細雪(ささめゆき)が窓の外を舞っていた。まだ冬には少し早いにもかかわらず、その日は昼過ぎから雪が降っていた。
 一人きりの部屋の中をぱちぱちと暖炉の火が爆ぜる音が響く。雪の寒さで(たきぎ)の使用量が増えることを見越し、ドゥーエは(たきぎ)を集めに出掛けていた。
 ドゥーエは優しい。それに、こういった不測の事態のときにさっと率先して動いてくれる姿には、亡き父に似た頼もしさをも感じる。
(けれど……あたしがドゥーエに抱いている感情は、お父さんに向けていたものとは違う)
 ドゥーエ、寒くないかな。ドゥーエ、どこまで行ってくれているんだろう。行ってくれるからって言葉に甘えちゃったけど、やっぱりドゥーエ一人に任せて悪いことをしたかな。
 彼のことを考えるだけで、シュリの心は落ち着きのない子供のようにそわそわしてしまう。時に森に()る果実のように甘酸っぱく弾け、時に胸の底でざわつくこの感情の正体がシュリにはわからない。
 窓に付着した泡雪が溶け、水滴へと変わっていく。室内外の寒暖差で曇った窓に水の筋が滴り落ちていく。苞葉(ほうよう)が赤く染まった窓辺のポインセチアの鉢をなんとはなしにシュリが眺めていると、ギィと入り口の扉が開いた。
「ドゥーエ、おかえり」
 シュリは部屋の奥の戸棚から乾いた布を取り出すと、ドゥーエの元へと向かう。今しがた自分が口にした言葉の響きが何となくくすぐったくて照れくさい。
「あ、ああ……」
 言われたドゥーエの側も意表をつかれたように、深紅の双眸を瞬かせた。ドゥーエは居心地悪げに視線を宙に泳がせると、
「えーと、その、なんだ。……ただいま、シュリ」
 それは”人喰い”として生まれ、これまでの生涯を一人きり、旅の中で過ごしてきた彼が初めて口にする言葉だった。何故か頬が熱くなる。
 はいこれ、とシュリは布をドゥーエに差し出すと、
「ありがとね、(たきぎ)集めてきてくれたんでしょ?」
「大したことじゃない。その……集めてきた分は裏に置いておいたからな」
 照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調でそんなことを言いながら、シュリから受け取った布でドゥーエは雪のついた自分の身体を拭いていく。ありがとう、と全身をあらかた拭き終わったドゥーエがシュリに布を返すと、
「ドゥーエ、ちょっと屈んで。頭にまだ雪ついてる」
 ああ、とドゥーエは膝を折って中腰になる。布を持ったシュリの手がドゥーエの髪に触れる。よし、取れた、とシュリはひとりごちると、ドゥーエの髪を一房すくい上げて、
「ドゥーエって髪綺麗だよね。こんなに長いのにさらさらしてて、ツヤもあって。あたしと同じ黒髪なのに全然違う」
「別にそんなことはないと思うが……」
「それにドゥーエは肌も手も綺麗だよね。顔も男の人とは思えないくらい、とっても綺麗」
 あのな、とドゥーエは苦虫を噛み潰したように言うと、両手でシュリの顔へ触れる。ドゥーエはシュリに自分の顔を近づけると、
「シュリ、俺は男だ。……わかっているよな?」
 人間離れした美しい顔が至近距離から自分を見つめてきて、シュリはどきりとした。自分を見るドゥーエの赤い目には妖艶な凶暴さが揺れている。シュリはしどろもどろになりながら、
