身体が内側から灼けるように熱かった。全身を刃で刺されているかのような痛みがひっきりなしにドゥーエを襲い続けていた。
 苦悶に顔を歪めながら、ドゥーエは涙で滲む視界に映る天井を見つめていた。うっ、と小さく呻くとドゥーエは痩せた身体を丸め、激しさを増した痛みの波を耐え忍ぶ。
(っ……痛い…苦しい……っ……! 痛い痛い痛い痛い……っ!)
 もう何日眠れていないだろう。シュリが眠ってしまってから、次の朝を迎えるまでの間、毎晩一人でこの痛みと向き合い続けるというのは精神的に堪えるものがある。
 胃を酸っぱいものが逆流してくる。口元を押さえようと動かした腕が自分のものではないかのようにひどく重い。
「ん、ぐ……っ、あっ……う……、っつ……」
 どうにかしてやり過ごした痛みの波がほんの少し弱まっていくのを感じる。ドゥーエはぜえぜえと肩で荒い息をした。汗で顔に張り付いた自分の髪が鬱陶しい。
 数日前に見たシュリの血に激しい衝動を覚えてからというもの、ドゥーエは全身を苦痛に苛まれ続けていた。精神力だけで己の本能を無理やりねじ伏せ続けているのだから当然のことだった。
 シュリの元で過ごすようになってから、ドゥーエは人間を”喰って”いない。今、ドゥーエが感じている体調の悪さは、ひとえに”断食”を強いられ続けていることによるものだった。
 ”人喰い”としての自身の生存本能が警鐘を鳴らしているのだということはわかっていた。人を――隣で眠っている少女を食らってしまえば、自分が味わい続けているこの苦しみが和らぐことは理解していたが、ドゥーエはそうしたくはなかった。ドゥーエの葛藤に気づいている様子もなく、彼の隣でシュリは無防備に安心しきった寝顔を晒している。
(俺をそんなふうに信用するな。俺は”人喰い”だ。いつお前を喰ってしまうかわからない)
 食道を急速に吐き気が込み上げてきて、ドゥーエはぐえっ、ぐえっとえずいた。手のひらを見るとべっとりと血液が付着していた。
 ぐわんと意識が遠のくのを感じた。視界が一瞬、無に塗り潰される。闇の中に呑み込まれて消えかける自意識に代わり、彼の中で凶暴な本能が首をもたげる。喰いたい。この娘が欲しい。彼女を滅茶苦茶にして”喰って”やりたい。
 衝動に駆られるようにドゥーエはベッドから上体を起こすと、眠るシュリの顔の横に両手を付き、上から覆いかぶさった。彼の見開かれた赤い目の奥では瞳孔が興奮で大きく開いている。精神の昂りに呼応するように薄い唇の間からはあ、はあと漏れる喘ぐような吐息がやけに艶めかしい。
 シュリの白い喉に唇が触れる。彼女の首筋に牙を突き立てようとしたとき、ドゥーエは駄目だ、という己の声を聞いた。はっとして、妖美な猛獣と化していたドゥーエは動きを止める。
 嫌だ、とドゥーエは思った。シュリを喰いたくない。しかし、その思考もひっきりなしに体の奥から突き上げてくる強い欲求に上塗りされていく。
 獣欲に似た衝動に侵食されていく自分の意識を繋ぎ止めたくて、彼は思い切り舌を噛んだ。舌先の傷口から口内に鉄錆に似た味が広がっていく。舌の痛みに興奮で熱くなっていた頭がすっと冷えていき、ドゥーエは自分の意識に明瞭さが戻っていくのを感じた。
 今、自分が何をしようとしていたのかという事実を自分の体勢からドゥーエは改めて理解する。先日よりも危うい状況に、ドゥーエはもう自分の中の猛獣を押さえ続けているのは無理だと察した。
(もう……駄目だ。これ以上、俺は自分を抑えきれない。俺が俺でいられなくなる)
 シュリのそばに居続けることも、そのために極限に達している己の”人喰い”としての生の欲求に抗うこともドゥーエ自身が選んだことだった。
(ずっと、そばにいたかった……けれど、もうタイムリミットだ。シュリを傷つける前に、ここを去るしかない)
 これ以上はシュリを喰わずにいられる自信がなかった。恐らく、次はもうないだろうということをドゥーエは痛いくらい感じていた。
「シュリ……さよならだ」
 ドゥーエは低い声で別れの言葉を口にした。短いけれど、愛しく幸せだった日々の記憶が脳裏に蘇ってきて、視界が涙で滲んだ。心がずきずきと痛い。
 もっと彼女と一緒にいたかった。他愛もない話をし、笑い合いながら、一緒に生きていたかった。もっとずっと、こんな日々が続いていってほしかった。
(俺は……シュリが好きだ……)
 彼女のことが大事だからこそ、もう一緒にいるわけにはいかなかった。ドゥーエが彼女のためにできることは、一刻も早くここを去ることだけだった。己の感情に流されて、今度は決断を間違えるわけにはいかなかった。
「やだ……行かないで……。一人に、しないで……。ドゥーエ……」
 一体どんな夢を見ているのか、眠るシュリの口からそんな言葉がこぼれ落ちた。縋るようなその声が痛々しくて、胸が苦しかった。
「すまない……シュリ、すまない……」
 ドゥーエの目から涙が溢れた。ぼたぼたと彼の下にいるシュリのネグリジェに雫が滴り落ち、スモーキーグリーンの布地の色を濃いものへと変えていく。
 眠っているはずのシュリの睫毛の先にも、なぜか涙の雫が光っていた。ドゥーエは彼女の顔に手を伸ばすと、強張った指先でそっと目元を拭ってやった。
「せめてどうか……健やかに、幸せに生きてくれ」
 涙声でドゥーエは呟いた。それはこれからのシュリの行く末を想う、悲しく温かな心からの祈りだった。
 最後にドゥーエはどうしても彼女のぬくもりを感じたくて、わずかに開いた彼女の唇に自分のそれを重ねた。生まれて初めて交わす幸せなはずのその行為は、塩辛い悲しみの味がした。
 一秒、二秒。心臓が命の時を刻む音がやけに大きく聞こえた。名残惜しさを感じながら、ドゥーエはそっと顔をあげた。唇から愛しさの感触が離れていく。
「……くっ……」
 ドゥーエの背骨をふいに激痛が突き抜けた。叫びだしそうなその痛みをぎりぎりと奥歯を噛んで耐える。脈拍とともに痛みがひっきりなしに満ち引きを繰り返している。胸骨の奥で心臓がどくどくと激しく暴れまわっていた。
 痛みを堪えながら、ドゥーエはベッドを抜け出すと、自分のブーツに足を突っ込んだ。ダイニングチェアの背に掛けられた自分の外套を手に取ると、寝巻き代わりのシャツの上から羽織る。
 さよなら、ともう一度ドゥーエは小さく呟いた。すぐそこにある冬の寒さと夜の静寂が満ちた部屋の中に、白い吐息が溶けていった。
 身を切られるような思いで大切な時間に別れを告げたドゥーエは、重いチーク材の扉に手をかけた。力を込めようとした手がじくじくと痛みを訴えていたが、心の痛みに比べれば大したことがないような気がした。
 家の外へ出ると、空がうっすらと明るくなり始めていた。もうこれで本当に終わりなのだとドゥーエは思った。分不相応な幸せな夢から醒めるときが来たのだと思った。
 幸せな記憶が詰まった家をドゥーエは最後にちらりと振り返ると、重い身体を引きずって歩き始めた。
 ざくっ、ざくっと彼が霜を踏んで歩く音が少しずつ遠ざかっていく。冬の初めの白い旭光が、生い茂る木々の間から差し込み始め、霜の上に刻まれた足跡を照らしていた。

