リコリスが体調を崩したのはもうすぐ新年が訪れるといったころだった。だるくてめまいがする、というのが彼女の訴えだった。
「うーん、疲れが出たのかな。最近は新年の儀の準備でばたばたしてたから」
「大丈夫か? 施療院に行かなくて」
ヒースは毛布の中で丸くなっているリコリスの顔を見やった。心なしか、顔色が良くない気がする。いつもはくるくると変わる表情もどこか冴えない。
「いいよ。お金もったいないし。新年の儀が終わるまではどうにか頑張って、その後ゆっくりするよ」
リコリスはヒースの横で寝返りを打つと、ベッドから起きあがろうとする。しかし、その途端に何か酸っぱいものが食堂を迫り上がってきて、リコリスは両手で口を押さえる。
「ヒース……ごめん、たらい取ってきて。今すぐに」
「おう、わかった。大丈夫か?」
ヒースは毛布を跳ね除けて起き上がると、リコリスに気遣わしげな声をかける。こくりとリコリスがかすかに頷くのを見ると、ヒースはキッチンにたらいを取りに向かった。
「ほら、持ってきたぞ」
ヒースがたらいを手渡すと、リコリスは苦しそうに潤んだ目で彼を見た。喉が締まる感じがするにもかかわらず、次から次へと唾液が湧き上がってきて止まらない。
「ヒース……ありが、と……ちょっと、後ろ、向いてて……」
リコリスはぐえっぐえっ、と胃液をたらいへと吐き出した。しかし、リコリスの吐き気は止まることはなく、彼女はたらいに顔を突っ込んで胃液を吐き続けた。
ヒースは後ろを向いているように言われていたが、彼女のあまりの苦しそうな様につい振り返り、その背中をさすってやった。もう、と呟くとリコリスは込み上げてきた嘔吐感でえずいた。
「本当に大丈夫か? 眩暈もするって言ってたし、やっぱり一度施療院で見てもらった方が……」
触れているリコリスの背中が何だか少し熱いような気がして、ヒースはリコリスの額に右手で触れる。左手を自分の額に触れさせると、やっぱり、とヒースは独りごちる。
「リコリス、お前、たぶん熱あるぞ。今日は施療院に行く。これは決定事項だ」
「だけど、あたし……今日も新年の儀の細かいすり合わせとか色々あって……」
あのな、とヒースはため息をつく。ヒースにとってそんなものより大切なのはリコリスの体調だ。こんなに具合が悪そうにしているのを放っておくことなどできなかった。過去の経験がヒースの心配性に拍車をかけていた。
「仮に新年の儀ができなくなったとして、不吉がる人はいても困る人はいない。だけど、俺はお前がこうやって体調を悪くして、苦しんでいるのを見ているのは嫌なんだ。早く治していつもみたいに笑ってほしい」
「困る人はいるよ。威信とかいうありもしないものに縋る枢機卿団とか。あとは本当に神に祈る以外で救われることがない人たちとか」
「前者は捨て置けよ。大事な神子様に無理をさせる教会なんてくそくらえだ。それに後者は、真に救済が必要な人なら女神リュンヌが見捨てるわけはない」
くそくらえ、と繰り返すとリコリスはぷっと吹き出した。濡れた目元を指先で拭いながら、リコリスは放笑する。教会の敬虔な信徒のはずのヒースがそんなことを言うのがおかしかった。
「ヒースも言うようになったねえ。まあ確かにヒースの言う通りなんだけど、そうもいかないのが世の中ってものなわけで」
「たかだか十七の小娘が世の中を語るな」
「小娘じゃないですー。二ヶ月前にヒースにしっかりねっとり愛されて〝女〟になったし」
「はしたないぞ。それにねっとりは余計だ。それよりも何か食えるか? その様子だと胃に何も入ってないだろ。何か食べやすいもの――麦粥でも作ろうか?」
ヒースがそう言うとそれはちょっとなあ、とリコリスは微妙な顔をした。言いたいことがあるなら言えとヒースは半眼で彼女を見つめ返す。
「だって、ヒースの麦粥って五割生煮えで五割黒焦げじゃん。それに今はごはんはいいかな。まだなんかちょっと気持ち悪い」
レモン水なら飲むか? 、とヒースが聞くと、リコリスはそれならと首を縦に振った。ヒースはキッチンに取って返すと、食器棚からグラスを取り出す。水瓶からグラスに水を汲むと、それをダイニングテーブルに置く。ヒースはまな板と包丁を用意するとレモンを一枚スライスしてグラスの中に入れた。
(あともうちょっと……何か飲みやすくするには……)
ヒースは思案を巡らせる。庭に生えているペパーミントの存在が脳裏をよぎった。彼は勝手口のドアを開け、庭へ出ると、ペパーミントをいくつか摘む。そして、彼はペパーミントを手に家の中に戻ってくると、それを軽く水で洗ってグラスの中に浮かべた。
(これでよし、と)
