カーテンから差し込んでくる朝日にまどろみの中を泳いでいたリコリスの意識は引き戻された。外では春告鳥が花の便りを交わし合う声がする。「うぅん……」小さく唸りながらリコリスは寝返りを打って横向きにしていた身体を仰向けに戻した。
いつの間にか見慣れたナラの木の天井。寝乱れたシーツ。横で眠る無精髭の生えたヒースの横顔。カーテンの向こう側で揺れる黄色いフリージアの花。
リコリスとヒースが正式に恋人となってちょうど一年ほど。リコリスの悪阻の時期も終わり、安定期へと入っていた。
(ヒースまだ寝てるし、朝食の用意をしちゃおう)
リコリスはそっとベッドを抜け出した。ざっと小さく衣擦れの音が鳴る。
リコリスは腹を締め付けないワンピース型の寝巻きを脱ぐと、リンテルに吊るした修道服を身に纏った。修道服の腹部のまろやかな膨らみを撫でながら、リコリスはヒースのことを思う。
(……何で何も言わないんだろう、この人は)
昨夜の営みの最中にも、リコリスは彼の背中に満遍なく散る紫色の痣を見た。ベッドサイドテーブルの引き出しに施療院から処方された湿布が入っていることもリコリスは知っている。
(……全部はあたしの我儘だ。だから、咎はあたしだけが背負えばいい)
そう考えたところで、ふっと苦笑が口をついて出た。自分たちはおそらく似たもの同士だ。
(お互いにお互いが大切だから……それはわかっているけれど)
わかっているからこそ、互いが互いのことを守ろうとしてしまう。自分たちの悪いところだ。
悪阻がましになり始めた時期から、リコリスは神子としての仕事に本格的に復帰した。長く不在にしていたことに関して教皇じきじきに説教を食らったが、こうなるまであたしがどこで何をしているかなんて知らなかったくせにとリコリスは心の中で舌を出しておいた。
再び公の場に顔を出すようになったリコリスを見た信徒たちは、彼女を悪罵した。
――神子が穢された! お前の身勝手のせいで天恵は失われた!
――純潔を失った神子に終滅の夜を祓う力なんてもうない! お前のせいで世界は滅ぶんだ!
リコリスに向かって生卵を投げつける者さえいた。リコリスは卵白でぬるぬるになりながらも、淡々と女神の教えを説いた。
――女神は清貧を是とします。食べ物をこのような形で粗末にする者はやがて、女神に見放されるでしょう。
リコリス以前の神子で子を孕んだという記録はない。しかし、破瓜の痛みを知ってなお、リコリスの天恵は失われていなかった。翌年に控えた終滅の夜に向けて、その力は増すばかりだった。
じわじわと終滅の夜が近づいてきているからだろうか。それとも守りたいものができたからだろうか。子を宿したリコリスは、生きとし生けるものすべての母と呼ばれたかつての女神リュンヌに近づきつつあった。
さて、それよりも、とリコリスはキッチンへと向かうと食器棚の角にかけてあった白いエプロンを修道服の上から纏う。そして、マッチを取り出すと、竈に火を入れ、昨日の夕飯の残りのスープを温め始めた。
スープを温めている間に、リコリスは食器棚から木の椀と皿とスプーンを二つずつ取り出した。鍋が沸々と煮え、湯気が上がり始めると、リコリスはうずらと春キャベツのスープをよそった。
スープの椀をダイニングテーブルに置くと、リコリスはヒースを起こしにベッドルームに戻る。一緒に暮らし始めてから知ったことだが、ヒースは血圧が低いのか朝があまり強くない。
「ヒース、朝だよ」
リコリスはシーツの間で眠るヒースの肩を揺する。すると、ヒースは瞼を微かに開ける。しかし、瞼と瞼の間から除く鳶色の双眸は睡魔に冒されて蕩然としていた。
「ん……リコリス……もう、朝か……?」
ヒースはリコリスの腰に手を回すと腹に頬を押し付ける。そのとき、小さな足がリコリスの腹の内側を蹴った。その小さな衝撃に、ヒースは口元を緩める。
「もうこんなに動くんだなあ……俺はこの子の親になるのか」
しみじみと呟いているヒースをリコリスはえいっと引き剥がす。そして、リコリスは腰に片手を当て、もう片方の手の人差し指をヒースの鼻先に突きつける。
「ほら、そんなこと言ってないで早く起きて。朝ごはんにするよ」
「俺はこうやってリコリスの尻に敷かれていくのか……いや、悪くないな……」
むにゃむにゃと何事か呟いているヒースにリコリスは嘆息する。そして、リコリスは仕方ないなあとばかりに慈愛に満ちた赤い目で自分に縋り付くヒースを見やった。これがリコリスとヒースの日常であり、幸福だった。
その日までに片付けないといけない仕事を片付けた昼下がり。ヒースは針でなめし皮を縫い合わせていた。
作っていたのはキャメル色のキーケース。仕事の合間にリコリスの目を盗んで、少しずつ作り進めていた作品だった。
ヒースは子どもが生まれたら、これに子どもの名前と誕生日を刺繍しようと思っていた。そして、〝いつも見守っている〟という意味を込めて、子どもが成人したら渡してやろうと思っていた。そんなことを言えば、リコリスにはまた気が早いと笑われてしまいそうだけれど。
(お腹に子どもまでいるんだ、リコリスのこと、ちゃんとしないとな)
リコリスの神子という立場上、教会で結婚式を挙げることは難しいだろうとはわかっている。そんなことをしても、もらえるのは祝福ではなく悪罵の嵐だろう。
