あれ? そのまま好きでいてほしかった?」
「違うわトンチキめ。結局おまえのは「ライク」だったんじゃないかって、そういうこと」
「わー。朋哉、普段はどこまでも気を遣う人なのに、恋にはノンデリだねぇ。幼稚園児かな?」
「なんだと?」
軽くむくれると、水野にプスッと頬をつつかれた。
「俺、朋哉が他の人と話すのも嫌だったよ。遊ぶのも俺とだけがよかった。それと朋哉は気を遣って俺の名前を呼ばなかったけど、俺は朋哉になら呼んでほしくて、六年生になったら『三上君』をやめてみた。でも朋哉は『水野』のままで、悲しくて泣いちゃうくらいには好きだった」
「名前のことくらい言えし……」
「ひど。覚えてないんだ。小学校の卒業式で、『ねぇ朋哉、俺、いつまで水野なの?』って聞いたじゃん。そしたら朋哉、『水野は水野って感じ。もうこの方が呼びやすい』って笑って流したんだから!」
「え、そうだっけ」
「そうだよ」
うーん。覚えてない。
だけど、ふと最近の記憶が頭をよぎった。
矢代君のとの電話のとき……『いつまで俺、矢代君?』そう言われた。
(え? あれって?)
ボワンと顔が熱くなる。
(いや、あれは違うよな?)
ひとりでドギマギしていると、水野がまた話し始めていた。
「それで、脈なしだなって、落ち込む毎日に突入しててね」
そうだ。今は水野のことだ。
俺は冷えたペットボトルを取り、ごくんとひと口飲み込んで熱を冷ます。
「それでココちゃんに話を聞いてもらったところに戻るんだけど、ココちゃんは俺の気持ちを少しも否定せずに、まるごと受け入れてくれたの。その積み重ねかな。ココちゃんはずっと俺を好きでいてくれたみたいだから、情にも動かされちゃった」
へへ、と頭をかくと、水野は最後にこう付け加えた。
「あのね、同性だからとか異性だからとか、日数が短いとか長いとか、誰かに恋をする理由に正解はないんじゃないかと思うんだ。俺みたいに気持ちが変化することも少なくはないと思う。朋哉への気持ちはちゃんと恋だったよ? でも今はココちゃんが好き。大切。だから朋哉もね、今は理由とか性別とか考え込み過ぎずに、好きだと思う気持ちを確かめていったらいいんじゃないかな?」
親友の水野の言葉は、知らない人が書いたネットの情報よりも俺を納得させ、安心させてくれる。
「うん……ありがと……詩愛瑠」
ちょっと名前を言ってみる。が。
「「きもっつ」」
ふたりの声が揃った。
「今さらだね」
「だろ? 水野はやっぱ水野だな」
「うん」
そう言い合ったところで、俺のスマホがまたブブッと振動し、通知を知らせた。
ベッドの上に放り投げっぱなしだったスマホを急いで取る。
現在時刻十五時十二分の表示があるスマホに表示されたポップアップ通知は、矢代君からのメッセージの知らせだ。
「矢代氏から?」
「うん」
ワンテンポ遅れて立ち上がった水野に返事をして、トークアプリを開く。
送信されていたのは『今話せる?』。
それだけ。
だからこそ、矢代君がメッセージではなく通話を求めていることが伝わった。
「水野」
「了解。俺、帰るね」
「あっ、プリン持ってって」
「ありがと。じゃあね」
多くの会話をせずとも、俺の気持ちを察してくれた水野は左手にプリンを持ち、右手でガッツポーズを作って出ていった。
階下での「水野君もう帰るの?」「またゆっくり来ます。お邪魔しましたぁ」というやりとりを耳にしながら、「えいっ」と矢代君との画面の音声通話マークをタップする。
『三上!』
ワンコールあったかなかったかくらいで、すぐに反応があった。
声が焦っているように聞こえる。
「うん。あの、さっきは急に帰ってごめん」
『体調、悪くなった? それか、後輩の言葉で気分……悪くするよな。気になって』
俺たちの声はほぼ重なっていた。
矢代君にずいぶんと心配をかけてしまったようだ。
「後輩くんは関係ないよ。腹がさ、急に痛くなって。クーラーの効いた部屋で腹を出して寝てるからかも。でも家に着いたら治ってた。カッコわるいよな。マジでごめん」
嘘は良くないけど、心配をかけない程度の体調不良を装うのが一番無難な気がする。
俺はできるだけ明るく言って、最後に「はは」と自嘲的に笑ってみせた。
だが、矢代君は無言だ。
(疑ってる?)
