リコリスとヒースが教会墓地での邂逅を果たしてから一週間。春風駘蕩とした陽気の下、先週とは打って変わってすっきりとした身綺麗な姿でヒースは今日もミュゲへの祈りを捧げていた。花信風が木々を揺らし、春告鳥が楽しげなハーモニーを奏でている。
「天にまします女神リュンヌよ――」
「やあ、ヒース。今日も熱心だね」
ミュゲの墓へヒースが祈りを捧げ終わったころを見計らうように、背後からリコリスは声をかけた。しかし、ヒースが顔を上げ、背後を振り返っても誰もいない。
「こっちだよ、こっち」
少し上から再び声がして、ヒースはそれを振り仰ぐ。蕾が綻び始めた木の太枝の上で、リコリスがひらひらと手を振っていた。
「……何してるんだ」
「何って木登りだけど」
「……」
呆気に取られてヒースが言葉を失うと、リコリスは足をぶらぶらさせながらにんまりと笑う。そして、彼女は中からほんのりと桃色の花びらを覗かせ始めた蕾に手を伸ばしながら、淡々と呟く。
「皆生きてるんだよ。これだって女神リュンヌが創りたもうた生命。誰も気にも留めないけどね」
「そういう神子っぽい台詞は降りてきてからにしてくれないか!?」
そのとき恵風が吹いた。強い春の風はリコリスの修道服の裾を大きく巻き上げ、ドレープの波を描いていった。ヒースは下を向いてそれを見ないようにしてやり過ごすと怒声を上げる。
「とにかく危ないからそこから降りろ!」
「あーらら、怒られちゃった」
リコリスはおどけたように舌を出す。そして、ちょっとそこどいててね、と言うと、枝の上から飛び降りた。反動で木の枝が大きくしなる。
「何やってんだ! 普通に降りろ、普通に!」
「別に怪我しなかったんだからいいじゃん」
「良くない! ってか、いつもこんなことしてるのか!?」
ヒースが問い詰めると、リコリスは露骨に目を逸らす。これはたぶん普段からやっている。とんだじゃじゃ馬だ。先ほどのミサで祈りを捧げていた人物と同一人物だとは到底思えない。
「だって幹を伝って降りるより効率的じゃない? 時短ってやつだよ、時短」
時短なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。ミサの後に寄り集まって姦しく喋っている婦人グループたちは彼女にろくな知識を与えない。ヒースは頭が痛くなる思いだった。
「手間を惜しんで怪我をしたらどうするんだ……というか、一緒にいた俺がさすがに教会に怒られるだろ」
「あたしが勝手にやったって言えば放っておいてくれるよ? ま、手当もしてくれないけどね。あいつら、あたしが生きてさえいれば、たとえ手足がなくなったとしても構わないっていうか、いっそそのほうが行動を制限できていいくらいに思ってるから」
「……」
ヒースは押し黙るとえへんと痰の絡んだ咳払いをした。それはそれ、これはこれだ。この少女の危険な行ないを大人として放っておくわけにはいかない。
「ともかくだ。成人した大人の女だって言うなら、少しは慎みってものを覚えろ。そんなことやって許されるのは日曜学校までだ」
「えー」
リコリスは不満そうに抗議の声を上げる。そして、彼女はふいにくすりとくすぐったそうに笑った。
「あたしにお父さんがいたらこんな感じだったのかな」
「知らねえよ。俺も子どもなんて育てたことはないからな。何であれ、お前みたいなじゃじゃ馬の親ってのは骨が折れそうだ」
「自分の役目をきっちり理解して受け入れてるいい子にじゃじゃ馬とかひどくない?」
「だから余計にタチが悪い。お前なんてじゃじゃ馬で充分だ」
リコリスとヒースが軽口を交わし合っていると、頭上の尖塔の鐘が鳴った。午後一時を知らせる音だった。太陽はミサが終わったときよりもほんのわずかに西に傾いている。
「そうだ、お前、教会じゃ大した飯が出ないって言ってただろう? 見様見真似だけど作ってみた」
座れ、と促されてリコリスは先ほど登っていた木の根へと座った。ヒースも付かず離れずの距離を保ったまま、彼女の横に腰を下ろした。
ヒースは持っていたバスケットの蓋を開くと、リコリスの方へと押しやった。緊張するやら照れくさいやらで目が大きく泳ぐ。やはり柄にもないことなどするべきではなかったか。
「嫌じゃなかったら食え」
「う、うわあ……」
一体どこから引っ張り出してきたのやら、バスケットからは微かにカビの匂いがする。サンドウィッチもハムとチーズとレタスを挟むだけのシンプルなもののはずだが、具は盛大にパンの下からはみ出し、バスケットの内側は塗りすぎたマヨネーズでまみれていた。
それじゃせっかくだしいただこうかな、とリコリスはマヨネーズまみれのサンドウィッチに手を伸ばす。もう一方の手でこぼれかけた具を支えながら、リコリスは初心者感丸出しのサンドウィッチにかぶりついた。
「――美味しい!」
ハムがでろりとパンの隙間からはみ出たサンドウィッチを手に持ったまま、リコリスはヒースを見て目を輝かせた。こんなに美味しいものは食べたことはない。誇張なしにそう思った。
「それはよかった。……っと、落ちるぞ」
ヒースは仏頂面でリコリスのサンドウィッチからはみ出したハムを押し戻した。リコリスははむはむとサンドウィッチを食べながら、こう告白した。
「あたし、初めてなんだよね。誰かがあたしっていう個人のために料理を作ってもらうの」
初めて? とヒースは訝しげに眉を顰めた。一応教会で食事を用意してくれているという話ではなかっただろうか。
ヒースがそれを口にすると、リコリスは乾いた笑いを浮かべながらパンの間のレタスを行儀悪く口で引っ張り出して飲み込んだ。リコリスはもう一口サンドウィッチを頬張ると、口をもぐもぐさせながら話を続ける。
「あたしの食事は所詮他のシスターたちのついで。時にはあたしの分がないことだってあるよ」
食事がないのは神子に対する静かな嫌がらせではないだろうか。いくらリコリスの出自が不明瞭とはいえ、立場のある人間に対してする仕打ちじゃない。教会の上層部はそれを止めるでもなく、ただ黙って見過ごしているのだろうか。
「上の人間には訴えたのか? 枢機卿団の誰かとか、それこそ教皇聖下とか」
「そんなの何年も前にやってるよ。そしたら、清貧は女神リュンヌの教えだ、神子たる者が率先して守らなくてどうするとかなんとかいなされた」
「……」
リコリスの口からあっけらかんと語られた言葉にヒースの眉間の皺が深くなる。リコリスはマヨネーズのついた人差し指をぺろりと舐めると、ヒースの胸の内を言い当てた。
「あ、今、腐ってるって思ったでしょ? そんなの昨日今日の話じゃないよ。何十世紀も前、女神リュンヌの教えが薄れ始めたころから教会はこう」
「……そうか」
ヒースも自分の分のサンドウィッチを手に取り、齧った。パンの間から押し出されたマヨネーズがヒースの手をべっとりと汚す。
悪くはないな。ヒースはそう独りごちた。悪くはないだけだ。決して美味いわけではない。
(味気なかった食事も誰かと食べるだけで――それも美味いと言ってくれる誰かと食べるだけでこうも違うものか)
この一週間、ヒースは材料を切って調味料を計って煮込むだけの簡単な料理だからという理由でシチューやスープと格闘してきた。しかし結果はふるわず、鍋をどうしようもないレベルで黒焦げにするばかりだった。気づけば一週間で七回も新しい鍋を買いに金物屋に走る羽目になり、金物屋の店主も色々な意味でびっくりしていた。
「つい一週間前に料理を始めたばかりのど素人の飯だ。無理しなくていい。ただ、不味くないなら残さず食べてくれると嬉しい」
ついついぶっきらぼうな調子になりながら、ヒースはそう口にする。すると、具がなくなってパンだけになったサンドウィッチを齧りながら、リコリスがうんと頷いた。隣に座る少女の横顔はとても幸せそうにヒースの目に映った。
「ごちそうさま。美味しかった」
次回も期待してるね、とリコリスはヒースへと秋波を送った。リコリスがごそごそとポケットから真っ白なハンカチを引っ張り出している横で、ヒースはサンドウィッチの残りを飲み込んだ。
「気が向けばな」
ヒースがマヨネーズで汚れた手をダークブラウンのシャツの裾で拭おうとしていると、それに気づいたリコリスがさっと自分が持っていたハンカチを握らせてきた。リコリスは夥しい数の傷があるヒースの手を見ると目を瞠った。どの傷も刃物で切ったものとわかる傷で、いずれもまだ新しいものだ。
「もしかして、これを作るために怪我したの?」
「妻が亡くなってから料理なんてしてなかったから、包丁が錆びてなまくらになっちまってたもんだから」
「金物屋さんで新しいのを買えばいいんじゃない?」
そうリコリスが提案すると、否とヒースはかぶりを振った。あれは思い入れのある品だ。そうそう手放したくはない。
「うちにある包丁は妻が生前使ってたものなんだ。この一週間で鍋をいくつもだめにしちまった以上、せめて包丁くらいは妻のものを使いたい」
「それでもどのみち金物屋さんに相談じゃないかな。たぶん研いでくれると思う。ヒースがあたしのために何か作ってくれるのは嬉しいけど、そのために毎度毎度怪我してるんじゃ見てられないよ」
リコリスから渡されたハンカチで手を拭ううち、妻の生前もこういうことがよくあったな、とヒースは思う。死期が近づくにつれて、その回数がどんどん上がっていたのを覚えている。
「ねえ、今、奥さんと重ねたでしょ」
う、とヒースは言葉に詰まる。あくまでも別の女性といるにもかかわらず、妻と目の前の少女を重ねてしまうのはリコリスに失礼だ。リコリスはにぃっと笑うと、からかうようにヒースの顔を上目遣いに覗き込む。
「女の勘。舐めないでよね。そういうのちゃんとわかるんだから」
悪かった、とヒースは素直に詫びの言葉を口にした。そして、汚してしまったハンカチを畳むと、自分のズボンのポケットにしまおうとする。
「これ洗濯して来週返す」
「ヒース、あなた洗濯できるの?」
「……生きるのに困らない必要最低限は……」
言いづらそうにか細い声でそう言ったヒースの手の中からリコリスはひょいとハンカチを抜き取った。多分、この様子だと料理だけではなく、洗濯もさして得意ではないだろう。
「じゃあいいよ、こっちで洗濯に出しておくから。特に名前入りのものでもないし、誰が出したかなんてばれやしないし」
これもどうせ洗濯物の山から適当に持ってきたやつだしねーとリコリスは宣った。だから汚していいなんて道理はどこにもないのだが。
「すまんな、悪い。助かる」
いーえ、とリコリスはなんてことはないように返し、汚れが内側になるようにハンカチを四つ折りにしてポケットにしまい直した。そして、リコリスは自分の手でヒースの両の手を握ると、目を閉じる。「一体何を……?」ヒースは戸惑いの声を上げる。
「――天にまします女神リュンヌよ、彼(か)の者を癒し給え」
リコリスの両手からほんのりと青い光が溢れ出し、ヒースの手を包んだ。リコリスの赤い瞳は瞼の裏から青い光を放ち、修道服の首元からも同じ色の淡い光が漏れ出していた。
ヒースの手の切り傷が消えていくのとともに、リコリスから溢れ出ていた光もすうっと消えていった。彼女が瞼を開くと、瞳の色も元の柘榴のような赤へと戻っていた。
「今のは……?」
「サンドウィッチのお礼だよ。もう怪我しないでね」
「それはありがたいんだが、そういうことじゃなく……」
「ああ、さっきの? あれは天恵の力」
「天恵の……?」
「神子が天恵をまともに扱えないなんて、洒落にならないからね。力の使い方のコツを掴むまではまあまあ大変だった」
天恵が使えない神子など神子として認められない。選定の儀の後、正式に神子となったリコリスに対してねちねちと嫌味を言ってくる者も多くいた。彼らを黙らせるために、リコリスは血を吐く努力を重ねたのだ。
「苦労してるんだな」
ヒースの言葉にどうだろうな、とリコリスは赤い目を細めた。自分が恵まれているとは思わないが、恵まれていないとも思わない。
「あたしよりも恵まれない境遇にある人間なんてそこら中に掃いて捨てるほどいる。あたしは一応衣食住が保証されてるだけマシな方だよ」
このレーツェル大陸には住むところもなく、そのは食べるものすら事欠く人間がごまんといる。聖グラース教会の総本山であるこの街・ディオースにすら、そのような人々は少なからず存在している。そういった人々にとって天恵の神子は世界の希望だった。彼女の力によって終滅の夜を越えれば、何かが変わる、と。
「それはそうと、この前はあたしのくだらない生い立ちの話ばっかりだったでしょ? せっかくこうやって話してるんだから、リコリスっていう個人をもっとヒースに知って欲しい」