そんな彼女のために革小物職人のヒースがしてやれることは少ない。ヒースは皮を縫い合わせる手を休めると、道具箱を開く。
道具箱の底で眠っていたのは、珍しい青灰色に染め上げられた革の財布だった。蓋には彼岸花の柄が型押しされ、L・Lと刺繍がされている。
いつもいくマルシェのなめし革を扱う店でこの革を見た瞬間に、ヒースはリコリスと出会った日の春霞の空を思い出した。春先のまだ冬の憂いを帯びた青。ヒースはどうしてもそれを手に取らないではいられなかった。
リコリスはこれまで財布を持っていなかった。あれだけ教会で働かされていながらも、金を与えられていなかったからだ。
だから、ヒースは何かの記念日にせっかくだからリコリスに財布を贈ってやろうと思っていた。しかし、半年の記念日のときにああいった形でリコリスの願いを叶えることになってしまったため、この財布は渡せずじまいにいた。
財布を贈る意味は〝いつもあなたのそばにいたい〟。ヒースは残り一年半に満たない限りある時間をリコリスと最後まで共に過ごしたいと願っている。
彼女は愛を知らずに育った。だからこそ、大袈裟すぎたとしても、そのことをきちんと伝えてやりたい。
どうにかこれを渡す機会を作ることはできないものか。きっと子どもが生まれたら、そんな余裕はない。次のリコリスの誕生日に贈ろうにも、きっとそれどころではないだろう。
(――あ)
今週末はちょうどリコリスと正式に恋人になって一年の日だ。暦を読み間違えていなければそれであっているはずだ。
悪阻の時期を抜け、リコリスは最近調子がよさそうだ。施療院の医師からも適度に運動をするように勧められているし、軽い散歩に連れ出してみるのはどうだろうか。
今やリコリスとヒースは街中からよくない意味で視線を集めている。この分だと少し出かけるにも頭巾と帽子が手放せそうにないなとヒースは肩をすくめた。
(――そういえば)
ヒースは作業をしていたダイニングを離れ、寝室の本棚の前に座り込む。本棚に並ぶかつてミュゲのために買ってやった大衆小説のタイトルの波がヒースの視界を通り過ぎていく。
「――あった」
ヒースはミュゲが愛読していた植物図鑑を見つけると引っ張り出した。なんとはなしにページをめくると、開き癖がついていたのか、薔薇のページが自然と開いた。ページの中央にはあの日の薔薇の葉の押し花で作った栞が挟まっていた。
あの日の薔薇園のやり取りが自然と思い起こされ、ヒースの瞼の奥が熱くなった。
(――ミュゲ。俺はお前に恥じない人間になれているだろうか)
じわりと迫り上がって来た涙をヒースは指先で乱暴に拭う。ヒースが再びページを繰ろうとすると、ぱりっという音とともに薔薇のページが剥がれた。
もうわたしがいなくても大丈夫ね。ミュゲにそう言われたようでヒースは寂寞の念に駆られた。しかし、もう何年も前にミュゲはいなくなったのだ。自分に囚われたままではいけない。自分が囚われたままではいけないと思い直す。
ヒースは大事に薔薇のページの栞をもとあった場所に戻すと、慎重にページをめくる。そして、ヒースは目的のものが載っているページを見つけると眉根を寄せた。
季節的にはまだ手に入る。しかし、どうやってそれを調達してこよう。
マルシェにあるのはわかっている。しかし、今のリコリスをもうマルシェのような大衆の目に晒さられるところに連れて行きたくはなかった。
(――よし、決めた。リコリスには呆れられそうだが……)
あとはリコリスに外出の約束を取り付けるだけである。ヒースはそっと図鑑を本棚に戻すと、ベッドルームを離れる。ダイニングに戻ってきたヒースはまだ見ぬ我が子へと向けた未来の贈り物へと再び針を刺し始めた。
(だんだんやることが露骨になってきたな)
リコリスの足を引っかけるつもりだったのか、赤いビロードの絨毯の継ぎ目が捲れている。彼女は行儀悪く足で絨毯を戻した。腹がだんだんと大きくなってきてから、屈むのも一苦労なのだ。
(――それに、さっきの昼食のスープ)
今日は午後までかかる仕事があったため、珍しくリコリスは昼に食堂に顔を出していた。昼食のスープをもらうために列に並んでいると、リコリスのものにだけ、配膳担当のシスターがさらさらと謎の粉を入れた。席についてから、何を盛られたのかと臭いを確認したら、やたらと土っぽい匂いがした。この季節だと、入れられたのは年中いつでも手に入る多年草――堕胎剤として使われるホオズキの根か。
子を孕んだリコリスを許せずに事あるごとに彼女を流産させようとしてくる教会内の過激派の一派がいる。その勢力は下位のシスターたちの中にまで及んでいる。人間の負の感情とは恐ろしい。
「っと」
廊下をすれ違いざまにリコリスは一人の司祭に強くぶつかられた。肩にどんと衝撃が来て、リコリスは危うく後ろにつんのめりかけた。壁に手を突っ張って、彼女はどうにか転倒を免れる。
「失礼」
ぶつかってきた司祭はリコリスの顔を見ようともせずに、小さく呟くと大股で去っていった。あれ絶対微塵も悪いと思っていないよなあと思いながらリコリスはその背を見送った。あれは過激派に属する司祭だ。
最近はこんなことばかりで気が滅入る。しかし、母である自分がこんなことばかり気にしてきていると、おそらくお腹の子にあまりよくない。こんな顔をしていたら、ヒースにだって気を遣わせてしまうだろう。
