恋を自覚してから、目に映るもの全部が鮮やかに見える。
眼鏡を外してもクリアに見えるんじゃないだろうか……やってみても、もちろん駄目だったが。
教室ってこんなにキレイだったっけ。
水野ってこんなにキラキラしてたっけ。
「おまえもなかなかのイケメンだったんだな」
終業式の日の登校後、「朋哉、おはよ〜」と寄ってきてくれた水野に挨拶を返す前にポツリとそう漏らすと、水野は「ひぇ」と小さく叫んで俺の肩を揺らした。
「朋哉、矢代氏のイケメンを見すぎてエフェクト発動してるっ。あのね、頼むから矢代氏の前で俺のことに触れないでよねっ。イケメンに睨まれんの、まじキツイんだから!」
「はぁ?」
水野が意味わからんことを言っている。
矢代君は人と目を合わせこそすれ、睨んだりしないぞ。
(でも……矢代君はキリッとした顔立ちだから、真剣な目で見つめられるとあの眼力に射殺されるのはある……ぅ、うぁああぁ)
矢代君の顔を鮮明に思い浮かべたために、頭と顔に熱が集まった。火が出そう。
と、その時、スラックスのポケットの中でブブっとスマホが震えた。
俺は急いでスマホを確認する。
予想したとおり、メッセージアプリの通知だ。
【樹】の名前が表示された、トイプーアイコン付きのポップアップをタップした。
『おはよ。終業式だってのに、今朝はチョコがなかなか離れてくれなくてギリギリ登校』
チョコちゃんと矢代君の(首から下と手)のツーショット写真付きだ!
(チョコちゃんかっわいー、矢代君の手、やっぱデカくて大人っぽいなー)
チョコちゃんも矢代くんの手もキラキラが倍増して見える……いや、これは本当にエフェクトがかかってるんだな。
矢代君は写真加工もしない人だったのだが、バージョン豊かな写真加工アプリがあるのだと伝えたら使い始めたのだ。
とかいう俺も、アプリを入れていても使うような写真を撮ったことはなかったのだけれど……。
(誕生日は加工したくなる写真が取れるかな。取れるといいな)
そんなことを考えながら写真を見ていると、もう一通メッセージが入った。
『放課後って空いてるか? 空いてたら、一緒に帰らん?』
「うぉ」
思いもよらなかった誘いに声が漏れた。水野が「なになに」と画面を覗いてくる。
続いて水野は、「おひょ」とへんな声を出した。
俺はスマホの画面をそのままに、水野のその顔をそっと覗いた。
なぜかというと、放課後は水野と近所のスーパー・マルトモでバラエティサンドイッチセットと硬いグミにポテチ、炭酸ジュースを買って帰り、その後は俺の家でゲームをする約束をしていたからだ。
クラスの半数は固まってファーストフード店で食べ、カラオケやボーリングに向かうけど、俺と水野はこれがいつもの終業式の過ごし方だった。
(――俺、今、なに考えた?)
ハッとした。
矢代君への返事を保留にして水野の顔を見るなんて、水野よりも矢代君と約束したいと思ったんじゃないか。
(最低野郎か、俺は。恋ってこえぇ)
慌ててスマホ画面に目を戻し、『ごめん』と打とうと親指を動かしたときだった。
「行っておいでよ」
水野がポンッと肩を叩いてきた。
「え、いや、俺は」
「多分、ていうか、確実に、矢代氏もクラスの人からの誘いがあったはずだよ? それでも朋哉と遊びたいって思ったんじゃないかなぁ。誕生日のデートの予定を考えたいのもあるだろうし、行っておいで!」
「いっ? デート!?」
俺は物わかりのいい兄ちゃんみたいな顔をする水野に目を剥いた。
(デート、デートってなんだ)
頭の中でものすごい速さで検索機能が働く。
デート=恋人がするもの。
「ち、違うだろっ。俺と矢代君はデートじゃないだろっ」
急いで反論するも、水野は奥目を細くして微笑む。
「いいからいいから。俺はねぇ、ふたりの世界を邪魔したりはしないんだ。朋哉、青春を楽しんでねっ」
「へぁ?」
親指を「イイネ」の形にする水野。デートとかふたりの世界とか、なに言ってる?