ヒースは出来上がったレモン水を持って、ベッドに座るリコリスの元へと戻る。相変わらず顔色は悪かったが、ヒースが戻ってくるとリコリスは淡く微笑んだ。
「ありがと」
リコリスはヒースからグラスを受け取ると、少しずつそれを飲み始める。その様子を横目に、ヒースはこの後の外出のために着替え始めた。
「今日はどうなさいましたか?」
次の方どうぞ、という看護師の淡々とした呼びかけに応じて、二人が診察室の扉を潜ると椅子を勧められるやいなや、白衣姿の男にそう問われた。
肩までの黒い髪。彼岸花と同じ色の双眸。はしっこそうな表情。どこかで見た顔だと思いながら、医師は手元のカルテへと目を落とす。
名はリコリス、姓は不詳。そういえば神子によく似た容貌の娘が街で敬虔な信徒の男を誑かしているなんて噂を聞いたことがあったが、彼らのことだったか。
「二週間くらい前から頭痛と眩暈と微熱が。あとは何にもないのに妙にいらいらしたり、逆に気分が沈んだり。このところ、眠気も尋常じゃなくて。それで、今朝は何だか吐き気がして、起き抜けに胃液を吐きました」
なるほど、と医師はリコリスから聞かされた症状をペンでカルテへと書き綴っていく。「……リコリス」
物言いたげな目でヒースはリコリスを見る。まさかそんなに前から不調を隠していたとは思わなかった。そばにいたのに気づけなかった己の不甲斐なさをヒースは恥じる。
今になって思い返してみれば兆候はあった。妙によそよそしい日があったり、家事の途中でダイニングで寝ている日があったり。新年の儀の準備が大変だとよくこぼしていたから、ただ疲れているのだろうとばかり思っていた。
「最後に月のものがあったのはいつですか?」
「十月」
なるほど、と頷くと医師はカルテに何かを書き足していく。そして、おそらくですが、と医師は切り出した。
「リコリスさんは妊娠しています。頭痛をはじめとする諸症状や精神面の症状は妊娠の初期症状でしょう。今朝吐いたというのはおそらく悪阻でしょうね。しばらくまともな食事は難しいでしょうが、せめて食べられそうなときに食べられるものを口にはするようにしてください」
はい、と厳かな面持ちでリコリスは返事をしたが、その背中はどこか安堵したように見えた。
妊娠。リコリスの腹の中に自分の子がいる。その事実をヒースはゆっくりと咀嚼すると、医師へと問うた。
「生まれるのはいつごろですか?」
「今はおそらく妊娠二ヶ月目くらいでしょうから、来年の七月下旬から八月上旬くらいになると思います。それまでの間、大変でしょうが、経過を見ますので月に一度検診にくるようにしてください」
それではお大事に、と医師は二人に退室を促した。リコリスとヒースはありがとうございましたと頭を下げると再び診察室の扉を潜った。
「良かった……間に合って」
リコリスの唇からかすかにそんな言葉が溢れた。どういうことだ? 、とヒースは問う。
「あたしは自分の子をこの手で抱いて、成長を喜んで、誕生日を祝ってあげたかった。終滅の夜が来るのは再来年の九月だから、それを全部ぎりぎりやってあげられる」
一回しか誕生日を祝ってあげられないのは悲しいけれど、とリコリスは呟く。ヒースは付き合って半年の記念日のあの日に、リコリスがあんなお願いをしてきた理由をようやく理解した。
「月の道から妊娠しやすい日を計算して……あれが最後の機会だったんだよ。それ以降は自分の子どもの最初の誕生日を祝ってあげられる確証はなかったから。あたしが孕みにくい身体の可能性もあったから賭けの部分も大きかったけど……今、自分の子どもがここにいてくれるっていうことがすごく嬉しい」
リコリスはまだ平たい腹を服の上からぽんぽんと撫でる。嬉しい、と繰り返す彼女の目からは熱く塩辛いものが迫り上がり、視界を滲ませた。
「そうだな。……お前が家族を――自分の子どもを欲しがっていたのは知っていたのに、全部お前任せにしていて悪かった。こんな俺だから、そばにいても気づけないことも多いだろうけど、それでも何かあったらいつでも頼ってくれ。その子を無事に産んで、育てていくのは俺たちふたりでやるべきことだから」
そうだね、とリコリスは指先で涙を拭った。ヒースがそういうふうに考えてくれているのが嬉しかった。
受付の看護師がリコリスの名を呼ぶ。ここで待ってろ、と言い置くと、ヒースは診察代の支払いのために受付へと向かっていった。
「ねえ、ヒース。マルシェ寄ってこう」
施療院を出て開口一番にそう言い出したのはリコリスだった。だめだと言わんばかりにヒースは渋面を作る。地面では昨夜のうちに降った雪が薄い層を作り、溶けかけた氷の粒が日光を浴びてきらきらと輝いている。
