リコリスとヒースがマルシェを訪れてから一ヶ月。たまに出かけることもあったが、毎週日曜のミサ後の午後は二人でヒースの家で過ごすのが当たり前になってきていた。
 ヒースも、リコリスの存在にはだいぶ慣れた。いつの間にかヒースはリコリスがそばにいることを受け入れつつあった。
 木々の花が散り、緑が深まりつつあったある日の午後。ヒースは自宅のダイニングテーブルでリコリスと茶を飲んでいた。
 リコリスの指導のもと、この一ヶ月で料理も茶の淹れ方もだいぶ成長したと思う。火加減というものを覚えたことで鍋を焦がすことが減り、万が一焦がしても重曹で取れることを学んだ。最近、マルシェの金物屋の前を通りがかったときに、店主にせっかくの優良顧客だったんだけどなあと成長を嘆かれたが。
 茶に関しても、別な日にまたリコリスにマルシェの雑貨屋に連れていかれ、砂時計を買わされたことで、蒸らす時間というものがわかるようになった。まともな茶を一人で淹れられるようになったこともまた成長だ。
 いままですべてミュゲ任せだったことがリコリスのおかげでできるようになってきている。それは喜ばしいことだ。しかし、それと同時にミュゲの存在が自分から離れていってしまうようで寂しくもあった。
(駄目だ、これはすべて俺の問題だ)
 ヒースはリコリスのそばにいたいという言葉にきちんと答えを返さないまま、なんとなく一緒にいるなあなあの関係を続けている。あのときのリコリスの真摯な言葉に自分の答えを返さないでいることをヒースは申し訳なく思っていた。それに肉体関係こそないものの、成人した男女がずるずるとこんな関係を続けているのは良くない。これでは自分がろくでなしでリコリスが通い妻みたいだ。
(早くどうにかしないとな……)
 リコリスはいい子だと思う。神子という立場を抜きにしても、いい子だ。
(これで俺が若ければな……)
 自分とリコリスがもし同年代だったらどうだっただろう。ミュゲは控えめで穏やかな性格だったが、対するリコリスはさばさばとしてさっぱりとした物言いをする。二人の性格こそ異なるが、それでもヒースが賢く優しく気立ての良いリコリスに惹かれていた可能性はないとは言い切れない。
 容姿だって、平均より可愛らしい部類に入るだろう。黒髪に赤目。プラチナブロンドに緑の瞳。正反対の容姿を持つリコリスとミュゲだが、別にリコリスが好みじゃないというわけでは決してない。
「ヒース、どうかした? この前買った茶葉、好みじゃなかった?」
 ヒースはその言葉に現実に引き戻された。ヒースの茶が減っていないことに気づいたリコリスがこちらを覗き込んでいる。
「いや、そういうわけじゃないが……」
「じゃあ、どうしたの?」
「……ちょっと考え事をしていた」
 傷つくなあ、とリコリスは不満げな表情を浮かべた。誰と比べられていたかくらいのことはわかる。
「もう、あたしと一緒にいるときくらいはあたしを見てほしいな。なあんて」
 冗談だよ、と表情を解くと悪戯っぽくリコリスは片目を閉じた。揶揄われたヒースは、何だよと口角を下げる。
「悩み事なら話を聞くよ。こう見えてもあたし、教皇聖下と並ぶくらいの高位の聖職者だからね。悩める子羊に道を説くなんて得意中の得意」
「うーん、だが、それは……」
 ヒースの悩み事はリコリスのことだ。最初は娘のようだと思っていた彼女をいつの間にかそうは見れなくなってきていた。しかし、恋人かといえば今の関係性は中途半端すぎる。
(――俺は臆病だな)
 ヒースがこのことを口にすれば、リコリスはきっと、双方の気持ちが落ち着くところに辿り着くまで、向き合ってくれるだろう。けれど、ヒースにはこのことを彼女に面と向かって口にする勇気が足りなかった。
「もう、うーんうーんって煮え切らないなあ。でも何か話したくなったら言って。いつでも聞くから」
「じゃあ……悩み事というのとは少し違うが、昔話を聞いてくれないか」
「いいよ」
 その前にお茶を入れ直そうか、とリコリスは席を立つ。彼女が水瓶から鍋に水を移し替えている音が室内に響いていた。

 木々を彩る桃色の春の花が散ってほどなくすると、ディオースの公園内の薔薇園には色とりどりの花が咲き乱れる。そんな折に、薔薇園を訪れるのが、ヒースとミュゲの楽しみだった。
 ミュゲは昔から体が弱い。だんだんと気温が上がってくる季節とはいえ、あまり長いこと風に当たるわけにはいかなかった。
 互いの指をしっかりと絡めあって手を繋いで歩きながら、ミュゲは緑の双眸を細める。彼女の視線の先では、生い茂る薔薇の花が風が香る季節の少し強い陽の光を反射していた。
「今年もあなたと一緒に来られて嬉しいわ。わたし、花の中では薔薇が一番好きだもの」
「お前はまたその話を……」
「何度でもするわ。わたしのこの人生の中で一番嬉しかった二つの出来事だもの」
 何で一番が二回あるんだよ、とヒースは思いながらもそれを口に出しはしない。答えはわかりきっているし、それはヒースにとって小っ恥ずかしい話であるからだ。
「一回目はわたしたちが日曜学校を卒業したばかりのころだったわね。忘れもしない、あれはわたしの誕生日だったわ。
 あなたは薔薇とカーネーションの違いがわからないどころか、向日葵とタンポポの違いすらわからないような子だったのに、赤い薔薇を一本、ここの薔薇園からむしってわたしのところに持ってきてくれたのよね」
「恥ずかしいからその話はいいって。若気の至りだろ」
 ふふふ、と嬉しげにミュゲは微笑む。照れ臭げに彼が薔薇を差し出して、ぶっきらぼうに想いを告げてくれたあのときのことは、いつまで経っても色褪せない思い出だ。