(もしかして、俺の矢代君への気持ちを察してる?)
「水野、あのさ」
問い返そうとするものの始業のベルが鳴り、俺たちはそれぞれの席に着いた。スマホもリュックの中にINだ。
(既読スルーになってしまった……)
水野の言葉もそうだけど、すぐに矢代君に断りの返事ができなかったこと、そのために結局既読スルーになったこと。それらを気にしながら、終業式の一日は終わった。
クラスでの終礼も終わり、先に水野だ! と右斜め後ろを振り返る。
水野の席は教室後ろの出入り口に近いのだ。
だが、水野はにこやかに俺に手を振ると、サッと出口に向かった。
「水……」
もう片足だけしか見えない水野に呼びかけようとした、そのときだ。
水野がスローモーションのように後ろ歩きで教室に戻ってきて、俺の顔を見た。右手の人さし指は廊下を指している。
(ん?)
軽く眉根を寄せると、次に教室の出入り口から顔を出したのは矢代君だった。
矢代君はいつものように顔を突き出す感じの挨拶を水野にして、水野は嬉しそうに笑い、「矢代氏、ようこそ!」と返している。
このふたりの雰囲気はなにか独特なものがあるな、と思うが、今はそれどころではない。
俺は自分のリュックを掴んで二人の方に早足で向かった。
その間にも、長い髪の女子が「タッキー、ばいばぁい」と甘い声で手を振っている。
矢代君は真顔のままでも女子の目をちゃんと見て、「おう」と返した。
一瞬、胸の奥がキリッと痛む。
でも、本当に一瞬だった。
「三上!」
明るい声とフワッとした笑みが、俺だけに向けられたからだ。
刺すような痛みは途端に去り、代わりに絞られるような苦しさが胸を襲う。
それがあまりに切なくて、もう何年も泣いたことがないのに鼻の奥がジンとした。目の端も熱くなる。
(なんだ、この感覚)
俺は出かけた涙をぐっとこらえ、喉の下に熱さを追いやった。
その頃には矢代君と水野の真ん前に着いていた。
「矢代君、メッセージの返事しなくてごめん。それで、俺、今日は」
「矢代氏! 朋哉は今日、スーパー・マルトモのサンドイッチが食べたいんだって。よろしくですっ」
俺が矢代君に断りを入れようとすると、途中から水野の明るい声が重なった。
えっ、と水野を見ると、また「イイネ」を指で作り、スルッと教室のドアを抜けていく。
「水野……!」
「三上、また、メッセージ入れるね〜」
廊下から手を振った水野はすぐに視界から消えた。
代わりに俺の視界に入ってきたのは矢代君だ。
「もしかして、今日、水野と約束……してたよな」
そう言うなり、顔を片手で覆って「あ”~~」と低い声を出す。
いかにも自己嫌悪に陥っているその様子に「実は」とはとても言えない。
どうしようかと黙っていると、矢代君は手を顔から外し、反対の手と一緒に顔の前で合わせた。
「悪い。ダメ元のつもりだったとはいえ……いや、いいわけだな。約束破らせてごめん!」
「矢代君……」
潔く謝るその姿に、二回目に昼飯を一緒に食べた日のことを思い出した。
あの日、全然謝ることじゃないのに、矢代君の話すペースに付いていけない俺を察して同じように謝ってくれた。
(矢代くんは真っ直ぐな人だ。こういうところ、好きだ)
だから俺も真っ直ぐに気持ちを伝えよう。
「ううん。水野には後でまたメッセージ入れるけど……あの、俺、誘ってもらえてめちゃめちゃ嬉しかったから! だから水野にも矢代君にもありがとうってことで!」
気合を入れて言ったから、ちょっと大きめの声になっている。