「たとえばどんなことだ?」
「好きなものや嫌いなものとかかな。あたしのも知ってほしいし、ヒースのも知りたい」
「は、はあ……」
きらきらとした目でそんなことを話すリコリスに少し置いていかれる形でヒースは相槌を打つ。いきいきと楽しそうに話すリコリスの双眸はルビーのように綺麗だった。
「あたし、今もまだピーマンとにんじんが苦手なんだよね」
「ピーマンとにんじんに関しては俺も子どもの頃苦手だったからわからなくもないな。だけど、それって子どものうちに克服して卒業しとくやつだろ」
「子どものころって言われてもなあ……たぶんあたしの子ども時代って普通とはだいぶ違うんだろうし」
「あ……」
ヒースは己の失言に気づいた。確かに捨て子だったところを教会に保護され、神子として生きることを強要されてきた彼女の波瀾万丈な半生を思えば、ちょっとした食べ物の好き嫌いを克服する機会さえ与えられなかったのは想像に難くない。
「ま、人生いろいろ、世の中にはそういう人もいるってことで」
「……なんか逆に気を使わせちまったな。悪い」
リコリスは心底気にしてないといったふうに、顔の前で片手をひらひらと振った。にっとした朗らかな笑顔が逆に心に痛い。
「別に気にしないで。それで、嫌いなものなんだけど、他にもブロッコリーとカリフラワーとアスパラガスが――」
「ちょっと待て、嫌いなもの多いな!?」
「だって上のモサモサしたところとか青臭いのが苦手なんだよ。ヒースは何かないの? 苦手なもの」
「俺はあたり構わずぺちゃくちゃとしゃべり散らしている女たちの集団が苦手だ。しかもあいつらときたら、ミサの後の大聖堂だけじゃなく、マルシェにも公園にも広場にもどこにだっていやがるときてる」
ああ、とリコリスは苦笑する。それに関してはリコリスもヒースの言葉に全面的に同意だ。
「あたしもあれは苦手だしどうかと思うよ。なるほど、ヒースの好みは知的で物静かな女性か。亡くなった奥さんっていかにもそんな感じだったもんね」
「もしかして、お前、ミュゲのことも知って……?」
もちろん知ってるよ、とリコリスは頷く。プラチナブロンドの髪に緑の目の儚げな女性の姿は今も思い出せる。
「毎週ミサに来てくれる熱心な信徒だったからね、覚えているよ。病に倒れるまでは、ヒースと一緒に来ていた女性だろう? ヒースと同じ年くらいの」
「よく見ているな……」
「知ってる? 祭壇から会衆席って結構よく見えるんだよ。居眠りしてる人なんて一発でわかる」
ヒースは大聖堂内での振る舞いには気をつけようと心に決めた。うっかりリコリスを目で追ってでもいようものなら、ミサ後のこの時間に揶揄われることは疑いない。
「そういう苦手なら、あたしも枢機卿団の連中が苦手だな。どうやらどこの家であたしを養子にするかで争っているみたいで」
「十二家の中でも神子を擁する家の権力が高まるからか?」
「そういうこと。特に現在の教皇を排出したコルティス家があたしを引き入れたがっている。そうしたら、他の十一家は決してコルティス家に逆らえなくなるからね」
リコリスがどろどろとした教会の内情をさらりと言ってのけると、ヒースはげんなりとした顔をした。出自の知れない彼女に辛く当たってみせたと思えば、出世の道具として利用しようとする。清く正しい教会は、聖なる女神の教えは一体どこへ行ってしまったのだろう。
「と、まあ、嫌いなものの話はこんなところにして、と。次は好きなものの話をしようか。
あたしが好きなものはイチゴやブドウかな。寄進があったときにたまに一粒くらいだけわけてもらえることがあるんだけど、それがもう美味しくて美味しくて」
「イチゴなら今が時期だし、来週持ってきてやろうか? 確かマルシェで売ってたはず」
「それもいいけど、カフェ・オレゾのイチゴタルトが絶品だって聞いたことがあるし、せっかくだからそれ食べてみたいなあ」
カフェ・オレゾとはこのディオースで美味しいと評判の喫茶店で、年齢問わずに女性に人気の店だ。この店でリコリスが食べたいといっているタルトをテイクアウトしてくることもできなくはなかったが、店の扉を潜るのがそもそも独身男のヒースには敷居が高い。
「っていうかよくそんな店の名前まで覚えてるな……」
「最近信徒の女の人たちの間で話題だからね。食べてないと流行遅れ扱いされるしね。でさ、せっかくだから一緒に行こうよ。デートしよ、デート」
「で、デート!?」
思わず動揺でヒースの声が裏返った。デートなんて単語、ミュゲと結婚した二十年前からとんと耳にしていない。
「俺とお前が並んで歩いていたら、良くて親子、悪ければよからぬ関係だと思われるぞ?」
「あたしは構わないんだけどな。ヒースとならよからぬ関係、なりたいんだけど」
「……」
ヒースは深々と嘆息した。こうして毎週日曜日のミサの後に会うことは了承したが、男女の関係になることまでは承諾した覚えはない。ジャブのように時折り挟まれるリコリスのいたずらっぽい口撃には閉口させられていた。
それはそうとさ、とヒースの気を知ってか知らずか、なんてことはないふうにリコリスは話題を巻き戻した。
「来週のデートは決定事項として。だいぶ脱線しちゃったけど、ヒースは何が好きなの?」
「そうだな……」
今でも鮮明に脳裏に蘇る、控えめな彼女の笑顔。自分が贈ったエプロンを着てキッチンに立つ姿。鍋から立ち上るあの香り。じわりと視界が滲むのを感じて、ヒースはきつくまぶたを閉じる。途切れ途切れの掠れた声が声帯を震わせる。
「妻の……ミュゲの、作ってくれた………シ、チュー……」
答えているうちに瞼の奥から涙が溢れ出てくるのがわかった。もう食べられない、もう会えないという事実が喉の奥をせりあがってきて、嗚咽へと変わった。
「も、う……食べられない、のも……会え、ないのも……わかっ……ていても、どうしても……忘れ、られないんだ……あい、つの味が……あいつの……ことが……」
ぽたぽたとヒースの頬を伝い落ちた涙が地面を点々と濡らした。唇を強く噛み、うっうっと押し殺した泣き声を上げるヒースを見ていられなくて、リコリスは彼の頭をぎゅっと正面から抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。忘れる必要なんてない。今、ヒースに必要なのは悲しみや痛みと共に生きていくことだから。だから、いつまでだって、奥さんのことは覚えていたらいい」
こらえきれなくなったのか、うああっと声をあげてヒースはリコリスの腕に縋り付いてきた。それはあの葬儀の日に幼いリコリスが聞いたのと同じ号哭だった。
「大丈夫。ヒースが忘れさえしなければ、いつまでだって奥さんはそばにいてくれる。――その命を終えた者は魂となり、必要とする者のそばにいる。聖典にもあったでしょ?」
「そう……だな……」
「この質問はまたいつかにするよ。そのときまでには、ヒースの答えにあたしの名前を含めてもらえるように、あたしも頑張らないと」
リコリスはぽんぽんと幼子をあやすようにヒースの背をさする。ヒースの背は常よりも熱く、ひくひくと上下動を繰り返し続けていた。
ヒースが泣き止んで我に返るまで、二人はずっとそのまま抱き合っていた。頭上では午後五時の鐘が響き、辺りには夕方の朱色と夜の藍色が混ざり合って満ちていた。
「お待たせ、ヒース! ごめんね、支度に手間取っちゃって」
リコリスがゴリ押しのようにデートの約束を取り付けた翌週の日曜のミサの後、いつもよりも三十分ほど遅く、彼女はいつもの場所に現れた。ぐしゃぐしゃと彼女の靴の下で下萌が鳴る。円清の下には綿雲がそそ風に戦いでいる。ヒースはシャツの襟元を正し、無精髭のなくなった顎を落ち着かなげに撫でる。
元は白だったのだろうが黄ばんでしまった粗末な麻のブラウスに、首元の痣を隠すためのスカーフ、つぎはぎだらけの茶色いスカート。リコリスの私服なのだろうが、デートという単語には程遠い服装だ。
「ごめんね、こんな格好で。これしか持ってなくってさ」
「それは構わねえが……本当に抜け出して問題ないのか?」
「全然大丈夫。シスターたちはまだミサの片付けやってるし、司祭や司教たちは午後は会議だからバレようがないよ。どのみちバレたところで放っておかれるんだけどね」
それじゃあ早く行こう、とリコリスはそっとヒースのジャケットの袖口を掴んだ。ヒースは一瞬固まっていたが、はあと溜息をつくと、リコリスの手を振り解く。そして、ヒースは子どもにしてやるように手を繋ぎ直すと、リコリスを連れて地面から草の芽が顔を出し始めた墓地を出た。
教会を出てすぐの広場は、ミサの直後ということもあって人々で賑わっていた。富裕層狙いと見られる物乞いの姿もあちらこちらで散見された。
老舗のビストロに洗練されたリストランテ。カジュアルなトラットリアに夜になると街の人々や巡礼者で賑わう酒場。教会前の広場を抜けると、二人は様々な飲食店が立ち並ぶ中央通りを歩いて行く。
(――この辺り、ミュゲが元気だったころによく来たな。記念日の食事をあそこの角の店で――)
(……この辺、あたしが昔物乞いしたりゴミ漁りしてた場所だ……。飲食店が多いこの辺りは残飯が多いから……)
手を繋ぎながらも別々のことを考えていた二人は、ふいに通りすがりの人からじろじろと観察されていることに気づいた。なあ、とヒースは傍らを歩く少女に耳打ちをした。
「天恵の神子様がこんなところを出歩いてるせいで周りから見られてるぞ」
「これはあたしのせいじゃないよ。どっちかっていうとヒースのせい。五年間ずっと浮浪者みたいな格好で世捨て人みたいな生活をしていたヒースが急に身綺麗になって、最近はいそいそとマルシェに通ってるって。その上白昼堂々若い娘を連れ歩いてるとなったらまあ当然だよね」
「ほぼ原因お前じゃないか!」
「ちょっとよくわかんないなあ」
リコリスはわざとらしさを隠そうともせずに小首を傾げてみせる。そして、ぎゅっとリコリスは強くヒースの手を握り返すと囁き返す。
「あんな連中、気にしなくていいよ。あたしたちは別に後ろ指さされるようなことをしてるわけじゃないんだから。こんなことでおどおどしてたら格好のゴシップのネタにされるだけ。堂々としてよう」
それにもうヒースの変貌に関してはネタにされてるんだし今更だよ、とリコリスは笑う。確かにそれはリコリスの言う通りなので、気にするのも馬鹿馬鹿しいかとヒースは肩をすくめた。
(まあ、こんなことでもこの子が笑ってくれるのならいいか)
釈然としないながらも、ヒースはリコリスの手を引いて歩く。すると、曲がり角から茶色いトラ猫がひょいと姿を現した。
「あっ、ねこっ」
ひょいとヒースの手からリコリスのそれが離れる。リコリスは地面にしゃがみ込むと、ネコの鼻先に自分の手を近づけた。しかし、猫はシャーッとリコリスに威嚇すると、踵を返し、元来た道を引き返していってしまった。
「あーあ」
リコリスはしゅんとして肩を落とす。年齢よりも幼く無邪気な一面が可愛らしいな、とヒースは感じた。猫を見つけては歓喜し、その猫に袖にされては落ち込む。その子どもっぽさが愛しく尊いと思ってしまった。
(いやいやいや、こいつの強引さに感化されたわけじゃない。今のは子どもに対する大人の一般的な感性だ。特別な意味はない)
そう己に言い聞かせると、ヒースはリコリスに手を伸ばし、彼女が立ち上がるのを手伝う。先ほどよりも自然に手を繋ぎ直すと、ヒースは何気ないふうを装ってリコリスへこう問うた。
「猫、好きなのか?」
すると、リコリスはこくりと頷いた。彼女の視線はまだ未練がましく、猫が消えていった曲がり角に向けられている。
「神子としての模範解答をするなら、この世に生きとし生けるものすべてを愛しく尊いと思っているよ」
「お前個人としての回答は?」
「四つ足のもふもふした哺乳類は大体好きなんだけど、猫は特別かな。捨て子だった時代には食べ物を分け合ったりして仲良くしてたんだけど今はもうダメみたい」
修道服につけてた香のせいかな、とリコリスは自分の手首をすんすんと嗅いでいる。それを見ながらヒースはうーんと唸った。
(猫飼ってるから見にこない? は駄目だよなあ。家に女連れ込む男の常套句だしなあ。っていうか、そもそも俺、猫飼ってないし。……でも年頃の女の子だ、もうちょっとだけでもましな格好をさせてやりたいよな)
「ヒース、どうしたの? なんか難しい顔してる」
「気にするな、大体お前のせいだ」
「それで気にするなってのも無理があるでしょ。それより早く行こうよ。人気のカフェだから売り切れちゃうかも」
はいはいわかったよ、とリコリスに手を引かれる形になってヒースは歩き出した。自分がリコリスの手を引いていたはずがいつの間にか逆になっていたのがなんとなくおかしかった。
