「なあ、リコリス。来週、日曜日の夜って空いてるか?」
来週? とリコリスは一瞬怪訝な顔をした。しかし、すぐにその日が何の日であるのかに思い至ったのか、彼女の眉間の皺はすぐに解けた。
「夏至祭? それがどうかした?」
街中の至るところに緑陰が落ち、溽暑の季節が訪れていた。翠雨の止み間に雲の峰が突き抜ける滄海が顔を覗かせていた。
夏が始まると、ディオースでは毎月のように立て続けに祭が行なわれる。六月下旬の一番昼の長い日に行なわれる夏至祭、そのちょうど一ヶ月ほど後に行なわれる女神祭、夏の終わりに行なわれる収穫祭である。これらの祭は三大祭と呼ばれ、レーツェル大陸中から聖グラース教の総本山であるディオースに観光客という名の巡礼者が押し寄せるのである。
「それでだ、リコリス……その、で……」
で? とリコリスはヒース何が言いたいのかわからないかのように言葉の続きを促した。あざとく小首を傾げて見せているが、リコリスはこの後に続くはずの二文字をしっかりと知っている。ヒースはたじたじとしながら、言葉の続きをどうにか脳内から捻り出す。耳が熱くなるのを感じる。男って大変だなあと思いながら、リコリスはにまにまとした笑みをヒースへと送った。
「で……ディオースの街歩きをしようかと思うんだが、一緒に来ないか?」
「いいけど、それはちょっと無理矢理がすぎないかなあ」
なんでストレートにデートって言えないかなあとリコリスは口を尖らせる。ヒースの意気地なし。自分たちは恋人同士だというのに、今更何を照れることがあるのだろう。
「そもそもあたしたち、何度もデートしてるじゃん。付き合う前にカフェとかマルシェも行ったし、最近もよく一緒にマルシェで買い物してるし今更じゃない?」
「それはそうだが……夏至祭ともなれば、普段とは心構えが違ってくるだろ。何せ、夏至祭を一緒に過ごしたカップルは一生添い遂げるって言うんだから」
「それを言ったら、女神祭を過ごしたカップルは女神リュンヌに祝福されるし、収穫祭を過ごしたカップルはどんな困難にも打ち勝てるとか言うでしょ。ヒース、それ商工会や教会に乗せられてうまいこと商売の種にされてるだけだよ」
夢も希望もないリコリスの指摘に、ヒースは聞きたくないとばかりに耳を覆う。頭で現実は理解していても、夢は見たい。男は夢見がちな生き物なのだ。
「やめてくれ、俺は毎年ミュゲと三大祭に全部行ってたんだ……」
やれやれとリコリスは肩をすくめる。けれど、こうやってヒースに誘ってもらって悪い気はしない。
「まあ、せっかくヒースから誘ってくれたことだし、夏至祭には行けるように時間を工面するよ」
工面? とヒースは訝しげに眉根を寄せた。そういえば、とヒースは何かに気づいたようにこう訊いた。
「お前、最近帰りが遅いよな? 教会の仕事、忙しいのか?」
「まあ、女神祭が来月に迫ってるからね。あたし、一応お偉い神子様だから確認しないといけないことが多くて多くて。でも、司祭たちせっついてなるべく仕事は巻きで終わらせるようにするから気にしないで」
「そうは言ってもなあ……無理はするなよ?」
大丈夫、とリコリスは薄い胸を叩いた。ヒースとの思い出を作るためならば、そっとやちょっとの無理なんてわけないし、出来得る限り時間を作りたい。
「それならいいが……っと、そろそろ昼飯にしよう。食べたいものはあるか?」
すると、サンドウィッチ! とリコリスは即答した。お前はまたそれか、とヒースは苦笑いする。
「だって、あたしにとって、サンドウィッチはヒースとの思い出だもん。何度だって食べたいよ」
「あの不出来なサンドウィッチをそう言われると俺としては複雑なんだが……で、今日は具は何にするんだ?」
「キウイ。昨日マルシェで買ったでしょ。ヒース、パンを切っておいて。その間にあたしはクリームを作っておくから」
わかった、とヒースは食器棚にしまっていた食パンを出してくると、キッチンに立って包丁を握る。その横でリコリスがボウルに牛の乳を注ぎ、泡立て器でかしゃかしゃとかき混ぜている音が響く。そんな何でもない時間をヒースは温かいと思った。
燦々と容赦なく太陽が照りつける金曜日の昼下がり。ヒースは仕事の手を休め、夕飯の買い出しも兼ねてマルシェを訪れていた。
「何かお探しですか?」
ヒースがああでもない、こうでもないと言いながら、服屋の前を延々と往復していると、業を煮やした店主の方から話しかけてきた。いや、なんでもない、とヒースはその場をやり過ごそうとしたが、なんでもなくはないと思い直す。
「服を……探している」
服屋を目の前にして、当たり前のことを口にしてしまい、ヒースは狼狽した。服屋に服を探しにこないで何を探しにくるというのだろう。しかし、そうですか、と服屋の店主は別段気にしたふうはなく話を続ける。
「そのご様子ですとヒースさんご自身の服ではないですね。よく一緒にマルシェに来られるお嬢さんの服でしょうか。あの、黒髪赤目の」
そうだ、とヒースは頷きながらも店主の洞察力に舌を巻く。よくわかるものだ、と思いながら、ヒースは言葉を継ぐ。
「……俺のツレに似合う服を見繕ってくれないか? せっかくの夏至祭だ、新しい服を着せてやりたい」
年齢差を気にして、堂々と恋人と言えない自分が情けなかった。しかし、下手なことを言ってリコリスが色眼鏡で見られるのは避けたい。もっとも、目の前の人物にはお見通しな気もするが。
