生い茂る森の木々の葉や家の屋根を叩く雨の音がやけに大きく聞こえていた。
背中に暖かなぬくもりと命の拍動を感じながら、ドゥーエはため息をついた。暖炉の火が消えた寒い室内に、彼の呼気がふわりと白く広がる。
自分の息が闇の中に消えていくのを見届けると、ドゥーエは何度目になるかわからない寝返りを打った。手足を折り、小さく丸まるようにして眠る華奢な背中が目に入る。
ドゥーエは明日、この家を出て行くことをシュリへ告げた。彼女は少し寂しそうな表情を覗かせはしたものの、拍子抜けするほどにあっさりとそのことを受け容れ、了承の意を示した。
傷が癒えきったわけではない。今もノルスの自警団につけられた傷は治りきらないまま、ドゥーエの身体に残り続けている。
(これ以上、シュリと一緒にい続けるのはよくない……俺にとっても、シュリにとっても)
空腹による渇きが、時折顔を覗かせるようになっていた。ちりちりと体内を灼くような痛みと”喰いたい”という本能を理性でねじ伏せてやり過ごしていたが、それだっていつまで保つかわかったものではない。
情が移りすぎた、とドゥーエは思う。遠からず、”人喰い”としての衝動を抑えきれなくなるときが来る。そうなったときにシュリを捕食対象として割り切るには、ドゥーエは彼女のことを知りすぎていた。自分がいつか彼女を喰ってしまうようなことになるのは嫌だと、”人喰い”の本能と相反する感情をいつの間にか抱くようにすらなってしまっていた。
(……潮時だろう。俺のような化け物には過ぎた夢を見ていたんだ)
思えば、シュリと出会ってから今までが異常だったのだ。”人喰い”は決して人間とは相容れることはできず、共存など出来はしない。それはドゥーエが今まで、何度も何度も自分自身に言い聞かせてきたことだった。
それなのに、シュリの様々な表情を知るほどに、何でもない他愛のない会話を交わし合う度に、彼女のそばから離れがたくなっていった。それほどにシュリのそばはドゥーエにとって居心地が良く、追い出されないのをいいことに長々と居座り続けてしまった。
緩やかに、穏やかに過ぎていく束の間の日常は、いつの間にかドゥーエの中で大きなものとなってしまっていた。
(俺はシュリを傷つけたくない。せめて、シュリにだけは化け物である俺の姿を知られないままでいたい)
二人で過ごしたこの日々を綺麗な思い出のままにしておきたかった。そのために、後ろ髪を引かれながらも、ドゥーエはこの家を離れることを決めた。短い間だったといえ、世話になり、共に過ごした彼女のためにドゥーエができるのはそれしかない。傷が浅くて済むうちに離れてしまうのがお互いのためだった。
この夜が明けて日が昇れば、行く当てもなく、いつまで続くとも知れない一人きりの旅暮らしに戻ることになる。自分にとっての当たり前が戻ってくるだけのことだとは思うのに、寂しいという感情が顔を出してはドゥーエの決意を阻もうとする。
くだらない感傷だとは思う。きっと、時が経てば、人間よりも遥かに長い時を生きていく自分にとっては記憶にも残らぬほどに些細な出来事でしかなくなり、彼女にとっても、繰り返される日常に埋もれて色褪せていく程度のことに過ぎない。そう思うことで、彼はどうにか自分を納得させようとしたものの、本当にそうなのだろうかという疑問を拭いきれないままでいた。
もう一緒に過ごすのも最後なのだと思うと、こちらに背を向けて眠っている彼女の温もりに無性に触れたいという衝動がこみ上げてきた。しかし、彼女に対しては最後まで誠実な紳士でありたいような気がして、シーツに包まれたその存在の輪郭を記憶に焼き付けるかのように視線でなぞるだけに留めておく。
(何をやっているんだろうな……)
自嘲めいた笑みを浮かべると、ドゥーエはシュリへと背を向け、目を閉じる。遠くにいる眠気の気配を手繰り寄せようとしながら、閉じた世界に身を委ねていると、ひくっ、と小さくしゃくり上げるような声を彼の聴覚が捕らえた。はっとしてドゥーエは己の内に向いていた意識を現実に引き戻すと、暗赤色の目を開く。