「わ、わかってるってば。今のはたとえみたいなものだし。ていうか、あたし、ドゥーエのこと、男の人じゃないなんて思ったことなんてないし!」
「いや、絶対にわかっていない。無自覚にそのように男を褒めそやすものじゃない。変な気を起こして、何かされても文句は言えない」
 ぼとり、とシュリの手から水気を含んだ布が落ちた。ドゥーエが言わんとしていることを理解したのか、丸く黒い目を見開いたシュリの顔が紅潮していく。
「……っ!」
 俺以外には絶対にやるなよ、と低い声で釘を刺すと、シュリから手と顔を離す。シュリは息がかかるほど近くにあったドゥーエの顔が離れていくのを残念に思った。ドゥーエが相手であれば、もう一歩踏み込んだ”何か”をされてもいい――そんなことを考えかけた自分の思考を打ち消すように、シュリは慌ててかぶりを振った。
「えっと、外、寒かったよね? あたし、お茶淹れてくる!」
 真っ赤な顔でシュリはそう言うと、逃げるように台所に向かっていった。ドゥーエは床に落ちたままの布を拾って、汚れ物用のかごに入れた。オーク材のダイニングチェアの背に黒い外套を脱いで掛けると、ドゥーエは椅子に腰を下ろした。はあ、と自己嫌悪で大きく溜息を吐き出すと、ドゥーエは右手をこめかみに当てる。
(やり過ぎた……何をやっているんだ俺は……)
 こぽこぽと台所でシュリがティーポットへ湯を注いでいるらしい音が聞こえる。かすかにレモンのような香りが台所から漂い始め、少しずつドゥーエの心は落ち着きを取り戻していく。
 シュリは五分ほどしてダイニングへと茶の入ったカップを運んでくると、訝むようにドゥーエへと声をかけた。
「どうしたの? 頭でも痛い?」
 何でもない、とドゥーエはシュリから湯気の漂うカップを受け取った。
「そう?」
 疑わしいとでも言いたげな顔をしながら、シュリもドゥーエの向かい側へと腰を下ろした。
「旨いな」
 淡い飴色の液体に口をつけると、ドゥーエはそう呟いた。柑橘と生姜の爽やかさと程よいはちみつの甘さが冷えた身体へと染み渡っていく。
「これレモングラスのお茶なんだけど、昔、冬になるとお母さんがよく飲ませてくれたんだ。寒いときはこれが一番、って」
 そうなのか、と相槌を打ちながら再びドゥーエは茶に口をつける。
「こういうのも悪くないな」
「お母さんの直伝の味だもん。当然でしょ」
 そうではなくて、とドゥーエは首を横に振る。
「こうやって誰かと茶を飲むという行為が、だ」
 先程、帰宅したときのやりとりもあり、ドゥーエはシュリの顔を直視できなかった。自分が小っ恥ずかしいことを口にした自覚はある。
 ふふ、とシュリは含み笑いを漏らすと、そうだね、と頷いた。
「……何がおかしい」
 ドゥーエが憮然とした顔をすると、違う違う、とシュリは顔の前で手を振った。
「おかしいんじゃなくて嬉しいの。ドゥーエがそういうふうに言ってくれるのが。あたしもドゥーエと同じ気持ちだから」
「シュリ……」
「あたし、もう何年も一人だったから、自分の淹れたお茶で、誰かが美味しいって言ってくれるのが嬉しい。それに、その相手がドゥーエだから、特にかな」
「またそんなことを……」
 ドゥーエは苦笑した。この娘は、先程俺が言ったことの意味を本当に理解しているのだろうか。
(けれど……こんな時間がいつまでも続いてくれればいい)
