その夜、シュリは高い熱を出した。片腕を切り落としたことを思えば、無理もないことだった。
「寒い……」
 ベッドの中でシュリは身震いをする。少し前から悪寒が止まらないし、体がだるくて仕方がなかった。
 どれ、とドゥーエはシュリの額に自分の額を近づける。ドゥーエの涼やかな美貌が近づいてくる。憂いの色が濃い赤い双眸には、しっとりとした色気が揺れている。すぐ近くで聞こえるかすかな息遣いが、衣擦れや長い髪の揺れる音が、やけに生々しく淫靡に聞こえる。迫りくる甘やかな予感に、シュリは思わず目を閉じた。
「……どうした?」
「べ、別にっ」
 またキスされるのかと思ったなどとは恥ずかしくて言えなかった。ふむ、と至近距離でドゥーエは目に面白がるような光を浮かべる。ぺろりと舌で唇の端を舐める仕草がやたらと婀娜っぽい。
「何か、期待したか?」
「……っ!」
 思考を見透かされ、シュリは絶句した。ドゥーエはふっと柔らかく微笑むと、
「今は熱があるからな。熱が下がったらいくらでもしてやるから、今はきちんと休んでくれ」
 今はこれで我慢してくれ、とドゥーエは少しぱさついたシュリの髪にキスを落とすと、顔を上げた。恋人じみたやりとりが恥ずかしくて仕方ないのに、彼のきれいな顔が離れていってしまうことをシュリは少し名残惜しく思った。まだもう少しこうしていたかったような気がするし、”その先”にあるものを知りたかったような気がした。
「もう他に毛布はないのか?」
 ドゥーエはシーツの上から重ねたローズブラウンの毛布へと目をやりながら、そう聞いた。シュリは照れと熱で真っ赤な顔を小動物のようにちらりと覗かせると、
「裏の納屋にもう一枚あったはず。ずっとしまい込んだままで干してないから、かなり埃っぽいと思うけど」
「取ってきてやる」
 ないよりはマシだろう、とドゥーエは踵を返す。ありがと、とその背を見送ろうとしたシュリは、ふと思い出したことがあってドゥーエを呼び止めた。
「納屋に軽石がいくつかあったはずだからそれも持ってきてくれる?」
 シュリの頼みにドゥーエは怪訝そうに振り返ると、
「構わないが……軽石など何に使うんだ?」
「軽石を暖炉で温めて、ベッドの中に入れるんだ。そしたら、何時間かあったかいから」
「なるほど」
 疑問が解けると、ドゥーエは再び踵を巡らせる。ドゥーエはダイニングテーブルの上にあったランプを手に取ると、表の扉を開き、いつもより強く暖炉の火が燃え盛る部屋を出た。
 ドゥーエは凍てつくような寒さに肩を縮こまらせながら、家の裏手へ向かった。夕方の雨はいつの間にか雪へと変わっていて、夜の闇に白いものがちらついていた。
 ドゥーエは手に自分の息を吹きかけると、ダークブラウンのスギで作られた納屋の扉を開けた。ランプを翳しながら、ドゥーエは目的のものを求めて納屋の中を探り始める。納屋の中はきっちりと整頓されていて、まめで真面目なシュリの性格を感じさせた。
 すぐに軽石を見つけ出したドゥーエは、それらを足元に置いた。昼間、河原までドゥーエが回収に行った鉈や焼きごて、短剣が無造作に置かれているのが視界の隅に映った。後で油を塗って片付けておかないといけないな、などということを思いながら、ドゥーエはシュリから頼まれたものを探すのを再開する。
 程なくして、上から二番目の段の奥から毛布を見つけて引っ張り出すと、ランプの火が引火しないように気をつけながらドゥーエはぱたぱたと手で埃を払った。彼の視界を灰白色の塊が牡丹雪のように宙を舞った。
 毛布の間から、ぼと、と何かが落ちた。毛布が地面につかないように、ドゥーエは毛布を畳んで自分の腕に掛けると、腰を屈めてそれを拾い上げる。
(日記……?)
 ぺらぺらとページを捲ると、流麗な女の文字で他愛もない日常が記されていた。時折、繊細な筆致による小さな娘のスケッチが挟まれており、それが幼いころのシュリであると容易に推して知れた。
(……これは、シュリの母親が書いたものか)
 シュリが生まれた春霞の立つ朝のこと。庭のラベンダーの時季が終わるころ、シュリが初めて寝返りをしたこと。早い秋が訪れ、金木犀が香り始めたころ、シュリがつかまり立ちができるようになったこと。月冴ゆる夜、シュリが初めてママと呼んでくれたこと。
 シュリの母親の日記を読んだだけで、シュリがいかに両親に慈しまれ、幸せに育ってきたのかをひしひしと感じさせた。ちくちくと心に痛みを感じながら、ドゥーエは日記を読み進めていく。
 パパと一緒にシュリがお店に立って接客の真似事をした。シュリがいくつか薬草の種類を見分けられるようになった。シュリが料理の手伝いをしてくれた。誕生日にシュリが木の実で作ったブレスレットをプレゼントしてくれた。
 シュリの誕生から八年前に両親を失ったあの日まで、彼女の成長が温かな視点から書き綴られていた。ドゥーエの同胞がシュリの両親を喰ったりなどしていなければ、この日記帳には今も日々のささやかな幸せが記され続けていたのだろう。
 日記に目を通したドゥーエは、失われてしまったシュリの幸せな日常を埋めるために、できる限りのことを彼女にしてやりたいと思った。
 しかし、ドゥーエは自分に残された時間が少ないことに気づいていた。シュリの腕のおかげで、まだあと少しは大丈夫そうだったが、もう人間を喰わないと心に誓った以上、ドゥーエには衰弱し、苦しんで死んでいく道しか残されていない。
 それでもドゥーエは、ほんの僅かな間だっとしても、自分が生きていられる間くらいは、シュリが幸せでいられるようにしてやりたかった。