でも、教室にはもう誰も残っていなかったから良かった。
矢代君が合わせた手を下ろす。
ぎゅっと閉じていた瞼を開け、一瞬ぽかんとしたような表情になったけど、すぐに歯を見せてニカッと笑った。
「そっか。じゃあ俺も『ありがと』にする。三上、ありがとな」
「う、うん」
ひゃー。きらきらした笑顔に照れてしまう。
(それに、「ごめん」より「ありがとう」の方が嬉しいんものなんだな)
だからもう一度、矢代君を見上げて伝えた。
「俺もありがとう」
「俺こそ、サンキュ」
「いや、俺が」
「……終わらないから、歩きながら言い合うか」
ふはっと矢代君が小さく笑って、俺も同じように笑って教室を後にする。
校門を出るまでの廊下と階段を、二十センチ弱は背の高さの違うかふたり並んで、同じ速さで歩く。
「誕生日の話をしたかったからさ」
「あ、うん、ありがとう!」
水野の言ったとおりだ。ただ、ちょっと気になることがあった。
「でもさ、矢代君もクラスの人から誘われてたんじゃない?」
これも水野が言ったとおり、一軍メンバーと行動している矢代君だから確実だと思う。
俺と一緒にいて大丈夫なんだろうか。
矢代君は二度小さく頷いた。
「誘われたけど、すぐ断った。もともと部活やってるときは終業式後に遊びに行く習慣とかなかったし、あいつらとは終業式じゃなくても土日に出かけてるから、別に角が立つわじゃねえし」
そっか、そうだよな。休日の矢代君はクラスの人たちと一緒に……。
「ぬおっ」
なんかよくわからんけど、思考が暗いところに入りそうになった。これから楽しい時間を過ごすのにこれじゃいかん、と俺は猫背をシャキン!と伸ばした。
ただ、声も漏れていたようだ。
「なに、どうした?」
矢代君に顔を覗き込まれて、ドキッとしながらも「なんでもない」と首を振る。そのすぐ後だった。
「――先輩ッ!」
階段を下りきったところで、前面に見える校舎の出入り口にいた生徒の声が俺達に向けて発せられた。
【一球入魂】と書かれたバレー部の青いTシャツに、短パンを穿いている。すらっと背の高い生徒だ。
彼はこちらに走り寄ってきて、矢代くんの前で止まった。
ファッションモデルになれそうな華やかな顔立ちが満面の笑みになっている。
「先輩! 帰るんすか」
「ああ、フジタはこれから部活か」
「はい! あの、覗いて行きません? みんな喜ぶと思います!」
『フジタ君』は俺の存在に気づいていないかのように矢代君に話しかけている。
矢代君はやっぱり、フジタ君の目をしっかりと見て答えていた。
それにしても、ふたりともすごいキラキラオーラだ。
俺がフジタ君と面識がないということだけではなく、自分がここにいるのが場違いに思えてくる。
(どうしよう、なんか居づらいいな。外に先に出て待っていようか)
そう思ったときだった。
矢代君の声が、あまり聞いたことのない抑揚のない声になった。
「……とっくにリタイアしてるんだ。邪魔になるだけだろ」
「そんなことないです! 俺ら北中のメンツはまた樹先輩とやりたくてこの高校に来てるんです。二年、三年の先輩だって口には出さないけ」
「フジタ、悪いけど、俺、友達と約束があるから」
笑顔で言い続けるフジタ君の言葉を、矢代君は最後まで聞かなかった。そして、フジタ君から俺の方に顔を向けた。
「待たせてごめん。行こ」
「え、でも」
ちらりとフジタ君を見ると、彼はようやく俺を視界に入れた。というか、センター分けの前髪の下の大きな瞳で、俺を見下げて睨んでいる。