二人がカフェ・オレゾに辿り着くと、日曜日の昼下がりということもあって、大変賑わっていた。先客が数人いるということで、二人はメニューを見ながら待つこととなった。
「わあ、これが噂のイチゴタルト! すっごいきらきらつやつやしてて宝石みたい! だけど、あっちのイチゴパフェも美味しそうで捨てがたい!」
悩ましいのか、メニューに描かれたイラストを眺めるリコリスの表情がくるくると変わる。年相応の少女らしくきゃあきゃあと早口に捲し立てるリコリスをまあまあ、とヒースは制する。
「気になるならどっちも頼めばいいだろう? 俺がパフェを注文するから、それをつまめばいいだろ? どのみち俺一人でこのパフェを食べきるのは難しいしな」
そういうなら、とリコリスは引き下がる。ヒースはメニューをぱらぱらとめくり、飲み物のページを開く。
「お前は何飲むんだ? 俺はブレンドコーヒー一択だけど」
「……ヒース、もしかして甘いの苦手?」
「それが酒飲みの性なんだからしょうがないだろ」
「ごめん……なんかあたし一人だけ盛り上がっちゃって……。無理やり連れてきちゃったみたいだね」
「別にそんな顔させたくて連れてきたわけじゃない。それに、俺もここのコーヒーが美味いらしいって最近マルシェで聞いて気にはなってたしな」
「それならいいんだけど……本当に大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫だって。俺のことは気にしなくていいから好きなの選べ」
「じゃあこのクアトロベリーティーっていうのを。なんか期間限定って書いてあるし」
「期間限定に釣られるとはとんだ俗物の神子様だな」
今はいいの、とリコリスは頬を膨らます。そういった仕草がいちいち幼くて、何かをヒースの心を掻き回していく。
「今は神子アプローズじゃなくて、ただのリコリスだからいいの。リコリスはイチゴが大好きな女の子なんだから、何も問題ないでしょ?」
ヒースがメニューの下部の小さな文字に目を凝らすと、「※イチゴ、ラズベリー、ブルーベリー、クランベリー」と記されていた。確かにこれは俗人のリコリスでなければ頼むのを躊躇う。教会では秘伝のブレンドのハーブティーか水しか口にしないのが常だ。ワインも口にしないことはないが、それもミサや儀式のときだけだ。
先客たちが店員に案内されていくと、やがて二人の番がやってきた。二人は隅のテラス席に案内されると、椅子に腰を下ろした。こういったときには椅子を引いてやるのがマナーだったな、とヒースは席についてから思い出す。こういったことが久々だとはいえ、男として不甲斐ない。
「ご注文はどうなさいますか?」
店員はヒースへとそう問うた。ヒースはこれと、これと、とメニューの上に指を走らせながら店員に注文を述べた。
「イチゴパフェとブレンドコーヒー、イチゴタルトとベリーティー」
クワトロベリーティーね、とリコリスが横から訂正を入れる。店員はかしこまりましたと恭しく一礼すると去っていった。
「大丈夫か、寒くないか?」
「大丈夫、ありがとう」
日が翳り始め、風が冷たくなってきていた。先ほど午後三時を告げる鐘が鳴っていたので、今は午後三時半ごろだろう。
ほどなくして、注文した品がテーブルへと運ばれてきた。リコリスの前にイチゴタルトとクワトロベリーティーが、ヒースの前にイチゴパフェとブレンドコーヒーが置かれる。ごゆっくりどうぞと店員はトレイを持って去っていった。
「いただきます」
リコリスは手を合わせると、フォークを手に取った。きらきらと光る大粒のイチゴにリコリスがフォークを突き立てているのを見ながら、ヒースはぼんやりとブレンドコーヒーのカップを傾けた。
(ん……おお、これはなかなか。評判になるのも納得だな)
酸味と甘味の絡まり合った奥深いコクを楽しみながらも、ヒースは思考の半分では先ほどの思いつきをいかに実行に移すかを考えていた。ナンパっぽいのはよくない。だが、本人の好みも考慮したい。
気づけば向かい側でタルトをつついていたリコリスが小首を傾げていた。いつの間にかタルトは残り四分の一ほどになっていた。
「どうしたの、ヒース。さっきから上の空じゃない? 何か考えごと?」
「いや、何でもない。それより、こっちも食ってみるか?」
ヒースはティーカップをソーサーの上に戻すと、パフェのてっぺんの大粒のイチゴとホイップクリームをスプーンですくってリコリスに食べさせてやる。リコリスは口を開け、スプーンに食いつくと、蕩けそうな笑みを浮かべた。
「わあ、こっちもおいしい!」
「そりゃよかった」
ヒースはリコリスに食べさせたスプーンでパフェをすくうと、自分の口へと運ぶ。半分にスライスされたイチゴは甘酸っぱく、クリームは甘すぎずくどくない味わいだった。
(へえ、普段はほとんど食わねえけど、甘いものも悪くはないな。思ったよりすっきりしていて食べやすい)
「ほら、もう一口食っとけ」
もう一口分ヒースはスプーンでパフェをすくうとリコリスの口に運んだ。リコリスは少し躊躇った後にパフェを口に頬張った。
ヒースはパフェを食べすすめていると、もぐもぐと口を動かしていたリコリスが何やらもじもじとしていた。どうかしたか、とヒースは彼女を気遣う言葉をかける。
「もしかして冷えたか? 茶のお代わり頼むか?」
「……口」
「口?」
「か、間接キス……初めてだったのに」
「たかが間接キスで騒ぐなよ。自分を〝女〟にしろとかなんとか迫ってきた奴がこの体たらくでどうするんだよ」
それはそうだけど、とリコリスは居心地悪そうに視線を逸らす。ヒースはリコリスの顎に指を這わせると、顔を近づける。
「何なら本当にキスしてみるか? どうせそっちも初めてなんだろ?」
「そ、それは……」
二人の鼻と鼻が触れ合う。息に混ざるコーヒーの苦味とイチゴの甘酸っぱさが交錯する。
二人の視線が絡み合う。リコリスの赤の双眸が不安と微かな期待で潤んだ。
「悪い。冗談が過ぎた」
軽くリコリスの鼻先に唇を触れさせると、ヒースは彼女から顔を離す。あまりのことにリコリスは顔を耳まで真っ赤にさせていた。
「もおおおおお! 何するの!!」
「こういうことがお望みかと思ったけど違ったか。すまん」
「そうだけど、そうじゃなくて!! もう、ヒースのばかっ」
「ほら、声を抑えろって。あんまり騒ぐと店に迷惑だし、今日の夜にはディオース中を噂が駆け巡るぞ」
「誰のせいだと思ってるの!!」
「だから悪かった、やり過ぎたって。もう一杯、茶を奢るから落ち着けって」
ヒースは目配せで店員を呼ぶと、季節のフレーバーティーを注文した。しばらくするとミモザティーなるものが店員によって運ばれてきて、それを口にするころにはリコリスも平静を取り戻していた。
「そういえばお前、好きな色とかあるのか?」
なんてことはないふうを装って、ヒースはリコリスに探りを入れた。んー、とリコリスは鼻に抜けていくミモザの香りを楽しむと、ヒースの問いに答える。
「好きな色は特にないかな。嫌いな色はあるけど」
好き嫌いが激しそうに見えるリコリスにしては意外な答えだった。嫌いな色? とヒースは聞き返した。
「赤と青。あたしの運命を縛る色だから」
終滅の夜の月の赤色。選定の儀式の夜の月の青色。そして、青く光る双眸と薔薇の痣。それはリコリスが嫌っているものの色だった。
「じゃあ、好きな服のテイストとか」
「服なんて着れれば何でもいいよ。そんなのにこだわれる環境で育ってこなかったし。強いて言えば首元が隠れる服が好きかな」
うーんとヒースが唸っていると、ミモザティーを飲み干したリコリスが訝しげに眉根を寄せた。煮えきらない態度のヒースにリコリスは舌鋒鋭く追及する。
「さっきからどうしたの? ヒース、何か変だよ」
それに対していや、あの、とヒースは歯切れの悪い返事をする。しかし、じっとりとしたリコリスの視線に負け、ヒースは口を開いた。
「なあ、今度うちに来ないか?」
「え、あ、そういう……そういうこと!? 確かにあたしもそういう関係になりたいとは言ったけど、ちょっと大人の階段をすっ飛ばし過ぎなような気がっ……」
だから嫌だったんだよと思いながらヒースは深々と溜息をつく。男が女を家に誘うというのは、大体の場合そういう意味でしかない。
「喚くな、この色ボケ娘。俺はただ、妻が若いころの服をお前にやりたかっただけだ。お前みたいな若い娘がそれしか服を持ってないんじゃなんだからな」
「あ、そういう……」
リコリスはほっとしたような残念なような思いだった。成人済みだとはいえ、まだまだ子どもの部分をヒースには見抜かれてしまっているように思う。大人の女ならこの程度のやりとりはクールにいなせないといけないに違いないとリコリスは心に刻み込んだ。
「そういうわけだから、来週も今週と同じ場所でいいか? うちに来るのが嫌だったら嫌って言っていいんだぞ。適当に似合いそうな服見繕ってくるから」
「ううん、行く。行きたい」
「わかった、それじゃあ来週、いつもの時間にいつもの場所で」
それじゃあそろそろ行くか、とヒースは腰を上げる。リコリスも椅子から立ち上がる。
「ありがと、ヒース。今日、楽しかった」
「来週もその言葉を聞けるようにせいぜい頑張るよ」
ヒースはジャケットの内ポケットからカーキの革財布を取り出すとさらりと二人分の会計を済ませた。教会前の広場まで送っていく、とリコリスと手を繋ぐとヒースは歩き出した。
午後五時を過ぎたディオースの街にまだ冬の気配が残る風が吹き抜けていった。中央通りの街灯にはオイルランプが灯り始めていた。
木々の蕾から桃色の花びらが解け始めた日曜日。先週より更に遅いなあと思いながら、教会墓地でヒースはリコリスを待っていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。司祭様に捕まっちゃってさ」
息を切らして、リコリスが先週と同じ姿で駆け寄ってくる。光風がリコリスの継ぎ接ぎだらけのスカートの裾を翻していく。
「それは構わないが……司祭様とやらは大丈夫だったのか?」
「大丈夫大丈夫、適当に話切り上げて逃げてきた」
「おいおい、仕事の話ならちゃんとしてこいよ。ここクビにされて浮浪者に逆戻りにでもなったら洒落にならないだろ」
「大丈夫、あたしこの世で唯一の天恵の神子様だから。あたしをクビにしたら世界が滅びちゃうよ」
実際は先日、カフェで騒いでいた話が司祭たちの耳に入り、神子らしい言動をするようにと小言を食らったのだが、それは伏せておく。そんなことを伝えてこれからのお家デートを台無しにしたくなかった。
「それより早く行こうよ。今日これよりマシな服くれるっていってたから楽しみにしてたんだ」
リコリスはあたかも恋人のように指を絡めてヒースと手を繋ぐ。ヒースはされるがままで抵抗しなかった。
「散らかってて悪いな」
住宅街の端の方にあるランズバーグ家にリコリスを招き入れると、ヒースは照れ隠しのようにぶっきらぼうに言った。ミュゲが亡くなってからというもの、独り暮らしのこの家に誰かを招き入れるのは久しぶりだった。
「おじゃまします」
入ってすぐは買ってきた食材やら何やらで散らかったキッチンとダイニング。その奥のベッドルームには寝乱れたシーツのダブルベッドやぐちゃぐちゃの本棚とベッドサイドテーブルがある。謙遜でも何でもなく本当に散らかっていた。しかし、一応人並みの生活をようやくし始めたばかりなのだから、これでもまだ上出来だろう。
「すぐに茶でも入れる。適当にその辺に座っといてくれ」
ヒースに促されてリコリスは手近にあったダイニングチェアに腰掛ける。ヒースは水瓶からポットに水を汲むと、マッチを擦って竃に火を入れる。そして、ポットを竈に掛けると、棚をゴソゴソと弄り、茶葉の入った缶とティーポットを取り出した。
その様子をリコリスがなんとはなしに眺めていると、ヒースは蓋を開け、缶を逆さにしてぽんぽんと底を叩き始めた。ぎよっとしたリコリスはすかさず待ったをかける。
「待って待って待って、それじゃあ茶葉入れすぎだから! ヒース、お茶の淹れ方って知ってる?」
「これでいいはずだが……妻もこれで美味しいと飲んでくれていたし……」
ミュゲのことを引き合いに出されたのはちょっとむっとしたが、それは腹の底にしまっておくことにする。リコリスは椅子から立ち上がると、キッチンに立つヒースの横に並ぶ。
「ヒース、ティースプーンある?」
「ああ、あるが……」
ヒースは食器棚をごそごそと漁ると、錆びかかったティースプーンを一本持ってきた。食器も五年も使わなければこうなってしまうのかと思いながらも、リコリスは錆の問題は一旦横に置いておくことにする。