 悲しい夢を見た、と思いながらシュリは眠気で重い瞼をゆっくりと押し上げた。夢の余韻によるものか、心がひどく重苦しい。夢を見ながら泣きでもしたのか、ベロアのネグリジェの襟元がぐっしょりと濡れていた。
 夢の中でドゥーエはひどく辛そうな顔をしていた。どこかが痛いのか、頬には汗が伝い、髪が張り付いていた。息をするのも苦しいのか、はあはあと浅く苦しそうな呼吸を繰り返していた。
 大丈夫、と夢の中でシュリはドゥーエへと触れようとした。しかし、触れようとしたシュリの手をドゥーエは押し留め、首を横に振って拒絶の意を示した。そして、冬の湖面のようにどこか冷たく圧倒的な美しさを持つ顔を泣きそうに歪め、彼はシュリに別れを告げた。さよならという彼の言葉からは涙の匂いがした。
 どうしてそのような夢を見たのか、何となく見当はついていた。ここ数日ずっと、ドゥーエは具合が悪そうだった。彼はシュリに気づかれないように、普段通り振る舞っているつもりのようだったが、時折、何かに耐えるように苦しげな顔をしていたことにシュリは気づいていた。
 シュリは”人喰い”の生態について、常識の範囲でしか把握していない。しかし、共に暮らすようになってから、ドゥーエが人間を”喰った”様子がない以上、彼の体調に何か異変が起きていたとしてもおかしくはなかった。
 意識を覆う眠気の霧が晴れていくにつれて、シュリはベッドの中が妙に冷たいことに気がついた。シュリが隣を見ると、昨夜一緒に眠ったはずのドゥーエの姿が消えていた。
「え……?」
 シュリはすうっと背筋が冷えていくのを感じた。シュリはシーツを跳ね除け、慌てて飛び起きる。
 仄暗い暁闇に目を凝らし、部屋の中に素早く視線を巡らせると、ドゥーエのブーツと外套がなくなっていることにシュリは気づいた。彼は一体何処へ行ったというのだろう。シュリはベッドの下からオークグレーのブーツを引っ張り出すと、足を押し込んだ。靴紐を結ぶ間も惜しみ、昨晩手入れをしたままダイニングテーブルの上に放置していた短剣を鞘ごと引っ掴むと、彼女は家の外へと飛び出した。
 透き通った白色の霜が降りた地面に、シュリのものよりも大きな靴の跡が残っていた。恐らくドゥーエのものだと思われるそれはまだ新しく、森の入り口の方角へと向かって続いていた。
(あの馬鹿……!)
 こんな形で勝手にいなくなるなど、受け入れられるはずがなかった。一番近くにいたはずの自分にさえ、辛いも苦しいも何一つ伝えてくれないまま姿を消したドゥーエを許せなかった。
(なんで何も言ってくれないの……! こんなにそばにいたのに……!)
 彼を連れ戻してどうしたいのかはわからない。馬鹿じゃないのと詰りたいのかもしれないし、大丈夫だよと彼の苦しみに寄り添って抱きしめてあげたいのかもしれない。その両方かもしれないし、そのどちらでもないかもしれない。
 それでも、このまま離れ離れになってしまうなど、受け入れられるはずがなかった。ドゥーエがシュリに言っていないことがあるように、シュリにだってドゥーエへ言っていないことがある。
(それなのに勝手にいなくなるなんて、本っ当に腹が立つ……! ドゥーエにとって、あたしってそんなものなの? あたしはこんなにもドゥーエのことが大事なのに……!)
 ドゥーエが好きだ。優しくて不器用な彼へと抱いていた感情の正体をシュリは憤りとともにはっきりと知覚した。
(――探さなきゃ)
 もしかしたらまだこの近くにいるかもしれないという一縷の望みを持ってシュリは駆け出した。
 凍てつくような初冬の空気が喉に痛かった。はあはあと次第に息が上がっていくが、そんなことには構わずにシュリは走り続ける。
 胸騒ぎがした。このままでは、シュリが好きになったドゥーエが永遠にこの世から消えてしまうような気がした。
 どうか杞憂であって欲しい。そんなふうに希いながら、シュリは足を動かし続けた。
 
 エフォロスの森を出ると、街道はうっすらと朝靄に覆われていた。ドゥーエは、これからどうしたものかと空を振り仰ぐ。まるで貧血でも起こしているかのように、一瞬、目に映る世界が白から黒へと暗転した。
 数秒の後、視界が戻り始めたドゥーエは苦々しい溜息をついた。呼吸に合わせて動いた肺が鋭い痛みを訴え、彼は手で胸を押さえた。
 これから何処に行くにしても、まずは”食事”をする必要があった。今はまだかろうじて動けてはいるが、このままでは早々に動けなくなって行き倒れてしまうだろう。
 街道を少し南下すれば、ノルスの町がある。しかし、ドゥーエはシュリと出会う少し前にノルスで子供を襲ったことで、自警団に警戒されてしまっている。満足に動けない今、ノルスへ赴くのは得策ではなかった。
 かといって、今はその先のシュトレーまで足を伸ばせる気はしなかった。早くも八方塞がりになってしまったドゥーエは、自分へ近づいてくる死の足音を感じながら、今この瞬間も全身を襲い続ける激しい痛みに耐えていることしかできなかった。
(……ん?)
 ドゥーエは自分の聴覚が人の声を捉えるのを感じた。ドゥーエは横顔を覆う黒髪を長く尖った耳へと掛ける。ノルスとは逆方向から、人間二人分の足音が聞こえてきている。どうやらこの先に旅人がいるようだった。
 街道を北上すると、山岳地帯が広がっている。冬が長く、夏でも雪が溶けきらない険しい山々が連なるその場所をこの辺りの人々は『常冬の氷獄』と呼んでいた。
 特に雪深いこの時期に常冬の氷獄を越えて旅をしてくるなど、物好きな人間もいるものだと思った。しかし、彼らの存在はドゥーエにとって幸運なことであった。
 ぎらり、とドゥーエの深紅の目が妖艶な獰猛さを帯びる。喉の奥から唾が込み上げてくる。気持ちが昂ぶっていき、ずっと感じていたはずの痛みが薄れていく。自分を満たしていく凶暴で残忍な欲望をドゥーエはもう抑えようとはしなかった。
 音でしか認識できていなかった旅人たちの存在が、ドゥーエの視界に小さく映った。淡白色の靄に阻まれてはっきりとはわからなかったが、ドゥーエが獲物として認識した彼らは旅の商人とその護衛のようだった。恐らく片方は大きな荷物を背負っており、もう片方は腰に剣を吊っている。
 まだ彼らがドゥーエに気づいている様子はない。彼らの不意を打とうと気配を消すと、朝靄の中に身を潜めた。
「ヴィールフ、今日のうちにシュトレーには着けるかい?」
「着けないことはないと思いますが、もう少しでノルスです。昨夜は山の中でクマに襲われて休むどころじゃなかったんですから、今日は無理せずにノルスで一日休むべきでは?」
「しかしなあ……あまりノロノロとしていると商品の鮮度が下がってしまうよ」
 そんなことを話す二人の男の声がだんだんと大きくなる。かつ、かつと街道を南下する靴音が近づいてくる。
 ドゥーエは気づかれないように男たちへとじりじりと近づいていく。一歩、二歩、三歩。四歩目を踏み出した彼の足の下で、ぱきっと乾いた音が鳴る。足元に落ちていた枝が、彼の体重を受けて折れた音だった。
「ん?」
 ドゥーエの存在に気づいた護衛の男――ヴィールフが彼へと視線を向ける。ヴィールフの深紫の視線とドゥーエの紅の視線が交錯する。
(気づかれたか……!)
