聖月暦六〇一五年九月十四日。その日はからりと晴れた気持ちのいい日だった。夏の残滓が青空から降り注ぎ、少し動くと肌がしっとりと汗で濡れる。
少女は水で墓石を清めると、布で拭きあげていく。汚れた雑巾をバケツの中に突っ込むと彼女はふうと息を吐いた。
マルシェの花屋で買ってきた花を少女は墓前に備えた。蜘蛛の足のように伸びた雄蕊。細くそり返った花びら。そして何より特徴的な鮮やかな赤。それは見る人が見ればある人物を彷彿とするものだった。
「悪いな、カルミア。全部やらせてしまって」
「別にいいよ。父さんは腰が悪いんだから、墓掃除はきついでしょ」
カルミアは年々母親――リコリスに似てきたとヒースは思う。鳶色の双眸はヒース譲りだが、それ以外の面差しだったりちょっとした物言いなんかが彼女にそっくりだ。
気がつけばリコリスが逝ってから十五年が経った。あれから変わらなかったことと変わったことがあった。
変わらなかったことは腐敗しきった教会の体制や信徒たちだ。信徒たちはミサで集まる度に相変わらずくだらない噂話に花を咲かせている。
変わったのはカルミアと自分だ。あのころは一歳だったカルミアも今や立派な成人だ。リコリスがいなくなってからしばらくの間はまだ赤ん坊のカルミアをどう育てたものかと悩んだものだが、リコリスに恥ずかしくない程度にはきちんと育ててやれたと思う。リコリスと過ごした日々があったからこそ、ミュゲのときとは違って、自分は今度は前を向いて生きてこられた。
今日はリコリスの命日であり誕生日でもある。彼女が神子でもなんでもない普通の人間で、この十五年を過ごしていれば、ちょうど三十四歳になっていたはずだ。もし生きていたら、彼女はどんな女性になっていただろう。
墓前に供えた花――彼女の名を冠するその花はカルミアが選んだものだ。供えるにはあまり向かない花だが、リコリスの目を思い出すからとカルミアが持って行きたがった。
カルミアは終滅の夜の儀式のことをあまりよく覚えていない。覚えているのは辺り一面が青い光で輝いていたということと、何となく怖かったということだ。
「今年も来たよ。――母さん」
カルミアは墓前で膝を折ってかがみ込むと、燭台に蝋燭を立てる。青いチュニックワンピースのポケットへ手を突っ込むと、先日の誕生日にもらったキーケースが指先に触れた。彼女はそのままポケットの中を探り、マッチを取り出すと、擦って蝋燭に火をつける。マッチを振って火を消すと、カルミアはぞんざいにマッチの燃え滓を水の入ったバケツに投げ込んだ。水面がじゅっという音を立てる。
カルミアは墓前で両手を合わせる。よっこらせと腰に痛みを感じながらもヒースも娘に倣って墓前にしゃがみ込んだ。彼は手を合わせると小さく呟く。その手では、愛する妻の名が彫られた銀の指輪がまだ夏の名残のある陽射しを反射させている。
「――リコリス。俺は五十八になった。カルミアも先月誕生日が来て、十六になった。あんなに小さかったカルミアも、今はもう立派な大人だ」
「まったく、父さんは毎年そればっかりだよね。もうちょっと母さんに言うことないわけ?」
カルミアの小言が飛んできてヒースの聴覚を刺す。こんなところが心配になるほど彼女そっくりだ。
「この通り、お前に似て気の強い娘に育ってしまったのが唯一の気がかりだ。お前に似て可愛らしくはあるんだが、こんな性格で嫁の貰い手があるかどうか」
「何で父さんはそうやって余計なことを言うの? 何かもっと他にあったでしょ」
カルミアは呆れながら立ち上がる。リコリスの形見の赤いリボン――かつて幼いカルミアがリコリスに贈ったリボンがハーフアップにした黒髪の上で風に揺れている。
「あたしはバケツ片付けてくるから。しばらく母さんと話してなよ。あたしがいると話しにくいことだってあるんでしょ」
雑巾とマッチの燃え滓と水の入ったブリキのバケツを持ち上げるとカルミアは墓地の入り口の方へと向かっていく。黒く濁った水がたぷんと揺れた。
「ああ、ありがとう」
ヒースは振り向くとカルミアの背中を見送る。体を捻った拍子に腰がずきりと痛んだ。
(あ……)
遠ざかっていくカルミアの背にヒースは最後の朝のリコリスの面影を見た。リコリスとの違いは彼女が生前好まなかった青色の服を身につけていることくらいだ。
