その日は、普段の葬儀を退屈で欠伸を噛み殺しながらやり過ごしている少女にとって印象深いものだった。
 喪主は普通のどこにでもいそうな三十代半ばほどの男。故人もごくごく平凡な同年輩の女だった。
 教会で暮らしている少女にとって、葬儀とは日常茶飯事であり、見飽きたものだった。司祭の説教に紛れるようにしてひそひそと聞こえてくる遺産の分配の話やら、遺児の引き取りの話やら、どろどろとした今後の話にもいい加減うんざりとしていた。
 故人を心から悼む人など、少女はほとんど見たことがなかった。誰もが目先の損得の話ばかりで、それが世の中というものなのだと、幼いながらに少女は世間を知った気になっていた。
 しかし、その日の葬儀は常とは様子が違っていた。喪主の男は涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、慟哭していた。妻と思しき亡くなった女の名を呼びながら、棺の中で眠る女の冷たい手に縋りついていた。
(――へえ、こんな人間もいるんだ。珍しい)
 少女は耳を劈くような男の悲痛な叫びを聞き流しながら、そんなことを思った。聖典を片手に読み上げられる司祭の祈りの言葉など、男の涙声に上書きされて完全に掻き消されてしまっていた。
(ヒース・ランズバーグ、だっけ。そういえば毎週のミサも夫婦で来て、いつも熱心にお祈りしてた気がする)
 いつのころからか夫婦でではなく、ヒースだけを見かけるようになっていた。そしてそのころから、ヒースが祈っている時間が増えていた。あまりにも必死に祈っていたため、何回か司祭に声をかけられていたのも何となく覚えている。
 ヒースの妻――ミュゲは病死だったと聞いている。ヒースが祈っている時間が増えた時期から鑑みるに、そういう事情だったのだろうと少女は悟った。彼は最愛の妻の病の治癒を心から祈っていたのだろう。
 少女はそっと両手を合わせると目を閉じる。ミュゲの冥福と、ヒースの今後の人生の先行きを祈りたかった。
 少女の閉じた瞼の内側と修道服の首元からほんのりと青い光が漏れ出した。相変わらず大聖堂の中では途切れ途切れの司祭の祈りと、泣き叫ぶ男の声が聞こえ続けていた。

 聖歌が響き渡っていた大聖堂は、先ほどまでの厳かな雰囲気などどこに行ったのか、信徒たちのぺちゃくちゃとした話し声で充満していた。どこの誰が誰と不倫していただの、誰それが多額の借金を抱えた末に夜逃げしたらしいだのといった醜い噂話。そんな話を女神リュンヌの前でするなよと思いながら、肩までの黒髪に赤の双眸を持つ修道服の少女は呆れ返って肩を竦める。ステンドグラスに描かれた女神リュンヌはこの下卑た人々のことを一体どう思っているのだろうか。
 シスターたちは慣れたふうに曖昧な笑顔で信徒たちのお喋りを受け流しながら、ミサの片付けを始めている。残ったパンは麻袋にぞんざいに投げ込まれ、ワインは木樽の中へと戻されていく。天と地を尊び、食べ物への敬意を忘れないという女神の教えは一体どこにいったのか。
 パンのかすを箒でかき集めているシスターがいるが、手伝う気にもならない。大聖堂の角の壁に寄りかかってミサの後片付けを眺めていた少女は、チャーチベンチの間に敷かれた赤い絨毯の上に歩を進め、出口へと向かっていく。そして、彼女は美しい細工が施された扉をそっと開けると、猫のような動きでするりと外へと抜け出した。どのみち煙たがられている身の上だ。後でこれ見よがしに陰口を叩かれようとも、ここにいないほうが気が楽だ。
 春のはじめの昼下がりの空気はまだ冷たい中にもどこか柔らかさが感じられた。空には霞がかかり、灰色を帯びている。少女は行儀悪く修道服のポケットに手を突っ込むと、歩き出した。
 敷地内に埋められた蕾の綻び始めた木々の下を少女は進んでいく。冬中降り積もった雪は木漏れ日を浴びて溶けつつあり、足元の土の色と混ざり合っていた。彼女の足元で春泥がぴちゃりと跳ねる。