 ちっ、とドゥーエは小さく舌打ちをすると、ヴィールフへと向かって重怠くふらつく身体で突進する。ヴィールフは応戦しようと、腰に佩いた剣をすらりと抜き放つ。
「ラキシスさん、下がっていてください!」
 ヴィールフは人の良さそうな栗色の髪の若い男――ラキシスを背に庇うように立つと、ドゥーエを迎え撃とうと剣を構える。冷たい朝の風にドゥーエの黒髪が舞い上がり、長く尖った耳が露わになる。ドゥーエの正体に気づいたヴィールフは表情を険しくした。
「こいつ……”人喰い”……!」
 何だって、とヴィールフの背後に庇われたラキシスが顔を青褪めさせる。恐怖でがちがちと歯が鳴っている。ヴィールフは剣を中段に構え、背後のラキシスへと向かって声を張る。
「ラキシスさん、荷物を捨てて逃げてください! ノルスまで走るんです!」
「しかし……」
 躊躇うようにラキシスは背中の荷物とヴィールフを見比べる。そんなラキシスの様子をよそに、ヴィールフは襲いかかってきたドゥーエの腹を狙って剣を薙ぐ。長身痩躯の”人喰い”は黒い残像を中に描きながら、ヴィールフの攻撃を身体の軸をふらつかせながらも躱す。切っ先に布を引き裂く感触があったが、ドゥーエに手傷を追わせられなかったことにヴィールフは歯噛みする。
 ヴィールフはドゥーエを追撃すべく、剣先を繰り出しながら、
「命あっての物種です! 早く!」
 ヴィールフに再度促され、ラキシスは荷物を地面に放り出すと、足をもつれさせながらも走り出そうとする。ドゥーエは迫りくる剣先を躱しながら、ラキシスの行く手を阻むように回り込む。目の前にある久々の”食事”をみすみす逃がすわけにはいかなかった。目の前に現れた圧倒的な恐怖の存在にラキシスは思わず立ち竦んだ。
 動きを止めたラキシスの懐に入り込むと、ドゥーエは肘打ちをラキシスの鳩尾に叩き込んだ。「ぐあっ」ラキシスは腹への衝撃と痛みでその場へと崩折れる。歓喜で爛々と赤く光る目で自分を覗き込んでくる彫像のように美しい青年の顔に、ラキシスはが絶望のあまり目を閉じる。
 ドゥーエの骨ばった冷たい手がラキシスの喉元へと伸びていく。ドゥーエの白く端正な顔には酷薄な笑みが浮かんでいる。
 ドゥーエの長い指が首に触れる感触がした。首を折られる、とラキシスは自分の死を覚悟したが、いつまで経ってもその瞬間はやってこなかった。
 ラキシスが薄目を開けると、自分の首に手を充てがったまま、その場でドゥーエが膝をついていた。ぜえぜえと荒い呼吸を彼は繰り返しており、白皙の美貌は苦痛で歪められている。
(何かがおかしい……こいつ、弱っているのか?)
 ラキシスは訝しく思いながら、自分の喉を掴むドゥーエの手を振りほどいた。力の抜けたドゥーエの腕は重力に抗うことなく、地面に向かってだらりと垂れ下がった。
「ラキシスさん!」
 動けずに憔悴した様子のドゥーエへとヴィールフは上段に構えた剣を振りおろす。ドゥーエは地面を転がって剣を避けようとしたが、今度は躱しきれずにぱっと宙に赤い血液が舞った。ドゥーエの右の脇腹が裂け、外套に血の染みが広がっていく。
(……しくじった。今のこの状態では、こいつらを仕留めるのは難しい)
 一瞬、ぐわんと気が遠くなる。それでもドゥーエはふらつきながらも立ち上がった。今はせめてここから逃げるしかない。けほけほと小さく咳き込むと、赤い飛沫が宙を舞った。
 こんなところで死にたくないと思った。何故かシュリのことが頭の中をちらついた。
 ふいに足音が近づいてくるのをドゥーエの聴覚が捉えた。エフォロスの森の方角からだった。
 こちらへ駆け寄ってくる足音の癖も気配も、ドゥーエがよく知るものだった。ドゥーエは顔を顰めた。
(シュリ……! 何故……!)
 まずい。このままでは、彼女に自分が”人喰い”であることが知れてしまう。嫌悪で彼女の顔が歪むのを見たくはなかった。それに彼女にこんなところを見せたくはない。
「ドゥーエ!」
 息を切らしてそう叫びながら、ドゥーエと男たちの間に飛び込んできたシュリの寝乱れてあちこち跳ねたままの黒髪が、一瞬、彼の視界を埋めた。彼女はドゥーエを庇うように立ちはだかると、男二人を牽制するように両手を広げた。男たちはいきなりの闖入者に困惑し、彼女を見た。
「シュリ! 何をして……!」
 ドゥーエは混乱と狼狽で思わず声を上げる。シュリは黙れと言わんばかりにちらりとドゥーエへと一瞥をくれると、男たちへと向き直る。
「あんたたち……ドゥーエに何をしたの?」
 シュリは低く硬い声で男たちへと問いかけた。短剣を握りしめる拳は白く、小刻みに震えていた。
「お嬢さん。その男は”人喰い”だ。彼は私たちやあなたをを捕食対象としてしか見ていない。なのに何故、そんな化け物を庇おうとするんだい?」
 顔から血の気が引いたままのラキシスによって自身の正体を告げられ、ドゥーエは凍りついた。ドゥーエとて、自分が”人喰い”であるという事実がいつかシュリに知れてしまう可能性については考えていないわけではなかったが、これは最悪のパターンだった。しかし、シュリは突きつけられた事実に動揺したふうもなく、毅然とした態度を崩すことなくラキシスへと言い返す。
「だから何? ドゥーエが”人喰い”だってことくらい、あたしは知ってる。だけど、ドゥーエが”人喰い”だからなんだっていうの? あたしにとって大事な人――ドゥーエを庇うのに理由なんていらない、ドゥーエを傷つけることはあたしが許さない」
 ドゥーエのことが好きだという気持ちがシュリを突き動かしていた。
 世界で一番大切な人を守るためならば、自分の命を差し出すことになったとしても構わない。彼のためなら、たとえ自分の手を汚すことになったとしても――目の前の二人の命を奪うことになったとしてもいいと思えた。人間の身で”人喰い”であるドゥーエを庇ったことで、彼らにどう言われようと今更だと思った。
「正体を知った上でその男を庇い立てするというのですか? 人の身で相容れないはずの”人喰い”に与するなど正気とは思えません。非常に不可解です」
 淡々と反論の言葉を並び立てると、ヴィールフはシュリの喉元に剣の切っ先を突きつける。蔑むようなヴィールフの眼差しにもシュリは動じた様子はない。
 絶対にドゥーエを守る。殺させなんてしないという意志を宿した黒瞳には怒りの炎が揺れている。
「どうしても、ドゥーエを殺すと言うのなら、先にあたしを殺しな。あたしがここにいるうちは、もうこれ以上、ドゥーエに指一本触れさせやしない」
