天恵の神子と世界のゆくえ

 女神祭が過ぎ、リコリスは臨月に突入していた。夏も盛りを迎え、髪や衣服が汗でべったりと素肌に張り付く。時折り吹き抜けていくからりとした風がわずかな涼を齎してくれる。
 窓の外では積乱雲がもくもくと層を連ねている。力強い夏の日差しをカーテン越しに浴びながら、リコリスはすっかり大きくなった腹を撫でる。腹が重く、最近は歩くのも一苦労だ。
 ここ何日か、頻繁に腹が張るようになった。何だか腰もずーんと重くだるい感じがする。
 悪阻のころに感じていた眠気や不安感を最近感じる気がする。施療院の医師が言っていた予定日も近い。これらの症状はきっと腹の子が生まれ出るための準備によるものなのだろう。
 女神祭が終わってから、この半月で家の中が随分と狭くなった。いよいよ出産間近ということもあって、ヒースが子どものための様々なものを用意してくれたからだ。
 ダイニングに増えた子ども用の椅子。本棚の横に設られた子ども用のベッド。
 これらはヒースが木材を買ってきて、手ずから作成したものだ。ほんの少しのがたつきはあるが、それが逆にまだ見ぬ我が子への愛が感じられた。
 リンテルに吊るされた色とりどりのロンパース。様々な刺繍がされたステイ。
 生まれてみないと男の子なのか女の子なのかもわからないというのに、ヒースは仕事の合間にマルシェに通っては子ども用の服を買い揃えてきた。
(ヒースなら安心だ。この子の未来を安心して託すことができる)
 生まれる前からこれほど子煩悩な父親がそういるだろうか。彼のような父親がいれば、生まれてくる我が子の未来に不安はない。きっとリコリスがいなくなってからも、よい家庭を築いてくれるだろう。
 ずっと、リコリスは鼻水を啜った。突然溢れてきた涙に、彼女は掌で顔を覆った。
 あとどれだけヒースといられるんだろう。どれだけ彼と言葉を交わし、笑い合えるのだろう。
 生まれてくる子どもと一緒にいられるのは一年と少し。その短い時間でどれだけのことをしてやれるのだろう。どれだけ愛を注いでやれるのだろう。
 出産が近い――十ヶ月と十日の年月が過ぎ去ったということだ。自分に残された時間の短さを改めて実感し、リコリスはわあわあと子どものように泣きじゃくった。

 腹が痛いといってリコリスが用足しに立ってしばらくが経った。ただの腹下しにしてはやけに時間が長い。体調を悪くして倒れていないといいが、とヒースはバッグを縫っていた手を止める。
 もう出産予定日を過ぎている。何か大事があってはいけない。ヒースは手に持っていた革と針をダイニングテーブルに置くと、椅子から立ち上がった。
 勝手口の扉を開くとヒースは庭を横切った。昼間より太陽は西に傾き、浅葱色と金色が混ざり合った昼と夕暮れのグラデーションで空を染め上げていた。肌に触れる空気も昼間に比べると些かひんやりとする。
「リコリス? 大丈夫か?」
 ヒースは庭の隅の小屋の扉をこんこんと叩く。すると、扉の内側からは切羽詰まったリコリスの声が返ってきた。
「――ヒース! 何かおかしいの! 施療院からお医者さんを呼んできて! 白く濁った液体が出てきて止まらない!」
 そのときリコリスがうっと呻いた。扉の向こうでリコリスがぜえぜえと喘いでいるのが聞こえた。
「悪い、リコリス! 開けるぞ!」
 ヒースは小屋の扉をばんと開いた。小屋の中のバケツの中には白濁した液体が満ちている。
 小屋の中でしゃがみ込んだリコリスが苦しげに体を丸めていた。どうした、とヒースは膝を折ってかがみ込むとその背中をさすってやった。
「さっきから……十分に一回くらい痛むの……それも、だんだん痛みが強くなってきてる……。もしかしたら、陣痛が始まっているのかも」
 何だって、とヒースは鳶色の目を見開いた。掴まれ、とヒースはしゃがみ込み、痛みに耐えるリコリスの身体を抱き上げた。大人と子供一人分ずつの重さがヒースの腕にずっしりとのしかかる。ヒースは勝手口の扉を蹴り開けると、リコリスを家の中に連れて戻る。リコリスをベッドに寝かせると、ヒースは近くにあったタオルで彼女の額に浮かぶ脂汗の珠を拭ってやった。
「リコリス、待ってろ。すぐに医者を連れて戻ってくるからな」