がばっと身を起こし、隣を見ると、シュリの華奢な細い身体が小刻みに震えていた。ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼ぶ。
「シュリ……?」
シーツに包まったまま、啜り泣くばかりで反応らしい反応はない。ドゥーエはためらいがちにシュリへと手を伸ばすと、そっと彼女の短い黒髪に触れる。
「シュリ。どうした?」
寝乱れた髪を優しく撫でてやりながら、ドゥーエは低く落ち着いた声音で彼女へと問うた。何でもない、とシュリが身震いすると、ばさりとシーツが音を立ててベッドから床へと滑り落ちた。遠くで雷鳴が低く轟き、窓から入り込んできた稲光で涙に濡れたシュリの顔が凍えるような闇の中に一瞬浮かび上がる。
「ドゥー……エ……?」
シュリは涙で湿った声でそう呟くと、ドゥーエの首に両腕を回してしがみついてきた。彼女はドゥーエの胸に顔を埋めると、声を上げて泣きじゃくり始めた。いつの間にか強くなった雨音の中を細く甲高い、哀切に満ちた苦しげな悲鳴が貫く。
「おい、シュリ……?」
ドゥーエは戸惑いながら、シュリの華奢な背をそっと抱きしめてやる。腕の中の少女の身体は細く頼りないのに、その温かさと鼓動が彼女が今ここに存在していることをドゥーエへ確かに伝えていた。なぜか胸がひどく苦しくなって、ドゥーエはシュリの髪へと顔を埋める。
「シュリ……泣くな。俺がここにいる。俺がお前のそばにいるから……だから、少し落ち着け」
ドゥーエの言葉に反応するように、腕の中の少女の身体が小さく動く。それを見ながら、ドゥーエは参ったな、と思う。
(ああ、駄目だ……俺は、こんなふうに泣くシュリを置いて、どこかに行くことなんてできない……)
彼女をこの状態のまま放ってはおいてはいけないとドゥーエは強く感じた。こんな状態の彼女を一人にしたら壊れてしまうのではないかと怖かった。
「……夢を……見た、の……」
シュリはドゥーエの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。少しずつ様子は落ち着きつつあったが、声にはまだ嗚咽が混ざっている。
「夢?」
ドゥーエは聞き返すと、続きを促した。シュリはこくりと頷くと、ドゥーエの背に爪を突き立ててきた。さほど痛くはなかったが、シュリの指先が触れた場所から、彼女の恐怖や哀しみ、怒りや憎悪が複雑に混ざり合ったものが伝わってきて切なかった。再び溢れだした彼女の感情が、ドゥーエが寝巻き代わりにしているオールドブルーのシャツの胸元をじっとりと湿らせ、その痕跡を刻んでいく。
「あの、ね……お父さんと、お母さんが……死んだ、ときの……夢を見たんだ」
そうか、とドゥーエは目を伏せる。シュリの乾いた唇がぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。淡々とした彼女の声音がドゥーエの耳朶(じだ)に痛みを伴って響いた。
雨の音に混ざるようにして、季節外れの遠雷が聞こえ続けていた。
◆◆◆
シュリは八歳まではエフォロスの森の南にあるノルスで、薬師である両親とともに暮らしていた。母親のフウナが元々は素性の知れない流れ者であったことから、同じ町で暮らす父親のセイレムの姉一家からは疎んじられてはいたものの、八年前のその日が訪れるまで、シュリは普通の子供として幸せに過ごしていた。
森の木々が赤や黄色に色づき始め、金木犀が香り始めたころのことだった。シュリの一家はノルスで営んでいる薬の店を休み、エフォロスの森を訪れた。店で商う薬の材料の採集と幼いシュリのためのピクニックが目的だった。
仕事の延長とはいえ、両親と出かけられることを喜んだ幼いシュリは、森に自生する薬草を集める両親の後ろをついて歩きながら、木の実や美しい鳥の羽を拾い集めて遊んでいた。セイレムとフウナは時折手を止めては、無邪気に遊ぶ愛娘を優しい目で見守っていた。
優しい金色の木漏れ日が降り注ぐ森の中をしばらく進んでいくと、小さな丸太小屋があった。普段は薬草の乾燥や、材料を管理する倉庫代わりに使用している場所であり、フウナと結婚してからセイレムが手ずから建てたものであった。