 あまりに意固地な様子のシュリに、話になりませんね、とヴィールフは肩をすくめる。彼は濃紫の双眸を眇めると、シュリの首へと迷いなく刃を押し込んだ。シュリの首の皮が薄く裂け、赤い筋が浮かび上がる。
 喉元に鋭い痛みが走る。しかしシュリは微動だにせずにヴィールフを憎々しげに睨め上げ続けている。
 血の赤にドゥーエの中で再び興奮が膨れていく。ヴィールフの剣を汚す血とシュリの顔がちかちかと交互に視界をちらついている。欲望と激昂の入り混じった声で彼は(たけ)り立つ。
「貴様……!」
 ドゥーエはシュリの身体を突き飛ばすと、素手でヴィールフの剣を掴んだ。ざっくりと右の手のひらの肉が裂け、瞬く間に手が真っ赤に染まっていく。無理を押して動いた身体が重く、視界が傾いていくのを感じた。地面に膝が触れる。それでも、ドゥーエは刃から手を離さなかった。地面に膝をついたまま、ヴィールフの紫の目を睨め上げ、ドゥーエは吠える。
「何を考えている!? その娘は俺とは何の関係もない、ただの人間だ!」
 手を出すな、とドゥーエはふらふらと立ち上がると、ヴィールフの腹へと蹴りを放った。今の状態では無理のある動きに股関節が悲鳴を上げたが、ドゥーエは気づかないふりをする。腹に衝撃を受けたヴィールフはたたらを踏んだ。ドゥーエの手から刃が離れ、宙に赤い飛沫が舞った。
 全身が灼けるように痛み、本来はもう動ける状態ではない。目の奥が抉られるような苛烈な痛みが己の限界を知らせている。それでも、シュリが傷つけられるのを見過ごすことなど、ドゥーエにはできなかった。
 知らず知らずのうちに顔を濡らしていた涙と汗と鼻水が混ざりあった液体を外套の袖口でぞんざいに拭うと、唸り声を上げてヴィールフへと掴みかかろうとする。こんなふうに
 ヴィールフは掴みかかってきたドゥーエの左腕を掴むとひねり上げた。ごきっという嫌な音と重い衝撃がドゥーエの体内を走り抜ける。手の関節を外されたのだとドゥーエが理解したときには、ヴィールフは彼の脇を走り抜け、シュリへと迫っていた。
「させないっ……!」
 ドゥーエの思考が怒りに染まっていく。シュリに危害を与えるなど許さない。殺してやる。ぐちゃぐちゃの肉塊になるまで嬲ってやる。彼の口元が歪み、鋭い牙が露わになる。
 激しい瞋恚(しんい)の炎が彼の心を燃え上がらせ、獰猛に奮い立たせていく。ドゥーエは己の理性が凶暴な本能に塗りつぶされていくのを感じたが、抗いはしなかった。
 全身を苛む痛みが感情の昂りによってクリアになっていく。とうに限界など超えているはずなのに、体の動きが軽くなめらかになっていく。
 関節を外されて力の入らない左手をそのままに、ドゥーエはヴィールフを追いかけた。関節を外された手の痛みなど、今やドゥーエにとって、猛る衝動へ(たきぎ)を足すようなものでしかなかった。正眼の構えから突きを繰り出そうとしていたヴィールフの体をドゥーエは突き飛ばした。ヴィールフの手から剣が離れ、からんからんと地面を転がっていく。
「うっ……」
 呻くヴィールフへとドゥーエは馬乗りになるようにして覆いかぶさる。そして躊躇することなく、ドゥーエはヴィールフの喉元に牙を突き立てる。ヴィールフの断末魔が響いた。
 ドゥーエが首を噛みちぎると、ぼとり、と戦慄のあまり紫の双眸を見開いたヴィールフの頭が地面に落ちた。それには目もくれずにドゥーエは恐怖の表情を張り付かせて事切れた男の肩へと齧り付く。ばきっ、ぼきっと骨が噛み砕かれる鈍い音と、ぺちゃぺちゃとドゥーエが血を啜る音が響く。
「ヴィールフ!」
 ラキシスは近くに落ちていた木の枝を拾い上げると、がたがたと震えながら立ち上がった。「うわあああああああ!!」大した殺傷能力を持たないそれをめちゃくちゃに振り回しながら、ラキシスはヴィールフの屍肉を貪り食っているドゥーエへと飛びかかっていく。
「駄目!」
 ドゥーエの背を庇うようにシュリは立ち上がった。彼女の声に、ドゥーエは我に返る。血で汚れた口元をヴィールフだったものから離すと、ドゥーエはばっと背後を振り返る。「シュリ!」枝の先がシュリの頬を掠った。シュリの頬から滲み始める血の赤に、一瞬浮上した理性が再び衝動の底に沈んでいく。
 殺してやる。シュリを傷つけられて、ドゥーエの身体からひときわ濃い殺気が吹き出した。ドゥーエはシュリの手から短剣を毟り取ると、衝動のままにラキシスの心臓を刺し貫いた。「ぐぼっ」ラキシスの口から血が吐き出される。ドゥーエがラキシスから短剣を引き抜くと、胸の傷から血が溢れ出し、ラキシスの服を瞬く間に赤黒く汚していった。
 ラキシスの傷は明らかに致命傷であるにもかかわらず、ドゥーエは短剣で嬲るようにその体をめった刺しにし続けた。「ドゥーエ、やめて!」意識の隅のほうで少女の悲鳴が聞こえた気がしたが、ドゥーエは気にも留めなかった。
 ラキシスが完全に動かなくなると、恍惚と歓喜ではぁ、とドゥーエは息を漏らした。ドゥーエがラキシスの眼窩から彼の脳味噌が付着した短剣を引き抜くと、視神経が連なった眼球がまろび出た。土と血液がついた眼球を拾い上げると、ドゥーエは飴玉のように口の中に放り込み、咀嚼する。口の中でその食感を楽しむと、ドゥーエは事切れた二人の男の骸に無我夢中で牙を突き立て齧り付いた。肉と血の味がほんのりと甘い脂とともに口の中を多幸感で満たしていく。
「ドゥーエ……」
 背中にぬくもりと小刻みな振動を感じ、ドゥーエは一気に我に返った。握ったままの短剣が手の中から滑り落ちる。ぱっくりと開いた手のひらの傷が、関節の外れた手首が、再び痛みを訴え始めるのをドゥーエは感じた。
(俺は……シュリの前で、何を……)
 ドゥーエは愕然とした。シュリを傷つけようとする彼らに殺意を覚えたのは事実だ。しかし、己の本能の欲するまま、シュリのいる目の前でここまでやるべきではなかった。
「……っ……くっ……」
 シュリはドゥーエの背にしがみついて泣いていた。嗚咽を漏らす華奢な背中を撫でようとして手を伸ばしかけたが、自分の手がひどく血で汚れていることに気づいて、ドゥーエは思いとどまった。自分のような化け物がシュリに触れる資格などないと思った。
「シュリ。俺は”人喰い”だ。お前とは一緒にいられない」
 今度こそさようならだ、とドゥーエは自分にしがみつくシュリの細い腕を振りほどく。どうして自分はシュリを傷つけることしかできないのだろう。このような別れ方をするのはドゥーエ自身も本意ではない。それでも、今は彼女を傷つけてでも距離を置くべきだった。それがシュリのためだと言い聞かせ、嫌だと喚き散らす自分の感情に無理やり蓋をすると、ドゥーエは今しがたの”食事”によって幾分か軽くなった身体を翻し、その場を立ち去ろうとする。