 ドゥーエは口の中に広がる幸せの味を噛み締めながらそんなことを思う。カップから漂う湯気のように、シュリと過ごすこの時間が儚くすぐに消えてしまうものだと理解しているからこそ、そう思わずにはいられなかった。
 身体が空腹の渇きを訴える頻度が上がってきていることにドゥーエは気づいていた。今、こうしている瞬間も、ドゥーエの身体は倦怠感に支配され、内側からちくちくと刺されるような不快感を味わい続けている。限界が近いことを知っているからこそ、この刹那の永遠を願わずにはいられない。一秒でも、一瞬でも長く今の時間が続いてほしかった。
 家の外ではしんしんと降り続ける雪が、うっすらと辺りを白に変え始めている。ぱちぱちと暖炉の火が爆ぜる音が終焉への序曲を奏で始めていた。

◆◆◆

 早い初雪が森を訪れた次の日、朝食後の台所仕事が終わると、シュリは家の裏にある納屋を開け、冬物の衣服や寝具を引っ張り出した。けほけほ、とあまりの埃っぽさにドゥーエが咳き込むと、納屋の棚を漁ってロープを探していたシュリはけらけらと笑った。
「まあ、お父さんの服は長いことしまい込んでたから仕方ないよ。今日は天気もいいし全部洗っちゃおう」
 男物の衣類が入ったカゴとロープ、埃臭い毛布をドゥーエに押し付けると、シュリは自分も衣類の入ったかごと粉末状の洗剤が入った小箱を抱え、普段水を汲んでいる小川への道を歩き出した。
 森を奥へと進み、ニシキギの茂みを抜けると、シュリは河原に籠を置いた。シュリは丈夫そうな木を品定めするように、何本かの木の幹に手を当ててうんうんと唸っていたが、やがて結論が出たらしくこっちこっちと彼女はドゥーエを手招きした。
「家から持ってきたロープあるでしょ。あれをそこの木の太枝から向こう岸の木の太枝にぴんと張って。弛まないように気をつけて」
 ああ、と頷くとドゥーエはシュリの指示通り、ロープを木の太枝に結び始める。ドゥーエがロープを結ぶのに手間取っているうちに、シュリはロープの端を持ち、川の中の岩を伝って向こう岸に渡っていく。慣れた手つきで黄色い葉がわずかに残るイチョウの木にロープを結びつけ、強度を確認するとシュリは再び岩を渡ってドゥーエの元へと戻ってきた。
「それじゃ、洗濯始めよっか。あたしはこっちやるから、ドゥーエも自分の分は自分で洗ってね」
 わかった、とドゥーエは男物の衣類の山からネイビーのニットベストを摘み上げた。これまでに自分で洗濯などろくにしたこともないドゥーエはどうしたものかと、手際よく衣類を洗っていくシュリの手元をじっと見つめる。
 視線に気づいたシュリは慌てたように顔を真っ赤にすると、
「え、ちょっと……! 見ないでよ!」
「何故だ? ……って、ああ」
 シュリが今洗っているのが冬物の肌着であることにドゥーエは気づく。しかし、ドゥーエは特に意に介したふうもなく、
「裸を見られたわけでもなし、肌着くらい今更だろう。今朝だって、俺のいるところで平然と着替えていたし、何を恥ずかしがる必要がある?」
 さらりと着替えの覗き見を告白したドゥーエにシュリは唇を戦慄かせた。
「だって、ドゥーエ寝てたし大丈夫だと思って……! っていうか、今までも寝てるふりして見てたわけ!? 最低! 変態!」
 シュリはもみ洗いしていた肌着から手を離し、ぽかぽかとドゥーエの胸を殴ろうとする。ドゥーエは右手でシュリの両手を掴み、ニットベストを持ったままの左手で川面を示すと、