矢代君の背よりは低いが、いかにもバレーボール部らしいフジタ君も背が高いからそう見えるだけだろうか。
「なんすか、この人」
「おまえ、先輩への口の聞き方。……ダチに、決まってるだろ」
矢代君の声が少し詰まった気がしたのは気のせいだろうか。
ふとそう感じて矢代君に視線を移す間に、フジタ君が話す。
「だって、こんな人、今まで先輩の周りにはいなかったじゃないすか」
「どういう言い方だよ。おまえが知ってる俺は中学までだろ。あのころはバレー部のやつらとつるんでたから自然とそうなってただけだ」
「ふうん。でも先輩、人たらしだからな。ちょっと優しくすると勘違いするオンナとかいて、困ってたじゃないですか。この人もそんな感じなんじゃないですか? なぁ、アンタさ、先輩と釣り合」
「フジタ」
わざとらしくため息を吐きつつ話すフジタ君の頭に、矢代君がぽん、と手を置いた。
途端にフジタ君は口を閉じ、背筋を伸ばす。
矢代君のその動きも声も優しいものなのに、瞳だけは鋭く見えた。
そして、ふたりの間に先輩と後輩というラインがくっきりと見えた気がした。
俺はこの緊迫した空気の中でどうしていいかわからず、うつむいてしまう。
(ちょっと優しくすると勘違い……)
頭の中ではそのふたつの言葉がゆっくりと回転していた。
すると、矢代君が再び口を開いた。
「もう行け。俺たちも帰るから。行こ、三上」
「わ」
肘を引かれ、頭の横が矢代君の硬い二の腕に当たる。
「樹先輩っ」
置いてけぼりにされたワンコみたいにフジタ君が呼びかけるが、矢代君はもう彼を見ることなく、俺の肘を掴んだまま校舎を出た。
***
「悪かったな」
校門の近くまで来ると、矢代君の腕が俺の肘から離れた。
矢代君はなにも悪くない。こればっかりは謝ってもらう筋合いがない。
俺はぷるぷると首を振った。
「さっきのヤツ、小学生から同じクラブチームで、妙に俺に懐いてるんだ。それで、あいつもアウトサイドヒッターでさ、ちょっと攻撃的な性格で、すぐに人に突っかかる。今度会うことがあったら言っておく」
「いいよ、そんな。あの、それよりごめん、俺、バレー詳しくなくて」
バレーボールの漫画も流行ってるし、最近では国際試合の放送もテレビでさかんなのに、俺は今まで一度も見たことがなかった。
「ああ。いや、ごめん。だよな」
また謝られてしまう。
矢代君はスーパー・マルトモに向かいながらアウトサイドヒッターの役割を教えてくれ、自分もそのポジションだったと教えてくれた。
楽しそうに、でも懐かしむように話すのを聞きながら、矢代君は本音ではバレーを続けたかったんじゃないかと俺は思った。
もちろん、聞くことはできないし、聞いたとしてもバレーに詳しくない俺が言えることはない。
(俺、矢代君のことが好きって……なんにも矢代君のこと知らないじゃん)
さっきのフジタ君の「ちょっと優しくすると勘違い」の言葉もまだ胸に重くのしかかっていて、俺は無意識にうつむき、また背を丸めていた。
それに気づいたのは、矢代君に横顔を覗き込まれたからだ。
「三上、買い物したら、どうする? 食うところ考えてなかったな」
「――あ。うん、そうだよね」
もともと水野と俺の部屋でゲームをするつもりだったのだから、家に矢代君を誘えばいいことだ。
だけど……俺の部屋で矢代君とふたりになる想像ができない。
(俺の部屋でなにするんだ? 矢代くん、ゲームにも興味ないって言ってたぞ)
学校の昼休みの五十分とは意味が違う。本当にふたりだけで、間が持つのか?