「リコリス、お前あんまり具合が良くないだろう? それに雪で滑って転んで何かあったらどうするんだ」
「心配性だなあ。大丈夫だよ、ちょっとだけだから。最近忙しかったし、気分が塞ぐことも多かったから、気分転換したくて」
だめかなあとリコリスは完璧に角度を計算した上目遣いでヒースを見る。日に日にあざとさを増していく彼女を苦々しく思いながらも、ヒースは仕方なしに首を縦に振る。これが惚れた弱みというやつか。
「本当にちょっとだけだからな。食品の買い物だけしたらすぐ帰るぞ」
やった、とリコリスは表情を明るくする。このくらいでこの笑顔が見れるものなら安いものかと思いながら、ヒースは踵を返した。
「リコリス、何なら食べられそうだ?」
体調のよくないリコリスに合わせてゆっくりとマルシェを回りながら、ヒースはリコリスに聞いた。そうだなあ、とリコリスは思案げな顔をする。
「ヒースが用意してくれたものならなんでも! って言いたいところだけど、食欲ないからそれはなしで。なんだろう、今朝レモン水は飲めたから、なんかさっぱりしたものなら食べられるのかもだけど……」
「さっぱりしたものってフルーツとかか?」
それはあり、とリコリスは口の端を釣り上げる。それじゃあ八百屋に向かうか、と二人は店と店の間の路地に入り、最短経路で八百屋へと向かった。
年の瀬が近いこともあって、マルシェ中の店がこぞって競い合うように、何が安いだの何が美味いだのと怒鳴るような調子で客が呼び込んでいるのが聞こえる。常よりもごった返すマルシェの中を縫って歩きながら、ヒースはリコリスが他の買い物客にぶつかられないように庇ってやる。
「よう、旦那。今日は何をお求めだい?」
八百屋に着くなり、顔見知りの店主が威勢よく話しかけてきた。露台の上には今が旬の野菜や果物が所狭しと並べられている。その中でつやつやときらめきを放つ赤い宝石のような果実がリコリスの目を奪った。あっ、と思わずリコリスは声を弾ませる。
「イチゴだ!」
甘酸っぱい良い香りがヒースの鼻腔を刺激する。彼はそういえば、と以前に彼女とカフェを訪れたときのことを思い出した。
「そういやお前、それ好きだよな。それなら食えそうか?」
「うん!」
嬉しそうにリコリスは首をぶんぶんと縦に振る。リコリスが食べられるなら、とヒースは値札を確認すると、財布を取り出そうとしたまま固まった。
小さなカゴ一つ分で銀貨一枚。まだ出始めの時季ともあって非常に値が張っている。
それでもリコリスの健康には代えられない。ヒースは漢気を振り絞って、財布の口を開くと、イチゴの籠を三つと、オレンジを五つ、リンゴを五つ購った。しめて銀貨五枚という大出費となったが、ヒースは顔に出さないように表情筋をひくつかせた。これは倒れない程度に自分の食費を削るしかない。
ありがとうございました、と八百屋の店主に見送られると、二人は踵を返した。帰ろっか、と促されて歩き出したヒースの視界の隅に小さいサイズの服が映りこんだ。
「あ」
「どうしたの?」
「子供用の服、買わないとだな。後はベビーベッドとかベビーチェアとか抱っこ紐とか……」
「ヒース、気が早いよ。それが必要になるのは来年の夏の話だよ」
「そうか……そうだな」
リコリスは優しい目でヒースを見やる。穏やかに慈しむように彼女は自身の腹を撫でながら、噛みしめるようにしながら口にした。
「そういうこと、一つ一つをちゃんと話し合って決めていこう。そういうことの一つ一つを楽しんでいこう」
リコリスの言葉にふっとヒースの顔が解ける。つられるようにしてリコリスも笑った。
リコリスの悪阻は増すばかりで、彼女は新年の儀を欠席した。遠目にはわからないように似た背格好の娘を代役に立てたとのことだが、教会内部は不穏でさざめいた。
そんな教会内部の不安を嗅ぎ取ったかのように、信徒たちの中でも終滅の夜を待たずして世界は滅びるのではないかという憶測が飛び交うようになっていた。
新年の儀の翌週の日曜日の朝。リコリスは変わらず悪阻でベッドで伏せっていた。あれから一度、施療院で検診を受けたが、どうやらリコリスの悪阻は他者に比べて些か重たいものらしかった。
(気力だけで二週も不調に耐えてたんだ、こうなったって仕方がない)
ヒースはベッドサイドテーブルに置かれたたらいを取り替え、レモン水の入った水差しとグラスを置く。そして、彼は外套を羽織るとベッドに横たわるリコリスを振り返った。
「大丈夫か? 俺はミサに行ってくるが、一人でも平気か? 帰りにマルシェに寄ってくるから、欲しいものがあったら今のうちに言っておいてくれ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。病気じゃないんだし。欲しいものはそうだなあ――イチゴ」