「あの、すぐにメッセージを入れたら良かったんだよな。俺、痛みが引いたら安心して、部屋でボケっとなってたんだ」
『……はぁぁぁ』
大きなため息が聞こえてきた。
でもこれは、呆れたため息じゃないのがなんとなくわかる。
だって矢代君だ。本当に心配してくれていたんだ。
きっと今、安心して脱力して、座り込んでるんじゃないだろうか。
「心配かけてごめん! もう全然大丈夫だから」
『ん……なら良かった』
声。優しい。
囁くような声が鼓膜と心臓を震わせる。
矢代君は声もかっこよすぎるのだ。
こんなことでも「好き」を実感して自然と瞼をぎゅっと閉じてしまっていると、矢代君が続けて話した。
『三上があんなに早く走れるなんて、新たなギャップの発見に二重で驚いて、一瞬固まってたわ、俺』
三上くんがクスッと笑う。
息遣いのようなその音が聞こえて、背中がソワソワしてむず痒くなる。
「あは……恥ずかしい。猛スピードで消えたよね、俺」
『ん……それでも追いかけようとはしたんだ。でも俺さ、三上が走っていった方向に行ったことなくて……三上の家、知らねえし、途中でどっちに曲がればいいかわからんくなった。そうやってモタモタやってたら中学のときの先輩に出くわして、長話になってさ。それで開放されてからの、今。全部言い訳だけどな』
「そんなっ、言い訳なんて思わないよ。追いかけようとしてくれて、連絡も俺からしないとなのに、してくれて……ありがと」
先輩に捕まらなければ、きっと矢代君はすぐに連絡をしてくれるつもりだったんだろう。
今も、先輩と別れたその場で電話をかけてくれてるんだってわかる。
さっきから矢代君の電話から外のガヤガヤした音が少し聞こえてくるから。
優しいな、嬉しいな。
真っ直ぐで誠実な矢代君。
頭の中に、目を合わせて話してくれるいつもの矢代君の顔が鮮明に浮かんでくる。
(……好きだな)
日々を重ねて気持ちを確かめる必要はなさそうだ。
俺の矢代君への好きは、特別な好き、だ。
そのことにもう戸惑いはなく、初めて恋愛感情を持った自分に感動さえしたりして。
今後この気持ちをどうしたらいいのかはわからない。水野いわく俺は恋愛幼稚園児らしいから、こっちをゆっくりと考えていこう。
『……あのさ、三上』
「あ、はい」
(っと、自分の世界に入ってた。恋ってやべぇ。ふわふわの雲の上にいた)
ビデオ通話じゃないけど、緩んでいた頬を引き締める。
『三上の家…………やっぱいいや。えっと、誕生日』
「あ、うん」
なんだろう、他になにか言いかけた?
