聖月暦六〇〇〇年九月十四日。目覚めたリコリスは遂にこの日が来てしまったと思った。カーテンの外に見える皎天の下、昨夜のうちに降った秋霖の雫が朝日にきらきらと反射していた。
 最期にもう少しだけこのひとときを味わっていたくて、リコリスは枕に顔を埋める。あと少し。もう少しだけなら、女神もきっと見逃してくれる。リコリスにはもう二度と朝は来ないのだから。
 横にはぐうぐうと寝息を立てて眠っている大好きな人の横顔がある。きっと他人から見れば冴えないおじさんなのだろうけれど、その存在が愛おしい。
「ん……う?」
 リコリスの視線に気付いたのか、ヒースがもぞもぞと動く。ヒースは傍らのリコリスに視線をやると、眠い目をこすりながらおはようと目覚めを告げた。
 おはよう、と返すリコリスの母も常とは変わらない調子だ。これが最後だとは思えないほど普通の朝だった。
「カルミアは?」
「まだ寝てるよ。先に朝ごはんにしちゃおう」
 リコリスはベッドから体を起こす。キッチンへと向かおうとしたその細い身体にヒースは腕を回して引き止める。リコリスと二人きりの時間を過ごせるのはこれが最後だ。覚悟を決めたリコリスをきっと困らせてしまうとわかっていたけれど、どうしてもそうせずにはいられなかった。
「あっ、もう。ヒースってばどうしたの?」
「俺がもうちょっとだけこうしていたいだけだ。駄目か?」
「……まったく、本当に仕方のない人なんだから」
 リコリスは呆れたように微苦笑すると、ベッドのふちに腰を下ろす。ヒースは背後からリコリスを抱き寄せるとうなじにキスを落とした。
「あっ、こら、駄目だってば」
「安心しろ。痕はつけないから」
 当たり前でしょ、とリコリスは頬を膨らませる。夕方前には教会で沐浴の儀があるというのに、そんなものをつけていれば教会の人間に何か嫌味を言われるのは疑いない。
(やっぱりつけてもらえばよかったかな。でもそういうことをすることで、ヒースやカルミアに矛先が向いたら嫌だし。――いや、そんなこと言っても今更か)
「なあ、今日は教会には何時に行けばいいんだ?」
「十二時。儀式が夜だから今日はゆっくりでいいみたい」
「それなら、もう少しこうしてられるな」
 そういうと、ヒースは右腕をほどき、ベッドサイドテーブルの引き出しへと伸ばす。がさがさと中をまさぐり、目的のものを見つけ出すと、右腕はリコリスの元へと戻ってくる。
「リコリス、これ。今日、誕生日だろう。十九歳おめでとう」
 ありがとう、とリコリスははにかんだ。まさか、こんなときに誕生日を祝ってもらえるなんて思ってもいなかった。
「これは……ロケット?」
「そうだ。ロケットを贈る意味は――〝離れていてもそばにいる〟。どうかそのことを忘れないでいてほしい。お前がどこへ往こうとも、俺とカルミアの心はいつだってそばにいるよ」
 開けてみな、とヒースに促され、リコリスはロケットのチャームを開く。あっ、とリコリスは瞠目した。
 中にはリコリスとヒース、そしてカルミアの三人の絵が描かれていた。あどけなく可愛らしいカルミアに、それを愛おしげに見つめるリコリス。そしてそれを柔らかな表情で見守るヒースが――普通の家族の普通の暖かな時間が切り取られ、小さな絵の中に収まっていた。
「どうしたの、これ? そういえば昨日、夜遅くに出かけてたみたいだけど」
「知り合いの画家に頼んで描いてもらった。昨夜はそれを受け取りに行っていたんだ」
 ヒースの今の立場を考えれば、恐らく〝頼んで〟ではない。〝金を握らせた上で拝み倒して〟、が正解だろう。仕事こそもらえているものの、ヒースの街での立場は良いものとはいえない。
「お前が確かに俺たちと一緒にいた、それを示すためのえにしだ。たとえ、お前がいなくなっても、その事実だけはこうして確かに残るから」
 ほら貸せ、とヒースはリコリスの手からロケットを取り上げると、彼女の首にかけられた、一昨年の夏至祭の記念に買ったネックレスの鎖を外した。そして、ロケットのチャームを鎖に通すと、ヒースは彼女の首の後ろで金具を止め合わせた。
「ありがとう」
 どういたしまして、とヒースは微笑んだ。こんなことで喜んでくれるのなら何でもする。彼女がこの家を出るその瞬間まで、彼女のためにできることはすべてやろうと決めていた。
「そういえば、当日にちゃんと誕生日祝ってもらったのって初めてだ」
「去年はカルミアが生まれたばかりでそれどころじゃなかったもんなあ……」
「そのカルミアがここまでちゃんと育ってくれて。だいぶ強引だったけど、なんとか乳離れも済ませられてよかった」
 ねえヒース、とリコリスは最後に聞きたかったことをさりげなさを装いながら切り出した。何だよ、とヒースは応じる。
「ヒースの好きなものと嫌いなものを教えてよ」
「お前とカルミアが好きだ。愛している。嫌いなものは、お前にこんな運命を強いたこの世界だ」
「そっか、あたしと同じだね」
 小さく笑うと、リコリスは体を捻ってヒースと向き合う。赤の双眸は真摯な色を讃えている。彼女は改まった口調で切り出した。
「――ヒース。これまでありがとう。あたしのこと背負わせちゃってごめんね」
「何言ってんだ、俺はお前のことを受け止めてちゃんと背負うって決めてるんだ。だから、今言うべきはそんな言葉じゃないだろう」
 そうだね、とリコリスは泣きそうに顔を歪めた。彼女は無理矢理口の端を釣り上げると強気な笑顔を作ってみせる。
「それじゃあ行ってきます、になるのかな。あたしは先に往くよ。天恵の力は今にも漏れ出しそうなくらいもりもり満タンだし、二人のためなら世界の一つや二つ、しっかりばっちり救ってくる」
 そうか、とヒースはリコリスの手を握る。自分のものより小さなその手は微かに震えていた。行くな。無理するな。そう言ってやりたかった。けれど、彼女の強がりを無碍にしたくなかった。
「それじゃあ、いってらっしゃい、だな。何十年先になるかわからないけど、いつかきっと追いつくから待っててくれ」