「茶葉はティースプーンに人数分の回数プラス一回。茶葉の種類によって量は変わってくるかもしれないけど、基本はこれだから」
「な、なるほど……」
「あと、お湯が沸くまでにティーカップを出しておいて」
リコリスの指示に従って、ヒースは食器棚から茶渋だらけのカップを二つ取り出した。どんな保管の仕方をしていたのか、うっすらとヒビが入っている。リコリスは小さく肩をすくめた。
(カップとスプーンがこの惨状なら、食器棚の中身を全部買い換えろと言いたいところだけど、それは酷だよね。どれも奥さんとの思い出の詰まった品だろうし)
ふつふつとお湯が沸く音がキッチンに響く。リコリスはお湯、とヒースに次の指示を出す。
「ティーポットとティーカップに注いで」
「カップにも?」
「そのほうが美味しく飲めるの。覚えておいて損はないよ」
なるほど、と言いながらヒースはお湯を入れたばかりのティーポットへ触れる。
「何してるの?」
「もうそろそろ淹れられるかと思って」
リコリスはヒースの鼻先にずいと人差し指を押し付ける。そして、気が早い! と唾が飛びそうな勢いでまくし立てた。
「まだ一分も経ってないじゃん! 茶葉にもよるけど、普通、紅茶って三分から五分くらいは蒸らさないと駄目なんだよ」
「……」
おそらく生前のミュゲが飲んでいたのはうっすらと色がついたとにかく白湯に近い何かだ。リコリスはそれを美味しいと言って飲んでいたミュゲに同情を覚えた。不器用な夫の心遣いを思えば、言いたくても言えなかったのだろう。リコリスはあまり彼女のことを知らないが、あまりそういうことを言いそうにない奥ゆかしそうな人だった。
三分が経つと、リコリスはカップの湯を流しに捨てた。流しには白いクリームに覆われた錆びついたボウルと泡立て器、茶色っぽくくすんだ液体の付着した包丁とまな板が放置されていた。あとでこれも何とかしないとな、と思いながらリコリスはポットを手に取ると何となく黴くさい琥珀色の液体を二つのカップに注いだ。
(大丈夫、大丈夫。紅茶も広義の発酵食品だし。そもそも捨て子時代にカビの生えた食べ物とか慣れてるし)
ダイニングテーブルの上の邪魔な荷物を一旦床にどけ、ティーカップ二つをリコリスは置く。すると、ヒースはどこに置いていたのやら、皿に乗った白いクリームまみれになった三角形の食べ物を持ってきた。ところどころから赤色っぽい何かが顔を覗かせている。サンドウィッチだろうか。
「この前、カフェでタルトやらパフェやらを美味そうに食ってただろ。甘いのはそんなに好みじゃないが、お前が好きそうだから作ってみた。昼飯まだだろう? よかったら食え」
クリームを突き破るようにして顔を覗かせている物体がおそらくイチゴであることをリコリスは悟った。リコリスは再びダイニングチェアに腰掛けると、両手を合わせる。
「ありがとう、いただくね」
おう、とヒースはダイニングチェアを引き、リコリスの正面に腰掛けた。そして、ヒースはティーカップに口をつけると美味いな、と呟いた。
リコリスは両手と顔を盛大に汚しながら、ヒースが作ってくれたイチゴサンドにかぶりつく。ホイップクリームになりきっていないクリームはべちゃっとして甘みがなく、イチゴの切り方もスライスだったり半分だったりダイスカットだったりと統一性がなかったが、ヒースが真心を込めて作ってくれた食事はこの世の何にも変え難いほど美味しかった。
リコリスの手と顔がべたべたになっているのに気づいたヒースは、待ってろと言うと、飲みかけのカップをテーブルに置いて、玄関とは逆側の勝手口から出て行った。そして、すぐに使い古されたがさがさになったタオルを二枚持って戻ってくるとリコリスにそれのうちの一枚を渡した。ありがと、とリコリスが礼を言うと、ヒースは椅子に座り直した。
「お前、随分と手慣れてるのな」
ヒースは自分の分のサンドウィッチを手で掴む。ヒースの手はリコリスと同様にクリームでべたべたになった。
「十歳のときに、神子としての立場が確立するまでは、シスターたちの手伝いさせられてたから。選定の儀まではあくまでも最も有力な神子候補って扱いだったから雑用でも何でもやらされたよ」
「お前、つくづく苦労してるよな……」
そうでもないよ、とリコリスはサンドウィッチを食べ終えると手と口元をタオルで拭った。ヒースも残っていたサンドウィッチの欠片を口の中に放り込むと咀嚼して飲み下した。
ヒースが汚れてしまった手と口元を拭いきると、あのさ、とリコリスは切り出した。
「来週はマルシェに行かない? 欲しいものがあるんだ」
「欲しいものって何だ? 言っておいてくれれば買っておくけど」
いーの、とリコリスは頬を膨らませた。この男ときたら、気を利かせているつもりなのだろうが、女心がてんでわかっていない。
「言わなきゃわかんないかなあ。買い物デートだよ、買い物デート」
「ああ、そういうことか。わかったよ、じゃあ来週もいつものところで待ち合わせて行くか」
うん、とリコリスは首を縦に振った。リコリスの欲しいものって一体何だろうか。彼女の性格上、あまり高価なものはねだってこなさそうな気がするが、懐具合が心配だ。
「それはそうと、本題に入ろうか」
ちょっと待ってろと、ヒースは席を立つ。そして、ベッドルームのほうへとヒースは姿を消し、しばらく何やらごそごそとしていたと思うと大きな紙袋を持って戻ってきた。
「この前やるって言ってた服だ。持って帰るといい。古いが、たぶん今着てるやつよりはマシだと思うから」
リコリスは床から顔を起こし、ヒースから紙袋を受け取ると、花が咲いたような笑顔を浮かべた。この顔が見れるなら、わざわざミュゲの服を引っ張り出してきた海があるというものだ。
「ありがとう。だけど、本当にもらっちゃっていいの? 大切な奥さんの思い出でしょう?」
「その思い出もしまいこんだままじゃ宝の持ち腐れだろ。誰かが着てくれたほうがあいつも喜ぶ」
本当はいつか娘が生まれたら、と取っておいた服だった。けれど、生来のミュゲの身体の弱さも相まって、それは叶わぬ夢となった。
(こいつは娘とは違うけれど、それでもしまったままよりはずっといい)
そのとき、家の外でごーんと鐘の音が響いた。午後四時を知らせる教会の鐘の音だった。
「今日はそろそろ帰りな。送っていく」
「あたしとしては帰らなくてもいいんだけど? 一応そういうことがあってもいいように覚悟してきたし」
「この前、間接キスであれだけ動揺してた奴がよく言うな」
すっと服の詰まった紙袋を持つと、ヒースは行くぞとリコリスを促した。ダイニングテーブルの上には空になったカップと皿が置かれたままだ。
「あっ、あたし片付けものしようと思ってたのに」
「いいよ、そのくらい俺がやる」
「……この部屋の状況を見ると不安しかないんだけど」
「独り暮らし舐めんなよ」
軽口を叩きながらヒースはリコリスを連れて、玄関へと向かう。リコリスはおじゃましましたと頭を下げるとヒースの家を出た。
「――はあ? 重曹ぅ?」
翌週、リコリスとともにマルシェの雑貨屋を訪れたヒースは驚愕の声を上げた。リコリスがマルシェに行きたいといっていたのは、先週あげた服に合わせる装飾品やら靴やらが欲しいといった娘らしい理由かと思っていたが、全然違ったようだ。
今日のリコリスの出立は薄茶のニットにダークグリーンのミモレ丈スカートという、昔、ミュゲが着ていた服だった。髪の色も目の色も違うというのに、今日、墓地でリコリスと落ち合ったときには感極まって目頭が熱くなった。
「だって、ヒースの家の食器、錆びたり茶渋が染みついたりいろいろしてたでしょ? そういうのには重曹が効くの。他にも掃除に色々使えるしね」
「つくづくお前はそういうことに無駄に詳しいな……」
「得た過程はともかくとして、知ってると生きるのに便利な知識だよ。――おばさん、そこの重曹一袋ちょうだい」
あいよ、と雑貨屋の店主である中年女性は重曹の包みをリコリスへと渡す。これでヒースの家の掃除が捗りそうだ。五年分の澱みを溜め込んだあの家を彼の思い出はそのままに、ぴかぴかに磨き上げたい。
「銅貨五枚だよ」
ヒースはベージュのジャケットの内ポケットから財布を取り出すと、重曹の代金を中年女性に払おうとした。が、ヒースはリコリスが店内のある一点を見つめていることに気づいた。ヒースがリコリスの視線の先を追うと、ジョゼット柄のペアカップが棚の上に置かれていた。片方は白地に灰色の柄が、もう一方には灰地に白の柄が刻まれている。
「――そこのカップ二つもくれ」
ヒースの言葉にえ、とリコリスは目を瞬いた。いいなとは思っていたが、そんなものまでヒースにねだるつもりはなかった。そこまで厚かましい神経は持ち合わせていないつもりだ。
「これからも俺の家に来る気があるなら、お前用のカップも必要だろ?」
「でも、そんなもの置いたら奥さんに悪いんじゃあ……」
「出入りしてる時点で今更だ。それに今日も来るつもりだったろ」
「それはそうだけど……食器の手入れとか掃除とかしたいなって思ってたし」
ほらどうするんだい、と店主の女性に決断を促されると、買う、とヒースは答えた。
「重曹の値段にプラスして銀貨二枚だ」
ヒースは財布から銀貨二枚と銅貨五枚を取り出すと店主の女性に支払った。店主の女性はペアカップを箱に詰め、紙袋に入れると代金と引き換えに手渡した。
それじゃ行くか、とヒースはリコリスの手に自分の指を絡めると、店を出た。あちらこちらで呼び込みをする力強い声やちゃりんちゃりんと硬貨の鳴る音がする。人混みに紛れるようにして二人は歩き出す。
「さて、その辺の出店で飯買って帰るか。何が食いたい?」
「じゃあ、ハンドピザ食べてみたい! ああいうジャンクなの食べてみたかったんだよね」
「それなら、肉屋の向かい辺りに出てるはずだ。寄ってから、かえ……」
ふいにヒースの足が止まり、言葉が途切れた。「ヒース?」リコリスがヒースの顔を覗き込もうとすると、石畳にぽたぽたと透明な雫が落ちた。ヒースは紙袋を腕に抱いてその場に座り込む。
「昔は……こうやって、ミュゲと……買い物に、来て……時には、買い食い……なんかもして……。それで……同じ家に、帰っていくのが、当たり前……だったんだ……。誰かと、買い物に来て……同じ家に帰るのが、久しぶりで……」
リコリスはヒースの正面にかがみ込むと、彼を落ち着かせるようにぽんぽんと背中を撫でた。日常の些細な出来事にミュゲとの思い出を垣間見てしまうのだろう。
「お前は……ミュゲじゃない。ミュゲじゃない、のに……たかが服一つだっていうのに……そこでそうやって、笑っていられると……ミュゲがいる、みたいに錯覚してしまう、んだ……。俺は……最低、だ……」
「そんなことないよ。誰かに他の誰かを重ねてしまうことなんてよくあることだもん。ヒースが特別ひどいわけじゃない。
ねえ、ヒース。あたしはヒースの奥さん――ミュゲさんじゃないけど、あなたの側にいていいかな? あなたがいつか一人でも立てるようになるように、今は側で支えてあげたい」
「俺は……そんな、ふうに……言ってもらえる人間じゃない……。俺、は……ミュゲがいなければ、何もできない……情けない、人間だ……。ミュゲが……いなくなった事実さえ……いつまでも、まともに、受け止められずに……酒と、タバコに……溺れて……」
「そんなことないよ。ほんの少しずつだけど、ヒースはちゃんと前に進んでる。ヒースは自分の歩幅で歩けばいい。今はまだ真っ暗な闇の中でも、必ず出口はあるから。ヒースが光の中に戻れるまで、あたしはちゃんと側にいるから」
残り時間が許す限界ギリギリまでではあるけれど。リコリスは自嘲気味に胸の中で付け足すと、言葉を続ける。
「今はまだ、ミュゲさんの代わりでもいい。ヒースがまた心から笑えるように、あたしの手を取って」
リコリスは右手をヒースの前に差し出す。彼女の手の上にぽたぽたと涙の雫が滴った。
少し躊躇った後に、ヒースはリコリスの手を取った。泣き腫らした目は赤く充血している。
「今はまだ……答えを出せない。それでも、この手に縋ってもいいか?」
「構わないよ。あなたが独りにならないように、孤独の闇に飲み込まれてしまわないように、あたしがあなたの道標になる」
リコリスはヒースの亜麻色の髪を掻き分けると、そっと額に口付けを落とした。リコリスの伏せられた瞳とスカーフの下の首元からは淡く青い光が漏れ出している。
「ヒース・ランズバーグ――あなたに女神リュンヌの祝福を。どうかあなたのこの先の人生に幸多からんことを」