ふとそう思ったものの、電話って割り込むタイミングが難しい。話は続いていく。
『誕生日のことだけどさ、今日があっても誘うつもりだった。誕生日の予行演習、しないか?』
「予行演習?」
『そ。誕生日に行くところはもう決めてるんだけど、俺たちってお互いのことをまだ知り始めたばかりだろ? だから、好きな食べ物とか、飲み物とか、よく行く場所とか、行きたいところ、見たいもの、えーと、後は……あぁ、もうめんどくぇ』
「ええっ?」
突然の「めどくせぇ」に驚いて声を出すと、矢代君が早口になった。
『三上のこともっと知りたいんだよ俺が。誕生日を最高の一日にしたいから知りたい。だから予行演習に付き合ってくれ』
うっそ。なんだそれ。
心臓がやばい。どっくどっくしてる。俺のこの音、聞こえてないよな?
俺は服の上から左胸を握り込んだ。
ホントさ、もう、矢代君。そういうところ。
俺は男だからこれが熱い友情が始まる合図だって思えるけど、女の子相手なら恋愛リアリティーショーが始まっちゃうよ?
……いや、俺は男だけど、恋を始めてしまっている。
でもさ。
――ちょっと優しくすると勘違いするオンナとかいて。
大丈夫だよ、フジタくん。好きになっただけで、俺は男だから勘違いしたりはしない。物語の主人公を目指したりはしない。
矢代君は真っ直ぐで誠実な人だから、俺という新しい友人に真摯に向き合おうとしてくれてるの、ちゃんとわかってるんだ。
俺はちゃんと自分の気持ちの持って行き先を考えるからさ。
だから。
だから今はただ、矢代君との時間の幸せに浸らせてくれ。
俺は私服に着替えもせず、結局食事もせず、帰宅してから『同性への恋愛感情』『男が男を好きになる理由』などをパソコンで猛検索している。
気持ちを自覚したときは初めての感情に浮き立っていたのだろうか。自分では今日までなんの違和感も持たなかった。
「……ソースが少なすぎる」
眼鏡を外して、ふう、と息をひとつ落としたときだった。
ベッドの上に置いたスマホが振動した。
(っ、矢代君?)
俺は肩をビクリと揺らし、危険生物にでも近寄るがごとくそろそろとスマホを取りに向かう。
だが、違った。ポップアップに表示されたアイコンは水野のものだった。
俺と矢代君が一緒にいると疑っていないメッセージだ。
『楽しんでる~?』
(いえ、まったくです)
心の中でそう呟きながらベッドに座り、スマホを操作する。
『逃げてきてしもた』
せめて情けなくならないように、エセ関西弁を使ってみる。
水野からすぐに返ってきたのは、『みずのびっくり」と文字が書かれたスタンプだった。
その後に『どゆこと』、『逃げた?』、『もしかして迫られちゃった?』がポンポンポンと続く。
(なんでやねーん)
なにを迫られると言うんや。
『食いもん、三上が金払えや』とか?
矢代くんに限ってありえんやろ。
内心でエセ関西弁ひとりツッコミ大会をしながら返信を打つ。
『どう言っていいのかわからん。矢代君と俺って釣り合わんなと改めて思たんや』
送信。
すぐに返信。
『もしかして、ふたりでいるところを一組の人たちになんか言われた?』
『いや、そうじゃないんだけど』
『わかったいまからいく』
「えっ?」
急いで打って平仮名になったと思われるそのメッセージを最後に、『行くってどこへ』、『おーい水野』と送信しても既読は付かない。
まさか、と思っていると、十五分もしないうちに家のチャイムが鳴った。
「あら、水野君。今日は来ないのかと思った。朋哉~、水野君来てるよ~!」
母親は今日はパートが休みで家にいる。
応対した母親のその声に「まさか」が命中したことを悟りつつ、階段を下りて玄関へと向かう。
自転車を走らせてきたのだろう。髪を乱し、汗でシャツを濡らした水野が玄関に立っていた。