(しかし、俺といて、シュリは本当に幸せなのだろうか)
 ドゥーエのために、自ら腕を切り落とすような今が彼女にとって本当に幸せだと言えるだろうか。彼女はしたくてやったと言っていたが、果たしてそれは本当に幸せなことなのだろうか。そんな疑問がドゥーエの頭の中でとりとめもなく渦を巻き、心の中に暗く影を落とす。
 ドゥーエのせいでシュリに自身の腕を切り落とすような選択をさせてしまった。そして、彼女は今、ドゥーエのせいで苦しんでいる。なのに、ドゥーエがシュリのためにしてやれることなどほとんどないという事実が辛い。
(俺は、シュリのために食べるものを作ってやることもろくにできなければ、シュリと違って薬の扱いの心得があるわけでもない。今、俺がしてやれるのは、こうやってシュリに言われたことをやってやることだけ……それこそ、小さな子供にもできるようなことだ)
 己の無力さを情けなく思いながら、ドゥーエはそっと納屋の中へと日記帳をしまった。納屋の扉を閉め、足元の軽石を拾い上げると、彼は家の中へと戻っていった。
 ふわふわと宙を舞っていた泡雪はいつの間にか白い花びらのように姿を変え、辺りを銀世界に変え始めていた。

◆◆◆

 それから数日が過ぎたが、シュリの容態は一向に改善されてはいなかった。初日の夜の熱こそ今は微熱となってはいたが、腕の傷口は痛々しく腫れ上がり、薄膜の向こうからは膿混じりの透明な液体が滲み出していた。
 朝食にドゥーエが四苦八苦しながら作ってくれた半分炭化した麦粥を彼に食べさせてもらった後、シュリは左腕の傷口の処置をしていた。シュリは良好とはいえない経過を辿っている傷口を観察しながら、冷静に所見を述べていく。
「うーん……これは悪い菌が入っちゃったかな。あたしみたいな素人の処置じゃさすがに無理があったかも」
「……大丈夫なのか?」
 ドゥーエは不安げに顔を曇らせながら、抗菌成分の入った軟膏を掬ったへらをシュリへと手渡した。
「どうだろ。何にしても今は安静にして様子を見るしかないかな」
 そんな顔しないでよ、とシュリは苦笑しながら、真っ赤に腫れ上がった傷口へとシュリは手早く軟膏を塗っていく。
「ドゥーエ、次、包帯取ってくれる?」
 ああ、とドゥーエはシュリに言われた通り、ベッドの上に転がっていた包帯を手渡した。シュリは器用に包帯の端を口で咥えて引き出し、先端を失った二の腕へとあてがうと、
「ドゥーエ、そこの包帯の端、押さえてくれる?」
 シュリは包帯の巻き始めを顎で押さえながらそう言った。ドゥーエは包帯へと手を伸ばし、端を押さえてやりながら、
「俺が巻こうか?」
「いいよ。ドゥーエ、あんまり得意じゃないでしょ? 昨日巻いてもらったとき、びっくりするくらいゆるゆるだったもん」
「……」
 そう言われてドゥーエは沈黙する。昨日、ドゥーエが見様見真似でシュリの腕の包帯を変えてやったところ、あまりに出来がひどすぎて、結局、シュリが自分で巻き直すことになったのはまだ記憶に新しい。それを考えると、ドゥーエは自分がやるとは強く言えなかった。
 シュリは慣れた手付きで左腕へと包帯を巻いていく。包帯の残りが少なくなると、シュリは端を口で加えて細く引き裂いた。
「ドゥーエ、手、離していいから、包帯の端を結んでくれる?」
 ああ、と頷くとドゥーエは細く割いた包帯の先端の片方をぐるりとシュリの二の腕に沿って巻きつける。こわごわと壊れ物に触れるようにそっと、裂いた包帯の両端を結ぼうとしていると、
「ああもう、ドゥーエ。そんなんじゃほどけてきちゃうってば。あたしに変な気を遣わなくていいから、もう少し強くやっていいよ」
 結び目も曲がっちゃってる、とシュリはおかしそうに笑った。彼のそんな不器用さがシュリの目にはたまらなく愛しく映った。
 先程、ドゥーエにああは言ったものの、自分はきっとこの傷がもとで死ぬだろう。こんなふうに他愛のないやりとりをしていられるのもあとわずかだろうということにシュリは気づいていた。だからこそ、こんな何でもないやりとりのひとつひとつがシュリにとって大切で仕方がなかった。
 ドゥーエがシュリの包帯の結び目を直し終えると、シュリはベッドを抜け出し、立ち上がろうとした。「あっ」上体が前に泳ぎ、床が近づいてきて、シュリは思わず声を上げた。この後に訪れるであろう衝撃を覚悟して、シュリは目を閉じる。
「大丈夫か?」
 バランスを崩して倒れかけたシュリの細い身体をドゥーエは抱きとめた。腕にかかる体重が記憶にあるものよりもやたらと軽い。
 普段よりも少し熱いその身体を支えてやりながら、ほんのりと赤い少女の顔を覗き込む。うん、と目を開いたシュリは、照れくさいのか至近距離にあるドゥーエの顔から視線を逸らす。シュリは、苦々しげな表情を熱で上気した頬にのせると、目でネグリジェの袖の先の空洞を示しながら、
「それにしても……慣れるまではもうちょっと掛かりそうだね、これは」
「無理をするのは良くない。やらないといけないことがあるなら、俺が代わりにやってやる。まだ少し熱もあるし、お前は休んでいたらどうだ?」
 ドゥーエの申し出はありがたかったが、シュリはかぶりを振った。不器用なドゥーエに甘えっぱなしでは家の中が大惨事になってしまいそうだし、何よりも自分が動けずにいることでドゥーエに罪悪感を覚えてほしくなかった。
「いいよ、大丈夫。何もしないで寝てばかりだと身体も鈍っちゃうし。そうだ、ドゥーエ。熱冷ましのお茶を入れるから、手伝ってくれる?」
 構わない、と頷くとドゥーエはシュリの身体を支えながら、ゆっくりと台所へと向かった。久々に台所に立ったシュリは、ネグリジェの右の袖口を口で咥えてまくり上げると、
