カルミアがやたらと口元を気にするようになったのはヒースの誕生日間際のことだった。暦の上では春を迎えたものの、まだ雪風巻(ゆきしまき)が窓を叩く季節のことだった。
 このごろ、カルミアは涎が増えたり、物を齧ったりすることが増えていた。リコリスのことをママと呼びたいのか、「まー!」未だ呂律の回らない声で彼女のことを呼ぶことも増えた。パパと呼んでもらえる兆しは今のところないため、ヒースはいたく落ち込んでいたが。
 カルミアが生まれて、この半年、ひどく大変だった。カルミアは何かあるとすぐにぐずる子だった。理由はミルクだったり、おしめだったり、上手く寝られなかったりだとかさまざまだったが、カルミアは一時間とおかず、リコリスのことを泣いて呼び立てた。
 カルミアが生まれ、バタバタとした中でリコリスの十八の誕生日が過ぎていった後から、新年の儀の準備が舞い込んできた。産後のぼろぼろな時期だったが、二年連続神子が新年の儀を欠席するわけにはいかなかった。最早公然の秘密と言っては大袈裟ではないが、ヒースとカルミアのことについて追及しない代わりに自分の務めは果たせという教会からの重圧がかけられていた。リコリスが教会に顔を出したところで冷ややかな視線を浴びせられるだけなのだが。唾棄したい、どころか実際に唾を浴びせられたことすらある。
(今日の会議もほとんど中身なんてなくって、嫌味ばかりだったな)
 リコリスは小鍋で柔らかい粥を作りながら溜息をつく。だけど、これもあと数ヶ月の辛抱だ。
(数ヶ月――あたしがヒースとカルミアと一緒にいられるのはそれだけの間)
 リコリスは唇を噛んだ。寝室から聞こえるカルミアの寝息。すぐそばのダイニングテーブルでヒースが革を縫っているシュッシュッという規則的な音。ぐつぐつと煮える鍋の音。家の外で鳴る教会の鐘。テーブルでゆらゆらと揺れるランプの灯り。
 こんな何気ない風景をあと何回見ることができるのだろう。リコリスのヘラを握る手にぐっと力がこもる。
「どうした、リコリス。何か焦げ臭くないか?」
 嗅覚に異常を感じたヒースは作業の手を止め、立ち上がるとリコリスの手元を覗いた。リコリスがカルミアのために作っていた粥は黒く焦げ付いてしまっていた。
「あ……」
「大丈夫か? 疲れてるんじゃないか?」
 優しいヒースの言葉に大丈夫とリコリスは首を振った。こんなふうにすぐに心乱されるようでは、今後が思いやられる。
「ちょっと考え事してただけ」
「ならいいが……」
 なおもリコリスを見つめる鳶色の双眸には気遣わしげな色が浮かんでいる。そのとき、ふぎゃあ、ふぎゃあという赤子の泣き声がベッドルームの方から響いた。
「俺が見てこようか?」
「大丈夫。あたしがいく。たぶんお腹が減って目が覚めたんだろうから」
 よくわかるな、とヒースが感心して息を漏らす。当然だ。カルミアのことくらい、手に取るようにわかる。
「だって母親だし。……ヒース、悪いんだけど鍋洗っておいてもらえる?」
「わかった。カルミアの飯も作り直しておこうか?」
「それはあとでやるからいいよ。ヒース、大人用の煮込み加減はわかっても赤ちゃん用のはわからないでしょ」
 それは、とヒースは不満げに口を噤んだ。それじゃあカルミアの様子見てくる、とリコリスはエプロンを脱ぐとダイニングチェアの背にかけ、ベッドルームへ消えていった。
 リコリスはベビーベッドからカルミアを抱き上げるとぽんぽんと背中を撫でてやる。そして、ベッドに腰掛けると、リコリスはブラウスのボタンを外し、胸部を露出させた。