「待って!」
 血で汚れたドゥーエの外套の袖口をシュリの手が掴んだ。
「だから何なの! ドゥーエが”人喰い”だってことくらい、あたしはずっと知ってた! それでも、あたしはドゥーエと離れたくない!」
「シュリ……」
 ドゥーエを見上げるシュリの顔は涙でぐちゃぐちゃになり、土と血で汚れていた。シュリはしゃくり上げながらも言葉を続けていく。
「だからっ……! ひくっ……だか、らっ……勝手に、いなくなったり、しないでよっ……ひくっ……! あたしをっ……一人に、しないで……!」
 そう言うと、シュリはドゥーエの胸へと飛び込んできた。泣きじゃくるシュリを血まみれの手でそっと抱きしめてやることしかドゥーエはできなかった。
 もう覚悟を決めるしかない、と思った。彼女が何よりも大切だというこの思いを貫く道以外、自分にはもう残されていないのだとドゥーエは悟っていた。
 この後、自分がしなければならないことを思うと胸が張り裂けそうだったが、今は彼女の森のあの小屋に連れ帰るのが先決だった。こんなところにいて、ノルスの自警団に見咎められたくはない。
「シュリ……俺が悪かった。だから、その……一緒に、家に帰ってくれるか?」
 うん、とドゥーエの腕の中で小さくシュリは頷いた。
「ドゥーエ……帰ろう」
 シュリはベロアのネグリジェの肩口で涙を拭うと、そっとドゥーエの指に自分の手を絡ませた。
「……ああ」
 ドゥーエは血で汚れたシュリの短剣を拾い上げると、外套のポケットへとしまった。そして、彼はシュリの手を握り返すと、彼女とともに森の方角へと歩き出した。
 二人の背後では、血の匂いに引き寄せられたカラスの群れが、屍肉を漁るために集まり始めていた。

「……これでよし、と」
 ドゥーエの怪我の処置をし、包帯を巻き終えたシュリはそう小さく呟いた。ドゥーエは両手に巻かれた、薬草の匂いがする包帯を見下ろした。自分のしたことを思えば、シュリの顔をまともに見られなかった。
「ほら、早く服着ちゃいなよ。ただでさえ体調悪いのに、風邪まで引いたら大変でしょ」
 シュリはグレーのボタンダウンシャツとネイビーのざっくりとしたニットのカーディガンをドゥーエへと押しやった。
「……ああ」
 ドゥーエはシュリから服を受け取り、裸の上半身へともそもそと纏っていった。その間にシュリはドゥーエの手当に使った薬品類を奥の戸棚に片付けていく。
「……シュリ」
 ドゥーエは着替えを終えると、戸棚の前に立つシュリへと躊躇いがちに声をかけた。
「その……いつ、どうして、気づいた?」
 シュリはドゥーエを振り返ると、己を嘲るような笑みを浮かべた。
「最初から知ってたよ」
「え……」
 ドゥーエは赤い目を見開いた。あまりの事実に唇が戦慄くのを感じた。
「なら……どうして俺を追い出さなかった!」
 激しい語調のドゥーエの言葉に、シュリは己を嗤笑した。
「最初はさ……目を覚ましたらすぐに追い出せばいいって思ってた」
「だが……お前はそうしなかった。そうだな?」
 そうだね、とシュリは目を伏せる。
「お父さんとお母さんが死んでから、あたしはずっと独りだった。だから……誰かが近くにいるっていうのが新鮮で。それにドゥーエは”人喰い”のくせに、あたしを襲って食べようともしなかったから、もう少しだけって、欲が出た。ねえ……どうして、ドゥーエはそんなふうに弱っちゃうのをわかってて、あたしのことを食べなかったの?」
「最初は、俺なんかを助けるなんて物好きな人間だと思った。ノルスの自警団に怪我を負わされていたし、お前は俺が”人喰い”だと気づいている様子もなかったから、ゆっくり傷を癒せるならしばらくここにいるのも悪くないと思っていた。面倒がないようにここを発つときにお前なんて喰ってしまえばいいと思っていた」
 はずだったんだがな、とドゥーエは薄く笑うと、言葉を続けていく。
「早い話が、一緒に過ごすうちに情が移ってしまったんだろうな。お前のそばは思いの外居心地が良くて、一緒に過ごすうちに気がつけば”喰う”ことなんてできなくなっていた。喰いたいと思ったことは何度もある。だが、どうしても喰えなかった。お前だけはどうしても喰いたくなかった」
 あたしも同じだよ、とシュリはじっとドゥーエを見つめた。その目には後ろめたさがちらちらと見え隠れしている。
「あたしは、”人喰い”を憎んでた。お父さんとお母さんを”喰った”あの女をいつか殺してやるんだって、復讐してやるんだって思いながら、この八年間ずっと生きてきた。
 なのに……ドゥーエは”人喰い”のはずなのに、あたしの思っていたような化け物なんかじゃなかった。普通の人間と全然何も変わらなかった。一緒に他愛もない話をすることもできれば、感情だってある、そういうことに気づいちゃったら、これまで通りになんて見られなくなってた」
 そんなことはないだろう、とドゥーエはシュリの言葉に否を唱えた。
「先程、お前も見ただろう? 俺が人を襲うのを。あれが俺の本性だ。人間と変わらないなんてことはない」
「だけど、ドゥーエはあたしを庇ってくれたでしょ! 誰かを守りたいって思うのは人間と変わらない! ドゥーエが本当に化け物なら、あたしのことを見捨てればよかった!」
 烈しい感情を孕んだシュリの声がドゥーエの耳を(つんざ)く。ドゥーエは俯いた。彼女にここまで言ってもらえて嬉しくないはずないのに、胸が苦しかった。暗い感情が喉を締め付けてくるのを感じながらも、なあシュリ、とドゥーエは低い声で彼女の名を呼んだ。後ろめたさで声がわずかにひっくり返った。
「俺はお前のことが大事だ。だから、お前が苦しむようなことはしたくない。
 以前に俺がここを出ていこうとした夜の約束をまだ覚えているか? シュリが追い出したくなるまで、俺はここにいる、という」
 シュリは小さく頷く。彼女の顔には戸惑いの色が浮かんでおり、ドゥーエの言葉の真意を測りかねているようだった。
 ドゥーエは顔を上げ、ガーネットの双眸で目の前の少女を見据えた。これから自分は己の本心に背く言葉を口にせねばならない。シュリのことを一番に思えばこそ、自身の望みとは裏腹なことを彼女に告げねばならない。
 それでも、シュリの口から「わかった」と(そう)言われるのであれば、ぎりぎり受け入れられる気がした。どれだけ辛くとも、それでいいと思えるような気がしていた。