「あんまり早く来ちゃダメだからね。カルミアにも怒られるし、ミュゲさんにも怒られるよ。それに何よりあたしが怒る」
「そうだな」
 リコリスとヒースは笑い合った。そして、どちらともなく唇を重ね合った。
 柔らかく優しい口付け。互いを確かめ合うように二人は唇を交わし合う。目覚めたカルミアが泣き出すまで、二人はずっと寄り添い合いながら迫り来るその刻限を感じていた。

 リコリスとヒースのその日の朝食はライ麦パンとチーズという常とは変わらぬものだった。カルミアの朝食も柔らかくしたパン粥と、いつもと何も変わりはなかった。
 いつも通りに過ごしているつもりでも、カルミアは家の中に漂う緊張感を感じとっていたのだろう。カルミアはリコリスにやたらと抱っこをせがみ、離れたがらなかった。
「ほら、カルミア。髪の毛結んであげる。今日はどのリボンにする?」
 木のアクセサリー入れを開き、リコリスはカルミアに色とりどりのリボンを見せてやる。「こー!」カルミアは白地に水玉のリボンを握った。
 リコリスは手櫛でカルミアの髪を梳いてやる。こうしてこの子の髪を結うのも最後なのだと思うものの、なんだか現実味がなかった。
 リコリスはリボンでカルミアの髪を結んでやる。「できたよ」我ながら可愛くできたと思う。ヒースじゃないが、今日も自分の娘は最高に可愛い。
「まー! あー!」
 カルミアが真紅のリボンを掴んで何かを訴えてくる。そのリボンはカルミアが一番気に入っているものだった。
「ママにあげるってさ。――リコリス」
 壁に寄りかかって母娘のやり取りを眺めていたヒースはリボンを受け取るように促した。でも、とリコリスは躊躇した。
「ありがとう。でもそのリボン、カルミアが一番好きなやつでしょ? 本当にいいの?」
「うー!」
 たどたどしい喃語でカルミアは答える。ヒースはリコリスに近づくとそっと耳打ちした。
「もらってやれよ。カルミアなりに、お前がいなくなることを感じ取ってるんだろ」
 そうだね、とリコリスは頷く。ありがとうね、とリコリスはカルミアからリボンを受け取ると、自分の髪をハーフアップにして結んだ。もう何も怖くない。心からそう思えた。
 壁掛け時計の時刻が午前十一時半を回った。そろそろだな、とヒースは呟いた。
「それじゃあね、カルミア。ママお仕事行ってくるから。いい子にしててね」
 リコリスは最後にカルミアの髪に頬ずりすると、ヒースはと愛娘を抱き渡した。「まー!」リコリスから離れたくないのか、カルミアが手足をばたつかせて暴れる。
「なあ、やっぱり俺たちも教会前広場までは行こうか? カルミアもぐずってるし」
 ううん、とリコリスはきっぱりと首を横に振る。ここからは一人で行く。そう決めていた。
「大丈夫。一緒に行ってヒースやカルミアが街の人に何かされても嫌だから。それにこれ以上はあたしが離れられなくなっちゃう」
「……そうか」
「ヒースとカルミアからはこれ以上ないほどの幸せをもらったよ。最後には思いがけないプレゼントまで。だから、あたしはこれ以上は望まない……いや、一つだけあるかな」
 リコリスはヒースとカルミアの額に順に口付けを落とした。そして、彼女は心からの祈りの言葉を囁いた。
「――どうか二人のこの先の人生が健やかであるように。どうか希望に満ちた未来を歩めますように――」
 リコリスの目と首元の痣が青色に輝く。光がヒースとカルミアの中に溶けていくと、リコリスはにっと笑って、玄関の扉に手をかける。その目はいつもの強気な赤色で、もう青く光ってはいなかった。
「それじゃ、行ってくる!」
「おう。頑張ってこいよ」
「任せて」
 リコリスは気安く手を振ると、二年と五ヶ月暮らした家を後にした。九月も半ば近いとはいえ、昼が近づけばまだ夏のような暑さがある。
 もう後戻りすることなど能わない。今のリコリスにできるのは愛する二人のために、自分の運命を全うして、散っていくことだけだった。

 大きな木桶の中でリコリスはふう、とため息をついた。今ごろカルミアは泣き喚いていないだろうか。そんなことを考えながら、彼女は青い薔薇の花びらが浮いた水面を見つめた。二人のことを想えば、心恋(うらごい)の念は増すばかりだった。
「アプローズ様、お背中を」
 十二人の枢機卿団の面々による衆人環視の中、シスターたちによってリコリスは立たされると、泡のついた布で背中を磨かれていく。その手は腕へ、尻へ、そして体の前面へと伸びていく。胸、腹、脚とシスターたちはリコリスの身体を磨いていく。
「アプローズ様、御髪を失礼します」
 シスターたちは淡々と水の張られた盤を持ってきて、思いっきりリコリスの頭にぶっ掛けた。髪が水分でべったりと顔と首筋に張り付き、リコリスの体についた泡が洗い流されて起伏の少ない細い裸体が露わになった。
「ふうん、この貧相な身体があの男を籠絡したのね」
「あの男の趣味が特殊だっただけかもしれないわよ。前の奥さんも体格には恵まれていなかったらしいから」
 シスターたちがひそひそと囁き交わす。自分のことはともかく、ヒースのことを悪く言われるのは溜まったものではなかった。ぎろり、とリコリスはシスターたちを視線で黙らせる。
「アプローズ様、お座りください。御髪を清めますので」
 慇懃無礼な物言いに逆らうことなく、リコリスは木桶の中に身を沈める。青い花びらが肌に纏わりついて鬱陶しい。
 栗毛のシスター――ティリアは粉状のものを泡立てると、リコリスの頭へと指を這わせる。そして、ティリアはがしがしとリコリスの頭皮に爪を立てた。
 髪がめちゃくちゃに引っ張られる。ぶちぶちと音を立てて髪が何本も千切れたが、ティリアは意に介したふうもない。
「こんなのが神子だなんて。女神は世界を見放したんだわ」
「首の痣も本当に本物なんだか。あの男につけてもらったものなんじゃないかしら。穢らわしい、淫らだわ」
「あなたたち。神聖な儀式の最中で恥ずかしくないのか。それでは、女神リュンヌに見放されたとしても文句は言えないよ。黙って自分たちの仕事を全うするといい」