「それじゃあドゥーエ。ベルガモットとセージ、ローズマリーの瓶を取ってもらってもいい?」
 気軽な気持ちでシュリはドゥーエへと小さな頼み事をする。しかし、ドゥーエは端正な顔に困惑を露わにすると、
「ベルガモットと……何だって? 俺にはどれも同じように見える。違いがわからん……」
 シュリはドゥーエが困惑している理由に得心すると、あー、と間の抜けた声を漏らした。ハーブの違いなど、慣れていないとなかなか見分けられるものではない。幼いころは、シュリ自身もどれがどれだかさっぱりわからなくて、半べそになりながらハーブを見つめていた記憶がある。
「それもそうだよね。じゃあいいや、茶葉はあたしが自分で出すから、ドゥーエはお湯を沸かしておいてくれる?」
 シュリはバランスを崩さないように気をつけながら、よたよたと部屋の奥の戸棚へと向かって歩いていく。シュリが針のように細長い葉や乾いて丸まった落ち葉のようなものが入った小瓶を棚から出してくるのを横目で眺めながら、ドゥーエは台所の隅に置かれた(かめ)の中身を小鍋へと汲み、(かまど)へとかけた。
「これがベルガモット、これがセージ、これがローズマリー」
 シュリはどれがどのハーブなのかを歌うように説明しながら、匙で茶葉をティーポットへと移し替えていく。やはりさっぱりわからない、と思いながらドゥーエはシュリの手元を見つめていた。
 小鍋から白い湯気がふんわりと立ち上り始める。ぶくぶくと温度が上がった小鍋の中の水が激しく泡立ち始めると、
「ドゥーエ。ポットにお湯を入れてもらっていい? そっと、静かにね」
 ドゥーエは緊張した面持ちで小鍋の湯を丁寧にポットへと注いでいく。そのくらいでいいよ、とシュリがポットの蓋を閉めると、ドゥーエは小鍋を流しへと持っていった。
 シュリはポットをダイニングテーブルへと持っていくと、テーブルの隅に置いてあった真鍮の砂時計をひっくり返した。さらさらと音もなく、灰白色の砂が時間を刻み始める。
「ドゥーエ、カップ持ってきてもらっていい?」
 シュリが台所のほうへ声を投げかけると、ああ、と低い声が返ってきた。奥の壁際の戸棚から二人がいつも使っている一対のカップを持ってくると、ドゥーエはシュリの向かい側へと腰を下ろした。
 砂時計の砂を見つめながら、自分たちには一体あとどれくらい時間が残されているのだろうとドゥーエは思った。あの日、口にしたシュリの腕の血肉により、多少は苦痛が和らいでいた身体にまた時折、灼けるような痛みを覚えるようになっていた。痛みに身体の内側を刺される度に、確実にドゥーエの身体は死へと近づいていっている。
 シュリにしても、このままでは腕の傷が元で死んでしまうかもしれない。今ならばまだ間に合うかもしれない、とドゥーエは口を開いた。
「……なあ、シュリ」
「なに?」
「俺がノルスまで行って、医者を呼んできてやる。手遅れになる前にその傷を医者に見せた方がいい。今ならまだきっと……間に合う」
 嫌、とシュリの黒い目がドゥーエを睨んだ。どうしてそんなことを言うの、と彼女は眦を吊り上げる。
「ノルスになんて行ったら、ドゥーエは絶対に無事じゃすまない……! ドゥーエはノルスの自警団に目をつけられてるんでしょ……! ドゥーエが殺されちゃう!」
 ドゥーエは真摯な眼差しでシュリを見つめると、構わない、と首を横に振った。
「俺は、シュリが助かるならそれでいい。そのためなら、俺の命くらいいくらだってくれてやる」
「駄目! そんなのはあたしが嫌だ!」
 馬鹿なことを言うなと言わんばかりにシュリは声を荒らげた。悪い、と呟くとドゥーエはきまり悪げに俯いた。目の奥がじわりと熱くなり、何かが鼻の奥をつんとついた。シュリと出会うまで、ろくに泣いたことなどなかったというのに、最近はすぐに涙腺が緩んでしまう。
「俺は……シュリのことが大事だ。そうやってお前が苦しんでいるのを見ていられない。だから……どうにかしてやりたいと思うのに、俺にはそのくらいしかしてやれることが思いつかない」
 ぽたぽたと透明な雫が床を濡らした。知ったばかりの愛の味はいつだって塩辛いとドゥーエは思った。
 こんな思いをするのならば、いっそ、シュリと出会わなければよかった。こんなことになるならば、こんな感情は知らないままでいたかった。人間となんて、こうして深く関わらずに、普通の”人喰い”のままでいたかった。それでも、出会ってしまった運命と自分の中にいつの間にか深く根付いてしまった感情は、最早、理屈ではどうにもならなかった。誰かを好きになるということは、そういうなのことだとドゥーエは今、身に染みて感じていた。
「ドゥーエ……泣いてるの?」
 驚いたようにシュリは丸く大きな目を瞠った。がたん、と席を立ち、よたよたとバランスを崩しながら近づいてくる足音がドゥーエの耳朶に響く。とん、と丸まったままのドゥーエの背にシュリは頬をつけると、
「ごめんね。あたしのせいでそんなふうに泣かせちゃって。それと、ありがとう。あたしのことを思って、そんなふうに泣いてくれて。
 だけど……あたしは、これから自分がどうなったとしても、ドゥーエが傍にいてくれればそれでいい。だから……」
 背中越しにくぐもって聞こえてくるシュリの声が湿り気を帯びてくる。彼女を泣かせることしか出来ない自分の弱さが憎かった。いつの間に自分はこんなにも弱くなってしまったのだろうとドゥーエは思う。