「何でもいいが、肌着が流されるぞ。白いレースのリボンがついた、フリフリの」
「っ……いやああああああ! ドゥーエの馬鹿っ!」
 肌着の特徴を事細かに述べられ、羞恥で潤んだ目でシュリはドゥーエをきっと睨む。シュリはその場にオークグレーのレースアップブーツを脱ぎ捨てて素足になると、下流へと流されつつある肌着を追い、じゃぶじゃぶと白い飛沫をあげて川の中へと入っていった。
 水をかき分けて下流へと向かっていく小さな後ろ姿を見送りながら、ドゥーエは手に持ったニットベストを水へと沈めた。冬の初めの川の水は冷たく、ドゥーエは反射的に背を縮こまらせた。
 ドゥーエに見えないようにシュリは濡れた小さな布を抱えて川の中を戻ってきた。シュリはドゥーエが服を手に漫然と水面をかき回しているのを見て、呆れたような表情を浮かべると、
「まったくもう……そんなんじゃ全然綺麗にならないよ? あたしやるから貸して」
 シュリはよほど見られたくないのか、服が濡れるのも構わずに肌着を脇に挟むと、ドゥーエの手からニットベストを奪い取った。ニットベストを水の中に沈めると、シュリは浮力を利用して押し洗いを始める。
「洗うのはあたしがやるから、ドゥーエは干すのをやってよ。シワにならないようにちゃんと伸ばしてからね」
 シュリは予洗いを済ませると、家から持ってきた小箱の洗剤を使って衣類から汚れを落とす。洗剤を川の水で念入りに濯いで、可能な範囲で水気を絞るとドゥーエに一枚ずつ洗濯物を渡していく。ドゥーエはシュリに渡されるまま、一枚ずつ皺を伸ばして、木と木の間に渡したロープに干していった。
 冬物の衣類と寝具を洗い終えると、シュリは川から上がってきた。凍えて真っ赤になった足からぞんざいに水気を払い飛ばすと、彼女は脱ぎ捨てたままだったオークグレーのブーツに足を滑り込ませた。
 シュリは毛布にほんの少し残っていた皺を伸ばし直すと、満足げにドゥーエを振り返り、
「ドゥーエ、ありがと。助かったよ。疲れただろうし、休憩にしようか」
 ちょっと待ってて、と一方的に言い置くと、シュリは洗濯物の入っていたかごとドゥーエをその場に残し、家の方へと来た道を戻っていった。
 十分ほど経つと、バターと砂糖の混ざった芳醇な香りとともにシュリが戻ってきた。その手にはパイらしきものが乗った檜のまな板が握られている。そういえば朝食の片付けをしながら、シュリが何やら小麦粉や砂糖らしきものを器でかき混ぜていたような気がするとドゥーエは思い出した。
「お待たせ。サンザシのジャムを使ったパイなんだけど一緒に食べない? 洗濯してる間に焼いてたんだ」
「もらおう」
 シュリはドゥーエのそばに腰を下ろすと、宝石のようにきらきら光る赤いジャムが乗ったパイを一切れ差し出した。ドゥーエはまだ暖かいそれを受け取ると、口をつけた。
 濃厚なバターが香る生地。すっきりした甘酸っぱさが際立つジャム。甘すぎずバランスの良いそれを口にすると、ドゥーエは目を見張った。
「どう……かな?」
 シュリは自身もパイを齧りながら、ドゥーエの反応を伺った。美味い、とドゥーエが一言口にすると、よかった、とシュリは花のように顔を綻ばせた。
 パイを食べ終えると、ドゥーエは水面に銀色に光るものが見えることに気がついた。ドゥーエは暗赤色の目を眇めると、その正体を探る。
(魚……か?)
