七月中旬。矢代君と過ごす昼休みが俺だけじゃなくクラスメイトにとっても日常になってきた頃、期末テスト期間に入った。
だから昼休みを矢代君と過ごすのを中断している。

ただ、矢代君は廊下ですれ違うことがあれば「三上」と軽く手を上げてくれる。
俺は一組の一軍の人たちにジーッと見られたり、矢代君の後ろでコソコソなにかを言っているのが目に入ると怯んでしまうのだが、俺の隣で歩く水野が軽く背を叩いてくれて、俺も矢代君に手を上げ返す。

それと、矢代君と水野も、親しくはないけど知らない間柄でもない、という感じの顔を少し突き出す挨拶を交わすようになっている。

そう言えば、矢代君は初日に水野のことを気にしていた様子だったのに、その後はなにも言わないな……。

なんだったんだろう。スマホメッセージでわざわざ聞くのもおかしいし、今度またショコラとチョコちゃんの話になったらついでに聞いてみようか……今夜の通話で聞いてもいい。

俺と矢代君は、夜にちょこっと通話もするようになっていた。

まず、ショコラとチョコちゃんの画像を交換しようという話から、画像の他にも『おはよう』とか『おやすみ』という簡単な文章をメッセージアプリでやり取りするようになり、期末テスト期間前には『やっぱ、メッセージより声聞くほうがいいんだけど』と矢代君が送信してきたのだ。

簡単な文章でも面倒ってことか……矢代君、スタンプも使わないしな。基本的にスマホの操作が面倒くさいんだろう。

それで了承した。したんだが、水野とも通話をしたことがないから、照れくささはある。
それに、矢代君は見た目だけじゃなく声も大人っぽいせいか、鼓膜と背中がソワソワとくすぐったくなるんだよな……。

「あっ」

二十二時半。いつもと同じ時間にスマホが震えた。矢代君からの着信通知だ。

ふう、とひとつ息を落としてから通話に出る。こうしないと最初のひと言から声を詰まらせて、「はははいっっ」って声を出してしまいそうだから。

「――はい、矢代君?」
『はい、矢代君だけど、いつまで俺、矢代君?』
「ふっ」

思わず声を出して笑ってしまった。昨日まで言わなかったのに、今日はひと言目で言おうって決めていたんだろうか。
想像してみると楽しい気持ちになる。電話を取る前より緊張が薄くなってきた。

「なんかさ、矢代君は『矢代君』なんだよな。大人っぽいからこのほうが呼びやすい気がする」
『なんだよ、それ。俺くらいの感じのヤツならゴロゴロいるだろ。運動部のヤツらだったら特に』
「うーん?」

思い当たる範囲で考えてみるものの、すぐにパッと浮かばない。運動部じゃなくてもガタイが大きい人はいるにはいるけど、五分以上顔を見合わせたまま話す、なんてそうそうないからなぁ。

「俺、矢代君しか見てないからわかんないや」
『ゴッ』

え、なんの音? スマホを落とした?
俺の返事が遅いから寝落ち?

「矢代君、大丈夫? 起きてる?」
『……起きてる』

しばらくの間を置いたのち、くぐもった声が届いた。

「声が眠そう。もう切ろうか?」
『っ、切らなくていい』
「そう? 無理しないでいいよ」

そう伝えると、かぶり気味に返事がある。

『無理してない。三上が無理じゃなかったら、もうちょい……そうだ、明日の情報Ⅰのテストんとこ、教えて欲しいとこ、あるんだけど……邪魔になるか?』
『いいよ、全然大丈夫』

本当は数学を詰めないといけないんだけど、大好きな情報Ⅰの話をしたら頭が冴えそうだ。
なにより、俺なんかが矢代君の力になれるなら嬉しい。

矢代君には見えていなくても、「うん」と頷くと、通話がビデオ通話になった。

(わ、そういえばビデオ通話って、家族以外とは初めて)

反射的に前髪をサッと整えながら、画面を見る。
俺、風呂上がりで髪を乾かさないままなんだ。ちょっとクセが出てるかもしれない。

矢代君は廊下ですれ違うときみたいに「よ」と軽く手を上げると、俺をじっと見た。
食い入るように見てくるのは画面越しで見にくいからだろうけど、イケメンにそんなふうに見られると恥ずかしくなる。

俺、どこかおかしくないかな、と妙に髪をいじってしまう。ていうか、画面の端に映る俺は、鏡に映る俺よりもっともっとブスで嫌になる。

(いや、画面に映る矢代君がいつも通りイケメンてことは、俺は他人から見たらこのブスさってことか……眼鏡を外してみたらどうだ?)