「……シュリ。ここから出て行けと、もう一緒にいたくないと言ってくれ。俺を嫌いだと、顔も見たくないと言ってくれ。お前がそう言うのなら、俺はそれを喜んで……」
 受け入れる、と言おうとしたドゥーエの頬でパァンと音が鳴った。「……え?」一瞬何が起きたのか理解できずにドゥーエは思わず間の抜けた声を漏らした。次第にじんじんと頬が痛みを訴えてきて、自分はシュリに引っ叩かれたのだとようやく理解する。
 恐る恐るドゥーエが視線を上げると、丸く大きな黒瞳にシュリが涙を溜めていた。彼女は手を振り上げたままの格好で、顔を真っ赤にして、
「ばっかじゃないの! あんまり、あたしのことを見くびらないで! 今更嫌いなんて、出て行けなんて言うわけないじゃん! もう二度とそんな馬鹿なこと言わないで!」
「だが……一緒に居続ければ、この先、何度だって今日のようなことは起こる。だから……」
 わかってる、とシュリは眦を吊り上げ、ドゥーエの言葉を遮った。
「わかってるけど嫌なの! なんでそんなこともわからないの!?」
 感情を剥き出しにしてシュリは吠える。つ、と彼女の頬を涙が伝い落ちる。
 ドゥーエはこの期に及んで、シュリに甘えようとした自分を呪わしく思った。シュリならば、全部飲み込んで、「わかった」と(そう)言ってくれるのではないかという期待があった。
「もういい! ドゥーエの馬鹿! もう知らない!」
 そう言って一方的に話を終わらせると、シュリはベッドへ潜り込んだ。頭まですっぽりとシーツを被って出てくる様子はない。
「シュリ……」
 ドゥーエが声をかけても、シュリが返事をすることはなかった。しばらくすると、シーツの中から小さな啜り泣きが聞こえてきて、ドゥーエの心はずきずきと痛んだ。自分は一体、彼女にどれだけ酷なことを強いようとしてしまったのだろう。後悔が胸の底からこみ上げてくる。
 シュリのためにはどうするべきだったのだろうとドゥーエは薄く形の良い唇を噛む。彼女の傍に居続けるとして、これから彼女のために自分は何をしてやれるのだろう。
 わずかながら今日口にできた血肉のお陰で、心身を苛んでいた痛苦は限界から少し遠ざかっていた。しかし、そんな自問自答ばかりが彼の中で渦を巻き、胸を重苦しく締め上げていた。

 シュリが目覚めると、夜が明けようとしていた。がびがびになった顔の感触から、泣き疲れていつの間にか眠ってしまっていたらしいとシュリは悟る。
 いつもなら一緒に眠っているはずのドゥーエの姿がシーツの中にない。また出ていったのではないかと思うと、シュリの背に薄ら寒いものが走った。
 暗闇に目を凝らすと、ダイニングテーブルに突っ伏すようにして、ドゥーエが眠っているのが見えた。体調が思わしくないのか、端正な顔に浮かぶ表情は険しい。
 いなくなったわけではなかったという安堵でシュリは薄い胸を撫で下ろした。今までは一緒に寝ていたはずの彼がこんなふうに距離を取って眠っているのは彼なりの優しい配慮なのだろうとシュリは感じた。それなのに、彼と言い合いになった挙句の果てに、不貞寝などという幼稚な真似をしてしまった自分が恥ずかしかった。
(あたしは……ドゥーエのために何ができる? 少しでも長くドゥーエと一緒にい続けるために、何をしてあげられる?)
 自分のこの手にできることは限られている。それでも何かしたい、とシュリは闇の中で自分の荒れた両手を見つめた。
(――あ)
 ドゥーエはきっとこんなこと望まない。ドゥーエはきっとこんなことをしても喜ばない。それでも、自分がぎりぎり彼のためにしてあげられることが寝起きの思考の中にすとんと落ちてきて、シュリはこれだと思った。彼女はごくりと息を呑む。
(――やろう)
 そう決意すると、シュリはベッドを抜け出した。そして、物音を立てないように気を配りながら、ドゥーエの眠るダイニングテーブルへと歩み寄ると、彼のそばから火の消えたランプを持ち上げる。
 シュリは己の知識を総動員して、これからやろうとしていることに必要なものを頭の中で書き出しながら、部屋の奥の戸棚へと近づいていく。彼女は戸棚を開け、マッチを取り出すと、それを擦り、ランプの中の蝋燭へと点火する。ランプに火が入ると、ゆらゆらと揺れる炎によって、静まり返った家の中が照らし出された。
 シュリは戸棚の日用品の入った段を探り、麻紐の束を取り出すと、近くにあった籠へと入れた。普段使っている両親の形見の短剣も同様に籠の中に入れていく。
 シュリはランプとかごを手にすると、家の外へと出ようとした。しかし、彼女は思い直したように足を止めると、再びテーブルで眠るドゥーエのそばへと近づいた。
 ベッドの背に掛かっていたグレーのバイアスチェック柄のブランケットをその背にかけてやると、シュリは身を屈める。さらさらとした彼の黒髪を手に取ると、その下に覗く首筋に短い口づけを落とした。
「ドゥーエ……好きだよ。大好き」
 そう呟いた声が震えた。これから自分がしようとしていることを思えば恐ろしかったが、それでもドゥーエのためであればなんだってできると思った。
(ドゥーエ……怒るんだろうな)
 それでも、今はまだもう少しだけ、一緒にいられる時間を引き延ばしたかった。先ほど唇に触れたあの暖かさを失うその瞬間を、たとえ一秒でもいいから遠ざけたかった。身勝手なエゴだとはわかっていても、それでも、そのためであれば何かしないではいられなかった。
 シュリはカゴを抱え直すと、眠るドゥーエをそのままに家を出ていった。

 家を出て、納屋に立ち寄ると、シュリは中を弄って鉈と焼きごてを取り出した。腕に抱えた籠にそれらを放り込むと、シュリは家を背に歩き出す。
 木々の生い茂る歩き慣れた道をシュリは進んでいく。ニシキギの茂みを抜けると、いつも洗濯をしたり、水を汲んだりしている川のほとりへと辿り着いた。水が流れるちゃぷちゃぷという小さな音がまだ生き物たちが眠りについたままの森に響いている。
 シュリはカゴとランプを川辺に置くと、両手を川の水で洗い清めた。手を茶色いチュニックワンピースの裾で拭うと、シュリは袖を捲り上げ、細い左腕を刺すように冷たい大気へと晒す。
 シュリはその場に座り込むと、カゴの中から短剣を取り出した。ランプの蓋を開けると、刃先を炙っていく。
(これで、少しでもドゥーエを苦しみから遠ざけられるなら……! 少しでも長く、生きていてくれるなら……! そのためなら、あたしはこれくらいのこと、ちっとも惜しくない。
 あたしはドゥーエを好きだから……! ドゥーエを愛しているから……! だから、あたしはドゥーエのためならなんだってしたい……!)