セイレムがズボンのポケットから出した真鍮の鍵を鍵穴へと差し込む。かちり、という小さな音とともに鍵が開いた。セイレムがチーク材の重い扉を開けると、待ちきれなかったかのように小さなシュリは扉の隙間から小屋の中へとするりと体を滑り込ませた。
くすくすと笑いながらフウナは娘より一歩遅れて小屋の中へ入ってくると、換気のために窓を開けていく。窓から入り込んできたからりと冷たい風に幼い娘と同じ色の彼女の長い髪がふわりと揺れた。
その間にセイレムは道中で集めてきた薬草を種類ごとに分けて紐で束ねていく。その様子をシュリは床にしゃがみこんで興味津々で覗き込んでいた。
天井の木目に沿って渡したロープへとフウナはセイレムが束ねた薬草を手際よく吊るしていく。道中で集めてきた薬草の処理が終わるころには、東南の空にあったはずの太陽は南の高い場所へと位置を変えていた。
昼食の入ったバスケットを持って家の外へ出ると、澄んだ青い空の下、三人は木立の続く細い道を森の奥へと向かって進んでいく。輪唱を繰り返す鳥たちの声に寄り添うように、爽籟の伴奏が響いている。
冬を越すための家をせっせと築いている虫の幼体。雪の季節に備えて粧いを変えるウサギやモモンガといった小動物たち。南へ向かう途中、木の上でひとときの休息を取っている普段見かけない色の鳥たち。少しずつ次の季節を迎える準備を進めている生き物たちの営みに、シュリは丸く大きな黒瞳を輝かせる。
頬袋いっぱいにどんぐりを詰め込んだリスの愛らしさに目を奪われていたシュリは、「あっ」木の葉の下にあったイタチの巣穴に足を取られて躓いた。横を歩いていたセイレムはとっさに腕を伸ばして、ひっくり返りかけた娘の体を支える。もう、とフウナは呆れたようにシュリを見やると、
「シュリ、浮かれすぎよ。あんまり浮かれていると危ないわ。きちんと前を向いて歩きなさい」
母親に釘を差され、シュリははあい、と頬を膨らませた。限界を超えた量のどんぐりを口に押し込もうと奮闘しているリスから視線を外し、顔を上げるとシュリは再び歩き始めた。
森の道をしばらく進み、茂みを抜けると川縁へと出た。細かな砂利の多い地面に大判の織物を敷くと、シュリたちはその上に腰を下ろし、バスケットの中の昼食を広げ始めた。
塩漬け肉とゆで卵のサンドウィッチ。黄金色の芋のペーストが乗った、バターの香りが芳醇なパイ。山羊革の水筒に入れられた、すっきりとした喉越しの冷たいりんごの絞り汁。
「いただきます!」
シュリは目を輝かせると、スイートポテトのパイへと手を伸ばした。サクッという音を立ててパイを頬張ると、口の中にねっとりとした自然な甘さが広がった。
白日の光を受けて、波紋を刻む川面がきらきらと光る。さわさわと冷たさを孕んだ風が森の木々を揺らしていく。頭上の枝からはらりと落ちてきた紅色の葉が小舟のように川を流れていく。律(りち)の調べに乗ってチィチィとどこかで鳥が歌う声がする。自然の中で摂る食事は、さして手の込んだものではないにもかかわらず、いつもより美味しく感じられた。ほんの少し、いつもの日常から外れた特別感がそうさせているのかもしれなかった。
食事を終えると、セイレムとフウナは立ち上がった。少し高く見える秋空の下から柔らかな昼の陽光が降り注ぎ、小川のせせらぎと木々の葉のそよぐ音の織りなすハーモニーが控えめな子守唄を奏でている。腹がくちくなったシュリは、幸福な眠気が押し寄せてくるのを感じていた。
「お父さんとお母さんは、もう少し奥の方まで行ってくるけれど、シュリはどうする? ここでお昼寝している?」
「うん……」
欠伸を噛み殺しながら、シュリはフウナへと返事をする。がくっ、がくっと不規則に舟を漕いでいる小さい娘に、フウナは自分が羽織っていた朱色と黒のチェック柄のショールを脱いで掛けてやる。
「それじゃあ行ってくるからな」
「お昼寝して、いい子で待っていてね。夕方までには戻ってくるから」
セイレムとフウナはそう言うと踵を返した。両親が落ち葉を踏むざくざくという音が遠ざかっていくのを聞いているうちに、イリスのような柔らかく甘い香りの母のショールの中でシュリの意識は眠りの中に落ちていった。