「だって、嬉しかったんだもの。薔薇を持ってきて、好きだって告白してくれたあなたの言葉が」
「……あれは母さんに唆されたんだよ。父さんにプロポーズされたときに赤い薔薇を百本もらったって。だから、好きな子に告白するときは赤い薔薇を持っていくといいって言われて」
「おばさまはこう言えばあなたがお小遣いでマルシェの花屋で薔薇を買うと思っていたんでしょうね。それがまさか薔薇園の薔薇をむしってくるなんて笑っちゃうわ」
「短絡的だったとは思ってるよ。薔薇園に行けば確実に薔薇が手に入ると思っていたから」
「あのときは薔薇園の管理人さんが訪ねてきて、あなた、こってりと絞られたものね。公共の場に生えている植物を荒らすんじゃない、って」
 まったくだよ、とヒースは肩をすくめる。よりにもよってミュゲの前で恥をかかされたあの出来事は苦い思い出だ。自分が悪かったとはいえ、妙なことを吹き込んでくれた母親が恨めしい。
「最終的には子供のいたずらってことで勘弁してくれたけどな。あんな思いはもう懲り懲りだ」
「だから二回目――プロポーズのときはきちんとマルシェの花屋で薔薇を買ってきてくれたわよね。それも百本も。しばらくあなた、街の噂になっていたわよ」
「母さんの話じゃそれが一般的みたいだったからさ……プロポーズに薔薇を贈る人はいても、百本も贈る人はそうはいないってマルシェの花屋も驚いてたよ」
「花屋さんが問屋にも当たってくれて、どうにかして百本かき集めてくれたんだったかしら。申し訳なくて、通りがかる度に花屋さんで花を買うようになっちゃったじゃない」
 あなたのせいよ、とミュゲは口を尖らせる。そして、ふっと彼女は口元を綻ばせ、破顔した。
「わたし、身体が弱いからあまり出歩けないでしょう? だから家の中に花があるだけで気持ちが華やぐわ。
 それに百本のバラも嬉しかったわ。物語の中のお姫様になったみたいで。しかも、あのときの薔薇、あなたから十三歳の誕生日にもらった品種とまったく同じものだったのよ。あなたからしたらきっと偶然だったんでしょうけど、それでもあの日あのときの気持ちを覚えていてくれたみたいで嬉しかったの」
 それはよかった、とヒースは歩きながら周囲の薔薇に目を向ける。相変わらずヒースにわかるのはせいぜい色の違いくらいで、品種の違いなどわかるはずもなかった。
 ふいにこほこほとミュゲが隣で咳をした。それを聞いてヒースは何だか嫌な咳だなと思った。
「どうした、ミュゲ。ちょっと風に当たりすぎたか? その辺のベンチでちょっと休むか?」
 こほこほこほこほ。返事の代わりに返ってきたのはミュゲが咳き込む音だった。
 どさ、という音ともにミュゲの身体が崩れおちた。身体を折って、こほこほとミュゲは咳き込み続けている。プラチナブロンドの髪を掻き分けて、額に触れるとひどく熱かった。
 ごほっと大きな咳をすると、ミュゲは地面に血混じりの痰を吐いた。飛び散った飛沫は地面に小ぶりな薔薇を描いた。
「ミュゲ!」
「ヒース……だい、じょうぶ……。ちょっと、疲れちゃった、だけだから……。少し、休めば……すぐ、よくなるから……」
「今のはそんなんじゃないだろう!? すぐ帰って医者を呼ぶ!」
 ヒースはトートバッグから、白いレースのショールを取り出すと、ミュゲの身体を包んだ。そして、右手を彼女の背に、左手を膝の下に回すと抱き上げた。
(ミュゲ……いつの間にこんなに軽く……?)
 ミュゲは元々小柄で華奢な女性だったが、あまりにも軽すぎる。彼女の軽さにヒースの不安は募った。
 夏かと紛うほどに気温の高い日だった。それにもかかわらず、ヒースの背には冷や汗が吹き出しては伝い落ち、寒気がするほどだった。
 薔薇園の入り口で陽炎が揺れている。ヒースはこれが悪い夢であればいいのにと祈った。

 帰宅すると、ヒースはミュゲを寝巻きに着替えさせた。そして、彼女をベッドに寝かせると、教会の施療院に医者を呼びに走った。
 しかし、待てども待てどもミュゲを診てくれる医者は現れなかった。運悪く風疹が流行っている時期と重なったため、本来往診を担っている医者の手が空かなかったのだ。
 ようやく医者がミュゲを診てくれることになったころには、東の空に月が登っていた。
 ヒースの家を訪れた医者はミュゲ本人から話を聞くと、聴診器で胸の音を聞いた。医者はかすかに顔を曇らせると、ヒースに外に出ているように告げた。ヒースは渋々ながらも玄関から外へ出た。生け垣の下の樹陰が夜にも関わらず、やけに黒々と見えた。
 一体医者とミュゲは何を話しているのか、時間の流れがヒースにはひどく長く感じられた。何か悪い病でないといい。そうは思うものの、嫌な予感がどうしても拭えなかった。
 三十分ほど経っただろうか。午後八時を告げる教会の鐘が鳴った。それから更に十分ほどすると、玄関の扉が開いた。
 医者が手招きをしている。街灯のオイルランプに引き寄せられて寄ってきた蝿を払い除けると、ヒースは家の中に戻った。
「ミュゲ! 大丈夫なのか!?」
 ミュゲの目は泣いた後なのか、縁がほんのりと赤みを帯びていた。大丈夫、とミュゲは微笑んだが、無理をしている笑顔だと長年一緒にいるヒースにはわかった。
「奥様は風邪を拗らせてしまわれたようですね。しばらくは絶対安静でお願いします」
 医者は淡々とそう告げた。診察代として、金貨三枚を受け取ると、「どうかお大事に」医者はヒースの家を辞した。
「ミュゲ。風邪って本当なのか? 薔薇園では血まで吐いてたじゃないか。 いつから無理をしていた?」
 医者が帰ると、ヒースは一も二もなくミュゲにそう問いただした。ミュゲはふわりと曖昧に笑う。