 ドゥーエは近くに長い枝が落ちているのを見つけると、拾い上げる。一瞬、普段よりもひときわ強い痛みが全身の神経を駆け巡る。ドゥーエは眉根に皺を寄せ、痛みが去るのを待つ。
 かぶりをふって、ドゥーエは痛みの残滓を振り払うと、手の中の枝に暗赤色の視線を落とした。これを上手く使えば、シュリのために魚を取ってやれるかもやしれない。倦怠感がうっすらと四肢に重さを落としているが、自分の”人喰い”としての優れた身体能力をもってすれば、やってやれないことはないだろう。
「シュリ。短剣を貸してくれるか?」
「いいけど……何に使うの?」
 シュリは腰に吊るした短剣を抜くと、柄のほうをドゥーエに向けて差し出した。見ていればわかる、とドゥーエは短剣を受け取ると、枝の先端を鋭く削り始める。
 即席の木槍の出来に満足すると、ドゥーエはシュリに短剣を返し、黒いブーツの靴紐を解いた。ブーツを脱ぎ、静かに川の中へと入ると、彼は息を止めて獲物へと狙いを定める。ドゥーエは魚が一番無防備になる瞬間を見定め、水底に木槍を突き入れた。一瞬の後には槍の穂先から逃れようとぴちぴちと全力で体を痙攣させる大きな鮭の姿があった。わあ、とシュリの歓声が上がる。
「ドゥーエ、すごい! 今夜はご馳走だね! ちょっと贅沢して、ムニエルにしちゃおう!」
 黒く丸い目を興奮できらきらとシュリは輝かせた。ドゥーエはぴちぴちと体を跳ねさせ続ける鮭を穂先から取って、エラを起点に背中の方へと折り曲げた。頭から血を流しながら不自然に背を反らした鮭と自分の手を川の水で清める。ほら、と動かなくなった鮭をドゥーエはシュリに手渡してやる。
 ありがとう、と鮭を抱きしめるシュリが何だか眩しくて、ドゥーエは視線を逸らす。ドゥーエの尖った長い耳は、長く艶やかな黒髪の内側でほんのりと赤く染まっていた。
「このくらいでお前が喜ぶなら、いくらだって取ってやる」
 ぼそりと口の中でそう呟くと、自分で作った木槍を手に、ドゥーエは再び川の中へ入っていく。水面をきらきらと照らす陽の光が、冬の色を帯び始めていた。

◆◆◆

 シュリが作ってくれた鮭のムニエルの夕食を平らげた後、ドゥーエはダイニングテーブルの上に突っ伏していた。食後にシュリが入れてくれたマリーゴールドとローズヒップの茶の表面で、整っていながらもどこか疲労の色が滲んだ男の顔が揺蕩っていた。
 ドゥーエはシュリと食卓を囲む時間が好きだ。シュリがドゥーエのために作ってくれる料理も美味しいとは思う。しかし、それはあくまで嗜好品としてである。
 嗜好品に過ぎない人間の食事では、ドゥーエの飢えは本質的には満たされることはない。ドゥーエは飢えの渇きによって、熱っぽく重苦しい怠さを味わっていた。痛覚からなるべく意識を遠ざけ、極力気にしないようにしているが、時折、身体を内部から何かに刺されるような痛みもある。
 シュリを”喰え”ば、この症状が和らぐことはわかっている。しかし、ドゥーエは彼女を”喰う”気にはなれなかった。
 つまらない意地を張っている自覚はある。それでも、せめて自分が自分を保っていられる間だけは、その意地を張り通したい気がしていた。
 シュリと出会い、彼女とこうして時を過ごすようになってから、彼女を単なる獲物として見られなくなっている自分がいた。
(俺はもう……シュリを純粋な”人喰い”としての視点から見ることはできない)
 ドゥーエはシュリと過ごす時間が好きだった。この時間を壊すくらいなら、自分を徐々に苛みつつあるこの苦痛に耐えようと思うくらいには今の暮らしを気に入っていた。
(その結果、俺が衰弱して死ぬことになるかもしれない)
 それでもいいかもしれない、とドゥーエは薄く笑った。自分の手でこの愛しく尊い時間を壊したくはなかったし、そうやって死ねるのなら自分のような化け物にしては上等だろう。