ヒースは心配くらいさせろと寄り添ってくれるだろう。教会での話を聞けばリコリスの代わりに憤ってもくれるだろう。あの人はそういう優しい人だ。
でも、リコリスだってタダで折れてやる気はない。負けてやる気なんてさらさらない。ヒースには本当に辛くなったときに寄りかかることにしよう。
さて、とリコリスは気持ちを切り替えるように軽く両頬を叩く。軽い衝撃とともにいくらか思考に清涼さが戻ったように思った。
(今日はこの後葬儀が一件あるんだっけ。それが終わったら帰れるしあと少し頑張ろう)
こんな嫌なことがあった日にはヒースには夕飯を少々奮発してもらおう。たとえば丸鶏のハーブ焼きとか。作るのは自分だが、それを考えただけで少し心が軽くなった。
リコリスは首から下げた十字架をそっと握る。女神リュンヌに誓って自分は後ろめたいことなど何一つしていない、とリコリスは胸を張ると廊下を進み始めた。
どっこいしょ、とリコリスは重たい丸鶏が乗ったグリル皿を掴むと竈から出し、ダイニングテーブルに置いた。内臓を取り除いて様々なハーブを詰めた鶏肉の表面はぱりっと焼けて、ランプの火を反射してつやつやと光っている。
リコリスはブラウスの袖口で額に浮いた汗を拭う。ふう、と息をつくとリコリスはダイニングチェアに腰を下ろす。
ヒースはそれぞれのグラスに水差しからレモン水を注いだ。リコリスの妊娠がわかってから、二人は酒を控えるようにしていた。
「竈から皿を出すくらい俺がやるのに」
「ヒースがやると火傷しそうだからちょっと……革小物職人なんて手が商売道具なんだから。これ以上、施療院のお世話になってどうするの」
これ以上って、とヒースはぎくりとした。リコリスはナイフとフォークで鶏肉を切り分けながら、はあとため息をつく。
「ヒース、街の人から嫌がらせ受けてるでしょ。背中痣だらけだし、施療院の湿布があるのも見た」
そうか、とヒースは静かに頷いた。しかし、その表情には苦々しさと悔しさが混ざり合っていた。
「リコリスのほうは教会で何もないか?」
「あたしは特にないよ。身の安全を脅かされるようなのは」
嘘だ、とヒースは間髪を容れずに畳み掛けた。彼は鳶色の目でリコリスの赤いそれをじっと見つめた。
「お前、俺に何か隠しているときはやけに瞬きが減るんだよ。一年も一緒にいればそのくらいわかる。――それで、何があった?」
「ちょっと昼食に堕胎剤を……」
リコリスがごにょごにょと口の中で言うと、はあっ!? と血相を変えてばんとテーブルを叩いて立ち上がった。反動でテーブルの上の皿とカトラリーがからんと音を立てた。
「それは犯罪だろう!? 教会は何を考えているんだ!?」
「一部にあたしを流産させようとしている過激派がいるみたいでね。まあ、神子の子どもであるあたしの子に将来的に権力を握らせないようにするための予防策だとかなんだとか」
「だとしてもやりすぎだ!」
「まあそうなんだけどね。嫌がらせの結果、あたしが子どもを失っても連中は涼しい顔でこう言うよ。――その子どもがこの世に生まれ落ちられなかったのは、あたしの魂の有り様が悪かったからだ、って」
ヒースは絶句した。人に嫌がらせをして、何かあったら被害者のせい。自分が信仰してきた教会の内部はこんなにもどろどろと人の咎にまみれ、腐り切っていたのか。
「まあ、そんなことはいいよ。ヒース、座って。早く食べないとせっかくのお肉も冷めちゃうよ」
リコリスに促されて不承不承ながらもヒースは再び椅子に腰を下ろす。リコリスは切り分けた肉をヒースと自分の皿に盛り付けた。
「いただきます」
「……いただきます」
珍しく無言になったダイニングに二対のナイフとフォークが動くかちゃかちゃとした音が響く。今日はヒースの機嫌は直りそうにないな、とリコリスは内心で苦笑する。たとえば、立場が逆でヒースが同じ目に合っていたらリコリスなら、教会に乗り込んで教皇の胸倉を掴み上げるので、人のことは言えない。むしろ教会が幅を効かせるこの街でそれをやらないだけ、ヒースはまだ理性的とも言えた。
(……とはいえ、やっぱ怒ってるなあ……)
普段は穏やかなヒースの鳶色の目の奥にゆらゆらと怒りの炎が揺れている。リコリスはさっさと自分の食事を腹の中に片付けると、席を立った。
食器を流しに持っていくと、リコリスは小鍋に水瓶の水を汲んで竈にかけた。そして、リコリスはティーポットとカップを食器棚から出す。ヒースの気持ちを落ち着けるためにとっておきの茶葉をリコリスは出してくると、ティースプーンで二人分の量を測ってポットにいれた。
ふつふつと湯が沸くと、リコリスは小鍋の湯をティーカップとティーポットに入れた。二人でマルシェに買いに行った砂時計をひっくり返すと、白い砂がさらさらと落ちていくのを横目に彼女は小鍋も流しへと持っていった。
砂時計の砂が落ちきるころになると、ヒースも食事を終えていた。リコリスはティーカップのお湯を捨てると、ポットから薔薇の香りがする茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
リコリスはヒースの前に湯気が立つカップを置く。そして、リコリスは再びヒースの向かいに腰掛けると自分の分の茶に口をつけた。
ちら、ちらとヒースが何か物言いたげにリコリスを見る。リコリスはヒースが何やら居心地悪げにしている様が何だかおかしくてくすりと小さく笑った。ヒースはむすっとしたように唇を歪める。