 ふにゃふにゃと泣いていたカルミアはすぐにリコリスの乳首に吸い付いた。胸を軽く引っ張られるような感覚を味わいながら、リコリスは慈愛に満ちた目で懸命に乳を吸う我が子に視線を落とす。今のリコリスは彼女とヒースのために生きている。
 こり、と固いものが不意に乳首に触れた。なんだろう、と思いながらリコリスはカルミアが乳を吸い終わるのを待つと、彼女の口の中を確認した。
「あ!」
 まー? 、とカルミアはリコリスを見上げながら不思議そうな顔をする。「ヒース! ちょっと来て!」リコリスは流しで彼女が焦がした鍋を洗っていたヒースを大声で呼んだ。「なんだ!? どうした!?」ヒースはシャツの裾で濡れた手を拭うと、とるものもとりあえずといったふうにベッドルームにかけつけてくる。
「ヒース、これ……見て」
「ん?」
 リコリスが指さしたのはカルミアの口の中だった。彼女の下の歯茎の中央に何やら白いものが埋まっているのを見てヒースは瞠目した。それを見てリコリスはふふふ、と笑みを浮かべる。
「歯が生えたの。子どもの成長って早いよねえ。ついこの前まで一日中ずっと泣いてたのに」
 そうだな、と頷くとヒースは目元を指先で拭う。もう、とリコリスは苦笑した。
「このくらいで泣いててどうするの。これじゃあカルミアが彼氏を連れてきた日には大号泣じゃない」
「やめろ、今はそういうことは考えたくない……本当に泣けてくるから……。それに喜ばしいことじゃないか。どんな些細なことだって、俺はお前と一緒に祝っていきたい」
「そんなことしてたら一年中が何かしらの記念日になっちゃうよ」
「それも悪くないだろ。毎日が特別な日なんて幸せなことじゃねえか。それを祝うときにはいつだって、お前とカルミアがいて、思春期にもなればカルミアがだんだんとそういうのを嫌がるようになって……」
「……その夢、叶えてあげられなくてごめんね」
 リコリスの目にも涙が浮かぶ。リコリスが神子なんかじゃなければ、きっとそうやって年をとり、カルミアの成長を祝っていけたのだろう。それがきっと普通の人生で、普通の家族だ。しかし、女神リュンヌがリコリスにその普通を許してくれたのはほんのわずかな間だった。
「まー?」
 母親の心の揺らぎを感じたのか、カルミアが不安そうにリコリスを呼んだ。大丈夫。大丈夫だよ。リコリスは己に言い聞かせるように呟くと、小さなカルミアの身体を抱きしめた。
 ヒースの腕がリコリスとカルミアを包んだ。お前のせいじゃない、と掠れた声で言うと、ヒースはリコリスの額に唇をつけた。
 互いが鼻を啜る音がランプでぼんやりと照らされた部屋に響く。嗚咽と嗚咽が混ざり合ってどちらのものかわからなくなる。
 ランプの蝋燭の火が消え、部屋が暗闇で満ちるまで、三人はそうやって身を寄せ合ったまま動かなかった。

 木々を彩っていた薄桃色の花ははらはらと散り、柔らかな薄青の空には綿雲が靉靆と戦いでいた。窓を開けた部屋の中を抜ける空気は過ごしやすく心地よい。時折カーテンがばさばさとはためく音が小鳥たちの会話に挟まるようにして聞こえてくる。
 リコリスとヒースが恋人となり二年、夫婦となって一年が経った。少し前からカルミアは床の上を這い回るようになっていた。
「ふっ、ふぎゃああっ」
 床を這い回っていたカルミアはダイニングとベッドルームの敷居に手を引っ掛けて盛大にバランスを崩す。ごち、と鈍い音が響く。
「カルミア!?」
 ダイニングにいたヒースは作業をほっぽりだすと、愛娘のそばへとすっ飛んでいく。びえええと泣き喚くカルミアを抱き上げるとヒースはおろおろと声を上げる。
「大丈夫か!? 怪我とか……そうだ、今すぐ施療院に」