お前はまたそれか、とヒースは苦笑する。ヒースの懐は寒くなるが、悪阻であまり食事の取れない彼女の食いつきが一番良いのがそれだ。仕方ない。
「それじゃあ行ってくるな」
「いってらっしゃい。それにしてもヒースも毎週毎週熱心だよね」
「お前の体調が少しでも良くなって、元気な子が生まれてくるように祈らないといけないからな」
「まあ信徒たちのために祈るはずの神子様はこうして家でのんべんだらりと過ごしているんだけどね」
「のんべんだらりじゃないだろ、これは必要な休養だ。それにいいんだよ、正しき者の祈りは最終的には女神リュンヌに届くって教えなんだから」
そろそろいい加減行かないと、とヒースは玄関の扉に手をかける。そして、何か思い直したようにベッドルームに取って返すと、寝乱れたリコリスの黒髪にキスを落とした。
するり、とヒースの手の間からさらさらとしたリコリスの髪が滑り落ちる。今度こそ、とヒースは外出のために玄関の扉から外へ出て行った。
ヒースは寒さに首を縮こまらせ、路上を覆う淡雪の上に足跡を刻みながら教会への道を歩く。雪催いの空の下、街のあちらこちらに氷花が咲いていた。
あの人じゃない? あいつだよ。ひそ、ひそ、と道行く人々がヒースを振り返りながら何かを言っているのが聴覚の表面を撫でていく。
神子が年末に施療院を訪れたらしい。ヒース・ランズバーグといつも一緒にいるリコリスという娘は天恵の神子と瓜二つの容姿をしているらしい。神子はヒース・ランズバーグに犯されて純潔を散らし、天恵を失ったのではないか。だから、新年の儀のときの神子様はいつもと様子が違ったのではないか。教会のシスターから聞いた話によると、神子は年末からずっと伏せっているんだとか。
飛び交う言葉たちは憶測の域を出なかったものの、まったくの見当違いというわけでもなく、ある程度的を射てはいた。
十月に初めてリコリスと関係を持ってから、彼女の天恵がどうなったのかヒースは知らない。しかし、十二月の終わりに不調を訴えるまで、きちんと神子としての役目を果たしていたことを思うと、彼女の天恵がまったく失われてしまったとは考えにくい。
こつん、と外套の肩に礫が当たった。振り返ると、石を投げたらしい女性は思わずといったふうに口元を押さえていた。
「えっと、あの、わたし……その、つい、」
彼女は何か弁解しようとしていたが、ヒースが一歩踏み込もうとすると、その顔は憎悪に染まった。
ヒースが周囲を見渡すと、同じように好奇と憎悪の入り混じった眼差しを彼に浴びかけてくる人々がいた。関わり合いにならないほうがよさそうだ、とヒースは踵を返した。
こつん。こつん。ヒースの背中に小石が浴びせられた。最初は躊躇いがちであったはずのその行為は、やがて熱を帯びて歯止めの効かない礫の雨となって彼の背を襲った。
(――あの馬鹿)
民衆ですらこれだけの感情を覚えているのだ。きっと、リコリスは顔に出さないだけで、教会内部で徹底的に詰められたに違いない。それこそ、人を人とも思わないような罵声さえ浴びせられたに違いない。
きっと、リコリスはヒースを巻き込むのを厭った。自分が望んだことの報いだからと、彼女は一人で背負おうとした。その責がいずれヒースにも及ぶと知っていても、彼女はそれを少しでも引き伸ばそうとした。
(――覚悟なんてなかったら、あんなことするわけないだろ)
ヒースはリコリスが子を孕んだことを教会が非難するようならその責を一緒に背負おうと思っていた。彼女の人として当たり前の幸せを人々が詰るなら、自分が彼女を言葉の礫から守る盾になろうと思っていた。
石をぶつけられ続けた背中がじんじんと痛い。これは帰りに施療院に寄って湿布をもらって返らないといけないかもしれない。たぶん痣になっている。
(――外套もせっかく、この冬に新しいのをおろしたのに、たぶん来年には買い替えだな)
ヒースは自分の懐事情を考えて溜め息を吐く。そして、彼は自分の背にぶつけられ続ける小さな衝撃の連鎖を感じながら、中央通りを教会広場の方角へと向かって再び歩き出した。
どこの誰が何を思っていようと構わない。誰に後ろ指を刺されようとかまわない。今日のヒースが祈りたいことはただ一つだった。
――リコリスとお腹の子に――俺たち家族が人並みに幸せに生きることを許してください。
教会広場に屹立する女神リュンヌの像は、はらはらと降り始めた雪を慈しみに満ちた目で見つめている。ヒースはあちこちが切れたり汚れたりしている外套を纏ったまま、ミサに訪れた信徒たちの波に乗って大聖堂の中へと吸い込まれていった。