「お好きな色はありますか?」
「好きな色は知らないが、赤と青が嫌いだと言っていた」
少々お待ちくださいね、と店主は露台に並べた服とああでもないこうでもないと睨めっこを始めた。そして、しばらくの後、店主が服の山から引っ張り出したのは真っ白なワンピースだった。
「こちらはいかがでしょう? きっと髪の色にも目の色にも映えますよ」
「……ならそれで」
ヒースには服の良し悪しも流行り廃りもわからない。店主の見立てを信じることにして、彼は一も二もなく即決した。
「かしこまりました。お代は金貨二枚になります」
ヒースは財布から金貨を二枚取り出すと、店主に支払った。店主は代金を受け取ると、「お包みしますので少々お待ちくださいね」紙で服を包み始めた。
紙に包まれた服が入った紙袋を受け取ると、ヒースは様々な店が立ち並ぶマルシェを歩き始める。この服を渡したら、リコリスはどんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか。それとも驚くだろうか。ヒースは自然と心がそわそわと浮き立つのを感じた。
今日の夕飯は何にしようか。確か家にトマトがあったはずだ。この時期はズッキーニが美味しいとリコリスが言っていた気がする。買って帰って一緒に煮込んでシチューにでもしようか。
ヒースは紙袋を手に、行き慣れた八百屋へと足を向ける。その足取りはかつての彼とは比べ物にならないくらい軽やかなものだった。
「リコリス、これ」
日曜日のミサが終わり、ヒースより少し遅れて帰ってきたリコリスに、彼は服屋の紙袋を渡した。え、これ、どうしたの、とリコリスは赤い目を丸くしながら包みを開けた。
「わあ……!」
「……気に入ったか?」
うんとても、とリコリスは大きく頷いた。ヒースは床に跪き、リコリスに手を差し伸べると、何度も脳内で練習した言葉を切り出した。柄にもない言葉が照れくさい。
「これを着て、今夜俺とデートしてくれるか?」
「――もちろん。……だけど、ヒース、女性に服を贈る意味って知ってる?」
意味? と、ヒースは鳶色の目を瞬かせた。この様子ではヒースは何も知らなさそうだな、とリコリスはワンピースを腕に抱いたまま肩をすくめた。
「女性に服を贈るのは〝脱がせたい〟って意味だよ。……これは、今夜の祭の二次会がベッドであるってことでいいのかな?」
ヒースの背を冷や汗が伝う。そんな下心があってリコリスに服を贈ったわけではない。ただ単に彼女を喜ばせたかっただけだ。
「……お前はどこでそんなことを覚えてくるんだ」
「だから、ミサの後のご婦人方の雑談だって。嫌でも聞こえてきちゃうんだよね。どこの旦那がよその奥さんに服を贈っただとか、誰と誰が不倫してただとか、誰それに抱かれたけど良かったとか下手くそだったとか、アレが小指みたいだとか逆に大きすぎてとか」
「……もうやめてくれ……」
ヒースは自分の今しがたの質問に深く後悔した。間違っても自分の恋人の口からこんな話聞きたくもない。というか彼女たちは一体何をしにミサに来ているんだ。そういう話は井戸端でやってくれ。
「冗談だって。何にしても、ヒースがこうしてあたしのために何かを選んでくれてすごく嬉しい。ありがとね」
それじゃ着替えてくるね、とリコリスは白いワンピースを持って奥のベッドルームに消えていった。程なくして、衣擦れの音が聞こえ始める。
(あんなに喜んでくれてるんだ。俺も少しはちゃんとした格好していかないとな)
何かあったかな、とヒースはクローゼットを開けると、夏物の衣類を物色し始めた。ヒースは皺のない清潔なシャツを見つけると着替え始める。こんなに祭が楽しみなのは久々だと思いながら、ヒースは姿見を覗き込んだ。
地平線の果てに居残った朱色と夜の淡い藍色が混ざり合って夏の夕空を染めた。昼から夜に移り変わりつつある街では、煌々と祭の灯りが輝いている。
リコリスはヒースに買ってもらったワンピースに、ヒースもミュゲが生きていたころに特別なときの外出用として着ていた服に着替えると、中央通りに赴いていた。
中央通りには元来の飲食店の多さも手伝って、食べ物の出店が多く並んでいた。掻き入れどきと言わんばかりにこの通りに軒を連ねる店は、祭を訪れた人々から安価な食べ物で小銭をかき集めている。
骨付きの肉。ふかしたじゃがいもにチーズをかけたもの。串焼き肉に片手で持てるサイズのパイ。多彩な具が詰め込まれたクレープ。りんごなどの果物に飴を絡めた菓子。よく冷えたビールにワイン。
「わあ、何あれすごい……!」
リコリスが最初に食いついたのは実演販売の出店だった。何やら飲み物を売っている屋台らしく、青い液体の真上に店主が握り拳を持ってくると色が変わるというもののようだ。
一体どんな仕掛けになっているのかな、とリコリスは露台に置かれたカップを覗き込む。屋台を切り盛りする壮年の男は一礼すると、芝居がかった述べ口上を口にした。
「これはこれは可愛らしいお嬢さん。今からあなたに一夜限りの魔法をお見せしますよ」
男は背後の木桶からよく冷えた青い液体が入った水差しを取り出すと、二つのカップにそれらを注ぎ入れる。そして、男は水差しを桶に戻すと露台の下に隠されていた何かを両手で掴んだ。
「それではお嬢さん。今から右のカップの中身を紫に、左を緑に変えてご覧入れましょう」