「えっと、二、三日前くらいよ。少し熱っぽいかなって思う日もあったんだけど、大したことなさそうだからって放置したわたしの責任ね。今日のはどうやら気管が傷ついちゃったみたいで、しばらくしたら治るってお医者様も」
 ミュゲ、とヒースは妻の緑の双眸を見つめた。こういうときのミュゲは隠し事をしている。しばらく二人は見つめ合っていたが、根負けしたようにミュゲはすっと視線を逸らした。
「ミュゲ。俺に嘘をつかないでくれ。本当はどうだったんだ?」
「……結核よ」
 ヒースは鳶色の目を見開いた。嘘だろ、と言った声は声にならなかった。結核は非常に致死率の高い病だ。ミュゲが死に至る病に冒されているなど信じたくなかった。
「もうだいぶ病気が進んでしまっているみたいで、薬では治らないと仰っておられたわ。もうそんなに長くないって」
「そんな……!」
「ごめんなさい、ヒース。迷惑をかけるわね」
「心配だって迷惑だっていくらでもかけてくれていい! 俺たちは家族なんだから!」
 ヒースは顔を歪めて叫んだ。そうね、とミュゲは再び溢れてきてしまった涙を指先で拭う。自分はヒースに負担を強いることになる。それだけでは飽き足らず、この優しく不器用な人を置いて先に逝くのだ。そのことを考えると、胸が張り裂けそうに痛かった。しかし、ヒースを苦しめたくなくて、ミュゲは気丈に微笑んでみせる。
「そんな顔をしなくたって、今日明日で死ぬわけじゃないわ。だけど、家のことはこれまで通りにはできなくなるかもしれない。あなたにだって仕事はあるのに……」
「俺の仕事は幸い家で出来るものだし気にするな。家のことだって、受注数を減らせばどうとだってなる。だからミュゲ、お前は自分の体調のことだけ考えていてくれ」
 ヒースはミュゲの両肩を掴む。しかし、弱い力ながらも確かにミュゲは身を捩ってヒースの手を振り払った。
「ごめんなさい。だけど、わたしに近づかないで。これは移る病よ。移ったらわたしみたいに、取り返しのつかないことになるかもしれないわ」
「そんなの普通の風邪だって一緒だろ。拗らせれば死ぬことだってある。俺はそんなことで、お前に残された日々を一緒に過ごせないなんてことは嫌だ」
 ヒースは痩せ細ってしまったミュゲの身体を抱きしめた。今度はミュゲも抗わなかった。
「お前のためならなんだってする。だから、お前の最期の瞬間までそばにいさせてくれ」
 ありがとう、とミュゲは涙混じりの声で言った。ヒースも自分の瞼の奥が熱くなるのを感じた。
 頬を涙が伝い落ちたが、ヒースはそのままにしていた。二人の涙が混ざり合ってどちらのものかわからなくなるまで、ヒースはミュゲを抱いた腕を解くことはなかった。

 病魔はゆっくりとだけれど、着実にミュゲの身体を冒しつつあった。滄海を背に屹立していた雲の峰は去り、いつしか秋声を感じるようになっていた。
 本人も言っていた通り、だんだんとミュゲは起き上がっていられる時間が短くなっていった。それでも、ミュゲの体調が良いときはベッド脇の出窓から風を招き入れ、季節の移ろいが感じられるようにしていた。
「あなたのおかげで随分と花に詳しくなっちゃったわね」
 ミュゲは窓辺の一輪挿しに揺れる深い紫色のコスモスを眺めながらそう独りごちた。ミュゲが病に伏せってからというもの、ヒースは少しでも彼女の慰めになるようにと、マルシェで花を買ってくるようになっていた。そのころからミュゲは花をひとしきり楽しむと、本と本の間に花を挟み、押し花を作るようになっていた。押し花となった花たちはミュゲの日記帳に挟まれ、その日その日の出来事を彩っていた。
「おかげで俺もだいぶ花の種類の判別ができるようになったぞ」
 ダイニングテーブルの上でバッグの革を縫い合わせていたヒースは仕事の手を止める。くすり、とミュゲはおかしげに笑った。
「嫌だわ、あなた、まだ菊とコスモスの見分けもつかないのにそんなことを言うなんて」
「でも、タンポポとひまわりの違いはわかるようになったぞ」
「まったくもう、そのくらい日曜学校に入る前の子どもでもわかるわよ。威張れることじゃないわ。そんなので仕事に支障がでないのが不思議なくらいだわ」
 ヒースの職業は革小物職人だ。なめした皮を問屋で買い付け、財布やらバッグやらといった革製品を作ることで生計を立てている。
 毎月決まった数の製品を問屋に卸す中で、ヒースの作品を気に入った顧客がオーダーメイドで商品を作らせることがある。その際に花のモチーフの刺繍が入った作品を頼まれることがあるのだが、ミュゲはそれを心配していた。
「大丈夫だろ。大抵の客からはデッサンでデザインもらうようにしてるし。それでもわからなかったら、お前に聞くから大丈夫だ」
 まったくもう、とミュゲは青い息を吐く。そんな日がいつまでも続けばいいのに。けれど、現実は厳しく、長くは起き上がっていられない状態だった。
「本当に仕方のない人ね、あなたは。それがいつまで通用すると思っているの?」
「いつまでも、だ。春が近づけば花モチーフのオーダーも増える。お前には長生きしてもらわないといけないな」
 またそんなことを、とミュゲは苦笑する。交錯した緑と鳶色の瞳は、そんな夢物語など叶うはずないと悲しいほど確信していた。
「俺は諦めてないからな。本当に最後の最後の瞬間まで、俺は絶対にお前のことを諦めてやらない」
 ヒースは語気を強めてそう口にした。誰が何と言おうと、ミュゲがいなくなるなど認められるはずもなかった。馬鹿ね、とミュゲの瞳が寂しげに揺れる。
「あなた、そんなんじゃ、わたしがいなくなった後、どうするの? あなたはこの先を生きることをちゃんと考えないと」