「こんにちは、お邪魔します」
「はぁい、どうぞ~」
水野は切らした息を整えつつ、まず初めに母親に挨拶をする。
母親は俺たちに少し待つよう告げ、いったんリビングルームに戻ると、麦茶の入ったグラスとビッグプリンがふたつずつ載ったトレイをすぐに持ってきた。
俺はそれを受け取り、水野と共に自室に戻る。
水野は部屋に着くなり、立ったままグラスを掴んでグビグビと飲み干した。
「で、なにがあったの?」
トイプーに似た奥目で俺に視線を定める水野。普段はゆるキャラ系だが三人の弟がいるせいか、中学二年くらいからここぞってときは目に力強さがある。
かと言って自分の気持ちを話すわけにもいかず、なにも悪くない矢代君のことも、水野が直接知らないフジタ君のことを話すこともできない。
……ひどい言われようだったが、間違いじゃないし……。
俺はひとまず勉強机兼パソコンデスクにトレイを置いた。
そのとき、二十四インチのデスクトップパソコンの画面が目に入った。
「あっ」
パソコンの画面には、【同性を好きになったきっかけ〜僕の場合〜】というタイトルで、男性二人が手を繋いでいるイラストがバーン! と表示されている。
バッと水野を振り返ると、水野の奥目はしっかりと画面を見ていた。
「あ、あの、えっとこれはっ」
やばい。なんの言い訳も出てこない。文章にならない言葉ばかりが出てくる。
すると、水野は「朋哉、落ち着いて」と両手を胸の前に出し、続けた。
「あの、ちょっと聞くけど、矢代氏に告白されたり、した?」
「はっ? なにをっ」
この画面を見た上でなぜそんなことを。
(あっ! そうか。俺が逃げてきたと言ったから、男に告白されて驚いて逃げてきたんだと誤解してるんだな?)
矢代君の名誉のために撤回しなくては!
「矢代君じゃねえよ」
「じゃあ、朋哉が?」
「へっ」
「朋哉が矢代氏を好きだって自覚して告ったらまさかのお断りでしたとかそういうこと!?」
「だーーーー! 違う、違う、違うって……ん?」
畳み掛けてくる水野に抗いながらも、俺の頭の回路が今の水野の言葉の一部をすくい上げる。
『好きだって自覚した』……?
そして、今朝の会話も脳裏に蘇ってくる。
『誕生日のデート』、『ふたりの世界を邪魔したりしないんだ』
なんて、そんなことを言ってきた水野……。
俺はあのとき、水野は俺の矢代くんへの想いを察しているんじゃないかと思ったのに、チャイムが鳴ったから聞きそびれたままだった。
俺はゴクリと息を呑み下した。
水野を見つめる。
水野もじっと俺を見つめている。
(そうだ。水野は昔から俺のことについて察しがいい)
だが、やはり俺のことについてのみだ。他は間違えている。
「あのな、水野」
「うん」
「俺な、あれ、俺のことなんだ」
俺は水野と顔を合わせたまま、右手の指だけを背後のパソコンに向けた。
「うん」
水野は驚かない。やっぱり察していたのか。
「俺な、矢代君のこと、好き、らしくて」
「うん」
カミングアウトをして、流れるように頷いてもらうと、言葉は次々と出た。
堰を切ったように、とはこういうことかもしれない。
「でも、俺って矢代君に釣り当ってない、とか。それ以前に話すようになってからまだ一か月も経ってないのに矢代くんを好きになってる俺ってなんだ、とか、相手は男じゃないか、とかなんかもう頭ン中がグルグルグルグルしてきて……自爆した」
「そう思うきっかけがあったの?」
水野が床に正座する。アイコンタクトで促され、俺も対面で正座をした。
「ぅ……まあ、ちょっと。それについては突っ込まないでくれ」
「矢代氏になにか言われたりされたりしたわけじゃないんだね?」
「もちろんだ。矢代君はそんな人じゃない」