視力が悪い俺でもこの距離なら自分の顔くらい見える。それに、前に矢代君が「目が好き」的なことを言ってくれたことを思い出し……スチャ。

眼鏡を外してみた。その瞬間。

『ガコッ』

そんな音とともに俺のスマホから矢代君の顔が消えて、景色が真っ白になった。
矢代君がまたスマホを落としたようだ。

「大丈夫? やっぱり眠いんじゃないの?」

真っ白な画面に声をかけていると、中の景色が動いて画面に矢代君が戻ってきた。落としたのが気まずいのか、ちょっと拗ねたような顔をしている。

『大丈夫。不意打ち食らっただけ』
「不意打ち?」
『いい。突っ込むな。それより、課題プリントのことだけど』
「あ。うん」

矢代君は拗ねた顔のままで俺とプリントとを交互に見つつ、音声データの計算方法の応用問題が難しい、と話し始めた。

「ああ、これか。これは──」

それから五分と少し、自分の手元を映して数字を書きながら説明した。

『──流石だな。よくわかった。サンキュ』

画面の中に矢代君が戻ってきて、拗ねた顔はすっかりどこかへ消え去り、爽やかな笑みを浮かべている。

(この神々しさを独り占めしてるなんて贅沢……)

画面が光って見える神々しさが伝わってくると同時に、そんなことを思った。
矢代君はスマホでは人とほぼやりとりをしない、と言っていたからだ。
つまり、通話までするのは学校の中では俺だけなのだ。

学校の矢代君ファンに申し訳なくなる。反面、ちょっと得意になる俺もいたりして……「おやすみ」を言い合って、画面が黒くなると、今度は少しばかり残念な気持ちになる。

またすぐに矢代君と通話したくなって。
すぐに会いたくなって。
明日も会えるといいな、話せるといいな。

なんて、友人に対して初めてそんなふうに思う。
これはきっと、俺じゃなくても同じ気持ちになるだろう。矢代君はそれくらいかっこいい人だから。

でも……矢代君は、近づけたと思っても遠い。



「あ、矢代氏だよ。話しかけないの?」 
 
期末テスト最終日の今朝、水野と共に教室に向かう廊下の先に、矢代君の背中を見つけた。背が高いからすぐにわかる。
矢代君の周囲には一組の一軍の人たちがいて、さかんに話しかけられている。

「ん……今はいいや」

聞いていた水野に小さな声で返事をする。

(今はきっと俺には気づかない。そこが矢代君のいいところだ)

矢代君は言っていた。誰かと話すときに、ちゃんと顔を合わせたいって。
そのとおりで、矢代君は話しかけてくる人の顔をちゃんと見て、順々に答えているようだった。

俺はそんな誠実な矢代君を眩しく感じながらも、そこに「おはよう!」程度の声かけもできない自分を情けなく思いながら教室に入る。

人気者の矢代君。俺は矢代君と昼休みだけは一緒に過ごすけど、クラスが違うから他の時間は別だし、もちろん放課後や休日を一緒に過ごすまでの関係にはなれていない。

改めて自分が平凡で、あの明るい中に混ざる人間ではないことを教えられた気がする。

矢代君と俺は別世界の……。

そこまで頭に浮かびかけて、急いで頭を振った。

(いやいや、俺はメッセージも電話もしてるし! 昨日も俺って贅沢だと思ったところじゃないか)

そうだよ。なんたって矢代君と話すようになってまだ半月なんだ。二学期の終わりくらいには自分から声をかけられるくらい成長すればそれでいいじゃないか。

……と、自分を鼓舞していたら。

「三上、来月十五日、誕生日なんだって?」

テスト明け翌々日の、夏休み前では最後になる昼食の時間。
矢代君が席に着くよりも早く、俺に聞いた。

「え、うん、そう」

俺に「なぜ」と思わせる名人の矢代君に、どうして知っているのかを問い返す前に答えてくれる。

「さっき三組に入る前に水野とすれ違ったら教えてくれた」
「水野が?」

水野のいる方向に視線を走らせる。
最近の水野は、グループ決めをするときなんかに俺たちと一緒になるメンバーと昼食を食べている。
水野はこっち側に顔を向けて座っていて、ちょうど俺のことを見ていた。奥目を細くして、生温かさを醸し出すような笑みで「イイネ」ポーズを作っている。

どういう目だよ。なにがイイネだ?
どういうきっかけでおまえが俺の誕生日を矢代君に伝えるんだよ。

水野にアイコンタクトを取っていると、矢代君が席に着き、話を続ける。

「でさ。誕生日当日は予定があるだろうけど、俺もお祝いしたいから、別の日に一緒に出かけねぇ?」
「えっ、うそ、ほんと!?」

反射的に視線を戻し、考えるよりも早く声が出ていた。
そんな俺を見て、矢代君は「ふはっ」と声を出し、目を細めて笑った。うまく言えないけど、水野の細め方とは違う。

(う、嬉しそう?)