誘われたときはあんなに嬉しかったのに、矢代君のことをなにも知らなかった現実を突きつけられた俺は、急に怯んでしまった。
「もしよかったら」
「あ、えっと、あの、ごめん。矢代君。俺、今日は帰る!」
「えっ?」
「ごめん、ほんとごめん。出直すから、俺!」
「えっ?」
意味がわからないというように「え?」を繰り返す矢代君に背中を向ける。俺は早くもない足で逃げ出した。
(だっさ、俺、だっさ)
逃げ出したのは、矢代君のことをなにも知らないことよりも、それなのに「好き」だと思った自分自身、それも、今さらながら同性を「好き」になっている自分に気づいてひどく戸惑っているからだ。
これが機械なら情報を収集してデータを分析すればいいことだ。
だけど俺のこの不可解な思いの情報は世の中にどれくらいあるのだろう。
(ダサすぎる)
そして、戸惑いながらも一度立ち止まり、きた道を振り返ってしまう俺。めちゃくちゃダサい。
(矢代君が追いかけてくれるかもと思うなんて)
逃げたのに、追いかけてほしいと願う矛盾した気持ち。 訳が分からなくなって、俺はただひたすらトボトボと家路についた。
眼鏡を外してもクリアに見えるんじゃないだろうか……やってみても、もちろん駄目だったが。
教室ってこんなにキレイだったっけ。
水野ってこんなにキラキラしてたっけ。
「おまえもなかなかのイケメンだったんだな」
終業式の日の登校後、「朋哉、おはよ〜」と寄ってきてくれた水野に挨拶を返す前にポツリとそう漏らすと、水野は「ひぇ」と小さく叫んで俺の肩を揺らした。
「朋哉、矢代氏のイケメンを見すぎてエフェクト発動してるっ。あのね、頼むから矢代氏の前で俺のことに触れないでよねっ。イケメンに睨まれんの、まじキツイんだから!」
「はぁ?」
水野が意味わからんことを言っている。
矢代君は人と目を合わせこそすれ、睨んだりしないぞ。
(でも……矢代君はキリッとした顔立ちだから、真剣な目で見つめられるとあの眼力に射殺されるのはある……ぅ、うぁああぁ)
矢代君の顔を鮮明に思い浮かべたために、頭と顔に熱が集まった。火が出そう。
と、その時、スラックスのポケットの中でブブっとスマホが震えた。
俺は急いでスマホを確認する。
予想したとおり、メッセージアプリの通知だ。
【樹】の名前が表示された、トイプーアイコン付きのポップアップをタップした。
『おはよ。終業式だってのに、今朝はチョコがなかなか離れてくれなくてギリギリ登校』
チョコちゃんと矢代君の(首から下と手)のツーショット写真付きだ!
(チョコちゃんかっわいー、矢代君の手、やっぱデカくて大人っぽいなー)
チョコちゃんも矢代くんの手もキラキラが倍増して見える……いや、これは本当にエフェクトがかかってるんだな。
矢代君は写真加工もしない人だったのだが、バージョン豊かな写真加工アプリがあるのだと伝えたら使い始めたのだ。
とかいう俺も、アプリを入れていても使うような写真を撮ったことはなかったのだけれど……。
(誕生日は加工したくなる写真が取れるかな。取れるといいな)
そんなことを考えながら写真を見ていると、もう一通メッセージが入った。
『放課後って空いてるか? 空いてたら、一緒に帰らん?』
「うぉ」
思いもよらなかった誘いに声が漏れた。水野が「なになに」と画面を覗いてくる。
続いて水野は、「おひょ」とへんな声を出した。
俺はスマホの画面をそのままに、水野のその顔をそっと覗いた。
なぜかというと、放課後は水野と近所のスーパー・マルトモでバラエティサンドイッチセットと硬いグミにポテチ、炭酸ジュースを買って帰り、その後は俺の家でゲームをする約束をしていたからだ。
クラスの半数は固まってファーストフード店で食べ、カラオケやボーリングに向かうけど、俺と水野はこれがいつもの終業式の過ごし方だった。
(――俺、今、なに考えた?)
ハッとした。
矢代君への返事を保留にして水野の顔を見るなんて、水野よりも矢代君と約束したいと思ったんじゃないか。
(最低野郎か、俺は。恋ってこえぇ)
慌ててスマホ画面に目を戻し、『ごめん』と打とうと親指を動かしたときだった。
「行っておいでよ」
水野がポンッと肩を叩いてきた。
「え、いや、俺は」
「多分、ていうか、確実に、矢代氏もクラスの人からの誘いがあったはずだよ? それでも朋哉と遊びたいって思ったんじゃないかなぁ。誕生日のデートの予定を考えたいのもあるだろうし、行っておいで!」
「いっ? デート!?」
俺は物わかりのいい兄ちゃんみたいな顔をする水野に目を剥いた。
(デート、デートってなんだ)
頭の中でものすごい速さで検索機能が働く。
デート=恋人がするもの。
「ち、違うだろっ。俺と矢代君はデートじゃないだろっ」
急いで反論するも、水野は奥目を細くして微笑む。
「いいからいいから。俺はねぇ、ふたりの世界を邪魔したりはしないんだ。朋哉、青春を楽しんでねっ」
「へぁ?」
親指を「イイネ」の形にする水野。デートとかふたりの世界とか、なに言ってる?