 短剣の刃を見つめると、シュリはふぅっと深く息を吐き、下腹部に力を込める。今から自分がやろうとしていることは恐ろしかったが、不思議と心は凪いでいた。歯を食いしばると、シュリは右手に持った短剣を左端の内側へと当てがった。熱された刃の感触が神経を通じて伝わるとともに、シュリは刃をぐっと関節と関節の間へと押し込んだ。
「うっ……ぐっあっ……!」
 すっぱりと肘の内側の肉が裂け、シュリの口元から苦悶の声が漏れた。燃えるように痛む傷口に思わず涙が溢れた。シュリは一度短剣を引き抜くと、右の肩口で乱暴に目元を拭った。
(あと少しだけでも、あたしとドゥーエが一緒にいるにはこうするしかない……! それにきっと、ドゥーエはずっともっと痛かったし辛かった! あたしに気づかれないように一人で苦しんでた! だから、このくらい、なんてことないっ……!)
 シュリは己を叱咤すると、傷口を中心に、短剣の刃先で皮膚を深く切り裂いていく。
 どくどくと心拍が上がっていく。痛みで自分の呼吸が荒くなっていくのをシュリは感じていた。
 服の内側の背中を汗が伝っていく。気がつけば、顔の下半分が鼻水と涙が混ざり合った塩辛いものでべとべとになっていた。
 それでもシュリは手を動かすのを止めない。短剣で肉を切り進め、筋肉を剥き出しにすると、シュリは今度はそれを短剣で断ち切っていく。
「うああ……うあああ……!」
 肘の動きを司る筋肉の繊維をシュリは短剣で切断していく。痛い。痛い。思考をただそれだけが染め上げていく。痛みで視界が激しく明滅を繰り返している。馬鹿げたことをしている自覚はあったが、今更やめる気にはなれなかった。
 これだけが今、シュリのわがままをすべて叶えるための方法だった。気休めのその場凌ぎとはいえ、ドゥーエと一緒にいられる時間を延ばすためにシュリができるのはこのくらいだった。
 左肘の筋肉が断ち切られ、だらりと赤い血に塗れた前腕が垂れ下がる。傷口から溢れ続ける血液がぽたぽたと滴り落ちて、地面に血溜まりを作っていく。寒さで強張った右手から短剣が落ち、からんからんと音を立てる。
 痛みで視界を霞ませながらも、シュリはかごの中から鉈を取り出した。鉈の刃先を短剣と同様にランプの炎で炙って消毒すると、肘の関節の間を狙って振り下ろす。
 鉈の刃先が軟骨にぶつかる感触があった。わずかに関節の間に食い込んだ鉈をシュリは引き抜くと、何度何度も肘の内側へと叩きつけていく。
 重い衝撃と振動が腕に伝わる度に脳天を激痛が走り抜けていく。心臓の脈動と共に小刻みに痛みの波が満ち引きする。いつの間にか、背中はぐっしょりと濡れ、汗を吸った服の茶色の布地が焦げ茶へと色を変えていた。
 鉈によって砕かれた肘の軟骨が最後の支えを失い、ぼとりと真っ赤に濡れた前腕が河原へと転がった。
「うっ……あ……」
 はあはあと痛みで呼吸を荒らげながらも、シュリは麻紐の端を口で咥え、膝から先を失った上腕の断面を縛っていく。そして、震える手で焼きごてを手に取ると表面を熱し、大粒の赤い雫がぼたぼたと滴る傷口へと押し当てる。
「ぐあああああああっ……! うあっ、うあああああ!」
 ジュウ、と音を立てて傷口が焼けていく。熱された金属の熱さが痛い。高温に熱されたものを押し当てられたことで、傷口から溢れ出す血液が、肉の焼ける焦げ臭さと一緒に大気中へ蒸発していく。
 傷口から走り抜けていく痛みにシュリが苦悶の悲鳴を上げていると、次第に腕の断面の出血が止まり始めた。
 傷口の出血が止まるとシュリはその場に崩れおちた。力が抜けた右手から、焼きごてが滑り落ちた。熱の残る焼きごての表面が河原の石をじゅっと焼く音がした。
 絶え間なく自分を苛む腕の痛みに耐えながら、シュリは足元に転がっていた自身の血まみれの左腕に手を伸ばす。自分の体温が残るそれを右手で掴み、シュリが立ちあがろうとすると、バランスが崩れ、上体が前へと流れた。砂利だらけの地面に強かに体を打ちつけたが、シュリはその痛みをどこか他人事のように感じていた。
(そうだった……人間の腕って、思ったより重いんだっけ……。慣れるまではバランス崩しやすいってよく言うよね……)
 激痛に顔を歪めながら、シュリは内心で苦笑する。左腕を抱えて、再度立ちあがろうとすると視界が真っ暗になった。
(あっ……貧血……、そりゃそうだよね、腕一本切り落としたんだから、血が足りなくなって当然か……)
 シュリはなけなしの精神力で、途切れそうになる意識を無理矢理繋ぎ止めようとする。そろそろ日が昇り始める刻限のはずだった。ドゥーエが目覚める前に家へと帰りたかった。そのためには、こんなところで倒れているわけにはいかなかった。
 じわじわと視界が戻り始め、うっすらと明るくなり始めた河原の風景が映る。どうにか立ち上がったシュリは、自分の左腕を抱えてふらふらと歩き始めた。
 何度も何度もバランスを崩して躓いたり、転倒しながら、シュリはドゥーエの待つ家へと向かっていく。一歩進む度に痛覚を貫いていく熱く鋭い激痛に幾度となくシュリは意識を手放しそうになりながら、のろのろと足を動かし続けた。さほど遠くないはずの歩き慣れた道が、今日はやけに遠く感じた。
 早くドゥーエに会いたかった。自分のことを呼ぶ、彼の低くて心地よいあの声を聞きたかった。
 花の時期を過ぎた金木犀の茂みを抜けると、暮らし慣れた丸太小屋が視界の先に見え始めた。
 帰ってきた、という安堵に気が緩み、力の抜けた体が傾いでいく。
 落ち葉に覆われた地面に体がぶつかる瞬間、シュリの意識は細い糸が切れるようにぷつりと途絶えた。

 ドゥーエが目を覚ますと、ベッドで眠っていたはずのシュリの姿がなかった。一体何処へ行ったのだろうと、ドゥーエは眉を顰める。以前にオオカミの群れに襲われていたこともあったし探しに行くべきか、とドゥーエが逡巡していると、外でばたん、と物音が響いた。
(何の音だ……?)