男は右の拳に力を込める。すると、何かがぴちょんと液体の中に沈み、紫色が液体の中で解け始める。おお、とリコリスは目をキラキラさせながらそれを見ている。
右のカップの液体の色が変わりきると、男は左手の指先をすっと緩めた。すると、今度はカップの中の液体が緑色へと変わっていく。
すごーい、とリコリスは手を叩いて喜んだ。店主の男に目配せをされ、ヒースは財布を開く。
「いくらだ?」
「銀貨二枚でございます」
高いな、と思いながらヒースは男に代金を支払う。代金を受け取ってなお、男は「もう一声!」何やら物欲しそうな顔をしていたので、仕方なしにヒースは彼の手に追加で銅貨を押し付けた。
またのお越しを、と中の液体が紫のカップを持ったリコリスと緑のカップを持ったヒースを見送った。ちらりとヒースが後ろを振り返ると、我も我もとばかりに先ほどの出店に人が殺到している。どうやら、体のいい客寄せとして使われたようだった。
「ん……これ酸っぱいね」
リコリスは歩きながら紫の液体に口をつけると、何だろうこれと思案げな顔をする。どのくらい酸っぱいのだろうと思いながら、ヒースは自分の手の中にある緑色の液体の入ったカップを傾けた。
「……俺のは苦いぞ?」
「そうなの? ちょっと飲ませてよ」
いいぞ、とヒースが承諾するのを待たずに、リコリスはヒースのカップをひったくった。たぽん、とカップの中で液体が波打つ。
リコリスはヒースのカップの中身に口をつけると、なるほどね、と独りごちた。この味には心当たりがある。
「あたし、この魔法のからくりわかっちゃったかも。聞く?」
「聞かないって言ったってお前はどのみち喋るだろ。誰かに話したくてしょうがないって顔してる」
へへ、とリコリスは照れたように笑う。その笑顔を見て、彼女を祭に誘って良かったとヒースは思った。
「それで、種明かしだけど。あたしのに入っているのはレモン、ヒースのほうは重曹だと思う。そういえば、前に後から入れるものの成分で色が変わるお茶があるらしいって聞いたことがあるけど、これはそれなんじゃないかな? 実物を見るのは初めてだけど」
「魔法のからくりがわかってがっかりしたか?」
「別に。職業柄、この世に魔法がないことくらいよく知ってるから。この世にはいろんなことを考える人がいるもんだなあって感心してた」
そうか、とヒースは飲み終わったカップをリコリスから回収すると二つ重ねて持つ。そして、もう片方の手でリコリスの手を握った。
「なあ、リコリス。お前、歌劇に興味はあるか?」
「そっか、夏至祭も歌劇あるんだっけ。毎年、女神祭の歌劇の稽古ばっかりだから忘れてた」
「夏至祭や収穫祭の歌劇は女神祭のとは一味違うぞ。せっかくだからどうだ?」
夏至祭や収穫祭で行なわれる歌劇は、演者が演技も歌もすべてこなす場合が多い。題材も流行りの大衆小説を舞台にしたものが一般的だった。
片や女神祭の歌劇は背後に聖歌隊が控えていて、それをバックに教会の有力者が演技をする場合が多い。題材も女神リュンヌの光臨などといった宗教的なものが普通だ。
「いいね。自分が出ない歌劇っていうのも新鮮だし。だけど、こういうのってチケットっておいそれと取れないものじゃないの?」
女神祭の歌劇は席を確保するための倍率が二百倍とも三百倍とも聞いている。夏至祭の場合もチケットを取るのが困難であることは想像に難くなかった。
「それが、仕事の関係で歌劇のチケットをもらってな。ちょうど二枚ある」
そんなの行くしかないじゃん、とリコリスはにっと笑った。初めて見る歌劇というものが素直に楽しみだった。
「歌劇は七時からだったはずだ。そろそろ行った方がいいかもしれない」
リコリスの手を引いてヒースは歩き出す。二人は先ほどの出店に空になったカップを返すと、歌劇が行なわれる教会前広場へと足を伸ばした。
『魔統べる王と妖精の姫』は最近、市井で流行っている小説を下敷きとした歌劇だ。エルフと呼ばれる架空の長い寿命を持つ魔法種族の姫を主人公とする冒険と恋の物語となっている。
物語は二百年前の聖戦の幕引きから始まる。そこで主人公であるエルフのレイシャは、魔王と相討ちになり、最愛の恋人であるイェルンと死別する。
それから時は巡り二百年後。レイシャは国王に呼び出され、魔王の再討伐の任を命じられる。そして、彼女は二百年前とは違う新たな仲間たちと旅に出るが、彼女はかつての恋人が魔王として転生していたことを知ってしまう。
そんなときに彼女は仲間の騎士であるヴェーゼに愛を告白され、かつての恋人との間で揺れる。そして、揺れる心を抱いたまま、魔王城を襲撃するが、どうしてもかつての恋人を討つことなどできずに彼女たちは敗走する。
魔王城から撤退した夜、己の弱さに寄り添ってくれたヴェーゼに向き合うことを決めたレイシャ。過去に区切りをつけるために再び彼女たちは魔王城に向かう。
そのころには新たな魔王も転生前の記憶を思い出しており、人間と魔族が共存できる道を模索することになる。そして、魔王がヴェーゼにレイシャの幸せを託した場面で物語は終わる。
「誰かに大切な人の幸せを託して、自分は身を引く……ヒースの奥さんはそれに近いことをしたんだよね」
舞台の灯りが落とされていくのを眺めながら、リコリスはそう呟いた。ヒースの幸せを願いながら死んでいったミュゲ。しかし、自分はヒースに今の生活を少しでも悪くないと思ってもらえているのだろうか。