(もしかして、俺の矢代君への気持ちを察してる?)
「水野、あのさ」
問い返そうとするものの始業のベルが鳴り、俺たちはそれぞれの席に着いた。スマホもリュックの中にINだ。
(既読スルーになってしまった……)
水野の言葉もそうだけど、すぐに矢代君に断りの返事ができなかったこと、そのために結局既読スルーになったこと。それらを気にしながら、終業式の一日は終わった。
クラスでの終礼も終わり、先に水野だ! と右斜め後ろを振り返る。
水野の席は教室後ろの出入り口に近いのだ。
だが、水野はにこやかに俺に手を振ると、サッと出口に向かった。
「水……」
もう片足だけしか見えない水野に呼びかけようとした、そのときだ。
水野がスローモーションのように後ろ歩きで教室に戻ってきて、俺の顔を見た。右手の人さし指は廊下を指している。
(ん?)
軽く眉根を寄せると、次に教室の出入り口から顔を出したのは矢代君だった。
矢代君はいつものように顔を突き出す感じの挨拶を水野にして、水野は嬉しそうに笑い、「矢代氏、ようこそ!」と返している。
このふたりの雰囲気はなにか独特なものがあるな、と思うが、今はそれどころではない。
俺は自分のリュックを掴んで二人の方に早足で向かった。
その間にも、長い髪の女子が「タッキー、ばいばぁい」と甘い声で手を振っている。
矢代君は真顔のままでも女子の目をちゃんと見て、「おう」と返した。
一瞬、胸の奥がキリッと痛む。
でも、本当に一瞬だった。
「三上!」
明るい声とフワッとした笑みが、俺だけに向けられたからだ。
刺すような痛みは途端に去り、代わりに絞られるような苦しさが胸を襲う。
それがあまりに切なくて、もう何年も泣いたことがないのに鼻の奥がジンとした。目の端も熱くなる。
(なんだ、この感覚)
俺は出かけた涙をぐっとこらえ、喉の下に熱さを追いやった。
その頃には矢代君と水野の真ん前に着いていた。
「矢代君、メッセージの返事しなくてごめん。それで、俺、今日は」
「矢代氏! 朋哉は今日、スーパー・マルトモのサンドイッチが食べたいんだって。よろしくですっ」
俺が矢代君に断りを入れようとすると、途中から水野の明るい声が重なった。
えっ、と水野を見ると、また「イイネ」を指で作り、スルッと教室のドアを抜けていく。
「水野……!」
「三上、また、メッセージ入れるね〜」
廊下から手を振った水野はすぐに視界から消えた。
代わりに俺の視界に入ってきたのは矢代君だ。
「もしかして、今日、水野と約束……してたよな」
そう言うなり、顔を片手で覆って「あ”~~」と低い声を出す。
いかにも自己嫌悪に陥っているその様子に「実は」とはとても言えない。
どうしようかと黙っていると、矢代君は手を顔から外し、反対の手と一緒に顔の前で合わせた。
「悪い。ダメ元のつもりだったとはいえ……いや、いいわけだな。約束破らせてごめん!」
「矢代君……」
潔く謝るその姿に、二回目に昼飯を一緒に食べた日のことを思い出した。
あの日、全然謝ることじゃないのに、矢代君の話すペースに付いていけない俺を察して同じように謝ってくれた。
(矢代くんは真っ直ぐな人だ。こういうところ、好きだ)
だから俺も真っ直ぐに気持ちを伝えよう。
「ううん。水野には後でまたメッセージ入れるけど……あの、俺、誘ってもらえてめちゃめちゃ嬉しかったから! だから水野にも矢代君にもありがとうってことで!」
気合を入れて言ったから、ちょっと大きめの声になっている。
でも、教室にはもう誰も残っていなかったから良かった。
矢代君が合わせた手を下ろす。
ぎゅっと閉じていた瞼を開け、一瞬ぽかんとしたような表情になったけど、すぐに歯を見せてニカッと笑った。
「そっか。じゃあ俺も『ありがと』にする。三上、ありがとな」
「う、うん」
ひゃー。きらきらした笑顔に照れてしまう。