「……なんだよ」
「いや、別に。何か言いたいことでもあるの?」
リコリスは先ほどの話の続きが始まるのだろうと思っていた。しかし、ヒースの口を切って出たのは意外な言葉だった。
「……今週末のミサの後、時間あるか?」
「ミサの後は何も予定ないから大丈夫だけど。それがどうかしたの?」
「少しだけ出かけないか?」
「今、あたしとヒースが連れ立って出かけたら目立ってしょうがないと思うけど」
「遠目にはそうわからないようにしていけばいいだろう。俺は帽子を被って度のない眼鏡をかけていく。リコリスのために頭巾も用意してある」
「……随分と用意周到だね? 何かあるの?」
「わかってていわせるつもりだろう、お前」
「わかってても口にして欲しいことって世の中にはあるでしょ」
「……そのときになったらちゃんと言ってやるよ」
楽しみにしてるね、とリコリスは微笑んだ。そして二人は鼻腔に満ちていく薔薇の香りを楽しみながら、黙ってティーカップを傾けた。
日曜日の午後、リコリスとヒースが訪れたのは公園だった。リコリスは髪の上から深緑の頭巾を被り、ヒースも帽子と伊達眼鏡を身につけていた。
日が傾きかけてなお、暖かい日だった。ちょうど一年前もこんなふうに暖かかったな、とリコリスは思い出す。
花壇には季節の花々が咲き乱れ、風に花びらを揺らしている。つい二週間ほど前まで木々を彩っていた薄桃色の花は空の彼方へと旅立ち、枝からは瑞々しい新芽が顔を覗かせていた。
リコリスたちの前を日曜学校に通っているくらいの子どもたちが駆け抜けていった。「捕まえた!」「くそ!」鬼ごっこでもしているのか、そんな声が響いてきた。
リコリスはヒースと共に春の自然を楽しみながら、公園を歩いた。その途中で薔薇園の前に差し掛かったが、リコリスはヒースの手を引いて足早に通り過ぎた。
「薔薇園、見なくていいのか? そろそろ見ごろだと思うが……」
「いいよ。ここはヒースとミュゲさんの思い出が詰まった場所でしょ。あたしはそんなところを土足で踏み荒らしたくはない」
「……そうか」
リコリスとヒースはどんどん公園の奥へと進んでいく。チーク材で作られたベンチの前まで来ると、「少し休むか」「そうだね」二人は腰を下ろした。
風が心地よかった。冬ほど冷たくはなく、夏ほどの湿度のない風は柔らかくて気持ち良い。
視界の先にチューリップの花壇があった。すっと伸びた茎の先で揺れる丸みを帯びた滑らかな明るい色合いの花びらたちが、リコリスたちの視界を彩っている。
「ちょっと待ってろ」
ヒースは立ち上がり花壇に咲く一輪の白いチューリップに手をかける。ぶちり、とヒースはチューリップを手折るとリコリスの側に戻ってきた。
「もう、ヒースってば何やってるの。バレたら怒られるよ。昔、薔薇園で同じことやって怒られて懲りたんじゃないの?」
「お前が誰かに言わなきゃばれねえよ。幸いこんな奥まで来る人間は少ないからな。花の一本くらい無くなってたって、子どもの悪戯で済まされる」
「一体ヒースはいくつまで子どものつもりなの? 四十二歳のおじさんなのに」
うるせえ、とヒースはベンチに置いていたトートバッグから青灰色の革財布を取り出した。そして、彼は少し乱暴にリコリスの手に、L・Lとイニシャルが刺繍された財布を押し付けた。
「ほら、やるよ。今日、恋人になって一年の記念日だろ。それにお前、まともな財布持ってなかったはずだし」
「あ……!」
照れくさいのか、ヒースは目を泳がせる。その耳は赤く染まっている。
「財布を贈る意味は〝ずっとあなたのそばにいたい〟、だそうだ。つまり――」
リコリスは財布を胸に抱いたまま、もう、と不満げに唇を尖らせた。この前外出に誘われてから、こういう流れになることは予期していた。しかし、リコリスとて女に生まれた以上、思うところがある。
「ヒース、もうちょっと雰囲気っていうものがあるでしょ?」
「悪かったな、不器用で」
ヒースは帽子の上から頭を掻きむしる。誰かに愛の言葉を告げるのはこれが初めてというわけではない。けれど、もう少し自分がこういうことを上手くやれる人間だったなら。己を不甲斐なく思いながら、ヒースはリコリスの前に跪く。
「リコリス、手を出せ。左手だ」
うん、とリコリスは左手をヒースはと差し出した。ヒースは先ほど手折ってきた白いチューリップの茎をリコリスの薬指に結びつける。
「白いチューリップの花言葉は〝新しいはじまり〟。俺とお前の立場じゃ結婚式も挙げられないし、籍も入れられない。だけど、それでも、お前の残りの時間を俺にくれ――どうか俺の妻になってくれ。――リコリス・ランズバーグ」
リコリスの表情が泣き笑いのようにくしゃりと歪む。頭の中を嬉しさが占拠し、心に暖かさが込み上げてくる。この人の妻となり、家族になる。それはリコリスにとってこの上ない喜びだった。
「もう、そんなの断れるわけないじゃん。喜んで。残された時間をあなたとこの子と歩むことを誓うよ――ヒース・ランズバーグ」
ヒースはリコリスの頬に手を這わせると、唇を重ねた。そして、二人は唇を離すと微笑みあった。
「ねえ、ヒース。今度、指輪買いに行こうよ。籍は入れられなくても、そのくらいは許されるはずだよ。こうやって変装して出かけるのもちょっと面白いし」