「……一緒にいて、あたしから離れないでよ……っ……一人に、しないで……っ! それ以外、何もいらないから……だから、あたしのためにそんな危ないことをしようとなんてしないで……!」
 切実な声の波紋が、彼女の顔を接した背中から全身へと広がっていくのをドゥーエは感じた。悲痛に満ちたその声に、ドゥーエはわかったと言うことしかできなかった。
 寄り添い合って啜り泣く二人の声が小さく室内に響く。テーブルの上の砂時計の砂はとうに落ちきってしまっていた。

◆◆◆

 森を覆う雪が深まり、日を追うごとにシュリは弱っていった。ぱんぱんに腫れた腕の傷口は皮膚がぶよぶよと柔らかくなって黒ずみ、滲出液には膿だけでなく血が混ざるようになっていた。傷口を起点に赤い水疱が彼女の二の腕に広がっていき、死臭にも近い、腐った肉の匂いが漂うようになっていた。
 左腕の壊死の進行とともに、次第にシュリは眠っている時間が増えていった。定まらない意識の中で、心細げにドゥーエの名を呼ぶことも多かった。次の朝、目を覚ませば、シュリはもう息をしていないのではないかとドゥーエは毎日朝を迎えるのが不安で仕方がなかった。
 シュリが弱っていく一方、ドゥーエもまた弱っていった。常に全身が刃物で刺し貫かれているような痛みに苛まれ、目の奥にまで及ぶ激しい頭痛や胃を抉り出してしまいたくなるような吐き気、指一本動かすのも辛いほどの倦怠感に襲われ続けていた。目の前の少女を喰ってしまえば、楽になれるとわかっていたが、ドゥーエは決してそうはしなかった。シュリの腕を”喰った”あの日に立てた『もう人を”喰わない”』という誓いを破りたくはなかった。
 本能に自分が塗りつぶされてしまいそうになる度に、ドゥーエは自分の舌を噛み、手のひらに爪を突き立てて耐えていた。シュリとドゥーエは、助かる術がないわけではないというのに、二人とも互いを想い合うあまり、その選択肢を躊躇うことなく切り捨ててしまっていた。
 ベッドに横たわるシュリの胸が苦しそうに浅く上下動を繰り返していた。汗で張り付いた彼女の黒髪をドゥーエはそっと撫でる。今この瞬間も、急速に迫りくる死の気配に抗うように命を燃やしている彼女が痛ましくてならなかった。
「……大丈夫か?」
 ドゥーエが声をかけると、シュリは巣穴にこもる小動物のように毛布の中から顔を覗かせた。よほど身体が辛いのか、シュリは目を涙で潤ませながら小さく頷くと、
「ドゥーエ……ごめんね」
「なぜ、シュリが謝るんだ」
「だって……あたし、ドゥーエにひどいお願いしかしてない。ドゥーエが今、そんなふうに苦しそうな顔をしているのは、ドゥーエが人間を殺すのを見たくない、ってあたしが言ったからでしょ? だから、ドゥーエは誰かを食べれば楽になれるはずなのに、あたしを食べることもなければ、ここを離れることもできないでいる。あのときのあたしの言葉が、呪いみたいにドゥーエを縛っちゃってる。
 せめてドゥーエの身体が少しでも楽になるようにって、もう少し今のまま一緒にいられるようにって、あたしの腕をドゥーエにあげたけど、それだって、結局ドゥーエのことを苦しめただけだった……。あたしのくだらない自己満足で、ドゥーエをいっぱい苦しめて、傷つけてる……」
 そんなことはない、と言いかけてドゥーエは込み上げてきた吐き気の波に口元を押さえた。ほらね、と悲しそうな顔をしたシュリへ、ドゥーエは慌てて否定の言葉を発した。
「違う! これは……その、自分で採ってきたキノコに少しあたっただけだ!」
 嘘だ、とシュリは苦笑する。本来、人間と同じ食事など必要としないドゥーエがわざわざそんな真似をするはずはないとシュリは知っていた。
「ドゥーエ。そんなふうにごまかさなくていいよ。それがドゥーエの優しい嘘で、本当はすごく体調が悪いんだってことくらいわかるから。ドゥーエがそんなふうに辛そうにしてるときに、何もしてあげられなくてごめん……」
「俺は……」
 ドゥーエの声が掠れる。そんなふうにシュリに謝らせてしまう自分が嫌だった。悔しさを噛み締めながら、ドゥーエは言葉を絞り出す。
「俺は、シュリがいてくれればそれだけでいい。それだけで、どんな苦痛にだって耐えられる」
 だから死なないでくれ。哀切な祈りは喉の奥に引っかかったまま、言葉にならなかった。シュリは毛布の中から寝返りをうち、ベッドの中から右手を伸ばすと、
「ドゥーエ……泣かないで」
「泣いてなど……いない……」
 説得力なく、言葉尻が滲んで揺れた。ううん、とシュリはかぶりを振ると右腕でそっとドゥーエの頭を抱き寄せた。今の彼女は熱があるはずなのに、黄疸の浮いたその手はひどく冷たかった。
「ごめんね。ずっとは一緒にいられない。あたしはきっと、もうすぐドゥーエのことがわからなくなっちゃう……」
 ごめんね、と辛そうに繰り返すシュリの背をドゥーエはたまらなくなって衝動的に抱きしめた。飢えの渇きで腕がひどく痛み、鉛のように重かったが、そんな些細な事を気にしている場合ではなかった。
「言うな。聞きたくない。頼む……死なないでくれ。俺を置いて逝かないでくれ。それが叶うなら、俺はなんだってする」
 腕の中の命のぬくもりを失いたくなかった。そのためならば、ドゥーエは自分がどれほど苦しみ、傷ついたとしても構わなかった。自分が死んでシュリが助かるのならば、命を投げ出すことすら今の彼は厭わなかった。しかし、それをシュリが望まないことをドゥーエはわかっていた。わかっているからこそ、何も出来ないという事実が心に痛かった。
 最後の力を振り絞るように、彼女の心臓が激しく脈動を繰り返しているのを感じる。彼女の命があの世の闇の中にこぼれ落ちていこうとしているのを繋ぎ止めたくて、ドゥーエは手に力を込める。