ふっとリコリスの目と首の痣から光が消える。リコリスは優しく微笑むと、握ったままの手を引いてヒースを立ち上がらせた。
「ほら、ご飯買って帰ろ。今日はやること盛り沢山なんだから」
ヒースはジャケットの袖口で涙を拭うと、そうだなと微笑み返した。そして、二人は同じ歩幅で歩き始めた。
「天にまします女神リュンヌよ――」
「やあ、ヒース。今日も熱心だね」
ミュゲの墓へヒースが祈りを捧げ終わったころを見計らうように、背後からリコリスは声をかけた。しかし、ヒースが顔を上げ、背後を振り返っても誰もいない。
「こっちだよ、こっち」
少し上から再び声がして、ヒースはそれを振り仰ぐ。蕾が綻び始めた木の太枝の上で、リコリスがひらひらと手を振っていた。
「……何してるんだ」
「何って木登りだけど」
「……」
呆気に取られてヒースが言葉を失うと、リコリスは足をぶらぶらさせながらにんまりと笑う。そして、彼女は中からほんのりと桃色の花びらを覗かせ始めた蕾に手を伸ばしながら、淡々と呟く。
「皆生きてるんだよ。これだって女神リュンヌが創りたもうた生命。誰も気にも留めないけどね」
「そういう神子っぽい台詞は降りてきてからにしてくれないか!?」
そのとき恵風が吹いた。強い春の風はリコリスの修道服の裾を大きく巻き上げ、ドレープの波を描いていった。ヒースは下を向いてそれを見ないようにしてやり過ごすと怒声を上げる。
「とにかく危ないからそこから降りろ!」
「あーらら、怒られちゃった」
リコリスはおどけたように舌を出す。そして、ちょっとそこどいててね、と言うと、枝の上から飛び降りた。反動で木の枝が大きくしなる。
「何やってんだ! 普通に降りろ、普通に!」
「別に怪我しなかったんだからいいじゃん」
「良くない! ってか、いつもこんなことしてるのか!?」
ヒースが問い詰めると、リコリスは露骨に目を逸らす。これはたぶん普段からやっている。とんだじゃじゃ馬だ。先ほどのミサで祈りを捧げていた人物と同一人物だとは到底思えない。
「だって幹を伝って降りるより効率的じゃない? 時短ってやつだよ、時短」
時短なんて言葉、どこで覚えてきたんだ。ミサの後に寄り集まって姦しく喋っている婦人グループたちは彼女にろくな知識を与えない。ヒースは頭が痛くなる思いだった。
「手間を惜しんで怪我をしたらどうするんだ……というか、一緒にいた俺がさすがに教会に怒られるだろ」
「あたしが勝手にやったって言えば放っておいてくれるよ? ま、手当もしてくれないけどね。あいつら、あたしが生きてさえいれば、たとえ手足がなくなったとしても構わないっていうか、いっそそのほうが行動を制限できていいくらいに思ってるから」
「……」
ヒースは押し黙るとえへんと痰の絡んだ咳払いをした。それはそれ、これはこれだ。この少女の危険な行ないを大人として放っておくわけにはいかない。
「ともかくだ。成人した大人の女だって言うなら、少しは慎みってものを覚えろ。そんなことやって許されるのは日曜学校までだ」
「えー」
リコリスは不満そうに抗議の声を上げる。そして、彼女はふいにくすりとくすぐったそうに笑った。
「あたしにお父さんがいたらこんな感じだったのかな」
「知らねえよ。俺も子どもなんて育てたことはないからな。何であれ、お前みたいなじゃじゃ馬の親ってのは骨が折れそうだ」
「自分の役目をきっちり理解して受け入れてるいい子にじゃじゃ馬とかひどくない?」
「だから余計にタチが悪い。お前なんてじゃじゃ馬で充分だ」
リコリスとヒースが軽口を交わし合っていると、頭上の尖塔の鐘が鳴った。午後一時を知らせる音だった。太陽はミサが終わったときよりもほんのわずかに西に傾いている。
「そうだ、お前、教会じゃ大した飯が出ないって言ってただろう? 見様見真似だけど作ってみた」
座れ、と促されてリコリスは先ほど登っていた木の根へと座った。ヒースも付かず離れずの距離を保ったまま、彼女の横に腰を下ろした。
ヒースは持っていたバスケットの蓋を開くと、リコリスの方へと押しやった。緊張するやら照れくさいやらで目が大きく泳ぐ。やはり柄にもないことなどするべきではなかったか。
「嫌じゃなかったら食え」
「う、うわあ……」
一体どこから引っ張り出してきたのやら、バスケットからは微かにカビの匂いがする。サンドウィッチもハムとチーズとレタスを挟むだけのシンプルなもののはずだが、具は盛大にパンの下からはみ出し、バスケットの内側は塗りすぎたマヨネーズでまみれていた。
それじゃせっかくだしいただこうかな、とリコリスはマヨネーズまみれのサンドウィッチに手を伸ばす。もう一方の手でこぼれかけた具を支えながら、リコリスは初心者感丸出しのサンドウィッチにかぶりついた。
「――美味しい!」
ハムがでろりとパンの隙間からはみ出たサンドウィッチを手に持ったまま、リコリスはヒースを見て目を輝かせた。こんなに美味しいものは食べたことはない。誇張なしにそう思った。
「それはよかった。……っと、落ちるぞ」
ヒースは仏頂面でリコリスのサンドウィッチからはみ出したハムを押し戻した。リコリスははむはむとサンドウィッチを食べながら、こう告白した。
「あたし、初めてなんだよね。誰かがあたしっていう個人のために料理を作ってもらうの」
初めて? とヒースは訝しげに眉を顰めた。一応教会で食事を用意してくれているという話ではなかっただろうか。
ヒースがそれを口にすると、リコリスは乾いた笑いを浮かべながらパンの間のレタスを行儀悪く口で引っ張り出して飲み込んだ。リコリスはもう一口サンドウィッチを頬張ると、口をもぐもぐさせながら話を続ける。
「あたしの食事は所詮他のシスターたちのついで。時にはあたしの分がないことだってあるよ」
食事がないのは神子に対する静かな嫌がらせではないだろうか。いくらリコリスの出自が不明瞭とはいえ、立場のある人間に対してする仕打ちじゃない。教会の上層部はそれを止めるでもなく、ただ黙って見過ごしているのだろうか。
「上の人間には訴えたのか? 枢機卿団の誰かとか、それこそ教皇聖下とか」
「そんなの何年も前にやってるよ。そしたら、清貧は女神リュンヌの教えだ、神子たる者が率先して守らなくてどうするとかなんとかいなされた」
「……」
リコリスの口からあっけらかんと語られた言葉にヒースの眉間の皺が深くなる。リコリスはマヨネーズのついた人差し指をぺろりと舐めると、ヒースの胸の内を言い当てた。
「あ、今、腐ってるって思ったでしょ? そんなの昨日今日の話じゃないよ。何十世紀も前、女神リュンヌの教えが薄れ始めたころから教会はこう」
「……そうか」
ヒースも自分の分のサンドウィッチを手に取り、齧った。パンの間から押し出されたマヨネーズがヒースの手をべっとりと汚す。
悪くはないな。ヒースはそう独りごちた。悪くはないだけだ。決して美味いわけではない。
(味気なかった食事も誰かと食べるだけで――それも美味いと言ってくれる誰かと食べるだけでこうも違うものか)
この一週間、ヒースは材料を切って調味料を計って煮込むだけの簡単な料理だからという理由でシチューやスープと格闘してきた。しかし結果はふるわず、鍋をどうしようもないレベルで黒焦げにするばかりだった。気づけば一週間で七回も新しい鍋を買いに金物屋に走る羽目になり、金物屋の店主も色々な意味でびっくりしていた。
「つい一週間前に料理を始めたばかりのど素人の飯だ。無理しなくていい。ただ、不味くないなら残さず食べてくれると嬉しい」
ついついぶっきらぼうな調子になりながら、ヒースはそう口にする。すると、具がなくなってパンだけになったサンドウィッチを齧りながら、リコリスがうんと頷いた。隣に座る少女の横顔はとても幸せそうにヒースの目に映った。
「ごちそうさま。美味しかった」
次回も期待してるね、とリコリスはヒースへと秋波を送った。リコリスがごそごそとポケットから真っ白なハンカチを引っ張り出している横で、ヒースはサンドウィッチの残りを飲み込んだ。
「気が向けばな」
ヒースがマヨネーズで汚れた手をダークブラウンのシャツの裾で拭おうとしていると、それに気づいたリコリスがさっと自分が持っていたハンカチを握らせてきた。リコリスは夥しい数の傷があるヒースの手を見ると目を瞠った。どの傷も刃物で切ったものとわかる傷で、いずれもまだ新しいものだ。
「もしかして、これを作るために怪我したの?」
「妻が亡くなってから料理なんてしてなかったから、包丁が錆びてなまくらになっちまってたもんだから」
「金物屋さんで新しいのを買えばいいんじゃない?」
そうリコリスが提案すると、否とヒースはかぶりを振った。あれは思い入れのある品だ。そうそう手放したくはない。
「うちにある包丁は妻が生前使ってたものなんだ。この一週間で鍋をいくつもだめにしちまった以上、せめて包丁くらいは妻のものを使いたい」
「それでもどのみち金物屋さんに相談じゃないかな。たぶん研いでくれると思う。ヒースがあたしのために何か作ってくれるのは嬉しいけど、そのために毎度毎度怪我してるんじゃ見てられないよ」
リコリスから渡されたハンカチで手を拭ううち、妻の生前もこういうことがよくあったな、とヒースは思う。死期が近づくにつれて、その回数がどんどん上がっていたのを覚えている。
「ねえ、今、奥さんと重ねたでしょ」
う、とヒースは言葉に詰まる。あくまでも別の女性といるにもかかわらず、妻と目の前の少女を重ねてしまうのはリコリスに失礼だ。リコリスはにぃっと笑うと、からかうようにヒースの顔を上目遣いに覗き込む。
「女の勘。舐めないでよね。そういうのちゃんとわかるんだから」
悪かった、とヒースは素直に詫びの言葉を口にした。そして、汚してしまったハンカチを畳むと、自分のズボンのポケットにしまおうとする。
「これ洗濯して来週返す」
「ヒース、あなた洗濯できるの?」
「……生きるのに困らない必要最低限は……」
言いづらそうにか細い声でそう言ったヒースの手の中からリコリスはひょいとハンカチを抜き取った。多分、この様子だと料理だけではなく、洗濯もさして得意ではないだろう。
「じゃあいいよ、こっちで洗濯に出しておくから。特に名前入りのものでもないし、誰が出したかなんてばれやしないし」
これもどうせ洗濯物の山から適当に持ってきたやつだしねーとリコリスは宣った。だから汚していいなんて道理はどこにもないのだが。
「すまんな、悪い。助かる」
いーえ、とリコリスはなんてことはないように返し、汚れが内側になるようにハンカチを四つ折りにしてポケットにしまい直した。そして、リコリスは自分の手でヒースの両の手を握ると、目を閉じる。「一体何を……?」ヒースは戸惑いの声を上げる。
「――天にまします女神リュンヌよ、彼(か)の者を癒し給え」
リコリスの両手からほんのりと青い光が溢れ出し、ヒースの手を包んだ。リコリスの赤い瞳は瞼の裏から青い光を放ち、修道服の首元からも同じ色の淡い光が漏れ出していた。
ヒースの手の切り傷が消えていくのとともに、リコリスから溢れ出ていた光もすうっと消えていった。彼女が瞼を開くと、瞳の色も元の柘榴のような赤へと戻っていた。
「今のは……?」
「サンドウィッチのお礼だよ。もう怪我しないでね」
「それはありがたいんだが、そういうことじゃなく……」
「ああ、さっきの? あれは天恵の力」
「天恵の……?」
「神子が天恵をまともに扱えないなんて、洒落にならないからね。力の使い方のコツを掴むまではまあまあ大変だった」
天恵が使えない神子など神子として認められない。選定の儀の後、正式に神子となったリコリスに対してねちねちと嫌味を言ってくる者も多くいた。彼らを黙らせるために、リコリスは血を吐く努力を重ねたのだ。
「苦労してるんだな」
ヒースの言葉にどうだろうな、とリコリスは赤い目を細めた。自分が恵まれているとは思わないが、恵まれていないとも思わない。
「あたしよりも恵まれない境遇にある人間なんてそこら中に掃いて捨てるほどいる。あたしは一応衣食住が保証されてるだけマシな方だよ」
このレーツェル大陸には住むところもなく、そのは食べるものすら事欠く人間がごまんといる。聖グラース教会の総本山であるこの街・ディオースにすら、そのような人々は少なからず存在している。そういった人々にとって天恵の神子は世界の希望だった。彼女の力によって終滅の夜を越えれば、何かが変わる、と。
「それはそうと、この前はあたしのくだらない生い立ちの話ばっかりだったでしょ? せっかくこうやって話してるんだから、リコリスっていう個人をもっとヒースに知って欲しい」
「たとえばどんなことだ?」
「好きなものや嫌いなものとかかな。あたしのも知ってほしいし、ヒースのも知りたい」