 教会の庭を抜け、建物の裏手に回り込むと、閑散とした墓地があった。木々の葉の間から漏れる陽の光を背に浴びて、中肉中背の汚れた身なりの男が一つの墓の前で祈りを捧げている他は人気はない。
(――あの人)
 先ほどのミサで見かけた男だった。今日だけでなく、先週も先々週もずっと前から毎週ミサに訪れては熱心に祈りを捧げている敬虔な信者だった。
「天にまします女神リュンヌよ――」
 少女は祈りを捧げている男をしばらく眺めていた。祈りの言葉が最後に近づくと、背後から男へと歩み寄った。ざく、と泥混じりの氷が足元で鳴る。
 人の気配に気付いた男が振り返った。鳶色の双眸の白目は充血し、赤味を帯びていた。
「――っ、あなたは……」
 振り返った男は少女の姿を認めると、息を呑む。そして、目元の涙をネイビーのニットの袖で拭うと、彼は恭しく泥混じりの地面に頭を垂れる。
「大変お見苦しいところを失礼いたしました。――神子アプローズ様」
 構わないよ、と少女はかぶりを振る。無精髭が生え、酒と煙草の入り混じった香りを漂わせる男の姿は痛々しく少女の目に映った。
「大切な人を悼むのに見苦しいなんてことはない。世の中、身近な人間の死すら悲しめない人間のほうが多いんだから」
「そういうものでしょうか……?」
 そういうものだよと頷くと、少女は目の前の男の頭の天辺からぼろぼろの靴先まで視線を走らせた。ぐしゃぐしゃに乱れて絡まりあった亜麻色の髪。泣き腫らした鳶色の双眸。伸ばしっぱなしのざらざらとした無精髭。目に光はなく、背は丸まっている。少女はこの男の名を知っていた。
「あなた、ヒース・ランズバーグでしょう?」
「……どうして、俺の名を?」
「もう五年も前のことだけど、奥方の葬儀の際に珍しく心から涙していた人だったから印象に残ってる。毎週のミサもいつも熱心に通ってくれているでしょう?」
 さらりと少女がそう告げると、ヒースはたじろいだ。まさか一信徒に過ぎない自分が、そんな恥ずかしい形で神子に覚えられているとは思わなかった。
「う、わ……アプローズ様にそのような醜態を見られていたとはお恥ずかしい……あのとき、俺は自分のことばかりでいっぱいいっぱいで……」
「恥ずかしくなんてないよ。寧ろあたしからすると、あなたのような人間の方が好ましく思えるよ。世の中、醜い人間が多いから、亡くなった誰かのことを心から想って泣ける人なんてそうはいない。
 こうやって教会なんかで暮らしていると、人間社会の汚さを目にすることが多くてね。たとえば、故人を偲ぶことなく遺産相続で揉める大人たちとか、ね」
「そう……ですか」
 そう言って俯いたヒースの耳はほんのりと赤らんでいた。妻の死から五年も経っても立ち直れない情けない男と陰口を叩かれることはあっても、これまでこんなふうに自分を肯定してもらえることなどなかった。
 それでもね、と少女は雪泥で修道服の裾を汚さないように気をつけながらヒースの横に膝を折ってしゃがみ込む。気の強そうな少女と遠慮がちな男の赤と鳶色の視線が交錯する。
「あなたは毎週ミサに顔を出してくれるからまだいいけど、その生活の乱れ方は心配かな。まともに食べてる?」
「う……」
 少女の指摘にヒースは口ごもった。少女の言う通り、ヒースの生活は妻が亡くなってからというもの、がたがただった。栄養バランスを無視した必要最低限度の食事しか口にしておらず、まるで水を煽るかのように酒ばかり飲んでいる。近頃では少量でより酔えるということで、飲酒時の喫煙まで覚えてしまった。
「あの……俺、もしかして臭います?」
 そんなにかとヒースは自分の服をくんくんと嗅いだ。恐らく臭いのだろうが、それが彼にとっての日常になってしまっているせいで、彼の嗅覚は何も嗅ぎ取ることはできなかった。