 リコリスがシスターたちを淡々と諌めると、何よ、と灰色の髪をシニヨンにまとめたシスター――シレーヌが水の組まれた手桶を振りかぶる。リコリスはシレーヌにそれを投げつけられ、顔面から水を浴びた。気管に水が入り込み、リコリスはけほけほと咳き込んだ。
 からんからん、と音を立てて床に手桶が転がる。泡混じりの水がリコリスの髪から木桶の中へと滴り落ちて波紋を描く。
「――そのくらいにしないか」
 壁際に控えていた枢機卿団の一人が口を開いた。彼とてアプローズのことを決して好ましくは思っていなかったが、いくらなんでもシスターたちのやり口はやりすぎだと思った。ですが、とシレーヌは反論を試みる。
「レゴラス卿。このような者は、到底神子として認められません」
「しかし、アプローズ様以外に神子として立てられる者がいないのも事実だ。このまま儀式を中断して世界の終焉を迎えるよりは、まだ一縷の望みに賭けてこのまま儀式を続けるのが賢いのではないか?」
 それは、とシレーヌは口ごもり、唇を噛む。彼女は反論材料を見つけることができずに、承知しました、とレゴラスに頭を下げた。
「お身体をお拭きします、アプローズ様」
 そう言うや否や、金髪のシスター――リンザが水の中からリコリスの腕を強引に掴み、引っ張り上げた。ざぼん、と音を立てて水面が揺れ、飛沫が床を濡らした。
 シスターたちは香油の瓶を逆さにしてリコリスの体に雑に降りかける。べちょっとしたものがリコリスの右肩に触れる。
 シスターたちはそれを乾いた布でリコリスの素肌に塗り広げていく。リコリスは皮膚が真っ赤になるまでシスターたちに素知らぬ顔で布で擦られ続けた。レゴラスもあまり儀式の時間を遅らせたくないのか、今度は口を挟まなかった。
 リコリスの肌から水分も油分も無くなると、彼女はシスターたちに白地に青い薔薇の刺繍が散りばめられた薄いドレスを着せられた。頭から被せられた同色のベールにも同じ刺繍が施されている。そして、首からムーンストーンが中央に据えられた十字架を下げられた。
「それではアプローズ様。お支度が整いましたので、聖餐の儀に移られてください。私物はすべてこちらで処分させていただきますので」
 リンザの言葉に、待ってとリコリスは制止をかけた。ヒースからもらった思い出の品々とカルミアからもらったリボンを処分されるわけにはいかない。
「過去の記録を調べても、神子が決まった格好をしていなければならないという記述はないし、何か特定のものを儀式に持ち込んではいけないという記述もない。これらは持っていかせてもらうよ」
 リコリスは部屋の隅のテーブルの上に置かれていた指輪とネックレスを素早く身につける。リボンは口を使いながら左手に巻きつけて結び、青灰色の財布はドレスの胸を覆う裏地の中に無理やり押し込んだ。
「そのようなゴミを儀式に持ち込んだら一体何が起こるか……」
 ティリアが眉を顰める。他のシスターたちもリコリスを蔑むような顔で見ている。黙りなさい、とリコリスは一喝した。
「これらの価値はあなたたちが決めていいものじゃない。あたしが決めるものだ。文句があるなら、あたしは今すぐこの場所を立ち去ったっていい。あなたたちのような人間しかいない世界なんて、終滅の夜(エクリプス)の闇に呑まれてしまえばいい」
「アプローズ様。あなたに叛意ありとなれば、こちらも手段を選びませんが。儀式にはあなたの天恵さえあればいい。場合によっては手足を切り落とすことも厭うつもりはありません」
 壁際に控えていたレゴラスとは別の枢機卿――ウリクトが口を開いた。リコリスは肩をすくめると、淡々と述べる。
「叛意なんてとんでもない。あなたたちがあたしを正当に扱う限りはあたしはあなたたちに従うよ。それよりも聖餐の儀に早く移った方がいいんじゃないか? 予定がもう三十分も押している」
 仰せの通りに、とウリクトはリコリスに恭しく頭を下げた。
 沐浴の儀が行なわれていた小部屋の窓から差し込む光は金色を纏っている。世界を終わらせる終滅の夜(エクリプス)はひたひたと足音をたて、背後まで忍び寄ってきていた。

 普段は信徒たちのためのチャーチベンチが並んでいる大聖堂に、仰々しく飾り立てられた一対の卓と椅子だけがちょこんと鎮座していた。テーブルにはパンと赤ワイン、レンズ豆のスープが置かれていた。食器は全て銀製で、ゆらゆらと揺れる燭台の火をちかちかと乱反射させていた。
 リコリスは着慣れないドレスの裾を蹴り飛ばすようにして歩きながら、卓に近づく。「アプローズ様、こちらへ」茶髪のシスターが椅子を引く。腰を下ろそうとすると、更にぐっと椅子を後ろに引かれ、リコリスは中腰の姿勢で静止する。そして、膝を伸ばして姿勢を正すと、リコリスは振り返らないままシスターの名を呼ぶ。
「マリベル。あなたのその稚拙な行ないによって、儀式の予定が大幅に遅延するとどうなるか、そのくらいのことも考えられないのか。あなたはよほどこの世界を終わらせたいと見える」
「わ、わたしはそんな……」
 マリベルは声を震わせると椅子の背から手を離し、大聖堂を飛び出して行った。やれやれ、とリコリスは肩をすくめると椅子に腰掛けようとする。しかし、椅子の中央に仕掛けられたものに眉根を寄せるとリコリスは溜息を吐く。この期に及んでこのような行為に出る人間がいるなど頭が痛い。
「この教会にはろくでもない人間しかいないようだね。断言しよう、このままではこの世界は千年後の儀式など到底越えられやしない」
 リコリスは座面に置かれていた画鋲を手で払いながらそう吐き捨てる。ちっと舌打ちが聞こえた気がするが、それはシスターたちの誰かのものか、それとも枢機卿団の誰かのものか。どうでもいいと思いながら、リコリスは手で椅子の座面と背もたれを検分する。女神リュンヌが残したという貴重な品に妙な細工をする不届な輩などいないと信じたかったが、生憎教会内部にリコリスが信じられる人間など一人もいない。