「うーん、疲れが出たのかな。最近は新年の儀の準備でばたばたしてたから」
「大丈夫か? 施療院に行かなくて」
ヒースは毛布の中で丸くなっているリコリスの顔を見やった。心なしか、顔色が良くない気がする。いつもはくるくると変わる表情もどこか冴えない。
「いいよ。お金もったいないし。新年の儀が終わるまではどうにか頑張って、その後ゆっくりするよ」
リコリスはヒースの横で寝返りを打つと、ベッドから起きあがろうとする。しかし、その途端に何か酸っぱいものが食堂を迫り上がってきて、リコリスは両手で口を押さえる。
「ヒース……ごめん、たらい取ってきて。今すぐに」
「おう、わかった。大丈夫か?」
ヒースは毛布を跳ね除けて起き上がると、リコリスに気遣わしげな声をかける。こくりとリコリスがかすかに頷くのを見ると、ヒースはキッチンにたらいを取りに向かった。
「ほら、持ってきたぞ」
ヒースがたらいを手渡すと、リコリスは苦しそうに潤んだ目で彼を見た。喉が締まる感じがするにもかかわらず、次から次へと唾液が湧き上がってきて止まらない。
「ヒース……ありが、と……ちょっと、後ろ、向いてて……」
リコリスはぐえっぐえっ、と胃液をたらいへと吐き出した。しかし、リコリスの吐き気は止まることはなく、彼女はたらいに顔を突っ込んで胃液を吐き続けた。
ヒースは後ろを向いているように言われていたが、彼女のあまりの苦しそうな様につい振り返り、その背中をさすってやった。もう、と呟くとリコリスは込み上げてきた嘔吐感でえずいた。
「本当に大丈夫か? 眩暈もするって言ってたし、やっぱり一度施療院で見てもらった方が……」
触れているリコリスの背中が何だか少し熱いような気がして、ヒースはリコリスの額に右手で触れる。左手を自分の額に触れさせると、やっぱり、とヒースは独りごちる。
「リコリス、お前、たぶん熱あるぞ。今日は施療院に行く。これは決定事項だ」
「だけど、あたし……今日も新年の儀の細かいすり合わせとか色々あって……」
あのな、とヒースはため息をつく。ヒースにとってそんなものより大切なのはリコリスの体調だ。こんなに具合が悪そうにしているのを放っておくことなどできなかった。過去の経験がヒースの心配性に拍車をかけていた。
「仮に新年の儀ができなくなったとして、不吉がる人はいても困る人はいない。だけど、俺はお前がこうやって体調を悪くして、苦しんでいるのを見ているのは嫌なんだ。早く治していつもみたいに笑ってほしい」
「困る人はいるよ。威信とかいうありもしないものに縋る枢機卿団とか。あとは本当に神に祈る以外で救われることがない人たちとか」
「前者は捨て置けよ。大事な神子様に無理をさせる教会なんてくそくらえだ。それに後者は、真に救済が必要な人なら女神リュンヌが見捨てるわけはない」
くそくらえ、と繰り返すとリコリスはぷっと吹き出した。濡れた目元を指先で拭いながら、リコリスは放笑する。教会の敬虔な信徒のはずのヒースがそんなことを言うのがおかしかった。
「ヒースも言うようになったねえ。まあ確かにヒースの言う通りなんだけど、そうもいかないのが世の中ってものなわけで」
「たかだか十七の小娘が世の中を語るな」
「小娘じゃないですー。二ヶ月前にヒースにしっかりねっとり愛されて〝女〟になったし」
「はしたないぞ。それにねっとりは余計だ。それよりも何か食えるか? その様子だと胃に何も入ってないだろ。何か食べやすいもの――麦粥でも作ろうか?」
ヒースがそう言うとそれはちょっとなあ、とリコリスは微妙な顔をした。言いたいことがあるなら言えとヒースは半眼で彼女を見つめ返す。
「だって、ヒースの麦粥って五割生煮えで五割黒焦げじゃん。それに今はごはんはいいかな。まだなんかちょっと気持ち悪い」
レモン水なら飲むか? 、とヒースが聞くと、リコリスはそれならと首を縦に振った。ヒースはキッチンに取って返すと、食器棚からグラスを取り出す。水瓶からグラスに水を汲むと、それをダイニングテーブルに置く。ヒースはまな板と包丁を用意するとレモンを一枚スライスしてグラスの中に入れた。
(あともうちょっと……何か飲みやすくするには……)
ヒースは思案を巡らせる。庭に生えているペパーミントの存在が脳裏をよぎった。彼は勝手口のドアを開け、庭へ出ると、ペパーミントをいくつか摘む。そして、彼はペパーミントを手に家の中に戻ってくると、それを軽く水で洗ってグラスの中に浮かべた。
(これでよし、と)
ヒースは出来上がったレモン水を持って、ベッドに座るリコリスの元へと戻る。相変わらず顔色は悪かったが、ヒースが戻ってくるとリコリスは淡く微笑んだ。