 ベッドルームで洗濯物を畳んでいたリコリスは、ヒースへと近づくとカルミアを抱きとった。ぽんぽんと背中を叩いてあやしてやるうちに、何事もなかったかのようにカルミアは大人しくなった。
「まったくもう、ヒースは心配しすぎ」
「だけど、頭打ってたぞ。打ちどころが悪ければ死ぬことだって……」
「ちょっとぶつけただけでしょ。このくらいの月齢の子にはよくあることだよ」
「それはそうかもしれないが……ところで、リコリス。カルミアは床を這うのがちょっと下手すぎると思わないか? まさか、生まれつきどこか悪いとか……」
 眉根に皺を寄せ、深刻な顔になるヒースをリコリスは一笑に付した。いくらなんでも悲観的にすぎる。
「それこそ心配しすぎだよ。成長には個人差があるんだしそんなに気にすることないって。それにそもそも、床を這い回る過程をすっ飛ばしていきなり掴まり立ちをする子どもだっているらしいんだから大丈夫だよ」
「それならいいが……」
「こんなことでいちいち大騒ぎしてるんじゃ、後が思いやられるなあ」
 やれやれ、とリコリスが肩をすくめると、心配そうにちらちらとこちらを見やりながら、ヒースはダイニングへと戻っていった。
 リコリスが二人のそばにいられる時間はもう半年もない。リコリスが十九になる日の夜、終滅の夜(エクリプス)は訪れるとされている。
 リコリスはカルミアが泣き止んだのを確認すると、床へと座らせた。そして、リコリスがカルミアに小さなうさぎのぬいぐるみを渡してやると、カルミアは哀れなうさぎをはむはむと食み始めた。
 その間にリコリスはベッドのシーツを新しいものに取りかえ、洗濯物をクローゼットへと片付けていく。カルミアを視野の隅に捉えつつも、リコリスが家事を片付けていると、「まー!」唐突にカルミアがリコリスを呼んだ。
 どうしたの、とリコリスはカルミアを振り返る。そして、彼女は真紅の双眸を思わず見開いた。
 カルミアがベッドのふちに捕まるようにして立っていた。両足の裏を床につけて立っていた。
「わあ……! カルミア、すごいね! 上手、あんよ上手……!」
 褒められたカルミアはきゃっきゃと笑い声を上げた。何やら喃語を口にしながら、うさぎのぬいぐるみをぐるぐると振り回している。
 すごいすごいとリコリスがカルミアを誉めそやしていると、ベッドルームが騒がしいことに気づいたヒースが再び顔を覗かせた。
「どうかしたのか、――って!」
 ヒースは立ち上がっているカルミアを見て鳶色の目を丸くした。そして、リコリスを恨めしげに見やりながら、一人だけ除け者にされたことに対してむくれた表情を見せた。
「何で呼んでくれなかったんだよ! 俺も歴史的瞬間に立ち会いたかった!」
「歴史的って大袈裟な……」
「俺の娘の成長は聖月史に余さず残すべき偉業だ!」
 カルミアが己の足で立ち上がるその瞬間を見られなかったことを悔しがるヒースをカルミアは父と同じ色の目で不思議そうに見やりながら、「ぱー?」あろうことか持っていたうさぎのぬいぐるみをヒースの顔面に投げつけた。
「あっこら、カルミア、だめだよ。そんなことしたら、パパもうさぎさんも痛い痛いだよ?」
「いーたー?」
「そう、痛い痛いなんだよ。だからそういうことはやっちゃだめ」
「いや、いいよ、元気なことはいいことだ……」
 ヒースはカルミアの唾液に塗れたうさぎのぬいぐるみを拾い上げる。まったくもう、とリコリスは吐息を漏らす。
「駄目なことはちゃんと駄目って教えなきゃ駄目だよ。親馬鹿はいいけど馬鹿親になっちゃ駄目」
「はい……」
 リコリスに叱られてヒースは悄然と項垂れる。カルミアが生まれてからこうやって叱られることが増えた。これではどっちが年上かわかったもんじゃない。