 ヒースはそっとリコリスの額に口付けを落とす。それがヒースが今してやれる彼女への精一杯のエールだった。
 行ってくる、とヒースは取るものもとりあえず、乱暴に玄関の扉を開くと外へ飛び出していく。絶対に無事に元気な子を産ませてやる。それだけを胸に煮炊きの匂いが方々から漂い始めた街をヒースは駆けた。

「あっ……うっ……」
 ヒースが施療院に向かってどれほど経っただろうか。内臓を引き絞られるような痛みに耐えながら、リコリスは涙で濡れた目でカーテンの外を窺う。窓の外では空の果てがオレンジに染まり、それに覆い被さるように夜の藍色が迫っている。
「うっ……いた……痛い痛い痛い痛い……」
 腹を苛む痛みにリコリスはお腹を押さえて体を丸める。これまでに体験したことのない痛みに、リコリスの頬を涙が伝っていく。鼻の奥がつんと痛んだ。
 一分ほどして痛みの波が引いていくと、リコリスはぜえぜえと荒い息をつく。これがあと、一体どれだけ続くというのだろう。
(ヒース……はやく、はやく戻ってきて……)
 彼の名を呼びながら、リコリスはぎゅっと目を閉じた。睫毛の上で涙の雫が夕陽を浴びてきらりと光った。
 体の中で何かが下に思いっきり押し下げられるような感覚がする。お腹の子が生まれ出るためにこの世への出口へと移動を始めているのだろう。
 そんなことを考えているうちに、またリコリスを激しい痛みが襲った。おそらく先ほどの痛みから十分も経っていない。リコリスは痛む腹を抱え、必死で耐える。再び視界がじわじわと滲んでくる。
「うっ……あ……痛いっ……」
 リコリスが痛みと戦っていると、ばんっと玄関の扉が開かれた。ばたばたと誰かがこちらへ駆け寄ってくる音がする。
「リコリス! 大丈夫か!」
 ヒースはベッドの横に膝をつくと苦しむリコリスの背を撫でた。ヒースぅ、と涙混じりの弱々しい声がリコリスの口をついて出た。
「っ……痛い……いたいいたいいたい……っ、ヒースっ……いた、い……」
「リコリス……」
 ヒースは胸が締め付けられる思いだった。お産とはこんなにも苦しいものなのか。せめて痛みだけでも自分が変わってやれればいいのに。ヒースは自分が連れてきた医師を振り返る。
「先生、リコリスは大丈夫なんですか!? こんなに痛がって、苦しんで……!」
 必死に訴えかけてくるヒースとは裏腹に、彼が連れてきた医師は淡々と言葉を返す。
「母親になる者は皆が必ず通る道です。彼女が特別なわけではありません」
「でも……! どうにかならないんですか!」
 ヒースがなおも言い募ると、医師ははあ、と嘆息した。この仕事をしていると、こういうことを言われることはままある。一応の対応策を用意していないわけではないが、患者の家族を納得させるための気休めに過ぎない。
「痛み止めを用意します。湯を沸かしてください」
 わかりました、とヒースは慌ただしく立ち上がるとキッチンへと向かう。マッチを擦って竈に火を入れると、水瓶から小鍋に水を汲んで火にかける。
 再び痛みの波が去ると、リコリスは荒い息をつく。リコリスが少し落ち着くと、「失礼しますよ」医師はベッドのシーツの足元を捲り上げ、ゆったりとしたリネンのチュニックのスカートの中に躊躇なく手を突っ込むと、羊水で濡れたリコリスの下着を脱がせた。そして、医師はリコリスの足を開かせると、子宮口の開き具合を確認した。今の開き具合はまだ彼の人差し指と中指が入るくらいだった。分娩にはまだ時間がかかるだろう。
「……うっ……つっ……」
 再びリコリスが苦しみ始めた。医師は彼女に一瞥をくれると往診鞄の中から何種類かのハーブの小瓶を取り出した。
 キッチンでふつふつと湯の沸く音がする。医師はそれを手に立ち上がると、ヒースの元へと向かった。
「リコリスの様子はどうですか? もうじきに生まれるんですよね?」
 リコリスの身を案じるヒースに矢継ぎ早に問われ、医師は首を横に振った。
「破水しているようですが、まだあの様子だと早くて半日近くかかりますね」
「半日!? そんなにですか!?」
 ヒースはベッドルームで苦しむリコリスに視線をやった。彼女は痛い痛いと呻きながら、ベッドで身体を丸めている。