「うん、とても。酒臭いしタバコ臭い。清貧を是とするリュンヌ様もだけど、何よりそんなんじゃ亡くなった奥さんに合わせる顔がなくない? それにあなたがそんな世捨て人みたいな生活してるんじゃあ、奥さんが悲しむでしょ」
 それだけ想える人がいるというのは羨ましくも思うけれど、と少女は淡く微笑んだ。彼女は愛を知らない。
「俺は妻を悲しませたかったわけではなく……いや、これは言い訳ですね。妻を亡くして可哀想な俺、というのに酔っていたのかもしれません。さすがは神子、アプローズ様のご慧眼には恐れ入ります」
「あたしがいいたかったことをわかってくれたのは嬉しい限りだけど……その、アプローズ様っていうのやめない?」
 へ、とヒースの口から間の抜けた声が漏れた。少女は構わずに続ける。
「――リコリス」
「え?」
「あたしの俗名だよ。そう呼んでほしい」
「は、はあ……リコリス様がそう仰るのなら」
 少女――リコリスはちっちと顔の前で人差し指を振ってみせる。そうじゃないよとヒースを見るその顔は見た目の年齢相応に小生意気だ。
「リコリス。ただのリコリス。敬称も敬語もいらない」
 そう畳み掛けてくるリコリスに呑まれて、ヒースはああ、と了解の意を込めて首を縦に振った。自分にとって、神子とは敬うべき存在だが、本人がそれを希望するのだから仕方がない。仕方がないとは思うものの、神に石を投げるような後ろめたさがヒースの胸に去来する。
「あたし、捨て子なんだよね。物心ついたときには、この名前以外何も持ってなかった」
 リコリスは大聖堂のほうを振り仰ぎ、緋色の目を細めると言葉を続ける。大聖堂に連なる尖塔の先では、薔薇と月の意匠の紋が刺された旗が風に戦いでいる。
「あのままじゃ飢え死にしていたあたしを拾って保護してくれた教会には感謝はしている。けどね、教会はあたしを当代の神子に仕立て上げ、あたしが唯一持っていた名前さえも取り上げたんだ」
「仕立て上げたとはどういうことですか?」
「敬語」
 リコリスはじっとりと半眼でヒースの顔を見やる。仕方なしにヒースは自分も言葉を崩すことにする。
「ええと、仕立て上げたとはどういうことだ? 神子というのは、終滅の夜(エクリプス)が近づいた青い月の夜に行なわれる選定の儀式によって決まるものだろう? 儀式で選ばれた最も聖力の高い子どもに神子の証である薔薇の痣が刻まれるって」
 うんうんと満足げにリコリスはヒースの言葉を首肯する。さすがは敬虔な信徒なだけあって、彼が口にした内容は正確だ。
「よく覚えているね。日曜学校のテストなら百点をあげたいところだ。だけど、ヒース、あなたが知っているのはあくまで聖典の中での話だ」
「伝承と現実は異なっているということか?」
 そういうこと、とリコリスは頷く。そして、リコリスは修道服の襟元を開き、自分の首筋をヒースへと見せた。
「あたしには生まれつきこの痣があった。それを見つけた教会の人間が捨て子だったあたしを保護して、神子に仕立て上げた。
 選定の儀式なんて形ばかりのものだよ。他に候補の人間もいない中、あたしだけで行なわれた。儀式なんて、教会が威厳と神聖さを保つためだけに行なわれるくだらないものに過ぎない」
「そんな……」
 教会の内情を知らされてあっけに取られたヒースを横目にリコリスは哀しげな微笑を浮かべた。教会の上辺の清らかさしか知らないヒースには些かショッキングな話であったことが彼の反応から窺える。
「別にいいの。他の子どもが神子に選ばれるよりはずっと」
「何故?」
「だって、他の誰かが選ばれるっていうことは、他の誰かがこの先の人生を諦めるっていうことだから。どこかの親が世界のためにその誰かの生命を差し出さなければならないということだから。
 あたしには親も兄弟も――家族なんていない。だから、あたしが神子になることは、世界にとっても教会にとっても都合がいい」