 リコリスは椅子に腰を下ろすと、目を閉じて祝詞を唱えた。
「女神リュンヌの残せし、血はこの地を潤さん。肉はこの地に生きる者の盾となり、温もりは生命を育むだろう。絶えることなき時の輪廻は次の千年を繋ぐだろう。――我、女神リュンヌの祝福をその身に刻まれし者なり」
 十字架を掲げ、リコリスが朗々と代々受け継がれてきた文句を唱えあげると、彼女の目と首筋の痣が青く光り始めた。光は卓上のワインと食べ物を包んでいく。
 リコリスは皿からパンを取ると、ちぎって口の中へと入れる。パンを咀嚼していると、じゃりっという音が口の中に響いた。
(砂か……さすがに毒は盛ってこないとはいえ、よくこの神聖な儀式でそんなことをやるな……)
「――()は我が肉体なり」
 シスターたちの手口に半ば感心しながらも、そんなことはおくびにもださず、パンを食べ切ったリコリスは厳かに告げる。そして、銀のスプーンを手に取ると、さっと両面に視線を走らせた。この期に及んで何か細工されているとは思えないが、何か塗られている可能性も無ではない。
 リコリスはスプーンでスープを掬って口へと運ぶ。刹那、リコリスはスープを吹きそうになった。
(何これ塩っ辛い! よくもまあこんな幼稚な嫌がらせを……)
 日曜学校までに卒業しておけよといいたくなる嫌がらせを仕掛けられたリコリスはどうにかスープを飲み下す。聖餐の儀で出されたものを残してしまっては、儀式が成立しなくなる。
 リコリスは感情と味覚に蓋をして黙々と胃の中に片付けて行った。流し込まれたものを異物と判断した胃が反抗を試みたが、鋼の意志でそれをねじ伏せる。
「――()は我が生命の温もりなり」
 後を引く強烈な塩味を意識の隅に感じながら、リコリスはそう唱えた。そして、彼女は赤紫色の液体が注がれた銀の杯へと手を伸ばす。
 杯には変色は見られない。香りにも異常はない。さすがにシスターたちもこれには何も仕掛けられまいとリコリスはワインに口をつけた。
 液体が舌に触れた瞬間、強烈な酸味を感じた。
(――これはたぶん料理用のワインだな。しかも開けてから何日か経ってるやつ)
 終滅の夜(エクリプス)を前にしてこんなことにかまけていられるなんて暇そうでいいな、とリコリスは半ば呆れながら、再び杯を傾ける。塩味と酸味が混ざり合って、もう口の中は滅茶苦茶だ。
 咽せない程度のペースでワインを飲み終えると、リコリスは盃を卓の上に置く。
「――()は我が血なり。我は女神と一つになりしことを此処に宣言する」
 そう言い放つとリコリスは椅子から立ち上がる。すると、枢機卿団の実質的なトップの男――ライオネルがリコリスの元へと歩み出る。
「アプローズ様。月の塔へおいでください。教皇聖下がお待ちです」
 ああ、とリコリスは頷いた。教会に連なる尖塔――月の塔では黎明の儀が待ち構えている。それが終滅の夜(エクリプス)を払うための一連の儀式の最後の儀式だった。
 ライオネルが先導して歩き出し、シスターたちに大聖堂の扉を開かせる。リコリスがライオネルに続いて大聖堂の外に出ると、残照が夜の藍色に塗りつぶされようとしていた。
 大聖堂のステンドグラスに描かれた女神リュンヌがリコリスたちを見送っている。まもなく世界に終わりの夜が満ちようとしていた。

 ベッドルームでカルミアを遊ばせながら、ヒースは暮れていく空を眺めていた。リコリスは今どうしているのだろう。きちんと見送ると決めていたが、あれで本当に良かったのだろうか。
「うあああああん」
 カルミアが泣く声が聞こえる。ヒースは愛娘へと視線を落とした。
 どこかに身体をぶつけた様子はない。おしめも確認したが汚れているようではない。おそらく腹が減ったのだろう。
「飯か。ちょっと待ってろ」
 たとえ世界が滅亡の危機に瀕していても腹は減る。カルミアはリコリスがこの家を出てから断続的にぐずり続けていたので、ヒースよりもよほど腹が減っているだろう。
 リコリスには怒られそうだが、今はとても離乳食を作れる気分ではない。ヒースはキッチンへと向かうと、マッチを擦って竈に火を入れる。目分量で牛の乳を注ぐと、小鍋を火にかけた。
 鍋の内側で白い液体が小さな泡を立て始める。こんなものか、とあたりをつけるとヒースは哺乳瓶に白い液体を移し替えた。
「ちょっと熱いか」
 乳児に与える乳の温度は人肌くらいが望ましい。リコリスがいつも口を酸っぱくしてヒースに言っていたことだ。そんななんてことのない記憶がヒースの心をざわめかせる。呆れたようなあの声音が脳裏に蘇る。
 ヒースは手の中で哺乳瓶をころころと転がし、熱を覚ましていく。しばらくして、哺乳瓶が程よい温度になると、ヒースは哺乳瓶の中身を一滴手の甲に垂らした。この分なら問題はなさそうだ。
「カルミア、お待たせ」
 ヒースは掴まり立ちでダイニングテーブルから彼の作業を覗いていたカルミアに声をかけると、抱き上げてベビーチェアに座らせる。ヒースもダイニングチェアに腰を下ろすと、カルミアに哺乳瓶を持たせてやった。カルミアはニップルに吸い付き、ミルクを飲み始めた。
 ヒースはその様子を横目にダイニングテーブルの籠に盛られた黒パンに手を伸ばす。自分も何か食べないとという義務感に駆られて、ちぎった黒パンを口の中に放り込むが、それは硬いばかりで何の味もしなかった。
(あいつ――リコリスのほうがずっと大人だ。あいつの前ではああやって大人ぶってみせたけど、やっぱり俺はあいつが死ぬなんて嫌だ)
 リコリスがいなくなって、すぐに彼女のいない生活に切り替えられるほど器用じゃない。だからこそ、ミュゲを亡くしたときも五年も引きずったのだ。リコリスがいなければいまだにミュゲのことを引きずっていたかもしれない。
(しっかりしないと……俺は父親なんだから)
 自分一人なら、悲しみに暮れて前のような生活に戻ったっていい。だけど、今は彼女が残してくれた愛すべきか弱い存在がいる。