(子どもを産むと女は変わるっていうけど本当だな……)
 ヒースは遠い目で窓の外を見る。何となく最近のリコリスの物言いは亡くなった母親の物言いを彷彿とさせた。
「歩けるようになった瞬間は、今度こそ俺も見届けたいなあ……」
「それはどうだろうね? カルミアは何かしたとき大体まずあたしのこと呼ぶから」
「……」
 確かに、とヒースは再び項垂れる。まあまあ、とリコリスはヒースを慰める。
「その代わりさ、初めて歯が抜けた日も、初めて一人で用足しにいけるようになった日も、初めて文字が書けるようになった日も……初めて彼氏を連れてきた日も、お嫁に行った日も、初めて孫を腕に抱いた日も、他の誰よりもうんと祝ってあげて。あたしがいない分、ちゃんと二倍喜んであげて。カルミアが幸せに歩ける未来を、あたしがちゃんと残すから」
「……そうだな」
 カルミアはリコリスの膝によじ登ろうとしている。リコリスの睫毛の先が、肩が、背中が震えていることに気づくと、ヒースはそれ以上何も言えなかった。
 カルミアはリコリスのことをいつまで覚えていられるのだろう。いつか彼女が物心ついたころに、リコリスがどんな人物であったか一つも余さずに語れる自分でいたいと思った。
 それだけがヒースがリコリスのために、カルミアのためにできることだった。
「さて、今日は記念日だな。夕飯を豪勢にしよう。何がいい?」
 ヒースはカルミアにうさぎのぬいぐるみを渡してやると立ち上がる。また? 、とリコリスは微苦笑する。
「じゃあ、うさぎのパイで。……でもそんな凝ったものヒース作れないよね? 材料買ってきてもらっても結局作るのあたしじゃあ」
 リコリスは半眼でちらりとヒースの顔を見やる。視線の矢がぐさぐさと突き刺さって、ヒースはうっと言葉に詰まった。
「誠心誠意お手伝いさせていただきます」
「よろしい」
 何でもないやりとりがなんとなくおかしくて、二人はぷっと吹き出した。そして、ヒースはトートバッグと財布を掴むと「行ってくる」玄関の扉を出て行った。
「まー」
 ベッドルームではまたカルミアが掴まり立ちをしていた。カルミアの鳶色の双眸にはイチイの生垣の上から覗くヒースの横顔が映っていた。

 聖月暦六〇〇〇年八月七日。その日はカルミアがこの世に生を受けて一年の記念日だった。
 外では蝉が鳴き、容赦ない日照りで滝のように汗が流れていく。夏木立は炎陽に晒され、黒々とした影を地面に刻んでいる。洗濯日和だとリコリスは庭の物干し竿に干したシーツをぱんぱんと叩いた。
 月日は流れ、カルミアはよちよち歩きができるようになっていた。ベッドルームを歩き回ってみたり、ダイニングで仕事をしているヒースのもとに行ってみたりと忙しなく歩き回っている。
「あ」
 が、よく転(こ)け、よく泣く。今もダイニングにいるヒースの元へ行こうとして、部屋の敷居に蹴躓いて転んだ。うわああああん、とカルミアの鳴き声が部屋の中を抜け、夏風に乗って蒼穹へと響く。
「大丈夫か、カルミア。痛かったな」
 ヒースは作業の手を止めて立ち上がると、泣き喚くカルミアを抱き上げる。慣れたふうにヒースはカルミアをあやしながら、怪我の有無を確認していく。特にどこかを痛めている様子はない。ただ単に転んだことに驚いただけのようだ。
「どうしたの、カルミア。また転んだの?」
 洗濯物が山のように積まれた籐の籠を抱え、リコリスが勝手口から家の中へ入ってきた。彼女はその場に籠を置くと、ヒースの腕の中にいる愛娘の頭を撫でた。
「そういえば、カルミアももうだいぶ髪が伸びたね。そろそろ結べるんじゃないかな」