「ありがと」
リコリスはヒースからグラスを受け取ると、少しずつそれを飲み始める。その様子を横目に、ヒースはこの後の外出のために着替え始めた。
「今日はどうなさいましたか?」
次の方どうぞ、という看護師の淡々とした呼びかけに応じて、二人が診察室の扉を潜ると椅子を勧められるやいなや、白衣姿の男にそう問われた。
肩までの黒い髪。彼岸花と同じ色の双眸。はしっこそうな表情。どこかで見た顔だと思いながら、医師は手元のカルテへと目を落とす。
名はリコリス、姓は不詳。そういえば神子によく似た容貌の娘が街で敬虔な信徒の男を誑かしているなんて噂を聞いたことがあったが、彼らのことだったか。
「二週間くらい前から頭痛と眩暈と微熱が。あとは何にもないのに妙にいらいらしたり、逆に気分が沈んだり。このところ、眠気も尋常じゃなくて。それで、今朝は何だか吐き気がして、起き抜けに胃液を吐きました」
なるほど、と医師はリコリスから聞かされた症状をペンでカルテへと書き綴っていく。「……リコリス」
物言いたげな目でヒースはリコリスを見る。まさかそんなに前から不調を隠していたとは思わなかった。そばにいたのに気づけなかった己の不甲斐なさをヒースは恥じる。
今になって思い返してみれば兆候はあった。妙によそよそしい日があったり、家事の途中でダイニングで寝ている日があったり。新年の儀の準備が大変だとよくこぼしていたから、ただ疲れているのだろうとばかり思っていた。
「最後に月のものがあったのはいつですか?」
「十月」
なるほど、と頷くと医師はカルテに何かを書き足していく。そして、おそらくですが、と医師は切り出した。
「リコリスさんは妊娠しています。頭痛をはじめとする諸症状や精神面の症状は妊娠の初期症状でしょう。今朝吐いたというのはおそらく悪阻でしょうね。しばらくまともな食事は難しいでしょうが、せめて食べられそうなときに食べられるものを口にはするようにしてください」
はい、と厳かな面持ちでリコリスは返事をしたが、その背中はどこか安堵したように見えた。
妊娠。リコリスの腹の中に自分の子がいる。その事実をヒースはゆっくりと咀嚼すると、医師へと問うた。
「生まれるのはいつごろですか?」
「今はおそらく妊娠二ヶ月目くらいでしょうから、来年の七月下旬から八月上旬くらいになると思います。それまでの間、大変でしょうが、経過を見ますので月に一度検診にくるようにしてください」
それではお大事に、と医師は二人に退室を促した。リコリスとヒースはありがとうございましたと頭を下げると再び診察室の扉を潜った。
「良かった……間に合って」
リコリスの唇からかすかにそんな言葉が溢れた。どういうことだ? 、とヒースは問う。
「あたしは自分の子をこの手で抱いて、成長を喜んで、誕生日を祝ってあげたかった。終滅の夜が来るのは再来年の九月だから、それを全部ぎりぎりやってあげられる」
一回しか誕生日を祝ってあげられないのは悲しいけれど、とリコリスは呟く。ヒースは付き合って半年の記念日のあの日に、リコリスがあんなお願いをしてきた理由をようやく理解した。
「月の道から妊娠しやすい日を計算して……あれが最後の機会だったんだよ。それ以降は自分の子どもの最初の誕生日を祝ってあげられる確証はなかったから。あたしが孕みにくい身体の可能性もあったから賭けの部分も大きかったけど……今、自分の子どもがここにいてくれるっていうことがすごく嬉しい」
リコリスはまだ平たい腹を服の上からぽんぽんと撫でる。嬉しい、と繰り返す彼女の目からは熱く塩辛いものが迫り上がり、視界を滲ませた。
「そうだな。……お前が家族を――自分の子どもを欲しがっていたのは知っていたのに、全部お前任せにしていて悪かった。こんな俺だから、そばにいても気づけないことも多いだろうけど、それでも何かあったらいつでも頼ってくれ。その子を無事に産んで、育てていくのは俺たちふたりでやるべきことだから」
そうだね、とリコリスは指先で涙を拭った。ヒースがそういうふうに考えてくれているのが嬉しかった。
受付の看護師がリコリスの名を呼ぶ。ここで待ってろ、と言い置くと、ヒースは診察代の支払いのために受付へと向かっていった。
「ねえ、ヒース。マルシェ寄ってこう」
施療院を出て開口一番にそう言い出したのはリコリスだった。だめだと言わんばかりにヒースは渋面を作る。地面では昨夜のうちに降った雪が薄い層を作り、溶けかけた氷の粒が日光を浴びてきらきらと輝いている。
「リコリス、お前あんまり具合が良くないだろう? それに雪で滑って転んで何かあったらどうするんだ」