「ぱー! ないない」
 いつの間に飲み干したのかカルミアが空の哺乳瓶をヒースに渡そうと手を伸ばしてきていた。ヒースはカルミアの黒髪をくしゃりと撫でると、空の哺乳瓶を引き取った。
「カルミア、腹は膨れたか?」
「うー!」
 満足げにカルミアは笑う。しかし、秋の空のようにその顔はすぐに曇った。
「まー?」
 ママは? その質問がヒースは心に痛かった。ママはもう帰ってこないんだよ。そんなこと言えるはずもなかった。口にすれば自分の方が先に泣いてしまいそうだった。
 いつもならリコリスはとっくに帰宅している時間だ。そのことにカルミアは気づいている。朝からこの家はおかしいとカルミアは幼いながらに感じとっている。
「カルミア。ママは今大事なお仕事の最中なんだ。今日は帰ってこないよ」
 カルミアの顔がくしゃくしゃに歪む。これまでも教会の仕事が忙しくて帰ってこないことはたまにあったが、それとは確実に違うとカルミアは本能で感じとっている。
 そんなふうに言葉を濁すことしかできない自分がヒースは不甲斐なかった。しかし、本当のことを話したところで今のカルミアには到底理解できないだろう。彼女に今日の真相を話すのはきっとずっともっと先のことだ。
 ヒースはカルミアの身体をぎゅっと抱きしめた。小さな体はとくとくと脈打っていて熱く、乳幼児特有のミルクの甘い匂いがした。
「――会いたいな」
 ヒースは呟く。会いたい。もう一度、あと一目だけでもリコリスに会いたい。想いが涙となって込み上げてきて、ヒースの頬を濡らす。
 リコリスを独りで逝かせたくない。儀式の最中は教会のお偉方が立ち会うし、最後の儀式も教皇が儀式の成功を見届けるために同席するだの言っていたが、そんな問題じゃない。最期に見るのがどこの馬の骨とも知らないジジイの顔だなんて自分なら耐えられないし、リコリスにだってそんな最期は迎えてほしくない。
(俺は弱いな。きっちりここでリコリスを見送るって決めたのに、その覚悟がもう揺らいでる)
 彼女に詰られようとも、どこの誰から謗られようとも、彼女に会いたい。その気持ちだけは譲れなかった。
「――カルミア。ママに会いに行くぞ」
「まー?」
「そうだ、ママにだ。パパは今、ママにとっても会いたい。カルミアだってそうだろう?」
「うー!」
 ヒースは抱っこ紐をベッドルームから持ってくると、ベルトを自分の腰に巻く。そして、肩ベルトを背負うと紐で固定していく。
 ヒースはカルミアを抱き上げると、足を開かせる。胸と胸をくっつけ合うようにして、カルミアの身体を押し付けると、手早くベルトの位置を調整し、各所の紐を結び直していく。
「――よし、行くぞ」
 ヒースはひっそりと静まった街へと足を踏み出した。住民の多くは終滅の夜(エクリプス)の闇が祓われるまでは家の中で祈りを捧げている。
 遠目に大聖堂が宵闇の中に浮かび上がっているのが見えた。街の中が真っ暗なのに対し、大聖堂とそれに連なる建物だけが松明で煌々と照らされている。
(――確か、月の塔って言ってたな)
 ヒースは踵を返した。閑けさの中に彼の靴音だけがかつかつと響いていた。

 ふああ、と広場の守りを固めていた僧兵の一人――アルキスは欠伸を噛み殺した。
 見上げた南の高い空に浮かんだ月は白くほっそりとした弧を描き、惑星の本影が暗闇を染め上げ始めている。今まさに世界が存亡の危機に晒されているなど、にわかには信じられなかった。
 昼間は真夏並みに暑く感じた空気も今はわずかに冷涼さを帯びている。世界の行く末など知らない虫たちがアルキスの眠気を誘うように夜想曲を奏でている。
 いつもは人々の憩いの場所となっているこの広場は僧兵たちによって物々しく警備されている。その先に続く中央通りは普段の賑わいが嘘のようにしんと静まり返っていた。あとどれだけここで立っていればいいのだろうとアルキスは再びふわあと欠伸をする。
「おい、儀式の最中なんだぞ。世界が終わるかもしれないってときに緊張感のない」
 隣で十字の刻まれた槍を手にした同僚――エルトンがアルキスを肘で小突いた。いてえな、とアルキスは靄のように頭の中を覆っていた眠気がわずかに散らされていくのを感じながら眉を顰めた。
「念のためってここに立たされているけどよ、何か起こると思うか? 街の連中は皆、家に閉じこもって儀式が終わるまで祈りを捧げてるんだろ? こんなの無意味だ、無意味」
 そうアルキスがエルトンに愚痴ると、エルトンはそうとは言い切れないかもしれないだろうと反論した。
「頭のおかしい奴が一人くらいはいるかもしれないだろ。そういう奴が儀式に乱入しようとしたとしたって、俺は不思議には思わないけどな」
「そういえばいたな、そういうことをやりかねない頭のおかしい奴。何つったか、確か革小物職人の――」
「ヒースだかキースだかそんな感じの植物っぽい名前のやつな。アプローズ様を孕ませて子どもをこさえたっつう」
「あれって実際どうなんだ?」
「新年の儀にアプローズ様がお出でにならなかったこともあるらしいし、去年の女神祭でも姿をお見せにならなかっただろう? アプローズ様が孕っていたというのは事実なんじゃないか?」
「それで、相手がその何とかって男か。一時期アプローズ様に酷似した娘が四十絡みの男とよくいたって話も聞くしな」
 つまりそういうことだ、とエルトンは重々しく頷く。神子が外で子どもをこさえていたことは理解したが、その子どもの扱いはどうなるのだろう。アルキスは疑問を口に出す。
「アプローズ様のガキって、教会内で今後どういう扱いになるんだ? 仮にも神子の子どもなら取り入りたいって奴も少なくないだろ?」
「それを避けるために、アプローズ様は自分の子どもを認知することを望まなかったらしいぞ。男が行きずりの女とこさえた子どもってことにして、男のほうの婚外子って扱いにしたらしい」
 ほう、とアルキスは目を見開いた。心なしか眠気が晴れたように感じる。やはりゴシップは眠気の特効薬だ。