 リコリスはベッドルームへ戻るとベッドサイドテーブルの中を漁る。前にマルシェで買った焼き菓子のラッピングに使われていたリボンが可愛らしくて、捨てるには忍びなく取っておいた覚えがある。
「あった」
 目的のものを引っ張り出すと、リコリスはダイニングへと取って返す。リコリスは自分と同じ色の愛娘の細くて柔らかい髪をそっと束ねると、淡いピンク色のリボンを結んでやった。
 カルミアは何をされたのかわからなくてきょとんとしていたが、リコリスが手鏡を持ってきて見せてやると、きゃっきゃと笑った。
「小さくても女の子なんだなあ」
 ヒースは腕の中の我が子を覗き込みながら感心する。隣のジョルジーニには息子がいるが、幼いうちから剣の玩具に興味を示していたと言っていた。男女でこうも違うものか。
 今日はカルミアの誕生日だ。せっかくなら、カルミアの喜ぶものを贈ってやりたい。それならリボンはうってつけだと自分の思いつきにヒースは内心で鼻を高くした。
「マルシェに行ったら、リボン探してくるよ。俺の娘ならたぶんどんな色でも似合うんだろうなあ」
「親馬鹿」
「女の子ならおしゃれしたいよなあ。お姫様みたいなドレスは無理でも、アクセサリーとかもいろいろ揃えたりしてさ」
「アクセサリーはだめだよ。間違って飲み込んだらどうするの」
「うっ……でも、親としては与えてやれるものは与えてやりたいだろ……」
「それはあたしだって同じだからわかるよ。だけど、それはいつかの楽しみに取っておいてよ」
 わかったよ、とヒースは拗ねたように唇を尖らせる。その様をリコリスは愛おしいと思った。
「それはそうと、作業にキリがついたらマルシェに行ってきてよ。今日は気合い入れてご馳走作るからね」
「何買ってきたらいいんだ?」
「牛もも肉の塊。付け合わせの野菜はヒースのセンスに任せる」
「了解。もう少ししたら行ってくる。ちなみにカルミアの誕生日プレゼントなんだけど、リボンは十本くらいまでなら構わないよな?」
「三本にして。ヒース、しばらく黒パンしか食べられなくなるよ」
「せめてそこを七本で……カルミアの笑顔のためなら俺の飯なんて構わないから」
「五本。あんまり高いのは買わないでよね。このくらいの歳の子にリボンとか与えても涎まみれにされるのがオチなんだから」
「はーい……」
 ヒースはリコリスにカルミアを渡すと、すごすごとダイニングテーブルへと戻っていき、作業を再開する。「赤か? それとも白か? でも今の時期、水色やミントグリーンも捨て難いな……」淀むことのない運針で革と革を縫い合わせながら、ヒースは何やらぶつぶつと呟いている。これは五本じゃ収まりそうにないなとリコリスは肩をすくめると、カルミアをそっと床に立たせてやった。
「ママはお片付けものしてくるからいい子にしてられる?」
「うー!」
 ヒースがうんうん唸っているのを聴覚で捉えながら、リコリスは洗濯物の入ったカゴの中身を畳み始める。カルミアは自分の誕生日であることもつゆ知らずにお気に入りのぬいぐるみで遊んでいた。

「「――カルミア、お誕生日おめでとう」」
 リコリスが作った料理を平らげ、お腹がくちくなると、リコリスとヒースは愛娘の生誕一周年を寿ぐ言葉を口にした。ヒースはベッドルームからプレゼントの箱を持ってくると、ベビーチェアのテーブルの上に置いてやる。
「ほら、中身は何かな? ママと一緒に開けてみようか」
 リコリスはカルミアの手にリボンの端を一本握らせてやる。もう一本の端はリコリスが握ると、「せーの!」カルミアに合わせるようにして引っ張った。