 痛いよ、とシュリは困ったように笑った。それでも、ドゥーエはどうしても彼女を抱く力を緩めることができなかった。それほどまでに、シュリを失うことが怖かった。
「ねえ、ドゥーエ」
 キスして、とシュリはドゥーエの耳元で囁いた。耳朶を打つ切なげなその声に、ドゥーエは頷く。涙に濡れた赤い目でシュリを見つめると、ドゥーエは誰より愛おしいその少女の唇に口づけを落とした。
 唇と唇が離れると、シュリは大好き、と嗚咽混じりに呟いた。彼女の充血した黒の双眸からこぼれ落ちた滴が頬を伝う。
「ねえ、ドゥーエ……あたし……まだ、ちゃんと、生きてるんだ……ね……。あたしも、ドゥーエも……まだ、こうして……こうして、生きてる……。ねえ……あたしたち……あと、どのくらい、こうしてられるかな……あと、どのくらい……」
「言うな」
 シュリの言葉をドゥーエは押し留めた。シュリの口が紡ごうとした言葉の先を思うと、胸が押しつぶされそうだった。
「言うな……頼むから……これ以上、言わないでくれ……」
 懇願するようにドゥーエは喉の奥から声を絞りだす。彼女の口から、間近に迫った残酷な運命について突きつけられたくはなかった。シュリはひくっ、ひくっと小さくしゃくり上げながら、
「ねえ……あたし、ドゥーエと生きたい……。死ぬのが怖いんじゃない……ただ、ドゥーエと……離れたくない……。さよならなんて、したくない……! あたし……ドゥーエと、ずっと一緒に、生きてたい……!」
「しかし……シュリ……」
 そんなことはできない。そう言いかけたドゥーエをシュリがわかってる、と制した。二人とももう長くないということは、どちらも痛いくらい理解していることだった。
「だからお願い……あたしを、ドゥーエの中で生きさせて……。この先もずっと、一緒にいられるように……」
「……シュリ?」
 言葉の真意が掴めず、ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼んだ。何でもない、と首を横に振ったシュリの表情が諦観で翳った。シュリは涙で濡れた目で切なげにドゥーエを見つめると、
「ねえ、ドゥーエ……好き、だよ……」
「俺も、お前を愛している」
 迫り来る終焉の影を感じながらも、儚い刹那が愛おしくて、二人はどちらともなく、互いの唇を再び重ね合った。「ん……」貪るようなドゥーエの雄の荒々しさに、シュリの口から小さく息が漏れる。
 唇から伝わる熱と荒い吐息が、今、確かにここにある二人の”生”を感じさせて、切なかった。華奢な身体の熱さと柔らかさが今すぐにでも消えてしまいそうな気がして、ドゥーエはこの一瞬が永遠に続いて欲しいと心から願った。

◆◆◆

 一体何時間経ったのだろう。そう思いながら、ドゥーエは重い瞼を押し上げた。見慣れた小屋の中の景色が網膜に像を結んでいくとともに、全身を絶え間なく苛む痛苦の輪郭が鮮明さを取り戻していく。
 叫びだしたくなるほどに激しい全身の痛みと不快感と夜通し格闘したあと、日が昇るころになって眠気が訪れたことは覚えている。どうやらそのまま、シュリが眠るベッドに寄りかかって眠ってしまったらしかった。
 今は何時だろう、とドゥーエは窓へと視線を向ける。淡い色の日差しの角度から、今は恐らく昼すぎだろうと彼はあたりをつけた。彼自身もひどく衰弱していることもあり、長く眠ってしまったようだった。
(そうだ……シュリ……!)
 はっとして、ドゥーエは背後のベッドに縋り付くようにして、眠る少女の顔を覗き込む。
「え……」
 シュリの顔は血の気を失い、唇が青紫色に変色していた。眠っているのか、意識はないようだったが、浅く早い呼吸の合間を縫うようにして、時折痰の絡んだような湿った咳を漏らしている。
 ドゥーエはシュリの額へと手を伸ばすと、表情を強張らせた。昨夜までずっとずるずると続いていた微熱は嘘のように引いていた。
 しかし、それだけではなかった。ドゥーエが触れた彼女の肌からは、不自然なほど熱が感じられなかった。命の気配がひどく希薄になっているのだとドゥーエは思った。
 ドゥーエは毛布の端から覗くシュリの右手を握った。血色を失った指先は紫色に染まっていた。
(駄目だ……これ以上はもう、見ていられない……)
 こんなこと、シュリは望んでいない。もしかしたら、このことによって、シュリに恨まれたり、憎まれたりするかもしれない。
 それでも構わないとドゥーエは思った。彼女を死の淵からすくい上げられるなら、彼女にどう思われたとしてもいいと思った。
 ふいに、すっと背筋を何かが駆け上ってくるような感覚があった。物凄く大きな何か――彼自身の”生”の衝動だった。どうしてこんなときに、と思う間もなく、圧倒的な欲望に意識が塗り潰されていく。弱りきった彼女は格好の獲物だと、”喰って”しまえば楽になれると頭の中でもう一人の自分が囁く声がする。
(呑まれるな……!)
 ドゥーエの赤い目がぎらぎらと異様な光を帯びていく。身体の中で暴れまわる激しい衝動に視界が霞む。
(このままでは抗いきれなくなる……!)
 ドゥーエは自分の右腕へとかぶりついた。己の牙が深く刺さり、彼自身の肉を抉っていく。ぼたぼたと床に赤い液体が滴り落ちた。
 ぜえ、ぜえ、と肩で大きく息をしながら、ドゥーエは自分の腕から口を離した。肺が動く度に、気道を血の味が込み上げてくる。気管の一本一本が痛みを訴えている。
(早く、ノルスに医者を呼びに行かなければ……! 俺が、俺でいられるうちに……!)