「ティーポットとカップを貸してください。痛み止めのお茶を煎じますので」
 ああ、とヒースは医師に言われるがままに食器棚からポットとカップを取り出した。医師はポットの中に小瓶の中のハーブを入れると、小鍋から湯を注いだ。
「あの、先生。何か、俺にできることはありますか?」
「あなたにできるのは奥様のそばについていること、戦っている奥様から目を背けずいることです」
「そんなこと、ですか? そんなことより、もっと何か……」
「そんなこと、が大切なんです。出産の凄まじさに恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出す男などこの仕事をしているといくらでも見ますから」
 自分はそんなことはしない。と、思う。ヒースは何もできないならせめて一緒にいてやりたいと思うし、我が子の誕生の瞬間を彼女とともに喜びあいたかった。
 こぽこぽと音を立てて蒸らし終わった茶を医師がカップへと注ぐ。キッチンには爽やかさとスパイシーさの混ざり合った香りが立ち昇っていた。

 家の外が暗くなってどれくらいが経っただろう。地平線に残っていた余光がつつ闇に呑まれて久しい。銀鉤(ぎんこう)の夜を照らすものはキッチンの竈の炎とランプの火以外にない。
 内臓を引き絞られるような痛みの波が絶え間なくやってくる。一度は引いても、一分とおかずに新しい痛みが襲ってくる。
「っつ……うっ……ヒース、……いま、何時……?」
 リコリスのそばについてずっと彼女の背を撫でていたヒースは、部屋の壁にかけられた時計を振りあおぐ。ヒース自身も時間の感覚が麻痺していたが、気づけば午前三時を回っていた。ヒースがそれを教えてやると、リコリスは痛みに喘ぎながら、ヒースを気遣う言葉をかける。
「……痛っ……ヒース……っ……、寝てて、いいよ……うっ、つっ……つかれた、でしょ……あっ、うっ、痛い痛い痛い痛いっ……」
「そんなことできるわけないだろ、この馬鹿が。ちゃんと産まれるまで一緒にいて見届けてやる」
「……っつ……あり、がと………はあ、はあ……」
 リコリスは肩を上下させながら、背に触れるヒースの手を手繰り寄せると握りしめた。なんとなくそれだけで安心できる気がした。ヒースの手はいつだって、温かさをくれる。自分は独りじゃないと実感させてくれる。
 ヒースはリコリスが抱えるようにしていたタオルを拾い上げると、彼女の顔の汗を拭ってやった。痛みのあまりか、彼女の顔は熟れたりんごのように紅潮している。
「先生、これからあとどのくらいですか?」
 ヒースが医師に問うと、彼は腰掛けていた椅子から立ち上がる。医師はリコリスのチュニックのスカートの中を覗き込み、子宮口の開き具合を確認した。子宮口はもう彼の指が四本入るほどに開き、陣痛の頻度からしてもあともうじきだろうと思われた。
「おそらくあと一、二時間ほどでしょう。今のうちに水分補給を」
 ヒースはダイニングからグラスと水差しを持ってくる。水差しからグラスに水を注ぐと、彼はそれをリコリスの口元に持っていく。リコリスは懸命にそれを口に含もうとするが、上手く飲めずに唇から溢れ出した水がシーツを濡らした。
 ヒースはグラスの水を一口自分の口に含ませた。そして彼女の唇に自分のそれを触れさせると、そっと口を開いた。ほのかにヒースの体温を含んだ水が少しずつリコリスの口内に流れ込み、彼女はそれをゆっくりと飲み下した。
「うっ、つっ」
 リコリスが再び苦しみだす。彼女は歯を食いしばって耐え忍んでいるが、悲鳴が喉の奥から漏れ出してくる。雲なき雨が彼女の頬を伝う。
 大丈夫だ。俺がついてる。ヒースは安心させるようにリコリスの背を撫でる。わかったと言わんばかりに苦悶のあまり表情を歪めながらもリコリスは頷いた。よほど苦しいのか彼女の眉間には皺が寄っている。
 ヒースはリコリスの陣痛と陣痛の隙間を縫うようにして、少しずつ彼女に水を与え続けた。グラスの水がなくなるころには、紺碧の空がわずかに明るくなり始め、西から東へと夜から朝へのグラデーションを描き始めていた。

 リコリスが破水してから半日が過ぎた。医師によれば、子宮口は最大まで開ききっており、子どもが生まれ出るまではあとわずかとのことだった。