ヒースは再びリコリスの墓に向き直ると両手を合わせて目を閉じる。この場所にリコリスの遺骨などない。ここにはヒースがかつて彼女に贈った財布と指輪が納められているだけだ。
あの夜、彼女は髪の毛の一本も残さずに青い光の粒子となって消えてしまった。それでもヒースが教会墓地に彼女の墓を建てたのは、彼女を思い出すためのよすがが欲しかったからだ。リコリスという人間がいたという事実をカルミアのために残してやりたかったからだ。
「――リコリス。俺たちはお前のおかげで幸せに生きているよ。お前が俺たちに未来を残してくれたから、可愛い娘とこうして今日も一緒にいられる。
だけどな。俺はやっぱりお前に隣にいて欲しかった。理解も納得もしていても、それでもお前がいなくなるのは嫌だった。お前が神子なんかじゃなければ、って思ったことも何度あったかわからない。寂しいって思ったことも、悲しいと思ったことも、どれだけあったかわからない。
でも、お前が俺にカルミアを残してくれたから。だから、絶望せずにここまでやってこられた。ミュゲを亡くしたときのようにならずに前に進み続けることができたんだ。お前には感謝しているよ」
愛してる。ヒースは口の中でその言葉を転がした。それは最期にリコリスが遺した言葉だった。
――ヒース。愛してる。
瞼の裏側に彼女が最期に見せた微笑みを見た気がした。この世界に息づくすべてのものには彼女の生命――天恵が宿っている。どこにいたって、何をしていたって、彼女はすぐそこで自分たちのことを守っていてくれている。
「今ここにいなくたって、目に見えなくたって、いつだってお前はそばにいる。生と死なんて境界は曖昧で、ただ生命が形を変えただけに過ぎないんだ。お前はいつだってどこかで見守っていてくれているって信じている」
――ヒースの馬鹿。鈍感。あれから何年経ったと思ってるの? いくらなんでも気づくのが遅すぎない?
呆れたような彼女の声がヒースの耳朶を打つ。こういうときの彼女は大抵むくれた表情をしていた。そんな十九歳の彼女の顔が脳裏に浮かび、何だか切ないような温かいような不思議な気持ちになる。
ヒースは瞳を開くと、目の前の赤い花を見つめる。カルミアがとりわけ好きなその色は、リコリスの瞳の色だった。
喜びできらきらと輝く赤色。不安に揺れる赤色。優しく柔らかくカルミアを見下ろしていた赤色。涙で濡れて光を反射する赤色。呆れたようにヒースを見つめる赤色。愛を確かめ合ったあのときの熱に浮かされて潤んだ赤色。
目の前の細くそり返った赤い花びらが風に揺れる。リコリス、と小さな声でヒースは彼女の名を呼んだ。
ヒースは首に下げたネックレスを外すと見つめる。元は二つだったチャームが組み合わさって一つの円を描くチャームは昔、リコリスと夏至祭に行ったときに買ったものだ。一緒に鎖に通されたロケットチャームの中には、最後の日の自分たち家族の姿が描かれている。年月を経ても、手の届かない遠いところに往ってしまっても、変わらずに彼女はヒースの心の中にいる。
「父さん、お待たせ」
背後から少女の声がかけられる。バケツの片付けを終えたカルミアが戻ってきていた。
「母さんとは話せた?」
「ああ」
ほら、とカルミアはヒースに差し出した。ヒースはカルミアの手を借り、腰を庇いながら墓前から立ち上がる。
「それで、いつになったら、父さんは母さんのことを話してくれるわけ? あたしが大人になったら話してくれるって言ってたのに、もう誕生日から一ヶ月以上経ってるんだけど」
「そうだな、この機会に母さん――リコリス・ランズバーグのことを話しておくべきだな。ただ、長い話になるぞ」
「もしかして、馴れ初めから話してくれるってこと?」
そうだ、とヒースは頷く。どこから話したものかとヒースは記憶を辿る。やはり、初めはこの墓地で出会ったときのことからだろうか。
「あれは聖月暦五九九八年の三月のことだった――」
ヒースの唇はリコリスとの出会いを紡ぎ始める。彼はゆっくりと噛み締めるように彼女との思い出をなぞり始める。