 まだ、自分が自分でいられるうちに、自分自身の意志で動いていられるうちに、シュリのために何かをしてやりたかった。何もしないまま、大切なものを失って後悔するようなことだけはしたくなかった。
 ドゥーエは重くふらつく身体をひきずるようにして、何度もよろけて床に膝をつきながら立ち上がった。毛布の下からはみ出したシーツを細く裂くと、腕に巻きつけて申し訳程度の止血をする。
 これが最後になるかもしれない、とドゥーエは生気の失われたシュリの顔を見つめた。自分がもどってくるころには、もしかしたら彼女はもうこの世にはいないかもしれない。それでもどうにか彼女が生き繋ぐための望みをドゥーエは捨てきれなかった。すまない、と掠れた声で短く詫びの言葉を口にすると、ドゥーエは今にも倒れそうになりながら、小屋を出た。
 家の外は何日か前に降った雪で覆われており、地面に反射する光が眩しかった。ドゥーエは地面に落ちていた枝を拾い上げると、それを杖代わりにしながら、不香の花が咲き乱れる木立の中へと姿を消した。

 雪に包まれたエフォロスの森を抜け、街道を南下したドゥーエがノルスに着くころには、空がうっすらと夜の闇に覆われ始めていた。東の低い空でひときわ明るい三つの星が三角形を描くように輝きを放っていた。
 夕食時であるからか、辺りに人通りは少ない。このところ”人喰い”による事件が連発していた割には、当番の自警団員らしき男はおざなりな態度で町の中を巡回している。ドゥーエは重い身体を引きずりながらも、巡回中の自警団員の目を盗み、夜陰に紛れるようにして町の中に忍び込んだ。
 町の長のものと思われる周囲に比べて一回り大きな邸宅。うっすらと料理の匂いや喧騒が漏れ聞こえてくる酒場らしき建物。傾いた十字架を頂いた薄汚れた礼拝堂。馬で移動する旅人向けに厩が併設された小さな宿屋。町の様子になどさして興味もなさそうに夕方の新聞に視線を落とした男が申し訳程度に詰めている、自警団の詰め所。それらの町の主要な施設が立ち並ぶ一角に、ドゥーエの目的地はあった。
 全身からほのかな薬の匂いを漂わせる初老の女が、診療所の建物の前に立っていた。女は、門扉にかかった診療中の札をひっくり返し、今まさに戸締まりをしようとしているところだった。
「……お前がこの町の医者か?」
 ドゥーエは足音を消して、女の背後へと回り込むと低い声で囁いた。突然のことに、女は驚いたように身体をびくりと震わせながら、
「ち、違いますっ……医者は、私の主人でっ……!」
 女はしどろもどろになって否定しながら、背後を振り返る。背後に立つ男の口元に鋭い牙の存在を認めると、「ひっ……!」女は喉の奥で悲鳴を上げた。
 腰まである長い黒髪。冬の湖面のように冷たく圧倒的な美貌。血を思わせる赤色の切れ長の瞳。その姿は、以前にこの町の自警団員が持ってきた手配書の”人喰い”そのものだった。
 ちっと舌打ちすると、ドゥーエは彼女の首元に腕を回して、手で口を塞いだ。
「騒ぐな」
「んーっ! んむーっ!」
 口を塞がれた女はドゥーエの腕の中、身を捩ってじたばたともがいている。偶然、彼女の蹴り上げた足が門扉に掛けられたパンジーの鉢に当たり、衝撃で地面へと落ちて割れた。ガッシャーンという焼き物の割れる音が人気のない路地に響く。
(まずい……物音を聞きつけて自警団が集まってきたら厄介だ)
 衰弱しきって十全に動けない今の状況で、自警団に襲われようものならドゥーエはひとたまりもない。いっそ喰ってしまったほうが後腐れがないだろうか、とドゥーエの脳裏をそんな思考が掠める。喰ってしまえ、と凶暴な本能が首をもたげ、ドゥーエは女の細かなイボが散った首筋に牙を突き立てようとした。
 ”人喰い”としての自分は生きるためにこの女の血肉を渇望していたが、意識の奥底でシュリの顔がちらついて離れなかった。すんでのところで思い留まったドゥーエは、牙の代わりに手刀を女の首筋を叩き込んだ。意識を失い、力の抜けた女の身体がドゥーエの腕の中をすり抜け、どさりと地面へと倒れ伏した。
 女が倒れた音を聞きつけたのか、がちゃりと玄関の扉が開き、女と同じくらいの年格好の男が顔を覗かせた。
「アニシダ、どうした? さっきから表が騒がしいみたいだが……」
 くたびれた白衣に身を包んだ初老の男は、自分の妻が地面に倒れているのを認めると絶句した。毛髪の少ない男のこめかみに青筋が浮かび上がっていく。
「……っ、お前、妻に何をした……!」
 縁が鼈甲でできた眼鏡の奥に怒りの炎を滾らせながら、口調を荒らげる男をドゥーエは冷めた目で一瞥すると、
「気絶させただけだ。命に別状はない。それよりも、お前がこの町の医者か?」
「お、お前、指名手配中の”人喰い”だろう! 一体何が目的だ!」
 妻と同様、ドゥーエの正体に気づいたらしい医者が、彼を指差し、声を震わせながら叫んだ。ドゥーエが足を引きずりながら医者のほうへと一歩踏み出すと、怯えたように医者は玄関の扉へと縋り付いた。医者の様子には構わず、ドゥーエは距離を詰めると、医者の顎を手で掴み上げた。ドゥーエは冷ややかに男の顔を覗き込みながら、
「俺は今、気が立っている。妻ともども喰い殺されたくなかったら、俺の質問に答えろ。……お前、医者だな?」
「あ、ああ、そうだが……」
 蒼白な顔で男は頷く。男は顔を引きつらせながらも、高い位置にあるドゥーエの顔を睨め上げると、