わかったよ、とヒースは頷いた。新しい門出を迎えた二人を祝福するようにチューリップが風に揺られてさわさわと合唱を奏でていた。
いつの間にか見慣れたナラの木の天井。寝乱れたシーツ。横で眠る無精髭の生えたヒースの横顔。カーテンの向こう側で揺れる黄色いフリージアの花。
リコリスとヒースが正式に恋人となってちょうど一年ほど。リコリスの悪阻の時期も終わり、安定期へと入っていた。
(ヒースまだ寝てるし、朝食の用意をしちゃおう)
リコリスはそっとベッドを抜け出した。ざっと小さく衣擦れの音が鳴る。
リコリスは腹を締め付けないワンピース型の寝巻きを脱ぐと、リンテルに吊るした修道服を身に纏った。修道服の腹部のまろやかな膨らみを撫でながら、リコリスはヒースのことを思う。
(……何で何も言わないんだろう、この人は)
昨夜の営みの最中にも、リコリスは彼の背中に満遍なく散る紫色の痣を見た。ベッドサイドテーブルの引き出しに施療院から処方された湿布が入っていることもリコリスは知っている。
(……全部はあたしの我儘だ。だから、咎はあたしだけが背負えばいい)
そう考えたところで、ふっと苦笑が口をついて出た。自分たちはおそらく似たもの同士だ。
(お互いにお互いが大切だから……それはわかっているけれど)
わかっているからこそ、互いが互いのことを守ろうとしてしまう。自分たちの悪いところだ。
悪阻がましになり始めた時期から、リコリスは神子としての仕事に本格的に復帰した。長く不在にしていたことに関して教皇じきじきに説教を食らったが、こうなるまであたしがどこで何をしているかなんて知らなかったくせにとリコリスは心の中で舌を出しておいた。
再び公の場に顔を出すようになったリコリスを見た信徒たちは、彼女を悪罵した。
――神子が穢された! お前の身勝手のせいで天恵は失われた!
――純潔を失った神子に終滅の夜を祓う力なんてもうない! お前のせいで世界は滅ぶんだ!
リコリスに向かって生卵を投げつける者さえいた。リコリスは卵白でぬるぬるになりながらも、淡々と女神の教えを説いた。
――女神は清貧を是とします。食べ物をこのような形で粗末にする者はやがて、女神に見放されるでしょう。
リコリス以前の神子で子を孕んだという記録はない。しかし、破瓜の痛みを知ってなお、リコリスの天恵は失われていなかった。翌年に控えた終滅の夜に向けて、その力は増すばかりだった。
じわじわと終滅の夜が近づいてきているからだろうか。それとも守りたいものができたからだろうか。子を宿したリコリスは、生きとし生けるものすべての母と呼ばれたかつての女神リュンヌに近づきつつあった。
さて、それよりも、とリコリスはキッチンへと向かうと食器棚の角にかけてあった白いエプロンを修道服の上から纏う。そして、マッチを取り出すと、竈に火を入れ、昨日の夕飯の残りのスープを温め始めた。
スープを温めている間に、リコリスは食器棚から木の椀と皿とスプーンを二つずつ取り出した。鍋が沸々と煮え、湯気が上がり始めると、リコリスはうずらと春キャベツのスープをよそった。
スープの椀をダイニングテーブルに置くと、リコリスはヒースを起こしにベッドルームに戻る。一緒に暮らし始めてから知ったことだが、ヒースは血圧が低いのか朝があまり強くない。
「ヒース、朝だよ」
リコリスはシーツの間で眠るヒースの肩を揺する。すると、ヒースは瞼を微かに開ける。しかし、瞼と瞼の間から除く鳶色の双眸は睡魔に冒されて蕩然としていた。
「ん……リコリス……もう、朝か……?」
ヒースはリコリスの腰に手を回すと腹に頬を押し付ける。そのとき、小さな足がリコリスの腹の内側を蹴った。その小さな衝撃に、ヒースは口元を緩める。
「もうこんなに動くんだなあ……俺はこの子の親になるのか」
しみじみと呟いているヒースをリコリスはえいっと引き剥がす。そして、リコリスは腰に片手を当て、もう片方の手の人差し指をヒースの鼻先に突きつける。
「ほら、そんなこと言ってないで早く起きて。朝ごはんにするよ」
「俺はこうやってリコリスの尻に敷かれていくのか……いや、悪くないな……」
むにゃむにゃと何事か呟いているヒースにリコリスは嘆息する。そして、リコリスは仕方ないなあとばかりに慈愛に満ちた赤い目で自分に縋り付くヒースを見やった。これがリコリスとヒースの日常であり、幸福だった。
その日までに片付けないといけない仕事を片付けた昼下がり。ヒースは針でなめし皮を縫い合わせていた。
作っていたのはキャメル色のキーケース。仕事の合間にリコリスの目を盗んで、少しずつ作り進めていた作品だった。
ヒースは子どもが生まれたら、これに子どもの名前と誕生日を刺繍しようと思っていた。そして、〝いつも見守っている〟という意味を込めて、子どもが成人したら渡してやろうと思っていた。そんなことを言えば、リコリスにはまた気が早いと笑われてしまいそうだけれど。
(お腹に子どもまでいるんだ、リコリスのこと、ちゃんとしないとな)
リコリスの神子という立場上、教会で結婚式を挙げることは難しいだろうとはわかっている。そんなことをしても、もらえるのは祝福ではなく悪罵の嵐だろう。
そんな彼女のために革小物職人のヒースがしてやれることは少ない。ヒースは皮を縫い合わせる手を休めると、道具箱を開く。