「心配性だなあ。大丈夫だよ、ちょっとだけだから。最近忙しかったし、気分が塞ぐことも多かったから、気分転換したくて」
だめかなあとリコリスは完璧に角度を計算した上目遣いでヒースを見る。日に日にあざとさを増していく彼女を苦々しく思いながらも、ヒースは仕方なしに首を縦に振る。これが惚れた弱みというやつか。
「本当にちょっとだけだからな。食品の買い物だけしたらすぐ帰るぞ」
やった、とリコリスは表情を明るくする。このくらいでこの笑顔が見れるものなら安いものかと思いながら、ヒースは踵を返した。
「リコリス、何なら食べられそうだ?」
体調のよくないリコリスに合わせてゆっくりとマルシェを回りながら、ヒースはリコリスに聞いた。そうだなあ、とリコリスは思案げな顔をする。
「ヒースが用意してくれたものならなんでも! って言いたいところだけど、食欲ないからそれはなしで。なんだろう、今朝レモン水は飲めたから、なんかさっぱりしたものなら食べられるのかもだけど……」
「さっぱりしたものってフルーツとかか?」
それはあり、とリコリスは口の端を釣り上げる。それじゃあ八百屋に向かうか、と二人は店と店の間の路地に入り、最短経路で八百屋へと向かった。
年の瀬が近いこともあって、マルシェ中の店がこぞって競い合うように、何が安いだの何が美味いだのと怒鳴るような調子で客が呼び込んでいるのが聞こえる。常よりもごった返すマルシェの中を縫って歩きながら、ヒースはリコリスが他の買い物客にぶつかられないように庇ってやる。
「よう、旦那。今日は何をお求めだい?」
八百屋に着くなり、顔見知りの店主が威勢よく話しかけてきた。露台の上には今が旬の野菜や果物が所狭しと並べられている。その中でつやつやときらめきを放つ赤い宝石のような果実がリコリスの目を奪った。あっ、と思わずリコリスは声を弾ませる。
「イチゴだ!」
甘酸っぱい良い香りがヒースの鼻腔を刺激する。彼はそういえば、と以前に彼女とカフェを訪れたときのことを思い出した。
「そういやお前、それ好きだよな。それなら食えそうか?」
「うん!」
嬉しそうにリコリスは首をぶんぶんと縦に振る。リコリスが食べられるなら、とヒースは値札を確認すると、財布を取り出そうとしたまま固まった。
小さなカゴ一つ分で銀貨一枚。まだ出始めの時季ともあって非常に値が張っている。
それでもリコリスの健康には代えられない。ヒースは漢気を振り絞って、財布の口を開くと、イチゴの籠を三つと、オレンジを五つ、リンゴを五つ購った。しめて銀貨五枚という大出費となったが、ヒースは顔に出さないように表情筋をひくつかせた。これは倒れない程度に自分の食費を削るしかない。
ありがとうございました、と八百屋の店主に見送られると、二人は踵を返した。帰ろっか、と促されて歩き出したヒースの視界の隅に小さいサイズの服が映りこんだ。
「あ」
「どうしたの?」
「子供用の服、買わないとだな。後はベビーベッドとかベビーチェアとか抱っこ紐とか……」
「ヒース、気が早いよ。それが必要になるのは来年の夏の話だよ」
「そうか……そうだな」
リコリスは優しい目でヒースを見やる。穏やかに慈しむように彼女は自身の腹を撫でながら、噛みしめるようにしながら口にした。
「そういうこと、一つ一つをちゃんと話し合って決めていこう。そういうことの一つ一つを楽しんでいこう」
リコリスの言葉にふっとヒースの顔が解ける。つられるようにしてリコリスも笑った。
リコリスの悪阻は増すばかりで、彼女は新年の儀を欠席した。遠目にはわからないように似た背格好の娘を代役に立てたとのことだが、教会内部は不穏でさざめいた。
そんな教会内部の不安を嗅ぎ取ったかのように、信徒たちの中でも終滅の夜を待たずして世界は滅びるのではないかという憶測が飛び交うようになっていた。
新年の儀の翌週の日曜日の朝。リコリスは変わらず悪阻でベッドで伏せっていた。あれから一度、施療院で検診を受けたが、どうやらリコリスの悪阻は他者に比べて些か重たいものらしかった。
(気力だけで二週も不調に耐えてたんだ、こうなったって仕方がない)
ヒースはベッドサイドテーブルに置かれたたらいを取り替え、レモン水の入った水差しとグラスを置く。そして、彼は外套を羽織るとベッドに横たわるリコリスを振り返った。
「大丈夫か? 俺はミサに行ってくるが、一人でも平気か? 帰りにマルシェに寄ってくるから、欲しいものがあったら今のうちに言っておいてくれ」
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。病気じゃないんだし。欲しいものはそうだなあ――イチゴ」