「じゃあ他の人に『そんな』ことを指摘されたんだね?」
「ぅ」
頭にフジタ君を思い浮かべつつ口ごもる。
水野は「そっかぁ」と頷いてから続けた。
「朋哉が昔から同じ場所にいない人について話さないの、わかってるからこれ以上は突っ込まないね。だから朋哉のグルグルに関してだけ言うけど」
水野が俺の太ももをぽん、と叩いた。
「なにがいけないんだよ」
「え……」
「人を好きになる理由ってそれぞれなんじゃないの? 脊髄反射みたいに人を好きになる人もいる。長いこと一緒にいて好きになる人もいる。顔がいいとか声がいいとか、話を聞いてくれたとか、好みが同じとか……それこそSNS投稿に一回だけイイネをもらったことがきっかけで、とか、人それぞれでしょ。好きになった時間も日数もそれぞれじゃないの?」
「でも相手が男……」
「それはねえ、矢代氏にあの臨戦態勢で来られたら勝てないでしょ」
「ん? なんだって?」
水野が『矢代がどうの』と言ったが、呟くように声が小さく、聞き取れなかったので問い返す。
「あ、いやいや。本人がいないのに話題に出すのは俺もやめておくね。その代わりに言っちゃうとさ」
水野がにこっと笑った。一拍の間を置き、また続ける。
「俺ね、実は朋哉のこと、好きだったの」
「……ぇつ?」
目を瞬く俺。
『好き』とは。
この流れでの『好き』って『ライク』じゃないよな?
水野は俺の内心を察したようで、躊躇いなく言ってのけた。
「うん。友達としてじゃなくね、恋の好き」
「え? う? え? だって水野、彼女が」
「うん。朋哉のことを好きだったのは中一の途中までだからね。俺だって当時は戸惑ったんだ。それで、ココちゃんに話を聞いてもらううちに気持ちが変化していった。こういう好きのなりかたもあるんだよ」
ココちゃんというのは水野の彼女の『柊木心音』さんのことだ。彼女もおなじ小中だったから俺もよく知っている。だが馴れ初めは知らなかった。
水野は彼女のことも交えつつ、俺への過去の気持ちを話してくれた。
水野は小学生の頃、クラスで悪ふざけの常習犯的な生徒からからかわれやすかった。
水野のお母さんは外国の人で、そのお母さんに容姿が似ている水野は当時女子にも見える容姿で、赤茶色のふわふわくせ毛は黒い髪の子どもたちの中で目立っていた。
そして、名前だ。
水野の名前は『詩愛瑠』。世間一般の枠の中ではキラキラネームと受け止められやすい名前だ。
小学校では友人に呼びかけるとき、「姓+さん」で呼ぶよう指導されていたが、休み時間まで守る子どもは少ない。水野はなにかあっちゃ「ガイジン(お母さんの出身国名)』、『オトコオンナシエル』など、先生のいないところで囃し立てられ、容姿もからかわれていた。
「でも朋哉だけは絶対に俺を『水野』って呼んでくれた。それと、初めて俺を『友達の家』に招待してくれた。あっ、ココちゃんは赤ちゃんの頃からの幼馴染だから別枠ね」
「お、おう」
水野の言う『友達の家』とは俺の家のことだ。
水野は揶揄われていたが、明確ないじめがあったわけじゃない。事実、俺以外でも『水野』と呼ぶ生徒がちゃんといたし、グループ行動で仲間外れをされるなんてこともなかった。
だけど、水野のお母さんは日本語を話せないことを理由に学校のPTA関連にまったく不参加だったり、夜の仕事をしているという噂が母親たちの間にあって(それは結局夜間のライン製造工場だったのだが)、親たちは水野と遊ばないように、というような暗黙の指示を出していた。
ただ俺の母親は、良く言えば大らか、悪く言えば無頓着な人で、覚えている範囲ではママさんたちの噂話に加わったことがない。
俺の学校生活や友人関係で判断が必要なときは、俺が楽しそうかそうでないかで判断する人だった。