 嫌だ、とヒースは唇を噛む。他の辛い運命ならばいくらでも受け入れられても、ミュゲのことに関してだけはどうしても認めたくなかった。ミュゲは痩せ細って血管が浮いた手でヒースのそれを包む。昔から変わらない、優しくて温かい手だった。
「本当にどうしようもない人ね。そうね、今度の通院の日に、マルシェの本屋に寄って植物図鑑を買いましょう。わたしの時間が許す限り、花の見分け方の他に花言葉や誕生花についても教えてあげるから覚悟していて」
「お手柔らかに頼むよ」
「それはどうかしら? 花言葉は色や本数によっても変わったりするし、誕生花も複数の日に跨ったりすることもあるから、なかなか難しいわよ。その辺りを完璧にマスターできたら、あなたも仕事が増えて嬉しい悲鳴が止まらないでしょうけど」
 あなたがこの先何の不安もなく生きていけることがわたしの望みだもの。ミュゲはそう呟く。ヒースはその言葉が耳に入らなかったかのように、おどけたようにこう宣った。
「じゃあ、やっぱりミュゲ先生には長生きしてもらわないとな。とんでもなく不出来な生徒の俺のために」
「確かにあなたの日曜学校時代の成績を思えば不安ね……」
 日曜学校時代のヒースの成績は下から数えた方が早く、赤点ばかりだった。対するミュゲは休みがちだったにも関わらず、常にクラストップの成績だった。日曜学校の宿題を持ってお見舞いに行ったときに、よくミュゲに問題の解説をしてもらっていたのが懐かしい。
 ふいにミュゲがくしゅんとくしゃみをした。空気の入れ替えのために窓を開けていたのだが、どうやら風に当たりすぎたらしい。急いでベッド脇の出窓を閉めた。
「ありがとう。仕事中なのにごめ」
「そっから後はしまっとけ。俺はお前に謝られたいわけじゃない」
「……そうね。失言だったわ」
「別にいい。それより、今日の晩飯は何がいい?」
「茄子とベーコンのスープなんてどうかしら。そろそろ茄子が時季のはずよ」
「わかった。それじゃあ、少しマルシェに行ってくるが、一人でも大丈夫か? 体調が悪いようなら、隣のジョルジーニの奥さんに買い物頼んでくるけど」
「あなたがマルシェに行っている時間くらい、一日でも大丈夫よ。ちょうどこの前あなたが本屋で買ってきてくれた小説でも読もうと思っていたのよ」
「……そうか」
 ヒースはトートバッグと財布を持つと、「それじゃあ行ってくる」家を出た。
 マルシェに行くなら、今日も何かミュゲに花を買ってこよう。ミュゲの生命が時を止めるそのときまでに一回でも多く、彼女の笑顔が見たかった。
 ミュゲが喜ぶのはどんな花だろう。そんなことを考えながら、ヒースはマルシェへの道を歩み始めた。

 金風がディオースの街を駆け抜けるようになったある秋の日。あと余命いくばくかといったくらいに死期が差し迫ったころに、一日だけミュゲの体調がいい日があった。
「ねえ、ヒース。わたし、薔薇が見たいわ」
 秋薔薇って今の時期が見頃なのよ、とミュゲは淡く微笑んだ。これがヒースとの思い出を作る最後の機会になる。そんな予感があった。
「薔薇なら、後でマルシェで買ってきてやるよ。何色がいい?」
 ダイニングテーブルで針を手に仕事をしていたヒースはミュゲにそう訊いた。そうじゃないの、とミュゲは首を横に振る。
「わたし、公園に行きたい。公園の薔薇園に行きたいの」
 しかし、とヒースは渋面を浮かべる。ミュゲは外出はおろか、家のこともなるべくさせずに安静にさせるようにと医者から厳命されている。そもそも、ミュゲにはもう長く起き上がっているだけの体力もなかった。
「今日だけ、ほんの少しの時間でいいの。わたしにヒースとの思い出を作らせて」
 わかったよ、とヒースは渋々ながらに折れる。ミュゲはおとなしそうでいて、こうなると意外と折れない。長年の付き合いでヒースはそれをよく知っていた。
「――一時間。一時間したらお前が何と言おうと帰るからな」
「わかったわ。ありがとう。わたしのわがままを聞いてくれて」
 それでミュゲが笑ってくれるのならわがままくらいいくらでも聞いてやる。それでミュゲが一分一秒でも長くそばにいてくれるのなら、何だってする。
「……っ」
 思わず目の奥を涙が迫り上がってきて、ヒースはシャツの袖で乱暴に目元を拭った。最近はどうにも涙もろくなってしまって駄目だ。あの日、医者の診断を受けてから、こうなることはずっと覚悟していたはずなのに。
 そんな顔をさせてしまってごめんなさい。わたしのせいで苦しい思いをさせてしまってごめんなさい。しかし、ミュゲはその言葉を喉の奥に飲み込んだ。その言葉はヒースを余計に追い詰めるものに他ならない。
 ヒースは施療院から借りている車椅子を部屋の隅から持ってくると、ベッドの前に止めた。そして、シーツの下にあったミュゲの足に触れると膝を立てる。ミュゲの背中と膝の裏に手を回すと、ヒースは体を半回転させるようにして、彼女の身体を車椅子に座らせた。
 ヒースは財布とショールをブラックのトートバッグに入れ、鏡の前で申し訳程度に髪をいじると、外出の準備を整える。
「それじゃ、行くか」
 ヒースはミュゲの乗った車椅子を押し、家の扉を開けると外へ出る。秋旻の青は高く済んでおり、柔らかで透明感のある黄金色の日差しが降り注いでいた。ヒースは家の鍵をかけると、車椅子を押して歩き出した。

 公園の薔薇園へと足を踏み入れると、春に比べてスモーキーな色の花々が風に花弁を揺らしていた。全体的に花が小ぶりなせいか、秋の薔薇園は春の華やかな印象に比べていささか物寂しく見えた。
「――わあ、綺麗……!」
「……そうだな」