 何故か嫌な予感がした。ドゥーエは外套に袖を通す間も惜しんで外へと飛び出した。
 金木犀の茂みを抜けたところに、小柄な人影が倒れていた。その正体に気づいたドゥーエは顔から血の気が失せていくのを感じた。
 茶色のチュニックワンピースの左袖が千切れ、血で染まっていた。何よりも目を引いたのは、その袖の中にあるはずの前腕が失われていることだった。
「シュリ……!」
 ドゥーエはシュリに慌てて駆け寄ると、冷たく華奢な体を抱き起こした。「ドゥーエ……?」シュリは力なく笑うと、血を失って真っ青な唇で彼の名を呼んだ。
「シュリ、一体何が……! 誰にやられたんだ! 言え! 言ってくれ!」
 違うの、とシュリは弱々しく首を横に振ると、
「誰かにやられたんじゃない、あたしが自分でやったの」
「どうしてそんなことをしたんだ!」
「あたしが、そうしたかったから。ねえ、ドゥーエ……あれを――あたしの腕を、食べて」
 シュリは無事な方の右手ですぐ近くに転がっていた細い丸太のようなものを指し示した。それはよく見ると、血染めの布をまとわりつかせたシュリの前腕だった。ドゥーエは絶句した。
「なっ……何故俺なんかのためにそんなことをしたんだ!」
 切断されたシュリの左腕に、ドゥーエの喉がごくりと鳴った。昨日の件で、人間の血肉をドゥーエは多少口にしており、体調も多少は改善されていたが、それでもまだ”食事”が足りていなかった。ドゥーエを苛む飢えの渇きは目の前の腕一本などで満たされるものではなかったが、それでも欲しいと本能が訴えていた。しかし、ドゥーエは理性で目の前の誘惑を断固拒絶する。
「何でって……」
 ドゥーエの腕の中で、シュリの表情が泣きそうにぐしゃりと歪んだ。
「あたしは、あんたがあたしに黙ってこそこそするのなんて見たくない! だけど、あんたがこの前みたいにこれ以上誰かを殺すのも見たくないし、あんたが飢えで苦しむのだって見たくない! 何よりも……あたしは、あんたに……ドゥーエに死んで欲しくない!」
 涙声で叫ぶシュリの背をドゥーエはそっと撫でる。ぬくもりと一緒に彼女の感情が痛いくらい伝わってくる。互いが互いを思うからこそ、起きてしまったことのままならなさが辛かった。
「……馬鹿だな、シュリは」
 小さく呟いた自分の声がやけに重く心に響いた。馬鹿げてはいるけれど、そんな彼女の弱いけれど優しく真っ直ぐな部分に惹かれてしまった自分自身も同じくらい馬鹿なのかもしれないとドゥーエは思った。
「馬鹿なことをしてるってことくらい、自分でもわかってる。だけど仕方ないじゃん。ドゥーエのことが好きになっちゃったんだから。こういうのって、時間でも理屈でもないんだよ……」
「シュリ……」
 たまらなくなってドゥーエは腕の中の少女の身体を抱きしめた。彼女が自分と同じ思いでいることはとても嬉しいことであるはずなのに、何故かひどく苦しかった。シュリは涙で濡れた顔で小さく笑うと、
「あたし、知ってるから。ドゥーエは”人喰い”だけど、本当はすごく優しいことも、あたしのことを何かと気にかけてくれていることも。とても綺麗な顔で笑うことも、実は猫舌なことも、料理が下手で不器用なことも。そんなドゥーエの全部が、あたしは大好きなんだ」
「だからといってどうして……!」
「好きな人の――ドゥーエのためなら、あたしは腕の一本や二本くらい惜しくない。こんなの一時凌ぎにしかならないし、独り善がりで中途半端なことくらいわかってる。ドゥーエのことを思えば、あたしを全部食べてもらったほうがいいってことくらいはわかっているけど、せめてあともう少しだけ、あたしがドゥーエと一緒にいたいから。
 だからお願い。あたしのわがままを聞いて。あたしの腕を食べて。なるべくドゥーエには人を傷つけて欲しくないし、だけど飢え死にだってして欲しくないから……このくらいしか、できなくてごめん……」
 こんなふうに懇願されてしまっては、ドゥーエはもう嫌だとは言えなかった。愛する人にこんなことをさせてしまった自分が情けなくて、視界が幾重にも滲んだ。
「どうして……どうして、シュリが謝るんだ。詫びるべきはシュリにこんな思いをさせ、こんなことをさせてしまった俺の方だ。
 お前が俺に死んでほしくないと思っているように、俺もお前にこんな自分を傷つけるような真似はして欲しくない。お前が大事だから、俺なんかのことより、自分のことを大事にして欲しい。頼むから、もう二度とこんなことをしないでくれ……!」
 ごめん、とシュリが繰り返した。その声の響きには愛おしさと苦々しさが混ざり合っていた。
「似た者同士だね、あたしたち。お互いにお互いのことを思うほど、すれ違って空回っちゃう。不器用なんだね、あたしたち……」
「今更だろう。だけど、俺が好きになったのはそんなシュリなんだ」
 ありがと、とシュリははにかんだように言った。少し照れたシュリの顔は、涙が朝日できらきらと光っていてとても綺麗だとドゥーエは思った。
「……シュリ。好きだ。――愛している」
 ドゥーエはシュリを優しく見つめると、柔らかく穏やかな口調でそう告げた。次の瞬間、彼の白皙の端正な顔と夜闇と同じ色の長い髪がシュリの視界を覆い尽くす。
 二人の唇が重なった。やはり、愛おしさは切なさと涙の味がするとドゥーエは思った。けれど、自分は今とても幸せなのだとも思った。
「あたしも、好き、だよ……」
 弱々しい声でそう呟くと、シュリはドゥーエの腕の中で再び意識を失った。幸せの余韻をかき消すように、冷たい死の気配が一歩ずつ自分たちに忍び寄ってきていることをドゥーエは感じていた。

 日没前、ドゥーエはシュリの左腕を喰った。ばき、ぼき、と骨が砕ける音が響く。血に塗れて冷たくなった肉はなぜかゴムを食べているかのようだった。
 人の肉を不味いと思ったのはドゥーエにとって、これが初めてのことだった。しかし、ドゥーエのそんな感情とは裏腹に、あっという間に愛しい少女の細腕は彼の胃の中へと消えていった。
 シュリの腕は、わずかにドゥーエを限界から遠ざけてはくれた。しかし、これがシュリが望んだことであったとはいえ、苦しくて、涙が溢れて止まらなかった。
(どうして、どうして俺はシュリの肉を喰わないといけないんだ……!)
 ”人喰い”である自分のおぞましさに胃の内容物が逆流してくる。「うぐっ……」口の中が吐瀉物で満たされたが、歯を食い縛って耐える。シュリの思いを無碍にはしたくなかった。
 すり潰された固形物が混ざった饐えた液体を飲み下すと、ドゥーエはシュリの血がこびりついた手で目元を乱暴に拭った。自分で自分の腕を切り落とすなどという猟奇的な無茶をやってのけたシュリは今ごろ、ドゥーエとは比べものにならないくらい辛い思いをしているはずだった。それに比べれば自分のこの苦しさなんて大したことはないとドゥーエは思った。
 自分が”人喰い”であるという事実がひどく憎かった。自分が”人喰い”でさえなければ、彼女のそばにいるために、こんなふうに彼女の肉を喰らわずに済んだ。しかし、ドゥーエはこうすることでしか生きることができなかった。
 すまない、とドゥーエは呟くとその場に座り込んだ。降り始めた北時雨が彼の白い頬を涙のように伝う。
 もう人間を口にするのはこれを最後にしようとドゥーエは心の中で誓った。シュリはドゥーエが人間を”喰う”のをよく思っていないし、何よりもう二度とシュリに今日のようなことをさせたくなかった。
 ドゥーエは悲しげな赤い目でじっと泣き出した空を見つめる。冴え冴えとした夜の気配が、東の果てから顔を覗かせようとしていた。