そして俺は、三年生で初めて同じクラスになった水野の容姿がとても好きだった。
水野は髪の色や瞳が我が家の愛犬ショコラにそっくりで、なにより俺が幼稚園のときに初めて使用したプログラミングソフトのガイドキャラクター、『シエル』という名の天使そのものだった。
だから愛着を持って『シエル君』と呼びかけてみたいと思ったこともあったが、名前のために学校で揶揄われてきた水野の心中を思うとできなくて、結局今まで一度も名前で呼んだことがない。
それでも家族で食卓を囲むときには名前のことも含めて話題に出していて──母親も父親も家に遊びに来てもらえば? と言ってくれて、水野を誘った。
……とまあ、そんな歴史が俺と水野にはある。
あるが。
「それのどこに俺を好きになる要素があった……?」
「だからぁ。『一緒に遊ぼうよ』って、朋哉が笑って言ってくれた。初めて家に誘ってくれた。それだけでドキドキしたよ。それで家にお邪魔したら、朋哉が言いにくそうに、だけど顔を赤くして『シエル』のことを教えてくれた。そのとき、心臓にトスッと矢が刺さったんだよ」
「? ? ?」
「うーわー。わからんって顔してる」
水野がケラケラと笑う。
「いや、わからんだろ。たったそれだけで……あ……」
「あ。わかった? そう、たったそれだけのことなんだ。他人からすれば。でも俺にとっては特別なことだったんだよ。朋哉もそうだったんじゃないのかなぁ」
そう言われて、胸の中にじんわりと灯るものがあった。
俺との絡みが一度しかなかったのに、たった一通の間違いメッセージでたくさんのパンを買ってきてくれた矢代君。
目をちゃんと見て、俺のペースに合わせて話してくれて、俺の熱中していることや目標をかっこいいって言ってくれた。だから話したかったんだと教えてくれた。
他の人とはしないというメッセージのやりとりを毎日のようにして、 通話もしてくれた。
他人からすれば、『それだけのこと』だったと思う。
でも俺には驚きの連続で新鮮で、とてもとても特別で。
「じゃあ、いいのかな。特別な気持ちを持ってても、いいのかな」
「いいに決まってるじゃん。てか、駄目だって言う人いるなら、俺はその意見を知りたいけどね」
真剣に(?)胸をときめかせている俺に対して、どこまでも呑気で陽気な水野。
もう正座をやめて足を崩したので、俺もそうした。
俺たちはあぐらをかき、リラックスしながら話す。
「でもさ、やっぱほら、男が男にって……これはどうなんだ? ていうか、水野、俺のこと好きだったくせに心変わりかよ」
「あれ? そのまま好きでいてほしかった?」
「違うわトンチキめ。結局おまえのは「ライク」だったんじゃないかって、そういうこと」
「わー。朋哉、普段はどこまでも気を遣う人なのに、恋にはノンデリだねぇ。幼稚園児かな?」
「なんだと?」
軽くむくれると、水野にプスッと頬をつつかれた。
「俺、朋哉が他の人と話すのも嫌だったよ。遊ぶのも俺とだけがよかった。それと朋哉は気を遣って俺の名前を呼ばなかったけど、俺は朋哉になら呼んでほしくて、六年生になったら『三上君』をやめてみた。でも朋哉は『水野』のままで、悲しくて泣いちゃうくらいには好きだった」
「名前のことくらい言えし……」
「ひど。覚えてないんだ。小学校の卒業式で、『ねぇ朋哉、俺、いつまで水野なの?』って聞いたじゃん。そしたら朋哉、『水野は水野って感じ。もうこの方が呼びやすい』って笑って流したんだから!」
「え、そうだっけ」
「そうだよ」
うーん。覚えてない。
だけど、ふと最近の記憶が頭をよぎった。
矢代君のとの電話のとき……『いつまで俺、矢代君?』そう言われた。
(え? あれって?)
ボワンと顔が熱くなる。
(いや、あれは違うよな?)