「悪い、好みの話じゃなかったか?」
「ううん、そんなことないよ。すっごく良かった。特にレイシャが魔王の正体を知って驚いて悲しむシーンの歌とかすごかった」
「そうか……ならいいんだが……」
「あのさ、ヒースはさ、後悔してない?」
後悔? とヒースは鳶色の目を瞬かせた。リコリスは躊躇いがちに言葉を続ける。
「たとえば、あたしがいなければ、とか。隣にいるのがあたしじゃないもっと他の誰かだったら、とか」
「そんなことはない。リコリス、お前がいなければ、お前が俺を見つけてくれなければ、俺はまだ絶望の闇の中にいただろう。感謝こそすれ、後悔なんてするはずがない。それにお前と一緒にいることは俺が選択したことだ」
「……そっか」
ありがと、と呟くとリコリスはヒースの手を握る。ヒースは自分のものよりも小さなその手を握り返した。
歌劇が終わった後の混雑に紛れるようにして、二人は観覧席を抜ける。どこからともなく漂ってきたおいしそうな香りに、リコリスの腹がくうと鳴った。歌劇が始まる前に喉を潤しはしたが、食事はまだだ。
「ねえ、ヒース。お腹空かない?」
「確かに腹減ったな……さっき八時の鐘も鳴ったし」
「何か食べようよ。せっかくの夏至祭、これでもうおしまいとか言わないでしょ?」
ねえねえ、とリコリスは広場の入り口に串焼きの肉を売る出店を見つけると、ヒースを引っ張っていく。何種類かの串焼きを買うと、二人は再び雑踏の中に戻っていった。
「美味いな」
串に刺さった豚の肉を頬張るとヒースは独りごちた。肉の甘い脂をぴりりとしたブラックペッパーが引き立てている。何ともビールが欲しくなる味だ。
「そうだね。何で肉を焼いただけなのにこんなにおいしいんだろうね」
「それこそ夏至祭の魔法ってやつかもしれないな」
「それもあるからかもしれないけど、きっとヒースと一緒だからだよ。一緒にいれば、それがたとえ石ころだったとしてもきっとおいしい」
大袈裟な、と言いかけてヒースは口をつぐんだ。あまりに幸せそうにそんなことを言うリコリスに水を差したくなかった。
(リコリスにとってはこんな当たり前のことも当たり前じゃなかったんだもんな……)
自分にとってもこんなふうに人々の中にいて誰かと何かを美味しいと分かち合うことは少し前まで当たり前ではなかったとヒースは気づく。日常のどんな些細なことであっても、どれもが突然当たり前でなくなってしまいうる大切なものなのだ。
南東の空にストロベリームーンが白く光っている。この世界が出来たときから空の果てに佇む星々が生命をさやかにきらめかせている。ヒースは今このときが永遠に続けばいいと胸中で願った。
肉の串焼きを食べ切って、二人が広場の喧騒を楽しみながら歩いていると、近くの出店の店主から声がかかった。どうやら装飾品を売っている店のようだった。
「そこのお二人、ペアアクセサリーなんていかがだい?」
「ペアアクセサリー?」
興味を持ったリコリスが露台を覗き込む。何やらでこぼことしたデザインのネックレスや揃いのデザインの指輪やらが所狭しと並んでいる。
「夏至祭を一緒にすごしたカップルは一生を添い遂げるって言うだろう? そこのネックレスなんかは二つで一つの形が出来上がるデザインになっている。この世に一つとして同じデザインのものはないから、自分が持っているネックレスと噛み合うデザインのものを持っているやつが自分の唯一無二の相手ってことになる。お二人とも今日の記念にどうだい? この先何年経っても今日のことを思い出せるぜ」
店主の熱烈な売り文句を鬱陶しく感じながら、ヒースも露台を覗き込むとリコリスとともにアクセサリーを物色し始める。と、一対のペンダントがヒースの視線を奪った。
ピンク色の半円二つのデザインのネックレス。片方には夜空や星が、もう片方には月の表面の模様が散りばめられている。この二つは合わさることで今宵の月――ストロベリームーンとなる。
「なあ、リコリス。これ、どうだ?」
「素敵なデザインだね。今日のいい記念になると思う」
それじゃあこのネックレスを、とヒースは財布を出すとそれを購った。「いい夜を」店主は代金と引き換えにヒースへと一対のネックレスを手渡した。
「リコリス、どっちがいい? つけてやる」
「じゃあ、星のデザインの方がいい」
わかった、とヒースはチェーンの金具を外すと、両端を持ってリコリスの正面から首の後ろへと手を回した。ヒースが金具を留め終えて、腕を解くと、ありがと、とリコリスははにかんだ笑みを浮かべた。
「ヒース、それ貸して。やったげる」
リコリスは月面がデザインされたもう一対のネックレスをヒースから受け取ると、「ちょっと屈んで」ヒースに屈むように促した。ヒースが膝を折り、リコリスと目線を合わせてやると、彼女は自分がやったのと同じようにして彼にネックレスをつけてやった。
そのまま腕が離れていくのかと思えば、ヒースはきゅっとリコリスの華奢な腕に抱きしめられた。ヒース、と彼を呼ぶ彼女の声が聴覚を満たす。
「今日はこうやって誘ってくれてありがとう。あたし、一生、今日のこと忘れないと思う」
「大袈裟だな。女神祭は無理でも、収穫祭も来年の夏至祭もこうやってまた一緒に来よう。今日のことを忘れてしまうくらい、これからたくさんの思い出を重ねていこう」
ヒースはリコリスの身体に腕を回すと、抱きしめ返した。いつかは終わりが来ることをわかってはいても、こんな毎日の繰り返しが当たり前にあることを願ってやまなかった。