 リボンが解けると、ピンクの水玉の可愛らしい包装紙に包まれた箱が口を開ける。すると、そこから顔を出したのは色とりどりのリボンだった。
 花柄の刺繍がなされたベージュのリボン。銀糸で薔薇が刺された青いリボン。柔らかな薄桃のシフォンのリボン。白地に水玉の散ったリボン。様々なリボンがある中でカルミアが真っ先に手に取ったのはサテンの真紅のリボンだった。
「まー! めー!」
 ままのめとおなじいろ。そう言いたかったのだろうとリコリスは察する。自分にとって忌むべき運命の色を純粋にそう言ってもらえるのはなんだかすこしこそばゆかった。
「その色が好きなの?」
「うー!」
「それじゃあそのリボンを結んであげる。汚しちゃいけないから、他のは一旦ないないしようか」
 リコリスは目配せをすると、ヒースにプレゼントの箱をベッドルームに持って行かせる。リコリスは自分と同じ色の細くて柔らかい髪を手櫛で梳る。髪を一房掬い取ると、自身の目と同じ色のリボンを結んでやる。まだ幼いカルミアの髪はきちんと結い上げるには少なく、うさぎの耳のようにぴょこんと頭上で立ち上がった。
「よし、かわいいね、カルミア」
 リコリスは愛おしげにカルミアの頭を撫でる。何があってもこの愛らしい生命を守らないと。きりきりと痛みが胸を締め付ける。同時にこんなに愛おしい生き物はこの世にいないとも思った。誰かに見せびらかせたいような、大事に箱にしまって隠しておきたいような気持ちが綯い交ぜになって込み上げてくる。
「やっぱり、カルミアは可愛いな。俺の見立て通りだ」
 ベッドルームから戻ってくると、うんうんと親馬鹿全開でヒースは頷く。もし、絵が描けたなら、今のこの一瞬を切り取って永遠にしまっておきたいと彼は思った。
(――絵。そうか)
 できることなら、最後の一瞬まで、リコリスにしてやれることはしてやりたい。あと一ヶ月と少しでこの世を旅立つリコリスへの餞に間に合わせられるなら、最後の贈り物をしてやりたい。
「ヒース? どうしたの?」
 物思いに耽っていたヒースはリコリスの声にはっと現実に引き戻された。何でもない、とヒースは首を横に振る。
「そういえば、ケーキを食べるんだったか」
 ヒースは立ち上がると食器棚の扉を開く。彼は三枚の皿と二本のフォークを取り出すと、テーブルに置いた。
 リコリスはキッチンに置いていたパンプキンケーキを持ってくるとテーブルの上に置く。山吹色をした自然な甘い香りが漂うそれは、食べやすいように事前に切り分けられている。各ピースの縁は泡立てた生クリームで彩られ、表面には粉糖の霜が降りている。
 リコリスはピンクと白のストライプの蝋燭を一本持ってくると、ランプの蓋を開けて火をつけた。リコリスはカルミアに一番近いケーキに蝋燭を刺してやると、手本を見せるように唇をすぼめてみせる。
「ほら、カルミア。ママの真似をしてふーってしてみて。ふーっ」
 カルミアは頬いっぱいに空気を吸い込むと、唇をすぼめて蝋燭に息を吹きかけた。しかし、小さな炎は微かな風に揺れるばかりで消える様子はない。
「よし、カルミア。パパも一緒にやるから、もう一回やってみようか。ふーっ、だ」
 ヒースはカルミアと視線を合わせると唇を尖らせる。カルミアはもう一度空気を吸い込むと、「ふぅぅっっ」その吐息で蝋燭の火をかき消した。
 リコリスとヒース、双方から自然と拍手が沸き起こった。一年前の同じ日にあんなにふにゃふにゃとして頼りなかった生き物がこんなにも大きく成長したことにリコリスは感慨を覚えていた。
(嗚呼――来年も再来年も、ずっとその先もこの子の成長を見たかったな)