ひとりでドギマギしていると、水野がまた話し始めていた。
「それで、脈なしだなって、落ち込む毎日に突入しててね」
そうだ。今は水野のことだ。
俺は冷えたペットボトルを取り、ごくんとひと口飲み込んで熱を冷ます。
「それでココちゃんに話を聞いてもらったところに戻るんだけど、ココちゃんは俺の気持ちを少しも否定せずに、まるごと受け入れてくれたの。その積み重ねかな。ココちゃんはずっと俺を好きでいてくれたみたいだから、情にも動かされちゃった」
へへ、と頭をかくと、水野は最後にこう付け加えた。
「あのね、同性だからとか異性だからとか、日数が短いとか長いとか、誰かに恋をする理由に正解はないんじゃないかと思うんだ。俺みたいに気持ちが変化することも少なくはないと思う。朋哉への気持ちはちゃんと恋だったよ? でも今はココちゃんが好き。大切。だから朋哉もね、今は理由とか性別とか考え込み過ぎずに、好きだと思う気持ちを確かめていったらいいんじゃないかな?」
親友の水野の言葉は、知らない人が書いたネットの情報よりも俺を納得させ、安心させてくれる。
「うん……ありがと……詩愛瑠」
ちょっと名前を言ってみる。が。
「「きもっつ」」
ふたりの声が揃った。
「今さらだね」
「だろ? 水野はやっぱ水野だな」
「うん」
そう言い合ったところで、俺のスマホがまたブブッと振動し、通知を知らせた。
ベッドの上に放り投げっぱなしだったスマホを急いで取る。
現在時刻十五時十二分の表示があるスマホに表示されたポップアップ通知は、矢代君からのメッセージの知らせだ。
「矢代氏から?」
「うん」
ワンテンポ遅れて立ち上がった水野に返事をして、トークアプリを開く。
送信されていたのは『今話せる?』。
それだけ。
だからこそ、矢代君がメッセージではなく通話を求めていることが伝わった。
「水野」
「了解。俺、帰るね」
「あっ、プリン持ってって」
「ありがと。じゃあね」
多くの会話をせずとも、俺の気持ちを察してくれた水野は左手にプリンを持ち、右手でガッツポーズを作って出ていった。
階下での「水野君もう帰るの?」「またゆっくり来ます。お邪魔しましたぁ」というやりとりを耳にしながら、「えいっ」と矢代君との画面の音声通話マークをタップする。
『三上!』
ワンコールあったかなかったかくらいで、すぐに反応があった。
声が焦っているように聞こえる。
「うん。あの、さっきは急に帰ってごめん」
『体調、悪くなった? それか、後輩の言葉で気分……悪くするよな。気になって』
俺たちの声はほぼ重なっていた。
矢代君にずいぶんと心配をかけてしまったようだ。
「後輩くんは関係ないよ。腹がさ、急に痛くなって。クーラーの効いた部屋で腹を出して寝てるからかも。でも家に着いたら治ってた。カッコわるいよな。マジでごめん」
嘘は良くないけど、心配をかけない程度の体調不良を装うのが一番無難な気がする。
俺はできるだけ明るく言って、最後に「はは」と自嘲的に笑ってみせた。
だが、矢代君は無言だ。
(疑ってる?)