「は、はあ……」
きらきらとした目でそんなことを話すリコリスに少し置いていかれる形でヒースは相槌を打つ。いきいきと楽しそうに話すリコリスの双眸はルビーのように綺麗だった。
「あたし、今もまだピーマンとにんじんが苦手なんだよね」
「ピーマンとにんじんに関しては俺も子どもの頃苦手だったからわからなくもないな。だけど、それって子どものうちに克服して卒業しとくやつだろ」
「子どものころって言われてもなあ……たぶんあたしの子ども時代って普通とはだいぶ違うんだろうし」
「あ……」
ヒースは己の失言に気づいた。確かに捨て子だったところを教会に保護され、神子として生きることを強要されてきた彼女の波瀾万丈な半生を思えば、ちょっとした食べ物の好き嫌いを克服する機会さえ与えられなかったのは想像に難くない。
「ま、人生いろいろ、世の中にはそういう人もいるってことで」
「……なんか逆に気を使わせちまったな。悪い」
リコリスは心底気にしてないといったふうに、顔の前で片手をひらひらと振った。にっとした朗らかな笑顔が逆に心に痛い。
「別に気にしないで。それで、嫌いなものなんだけど、他にもブロッコリーとカリフラワーとアスパラガスが――」
「ちょっと待て、嫌いなもの多いな!?」
「だって上のモサモサしたところとか青臭いのが苦手なんだよ。ヒースは何かないの? 苦手なもの」
「俺はあたり構わずぺちゃくちゃとしゃべり散らしている女たちの集団が苦手だ。しかもあいつらときたら、ミサの後の大聖堂だけじゃなく、マルシェにも公園にも広場にもどこにだっていやがるときてる」
ああ、とリコリスは苦笑する。それに関してはリコリスもヒースの言葉に全面的に同意だ。
「あたしもあれは苦手だしどうかと思うよ。なるほど、ヒースの好みは知的で物静かな女性か。亡くなった奥さんっていかにもそんな感じだったもんね」
「もしかして、お前、ミュゲのことも知って……?」
もちろん知ってるよ、とリコリスは頷く。プラチナブロンドの髪に緑の目の儚げな女性の姿は今も思い出せる。
「毎週ミサに来てくれる熱心な信徒だったからね、覚えているよ。病に倒れるまでは、ヒースと一緒に来ていた女性だろう? ヒースと同じ年くらいの」
「よく見ているな……」
「知ってる? 祭壇から会衆席って結構よく見えるんだよ。居眠りしてる人なんて一発でわかる」
ヒースは大聖堂内での振る舞いには気をつけようと心に決めた。うっかりリコリスを目で追ってでもいようものなら、ミサ後のこの時間に揶揄われることは疑いない。
「そういう苦手なら、あたしも枢機卿団の連中が苦手だな。どうやらどこの家であたしを養子にするかで争っているみたいで」
「十二家の中でも神子を擁する家の権力が高まるからか?」
「そういうこと。特に現在の教皇を排出したコルティス家があたしを引き入れたがっている。そうしたら、他の十一家は決してコルティス家に逆らえなくなるからね」
リコリスがどろどろとした教会の内情をさらりと言ってのけると、ヒースはげんなりとした顔をした。出自の知れない彼女に辛く当たってみせたと思えば、出世の道具として利用しようとする。清く正しい教会は、聖なる女神の教えは一体どこへ行ってしまったのだろう。
「と、まあ、嫌いなものの話はこんなところにして、と。次は好きなものの話をしようか。
あたしが好きなものはイチゴやブドウかな。寄進があったときにたまに一粒くらいだけわけてもらえることがあるんだけど、それがもう美味しくて美味しくて」
「イチゴなら今が時期だし、来週持ってきてやろうか? 確かマルシェで売ってたはず」
「それもいいけど、カフェ・オレゾのイチゴタルトが絶品だって聞いたことがあるし、せっかくだからそれ食べてみたいなあ」
カフェ・オレゾとはこのディオースで美味しいと評判の喫茶店で、年齢問わずに女性に人気の店だ。この店でリコリスが食べたいといっているタルトをテイクアウトしてくることもできなくはなかったが、店の扉を潜るのがそもそも独身男のヒースには敷居が高い。
「っていうかよくそんな店の名前まで覚えてるな……」
「最近信徒の女の人たちの間で話題だからね。食べてないと流行遅れ扱いされるしね。でさ、せっかくだから一緒に行こうよ。デートしよ、デート」
「で、デート!?」
思わず動揺でヒースの声が裏返った。デートなんて単語、ミュゲと結婚した二十年前からとんと耳にしていない。
「俺とお前が並んで歩いていたら、良くて親子、悪ければよからぬ関係だと思われるぞ?」
「あたしは構わないんだけどな。ヒースとならよからぬ関係、なりたいんだけど」
「……」
ヒースは深々と嘆息した。こうして毎週日曜日のミサの後に会うことは了承したが、男女の関係になることまでは承諾した覚えはない。ジャブのように時折り挟まれるリコリスのいたずらっぽい口撃には閉口させられていた。
それはそうとさ、とヒースの気を知ってか知らずか、なんてことはないふうにリコリスは話題を巻き戻した。
「来週のデートは決定事項として。だいぶ脱線しちゃったけど、ヒースは何が好きなの?」
「そうだな……」
今でも鮮明に脳裏に蘇る、控えめな彼女の笑顔。自分が贈ったエプロンを着てキッチンに立つ姿。鍋から立ち上るあの香り。じわりと視界が滲むのを感じて、ヒースはきつくまぶたを閉じる。途切れ途切れの掠れた声が声帯を震わせる。
「妻の……ミュゲの、作ってくれた………シ、チュー……」
答えているうちに瞼の奥から涙が溢れ出てくるのがわかった。もう食べられない、もう会えないという事実が喉の奥をせりあがってきて、嗚咽へと変わった。
「も、う……食べられない、のも……会え、ないのも……わかっ……ていても、どうしても……忘れ、られないんだ……あい、つの味が……あいつの……ことが……」
ぽたぽたとヒースの頬を伝い落ちた涙が地面を点々と濡らした。唇を強く噛み、うっうっと押し殺した泣き声を上げるヒースを見ていられなくて、リコリスは彼の頭をぎゅっと正面から抱きしめた。
「大丈夫、大丈夫だよ。忘れる必要なんてない。今、ヒースに必要なのは悲しみや痛みと共に生きていくことだから。だから、いつまでだって、奥さんのことは覚えていたらいい」
こらえきれなくなったのか、うああっと声をあげてヒースはリコリスの腕に縋り付いてきた。それはあの葬儀の日に幼いリコリスが聞いたのと同じ号哭だった。
「大丈夫。ヒースが忘れさえしなければ、いつまでだって奥さんはそばにいてくれる。――その命を終えた者は魂となり、必要とする者のそばにいる。聖典にもあったでしょ?」
「そう……だな……」
「この質問はまたいつかにするよ。そのときまでには、ヒースの答えにあたしの名前を含めてもらえるように、あたしも頑張らないと」
リコリスはぽんぽんと幼子をあやすようにヒースの背をさする。ヒースの背は常よりも熱く、ひくひくと上下動を繰り返し続けていた。
ヒースが泣き止んで我に返るまで、二人はずっとそのまま抱き合っていた。頭上では午後五時の鐘が響き、辺りには夕方の朱色と夜の藍色が混ざり合って満ちていた。
「お待たせ、ヒース! ごめんね、支度に手間取っちゃって」
リコリスがゴリ押しのようにデートの約束を取り付けた翌週の日曜のミサの後、いつもよりも三十分ほど遅く、彼女はいつもの場所に現れた。ぐしゃぐしゃと彼女の靴の下で下萌が鳴る。円清の下には綿雲がそそ風に戦いでいる。ヒースはシャツの襟元を正し、無精髭のなくなった顎を落ち着かなげに撫でる。
元は白だったのだろうが黄ばんでしまった粗末な麻のブラウスに、首元の痣を隠すためのスカーフ、つぎはぎだらけの茶色いスカート。リコリスの私服なのだろうが、デートという単語には程遠い服装だ。
「ごめんね、こんな格好で。これしか持ってなくってさ」
「それは構わねえが……本当に抜け出して問題ないのか?」
「全然大丈夫。シスターたちはまだミサの片付けやってるし、司祭や司教たちは午後は会議だからバレようがないよ。どのみちバレたところで放っておかれるんだけどね」
それじゃあ早く行こう、とリコリスはそっとヒースのジャケットの袖口を掴んだ。ヒースは一瞬固まっていたが、はあと溜息をつくと、リコリスの手を振り解く。そして、ヒースは子どもにしてやるように手を繋ぎ直すと、リコリスを連れて地面から草の芽が顔を出し始めた墓地を出た。
教会を出てすぐの広場は、ミサの直後ということもあって人々で賑わっていた。富裕層狙いと見られる物乞いの姿もあちらこちらで散見された。
老舗のビストロに洗練されたリストランテ。カジュアルなトラットリアに夜になると街の人々や巡礼者で賑わう酒場。教会前の広場を抜けると、二人は様々な飲食店が立ち並ぶ中央通りを歩いて行く。
(――この辺り、ミュゲが元気だったころによく来たな。記念日の食事をあそこの角の店で――)
(……この辺、あたしが昔物乞いしたりゴミ漁りしてた場所だ……。飲食店が多いこの辺りは残飯が多いから……)
手を繋ぎながらも別々のことを考えていた二人は、ふいに通りすがりの人からじろじろと観察されていることに気づいた。なあ、とヒースは傍らを歩く少女に耳打ちをした。
「天恵の神子様がこんなところを出歩いてるせいで周りから見られてるぞ」
「これはあたしのせいじゃないよ。どっちかっていうとヒースのせい。五年間ずっと浮浪者みたいな格好で世捨て人みたいな生活をしていたヒースが急に身綺麗になって、最近はいそいそとマルシェに通ってるって。その上白昼堂々若い娘を連れ歩いてるとなったらまあ当然だよね」
「ほぼ原因お前じゃないか!」
「ちょっとよくわかんないなあ」
リコリスはわざとらしさを隠そうともせずに小首を傾げてみせる。そして、ぎゅっとリコリスは強くヒースの手を握り返すと囁き返す。
「あんな連中、気にしなくていいよ。あたしたちは別に後ろ指さされるようなことをしてるわけじゃないんだから。こんなことでおどおどしてたら格好のゴシップのネタにされるだけ。堂々としてよう」
それにもうヒースの変貌に関してはネタにされてるんだし今更だよ、とリコリスは笑う。確かにそれはリコリスの言う通りなので、気にするのも馬鹿馬鹿しいかとヒースは肩をすくめた。
(まあ、こんなことでもこの子が笑ってくれるのならいいか)
釈然としないながらも、ヒースはリコリスの手を引いて歩く。すると、曲がり角から茶色いトラ猫がひょいと姿を現した。
「あっ、ねこっ」
ひょいとヒースの手からリコリスのそれが離れる。リコリスは地面にしゃがみ込むと、ネコの鼻先に自分の手を近づけた。しかし、猫はシャーッとリコリスに威嚇すると、踵を返し、元来た道を引き返していってしまった。
「あーあ」
リコリスはしゅんとして肩を落とす。年齢よりも幼く無邪気な一面が可愛らしいな、とヒースは感じた。猫を見つけては歓喜し、その猫に袖にされては落ち込む。その子どもっぽさが愛しく尊いと思ってしまった。
(いやいやいや、こいつの強引さに感化されたわけじゃない。今のは子どもに対する大人の一般的な感性だ。特別な意味はない)
そう己に言い聞かせると、ヒースはリコリスに手を伸ばし、彼女が立ち上がるのを手伝う。先ほどよりも自然に手を繋ぎ直すと、ヒースは何気ないふうを装ってリコリスへこう問うた。
「猫、好きなのか?」
すると、リコリスはこくりと頷いた。彼女の視線はまだ未練がましく、猫が消えていった曲がり角に向けられている。
「神子としての模範解答をするなら、この世に生きとし生けるものすべてを愛しく尊いと思っているよ」
「お前個人としての回答は?」
「四つ足のもふもふした哺乳類は大体好きなんだけど、猫は特別かな。捨て子だった時代には食べ物を分け合ったりして仲良くしてたんだけど今はもうダメみたい」
修道服につけてた香のせいかな、とリコリスは自分の手首をすんすんと嗅いでいる。それを見ながらヒースはうーんと唸った。
(猫飼ってるから見にこない? は駄目だよなあ。家に女連れ込む男の常套句だしなあ。っていうか、そもそも俺、猫飼ってないし。……でも年頃の女の子だ、もうちょっとだけでもましな格好をさせてやりたいよな)
「ヒース、どうしたの? なんか難しい顔してる」
「気にするな、大体お前のせいだ」
「それで気にするなってのも無理があるでしょ。それより早く行こうよ。人気のカフェだから売り切れちゃうかも」
はいはいわかったよ、とリコリスに手を引かれる形になってヒースは歩き出した。自分がリコリスの手を引いていたはずがいつの間にか逆になっていたのがなんとなくおかしかった。
二人がカフェ・オレゾに辿り着くと、日曜日の昼下がりということもあって、大変賑わっていた。先客が数人いるということで、二人はメニューを見ながら待つこととなった。