 年甲斐もなく少女のようにはしゃぐミュゲにヒースは穏やかに頷いた。ほんの少しひんやりとし始めた空気の中に漂う芳醇な甘い香りにミュゲはうっとりとしながら、あの薔薇がどうだの、この薔薇がどうだのということを話し続けた。こんな時間が永遠に続けばいいのにと思いながら、薔薇の話はさっぱりわからないながらもヒースは相槌を打つ。
「ねえ、ヒース。ちょっと止まってくれる?」
 深紅の薔薇の前でミュゲは車椅子を押すヒースの手を止めると、座ったまま地面に手を伸ばし、足元に落ちていた葉を拾い上げた。そして、彼女は背後にいるヒースへとそれを渡した。
「これは何だ……? 薔薇の葉っぱ……?」
 困惑するヒースに、そうよとミュゲは頷いた。きっと今のヒースにはこの意味はわからない。それでもいいとミュゲは思った。
「これを持っていて。できればわたしが死んでから先も。きっといつか意味がわかる日が来るから」
 わかった、とヒースはそれをシャツの胸ポケットにしまった。それじゃあ行きましょうか、とミュゲがヒースを促し、二人は束の間の散策を再開させる。
 それから二人は他愛もない話をした。今日の夕飯の話。明日の天気の話。来週のマルシェの大市の話。どれもこれもが日常に溶け込んださりげない出来事の数々だが、今の二人にとってはそんな話題さえが大切でならなかった。今のミュゲは来週の大市どころか、明日の晴れ空も今日の夕飯でさえも生きて迎えられる保証などどこにもないのだから。
「お、何だか変わった薔薇があるな」
 そこに生えていたのは青みがかった桃色にうっすらと白い点が散った薔薇だった。ねえヒース、とミュゲはヒースの顔を振り仰ぐ。
「どうした?」
「――君を忘れない」
「――え?」
「この薔薇の花言葉よ。こういう水玉模様の薔薇にはそんな今が込められているの」
 ふふ、とミュゲは微笑んだ。ヒースは車椅子を止めると、ミュゲの正面に周り、地面にかがみ込んだ。
「そんなの、俺の台詞だ。俺は絶対に君を忘れない。声も、顔も、肌の温もりや香り、今までに話したことの全部を忘れない。誰もが――世界中がお前が生きていたという事実を忘れても、俺だけは忘れない。絶対に忘れてやらない」
「全部、は無理よ。あなた、記憶力悪いんだから。ちゃんと教えてあげたはずなのに、この前、ひまわりの開花時期を聞いたら、あなた胸を張って冬だって答えたじゃない」
 それは、とヒースは言葉に詰まる。バツの悪さで亜麻色の髪に包まれた後頭部を指先で掻き回しながら、ヒースは拗ねたように言った。
「言葉の綾だろ。いちいち論うなよ。……だけど、もうすぐこんなやりとりもできなくなるんだな」
「……そうね」
 たまらなくなって、ヒースは細くて薄いミュゲの肩を掴んだ。そして、彼はそのまま愛する妻の唇を奪った。
「ヒース……?」
「俺にも、思い出をくれないか?」
「ええ。……思えば、わたしとあなたが初めてキスをしたのもこの場所だったわね。それもちょうどこの薔薇の下で」
「そうだったっけか」
「花の区別がつかないあなたには薔薇の品種の違いなんてわからないものね、仕方ないわ。あれはまだ日曜学校の二年目のことだったわね。公園で遊んでいたわたしは、珍しい薔薇があるってあなたに引っ張られてこられて、しばらくここで話をしていたの」
 よく覚えているなと、ヒースは照れくさくなる。あのころのヒースはミュゲの気を惹きたくて、見当外れとも知らずにずっと虫の話ばかりをしていた。女の子のミュゲがそんなものを好むはずもないというのに。
「確か話が尽きたあたりでそんな感じの雰囲気になって、キスをしたんだったか。懐かしいな」
「まだあのころは、わたしはあなたのことを特に仲のいい友達としか思っていなかったのだけれど、何だか悪いことをしているみたいでそわそわとしたのを覚えているわ」
「俺はそのころにはもうお前のことが好きだったんだけどな。というか一目惚れだった」
 日曜学校に上がったばかりのころ、賢く大人びたミュゲは教室を走り回って騒いでいる他の子どもに比べて特別に見えた。子どもながらに楚々としたその佇まいがヒースの目を惹きつけた。
「あなたも一途よね。一人の女を三十年も思い続けるなんて」
「悪いかよ」
「わたしはその一途さが怖いの。あなたを苦しめる枷になってしまいそうで」
 そんなふうに言ってくれるな、とヒースは真摯な眼差しをミュゲへと向けた。ミュゲが一分一秒でも長く生きてくれるなら、自分がどれほど苦しむことになっても構わない。
「俺にとってお前は唯一無二の存在だ。他に代わりなんていない。お前以外、他には何もいらない」
「でも……」
 それ以上言ってくれるな、とヒースは口付けでミュゲの言葉を封じた。ミュゲはされるがままにしていた。
 色なき風が三つ編みに編んだミュゲのプラチナブロンドの髪を煽る。今も薔薇は二人の愛を静かに見守っていた。

 それからミュゲの生命は一ヶ月と保たなかった。大市でヒースが買ってきた大衆小説の全巻セットを読破するまでは死なないと彼女は息巻いていたが、次第に本を手に取ることすら難しくなっていった。
 ミュゲの症状を緩和するための薬こそ施療院から出されていたが、そんなもの気休めにもならなかった。いつからか、ヒースと話している時間よりも咳をしている時間の方が長くなっていった。
 だんだんと喀血の回数も増え、もう本当にミュゲの生命は終わりに近づいているのだと、ヒースは認めざるを得なかった。だんだんと近づいてくる死の足音が恐ろしくて仕方なかった。
(熱が下がらない……息も荒い)
 ベッドで眠るミュゲは、絶え間なく咳をしながら、はあはあと激しく胸を上下させていた。咳が彼女の体力を奪っているのか、もう何日も彼女は浅く眠り続けている。