 そう言ったリコリスの口調はその年齢らしからぬ諦観に満ちていて、ついヒースは口を挟んだ。天涯孤独は人生を諦める理由にはならない。
「そんなの……! そんなのって不公平じゃないか! どうしてお前だけが生きるのを諦めることを強いられなければいけないんだ!」
 不平等ね、とリコリスはヒースの言葉を反芻すると、嘲るように口を開く。初めて話す小娘の境遇にこんなふうに憤れる彼はやはり優しい人間なのだろう。
「あたしの立場でこんなことを言うべきじゃないんだけど、人間はこの世に生を受けた瞬間から須く不平等なの。女神リュンヌが説いた平等なんて、最早聖典上だけの言葉で意味なんて何十世紀も前に形骸化してる」
 まあ何にしてもありがと、とリコリスは修道服の首元を閉じると赤い眸(ひとみ)を片方だけ閉じてみせた。彼女にとってヒースの怒りは、たとえ表面上だけのものであったとしても嬉しいものだった。
「たとえ上っ面だけでもそんなふうに言ってくれた人は初めてだよ。少しだけ救われた気分だよ」
「俺は上っ面とかじゃなく……」
 むすっとした顔で畳み掛けてきたヒースに失礼、とリコリスは手で制する。今のは失言だった。
「悪かったね。あなたは上っ面だけの言葉は言わない人だ。普段の振る舞いや今のやり取りだけでそれがよくわかったよ。
 人にまっすぐな心からの言葉を向けられることに慣れていなくてね。どうしたらいいのかちょっと迷った。あたしは生まれてこの方ずっと独りだから」
「……寂しくないのか?」
 そう問われてリコリスの赤の双眸に影が揺れた。彼女は愛を知らないが、寂しさの何たるかも知らない。彼女は独りごちる。
「寂しいって何なんだろうね。教会に拾われる前も独りで、ここで暮らすようになってからも教会の人たちには厄介者扱いされてるからよくわからないや」
 厄介者? とヒースはリコリスの言葉が不可解で眉を顰めた。どうして神子ともあろう者が敬われこそすれ、冷遇されなければならないのだろう。
「お前は世界を救う天恵の神子だろう? 尊ばれることこそあっても、何で疎まれなきゃいけない?」
「あたしが捨て子だったからだよ。何で神聖なる血筋じゃなく、身元も知れない捨て子に天恵が宿るんだ、って。本来なら十二家のうちから排出されるはずだったんだって」
「十二家ってあれだよな、女神リュンヌの子孫だって言われている家系」
 そう、とリコリスは頷いた。彼女は己の掌に視線を落とした。
 聖グラース教会の上層部は女神リュンヌの血脈と言われている十二家――枢機卿団が牛耳っている。女神リュンヌが眠りについてからは、ずっと十二家から交代で教皇が排出されている。天恵の神子に関しても、慣例通り十二家の中から選ばれるだろうとされていた。
「まあ、そんなわけだからこんな立場でも教会内では冷遇されてて。寂しいかどうかはわからないけど、あたしは独りなんだってことだけはわかる。でも、神子としての務めさえちゃんと果たしていれば、誰も何も言わずに放っておいてくれるから、楽と言えば楽だよ」
 そうリコリスはへらっと笑った。無理をしているふうでもなく、その笑みからは寂しさは感じられなかったが、それがかえって哀れにヒースには感じられた。普通の子どもが知っているありふれた幸せをリコリスが知らないという事実が、一大人として悲しく感じられたし、それを彼女に強いて平気でいられる社会に憤りを覚えた。
「ねえ、ヒースは寂しいの?」
 ああ、とヒースは頷いた。また、その問いの無邪気さが哀れだった。寂しさがどういう感情か知らないがゆえの言葉だった。
 ヒースは妻・ミュゲを深く愛していた。否、今も愛している。日々のなんてことのない語らいも、寄り添いあった温もりや香りも、なんてことのない小さな諍いさえすべてが愛おしかった。