「しっかし、お前やたら詳しいのな。アプローズ様のガキに取りいって、出世目指そうとしてた口?」
「ちげーよ。知り合いが施療院に勤めてて、そいつからの情報」
 お前たち、と威圧するような低い声が二人の鼓膜に突き刺さった。ぎくりとして二人が居直ると、小隊長が灰色の目で冷ややかな視線を浴びせていた。その眼光は彼が手にしている槍の穂先よりもなお鋭い。
「神聖な儀式の最中に緊張感が足りないのではないか」
 エルトンは自分と全く同じことを指摘する小隊長の言葉に、それ見たことかとアルキスを半眼で見やった。お前もだぞ、と小隊長はエルトンを黙らせた。
「お前たちは明朝、腕立て三百回の罰だ。覚悟しておけよ」
「明日が来なかった場合は?」
 興味本位でアルキスが問うと、この馬鹿者が、と小隊長の雷が落ちた。低く轟く大音声に何事かと他の僧兵たちもそわそわし始める。
「お前たちには聖職者の何たるかという自覚が足りないようだな。聖典の写本十冊の罰も追加してやろう。聖典の内容を隅々まで自分の頭に刻み込めば、そのようにこれまでの教会の歴史を軽んじるような言葉など出なくなるだろう」
「え……ハリトン小隊長、それ、俺もやるんですか?」
 エルトンが腱鞘炎の予感に怯えながら聞くと、ハリトンは無論だと頷いた。有無を言わせないハリトンの眼光に、罰から逃れるのは無理だとエルトンは悟る。
「お前たちは随分と仲が良いようだからな。連帯責任というやつだ」
 はーい、とエルトンはがっくりと肩を落とす。ハリトンが去っていくと、アルキスは肩をすくめる。
「怒られちまったな。仕方ないから、ここからは真面目にやるとしようぜ。小隊長の言うところの聖職者の務めとやらをな」
「大体お前のせいなんだけどな……俺はほぼ巻き添え食らっただけなんだけど……」
 エルトンは槍を手に恨みがましげにアルキスを見る。アルキスは意に介したふうもなく、しゃきっと背を伸ばして空を見上げる。
 大聖堂の奥にある尖塔から淡く青い光が漏れ出しているのが見える。しゃんしゃんと時折錫杖が打ち鳴らされる音が聞こえてくる。
 月蝕は進み、先ほどよりも月が赤い影に覆われている面積が増えている。血のような赤色はあともう少しで月をすべて覆い尽くそうとしていた。繊月のような細い線が白く頼りなく光を放っている。
(もう、まもなくか……)
 アルキスは手元の槍を握り直す。その瞬間、広場の入り口が唐突に騒がしくなった。ざわつきは僧兵たちの間を伝播し、最後尾に配置されていたアルキスたちのもとにまで伝わってきた。
「何だ?」
 アルキスはエルトンと顔を見合わせる。そんなことをしている間にきちんと整列していたはずの僧兵たちの列が崩れていく。
 何が起こっているのだろう。アルキスは呆然と立ち尽くす。数秒の後、騒ぎの元凶はアルキスたちの前に姿を現した。
 亜麻色の髪に鳶色の瞳の四十をいくつか過ぎた男だった。僧兵たちから庇うかのように、男は頭にリボンを結んだ黒髪の赤ん坊を片腕でひしと抱いている。
 男はアルキスの横から右足を引っ掛けた。そして、赤ん坊を抱いていない方の手――左手でアルキスの肩を押す。
「うおっ」
 アルキスはたたらを踏んだ。その隙を逃さずに、男はアルキスとエルトンの間に飛び込む。
 エルトンは男の腕を掴んで止めようとしたが、その手は空を切る。ちっ、とエルトンは舌打ちをする。
 男はアルキスたちの小隊の制止を振り切って、大聖堂のほうへ駆けていく。いや、あれは月の塔の方角だろうか。
 あ、とアルキスは情報と実体が脳内で結びつくのを感じた。今、自分たちの制止を張り切って走り抜けていった男こそ、先ほど自分たちが話題にしていた男ではなかっただろうか。
「――リコリス!」
 男は月の塔の下まで走っていくと、アルキスたちの知らない名前を叫んだ。鐘楼に続く螺旋階段へ彼は飛び込もうとする。「――させるか!」月の塔を守っていた僧兵たちだけでなく、大聖堂の前を警備していた僧兵たちまで集まってきて、彼を拘束する。
 鐘楼から鱗粉が散るように青い光が降ってくる。その幻想的な光景を娘の声が鋭く劈いた。
「――ヒースの馬鹿! こんなところまで何しに来たの!?」

「――我が右手は(くら)き闇を切り裂き、世界を光へ導かん。左手は新たな千年の未来を紡がんとする――」
 リコリスはこの日のために一言一句違わずに頭に叩き込んだ文句を滔々と誦じていく。見上げた空に浮かぶ満月は血の赤に侵されている。
(早くしないと世界が終わる……)
 あの月が完全に赤に染まってしまえば、世界は何者も抗えない闇に覆われるとされている。闇は生きとし生けるもののすべての生命を刈り取り、世界は空も大地も海もない無に還るのだという。そう聖典に記されている。
「神子アプローズ。世界に闇が降りるまで後三十分もない。急いでくれ」
 リコリスの背後に控えていた仕立てのいい法衣に身を包んだ老年の男――教皇はしわがれた淡々とした声で彼女をせき立てた。予定の段階では余裕があったはずの儀式のスケジュールがこんなに押しているのは誰のせいだと言いたくなったが、「わかっております、聖下」リコリスは目と首元に天恵の青い光を宿したまま、恭しく頭を下げた。刺繍の施された白いベールがさらりと揺れる。
 そのとき、教会前の広場がざわざわとさざめき立ったのをリコリスの聴覚が捉えた。まさか、とありえない予感が彼女の背筋を駆け抜ける。ヒースとは今朝、しっかりとお別れを済ませてきたはずなのに。心臓が早鐘を打つのを無視して、リコリスは祝詞の続きへと戻る。普通の儀式ならいざ知らず、今日だけは一秒でもその瞬間が遅れれば世界が終わる。
「――この目は次の未来を見通し、この唇は続く世界を寿ぐだろう。そして――」
「――リコリス!」
 塔の下から自分を呼ぶ声がする。リコリスは鐘楼から身を乗り出して、下を覗き込む。天恵の青い光に照らされて、男と赤ん坊が僧兵たちに取り押さえられようとしていた。
(ヒース……カルミアまで……!)