 リコリスの呼吸ははあはあと速く浅い。真っ赤になった顔は汗でぐっしょりと濡れ、黒髪は皮膚に張り付いていた。
 大丈夫か、としきりに心配してくるヒースの声をリコリスは一枚膜を隔てたような状態で聞いていた。痛みで体力が消耗しきり、なんだか意識が朦朧とする。
 下腹部の痛みは途切れることがなくなり、今や絶え間なく続いている。最早息を吐く間もない。
 骨盤が割れそうに痛い。どこもかしこも激しい痛みに苛まれていて、もうどこが痛いのかわからなかった。
「痛いっ……痛い痛い痛い痛いっ……うっ、あああっ……!」
 痛みのあまりリコリスが何度目ともわからない絶叫を上げる。その声はがさがさと掠れ始めていた。
「リコリスさん、私の指示に従ってください。痛いかもしれませんが、落ち着いて呼吸をしてください。ヒッ、ヒッ、フーです。はい、吸って」
 冷静な医師の声に促されて、リコリスは口で息を吸う。吐いて、と医師に言われて、リコリスは大きく息を吐いた。
 リコリスが呼吸を繰り返す間も痛みの波は寄せては返してくる。下半身が無理矢理大きなものに押し広げられるような感じがする。臀部に便意に近い圧迫感を感じる。股の間に何か膨らんだものが挟まっている感覚がする。これはもしや、我が子の頭なのだろうか。
「あっ」
 無意識に腹の底に力が入った瞬間、医師が声を上げた。股の間が熱く焼けるようにひりひりする。
「頭が見えました。会陰切開を行ないます」
「会陰……切開ですか?」
 ヒースは戸惑ったように医師の言葉を繰り返した。自分がされるわけでもないのになぜか彼自身が痛そうな顔をしている。
「出産をスムーズにするために膣と肛門の間を切るんです。リコリスさんは初産ですからそのほうが良いですし、そちらのほうが出産後の回復も早いです」
「……わかりました」
 お願いします、とヒースは医師を信じて頭を下げる。しかし、内心ではそんなところを切るという医師の発言が恐ろしくて仕方なかった。
 医師はガーゼとピンセット、金属のトレイと透明な液体の入った小瓶を往診鞄から取り出した。ガーゼをピンセットでつまむと、医師はカバンの中身にひたす。そして、医師はリコリスの股ぐらに手を伸ばすと、これから切開する場所を消毒した。
 医師は再び往診鞄を開く。今度は片方の刃が婉曲した鋏を取り出すと、トレーの上で消毒する。
 そして、医師は鋏の刃が鋭い方を外側、曲がっている方が内側になるようにあてがうと、斜め下方向に切開する。パチンという音が響き、膣の下部から肛門にかけてが切り裂かれた。傷口から血の赤が滲み、医師は止血のために消毒したガーゼを押し当てた。
 陣痛に混ざるようにして陰部に一瞬鋭い痛みを覚えたリコリスは息を詰まらせる。しかし、医師が言っていたことを思い出し、再び呼吸を再開した。
「うっ、あっ……」
 本能的なものなのか、何かを押し出そうと下腹部に力がこもる。骨盤が引き裂かれる。リコリスはそう思った。
「いきんで!」
「うっああああっ」
 医師に指示されて、リコリスは下腹部に力を込める。しかし、足が震えて上手く力が入らなかった。陣痛による疲労がピークに達し、視界がちかちかとする。
「もう頭が見えてます! 頑張って! 旦那さんは合図と同時にお腹を押して!」
 医師は矢継ぎ早に指示を飛ばす。終わらない痛みに支配されたリコリスは曖昧に頷く。わかりましたと答えるヒースの声が他人事のように聴覚の表面を掠めていった。
「リコリス。あともう少しだけ、頑張れるか? 俺も一緒に頑張るから、リコリスももう少しだけ頑張ってほしい」
 ヒースはリコリスの顔をタオルで拭ってやりながら彼女の耳元でそう囁きかけた。自分のことを案じてくれる低い優しい声にリコリスは確かな意志をもって頷いた。
 大きな痛みの波がリコリスを襲う。いきんで! と医師が檄を飛ばす。リコリスは目を涙で滲ませながらありったけの力を込めていきんだ。
「うああああああああああ!!」
 リコリスの絶叫が朝日が差し込み始めた室内に響く。ヒースはリコリスの下腹部に手を充てがうと、強く押した。