来週? とリコリスは一瞬怪訝な顔をした。しかし、すぐにその日が何の日であるのかに思い至ったのか、彼女の眉間の皺はすぐに解けた。
「夏至祭? それがどうかした?」
街中の至るところに緑陰が落ち、溽暑の季節が訪れていた。翠雨の止み間に雲の峰が突き抜ける滄海が顔を覗かせていた。
夏が始まると、ディオースでは毎月のように立て続けに祭が行なわれる。六月下旬の一番昼の長い日に行なわれる夏至祭、そのちょうど一ヶ月ほど後に行なわれる女神祭、夏の終わりに行なわれる収穫祭である。これらの祭は三大祭と呼ばれ、レーツェル大陸中から聖グラース教の総本山であるディオースに観光客という名の巡礼者が押し寄せるのである。
「それでだ、リコリス……その、で……」
で? とリコリスはヒース何が言いたいのかわからないかのように言葉の続きを促した。あざとく小首を傾げて見せているが、リコリスはこの後に続くはずの二文字をしっかりと知っている。ヒースはたじたじとしながら、言葉の続きをどうにか脳内から捻り出す。耳が熱くなるのを感じる。男って大変だなあと思いながら、リコリスはにまにまとした笑みをヒースへと送った。
「で……ディオースの街歩きをしようかと思うんだが、一緒に来ないか?」
「いいけど、それはちょっと無理矢理がすぎないかなあ」
なんでストレートにデートって言えないかなあとリコリスは口を尖らせる。ヒースの意気地なし。自分たちは恋人同士だというのに、今更何を照れることがあるのだろう。
「そもそもあたしたち、何度もデートしてるじゃん。付き合う前にカフェとかマルシェも行ったし、最近もよく一緒にマルシェで買い物してるし今更じゃない?」
「それはそうだが……夏至祭ともなれば、普段とは心構えが違ってくるだろ。何せ、夏至祭を一緒に過ごしたカップルは一生添い遂げるって言うんだから」
「それを言ったら、女神祭を過ごしたカップルは女神リュンヌに祝福されるし、収穫祭を過ごしたカップルはどんな困難にも打ち勝てるとか言うでしょ。ヒース、それ商工会や教会に乗せられてうまいこと商売の種にされてるだけだよ」
夢も希望もないリコリスの指摘に、ヒースは聞きたくないとばかりに耳を覆う。頭で現実は理解していても、夢は見たい。男は夢見がちな生き物なのだ。
「やめてくれ、俺は毎年ミュゲと三大祭に全部行ってたんだ……」
やれやれとリコリスは肩をすくめる。けれど、こうやってヒースに誘ってもらって悪い気はしない。
「まあ、せっかくヒースから誘ってくれたことだし、夏至祭には行けるように時間を工面するよ」
工面? とヒースは訝しげに眉根を寄せた。そういえば、とヒースは何かに気づいたようにこう訊いた。
「お前、最近帰りが遅いよな? 教会の仕事、忙しいのか?」
「まあ、女神祭が来月に迫ってるからね。あたし、一応お偉い神子様だから確認しないといけないことが多くて多くて。でも、司祭たちせっついてなるべく仕事は巻きで終わらせるようにするから気にしないで」
「そうは言ってもなあ……無理はするなよ?」
大丈夫、とリコリスは薄い胸を叩いた。ヒースとの思い出を作るためならば、そっとやちょっとの無理なんてわけないし、出来得る限り時間を作りたい。
「それならいいが……っと、そろそろ昼飯にしよう。食べたいものはあるか?」
すると、サンドウィッチ! とリコリスは即答した。お前はまたそれか、とヒースは苦笑いする。
「だって、あたしにとって、サンドウィッチはヒースとの思い出だもん。何度だって食べたいよ」
「あの不出来なサンドウィッチをそう言われると俺としては複雑なんだが……で、今日は具は何にするんだ?」
「キウイ。昨日マルシェで買ったでしょ。ヒース、パンを切っておいて。その間にあたしはクリームを作っておくから」
わかった、とヒースは食器棚にしまっていた食パンを出してくると、キッチンに立って包丁を握る。その横でリコリスがボウルに牛の乳を注ぎ、泡立て器でかしゃかしゃとかき混ぜている音が響く。そんな何でもない時間をヒースは温かいと思った。
燦々と容赦なく太陽が照りつける金曜日の昼下がり。ヒースは仕事の手を休め、夕飯の買い出しも兼ねてマルシェを訪れていた。
「何かお探しですか?」
ヒースがああでもない、こうでもないと言いながら、服屋の前を延々と往復していると、業を煮やした店主の方から話しかけてきた。いや、なんでもない、とヒースはその場をやり過ごそうとしたが、なんでもなくはないと思い直す。
「服を……探している」
服屋を目の前にして、当たり前のことを口にしてしまい、ヒースは狼狽した。服屋に服を探しにこないで何を探しにくるというのだろう。しかし、そうですか、と服屋の店主は別段気にしたふうはなく話を続ける。
「そのご様子ですとヒースさんご自身の服ではないですね。よく一緒にマルシェに来られるお嬢さんの服でしょうか。あの、黒髪赤目の」
そうだ、とヒースは頷きながらも店主の洞察力に舌を巻く。よくわかるものだ、と思いながら、ヒースは言葉を継ぐ。
「……俺のツレに似合う服を見繕ってくれないか? せっかくの夏至祭だ、新しい服を着せてやりたい」
年齢差を気にして、堂々と恋人と言えない自分が情けなかった。しかし、下手なことを言ってリコリスが色眼鏡で見られるのは避けたい。もっとも、目の前の人物にはお見通しな気もするが。