(それに、「ごめん」より「ありがとう」の方が嬉しいんものなんだな)
だからもう一度、矢代君を見上げて伝えた。
「俺もありがとう」
「俺こそ、サンキュ」
「いや、俺が」
「……終わらないから、歩きながら言い合うか」
ふはっと矢代君が小さく笑って、俺も同じように笑って教室を後にする。
校門を出るまでの廊下と階段を、二十センチ弱は背の高さの違うかふたり並んで、同じ速さで歩く。
「誕生日の話をしたかったからさ」
「あ、うん、ありがとう!」
水野の言ったとおりだ。ただ、ちょっと気になることがあった。
「でもさ、矢代君もクラスの人から誘われてたんじゃない?」
これも水野が言ったとおり、一軍メンバーと行動している矢代君だから確実だと思う。
俺と一緒にいて大丈夫なんだろうか。
矢代君は二度小さく頷いた。
「誘われたけど、すぐ断った。もともと部活やってるときは終業式後に遊びに行く習慣とかなかったし、あいつらとは終業式じゃなくても土日に出かけてるから、別に角が立つわじゃねえし」
そっか、そうだよな。休日の矢代君はクラスの人たちと一緒に……。
「ぬおっ」
なんかよくわからんけど、思考が暗いところに入りそうになった。これから楽しい時間を過ごすのにこれじゃいかん、と俺は猫背をシャキン!と伸ばした。
ただ、声も漏れていたようだ。
「なに、どうした?」
矢代君に顔を覗き込まれて、ドキッとしながらも「なんでもない」と首を振る。そのすぐ後だった。
「――先輩ッ!」
階段を下りきったところで、前面に見える校舎の出入り口にいた生徒の声が俺達に向けて発せられた。
【一球入魂】と書かれたバレー部の青いTシャツに、短パンを穿いている。すらっと背の高い生徒だ。
彼はこちらに走り寄ってきて、矢代くんの前で止まった。
ファッションモデルになれそうな華やかな顔立ちが満面の笑みになっている。
「先輩! 帰るんすか」
「ああ、フジタはこれから部活か」
「はい! あの、覗いて行きません? みんな喜ぶと思います!」
『フジタ君』は俺の存在に気づいていないかのように矢代君に話しかけている。
矢代君はやっぱり、フジタ君の目をしっかりと見て答えていた。
それにしても、ふたりともすごいキラキラオーラだ。
俺がフジタ君と面識がないということだけではなく、自分がここにいるのが場違いに思えてくる。
(どうしよう、なんか居づらいいな。外に先に出て待っていようか)
そう思ったときだった。
矢代君の声が、あまり聞いたことのない抑揚のない声になった。
「……とっくにリタイアしてるんだ。邪魔になるだけだろ」
「そんなことないです! 俺ら北中のメンツはまた樹先輩とやりたくてこの高校に来てるんです。二年、三年の先輩だって口には出さないけ」
「フジタ、悪いけど、俺、友達と約束があるから」
笑顔で言い続けるフジタ君の言葉を、矢代君は最後まで聞かなかった。そして、フジタ君から俺の方に顔を向けた。
「待たせてごめん。行こ」
「え、でも」
ちらりとフジタ君を見ると、彼はようやく俺を視界に入れた。というか、センター分けの前髪の下の大きな瞳で、俺を見下げて睨んでいる。
矢代君の背よりは低いが、いかにもバレーボール部らしいフジタ君も背が高いからそう見えるだけだろうか。
「なんすか、この人」
「おまえ、先輩への口の聞き方。……ダチに、決まってるだろ」
矢代君の声が少し詰まった気がしたのは気のせいだろうか。
ふとそう感じて矢代君に視線を移す間に、フジタ君が話す。
「だって、こんな人、今まで先輩の周りにはいなかったじゃないすか」
「どういう言い方だよ。おまえが知ってる俺は中学までだろ。あのころはバレー部のやつらとつるんでたから自然とそうなってただけだ」
「ふうん。でも先輩、人たらしだからな。ちょっと優しくすると勘違いするオンナとかいて、困ってたじゃないですか。この人もそんな感じなんじゃないですか? なぁ、アンタさ、先輩と釣り合」