 ミュゲの額はひどく熱く、汗でべっとりと琥珀色の髪が張り付いていた。しかし、熱の高さに引き換え、顔色はひどく青白い。
 熱があるはずなのに、ミュゲの骨と皮ばかりになった指先は紫色に変色し、ひどく冷たかった。自分が代わってやれればと思うものの、ヒースには額の汗を拭ってやることと手を握っていてやることしかできなかった。
「……ヒー、ス……」
 うわごとなのか、ふいにミュゲがヒースの名を呼んだ。その唇は色を失い、青紫色に染まっていた。
「ミュゲ、どうした? 何か飲むか? それとも手洗いか?」
 ヒースが問うと、ミュゲはううん、と微かに首を振った。その表情がどこか満足げに見えて、嫌な予感でヒースの心臓はばくばくと鳴る。
 ミュゲは瞼を開くと、とろんとした目でヒースを見た。けほけほ、と咳き込むと、彼女は蚊の鳴くような声で何事か話し始める。ヒースは一言も聞き逃すまいとミュゲの口元に耳を寄せた。
「けほっ……あの、ね……けほけほっ……植物図鑑、見て……けほっ、ほしい……」
「植物図鑑? それがどうした」
「見れば……げほっごほっ……わかるから……けほっ……あのね……けほっ……わたし、夢を、見てた……とっても、とっても、長い……ごほっ……ゆめ……」
 そう言うとミュゲは血痰を吐いた。ヒースは彼女の口元をタオルで拭ってやる。
 日曜学校の初日に教室で出会って。体調を崩しがちなミュゲの元に宿題を持ってヒースがしばしば訪ねてきて。一緒に勉強をしたり、遊んだりして。そして、公園の薔薇園で二人だけの秘密のキスをして。
 日曜学校を卒業した後、ミュゲは教会で奉仕活動をするようになり、ヒースは革小物職人の元に弟子入りして。仕事の合間を縫ってヒースがミュゲを呼び出し、一輪の赤い薔薇とともに愛を告白してくれて。それぞれがそれぞれの道に勤しみながらも手を取り合って歩いてきて。
 ヒースが独り立ちすると、二十歳の年に大聖堂で結婚式を挙げ、彼が蓄えた貯金で建てた家に移り住んで。そうして、くだらないことで喧嘩したり、大切な記念日を迎えたり、大切で愛おしい日々の営みを繰り返してきた。どんなありふれた出来事も二人の思い出を埋める大切な欠片だ。
 きっとこの先、子供ができて、それが女の子で。その子が初めて喋った日も、寝返りが打てた日も、掴まり立ちができるようになった日も、一人で歩けるようになった日も、この家で一緒に迎えて。いつの間にか日曜学校に入って、卒業して、恋人ができたりなんかして。初めて娘が彼氏を連れてきた日には、ヒースは複雑な顔をして。そしていつしか、娘も嫁いで行って、子供が産まれて、おじいちゃんだとかおばあちゃんだとか呼ばれるようになって。お互いがしわくちゃになってもずっと一緒にいて、死が二人を分かつそのときまで、手を繋いで歩いていきたかった。
 二人がこれまでに歩んできた道と、もし何かが掛け違っていたならあり得たかもしれない未来をミュゲはけほけほと咳き込みながら、ゆっくりと語った。
「げほっごほっけほっ……わた、し……まだ、ヒースに……けほっ、けほっ、……伝えたい、ことが……たくさん、けほっ……あるの……げほっごほっ……だけど……げほっ……わたしには、もう……時間が、げほっ……ない、みたい……」
「そんなこと、言わないでくれ。話ならいくらだって聞いてやる。だから、俺を独りにしないでくれ。俺を……置いていかないでくれ……っ!」
 ごめんなさい、とミュゲは青白い頬に淡い笑みを乗せた。緑の双眸は己の前に立ち塞がる運命を既に受け入れていた。
「わたし……、けほっ……ヒースのおかげで、幸せだったわ……げほっごほっ……いいえ、"だった"じゃない……げほっ……幸せな、まま……けほっ、あの世に逝ける……。でも……あなたは、けほっ……あなたが幸せに、なれる道を……げほっ……選んで……けほっ。あなたが……けほっ……しあわせに、なれるなら……けほっこほっ……わたしのことなんて……忘れて、いいから……けほっ」
「何を馬鹿なことを……!」
 ヒースはミュゲの冷たい手を必死で握りしめる。今、この手を離したら、ミュゲが永遠にこの世からいなくなってしまうような気がしていた。
 げほごほっとミュゲは激しく咳き込むと、再び血痰を吐いた。そして、彼女はもう時間みたい、と呟いた。
 ありがとう。愛してる。それが彼女の最期の言葉となった。ミュゲは再び目を閉じると、咳き込みながら浅い眠りに戻っていった。
「ミュゲ! 目を開けてくれ!」
 しかし、ミュゲはヒースの呼びかけに応えることはなく、浅い呼吸を繰り返しながら眠り続けた。
 ふいにミュゲがぜえはあっと下顎で喘ぐような呼吸をした。そして、彼女はヒュッと大きく息を吸いこんだ。しかし、彼女の体からその息が吐き出されることは二度となかった。
「ミュゲ!!」
 ヒースは彼女の胸元に手を当てた。しかし、彼女の心音が再び刻まれることはなかった。
「ミュゲ――!」
 ヒースの目の奥から涙が滂沱と溢れ出した。あの日、ミュゲの病名を聞いたときから、ずっといつかこのときがくることを覚悟していたはずなのに、胸が張り裂けてしまいそうなほどに苦しくて悲しかった。
 ヒースはミュゲの身体に覆い被さって泣いた。独りになってしまった家の中にヒースの慟哭が響き渡った。
 ヒースはミュゲの身体から完全に生の体温が失われて、死後硬直が始まるまでそうしていた。「ミュゲ……」がらがらに枯れた声でそう呟くと、ヒースはミュゲの口を閉じ、顔を濡れたタオルで拭ってやった。
「そうだ……植物図鑑……」