「わあ、これが噂のイチゴタルト! すっごいきらきらつやつやしてて宝石みたい! だけど、あっちのイチゴパフェも美味しそうで捨てがたい!」
悩ましいのか、メニューに描かれたイラストを眺めるリコリスの表情がくるくると変わる。年相応の少女らしくきゃあきゃあと早口に捲し立てるリコリスをまあまあ、とヒースは制する。
「気になるならどっちも頼めばいいだろう? 俺がパフェを注文するから、それをつまめばいいだろ? どのみち俺一人でこのパフェを食べきるのは難しいしな」
そういうなら、とリコリスは引き下がる。ヒースはメニューをぱらぱらとめくり、飲み物のページを開く。
「お前は何飲むんだ? 俺はブレンドコーヒー一択だけど」
「……ヒース、もしかして甘いの苦手?」
「それが酒飲みの性なんだからしょうがないだろ」
「ごめん……なんかあたし一人だけ盛り上がっちゃって……。無理やり連れてきちゃったみたいだね」
「別にそんな顔させたくて連れてきたわけじゃない。それに、俺もここのコーヒーが美味いらしいって最近マルシェで聞いて気にはなってたしな」
「それならいいんだけど……本当に大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫だって。俺のことは気にしなくていいから好きなの選べ」
「じゃあこのクアトロベリーティーっていうのを。なんか期間限定って書いてあるし」
「期間限定に釣られるとはとんだ俗物の神子様だな」
今はいいの、とリコリスは頬を膨らます。そういった仕草がいちいち幼くて、何かをヒースの心を掻き回していく。
「今は神子アプローズじゃなくて、ただのリコリスだからいいの。リコリスはイチゴが大好きな女の子なんだから、何も問題ないでしょ?」
ヒースがメニューの下部の小さな文字に目を凝らすと、「※イチゴ、ラズベリー、ブルーベリー、クランベリー」と記されていた。確かにこれは俗人のリコリスでなければ頼むのを躊躇う。教会では秘伝のブレンドのハーブティーか水しか口にしないのが常だ。ワインも口にしないことはないが、それもミサや儀式のときだけだ。
先客たちが店員に案内されていくと、やがて二人の番がやってきた。二人は隅のテラス席に案内されると、椅子に腰を下ろした。こういったときには椅子を引いてやるのがマナーだったな、とヒースは席についてから思い出す。こういったことが久々だとはいえ、男として不甲斐ない。
「ご注文はどうなさいますか?」
店員はヒースへとそう問うた。ヒースはこれと、これと、とメニューの上に指を走らせながら店員に注文を述べた。
「イチゴパフェとブレンドコーヒー、イチゴタルトとベリーティー」
クワトロベリーティーね、とリコリスが横から訂正を入れる。店員はかしこまりましたと恭しく一礼すると去っていった。
「大丈夫か、寒くないか?」
「大丈夫、ありがとう」
日が翳り始め、風が冷たくなってきていた。先ほど午後三時を告げる鐘が鳴っていたので、今は午後三時半ごろだろう。
ほどなくして、注文した品がテーブルへと運ばれてきた。リコリスの前にイチゴタルトとクワトロベリーティーが、ヒースの前にイチゴパフェとブレンドコーヒーが置かれる。ごゆっくりどうぞと店員はトレイを持って去っていった。
「いただきます」
リコリスは手を合わせると、フォークを手に取った。きらきらと光る大粒のイチゴにリコリスがフォークを突き立てているのを見ながら、ヒースはぼんやりとブレンドコーヒーのカップを傾けた。
(ん……おお、これはなかなか。評判になるのも納得だな)
酸味と甘味の絡まり合った奥深いコクを楽しみながらも、ヒースは思考の半分では先ほどの思いつきをいかに実行に移すかを考えていた。ナンパっぽいのはよくない。だが、本人の好みも考慮したい。
気づけば向かい側でタルトをつついていたリコリスが小首を傾げていた。いつの間にかタルトは残り四分の一ほどになっていた。
「どうしたの、ヒース。さっきから上の空じゃない? 何か考えごと?」
「いや、何でもない。それより、こっちも食ってみるか?」
ヒースはティーカップをソーサーの上に戻すと、パフェのてっぺんの大粒のイチゴとホイップクリームをスプーンですくってリコリスに食べさせてやる。リコリスは口を開け、スプーンに食いつくと、蕩けそうな笑みを浮かべた。
「わあ、こっちもおいしい!」
「そりゃよかった」
ヒースはリコリスに食べさせたスプーンでパフェをすくうと、自分の口へと運ぶ。半分にスライスされたイチゴは甘酸っぱく、クリームは甘すぎずくどくない味わいだった。
(へえ、普段はほとんど食わねえけど、甘いものも悪くはないな。思ったよりすっきりしていて食べやすい)
「ほら、もう一口食っとけ」
もう一口分ヒースはスプーンでパフェをすくうとリコリスの口に運んだ。リコリスは少し躊躇った後にパフェを口に頬張った。
ヒースはパフェを食べすすめていると、もぐもぐと口を動かしていたリコリスが何やらもじもじとしていた。どうかしたか、とヒースは彼女を気遣う言葉をかける。
「もしかして冷えたか? 茶のお代わり頼むか?」
「……口」
「口?」
「か、間接キス……初めてだったのに」
「たかが間接キスで騒ぐなよ。自分を〝女〟にしろとかなんとか迫ってきた奴がこの体たらくでどうするんだよ」
それはそうだけど、とリコリスは居心地悪そうに視線を逸らす。ヒースはリコリスの顎に指を這わせると、顔を近づける。
「何なら本当にキスしてみるか? どうせそっちも初めてなんだろ?」
「そ、それは……」
二人の鼻と鼻が触れ合う。息に混ざるコーヒーの苦味とイチゴの甘酸っぱさが交錯する。
二人の視線が絡み合う。リコリスの赤の双眸が不安と微かな期待で潤んだ。
「悪い。冗談が過ぎた」
軽くリコリスの鼻先に唇を触れさせると、ヒースは彼女から顔を離す。あまりのことにリコリスは顔を耳まで真っ赤にさせていた。
「もおおおおお! 何するの!!」
「こういうことがお望みかと思ったけど違ったか。すまん」
「そうだけど、そうじゃなくて!! もう、ヒースのばかっ」
「ほら、声を抑えろって。あんまり騒ぐと店に迷惑だし、今日の夜にはディオース中を噂が駆け巡るぞ」
「誰のせいだと思ってるの!!」
「だから悪かった、やり過ぎたって。もう一杯、茶を奢るから落ち着けって」
ヒースは目配せで店員を呼ぶと、季節のフレーバーティーを注文した。しばらくするとミモザティーなるものが店員によって運ばれてきて、それを口にするころにはリコリスも平静を取り戻していた。
「そういえばお前、好きな色とかあるのか?」
なんてことはないふうを装って、ヒースはリコリスに探りを入れた。んー、とリコリスは鼻に抜けていくミモザの香りを楽しむと、ヒースの問いに答える。
「好きな色は特にないかな。嫌いな色はあるけど」
好き嫌いが激しそうに見えるリコリスにしては意外な答えだった。嫌いな色? とヒースは聞き返した。
「赤と青。あたしの運命を縛る色だから」
終滅の夜の月の赤色。選定の儀式の夜の月の青色。そして、青く光る双眸と薔薇の痣。それはリコリスが嫌っているものの色だった。
「じゃあ、好きな服のテイストとか」
「服なんて着れれば何でもいいよ。そんなのにこだわれる環境で育ってこなかったし。強いて言えば首元が隠れる服が好きかな」
うーんとヒースが唸っていると、ミモザティーを飲み干したリコリスが訝しげに眉根を寄せた。煮えきらない態度のヒースにリコリスは舌鋒鋭く追及する。
「さっきからどうしたの? ヒース、何か変だよ」
それに対していや、あの、とヒースは歯切れの悪い返事をする。しかし、じっとりとしたリコリスの視線に負け、ヒースは口を開いた。
「なあ、今度うちに来ないか?」
「え、あ、そういう……そういうこと!? 確かにあたしもそういう関係になりたいとは言ったけど、ちょっと大人の階段をすっ飛ばし過ぎなような気がっ……」
だから嫌だったんだよと思いながらヒースは深々と溜息をつく。男が女を家に誘うというのは、大体の場合そういう意味でしかない。
「喚くな、この色ボケ娘。俺はただ、妻が若いころの服をお前にやりたかっただけだ。お前みたいな若い娘がそれしか服を持ってないんじゃなんだからな」
「あ、そういう……」
リコリスはほっとしたような残念なような思いだった。成人済みだとはいえ、まだまだ子どもの部分をヒースには見抜かれてしまっているように思う。大人の女ならこの程度のやりとりはクールにいなせないといけないに違いないとリコリスは心に刻み込んだ。
「そういうわけだから、来週も今週と同じ場所でいいか? うちに来るのが嫌だったら嫌って言っていいんだぞ。適当に似合いそうな服見繕ってくるから」
「ううん、行く。行きたい」
「わかった、それじゃあ来週、いつもの時間にいつもの場所で」
それじゃあそろそろ行くか、とヒースは腰を上げる。リコリスも椅子から立ち上がる。
「ありがと、ヒース。今日、楽しかった」
「来週もその言葉を聞けるようにせいぜい頑張るよ」
ヒースはジャケットの内ポケットからカーキの革財布を取り出すとさらりと二人分の会計を済ませた。教会前の広場まで送っていく、とリコリスと手を繋ぐとヒースは歩き出した。
午後五時を過ぎたディオースの街にまだ冬の気配が残る風が吹き抜けていった。中央通りの街灯にはオイルランプが灯り始めていた。
木々の蕾から桃色の花びらが解け始めた日曜日。先週より更に遅いなあと思いながら、教会墓地でヒースはリコリスを待っていた。
「ごめんね、遅くなっちゃって。司祭様に捕まっちゃってさ」
息を切らして、リコリスが先週と同じ姿で駆け寄ってくる。光風がリコリスの継ぎ接ぎだらけのスカートの裾を翻していく。
「それは構わないが……司祭様とやらは大丈夫だったのか?」
「大丈夫大丈夫、適当に話切り上げて逃げてきた」
「おいおい、仕事の話ならちゃんとしてこいよ。ここクビにされて浮浪者に逆戻りにでもなったら洒落にならないだろ」
「大丈夫、あたしこの世で唯一の天恵の神子様だから。あたしをクビにしたら世界が滅びちゃうよ」
実際は先日、カフェで騒いでいた話が司祭たちの耳に入り、神子らしい言動をするようにと小言を食らったのだが、それは伏せておく。そんなことを伝えてこれからのお家デートを台無しにしたくなかった。
「それより早く行こうよ。今日これよりマシな服くれるっていってたから楽しみにしてたんだ」
リコリスはあたかも恋人のように指を絡めてヒースと手を繋ぐ。ヒースはされるがままで抵抗しなかった。
「散らかってて悪いな」
住宅街の端の方にあるランズバーグ家にリコリスを招き入れると、ヒースは照れ隠しのようにぶっきらぼうに言った。ミュゲが亡くなってからというもの、独り暮らしのこの家に誰かを招き入れるのは久しぶりだった。
「おじゃまします」
入ってすぐは買ってきた食材やら何やらで散らかったキッチンとダイニング。その奥のベッドルームには寝乱れたシーツのダブルベッドやぐちゃぐちゃの本棚とベッドサイドテーブルがある。謙遜でも何でもなく本当に散らかっていた。しかし、一応人並みの生活をようやくし始めたばかりなのだから、これでもまだ上出来だろう。
「すぐに茶でも入れる。適当にその辺に座っといてくれ」
ヒースに促されてリコリスは手近にあったダイニングチェアに腰掛ける。ヒースは水瓶からポットに水を汲むと、マッチを擦って竃に火を入れる。そして、ポットを竈に掛けると、棚をゴソゴソと弄り、茶葉の入った缶とティーポットを取り出した。
その様子をリコリスがなんとはなしに眺めていると、ヒースは蓋を開け、缶を逆さにしてぽんぽんと底を叩き始めた。ぎよっとしたリコリスはすかさず待ったをかける。
「待って待って待って、それじゃあ茶葉入れすぎだから! ヒース、お茶の淹れ方って知ってる?」
「これでいいはずだが……妻もこれで美味しいと飲んでくれていたし……」
ミュゲのことを引き合いに出されたのはちょっとむっとしたが、それは腹の底にしまっておくことにする。リコリスは椅子から立ち上がると、キッチンに立つヒースの横に並ぶ。
「ヒース、ティースプーンある?」
「ああ、あるが……」
ヒースは食器棚をごそごそと漁ると、錆びかかったティースプーンを一本持ってきた。食器も五年も使わなければこうなってしまうのかと思いながらも、リコリスは錆の問題は一旦横に置いておくことにする。
「茶葉はティースプーンに人数分の回数プラス一回。茶葉の種類によって量は変わってくるかもしれないけど、基本はこれだから」
「な、なるほど……」