「あの、すぐにメッセージを入れたら良かったんだよな。俺、痛みが引いたら安心して、部屋でボケっとなってたんだ」
『……はぁぁぁ』
大きなため息が聞こえてきた。
でもこれは、呆れたため息じゃないのがなんとなくわかる。
だって矢代君だ。本当に心配してくれていたんだ。
きっと今、安心して脱力して、座り込んでるんじゃないだろうか。
「心配かけてごめん! もう全然大丈夫だから」
『ん……なら良かった』
声。優しい。
囁くような声が鼓膜と心臓を震わせる。
矢代君は声もかっこよすぎるのだ。
こんなことでも「好き」を実感して自然と瞼をぎゅっと閉じてしまっていると、矢代君が続けて話した。
『三上があんなに早く走れるなんて、新たなギャップの発見に二重で驚いて、一瞬固まってたわ、俺』
三上くんがクスッと笑う。
息遣いのようなその音が聞こえて、背中がソワソワしてむず痒くなる。
「あは……恥ずかしい。猛スピードで消えたよね、俺」
『ん……それでも追いかけようとはしたんだ。でも俺さ、三上が走っていった方向に行ったことなくて……三上の家、知らねえし、途中でどっちに曲がればいいかわからんくなった。そうやってモタモタやってたら中学のときの先輩に出くわして、長話になってさ。それで開放されてからの、今。全部言い訳だけどな』
「そんなっ、言い訳なんて思わないよ。追いかけようとしてくれて、連絡も俺からしないとなのに、してくれて……ありがと」
先輩に捕まらなければ、きっと矢代君はすぐに連絡をしてくれるつもりだったんだろう。
今も、先輩と別れたその場で電話をかけてくれてるんだってわかる。
さっきから矢代君の電話から外のガヤガヤした音が少し聞こえてくるから。
優しいな、嬉しいな。
真っ直ぐで誠実な矢代君。
頭の中に、目を合わせて話してくれるいつもの矢代君の顔が鮮明に浮かんでくる。
(……好きだな)
日々を重ねて気持ちを確かめる必要はなさそうだ。
俺の矢代君への好きは、特別な好き、だ。
そのことにもう戸惑いはなく、初めて恋愛感情を持った自分に感動さえしたりして。
今後この気持ちをどうしたらいいのかはわからない。水野いわく俺は恋愛幼稚園児らしいから、こっちをゆっくりと考えていこう。
『……あのさ、三上』
「あ、はい」
(っと、自分の世界に入ってた。恋ってやべぇ。ふわふわの雲の上にいた)
ビデオ通話じゃないけど、緩んでいた頬を引き締める。
『三上の家…………やっぱいいや。えっと、誕生日』
「あ、うん」
なんだろう、他になにか言いかけた?
ふとそう思ったものの、電話って割り込むタイミングが難しい。話は続いていく。
『誕生日のことだけどさ、今日があっても誘うつもりだった。誕生日の予行演習、しないか?』
「予行演習?」
『そ。誕生日に行くところはもう決めてるんだけど、俺たちってお互いのことをまだ知り始めたばかりだろ? だから、好きな食べ物とか、飲み物とか、よく行く場所とか、行きたいところ、見たいもの、えーと、後は……あぁ、もうめんどくぇ』
「ええっ?」
突然の「めどくせぇ」に驚いて声を出すと、矢代君が早口になった。
『三上のこともっと知りたいんだよ俺が。誕生日を最高の一日にしたいから知りたい。だから予行演習に付き合ってくれ』
うっそ。なんだそれ。
心臓がやばい。どっくどっくしてる。俺のこの音、聞こえてないよな?
俺は服の上から左胸を握り込んだ。
ホントさ、もう、矢代君。そういうところ。
俺は男だからこれが熱い友情が始まる合図だって思えるけど、女の子相手なら恋愛リアリティーショーが始まっちゃうよ?
……いや、俺は男だけど、恋を始めてしまっている。
でもさ。
――ちょっと優しくすると勘違いするオンナとかいて。
大丈夫だよ、フジタくん。好きになっただけで、俺は男だから勘違いしたりはしない。物語の主人公を目指したりはしない。
矢代君は真っ直ぐで誠実な人だから、俺という新しい友人に真摯に向き合おうとしてくれてるの、ちゃんとわかってるんだ。
俺はちゃんと自分の気持ちの持って行き先を考えるからさ。
だから。
だから今はただ、矢代君との時間の幸せに浸らせてくれ。