 今際の際にミュゲが言っていたことを思い出し、ヒースはのろのろと立ち上がる。全身に力が入らず、ひどくだるかった。ベッドサイドテーブルの上に置かれた本の一番下から植物図鑑を引っ張り出すと、ヒースはなんとはなしにミュゲが好きだった花――薔薇を探した。
「あ……」
 両開きのページいっぱいの薔薇の絵が目に飛び込んできて、ヒースは先月ミュゲと薔薇園を訪れたときのことを思いだした。ページの下部には花言葉が記されている。
 赤い薔薇の葉。その花言葉は「あなたの幸福を祈る」。そのことを知ったヒースの眼窩からは、枯れたはずの涙が再び溢れ出した。
 図鑑のページの間から紙がぱさりと抜け落ちた。紙が挟まっていたページをめくると、そこには鈴蘭――ミュゲの花が描かれていた。
「再び、幸福が訪れる……?」
 彼女の名を冠するそれの花言葉を呟きながらも、心の中でそれを拒む自分がいた。ミュゲがいないのに幸福になんてなれるはずがない。今までの自分の人生のほとんどはミュゲとともにあったのだから。
 ヒースはページの間に挟まっていた紙を開いた。そこには柔らかで丁寧なミュゲの文字が書き綴られていた。
『拝啓、ヒース・ランズバーグ様。
 あなたがこれを読んでいるということは、わたしはもうこの世にはいないのでしょう。
 いまごろ、きっとあなたは泣いているのでしょう。わたしが病に倒れてから、あなたはすっかり泣き虫になってしまいましたね。
 あなたには辛いことかもしれないけれど、どうかこのまま立ち止まらないでください。あなたの人生はまだまだ先へと続いています。
 あなたが幸せになれるのなら、わたしのことなんて忘れてくれて構いません。誰かいい人がいれば、わたしのことなんて構わずに一緒になってください。あなたが選んだ人ならば、安心してあなたを託すことができます。
 だから、どうか独りにならないで。あなたはきっと一人では生きていけないから。だけど、それを恥じる必要なんてないわ。あなたとわたしが支え合っていたように、人間誰もが手を取り、支え合いながらでなければ生きていけないのだから。
 どうか、悲しみに呑まれないで。涙を拭いて、顔を上げれば、きっとそこには誰かがいてくれるはずだから。
 わたしはただ、あなたが幸せに、健やかに残りの人生を生きてくれることを祈っています。わたしの後をすぐに追いかけてきたりしようものなら承知しませんからね。
 さよならは言いません。きっといつかまた、あなたが生命を終えたそのときに、空の彼方で巡り会えるはずだから。そのとき、あなたがもうわたしのことを忘れていても、頑張ったね、お疲れさまって心からの労いの言葉をかけるでしょう。
 だから、行ってきます。数十年後にまた会えることを願って。
 あなたに変わらぬ愛を捧ぐ ミュゲ・ランズバーグ』
 ぼたぼたと便箋に滴が滴り、点々と模様を描く。涙でじわりとインクが滲み、ミュゲが生きていた証とともにこの世界の余白へと溶けていった。
 ヒースはぐしゃりと便箋を握りしめた。窓辺に佇む一輪挿しの黄色いキンセンカが、嗚咽を上げ続ける男を見下ろしていた。

「奥さん、ヒースのことがすごく大切だったんだね。忘れてもいいから幸せになってくれ、なんてなかなか言えることじゃないよ」
 ヒースに見せられたミュゲの残した手紙に目を落としながら、リコリスは言った。それに、と彼女は言葉を続けていく。
「この手紙にはすごくすごく大事なことが書かれてた。人間誰もが手を取り、支え合いながらでなければ生きていけない――本当にその通りだと思うよ。人は独りでは生きていけない。――ねえ、ヒースはあたしのこと、どう思ってる?」
 そう問われて、ヒースは自分の胸中を吐露する覚悟を決めた。今の話を聞いてきちんと受け止めてくれた彼女なら、きっと己の中途半端さを嗤うことはない。
「わからない。最初は娘がいたならこのくらいの年頃なんだろうなと思った。いつも祭壇の隅で祈りを捧げているあの神子様が、思ったよりも普通の女の子で驚いた。……まあ、初対面のときのあの発言を除いて、だけどな」
「ああ、あたしを〝女〟にして、っていうやつね。あれなら今も本気だけど。むしろ今の話を聞いて、余計にあなたがいいと思った」
 ヒースはこの情けない五年間のことを思いながら、天井を仰ぐ。とうにミュゲの気配など消え去ったこの家には、独りの匂いに紛れるようにして、リコリスの存在が微かに根付き始めていた。
「俺は……お前に抱いてる感情が恋愛感情なのかどうかわからない。だけど、娘みたいだっていう感情は今はもうない。ただ……俺が抱いているこの感情がお前をミュゲに重ねているだけじゃないかっていうと自信がない。――なあ、恋って何だ? 愛って何だ?」
 俺にはもうそれさえわからない、とヒースは困ったように顔を歪めて笑った。そうだね、とリコリスは自身の持つ答えを口にする。
「恋とは、それしか目に入らないくらいどうしようもなく心焦がれて惹かれること。愛とは、他の何よりも相手を特別に大切に思うこと。これは神子としてのあたしの答えだけど」
 リコリスが口にしたのは一般的な模範解答だ。続けて彼女は個人としての自分の答えを口にする。
「ここからはリコリス個人としての答えね。恋とは先に折れた方が負け、愛とは手を繋いで同じ歩幅で歩くことだよ」
 なるほど、とヒースは頷く。それも一つの答えだ。惚れた弱みなんて言葉もあるしな、とヒースは納得する。
「ヒース。あたしはあなたと恋をしてみたいな。息苦しいほどに焦がれる熱いものなんかじゃない、ただ隣にいて笑い合うだけのものでいい。そういう関係はきっといずれ恋から愛に変わるはずだから」
 リコリスが求めるのは真夏の太陽のようにぎらぎらとして熱いものではない。どちらかといえば小春日和のようなほのかに暖かい穏やかな関係だった。