道具箱の底で眠っていたのは、珍しい青灰色に染め上げられた革の財布だった。蓋には彼岸花の柄が型押しされ、L・Lと刺繍がされている。
いつもいくマルシェのなめし革を扱う店でこの革を見た瞬間に、ヒースはリコリスと出会った日の春霞の空を思い出した。春先のまだ冬の憂いを帯びた青。ヒースはどうしてもそれを手に取らないではいられなかった。
リコリスはこれまで財布を持っていなかった。あれだけ教会で働かされていながらも、金を与えられていなかったからだ。
だから、ヒースは何かの記念日にせっかくだからリコリスに財布を贈ってやろうと思っていた。しかし、半年の記念日のときにああいった形でリコリスの願いを叶えることになってしまったため、この財布は渡せずじまいにいた。
財布を贈る意味は〝いつもあなたのそばにいたい〟。ヒースは残り一年半に満たない限りある時間をリコリスと最後まで共に過ごしたいと願っている。
彼女は愛を知らずに育った。だからこそ、大袈裟すぎたとしても、そのことをきちんと伝えてやりたい。
どうにかこれを渡す機会を作ることはできないものか。きっと子どもが生まれたら、そんな余裕はない。次のリコリスの誕生日に贈ろうにも、きっとそれどころではないだろう。
(――あ)
今週末はちょうどリコリスと正式に恋人になって一年の日だ。暦を読み間違えていなければそれであっているはずだ。
悪阻の時期を抜け、リコリスは最近調子がよさそうだ。施療院の医師からも適度に運動をするように勧められているし、軽い散歩に連れ出してみるのはどうだろうか。
今やリコリスとヒースは街中からよくない意味で視線を集めている。この分だと少し出かけるにも頭巾と帽子が手放せそうにないなとヒースは肩をすくめた。
(――そういえば)
ヒースは作業をしていたダイニングを離れ、寝室の本棚の前に座り込む。本棚に並ぶかつてミュゲのために買ってやった大衆小説のタイトルの波がヒースの視界を通り過ぎていく。
「――あった」
ヒースはミュゲが愛読していた植物図鑑を見つけると引っ張り出した。なんとはなしにページをめくると、開き癖がついていたのか、薔薇のページが自然と開いた。ページの中央にはあの日の薔薇の葉の押し花で作った栞が挟まっていた。
あの日の薔薇園のやり取りが自然と思い起こされ、ヒースの瞼の奥が熱くなった。
(――ミュゲ。俺はお前に恥じない人間になれているだろうか)
じわりと迫り上がって来た涙をヒースは指先で乱暴に拭う。ヒースが再びページを繰ろうとすると、ぱりっという音とともに薔薇のページが剥がれた。
もうわたしがいなくても大丈夫ね。ミュゲにそう言われたようでヒースは寂寞の念に駆られた。しかし、もう何年も前にミュゲはいなくなったのだ。自分に囚われたままではいけない。自分が囚われたままではいけないと思い直す。
ヒースは大事に薔薇のページの栞をもとあった場所に戻すと、慎重にページをめくる。そして、ヒースは目的のものが載っているページを見つけると眉根を寄せた。
季節的にはまだ手に入る。しかし、どうやってそれを調達してこよう。
マルシェにあるのはわかっている。しかし、今のリコリスをもうマルシェのような大衆の目に晒さられるところに連れて行きたくはなかった。
(――よし、決めた。リコリスには呆れられそうだが……)
あとはリコリスに外出の約束を取り付けるだけである。ヒースはそっと図鑑を本棚に戻すと、ベッドルームを離れる。ダイニングに戻ってきたヒースはまだ見ぬ我が子へと向けた未来の贈り物へと再び針を刺し始めた。
(だんだんやることが露骨になってきたな)
リコリスの足を引っかけるつもりだったのか、赤いビロードの絨毯の継ぎ目が捲れている。彼女は行儀悪く足で絨毯を戻した。腹がだんだんと大きくなってきてから、屈むのも一苦労なのだ。
(――それに、さっきの昼食のスープ)
今日は午後までかかる仕事があったため、珍しくリコリスは昼に食堂に顔を出していた。昼食のスープをもらうために列に並んでいると、リコリスのものにだけ、配膳担当のシスターがさらさらと謎の粉を入れた。席についてから、何を盛られたのかと臭いを確認したら、やたらと土っぽい匂いがした。この季節だと、入れられたのは年中いつでも手に入る多年草――堕胎剤として使われるホオズキの根か。
子を孕んだリコリスを許せずに事あるごとに彼女を流産させようとしてくる教会内の過激派の一派がいる。その勢力は下位のシスターたちの中にまで及んでいる。人間の負の感情とは恐ろしい。
「っと」
廊下をすれ違いざまにリコリスは一人の司祭に強くぶつかられた。肩にどんと衝撃が来て、リコリスは危うく後ろにつんのめりかけた。壁に手を突っ張って、彼女はどうにか転倒を免れる。
「失礼」
ぶつかってきた司祭はリコリスの顔を見ようともせずに、小さく呟くと大股で去っていった。あれ絶対微塵も悪いと思っていないよなあと思いながらリコリスはその背を見送った。あれは過激派に属する司祭だ。
最近はこんなことばかりで気が滅入る。しかし、母である自分がこんなことばかり気にしてきていると、おそらくお腹の子にあまりよくない。こんな顔をしていたら、ヒースにだって気を遣わせてしまうだろう。
ヒースは心配くらいさせろと寄り添ってくれるだろう。教会での話を聞けばリコリスの代わりに憤ってもくれるだろう。あの人はそういう優しい人だ。