 肛門と会陰が引っ張られ、開いていく感じがした。圧迫感が最高潮に達した瞬間、何かがずるりと抜ける感じがした。身体を苛んでいた痛みがほんの少し和らいだ気がした。
「頭が出ました! あともう少し!」
 いきんで、と再び医師の指示が飛ぶ。リコリスが再び下腹部に力を込めると、産道をずるりと何かが下がっていくのがわかった。
「肩がでできた! リコリス、あともう少しだ!」
 リコリスはヒースの手を掴む。その手は汗ばんでいたが、ヒースが離すことはなかった。安心させるように彼の手がリコリスの手を握り返してくる。
「うああああああっ!」
 いきんで、という医師の声とともにリコリスは最後に残った力を振り絞った。
 背中。お尻。足。小さなそれらがリコリスの腹の中を出て、この世の光を浴びる。リコリスはずるずるっという感触の後に、体が一気に楽になったのを感じた。あれほど痛かった身体が痛みから解放され、リコリスの全身から力が抜けた。
 おぎゃあ、おぎゃあ、と小さな泣き声が聞こえた。それはか弱くとも、確かにこの世に生を受けた証だった。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」
 医師にそう告げられ、リコリスは疲れた顔に安堵の笑みを浮かべた。はあ、はあ、と彼女は肩で息をしながら、乱れた呼吸を整えていく。よく頑張ったな、とヒースはタオルで汗だくになった彼女の顔を拭ってやった。
 ヒース、と彼女はたった今、父親になったばかりの男の名を呼んだ。何か悪戯を思いついたかのように口角が上がっている。
「女の子だってさ。お嫁に行くとき泣きそうだね」
「やめろよ、今だって既に想像するだけで泣きそうなんだから」
「まったく、ヒース、子煩悩も大概にしないと嫌われるよ。パパうざいー、って」
「うざいは傷つくからやめろ。というか、俺の娘ならそんなことは言わない」
「でも反抗期になったらわからないよ?」
「ええー……俺の娘に限って反抗期とか来ないし……来るわけないし……」
 どうだか、とリコリスはふにゃっと笑った。二人がそんなやりとりをしている間に、医師は鉗子で血流を止めると、臍の緒をハサミで切る。そして、医師は赤ん坊をタオルで軽く拭うと、タオルごとリコリスへと差し出した。
「どうぞ。あなたの子ですよ」
 リコリスはヒースに支えられながら、消耗し切った体をベッドから起こす。そして、彼女はタオルに包まれた赤みの強いふにゃふにゃとした生き物を受け取った。
「うわあ……」
 ぽろぽろとリコリスの目から涙がこぼれ落ちた。これが我が子かという感慨と、何があってもこの先彼女の未来を守らなければならないという使命感がないまぜになってシーツの上に滴り落ちた。
 カーテンの外の空は金色と水色、朱色と藍色で美しく染め上げられていた。流れゆく雲は濃紺で、地平の果てに沈もうとしている影のない月が朝を告げていた。
「今日この日を……この空を、あたしは一生忘れない」
 リコリスはふにゃふにゃと泣き始めた我が子をあやしながら呟いた。腕の中で泣く我が子に、リコリスは未来への希望――自分がいなくなった後に続く世界を見ていた。
「俺も忘れない。俺たち家族が二人から三人になったこの日を」
「あたしはいつか遠い未来に、こうしてこの子にもこの空を見て欲しい。我が子を腕に抱く喜びを知ってほしい」
 リコリスは微笑んだ。きっと今、自分とヒースが考えていることは同じだ。二人は頷きあった。
「この子が生きる未来は絶対にあたしが守る。あたしはこの子がこの先を生きていくための希望になる。だからあたしはこの子にこう名前を付けようと思う――カルミア」
「今日の誕生花か。そして、花言葉は――大きな希望」
 そう、とリコリスは頷いた。そして、だめかな、と彼女はヒースを見やった。
「いや、いいと思う。この子の未来が希望で満ち溢れたものであるように俺も願うよ」
――カルミアに永遠の愛と祝福を。その未来が希望に満ちたものであらんことを。
 リコリスは口の中で小さく唱えると、小さな額に口付けを落とす。その双眸と首元の薔薇の痣は青い光を放っていた。
――聖月暦五九九九年八月七日。その日はリコリスとヒースにとって生涯忘れられない日となった。