 だけど、その役目はヒースに託す。彼ならば自分の何倍もこの子に愛情を注いでくれるだろう。
 じんわりと目元が熱くなるのを堪えるようにリコリスは唇を強く噛む。涙の気配を押し隠して、リコリスはケーキを皿に取り分け始める。その胸中はじきにそばにいられなくなることへの葛藤と、我が子のこの先を祈る気持ちで占められていた。

 すう、すう、と安らかな寝息が聞こえる。夏も終わりに近づき、家の外では虫たちが子守唄を奏でている。
 かち、かち、と時計の秒針が動く音が響く。一体今は何時なのだろうとリコリスは上体を起こすと、闇に目を凝らした。ざっとシーツが擦れた。
「ん……リコリス、どうした?」
 リコリスが動いたことで目を覚ましたのか、ヒースがむにゃむにゃと眠そうな声で聞いてくる。なんでもないよ、とリコリスは再びシーツの間に体を沈めた。
 時計の秒針は変わらず一定の間隔で時を刻んでいく。どのくらいの時間が経っただろうか。わずか五分だったかもしれないし、一時間くらい経っていたかもしれない。リコリスは寝返りを打つとヒースの背へと自分の身体を寄せた。
「――ヒース、起きてる?」
 リコリスの囁く声にああ、と低いヒースの声が返ってきた。聞き慣れて耳馴染みのいい、少し掠れた大切な人の声だ。
「リコリス、眠れないのか?」
 ちょっと考え事、とリコリスの声がささめく。リコリスはぎゅっとヒースの背中にしがみつく。ふわっと蒸れた寝汗の匂いが鼻腔をついた。そんなことすらが愛おしい。
「ヒースは今、幸せ? あたしといて、幸せだった?」
「過去形にするなよ。未来永劫、俺は世界で一番幸せな男だよ。俺の幸せを望んでくれた人がいて、絶望の淵から引っ張り上げてまた明るい道を歩かせてくれた人がいて。それに可愛い娘にも恵まれて。きっとあの子はお前によく似た子になるぞ。目鼻立ちがそっくりだ」
「口元なんかはヒースそっくりだけどね。それに女の子はパパ似のほうが美人になるらしいよ」
 二人はカルミアが起きないように声を潜めたまま笑い合った。笑いを収めると、リコリスはあのさ、と歯切れ悪く切り出した。
「ここからはあたしのひとりごと。聞き流してくれても、寝ちゃってくれてもいいから」
 ヒースは寝返りを打つとリコリスの顔を覗き込んだ。やっぱり、と彼は呟く。雨が降り出す前の空の色のようにリコリスの表情は曇っていた。
「自分の妻がそんな顔をしていて、一人で寝られるような男じゃないよ、俺は。どうしたんだ?」
「あのね、ヒース……あたし、幸せだった。ううん、今もとって幸せ。だからこそ、怖くなったの」
 そうか、と相槌を打つと、ヒースは話の続きを促した。リコリスはぎゅっと目を強く閉じる。瞼の内側が熱い。依依恋恋とした気持ちが込み上げてくるのを感じながら、彼女は話の続きを口にする。
「幸せな時間には終わりがある。そんなことわかってたはずなのに、あともう一週間しかヒースとカルミアと一緒にいられない。そんなの……やっぱり嫌だよ。離れたくないよ」
「じゃあ、俺とカルミアと三人でディオースを離れるか? 教会の手の届かない大陸の果てまで逃げるんだ」
 駄目だよ、とリコリスは力なく首を横に振る。赤の双眸からはぼろぼろと涙が溢れ出していた。自分が言っているのはどうしようもない子どものような我儘だ。
「そんなことをしたって、この世界に終滅の夜(エクリプス)は等しく訪れる。あたしがいなければ世界は終わる――あたしたちは三人とも終滅の夜(エクリプス)の闇に呑まれて死ぬんだよ」
「……」
 ヒースは己の無力さに歯噛みする。自分のこの手では愛する女一人守ることすら能わぬのか。リコリスは涙をこぼしながら、自分の胸の内をヒースへと訴える。