 遠い昔、三十五年前に日曜学校で出会ってから、ヒースの人生には常にミュゲがいた。
 ミュゲは頭はいいが体の弱い少女だった。ヒースがしょっちゅう日曜学校の宿題を持ってお見舞いに彼女の家を訪れるうちに、気がつけば二人は互いにとってかけがえのない存在となっていった。
 ヒースはミュゲが亡くなったあの日まで、幼い日からかかさず日記をつけていた。幼い文字で書かれた拙い文章を記していたころから、毎日のように日記に登場するのはミュゲだった。
 そんな存在がいなくなって、寂しくないわけがない。ミュゲの死期が足音を立てて迫ってくるようになるころには、ヒースも覚悟は決めていたが、それでも悲しくて、心が痛くて、毎日のように顔をぐちゃぐちゃにして泣いては困り顔の彼女に嗜められていた。あなたの人生はまだまだ長いのだから、今からそんなのでどうするの、と。
 五年の月日はヒースの悲しみを癒すことはなかった。ミュゲが亡くなってからしばらくの間は彼女の死を悼むために友人や知人たちがヒースの家を訪れていたが、やがてそれもなくなっていった。
 毎週のミサには相変わらず訪れていたが、女性たちの噂話の格好の的にされ、ヒースは信徒たちの間でもだんだんと浮いた存在となっていった。
 ミュゲを亡くしたことで自分は孤独になったのだとヒースは思う。悲しみのあまり酒に溺れるようになってからは教会の司祭やシスターを除いて本格的に誰も寄り付かなくなった。
「寂しいってどんな気持ちなの?」
 不意にリコリスが問うた。正体のわからないその感情を知りたかった。目の前の男が抱えるそれを理解したかった。
「寂しいっていうのは悲しくて心にぽっかり穴が空いたような感情だ。それとは裏腹に、ここにいない誰かをどうしようもなく欲して恋うる気持ちだ」
「……そう。あたしはやっぱり、そんな激しい感情を知らないや。でも、きっとヒースも独りなんだってことはわかる」
 その通りだな、とヒースは嗤った。周りの季節は移り変わっていくのに、あの瞬間にとりのこされたままの自分に似合いの言葉だ。まるで壊れた時計のように、ヒースの心の秒針は止まったまま頑なに動き出そうとしない。
 ねえ、とリコリスはヒースをまっすぐに見据えた。自分と彼は似た者同士の匂いがする。心の最奥に同じ色の翳りを抱えている。
「あたしたち、似てると思わない?」
「俺たちが……?」
「そうだよ。あたしは家族も恋愛も知らない――孤独を知っている。あなたは最愛の人を失う痛み――孤独を知っている」
 だから、とリコリスは言葉を継ぐ。彼女は淡く微笑んだ。赤の双眸にヒースの顔が映る。
「あたしはあなたがいいな。人を愛することを知っている人に愛されてみたい」
「それってどういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。ねえ、ヒース。あたしを〝女〟にしてよ。あたしの初めての〝男〟になって」
「は……!?」
リコリスが口にした言葉の意味を理解し、ヒースは愕然とした。おいおいとヒースは彼女の要求を断ろうとする。
「どれだけ歳の差があると思ってるんだ!?  俺を犯罪者にする気か!?」
 今、ヒースは四十一だ。目の前の少女は十代半ばに差し掛かるかどうかという見た目をしている。未成年との淫行は犯罪だ。
「こう見えてあたし成人してるし、あたしとヒースがそういうことをしたって犯罪にはならないよ。だって、あたし半年前に、十六になってるし」
「だとしても教会が黙っていないだろう!?」
 ヒースは思わず声を荒らげたが、大丈夫だよとリコリスは顔の前で人差し指を振ってみせる。どうせ教会はリコリスに対して、道具以上の関心を抱いていない。
「さっき、あたしが言ったこと覚えてる? 教会はあたしがどこで何をしてようと、やることさえちゃんとやってれば興味はないの。たとえ外で子どもを作ったりなんかしてたとしても、ね」