歯を見せて笑っているから。

「うそ、ほんと、ってなんだよ」

きれいに揃った矢代くんの白い歯は眩しい。目がチカチカしてくる。
俺は目を瞬きながら、お弁当の袋を握りしめてしまった。

これまでの俺なら癖でスマホを握っただろうが、矢代君といるときは見なくなったからリュックに入れっぱなしだ。

「や、だって……嬉しい。俺の誕生日、お盆中だから友達と出かけるとかしたことなくて。ていうか、当日も全然空いてるっ。毎年家にいるし!」

食い気味になっていると自覚していても、嬉しさが勝っている。俺、興奮してるのかな。声が勝手に出てくるのを止められない。

「あっ、でも矢代君は帰省とかしてるか……なら誕生日じゃなくてもいい!」

矢代君の迷惑にならないのなら、誕生日とか関係なく夏休みも話したい。

(……夏休みも、矢代君に会いたい!)

俺、やっぱり食い気味だ。
でも、矢代君が笑ってくれるから。
目尻に皺を寄せて笑ってくれるから、だからきっと大丈夫だ。

「俺も家にいるから問題なし! んじゃさ」

矢代君はそこでいったん言葉を切り、背筋をピッと伸ばした。
俺は「うん」と小さく頷いて続きの言葉を待つ。

「三上の誕生日、俺にちょうだい」

う、わ。 
誕生日ちょうだい、なんて、どこからそんなかっこいい言葉が出てくるんですか!

吐きそうなくらい嬉しい。誕生日を好きな人に祝ってもらえるなんて嬉しすぎ……え? ……あ、え、あれ? す……好き、ってなんだ?

(好き……? 好きって、ライク? ラブ?)

俺はぶるぶるっと頭を振った。

(いや、当然ライクだろう)

俺の好きは友達としてのライク! 矢代君は優しいしカッコイイから、好きになって当たり前。

矢代君を好きか嫌いか聞かれたら、誰でも好きって言うだろう?
だから俺も「矢代君が好き」。

(はい、問題ありません)

──そう思うのに、「好き」という言葉を矢代君に対して使うと、特別な言葉に思えてくる。

心臓のとこ、痛くなって、体、かっかかっかしてきた。
なんだ、この未知の感覚は。

「三上?」
「わぁぁっ、ちょ、俺、トイレっ」

耳まで熱くしていたら、矢代君の大きな手が俺の手の甲に触れた。
その手が熱いとか冷たいとか、感触を感じる余裕はもうなくて。

本当に口から心臓が吐きだしそうなほど胸を弾ませた俺は、唐突に席から立ち上がり、教室の外に飛び出してしまった。
 
トイレの中。
鏡に映った赤面の男を見つめる。
無我夢中で走ってきたせいで、せっかく朝、へアアイロンで癖を伸ばした前髪が乱れている。
顔も髪もぐちゃぐちゃだ。

いくら平凡な俺でも、もうすぐ十七歳。こんな顔をしているときがどういう状態かはわかる。

(……俺、矢代君のことを…?)

俺はこれまで恋をしたことがない。だから本当に合ってるかどうかはわからない。

でも、それでも……。

(「好き」、「恋」)

二つの言葉がスマホと充電器みたいにカチッとハマって、心の中がみるみる高ぶっていく。

気持ちがグワーッと沸き立ってきて、胸が激しく暴れ出す。

「あぁー、そっか、俺」
(矢代君に恋、を……)

「ぅあああぁ」

自覚した途端、俺は猛スピードでトイレの個室に入り、鍵をかけてうずくまった。

「あ、あの、大丈夫か?」

よほど切羽詰まって見えたのか、ドアの向こうから知らない生徒の心配そうな声が聞こえてくる。だけど答える余裕もない。

(大丈夫じゃない! こんな気持ち初めてなんだ。どうしたら心臓鎮まるんだよ)

顔が熱い。胸の音がうるさい。恥ずかしくて、誰にも顔を合わせられない。

初めての恋の衝撃は、矢代君が俺にパンを持ってきたときを大きく凌駕した。