でも、リコリスだってタダで折れてやる気はない。負けてやる気なんてさらさらない。ヒースには本当に辛くなったときに寄りかかることにしよう。
さて、とリコリスは気持ちを切り替えるように軽く両頬を叩く。軽い衝撃とともにいくらか思考に清涼さが戻ったように思った。
(今日はこの後葬儀が一件あるんだっけ。それが終わったら帰れるしあと少し頑張ろう)
こんな嫌なことがあった日にはヒースには夕飯を少々奮発してもらおう。たとえば丸鶏のハーブ焼きとか。作るのは自分だが、それを考えただけで少し心が軽くなった。
リコリスは首から下げた十字架をそっと握る。女神リュンヌに誓って自分は後ろめたいことなど何一つしていない、とリコリスは胸を張ると廊下を進み始めた。
どっこいしょ、とリコリスは重たい丸鶏が乗ったグリル皿を掴むと竈から出し、ダイニングテーブルに置いた。内臓を取り除いて様々なハーブを詰めた鶏肉の表面はぱりっと焼けて、ランプの火を反射してつやつやと光っている。
リコリスはブラウスの袖口で額に浮いた汗を拭う。ふう、と息をつくとリコリスはダイニングチェアに腰を下ろす。
ヒースはそれぞれのグラスに水差しからレモン水を注いだ。リコリスの妊娠がわかってから、二人は酒を控えるようにしていた。
「竈から皿を出すくらい俺がやるのに」
「ヒースがやると火傷しそうだからちょっと……革小物職人なんて手が商売道具なんだから。これ以上、施療院のお世話になってどうするの」
これ以上って、とヒースはぎくりとした。リコリスはナイフとフォークで鶏肉を切り分けながら、はあとため息をつく。
「ヒース、街の人から嫌がらせ受けてるでしょ。背中痣だらけだし、施療院の湿布があるのも見た」
そうか、とヒースは静かに頷いた。しかし、その表情には苦々しさと悔しさが混ざり合っていた。
「リコリスのほうは教会で何もないか?」
「あたしは特にないよ。身の安全を脅かされるようなのは」
嘘だ、とヒースは間髪を容れずに畳み掛けた。彼は鳶色の目でリコリスの赤いそれをじっと見つめた。
「お前、俺に何か隠しているときはやけに瞬きが減るんだよ。一年も一緒にいればそのくらいわかる。――それで、何があった?」
「ちょっと昼食に堕胎剤を……」
リコリスがごにょごにょと口の中で言うと、はあっ!? と血相を変えてばんとテーブルを叩いて立ち上がった。反動でテーブルの上の皿とカトラリーがからんと音を立てた。
「それは犯罪だろう!? 教会は何を考えているんだ!?」
「一部にあたしを流産させようとしている過激派がいるみたいでね。まあ、神子の子どもであるあたしの子に将来的に権力を握らせないようにするための予防策だとかなんだとか」
「だとしてもやりすぎだ!」
「まあそうなんだけどね。嫌がらせの結果、あたしが子どもを失っても連中は涼しい顔でこう言うよ。――その子どもがこの世に生まれ落ちられなかったのは、あたしの魂の有り様が悪かったからだ、って」
ヒースは絶句した。人に嫌がらせをして、何かあったら被害者のせい。自分が信仰してきた教会の内部はこんなにもどろどろと人の咎にまみれ、腐り切っていたのか。
「まあ、そんなことはいいよ。ヒース、座って。早く食べないとせっかくのお肉も冷めちゃうよ」
リコリスに促されて不承不承ながらもヒースは再び椅子に腰を下ろす。リコリスは切り分けた肉をヒースと自分の皿に盛り付けた。
「いただきます」
「……いただきます」
珍しく無言になったダイニングに二対のナイフとフォークが動くかちゃかちゃとした音が響く。今日はヒースの機嫌は直りそうにないな、とリコリスは内心で苦笑する。たとえば、立場が逆でヒースが同じ目に合っていたらリコリスなら、教会に乗り込んで教皇の胸倉を掴み上げるので、人のことは言えない。むしろ教会が幅を効かせるこの街でそれをやらないだけ、ヒースはまだ理性的とも言えた。
(……とはいえ、やっぱ怒ってるなあ……)
普段は穏やかなヒースの鳶色の目の奥にゆらゆらと怒りの炎が揺れている。リコリスはさっさと自分の食事を腹の中に片付けると、席を立った。
食器を流しに持っていくと、リコリスは小鍋に水瓶の水を汲んで竈にかけた。そして、リコリスはティーポットとカップを食器棚から出す。ヒースの気持ちを落ち着けるためにとっておきの茶葉をリコリスは出してくると、ティースプーンで二人分の量を測ってポットにいれた。
ふつふつと湯が沸くと、リコリスは小鍋の湯をティーカップとティーポットに入れた。二人でマルシェに買いに行った砂時計をひっくり返すと、白い砂がさらさらと落ちていくのを横目に彼女は小鍋も流しへと持っていった。
砂時計の砂が落ちきるころになると、ヒースも食事を終えていた。リコリスはティーカップのお湯を捨てると、ポットから薔薇の香りがする茶を注いだ。
「はい、どうぞ」
リコリスはヒースの前に湯気が立つカップを置く。そして、リコリスは再びヒースの向かいに腰掛けると自分の分の茶に口をつけた。
ちら、ちらとヒースが何か物言いたげにリコリスを見る。リコリスはヒースが何やら居心地悪げにしている様が何だかおかしくてくすりと小さく笑った。ヒースはむすっとしたように唇を歪める。
「……なんだよ」
「いや、別に。何か言いたいことでもあるの?」