「お好きな色はありますか?」
「好きな色は知らないが、赤と青が嫌いだと言っていた」
少々お待ちくださいね、と店主は露台に並べた服とああでもないこうでもないと睨めっこを始めた。そして、しばらくの後、店主が服の山から引っ張り出したのは真っ白なワンピースだった。
「こちらはいかがでしょう? きっと髪の色にも目の色にも映えますよ」
「……ならそれで」
ヒースには服の良し悪しも流行り廃りもわからない。店主の見立てを信じることにして、彼は一も二もなく即決した。
「かしこまりました。お代は金貨二枚になります」
ヒースは財布から金貨を二枚取り出すと、店主に支払った。店主は代金を受け取ると、「お包みしますので少々お待ちくださいね」紙で服を包み始めた。
紙に包まれた服が入った紙袋を受け取ると、ヒースは様々な店が立ち並ぶマルシェを歩き始める。この服を渡したら、リコリスはどんな顔をするだろうか。喜ぶだろうか。それとも驚くだろうか。ヒースは自然と心がそわそわと浮き立つのを感じた。
今日の夕飯は何にしようか。確か家にトマトがあったはずだ。この時期はズッキーニが美味しいとリコリスが言っていた気がする。買って帰って一緒に煮込んでシチューにでもしようか。
ヒースは紙袋を手に、行き慣れた八百屋へと足を向ける。その足取りはかつての彼とは比べ物にならないくらい軽やかなものだった。
「リコリス、これ」
日曜日のミサが終わり、ヒースより少し遅れて帰ってきたリコリスに、彼は服屋の紙袋を渡した。え、これ、どうしたの、とリコリスは赤い目を丸くしながら包みを開けた。
「わあ……!」
「……気に入ったか?」
うんとても、とリコリスは大きく頷いた。ヒースは床に跪き、リコリスに手を差し伸べると、何度も脳内で練習した言葉を切り出した。柄にもない言葉が照れくさい。
「これを着て、今夜俺とデートしてくれるか?」
「――もちろん。……だけど、ヒース、女性に服を贈る意味って知ってる?」
意味? と、ヒースは鳶色の目を瞬かせた。この様子ではヒースは何も知らなさそうだな、とリコリスはワンピースを腕に抱いたまま肩をすくめた。
「女性に服を贈るのは〝脱がせたい〟って意味だよ。……これは、今夜の祭の二次会がベッドであるってことでいいのかな?」
ヒースの背を冷や汗が伝う。そんな下心があってリコリスに服を贈ったわけではない。ただ単に彼女を喜ばせたかっただけだ。
「……お前はどこでそんなことを覚えてくるんだ」
「だから、ミサの後のご婦人方の雑談だって。嫌でも聞こえてきちゃうんだよね。どこの旦那がよその奥さんに服を贈っただとか、誰と誰が不倫してただとか、誰それに抱かれたけど良かったとか下手くそだったとか、アレが小指みたいだとか逆に大きすぎてとか」
「……もうやめてくれ……」
ヒースは自分の今しがたの質問に深く後悔した。間違っても自分の恋人の口からこんな話聞きたくもない。というか彼女たちは一体何をしにミサに来ているんだ。そういう話は井戸端でやってくれ。
「冗談だって。何にしても、ヒースがこうしてあたしのために何かを選んでくれてすごく嬉しい。ありがとね」
それじゃ着替えてくるね、とリコリスは白いワンピースを持って奥のベッドルームに消えていった。程なくして、衣擦れの音が聞こえ始める。
(あんなに喜んでくれてるんだ。俺も少しはちゃんとした格好していかないとな)
何かあったかな、とヒースはクローゼットを開けると、夏物の衣類を物色し始めた。ヒースは皺のない清潔なシャツを見つけると着替え始める。こんなに祭が楽しみなのは久々だと思いながら、ヒースは姿見を覗き込んだ。
地平線の果てに居残った朱色と夜の淡い藍色が混ざり合って夏の夕空を染めた。昼から夜に移り変わりつつある街では、煌々と祭の灯りが輝いている。
リコリスはヒースに買ってもらったワンピースに、ヒースもミュゲが生きていたころに特別なときの外出用として着ていた服に着替えると、中央通りに赴いていた。
中央通りには元来の飲食店の多さも手伝って、食べ物の出店が多く並んでいた。掻き入れどきと言わんばかりにこの通りに軒を連ねる店は、祭を訪れた人々から安価な食べ物で小銭をかき集めている。
骨付きの肉。ふかしたじゃがいもにチーズをかけたもの。串焼き肉に片手で持てるサイズのパイ。多彩な具が詰め込まれたクレープ。りんごなどの果物に飴を絡めた菓子。よく冷えたビールにワイン。
「わあ、何あれすごい……!」
リコリスが最初に食いついたのは実演販売の出店だった。何やら飲み物を売っている屋台らしく、青い液体の真上に店主が握り拳を持ってくると色が変わるというもののようだ。
一体どんな仕掛けになっているのかな、とリコリスは露台に置かれたカップを覗き込む。屋台を切り盛りする壮年の男は一礼すると、芝居がかった述べ口上を口にした。
「これはこれは可愛らしいお嬢さん。今からあなたに一夜限りの魔法をお見せしますよ」
男は背後の木桶からよく冷えた青い液体が入った水差しを取り出すと、二つのカップにそれらを注ぎ入れる。そして、男は水差しを桶に戻すと露台の下に隠されていた何かを両手で掴んだ。
「それではお嬢さん。今から右のカップの中身を紫に、左を緑に変えてご覧入れましょう」
男は右の拳に力を込める。すると、何かがぴちょんと液体の中に沈み、紫色が液体の中で解け始める。おお、とリコリスは目をキラキラさせながらそれを見ている。