 リコリスは自嘲気味に笑うと、話を続ける。少女の孤独にヒースは憐憫を覚えた。
「あと二年で終滅の夜(エクリプス)が来る。それまでにあたしは……誰かに愛されることと誰かを愛すること――家族を知りたい」
「……」
 ヒースは何も言えなかった。成人とはいえこんな年若い少女が愛という誰もが知っていることを知らずに死んでいくのは哀れでならなかった。
 とはいえ、個人として今日初めて出会った少女といきなり家族になり肉体関係を結ぶというのはあまりにも事が性急すぎた。そんなことをするにはミュゲに対する情が残りすぎている。今の自分のまま、リコリスとそういう関係に進むのはミュゲに対する不義理のようで嫌だった。
「なあ、本気なのか? 俺は四十一、二十五も歳の差が開いている。こんなおっさんをからかって遊んでるんじゃないよな?」
 そんなことしないって、とリコリスは首を横に振る。しかし、一瞬の後、彼女は何かを思いついたように悪戯っぽく口の端を釣り上げた。
「しない……けど、そういうのはそれはそれで面白そうかも。お金持ちのおじさんとそういう関係になってお金を巻き上げるの」
「やめておけ。売春婦の真似事なんてしてたら、ろくな死に方しねえぞ」
 ヒースに止められ、おや、とおかしげにリコリスは片眉を上げる。口調こそ悪ぶっているものの、どうやらこの人は思っていた以上に根っからの善人のようだ。
「よもや聖職者が信徒に説教される日が来るとはね。――大丈夫、たとえ性病もらおうがなんだろうが、あたしは確実に二年後に死ぬんだし。これはこの世界ができたときから決まっていたことだよ」
「だとしても……」
 あっけらかんとしたリコリスの物言いにヒースは渋面を浮かべる。ありがと、とリコリスはそんなヒースの顔を覗き込んだ。
「心配してくれたんでしょ。やっぱりあなたいい人だね」
「いい歳して悲劇の主人公ぶってる酒臭くてヤニ臭いどうしようもないおっさんだけどな」
「そうやって悪ぶらないの。無理やり演じてるの見え見えだよ」
 まったくもう、とリコリスはため息を吐く。これでは一体どちらが大人でどちらが子供かわからない。
「あなたの中には、まだ奥さんがいる。それはわかっているけど、やっぱり今のままではあなたのためにもよくないよ。少し、前を、周りを見てみない?」
 誰かが誰かを悼むのはその人の自由だ。が、ヒースの場合はあまりにもそれに囚われすぎて視野が狭くなってしまっていた。
「ねえ、ほんの少しずつでいいよ。あたしと話をするところから初めてみない?」
「話?」
 そう、とリコリスは頷く。こうやって第三者と話すことで、彼が過去の軛から解き放たれることに繋がるといい。
「他愛のないことでいい。昨日の夕飯に何を食べたとか、隣の家の屋根にツバメの巣ができたとか。そんなことで構わないんだ」
 ヒースは生前のミュゲともよくそんな話をしたなと思い出す。そんな他愛もないことの積み重ねが二人の人生だった。多愛ないけれど、かけがえのない愛しい時間だった。
「本当にそんなことで構わないのか?」
「そうだよ。それにあなたはよく知ってるはずだよね。それが誰かと歩む〝人生〟だってこと」
「それはまあ、そうだが……」
 あ、もしかして、とリコリスは何かを思いついたように拳で手のひらを叩くと、いまいち煮え切らない態度のヒースへとにぃっと唇の端を上げる。彼女はいたずらっぽくヒースへと空目を使う。
「あなたにとってあたしって全く好みじゃない? もしかして年上趣味? 五十代とか六十代くらいの熟女趣味? それじゃあ無理だよなあ」
「……お前、仮にも神子なんだよな?」
「……? そうだよー」
 きょとんとしてリコリスはそう返す。ヒースは頭が痛いと言わんばかりに額に手を当てた。
「熟女趣味だの何だのって俗な言葉は一体どこで覚えてきたんだ……」