リコリスは先ほどの話の続きが始まるのだろうと思っていた。しかし、ヒースの口を切って出たのは意外な言葉だった。
「……今週末のミサの後、時間あるか?」
「ミサの後は何も予定ないから大丈夫だけど。それがどうかしたの?」
「少しだけ出かけないか?」
「今、あたしとヒースが連れ立って出かけたら目立ってしょうがないと思うけど」
「遠目にはそうわからないようにしていけばいいだろう。俺は帽子を被って度のない眼鏡をかけていく。リコリスのために頭巾も用意してある」
「……随分と用意周到だね? 何かあるの?」
「わかってていわせるつもりだろう、お前」
「わかってても口にして欲しいことって世の中にはあるでしょ」
「……そのときになったらちゃんと言ってやるよ」
楽しみにしてるね、とリコリスは微笑んだ。そして二人は鼻腔に満ちていく薔薇の香りを楽しみながら、黙ってティーカップを傾けた。
日曜日の午後、リコリスとヒースが訪れたのは公園だった。リコリスは髪の上から深緑の頭巾を被り、ヒースも帽子と伊達眼鏡を身につけていた。
日が傾きかけてなお、暖かい日だった。ちょうど一年前もこんなふうに暖かかったな、とリコリスは思い出す。
花壇には季節の花々が咲き乱れ、風に花びらを揺らしている。つい二週間ほど前まで木々を彩っていた薄桃色の花は空の彼方へと旅立ち、枝からは瑞々しい新芽が顔を覗かせていた。
リコリスたちの前を日曜学校に通っているくらいの子どもたちが駆け抜けていった。「捕まえた!」「くそ!」鬼ごっこでもしているのか、そんな声が響いてきた。
リコリスはヒースと共に春の自然を楽しみながら、公園を歩いた。その途中で薔薇園の前に差し掛かったが、リコリスはヒースの手を引いて足早に通り過ぎた。
「薔薇園、見なくていいのか? そろそろ見ごろだと思うが……」
「いいよ。ここはヒースとミュゲさんの思い出が詰まった場所でしょ。あたしはそんなところを土足で踏み荒らしたくはない」
「……そうか」
リコリスとヒースはどんどん公園の奥へと進んでいく。チーク材で作られたベンチの前まで来ると、「少し休むか」「そうだね」二人は腰を下ろした。
風が心地よかった。冬ほど冷たくはなく、夏ほどの湿度のない風は柔らかくて気持ち良い。
視界の先にチューリップの花壇があった。すっと伸びた茎の先で揺れる丸みを帯びた滑らかな明るい色合いの花びらたちが、リコリスたちの視界を彩っている。
「ちょっと待ってろ」
ヒースは立ち上がり花壇に咲く一輪の白いチューリップに手をかける。ぶちり、とヒースはチューリップを手折るとリコリスの側に戻ってきた。
「もう、ヒースってば何やってるの。バレたら怒られるよ。昔、薔薇園で同じことやって怒られて懲りたんじゃないの?」
「お前が誰かに言わなきゃばれねえよ。幸いこんな奥まで来る人間は少ないからな。花の一本くらい無くなってたって、子どもの悪戯で済まされる」
「一体ヒースはいくつまで子どものつもりなの? 四十二歳のおじさんなのに」
うるせえ、とヒースはベンチに置いていたトートバッグから青灰色の革財布を取り出した。そして、彼は少し乱暴にリコリスの手に、L・Lとイニシャルが刺繍された財布を押し付けた。
「ほら、やるよ。今日、恋人になって一年の記念日だろ。それにお前、まともな財布持ってなかったはずだし」
「あ……!」
照れくさいのか、ヒースは目を泳がせる。その耳は赤く染まっている。
「財布を贈る意味は〝ずっとあなたのそばにいたい〟、だそうだ。つまり――」
リコリスは財布を胸に抱いたまま、もう、と不満げに唇を尖らせた。この前外出に誘われてから、こういう流れになることは予期していた。しかし、リコリスとて女に生まれた以上、思うところがある。
「ヒース、もうちょっと雰囲気っていうものがあるでしょ?」
「悪かったな、不器用で」
ヒースは帽子の上から頭を掻きむしる。誰かに愛の言葉を告げるのはこれが初めてというわけではない。けれど、もう少し自分がこういうことを上手くやれる人間だったなら。己を不甲斐なく思いながら、ヒースはリコリスの前に跪く。
「リコリス、手を出せ。左手だ」
うん、とリコリスは左手をヒースはと差し出した。ヒースは先ほど手折ってきた白いチューリップの茎をリコリスの薬指に結びつける。
「白いチューリップの花言葉は〝新しいはじまり〟。俺とお前の立場じゃ結婚式も挙げられないし、籍も入れられない。だけど、それでも、お前の残りの時間を俺にくれ――どうか俺の妻になってくれ。――リコリス・ランズバーグ」
リコリスの表情が泣き笑いのようにくしゃりと歪む。頭の中を嬉しさが占拠し、心に暖かさが込み上げてくる。この人の妻となり、家族になる。それはリコリスにとってこの上ない喜びだった。
「もう、そんなの断れるわけないじゃん。喜んで。残された時間をあなたとこの子と歩むことを誓うよ――ヒース・ランズバーグ」
ヒースはリコリスの頬に手を這わせると、唇を重ねた。そして、二人は唇を離すと微笑みあった。
「ねえ、ヒース。今度、指輪買いに行こうよ。籍は入れられなくても、そのくらいは許されるはずだよ。こうやって変装して出かけるのもちょっと面白いし」
わかったよ、とヒースは頷いた。新しい門出を迎えた二人を祝福するようにチューリップが風に揺られてさわさわと合唱を奏でていた。