右のカップの液体の色が変わりきると、男は左手の指先をすっと緩めた。すると、今度はカップの中の液体が緑色へと変わっていく。
すごーい、とリコリスは手を叩いて喜んだ。店主の男に目配せをされ、ヒースは財布を開く。
「いくらだ?」
「銀貨二枚でございます」
高いな、と思いながらヒースは男に代金を支払う。代金を受け取ってなお、男は「もう一声!」何やら物欲しそうな顔をしていたので、仕方なしにヒースは彼の手に追加で銅貨を押し付けた。
またのお越しを、と中の液体が紫のカップを持ったリコリスと緑のカップを持ったヒースを見送った。ちらりとヒースが後ろを振り返ると、我も我もとばかりに先ほどの出店に人が殺到している。どうやら、体のいい客寄せとして使われたようだった。
「ん……これ酸っぱいね」
リコリスは歩きながら紫の液体に口をつけると、何だろうこれと思案げな顔をする。どのくらい酸っぱいのだろうと思いながら、ヒースは自分の手の中にある緑色の液体の入ったカップを傾けた。
「……俺のは苦いぞ?」
「そうなの? ちょっと飲ませてよ」
いいぞ、とヒースが承諾するのを待たずに、リコリスはヒースのカップをひったくった。たぽん、とカップの中で液体が波打つ。
リコリスはヒースのカップの中身に口をつけると、なるほどね、と独りごちた。この味には心当たりがある。
「あたし、この魔法のからくりわかっちゃったかも。聞く?」
「聞かないって言ったってお前はどのみち喋るだろ。誰かに話したくてしょうがないって顔してる」
へへ、とリコリスは照れたように笑う。その笑顔を見て、彼女を祭に誘って良かったとヒースは思った。
「それで、種明かしだけど。あたしのに入っているのはレモン、ヒースのほうは重曹だと思う。そういえば、前に後から入れるものの成分で色が変わるお茶があるらしいって聞いたことがあるけど、これはそれなんじゃないかな? 実物を見るのは初めてだけど」
「魔法のからくりがわかってがっかりしたか?」
「別に。職業柄、この世に魔法がないことくらいよく知ってるから。この世にはいろんなことを考える人がいるもんだなあって感心してた」
そうか、とヒースは飲み終わったカップをリコリスから回収すると二つ重ねて持つ。そして、もう片方の手でリコリスの手を握った。
「なあ、リコリス。お前、歌劇に興味はあるか?」
「そっか、夏至祭も歌劇あるんだっけ。毎年、女神祭の歌劇の稽古ばっかりだから忘れてた」
「夏至祭や収穫祭の歌劇は女神祭のとは一味違うぞ。せっかくだからどうだ?」
夏至祭や収穫祭で行なわれる歌劇は、演者が演技も歌もすべてこなす場合が多い。題材も流行りの大衆小説を舞台にしたものが一般的だった。
片や女神祭の歌劇は背後に聖歌隊が控えていて、それをバックに教会の有力者が演技をする場合が多い。題材も女神リュンヌの光臨などといった宗教的なものが普通だ。
「いいね。自分が出ない歌劇っていうのも新鮮だし。だけど、こういうのってチケットっておいそれと取れないものじゃないの?」
女神祭の歌劇は席を確保するための倍率が二百倍とも三百倍とも聞いている。夏至祭の場合もチケットを取るのが困難であることは想像に難くなかった。
「それが、仕事の関係で歌劇のチケットをもらってな。ちょうど二枚ある」
そんなの行くしかないじゃん、とリコリスはにっと笑った。初めて見る歌劇というものが素直に楽しみだった。
「歌劇は七時からだったはずだ。そろそろ行った方がいいかもしれない」
リコリスの手を引いてヒースは歩き出す。二人は先ほどの出店に空になったカップを返すと、歌劇が行なわれる教会前広場へと足を伸ばした。
『魔統べる王と妖精の姫』は最近、市井で流行っている小説を下敷きとした歌劇だ。エルフと呼ばれる架空の長い寿命を持つ魔法種族の姫を主人公とする冒険と恋の物語となっている。
物語は二百年前の聖戦の幕引きから始まる。そこで主人公であるエルフのレイシャは、魔王と相討ちになり、最愛の恋人であるイェルンと死別する。
それから時は巡り二百年後。レイシャは国王に呼び出され、魔王の再討伐の任を命じられる。そして、彼女は二百年前とは違う新たな仲間たちと旅に出るが、彼女はかつての恋人が魔王として転生していたことを知ってしまう。
そんなときに彼女は仲間の騎士であるヴェーゼに愛を告白され、かつての恋人との間で揺れる。そして、揺れる心を抱いたまま、魔王城を襲撃するが、どうしてもかつての恋人を討つことなどできずに彼女たちは敗走する。
魔王城から撤退した夜、己の弱さに寄り添ってくれたヴェーゼに向き合うことを決めたレイシャ。過去に区切りをつけるために再び彼女たちは魔王城に向かう。
そのころには新たな魔王も転生前の記憶を思い出しており、人間と魔族が共存できる道を模索することになる。そして、魔王がヴェーゼにレイシャの幸せを託した場面で物語は終わる。
「誰かに大切な人の幸せを託して、自分は身を引く……ヒースの奥さんはそれに近いことをしたんだよね」
舞台の灯りが落とされていくのを眺めながら、リコリスはそう呟いた。ヒースの幸せを願いながら死んでいったミュゲ。しかし、自分はヒースに今の生活を少しでも悪くないと思ってもらえているのだろうか。
「悪い、好みの話じゃなかったか?」