「嫌だよ、終わりたくない。ずっとこのままがいい。ずっとこのまま三人で生きていきたい。わがままだってことくらい、あたしだってわかってる。たけど、どうしてそんなささやかな願いすら奪われないといけないの!?」
「俺だって同じだよ。俺だってずっとこのままがよかった。だけど、それが許されないことくらい、俺だってわかってる」
「……今度の儀式であたしは死ぬよ。世界が終滅の夜(エクリプス)を乗り越えられても乗り越えられなくても、それだけは確実に決まっていることだよ。
 ねえ、人って死んだらどうなるの? きっと、ヒースのこともカルミアのこともわからなくなっちゃうんだって、それだけはわかってる。あたしだけ、この世界を離れて、二人のいない場所に往っちゃうなんて、そんなの嫌だよ……!」
 嫌だ、とリコリスは聞き分けのない子供のように繰り返した。ヒースは彼女の体をぎゅっと抱きしめてやった。この生命の感触が、熱さが一週間後にはもうここにないなんて信じたくなかった。
「……死ぬのは怖いか?」
 当たり前じゃん、とリコリスは鼻を啜る。涙は彼女の眼窩の奥から溢れ出て止まらない。
「ヒースとカルミアのためなら、生命なんて惜しくない。二人の未来のためなら何度だって死んでやる。これは本心だよ。だけど、それとは別でやっぱり死ぬのは怖いよ。今のこの暮らしが終わるってことだから。あたし……いつの間にかすごく欲張りになってた」
「それでいいんだ。家族と一緒にいたいのも、死ぬのが怖いのも、それが"普通"ってことだから。リコリスは〝普通〟の人間なんだ。天恵の神子だとかそんなことは関係ない」
「普通……」
「俺だって本当はお前と一緒にカルミアの成長を見届けて、嫁に行くときに泣いて、初孫を喜んで……そんなふうに生きていきたかったよ。俺だって愛する女を二度も失いたくなんてない。だけど、俺を闇の中から掬い上げてくれたお前に惹かれちまったんだから仕方ないだろ。女神リュンヌは俺たち限定でどうやら意地が悪いらしい」
 敬虔な信徒のくせして何言ってるんだか、とリコリスは薄く笑った。涙でぐちゃぐちゃになった笑顔を見て、やっと笑ったな、とヒースはリコリスの黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「――リコリス。覚えておいてくれ。たとえ何があっても、俺は未来永劫お前を愛していると」
 愛してる。リコリスはその五音を唇に乗せる。やたらと塩辛いその言葉にリコリスはぐっと唇を釣り上げた。
「もう大丈夫。その言葉があればもうどんなことだって怖くない。ヒースのために、カルミアのために、あたしは終滅の夜(エクリプス)の儀式をやり遂げてみせるよ。カルミアの母親として恥ずかしくないように。いつか、ヒースにあたしは最高の女だったって言わせられるように、ね」
「いつだってお前は俺からしたら最高の母親だし、最高の女だよ」
 ありがと、と呟くとリコリスはヒースの胸元に頭をすり寄せる。最後の決意は済んだ。だけど、今はまだこうしてヒースに甘えていたい気分だった。今だけの今をもう少しだけ全身で味わっていたかった。可惜夜(あたらよ)という言葉がリコリスの胸に落ち、染み渡っていった。
「ヒース。朝までこうしてていい?」
「いいけど……カルミアにやきもち焼かれないようにしろよ」
 わかってる、とリコリスはヒースの腕の中でくすりと笑う。その暖かさと筋張った力強さに身体を預けると、リコリスはおやすみ、と瞼を閉じる。迫る終わりの足音を感じながら、リコリスは今この時の永遠を祈らずにはいられなかった。