 あとどれだけ今のままいられるだろう。そう思いながら、ドゥーエはテーブルの上の真鍮の砂時計を手で弄ぶ。砂時計をひっくり返すと、さらさらと灰白色の砂が下へと落ち始める。
 ギィ、と裏口の扉が開く音がした。「ふぅ……寒かったあ……」今日ドゥーエが釣った鮭の処理をすると言って外で作業をしていたシュリが、身を縮こまらせながら部屋の中へ入ってくる。
 ドゥーエはだらしなくテーブルに突っ伏していた体を起こした。ドゥーエは倦怠感に歪んでいた表情を消し、何事もなかったかのようにティーカップの中の冷めた茶に口をつける。自分の体調が芳しくないことをシュリに気取られたくなかった。
「ドゥーエ……」
 ダイニングへ来たシュリは何か言いたげにドゥーエを見る。しかし、彼女はいいやとかぶりを振る。一瞬、ドゥーエを案じるようにシュリの顔が曇ったが、それを感じさせないからっと明るい口調で彼女はこう言った。
「それもう冷めてるんじゃない? あたし、これから自分の分淹れるけど、あったかいやつもう一杯どう?」
「ああ、もらおう」
 ドゥーエは酸味と仄甘さを感じる冷めた液体を飲み干すと頷いた。それじゃ淹れるね、とシュリはケトルに甕(かめ)の水を汲むと、(かまど)で湯を沸かし始める。
 何の変哲もない日常は少しずつ綻びを生じさせながらも紡がれ続ける。砂時計の砂は静かに落ち続けていた。

◆◆◆

 日を追うごとに日々の冷え込みは加速し、季節が移りゆこうとしていた。赤や黄色に色づいていた葉々は生い茂る木の枝から姿を消し、確実に眠りの季節が森に訪れようとしているのを感じさせた。
 冬に備えてやらなければならないことは多い。本格的に冬を迎えれば、この森は雪に閉ざされ、日々の食料を得ることすら一気に難しくなる。そのため、シュリとドゥーエは前日の衣替えを皮切りに冬支度ををせっせと進めていた。
「シュリ」
 森の中で仕留めた野ウサギをぶら下げて帰ってきたドゥーエは、家の前にしゃがみ込んで焚き火の世話をしている黒髪の少女の姿を認め、その名を呼んだ。少女はドゥーエに気づくと顔を上げる。
「ドゥーエ、おかえり。それ、捕まえてきたの?」
 シュリはドゥーエが手にぶら下げているウサギに視線をやると、そう聞いた。ああ、と頷くとドゥーエはシュリにまだ温かいウサギの骸を渡してやる。
「ありがとう。助かる。あっ、そうだ」
 シュリはウサギを地面に置くと、紙に包まれた細長いものを棒で焚き火の中から取り出した。はい、とドゥーエはシュリにそれを差し出され、
「熱っ! 何だこれは!?」
 あまりの熱さにドゥーエは包みを取り落とした。シュリは自分の分を同じように火の中から取り出ながら、
「何って……焼き芋だけど」
 涼しい顔でシュリは包み紙を素手で剥くと、中から顔を覗かせたほくほくと湯気の立つ芋へとかぶりつく。ドゥーエは地面に転がった芋の包みと平気そうな様子のシュリを見比べながら、
「火傷しないのか? こんなに熱いんだぞ?」
 シュリは口の中のねっとりと甘い芋をもぐもぐと味わいながら、
「んっ……大丈夫大丈夫。んむ……というか、熱いからおいしいんだし……はふっ」
「食べるか喋るかどちらかにしろ」
 呆れたように肩を竦めると、ドゥーエは警戒しながら指で芋の包みをつまみ上げた。「っつ」熱い紙包みを苦労して剥がすと、ドゥーエはふうふうと芋に息を吹きかける。ドゥーエはしばらくそうしていたが、やがて覚悟を決めたように芋に口をつけた。
「ごふっ」
 気道と食道を火傷してしまいそうな熱さが喉を突き抜けていき、ドゥーエは思わず噎せる。芋を食べ終えたらしいシュリは芋を包んでいた紙を畳んで服のポケットにしまうと、咳き込むドゥーエの背中を擦ってやりながら、