「ううん、そんなことないよ。すっごく良かった。特にレイシャが魔王の正体を知って驚いて悲しむシーンの歌とかすごかった」
「そうか……ならいいんだが……」
「あのさ、ヒースはさ、後悔してない?」
後悔? とヒースは鳶色の目を瞬かせた。リコリスは躊躇いがちに言葉を続ける。
「たとえば、あたしがいなければ、とか。隣にいるのがあたしじゃないもっと他の誰かだったら、とか」
「そんなことはない。リコリス、お前がいなければ、お前が俺を見つけてくれなければ、俺はまだ絶望の闇の中にいただろう。感謝こそすれ、後悔なんてするはずがない。それにお前と一緒にいることは俺が選択したことだ」
「……そっか」
ありがと、と呟くとリコリスはヒースの手を握る。ヒースは自分のものよりも小さなその手を握り返した。
歌劇が終わった後の混雑に紛れるようにして、二人は観覧席を抜ける。どこからともなく漂ってきたおいしそうな香りに、リコリスの腹がくうと鳴った。歌劇が始まる前に喉を潤しはしたが、食事はまだだ。
「ねえ、ヒース。お腹空かない?」
「確かに腹減ったな……さっき八時の鐘も鳴ったし」
「何か食べようよ。せっかくの夏至祭、これでもうおしまいとか言わないでしょ?」
ねえねえ、とリコリスは広場の入り口に串焼きの肉を売る出店を見つけると、ヒースを引っ張っていく。何種類かの串焼きを買うと、二人は再び雑踏の中に戻っていった。
「美味いな」
串に刺さった豚の肉を頬張るとヒースは独りごちた。肉の甘い脂をぴりりとしたブラックペッパーが引き立てている。何ともビールが欲しくなる味だ。
「そうだね。何で肉を焼いただけなのにこんなにおいしいんだろうね」
「それこそ夏至祭の魔法ってやつかもしれないな」
「それもあるからかもしれないけど、きっとヒースと一緒だからだよ。一緒にいれば、それがたとえ石ころだったとしてもきっとおいしい」
大袈裟な、と言いかけてヒースは口をつぐんだ。あまりに幸せそうにそんなことを言うリコリスに水を差したくなかった。
(リコリスにとってはこんな当たり前のことも当たり前じゃなかったんだもんな……)
自分にとってもこんなふうに人々の中にいて誰かと何かを美味しいと分かち合うことは少し前まで当たり前ではなかったとヒースは気づく。日常のどんな些細なことであっても、どれもが突然当たり前でなくなってしまいうる大切なものなのだ。
南東の空にストロベリームーンが白く光っている。この世界が出来たときから空の果てに佇む星々が生命をさやかにきらめかせている。ヒースは今このときが永遠に続けばいいと胸中で願った。
肉の串焼きを食べ切って、二人が広場の喧騒を楽しみながら歩いていると、近くの出店の店主から声がかかった。どうやら装飾品を売っている店のようだった。
「そこのお二人、ペアアクセサリーなんていかがだい?」
「ペアアクセサリー?」
興味を持ったリコリスが露台を覗き込む。何やらでこぼことしたデザインのネックレスや揃いのデザインの指輪やらが所狭しと並んでいる。
「夏至祭を一緒にすごしたカップルは一生を添い遂げるって言うだろう? そこのネックレスなんかは二つで一つの形が出来上がるデザインになっている。この世に一つとして同じデザインのものはないから、自分が持っているネックレスと噛み合うデザインのものを持っているやつが自分の唯一無二の相手ってことになる。お二人とも今日の記念にどうだい? この先何年経っても今日のことを思い出せるぜ」
店主の熱烈な売り文句を鬱陶しく感じながら、ヒースも露台を覗き込むとリコリスとともにアクセサリーを物色し始める。と、一対のペンダントがヒースの視線を奪った。
ピンク色の半円二つのデザインのネックレス。片方には夜空や星が、もう片方には月の表面の模様が散りばめられている。この二つは合わさることで今宵の月――ストロベリームーンとなる。
「なあ、リコリス。これ、どうだ?」
「素敵なデザインだね。今日のいい記念になると思う」
それじゃあこのネックレスを、とヒースは財布を出すとそれを購った。「いい夜を」店主は代金と引き換えにヒースへと一対のネックレスを手渡した。
「リコリス、どっちがいい? つけてやる」
「じゃあ、星のデザインの方がいい」
わかった、とヒースはチェーンの金具を外すと、両端を持ってリコリスの正面から首の後ろへと手を回した。ヒースが金具を留め終えて、腕を解くと、ありがと、とリコリスははにかんだ笑みを浮かべた。
「ヒース、それ貸して。やったげる」
リコリスは月面がデザインされたもう一対のネックレスをヒースから受け取ると、「ちょっと屈んで」ヒースに屈むように促した。ヒースが膝を折り、リコリスと目線を合わせてやると、彼女は自分がやったのと同じようにして彼にネックレスをつけてやった。
そのまま腕が離れていくのかと思えば、ヒースはきゅっとリコリスの華奢な腕に抱きしめられた。ヒース、と彼を呼ぶ彼女の声が聴覚を満たす。
「今日はこうやって誘ってくれてありがとう。あたし、一生、今日のこと忘れないと思う」
「大袈裟だな。女神祭は無理でも、収穫祭も来年の夏至祭もこうやってまた一緒に来よう。今日のことを忘れてしまうくらい、これからたくさんの思い出を重ねていこう」
ヒースはリコリスの身体に腕を回すと、抱きしめ返した。いつかは終わりが来ることをわかってはいても、こんな毎日の繰り返しが当たり前にあることを願ってやまなかった。