 どこって、とリコリスはぱちくりと赤の双眸を瞬いた。生活圏の狭いリコリスが世俗のことについて知る場なんて限られている。
「教会だよ。毎週のミサの後に信徒の人たちが嬉々としてそんな話ばっかりしてるよ。いい加減ヒースの話題にも飽きたみたいで」
 そう言われてヒースはミサが終わった後に女たちが毎週飽きることもなく卑しいゴシップに姦しく興じていたことを思い出した。自分のミュゲへの祈りが穢されるようで、あれは気分が悪い。
「……俺のことを好き放題言ってくれてるのも腹が立つが、絶対に女神の前でする話じゃないだろそれ……。それに俺の趣味はちゃんと同年代だ。熟女趣味でもなければロリコンでもねえ」
「ねえ、ロリコンってなあに?」
「知っててやってるだろそれ……?」
 興味津々といったふうに赤い瞳をきらきらさせながら自分の顔を覗き込んでくるリコリスに、ヒースは嘆息した。ちぇっばれたか、とリコリスは開き直ったように唇を尖らせる。
「年下対象外かあ……つまんないの」
「いや、まあ、お前はちゃんと年相応に可愛いと思うぞ? 仮にも神子様に向かって可愛いとか不敬だとは思うが」
 ふうんそうなんだあ、とにやにやしながらリコリスがヒースを見てくる。一体何が正解なんだとヒースは頭を抱えた。
「話は戻るけどさ、あたしたち、今後もこうやって会おうよ。こうやって他愛もない話をするの。どう? 嫌?」
「神子様の言うことに間違っても嫌とは言えないな」
「その言い方はちょっと嫌かな。あたしが会うことを強制しているみたいで。神子じゃなく、リコリス個人と会うの。どう?」
「俺は構わないが、お前に変な噂が立たないか? それこそ、寂しい独り男をひっかけて遊んでるとか」
「別に。そんなの慣れてるし今更だよ」
「な、慣れてるって……」
 ヒースは絶句した。一体この少女はこれまでどんな扱いを教会で受けてきたのだろうと思うと心がずきりとした。リコリスは苦々しげに、己を冷笑する。
「まあ、あたしは出自が出自だからね。教会内であれこれ言われることもあるよ。
 それに会ってるところを誰かに見られたとしても、聖職者として話を聞いていたとかなんとか言って適当に受け流せばいい。ヒースが奥さんを亡くして苦しんできたのは周知の事実なんだから」
「それはまあ、そうだが……」
「そういうわけだから、来週からミサが終わった後にここで会おう。ここなら来る人も少ないしね。後に婚儀やら葬儀やらが控えている日は青い石のついた十字架をつけてくるから、それで会えるかどうかは判断してほしい」
 わかった、とヒースは頷いた。リコリスは冷え切ったヒースの小指に自分のそれを絡めた。約束ね、と彼女が微笑むと、するりと指が離れていった。
「それじゃああたしはもう行くね。お腹減ったし」
 どのみち粗末な野菜クズの薄いスープしか出ないんだけどと苦笑いしながら、リコリスはひらりと手を振って教会墓地を出て行く。ああまた、とヒースはミュゼの墓の前から立ち上がると修道服の背を見送った。
 帰ろう、とヒースもリコリスの足跡を追いかけるようにして、泥と雪が入り混じった庭を抜け、墓地を出て行った。
 今日は帰りにマルシェに寄って、いつものパンだけではなく、酒と煙草の代わりに肉や野菜も買って帰ろう。家に帰ったらミュゲの真似をして、シチューでも作ってみよう。生煮えだったり、鍋を焦がしたりと失敗はしてしまいそうだけど、先ほどのリコリスとの会話がほんの少しだけ意欲を芽吹かせてくれた。
 まだ小指にはリコリスの指の感触と温もりが微かに残っている。ヒースは自分がこんなにも人との関わりに凍えていたのだと今更ながら思い知った。
 半ばリコリスに押し切られるようにして決まった二人の逢瀬。それは終滅の夜(エクリプス)を二年後に控えた、聖月暦五九九八年三月のことだった。