「ただ隣にいることを拒むには俺たちは近づきすぎた。もう、俺にはお前を遠ざけることができない。そうするにはもう、お前のことを知りすぎたんだ。
 お前がどうやって笑うのかも、何が好きで何が嫌いなのか――そんな他愛のないことでも俺はもう自分に関係ないだなんて言えない。ただ、お前がいない生活は味気なく寂しいものだろうなと思うと心が寒くなる」
 つまるところお前のことは嫌いではないということだ、とヒースは目を逸らした。リコリスは便箋をテーブルに畳んで置くと、身を乗り出して両手でヒースの顔を挟んだ。
「ほら、目を逸らさない。嫌いじゃないってことは?」
「……っ!」
 つまりどういうこと? とリコリスは畳み掛けてくる。ヒースは自分の耳がかっと熱くなるのを感じた。そして、彼は根負けしたようにぼそっと呟いた。
「――好きだ。お前のことが。……たぶん」
 リコリスはヒースの顔から手を離すとふうっと息をついた。黒髪の中に隠れた耳がヒースと同じ色に色づいていたが、気取られないようにしながら微笑んだ。
「――やっと折れてくれたね」
 あ、とヒースはただ自分の口を塞いだが、一度口にした言葉は戻らない。ヒースはリコリスによって、罪悪感で蓋をされていた心の奥の奥の本心を口にさせられていた。
「……お前、神子なんてやめて詐欺師にでも転職したらどうだ。向いていると思うぞ」
 悔し紛れにヒースが毒づくと、それも面白そうだねとリコリスはからっとした笑い声を上げる。
「まあ聖職者も詐欺師もそう違いはしないよ。それよりもヒース。言質は取ったからね? もう絶対に撤回なんてさせてあげない」
「そういう抜け目ないところが詐欺師っぽいんだよ……」
「まあまあ、そう言わないで。あたしはヒースの嫌がることはするつもりはないよ。とりあえず今は一緒に手を繋いで歩いて行こう。――あたしが人の暖かさを知るために。あなたが人といる暖かさを思い出すために」
 リコリスはぎゅっとヒースの両手を握る。そして、ふっと彼の顔に自分の顔を近づけた。
「――ねえ、いい?」
「……ああ」
 今回はカフェでしたような遊びではない。恋人となって初めてする本当のキスだった。
 リコリスは自分の唇をヒースのそれに重ねた。初めての感触のはずなのに、柔らかく暖かいそれは不思議なくらいヒースの唇に馴染んだ。
 すっとリコリスの唇がヒースのそれから離れていく。ヒースはそれを残念に思った。
(ああ……俺は自分に思っていたよりもこいつに……)
 先ほどは言葉巧みにリコリスに誘導されたような形ではあったが、自分がいつの間にか彼女を対等な恋愛対象として見るようになっていたことに気づいた。いつの間にか、ヒースがリコリスに抱く感情は単なる人間としての情以上のものになっていた。
(折れた方が負け、か……本当にその通りだな)
 ヒースは小さく笑った。ミュゲのことを言い訳に自分の感情に向き合おうとしてこなかった己の器の矮小さがおかしかった。
「ねえ、ヒース。あたしもここに住んじゃだめかな? 神子の仕事もあるし、ヒースの仕事の邪魔はしないから……駄目かな?」
「構わないが……お前、いつからここに住むつもりだ?」
「ヒースがいいなら今日からでも。前にヒースにもらった服以外ほぼ身一つだから、荷物持ってこようにも一往復したら終わりなんだよね」
 それじゃあ一旦帰ってまた後で来るね、とリコリスはヒースの手から自分のそれを解くと立ち上がる。そして、お邪魔しました、と玄関のドアを開けて出て行こうとするリコリスの手をヒースは椅子から立ち上がると掴んで引き留めた。
「ヒース、どうしたの?」
「お前、間違ってるぞ。ここに住むなら"お邪魔しました"じゃない。"行ってきます"、だ」
「それもそうだね。それじゃあ行ってきます、ヒース」
「行ってらっしゃい。それと……神子様からしたらいい大人のくせに至らない点が多いとは思うんだが……その、これからよろしく頼む。――リコリス」
 やっと名前で呼んでくれたね、とリコリスは表情を柔らかく綻ばせる。赤の双眸は喜びできらきらと輝いている。
「うん、ヒース。こちらこそ」
 ヒースはぐっと掴んだリコリスの手を引き寄せると、黒い髪を一房掬い取り、口付けを落とした。顔が熱くなるが、今はこれがヒースの精一杯だった。ふふっとリコリスはくすぐったそうな表情を浮かべる。それに気づいたヒースはリコリスの手と髪から自分の手を放し、憮然とした顔をした。
「……なんだよ」
「何でもない。ヒースにしては上出来かなって。でも、いつかはこれ以上のこともしようね。あくまであたしたちのペースで、だけど」
「言ってろ、小娘が。それより早く荷物を取りに行かないと暗くなるぞ。――それと、今日の晩飯は何がいい?」
 そうだなあ、とリコリスは思案を巡らせる。せっかくだし旬のものを食卓に並べたい。
「春だし、鶏肉とセロリのパン粉焼きなんてどうかな?」
「初っ端から難しそうなものを指定してくるな、お前は……」
「大丈夫大丈夫、一緒に作るから」
 寝て起きて、ご飯を作って食べて、一緒にお茶を飲んで、夜の寝る前のひとときを一緒に過ごして。きっとそんなことがこれから当たり前になっていくのだろう。彼女と過ごせる時間には限りがあるからこそ、ヒースはその何気ない一つ一つの営みを大事にしようと思った。
 それじゃあ行ってくるね。パタンと玄関の扉が閉まる。一人きりの家でももう独りじゃないとヒースは心から思えた。
 リコリスが帰ってくる前に掃除くらいはしておこう。ヒースは部屋の隅に立てかけられていた箒を手に取ると、床を掃き始めた。