「だからなんだと言うんだ! お前なんて、すぐに自警団が……!」
 静かにしろ、とドゥーエは不機嫌な低い声で凄む。自分の声がこめかみに突き刺さり、ずきずきと痛む頭の内側を揺らした。
「俺の頼みを聞いてくれさえすれば、お前たち夫婦にも、この町の人間にも手を出すつもりはない。今すぐに診てほしい患者が……」
 男の言葉を遮り、淡々とドゥーエが要求を述べていると、ふいに肩口に重い衝撃が走った。体が後ろへと傾ぎ、ドゥーエは腰を地面へと強かに打ちつけた。肩口に目をやると、深々と矢が刺さっている。
 ヒュウ、と後方から風切り音が聞こえた。ドゥーエが背後を振り返ると、騒ぎを聞きつけて駆けつけたらしいノルスの自警団が矢をつがえて立っていた。
「この前、この町を襲った”人喰い”だ! 仕留めろ!」
 武器を手にした人々が次々に集まってくる。瞬く間に包囲されてしまったドゥーエは、敵意がないことを示すように、矢傷の痛みに耐えながら、重い両手を上げてみせる。
「待て。俺は今、お前らに危害を加えるつもりはない。怪我人がいる。ただ、俺は医者に用があるだけなんだ」
「医者?」
 弓を手に携えた自警団員の男は小馬鹿にしたようにドゥーエを見やる。
「”人喰い”が医者に用だあ? 笑わせんな、お前らバケモンが怪我人に医者なんか呼ぶわけねえだろう! 弱ってる人間なんざ、お前みてえのからしたら格好の餌食だろうが!」
 男の言う通りだった。今までの自分なら、弱った人間などこれ幸いとばかりに喰っていただろうと思った。
 しかし、今のドゥーエは自分の意志で”人喰い”としての本能に抗い、人を”喰う”ことを己に禁じている。
 ドゥーエが人間を襲うことをシュリが厭うことが理由だった。自分が人間を手にかけることで、シュリの顔が悲しみに歪むのを見たくはない。
 シュリと出会ったことで、ドゥーエは自分の知らなかった誰かを大切に思う熱くて切ない感情――愛を知ってしまった。今のドゥーエにとって、シュリが何よりも大切だった。シュリのためであればどんなことだってできる、心からそう思えた。
 ドゥーエは地面に両膝をつくと、頭を低く垂れる。額が地面に擦れる感触がした。ドゥーエは地面を見つめながら、喉の奥から声を絞り出す。
「頼む。どうしても、医者が必要なんだ。あいつを診てくれさえすれば、俺のことはどうしてくれたって――殺してくれても構わない。どうか……頼む」
 真摯なドゥーエの言葉を、彼を取り囲む自警団の男たちは一笑に付した。斧を持った男はドゥーエへと唾を吐きかけると、
「そんな言葉、信じられるわけがないだろう! この町の人間を襲っておいて、虫のいい話だと思わないのか! それに人間の真似をして、そんなふうに情に訴えたところで、俺たちは騙されたりしない! 人間を馬鹿にするのも大概にしろ!」
 そうだそうだ、と周囲の人間たちが声を上げる。これまでに自分が人間に対してしてきたことを思えば、町の人々の言葉は当然のことだった。
 しかし、シュリのことを諦めるわけにはいかなかった。ドゥーエは人々の侮蔑の言葉と視線を浴びせられながら、必死で頭を下げ続ける。
 棍棒が振り下ろされ、どん、と背に衝撃が走った。脇腹へ、頬へ、ドゥーエを蹴り付ける人々の靴の爪先が食い込んでくる。
 シュリのために医者を呼ぶことすらできない自分が悔しくて、ドゥーエの表情が歪んだ。ただ、自分が”人喰い”に生まれてしまったせいで、大切な人のために何もできないという事実がひどく辛かった。
 ぶつけられるとめどない悪意と暴力に耐えながら、ドゥーエは唇を噛みしめる。靴先に抉られた頬の内側で欠けた歯が粘膜を傷つけ、鉄錆のような味が口内に広がっていく。振り上げられた棍棒に打ち据えられる度、傷が増えていく体がずきずきと痛みを訴えている。
 それでも、ドゥーエは暴力に嬲られることを受け入れ、その場に平伏したまま動かなかった。それしか、今のドゥーエがシュリのためにできることはなかった。
(……まずいな)
 殴られ続け、蹴られ続けたことで視界が霞み始める。浴びせられる罵声がどこか他人事のように遠い。暗転しかけた世界がぐるぐると回っているのを感じる。遠のきかける意識を気力で繋ぎ止めながら、ドゥーエは観念したように腫れ上がった瞼を伏せた。
(これ以上は……駄目だ……。これ以上は、俺の命に関わる……。俺が死ぬことは構わないが、医者すら呼べないまま、シュリを一人で死なせたくはない……!)
 何もできないのならば、せめて大切な人を一人で逝かせてしまいたくはなかった。自分が愛した彼女が、一人寂しく死を迎えるのは嫌だった。
 ぼろぼろの体を庇いながら、ドゥーエはふらふらと立ち上がる。呼吸をする度に脇腹を激痛が突き抜けていく。この分では肋骨が何本か折れていそうだった。
 ドゥーエは痛みを堪えながら、近くにいた自警団員の男に体当たりを食らわせ、包囲網を突き崩す。ドゥーエの行動に怯んだ人々を押し除けて、彼は体をふらつかせながらその場を走り去る。人々の怒号が背中を追いかけてきた。
 ドゥーエはどうにか自警団の面々を振り切ると、エフォロスの森を目指し、限界を押して足を急がせる。必死で足を動かしているはずなのに、遅々として周囲の景色が変わらない。動け、前へ進め、と気持ちが焦った。
(シュリ……! どうか、あと少しだけ、待っていてくれ……!)