ゆっくりと語られる父と母の話にカルミアは耳を傾け続ける。夏と秋の境目の風が墓前に供えられた赤い花をゆらゆらと揺らしていた。
少女は水で墓石を清めると、布で拭きあげていく。汚れた雑巾をバケツの中に突っ込むと彼女はふうと息を吐いた。
マルシェの花屋で買ってきた花を少女は墓前に備えた。蜘蛛の足のように伸びた雄蕊。細くそり返った花びら。そして何より特徴的な鮮やかな赤。それは見る人が見ればある人物を彷彿とするものだった。
「悪いな、カルミア。全部やらせてしまって」
「別にいいよ。父さんは腰が悪いんだから、墓掃除はきついでしょ」
カルミアは年々母親――リコリスに似てきたとヒースは思う。鳶色の双眸はヒース譲りだが、それ以外の面差しだったりちょっとした物言いなんかが彼女にそっくりだ。
気がつけばリコリスが逝ってから十五年が経った。あれから変わらなかったことと変わったことがあった。
変わらなかったことは腐敗しきった教会の体制や信徒たちだ。信徒たちはミサで集まる度に相変わらずくだらない噂話に花を咲かせている。
変わったのはカルミアと自分だ。あのころは一歳だったカルミアも今や立派な成人だ。リコリスがいなくなってからしばらくの間はまだ赤ん坊のカルミアをどう育てたものかと悩んだものだが、リコリスに恥ずかしくない程度にはきちんと育ててやれたと思う。リコリスと過ごした日々があったからこそ、ミュゲのときとは違って、自分は今度は前を向いて生きてこられた。
今日はリコリスの命日であり誕生日でもある。彼女が神子でもなんでもない普通の人間で、この十五年を過ごしていれば、ちょうど三十四歳になっていたはずだ。もし生きていたら、彼女はどんな女性になっていただろう。
墓前に供えた花――彼女の名を冠するその花はカルミアが選んだものだ。供えるにはあまり向かない花だが、リコリスの目を思い出すからとカルミアが持って行きたがった。
カルミアは終滅の夜の儀式のことをあまりよく覚えていない。覚えているのは辺り一面が青い光で輝いていたということと、何となく怖かったということだ。
「今年も来たよ。――母さん」
カルミアは墓前で膝を折ってかがみ込むと、燭台に蝋燭を立てる。青いチュニックワンピースのポケットへ手を突っ込むと、先日の誕生日にもらったキーケースが指先に触れた。彼女はそのままポケットの中を探り、マッチを取り出すと、擦って蝋燭に火をつける。マッチを振って火を消すと、カルミアはぞんざいにマッチの燃え滓を水の入ったバケツに投げ込んだ。水面がじゅっという音を立てる。
カルミアは墓前で両手を合わせる。よっこらせと腰に痛みを感じながらもヒースも娘に倣って墓前にしゃがみ込んだ。彼は手を合わせると小さく呟く。その手では、愛する妻の名が彫られた銀の指輪がまだ夏の名残のある陽射しを反射させている。
「――リコリス。俺は五十八になった。カルミアも先月誕生日が来て、十六になった。あんなに小さかったカルミアも、今はもう立派な大人だ」
「まったく、父さんは毎年そればっかりだよね。もうちょっと母さんに言うことないわけ?」
カルミアの小言が飛んできてヒースの聴覚を刺す。こんなところが心配になるほど彼女そっくりだ。
「この通り、お前に似て気の強い娘に育ってしまったのが唯一の気がかりだ。お前に似て可愛らしくはあるんだが、こんな性格で嫁の貰い手があるかどうか」
「何で父さんはそうやって余計なことを言うの? 何かもっと他にあったでしょ」
カルミアは呆れながら立ち上がる。リコリスの形見の赤いリボン――かつて幼いカルミアがリコリスに贈ったリボンがハーフアップにした黒髪の上で風に揺れている。
「あたしはバケツ片付けてくるから。しばらく母さんと話してなよ。あたしがいると話しにくいことだってあるんでしょ」
雑巾とマッチの燃え滓と水の入ったブリキのバケツを持ち上げるとカルミアは墓地の入り口の方へと向かっていく。黒く濁った水がたぷんと揺れた。
「ああ、ありがとう」
ヒースは振り向くとカルミアの背中を見送る。体を捻った拍子に腰がずきりと痛んだ。
(あ……)
遠ざかっていくカルミアの背にヒースは最後の朝のリコリスの面影を見た。リコリスとの違いは彼女が生前好まなかった青色の服を身につけていることくらいだ。