「もしかして、ドゥーエって猫舌?」
 かわいい、とシュリは笑う。その言葉からは揶揄するような空気が滲んでいて、ドゥーエはむっとした。
「かわいいとは何だ、失礼な」
「ごめんごめん。ドゥーエはゆっくり食べてなよ。あたしは作業してるから」
「作業って、何をやるんだ?」
 手の中で芋を転がして冷ましながら、ドゥーエは疑問を口にした。ああ、とシュリは焚き火の横においた大きな鍋を手で指し示すと、
「燻製作ろうと思って。昨日、ドゥーエが獲ってくれた鮭の残りがあったでしょ? 昨日のうちに処理して干しておいたんだ」
 そう言うとシュリは鍋の底に白い粉と木屑のようなものを入れていく。ドゥーエは少し冷めてきた芋をまだ熱そうに齧りながら、
「今、何を鍋に入れたんだ?」
「杉の枝を削ったものだよ。それと砂糖。これを入れて燻すといい匂いになるんだ」
 そう説明してやりながらもシュリは手を動かし続ける。杉の木屑の上に網を置くと、家の陰で干していた鮭の切身を持ってきて網の上に置いていく。
 シュリは少し考える素振りを見せると、家の中へと戻っていった。すぐに銀杏といちじくの入った籠を持って出てくると、シュリは鮭の隣にそれらを並べていった。
 食材を並べ終えると、シュリは鍋を焚き火にかけた。しばらくして、細い煙が立ち上り始めたのを確認すると、彼女は鍋に蓋をする。
「さて……燻製はこれでよし、と。しばらく時間かかるし、今のうちにさっきドゥーエが捕まえてきてくれたウサギを処理しちゃおう」
 シュリは地面においたままにしていた茶色いウサギの死骸を掴み上げると、後ろ足を掴んで逆さ吊りにした。シュリは、腰に吊るした両親の形見の短剣を抜くと、下腹部に刃を押し込み、頸部まで一気に切り裂いた。真っ赤にぬらぬらと光る内蔵が露わになると、シュリは躊躇うことなく手を突っ込んで胃や腸を引きずり出していく。
 ウサギの頸動脈をナイフで切ると、まだ温かい血液がどっと溢れ出した。シュリは溶けずに残っていた日陰の雪に切り開かれたウサギの腹を血が出なくなるまでしっかりと押し当てた。
 血抜きが終わると、シュリはウサギの後ろ足に切れ目を入れていく。腹の内側からも短剣で切り込みを入れると、シュリは毛皮を引き剥がしていった。
「お前、慣れているんだな」
 芋を食べ終わったドゥーエは感心しながら、表情一つ変えずにウサギの皮を剥ぐシュリの手元を覗き込んだ。
「まあね。もう何年もやってるから」
「嫌じゃないのか?」
「昔は嫌だったよ。動物を殺すのも、こうやって解体するのも。可哀想で仕方なかった。
 だけど、生きていくためにはこれも仕方のないことだから、今は割り切るようにしてる。変に情けをかけると辛くなるしね」
 淡々と答えながら、シュリはウサギの皮を剥ぐとためらいなく頭を短剣で断つ。ぼとりと地に染まったウサギの頭部が引っ張り出した臓物の隣に転がった。そのまま、シュリは骨に沿って短剣で切り込みを入れていき、後ろ足と前足も切り落とす。ウサギの四肢がぼとぼととウサギだったものの断片の横へと落ちていく。
 残った胴体を前後に断つと、背骨を前半身の肉から切り離す。後半身から脂肪を取り除き終えたころには、ウサギは生前の姿など見る影もない物言わぬ肉塊に変わり果てていた。
「まあ、こんなところかな。塩漬けにするからドゥーエも手伝ってよ。お肉以外もやっちゃいたいし」
 ああ、とドゥーエはシュリの頼みを快諾すると、捌いたばかりのウサギの肉を持って家の中へ入っていく彼女の背を追いかけた。

「……もしかして、ドゥーエって料理できない?」