「あと、お湯が沸くまでにティーカップを出しておいて」
リコリスの指示に従って、ヒースは食器棚から茶渋だらけのカップを二つ取り出した。どんな保管の仕方をしていたのか、うっすらとヒビが入っている。リコリスは小さく肩をすくめた。
(カップとスプーンがこの惨状なら、食器棚の中身を全部買い換えろと言いたいところだけど、それは酷だよね。どれも奥さんとの思い出の詰まった品だろうし)
ふつふつとお湯が沸く音がキッチンに響く。リコリスはお湯、とヒースに次の指示を出す。
「ティーポットとティーカップに注いで」
「カップにも?」
「そのほうが美味しく飲めるの。覚えておいて損はないよ」
なるほど、と言いながらヒースはお湯を入れたばかりのティーポットへ触れる。
「何してるの?」
「もうそろそろ淹れられるかと思って」
リコリスはヒースの鼻先にずいと人差し指を押し付ける。そして、気が早い! と唾が飛びそうな勢いでまくし立てた。
「まだ一分も経ってないじゃん! 茶葉にもよるけど、普通、紅茶って三分から五分くらいは蒸らさないと駄目なんだよ」
「……」
おそらく生前のミュゲが飲んでいたのはうっすらと色がついたとにかく白湯に近い何かだ。リコリスはそれを美味しいと言って飲んでいたミュゲに同情を覚えた。不器用な夫の心遣いを思えば、言いたくても言えなかったのだろう。リコリスはあまり彼女のことを知らないが、あまりそういうことを言いそうにない奥ゆかしそうな人だった。
三分が経つと、リコリスはカップの湯を流しに捨てた。流しには白いクリームに覆われた錆びついたボウルと泡立て器、茶色っぽくくすんだ液体の付着した包丁とまな板が放置されていた。あとでこれも何とかしないとな、と思いながらリコリスはポットを手に取ると何となく黴くさい琥珀色の液体を二つのカップに注いだ。
(大丈夫、大丈夫。紅茶も広義の発酵食品だし。そもそも捨て子時代にカビの生えた食べ物とか慣れてるし)
ダイニングテーブルの上の邪魔な荷物を一旦床にどけ、ティーカップ二つをリコリスは置く。すると、ヒースはどこに置いていたのやら、皿に乗った白いクリームまみれになった三角形の食べ物を持ってきた。ところどころから赤色っぽい何かが顔を覗かせている。サンドウィッチだろうか。
「この前、カフェでタルトやらパフェやらを美味そうに食ってただろ。甘いのはそんなに好みじゃないが、お前が好きそうだから作ってみた。昼飯まだだろう? よかったら食え」
クリームを突き破るようにして顔を覗かせている物体がおそらくイチゴであることをリコリスは悟った。リコリスは再びダイニングチェアに腰掛けると、両手を合わせる。
「ありがとう、いただくね」
おう、とヒースはダイニングチェアを引き、リコリスの正面に腰掛けた。そして、ヒースはティーカップに口をつけると美味いな、と呟いた。
リコリスは両手と顔を盛大に汚しながら、ヒースが作ってくれたイチゴサンドにかぶりつく。ホイップクリームになりきっていないクリームはべちゃっとして甘みがなく、イチゴの切り方もスライスだったり半分だったりダイスカットだったりと統一性がなかったが、ヒースが真心を込めて作ってくれた食事はこの世の何にも変え難いほど美味しかった。
リコリスの手と顔がべたべたになっているのに気づいたヒースは、待ってろと言うと、飲みかけのカップをテーブルに置いて、玄関とは逆側の勝手口から出て行った。そして、すぐに使い古されたがさがさになったタオルを二枚持って戻ってくるとリコリスにそれのうちの一枚を渡した。ありがと、とリコリスが礼を言うと、ヒースは椅子に座り直した。
「お前、随分と手慣れてるのな」
ヒースは自分の分のサンドウィッチを手で掴む。ヒースの手はリコリスと同様にクリームでべたべたになった。
「十歳のときに、神子としての立場が確立するまでは、シスターたちの手伝いさせられてたから。選定の儀まではあくまでも最も有力な神子候補って扱いだったから雑用でも何でもやらされたよ」
「お前、つくづく苦労してるよな……」
そうでもないよ、とリコリスはサンドウィッチを食べ終えると手と口元をタオルで拭った。ヒースも残っていたサンドウィッチの欠片を口の中に放り込むと咀嚼して飲み下した。
ヒースが汚れてしまった手と口元を拭いきると、あのさ、とリコリスは切り出した。
「来週はマルシェに行かない? 欲しいものがあるんだ」
「欲しいものって何だ? 言っておいてくれれば買っておくけど」
いーの、とリコリスは頬を膨らませた。この男ときたら、気を利かせているつもりなのだろうが、女心がてんでわかっていない。
「言わなきゃわかんないかなあ。買い物デートだよ、買い物デート」
「ああ、そういうことか。わかったよ、じゃあ来週もいつものところで待ち合わせて行くか」
うん、とリコリスは首を縦に振った。リコリスの欲しいものって一体何だろうか。彼女の性格上、あまり高価なものはねだってこなさそうな気がするが、懐具合が心配だ。
「それはそうと、本題に入ろうか」
ちょっと待ってろと、ヒースは席を立つ。そして、ベッドルームのほうへとヒースは姿を消し、しばらく何やらごそごそとしていたと思うと大きな紙袋を持って戻ってきた。
「この前やるって言ってた服だ。持って帰るといい。古いが、たぶん今着てるやつよりはマシだと思うから」
リコリスは床から顔を起こし、ヒースから紙袋を受け取ると、花が咲いたような笑顔を浮かべた。この顔が見れるなら、わざわざミュゲの服を引っ張り出してきた海があるというものだ。
「ありがとう。だけど、本当にもらっちゃっていいの? 大切な奥さんの思い出でしょう?」
「その思い出もしまいこんだままじゃ宝の持ち腐れだろ。誰かが着てくれたほうがあいつも喜ぶ」
本当はいつか娘が生まれたら、と取っておいた服だった。けれど、生来のミュゲの身体の弱さも相まって、それは叶わぬ夢となった。
(こいつは娘とは違うけれど、それでもしまったままよりはずっといい)
そのとき、家の外でごーんと鐘の音が響いた。午後四時を知らせる教会の鐘の音だった。
「今日はそろそろ帰りな。送っていく」
「あたしとしては帰らなくてもいいんだけど? 一応そういうことがあってもいいように覚悟してきたし」
「この前、間接キスであれだけ動揺してた奴がよく言うな」
すっと服の詰まった紙袋を持つと、ヒースは行くぞとリコリスを促した。ダイニングテーブルの上には空になったカップと皿が置かれたままだ。
「あっ、あたし片付けものしようと思ってたのに」
「いいよ、そのくらい俺がやる」
「……この部屋の状況を見ると不安しかないんだけど」
「独り暮らし舐めんなよ」
軽口を叩きながらヒースはリコリスを連れて、玄関へと向かう。リコリスはおじゃましましたと頭を下げるとヒースの家を出た。
「――はあ? 重曹ぅ?」
翌週、リコリスとともにマルシェの雑貨屋を訪れたヒースは驚愕の声を上げた。リコリスがマルシェに行きたいといっていたのは、先週あげた服に合わせる装飾品やら靴やらが欲しいといった娘らしい理由かと思っていたが、全然違ったようだ。
今日のリコリスの出立は薄茶のニットにダークグリーンのミモレ丈スカートという、昔、ミュゲが着ていた服だった。髪の色も目の色も違うというのに、今日、墓地でリコリスと落ち合ったときには感極まって目頭が熱くなった。
「だって、ヒースの家の食器、錆びたり茶渋が染みついたりいろいろしてたでしょ? そういうのには重曹が効くの。他にも掃除に色々使えるしね」
「つくづくお前はそういうことに無駄に詳しいな……」
「得た過程はともかくとして、知ってると生きるのに便利な知識だよ。――おばさん、そこの重曹一袋ちょうだい」
あいよ、と雑貨屋の店主である中年女性は重曹の包みをリコリスへと渡す。これでヒースの家の掃除が捗りそうだ。五年分の澱みを溜め込んだあの家を彼の思い出はそのままに、ぴかぴかに磨き上げたい。
「銅貨五枚だよ」
ヒースはベージュのジャケットの内ポケットから財布を取り出すと、重曹の代金を中年女性に払おうとした。が、ヒースはリコリスが店内のある一点を見つめていることに気づいた。ヒースがリコリスの視線の先を追うと、ジョゼット柄のペアカップが棚の上に置かれていた。片方は白地に灰色の柄が、もう一方には灰地に白の柄が刻まれている。
「――そこのカップ二つもくれ」
ヒースの言葉にえ、とリコリスは目を瞬いた。いいなとは思っていたが、そんなものまでヒースにねだるつもりはなかった。そこまで厚かましい神経は持ち合わせていないつもりだ。
「これからも俺の家に来る気があるなら、お前用のカップも必要だろ?」
「でも、そんなもの置いたら奥さんに悪いんじゃあ……」
「出入りしてる時点で今更だ。それに今日も来るつもりだったろ」
「それはそうだけど……食器の手入れとか掃除とかしたいなって思ってたし」
ほらどうするんだい、と店主の女性に決断を促されると、買う、とヒースは答えた。
「重曹の値段にプラスして銀貨二枚だ」
ヒースは財布から銀貨二枚と銅貨五枚を取り出すと店主の女性に支払った。店主の女性はペアカップを箱に詰め、紙袋に入れると代金と引き換えに手渡した。
それじゃ行くか、とヒースはリコリスの手に自分の指を絡めると、店を出た。あちらこちらで呼び込みをする力強い声やちゃりんちゃりんと硬貨の鳴る音がする。人混みに紛れるようにして二人は歩き出す。
「さて、その辺の出店で飯買って帰るか。何が食いたい?」
「じゃあ、ハンドピザ食べてみたい! ああいうジャンクなの食べてみたかったんだよね」
「それなら、肉屋の向かい辺りに出てるはずだ。寄ってから、かえ……」
ふいにヒースの足が止まり、言葉が途切れた。「ヒース?」リコリスがヒースの顔を覗き込もうとすると、石畳にぽたぽたと透明な雫が落ちた。ヒースは紙袋を腕に抱いてその場に座り込む。
「昔は……こうやって、ミュゲと……買い物に、来て……時には、買い食い……なんかもして……。それで……同じ家に、帰っていくのが、当たり前……だったんだ……。誰かと、買い物に来て……同じ家に帰るのが、久しぶりで……」
リコリスはヒースの正面にかがみ込むと、彼を落ち着かせるようにぽんぽんと背中を撫でた。日常の些細な出来事にミュゲとの思い出を垣間見てしまうのだろう。
「お前は……ミュゲじゃない。ミュゲじゃない、のに……たかが服一つだっていうのに……そこでそうやって、笑っていられると……ミュゲがいる、みたいに錯覚してしまう、んだ……。俺は……最低、だ……」
「そんなことないよ。誰かに他の誰かを重ねてしまうことなんてよくあることだもん。ヒースが特別ひどいわけじゃない。
ねえ、ヒース。あたしはヒースの奥さん――ミュゲさんじゃないけど、あなたの側にいていいかな? あなたがいつか一人でも立てるようになるように、今は側で支えてあげたい」
「俺は……そんな、ふうに……言ってもらえる人間じゃない……。俺、は……ミュゲがいなければ、何もできない……情けない、人間だ……。ミュゲが……いなくなった事実さえ……いつまでも、まともに、受け止められずに……酒と、タバコに……溺れて……」
「そんなことないよ。ほんの少しずつだけど、ヒースはちゃんと前に進んでる。ヒースは自分の歩幅で歩けばいい。今はまだ真っ暗な闇の中でも、必ず出口はあるから。ヒースが光の中に戻れるまで、あたしはちゃんと側にいるから」
残り時間が許す限界ギリギリまでではあるけれど。リコリスは自嘲気味に胸の中で付け足すと、言葉を続ける。
「今はまだ、ミュゲさんの代わりでもいい。ヒースがまた心から笑えるように、あたしの手を取って」
リコリスは右手をヒースの前に差し出す。彼女の手の上にぽたぽたと涙の雫が滴った。
少し躊躇った後に、ヒースはリコリスの手を取った。泣き腫らした目は赤く充血している。
「今はまだ……答えを出せない。それでも、この手に縋ってもいいか?」
「構わないよ。あなたが独りにならないように、孤独の闇に飲み込まれてしまわないように、あたしがあなたの道標になる」
リコリスはヒースの亜麻色の髪を掻き分けると、そっと額に口付けを落とした。リコリスの伏せられた瞳とスカーフの下の首元からは淡く青い光が漏れ出している。
「ヒース・ランズバーグ――あなたに女神リュンヌの祝福を。どうかあなたのこの先の人生に幸多からんことを」
ふっとリコリスの目と首の痣から光が消える。リコリスは優しく微笑むと、握ったままの手を引いてヒースを立ち上がらせた。
「ほら、ご飯買って帰ろ。今日はやること盛り沢山なんだから」
ヒースはジャケットの袖口で涙を拭うと、そうだなと微笑み返した。そして、二人は同じ歩幅で歩き始めた。