「フジタ」
わざとらしくため息を吐きつつ話すフジタ君の頭に、矢代君がぽん、と手を置いた。
途端にフジタ君は口を閉じ、背筋を伸ばす。
矢代君のその動きも声も優しいものなのに、瞳だけは鋭く見えた。
そして、ふたりの間に先輩と後輩というラインがくっきりと見えた気がした。
俺はこの緊迫した空気の中でどうしていいかわからず、うつむいてしまう。
(ちょっと優しくすると勘違い……)
頭の中ではそのふたつの言葉がゆっくりと回転していた。
すると、矢代君が再び口を開いた。
「もう行け。俺たちも帰るから。行こ、三上」
「わ」
肘を引かれ、頭の横が矢代君の硬い二の腕に当たる。
「樹先輩っ」
置いてけぼりにされたワンコみたいにフジタ君が呼びかけるが、矢代君はもう彼を見ることなく、俺の肘を掴んだまま校舎を出た。
***
「悪かったな」
校門の近くまで来ると、矢代君の腕が俺の肘から離れた。
矢代君はなにも悪くない。こればっかりは謝ってもらう筋合いがない。
俺はぷるぷると首を振った。
「さっきのヤツ、小学生から同じクラブチームで、妙に俺に懐いてるんだ。それで、あいつもアウトサイドヒッターでさ、ちょっと攻撃的な性格で、すぐに人に突っかかる。今度会うことがあったら言っておく」
「いいよ、そんな。あの、それよりごめん、俺、バレー詳しくなくて」
バレーボールの漫画も流行ってるし、最近では国際試合の放送もテレビでさかんなのに、俺は今まで一度も見たことがなかった。
「ああ。いや、ごめん。だよな」
また謝られてしまう。
矢代君はスーパー・マルトモに向かいながらアウトサイドヒッターの役割を教えてくれ、自分もそのポジションだったと教えてくれた。
楽しそうに、でも懐かしむように話すのを聞きながら、矢代君は本音ではバレーを続けたかったんじゃないかと俺は思った。
もちろん、聞くことはできないし、聞いたとしてもバレーに詳しくない俺が言えることはない。
(俺、矢代君のことが好きって……なんにも矢代君のこと知らないじゃん)
さっきのフジタ君の「ちょっと優しくすると勘違い」の言葉もまだ胸に重くのしかかっていて、俺は無意識にうつむき、また背を丸めていた。
それに気づいたのは、矢代君に横顔を覗き込まれたからだ。
「三上、買い物したら、どうする? 食うところ考えてなかったな」
「――あ。うん、そうだよね」
もともと水野と俺の部屋でゲームをするつもりだったのだから、家に矢代君を誘えばいいことだ。
だけど……俺の部屋で矢代君とふたりになる想像ができない。
(俺の部屋でなにするんだ? 矢代くん、ゲームにも興味ないって言ってたぞ)
学校の昼休みの五十分とは意味が違う。本当にふたりだけで、間が持つのか?
誘われたときはあんなに嬉しかったのに、矢代君のことをなにも知らなかった現実を突きつけられた俺は、急に怯んでしまった。
「もしよかったら」
「あ、えっと、あの、ごめん。矢代君。俺、今日は帰る!」
「えっ?」
「ごめん、ほんとごめん。出直すから、俺!」
「えっ?」
意味がわからないというように「え?」を繰り返す矢代君に背中を向ける。俺は早くもない足で逃げ出した。
(だっさ、俺、だっさ)
逃げ出したのは、矢代君のことをなにも知らないことよりも、それなのに「好き」だと思った自分自身、それも、今さらながら同性を「好き」になっている自分に気づいてひどく戸惑っているからだ。
これが機械なら情報を収集してデータを分析すればいいことだ。
だけど俺のこの不可解な思いの情報は世の中にどれくらいあるのだろう。
(ダサすぎる)
そして、戸惑いながらも一度立ち止まり、きた道を振り返ってしまう俺。めちゃくちゃダサい。
(矢代君が追いかけてくれるかもと思うなんて)
逃げたのに、追いかけてほしいと願う矛盾した気持ち。 訳が分からなくなって、俺はただひたすらトボトボと家路についた。