ヒースは再びリコリスの墓に向き直ると両手を合わせて目を閉じる。この場所にリコリスの遺骨などない。ここにはヒースがかつて彼女に贈った財布と指輪が納められているだけだ。
あの夜、彼女は髪の毛の一本も残さずに青い光の粒子となって消えてしまった。それでもヒースが教会墓地に彼女の墓を建てたのは、彼女を思い出すためのよすがが欲しかったからだ。リコリスという人間がいたという事実をカルミアのために残してやりたかったからだ。
「――リコリス。俺たちはお前のおかげで幸せに生きているよ。お前が俺たちに未来を残してくれたから、可愛い娘とこうして今日も一緒にいられる。
だけどな。俺はやっぱりお前に隣にいて欲しかった。理解も納得もしていても、それでもお前がいなくなるのは嫌だった。お前が神子なんかじゃなければ、って思ったことも何度あったかわからない。寂しいって思ったことも、悲しいと思ったことも、どれだけあったかわからない。
でも、お前が俺にカルミアを残してくれたから。だから、絶望せずにここまでやってこられた。ミュゲを亡くしたときのようにならずに前に進み続けることができたんだ。お前には感謝しているよ」
愛してる。ヒースは口の中でその言葉を転がした。それは最期にリコリスが遺した言葉だった。
――ヒース。愛してる。
瞼の裏側に彼女が最期に見せた微笑みを見た気がした。この世界に息づくすべてのものには彼女の生命――天恵が宿っている。どこにいたって、何をしていたって、彼女はすぐそこで自分たちのことを守っていてくれている。
「今ここにいなくたって、目に見えなくたって、いつだってお前はそばにいる。生と死なんて境界は曖昧で、ただ生命が形を変えただけに過ぎないんだ。お前はいつだってどこかで見守っていてくれているって信じている」
――ヒースの馬鹿。鈍感。あれから何年経ったと思ってるの? いくらなんでも気づくのが遅すぎない?
呆れたような彼女の声がヒースの耳朶を打つ。こういうときの彼女は大抵むくれた表情をしていた。そんな十九歳の彼女の顔が脳裏に浮かび、何だか切ないような温かいような不思議な気持ちになる。
ヒースは瞳を開くと、目の前の赤い花を見つめる。カルミアがとりわけ好きなその色は、リコリスの瞳の色だった。
喜びできらきらと輝く赤色。不安に揺れる赤色。優しく柔らかくカルミアを見下ろしていた赤色。涙で濡れて光を反射する赤色。呆れたようにヒースを見つめる赤色。愛を確かめ合ったあのときの熱に浮かされて潤んだ赤色。
目の前の細くそり返った赤い花びらが風に揺れる。リコリス、と小さな声でヒースは彼女の名を呼んだ。
ヒースは首に下げたネックレスを外すと見つめる。元は二つだったチャームが組み合わさって一つの円を描くチャームは昔、リコリスと夏至祭に行ったときに買ったものだ。一緒に鎖に通されたロケットチャームの中には、最後の日の自分たち家族の姿が描かれている。年月を経ても、手の届かない遠いところに往ってしまっても、変わらずに彼女はヒースの心の中にいる。
「父さん、お待たせ」
背後から少女の声がかけられる。バケツの片付けを終えたカルミアが戻ってきていた。
「母さんとは話せた?」
「ああ」
ほら、とカルミアはヒースに差し出した。ヒースはカルミアの手を借り、腰を庇いながら墓前から立ち上がる。
「それで、いつになったら、父さんは母さんのことを話してくれるわけ? あたしが大人になったら話してくれるって言ってたのに、もう誕生日から一ヶ月以上経ってるんだけど」
「そうだな、この機会に母さん――リコリス・ランズバーグのことを話しておくべきだな。ただ、長い話になるぞ」
「もしかして、馴れ初めから話してくれるってこと?」
そうだ、とヒースは頷く。どこから話したものかとヒースは記憶を辿る。やはり、初めはこの墓地で出会ったときのことからだろうか。
「あれは聖月暦五九九八年の三月のことだった――」
ヒースの唇はリコリスとの出会いを紡ぎ始める。彼はゆっくりと噛み締めるように彼女との思い出をなぞり始める。
ゆっくりと語られる父と母の話にカルミアは耳を傾け続ける。夏と秋の境目の風が墓前に供えられた赤い花をゆらゆらと揺らしていた。