 リコリスの視界がじわりと滲む。もう会えないと思っていた二人がこうして無茶をして会いにきてくれた。嬉しいやら腹立たしいやらで感情がぐちゃぐちゃになる。
「――ヒースの馬鹿! こんなところまで何しに来たの!?」
「ただ、ただ一目会いたかったんだよ、悪いか! 愛する妻を独りで死なせて、儀式が終わるのをのうのうと待っていられるほど俺は神経が太くないんだよ!」
「本当に、馬鹿っ……!」
 リコリスの頬を涙が伝う。涙と一緒に燐光が彼女の眼窩から溢れ出す。
「あたしの覚悟を何だと思ってんの……! もう会えなくても、幸せに生きてくれればそれでいいって思って、儀式も嫌がらせも全部耐えて今ここに立ってるっていうのに……!」
「お前の覚悟を踏み躙ったことは悪いと思ってる。だけど、やっぱり最後まで寄り添っていたい。俺はお前の夫だから。俺たちは家族だから」
 うぎゃああああという赤ん坊の鳴き声が響く。見れば、ヒースからカルミアが引き離されようとしている。ヒースは縄で後ろ手に縛り上げられようとしていた。
 リコリスはドレスの肩口で涙を拭うと、すうっと息を吸う。腹部が空気で膨らむのを感じると、彼女は大音声を張った。
「――神子アプローズが告げる! その者たちを即刻解放しなさい! でなければ、儀式を中止し、あたしはこの塔を降りる!」
 そんな横暴な、と口々に僧兵たちから非難の声が上がる。しかし、二人を傷つけられることがリコリスはどうしても許せなかった。ずいと教皇が前に出て、しわがれた声で告げた。その声は決して大きくはないのに、遠くまでよく通った。
「いいだろう、私が認める。その男と赤子を解放してやれ。――しかし、この塔には決して入れるな」
 ヒースの手首を縛めていた縄が僧兵によって乱暴にナイフで切り落とされる。そして、引き離されていたカルミアを投げつけるかのようにして僧兵はヒースの元へと返した。
「これ以上、騒ぎを起こすようであれば、即刻この場から摘み出せ。そうでない限りは好きにさせておくがいい。
 男――ヒースといったか。二度目はないぞ。私もそれほど寛大ではない。心しておけ」
 そう言い放つと教皇は錫杖を手にリコリスの背後へと戻っていった。御意に、と僧兵たちは教皇の言葉に頭を下げた。
 僧兵たちが付かず離れずの距離を保ちながら、ヒースとカルミアの周りを囲む。カルミアは物々しい装備が怖いのか、ぎゅっとヒースの胸に顔を押し付けていた。
「ヒース……大丈夫? 覚悟はできてる? あたし、あなたの前でこれから死ぬんだよ?」
 駄目そうなら帰った方がいいとリコリスは促した。ヒースはかぶりを振る。
「大丈夫だ。全部見届ける。そして、将来、カルミアに伝えてやるんだ。リコリスは――お前のママは立派に生きてその生命をまっとうしたんだって」
「……そう」
 わかった、とリコリスは頷いた。ヒースは頷き返す。その鳶色の双眸が頑張れと言ってくれているような気がした。その言葉があれば何だってできる。
 リコリスは定位置に戻ると、再び祝詞を誦じ始める。この二年半ほどの間の出来事が鮮やかに脳裏に蘇る。
「――我が骨はこの世界を支える礎とならん」
 ヒースと教会墓地で出会ったときのこと。あのころのヒースはろくに仕事もせず、酒と煙草に溺れ、世捨て人のような生活をしていた。亡き妻のミュゲのことを想って泣いていた。
「――我が血液は大地を潤す水流とならん」
 ヒースと二度目に会ったとき。彼はリコリスのためにサンドウィッチを作ってきてくれていた。お世辞にも上手いとは言えなかったが、人の思いが詰まった食事はこの世の何よりも美味しく感じた。
「――我が肉体は世界へと還り、新たなる神子へとその力を継ぐだろう」
 ヒースとの初デート。ただ、カフェでお茶をするという子供じみたものだったが、心から楽しいと思ったのはあれが初めてだった。
「――世界よ、感じよ。満ちゆく女神の天恵(ちから)を」
 ミュゲと過ごした日々を聞かされ、そして恋人同士になった日。リコリスはミュゲの想いを汲んで、彼の背中を押した。
「――我が天恵(ちから)は地脈を走り、眠りにつきゆく世界を揺り起こすだろう」
 ヒースと行った夏至祭。わざわざ祭に行くために事前にリコリスのための一張羅を用意してくれた。ぶっきらぼうな優しさが嬉しかった。そして、二人で赴いた祭では流行りの歌劇を観て、いろいろな物を飲み食いした。リコリスはドレスの内側に下げたネックレスの存在を意識する。
「――大地に満ちし天恵(ちから)は、神が創りし子供たちを包まん」
 恋人になって半年の夜。二人は初めて肌を重ねた。抱きしめられる喜びを、貫かれる痛みを初めて知った。女としての生の歓びを彼に教えてもらった。
「――天恵は最期の祝福だ。時代を切り拓くための青き剣だ」
 妊娠がわかった日。生まれてくる子どもがまだ男の子なのか女の子なのかもわからないのに、あれを買おう、これを買おうとはしゃいでいたヒースの顔が忘れられない。この人なら安心して子どもを託せるよい父親になってくれると思ったのを覚えている。
「――女神よ。我が半身よ」
 恋人になって一年が経った日。ヒースはリコリスを公園に連れだし、夫婦になろうと言ってくれた。そのときに渡された白いチューリップは今は押し花の栞になっている。あれを見てヒースはきっと思い出し泣きをするのだろう。あの人は優しい人だから。
 あのときに言われた言葉は今もドレスの内側で、彼がくれた財布とともにある。彼との繋がりを示す指輪も左手の薬指で燐光を受けてきらめきを放っている。
「――死の闇を祓う力を我が手に」