お前はまたそれか、とヒースは苦笑する。ヒースの懐は寒くなるが、悪阻であまり食事の取れない彼女の食いつきが一番良いのがそれだ。仕方ない。
「それじゃあ行ってくるな」
「いってらっしゃい。それにしてもヒースも毎週毎週熱心だよね」
「お前の体調が少しでも良くなって、元気な子が生まれてくるように祈らないといけないからな」
「まあ信徒たちのために祈るはずの神子様はこうして家でのんべんだらりと過ごしているんだけどね」
「のんべんだらりじゃないだろ、これは必要な休養だ。それにいいんだよ、正しき者の祈りは最終的には女神リュンヌに届くって教えなんだから」
そろそろいい加減行かないと、とヒースは玄関の扉に手をかける。そして、何か思い直したようにベッドルームに取って返すと、寝乱れたリコリスの黒髪にキスを落とした。
するり、とヒースの手の間からさらさらとしたリコリスの髪が滑り落ちる。今度こそ、とヒースは外出のために玄関の扉から外へ出て行った。
ヒースは寒さに首を縮こまらせ、路上を覆う淡雪の上に足跡を刻みながら教会への道を歩く。雪催いの空の下、街のあちらこちらに氷花が咲いていた。
あの人じゃない? あいつだよ。ひそ、ひそ、と道行く人々がヒースを振り返りながら何かを言っているのが聴覚の表面を撫でていく。
神子が年末に施療院を訪れたらしい。ヒース・ランズバーグといつも一緒にいるリコリスという娘は天恵の神子と瓜二つの容姿をしているらしい。神子はヒース・ランズバーグに犯されて純潔を散らし、天恵を失ったのではないか。だから、新年の儀のときの神子様はいつもと様子が違ったのではないか。教会のシスターから聞いた話によると、神子は年末からずっと伏せっているんだとか。
飛び交う言葉たちは憶測の域を出なかったものの、まったくの見当違いというわけでもなく、ある程度的を射てはいた。
十月に初めてリコリスと関係を持ってから、彼女の天恵がどうなったのかヒースは知らない。しかし、十二月の終わりに不調を訴えるまで、きちんと神子としての役目を果たしていたことを思うと、彼女の天恵がまったく失われてしまったとは考えにくい。
こつん、と外套の肩に礫が当たった。振り返ると、石を投げたらしい女性は思わずといったふうに口元を押さえていた。
「えっと、あの、わたし……その、つい、」
彼女は何か弁解しようとしていたが、ヒースが一歩踏み込もうとすると、その顔は憎悪に染まった。
ヒースが周囲を見渡すと、同じように好奇と憎悪の入り混じった眼差しを彼に浴びかけてくる人々がいた。関わり合いにならないほうがよさそうだ、とヒースは踵を返した。
こつん。こつん。ヒースの背中に小石が浴びせられた。最初は躊躇いがちであったはずのその行為は、やがて熱を帯びて歯止めの効かない礫の雨となって彼の背を襲った。
(――あの馬鹿)
民衆ですらこれだけの感情を覚えているのだ。きっと、リコリスは顔に出さないだけで、教会内部で徹底的に詰められたに違いない。それこそ、人を人とも思わないような罵声さえ浴びせられたに違いない。
きっと、リコリスはヒースを巻き込むのを厭った。自分が望んだことの報いだからと、彼女は一人で背負おうとした。その責がいずれヒースにも及ぶと知っていても、彼女はそれを少しでも引き伸ばそうとした。
(――覚悟なんてなかったら、あんなことするわけないだろ)
ヒースはリコリスが子を孕んだことを教会が非難するようならその責を一緒に背負おうと思っていた。彼女の人として当たり前の幸せを人々が詰るなら、自分が彼女を言葉の礫から守る盾になろうと思っていた。
石をぶつけられ続けた背中がじんじんと痛い。これは帰りに施療院に寄って湿布をもらって返らないといけないかもしれない。たぶん痣になっている。
(――外套もせっかく、この冬に新しいのをおろしたのに、たぶん来年には買い替えだな)
ヒースは自分の懐事情を考えて溜め息を吐く。そして、彼は自分の背にぶつけられ続ける小さな衝撃の連鎖を感じながら、中央通りを教会広場の方角へと向かって再び歩き出した。
どこの誰が何を思っていようと構わない。誰に後ろ指を刺されようとかまわない。今日のヒースが祈りたいことはただ一つだった。
――リコリスとお腹の子に――俺たち家族が人並みに幸せに生きることを許してください。
教会広場に屹立する女神リュンヌの像は、はらはらと降り始めた雪を慈しみに満ちた目で見つめている。ヒースはあちこちが切れたり汚れたりしている外套を纏ったまま、ミサに訪れた信徒たちの波に乗って大聖堂の中へと吸い込まれていった。