 あともう少し――自分があの家に帰り着くまで、どうか死なないでくれ。ドゥーエはノルスを訪れたときよりも高い場所へと位置を変えた三つの冬の星へと祈った。
 
◆◆◆

 シュリの待つ家まであともう少し、というところでドゥーエはよろめき、倒れた。視界がぐるぐると回っていて気分が悪いし、もう一体どこが痛いのかわからなかった。
 清冽な白色が視界に映る。腫れ上がった頬に触れる、溶融と凍結を繰り返して固くなった粗目雪の冷たさに、少しずつ思考が冷静になってくる。
(何をやっているんだ、俺は……)
 彼女のことを思ってノルスに医者を呼びに向かった。しかし、結果はこの体たらくだ。医者も連れてこれず、こんなふうにぼろぼろになっただけで何もできなかった。俺は駄目だな、とドゥーエは自嘲で口元を歪める。
 身体に力が入らなかった。元々”断食”の飢えによってひどく衰弱しているのを押してノルスに向かったのだ。そんな状態であのように一方的な暴行を受けた上でここまで帰ってこられたのは最早奇跡だといっても過言ではない。痣の出来た口の端を血の筋がつっと伝って、顎を流れ落ちていく。
 ドゥーエは口元の血を拭うものはないかと、ぼろぼろになった外套のポケットを探った。「……ん?」外套のものとは異なる柔らかな布地が指先に触れ、ドゥーエは緩慢な動きでそれを引っ張り出した。
(あ……)
 紺地に白と赤のバイアスボーダーが走った布地。赤いポインセチアの刺繍。丁寧に心を込めて作られたそれは、いつだったかシュリが縫っていたハンカチだった。
(俺は……どうして何もできないんだ)
 ドゥーエはぐしゃりと手の中のハンカチを無力感とともに握りしめた。
 銀華を纏った木々の間から冴え冴えとした光が降り注いでいる。夜空に浮かんだ氷輪は南西へと傾き始めていて、もう夜も遅いことをドゥーエに知らせていた。
 シュリはまだ待っていてくれているだろうか。そう思いながら、ドゥーエはずっしりと倦怠感で重い手足を動かし、雪の上を這って進み始めた。今の彼にはもう立って歩くだけの力は残っていなかった。
 全身を雪まみれにしてどうにか家まで帰り着くと、ドゥーエはウォールナットの引手に手を伸ばし、どうにか扉を押し開ける。扉の隙間にぼろぼろになった痩躯を押し込み、ドゥーエは部屋の中へと転がり込んだ。
「ドゥーエ……?」
 気配に気づいたのか、ベッドの上のシュリが彼の名前を呼んだ。ぜえぜえと苦しげな吐息にかき消されそうなか細く小さな声だった。
「来て」
 ドゥーエは床を這って、ベッドへと近づいた。雪まみれで傷だらけのドゥーエの姿を認めると、シュリは仕方ないなあ、と柔らかい顔で笑った。
「まったく……あたしなんかのために、そんなふうにぼろぼろになって。顔もそんなに腫れて……せっかくの綺麗な顔が台無しじゃない」
「このくらいのこと、どうだっていい。お前が助かるなら、このくらいの怪我、いくらだってしてやる。お前が死なないで済むなら、お前に恨まれたって、憎まれたって構わない」
 ドゥーエはシュリの右手を掴んだ。青紫色になって斑点が浮いたその手からは(せい)の温度が既に失われ、脈拍が感じられなかった。いよいよそのときが来るのだとドゥーエは血で汚れた唇を噛んだ。
「ドゥーエは馬鹿だなあ。全部あたしのことを思ってやってくれたんだってわかってる。だから、ドゥーエのことを憎んだり恨んだりなんてしないよ。
 でもね……もういいよ、ドゥーエ。もう、あたしのためにそんなふうに無茶しなくていいんだよ……」
 下顎で喘ぐような呼吸を繰り返すシュリの喉の奥でごろごろと音が鳴った。力の失われた黒い目から透明な雫がこぼれた。
「あたしね……少しの間だったけど、こうやってドゥーエと暮らせて楽しかった。幸せだった。こんなふうに思ったの、お父さんとお母さんが死んでから初めてだった。だからもう……充分だよ。
 あたしを食べて、ドゥーエ。あたしはもう助からない。だったらせめて、ドゥーエと一つになることで、ずっとドゥーエのそばにいたい。
 ドゥーエはこれからずっと長い時間を生きていくから、いつかあたしのことを忘れる日が来るかもしれない。それでも、ドゥーエが幸せに生きていてくれれば、あたしはそれでいいから……だから、あたしを食べて。その生命を繋ぐために。――生きるために」
 嫌だ、とドゥーエは激しくかぶりをふった。自分が生きるためにシュリを”喰う”など、できるはずもなかった。
「シュリのことを”喰う”なんて、絶対に俺は嫌だ! お前のことを”喰って”、これまで通りに生きていけるわけがない!」
 怒りとも悲しみともつかない感情で精神が昂っていく。こんなふうに生まれてしまった自分の運命が憎かった。
「俺が……俺が、”人喰い”でなければ良かった……。俺が”人喰い”でなければ、こんなふうにシュリに辛く苦しい思いをさせることもなかったし、シュリを助けることだってできたはずだ……! 俺が”人喰い”だから、シュリのために何もしてやることができない!」
 そんなことない、とシュリは冷たい手でドゥーエの顔に触れた。彼を見つめる目の焦点は定まりきらずに細かく揺れている。
「ドゥーエ……そんなこと、ない。ドゥーエは……ひとりぼっちだった、あたしに……いろんなものを、くれたよ……。誰かと過ごす、あたたかさも……誰かと、一緒にテーブルを囲む、幸せも……、誰かを好きになる、喜びも……。全部、全部……ドゥーエと出会わなければ、あたしは……知ることなんて、なかった……」
 だんだんとシュリの声が細く小さくなっていく。けほっ、けほっ、と時折混ざる咳の音が弱い。
「シュリ……」 
 ドゥーエが見つめた彼女は滲み、まるで少しずつ、この世から輪郭が消えていこうとしているような気がした。今にも消えてしまいそうな命の残り火を燃やしながら、シュリはゆっくりと、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ねえ、ドゥーエ……好き、だよ……。愛……して……る……。だか……ら……」
 だから、生きて。その言葉を最後に、シュリは瞼を閉じた。たまらなくなって、ドゥーエは青紫色のシュリの唇に自分のそれを重ねた。その幸せな感触が、シュリにとって最後の記憶となった。
 びくっ、びくっと跳ねるようにシュリの身体が大きく痙攣した。「シュリ!?」驚いたドゥーエは押さえつけるようにして、シュリの冷たい身体を抱きしめた。
「うあっ……んぐっ………あっ……」
 瞼は閉じられたままで、シュリに意識はない。喘ぐように苦悶の声を漏らしながら、彼女は弓なりに身体をのけぞらせていく。死すら安らかに迎えることができないシュリが痛ましくてたまらなかった。
 弓反りになって強張った細い身体から、命を刻む心音が少しずつ弱く、ゆっくりになっていく。
 とくり、とく、ん。とく、とかすかな鼓動を刻んだのを最期に、彼女の生命は時間を止めた。
 死に際まで、あれほど苦しんだはずなのに、少女の死に顔は満足気で穏やかだった。カーテン越しにうっすらと差し込み始めた淡い色の朝日に照らされたその顔は柔らかな微笑を浮かべていた。
「シュリ……シュリ! シュリィィィィィィ!」
 細い肩をドゥーエは掴んで揺さぶったが、彼女はもう二度と、その声に応えることはなかった。彼女の名を呼んでは泣き叫ぶ彼の声が悲しく響きわたった。