 カルミアが生まれた日。あの日見た空が忘れられない。あれを見てリコリスは自分がこの子の未来を繋ぐための希望となろうと思えた。彼女のこの先の幸せな未来への希望を背負おうと思えた。
「――出よ、輝ける光の剣(クラウ・ソラス)!」
 カルミアが生まれてからの日々は早かった。気がつけば歯が生えて、床を這うようになって、掴まり立ちをするようになって。乳離れをさせるために、普通より離乳食を早めに始めることになって。きちんと作り方のコツは教えたが、あの料理下手なヒースはきちんと離乳食を作ってやれるのだろうか。
 そして、先月のカルミアの誕生日。ヒースがカルミアのために高価なリボンを大量に購入したきたときは苦笑を禁じ得なかった。あれからしばらく黒パン生活が続いたのも今となってはいい思い出だ。
「――我が生命を糧とし、天恵(ちから)を解放せよ!」
 儀式がやっぱり怖くなって泣き言を言って。それでも二人のために儀式で生命を散らすことを決意して。二人は充分すぎるくらい、リコリスに幸せをくれた。自分は幸せだったのだということを胸元のロケットと手首のリボンが教えてくれている。離れていてもそばにいる。ヒースはそう言っていた。
 自分が生命を落とすことで二人が悲しむことだけが心残りだが、他には思い残すことなんて何もない。
「――終滅の夜(エクリプス)よ、去れ。世界よ、夜の果てを知れ。我、神子アプローズは世界に黎明をもたらす者なり」
 リコリスの手の中に薔薇の意匠の青い光の細剣が顕れた。リコリスは剣を真っ直ぐに天に掲げ、切先を右上に白い輪郭を残して真っ赤に染まった月へと向けた。
 明かりの消えた街に青い光が満ちていた。ヒースにカルミア、僧兵たちが青い光の粒子に包まれている。リコリスには、遠き彼方の山も海も、訪れたことのない知らない街も――世界中に天恵が満ちていることが感じられた。
「――世界よ、廻れ(ゼーレン・ライグニング)
 リコリスは朗々と告げる。リコリスの握る剣の刀身は空はと向かって雲を切り裂いて伸び、赤い月を貫いた。
 剣が青い光の粒子となってほろほろと崩れ始める。それと同時に赤く染まっていた月は左端から本来の色を取り戻し始めていた。
 リコリスの全身が青い光の粒子に変わり始める。彼女は鐘楼から身を乗り出すと、そのまま華奢な身を投げた。
「――リコリスっ……!」
 ヒースの声がする。リコリスは満足げに微笑んだ。
 足元から身体が青い光の粒子となって解けていく。足が、腹が、胸が、燐光となって夜闇に溶けていく。
「――ヒース」
 リコリスは光の粒子となって解け始めた腕で真下にあったヒースの顔を引き寄せた。愛しい人に触れているはずなのに、もう手の感触がない。
「カルミアのこと、お願いね。そして、あなたはどうか幸せに生きて」
 リコリスは光の粒子がまとわりつく唇をヒースのそれに重ねた。この一瞬がずっと続けばいいのにとリコリスは願う。けれど、そんなことは廻り始めた世界が許さない。
「――」
 唇を離すと、リコリスは何事か囁いた。しかし、その声は空気を震わせることはなかった。声にならないその五音。それが何だったのかヒースにはわかった。俺もだ、とヒースは彼女の言葉に応える。
「――リコリス。愛してる」
 リコリスは消えかけた唇をカルミアの額にそっと落とした。そしてまるで女神リュンヌのように美しく優しく微笑むと、リコリスの顔は青い粒子となって解けて消えていった。
 どさっと音を立ててその場にリコリスが着ていたドレスとベールが落ちた。ドレスの中から、ヒースが贈った青灰色の財布が転がり出る。こんなものを最期まで大事にしていてくれたなんて。胸の奥を熱いものが去来する。
 きらりと光るものが空中から降ってきて、ヒースは手でそれを掴んだ。それはヒースがリコリスに贈ったネックレスと指輪だった。今朝、リコリスに贈ったロケットチャームを開けば、そこには今日彼女が家を出るまでそこにあった幸せな家族の風景が描かれていた。
「ぱー! しー!」
 パパ、下。そう言われてヒースはしゃがみ込む。するとそこにはカルミアが今朝リコリスに贈った赤いリボンが落ちていた。
「あ、あ……」
 声が震える。ヒースは漏れ出しそうになる嗚咽を噛み殺す。ぎりっと奥歯が鳴った。
「りこ、りす……」
 涙が眼窩を溢れ出す。鼻の奥がつんとする。
 彼女は笑顔で往った。せめて、自分も笑顔で送ってやらないと思うのに、涙が滂沱と溢れて止まらない。
 まだすぐそばにリコリスの気配を感じる。けれど、手を伸ばせども彼女に触れることは能わない。髪に、頬に触れようとした手は空を切り、居場所を失った。
 胸が痛い。心が擦り切れてしまいそうに痛い。それでも、自分は顔を上げて生きていかないといけない。何より自分はカルミア(希望)を託されたのだから。
 ヒースは顔を上げると口元を釣り上げる。涙でぐちゃぐちゃの不細工な笑顔だったが、それがヒースが今できる精一杯だった。
 頭上の鐘楼から荘厳な声が響いた。しわがれた老人の声だった。
「――黎明の儀は成った。これにより、終滅の夜(エクリプス)の闇は祓われ、世界は新たな千年を迎えるだろう。――新たな千年に幸多からんことをここに祈ろう」
 錫杖がしゃんと鳴る。月の塔の前を警備していた僧兵たちは十字を切り、儀式の成功を寿ぐ言葉を誦じた。
 ヒースが振り返れば、遠目に教会前広場の向こうの中央通りに明かりが灯り始めていた。藍色の空の下、人々は日々の営みを取り戻していく。
 世界を覆っていたリコリスの天恵の光は徐々に薄れ、夜闇の中に消えていく。南の高い空に浮かぶ満月は何事もなかったかのように白く世界を照らしていた。