 シュリはウサギの肉を包丁で切り分けていた手を止めると、苦笑しながらドゥーエの手元を覗き込んだ。ドゥーエには塩漬けにする水菜とキノコの下処理を頼んだだけだったが、包丁の握り方からして何かがおかしい。一体、何をどうしたら、ペンを持つような握り方になるのか、シュリには理解できなかった。
 そういえば、とシュリは以前にドゥーエが作ってくれたスープのことを思い出した。あれは確かカブとブロッコリーのスープだったはずだが、カブは皮がついたままだったし、ブロッコリーに関しては手で無理やり引き千切ったような形跡があったのを覚えている。
「まったく、どうやったらそんな握り方になるの? それにキノコ押さえてる手もそれじゃ駄目。そんなんじゃうっかり手を切りかねないよ」
 貸して、とシュリはドゥーエの手から包丁を奪い取ろうとする。「あっ」包丁の刃先がシュリの手を掠り、皮膚を切り裂いた。じわじわと一拍遅れて、シュリの右手に血が滲んでいく。「……あーあ」シュリは右手を心臓より高い位置に掲げると、左手で手首を抑えて傷口を圧迫する。
 ドゥーエの喉がごくりと鳴った。喉の奥から唾液が込み上げてくるのをドゥーエは感じた。シュリの手を汚す血の赤色に、”喰いたい”という衝動が身体の奥からせり上がってくる。
 なるべく意識しないようにしていた、飢えと渇きの感覚をドゥーエははっきりと知覚した。目の前の少女を食えば、体の内側を断続的に突き刺し続ける痛みからも重苦しい倦怠感からも解放される。
 シュリを食いたい。シュリの肉を、血を、骨を、臓物を――彼女のすべてがどうしようもなく欲しかった。
 目の前の誘惑に、ドゥーエの身体と精神はどうしようもなく昂ぶっていく。自分の中を突き破って出てこようとする欲望の激しさに、嗚呼、とドゥーエは切なげな声を漏らした。
 すっと無意識にシュリの喉元へと向かって手が伸びた。指先に彼女のぬくもりを感じた瞬間、ドゥーエは愕然とした。
(俺は今、シュリに大して何を考えた……? シュリに何をしようとした……!?)
 自分がシュリを喰おうとしたという事実に背筋が凍った。シュリから指先が離れ、行き場を失くして不自然に宙を彷徨った。
「ドゥーエ、どうしたの? 何か顔色悪いよ?」
「なんでも、ない」
 そう言った声が掠れた。顔がひどく強張っているのを感じる。先程、シュリと食べた芋が食道を逆流してきて、気分が悪かった。何よりもシュリに対してあんな欲望を抱いた自分にドゥーエは嫌悪感と吐き気を覚えていた。
「すまない、少し外で風に当たってくる」
「え、ちょっと……! ドゥーエ、本当に大丈夫!?」
 心配するシュリの声が背中を追いかけてくる。しかし、ドゥーエは返事をすることなく、足早に台所を通り抜けると、裏口の扉から家の外へ出た。
 扉が閉まったのを確認すると、ドゥーエは外壁に背を預けてその場にずるずると座り込んだ。
(俺はあとどのくらい、シュリのそばにいられるだろう)
 今日のところはすんでのところで思いとどまれたからよかった。だが、またいつドゥーエがシュリに対してあのような欲望を抱いてしまうともしれなかった。
(俺はシュリを傷つけたくない。間違ってもシュリを喰うなんてことはしたくない)
 ドゥーエは唇を噛んだ。シュリを大切に思うなら、今すぐにでもここを離れるべきだった。
(だけど、俺はシュリのそばにいたい……)
 離れたくない、という感情がドゥーエの理性を邪魔していた。自分が”人喰い”なんかに生まれなければ、とドゥーエは己を呪った。
 目頭に熱いものが込み上げてきて、ドゥーエは暗赤色の目を伏せる。頬を何かが伝い落ちていくのを感じ、自分が泣いていることにドゥーエは気づいた。
 冬を運ぶ冷たい風がドゥーエの長い黒髪をふわりと揺らした。ドゥーエはその場に座り込んだまま、しばらく動かなかった。