秋の日の昼はゆっくりと穏やかに過ぎていった。木々の間から覗く空がオレンジ色に色づき始めたころ、シュリはつんざくような甲高い女性の悲鳴が聞こえたような気がして目を覚ました。「お母さん……?」靄がかかったかのようにぼんやりとして、はっきりしない寝起きの頭で、シュリは半ばうわ言のように呟く。
川辺の風に晒され続けた肌はすっかり冷えきっており、彼女の口からくちゅんと小さなくしゃみが飛び出した。あれだけ自然の営みの音で溢れていたはずの森の中はしんと静まり返り、緊張の糸がぴんと張り詰めている。
少しずつ眠気が抜けていくに連れ、思考が段々と戻ってきて、シュリはそろそろ戻ってきているはずの両親の姿がどこにもないということに気付く。そして、先ほど、夢と現実の狭間を彷徨いながら聞いた母のものと思われる悲鳴のことへと思考を巡らせ、両親の身に何かあったのではないかという可能性にシュリは思い至った。
背筋にすっと冷たいものが走る。息が喉に引っかかる。シュリは、フウナのショールをその場に投げ捨てると、数時間前に両親が向かった森の奥へ向かって駆け出した。
嫌な予感に頭の中で警鐘が激しく打ち鳴らされている。痛く苦しいほどに鼓動が胸に打ち付けられる。もう肌寒い季節であるにも関わらず、首筋を冷たい水の珠が滑り落ちていき、薄緑色のエプロンドレスの布地を肌に張り付かせた。
シュリは土で少し薄汚れた服の袖口で、額に浮いた汗を拭いながら走る。時折、木の根に足を取られて倒れそうになりながらも、母の悲鳴が聞こえた方角へと急いだ。
ぜえはあと不規則に呼吸が乱れ、脇腹が疼痛を訴えていた。膨らみ続ける不安がつんと鼻の奥を突く。どうか杞憂であって欲しい――どうしたんだ、と頭を撫でてくれる土と汗の匂いが入り混じった骨ばった大きな父の手が、怖い夢でも見たの、と抱きしめてくれる薬草の匂いが仄かに香る母の優しい腕が恋しくて仕方がなかった。
どれくらい走り続けただろうか、膝ががくがくと震え、足が言うことを聞かなくなったころ、それは彼女の視界よりも先に、聴覚へと飛び込んできた。
ごきっごきっという低く、鈍い、固さのある何かが折れる音。そして、ぐちゃぐちゃくちゃくちゃと何かを咀嚼する音が続く。その異様さに、肌がぞわりと粟立つのをシュリは感じた。何かいてはいけないはずのものがここにいる、そんな気がした。
シュリは意を決して、音のする方へと恐る恐る視線を移した。刹那、視界に飛び込んできた光景に、反射的に飛び出した悲鳴が喉の奥に引っかかって細く掠れ、秋の黄昏時の冷え込み始めた空気を微かに震わせた。
むっと噎せ返るように生臭い暗赤色の液体。引きちぎられ、すうっとした独特の芳香を放っている薬草と赤褐色の双眸にありありと恐怖の色が浮かぶ男の頭部。シュリの目の前に広がる光景は、圧倒的な力による無慈悲な蹂躙が行われたことを意味していた。
(お父さん……お母さんっ……! いやっ……!)
視界に映る大切なものを壊し去った痕跡の数々。あまりのことにシュリは呆然とした。へなへなと身体から力が抜け、シュリは半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んだ。
目の前に突きつけられた現実を受け入れることを拒むかのように、がくがくと全身が震える。がちがち、がちがち、と歯が音を立てる。早く逃げなければ、今度は自分がああなるのだと、本能が警鐘を激しく打ち鳴らしていた。しかし、まるで自分のものではないかのように、冷たい地面へと投げ出されたままのシュリの両足は言うことを聞かなかった。
ふいに、木の根元で四つん這いになっていた人影がこちらを振り返った。冴え冴えと冷たい色をした双眸と目が合う。恐怖でひゅう、と喉が鳴った。
全身を血で汚した、圧倒的な美貌の妙齢の女だった。底冷えするアイスブルーの瞳には、酷薄さと妖美さが共存している。薄闇に浮かび上がる肌は雪のように白く、神々しいまでの美しさを放っていた。
しかし、彼女の姿で何よりも特徴的なのは、口元から覗く鋭い牙と白銀の髪の間から覗く長く尖った耳だった。この特徴を持つ存在に、シュリは心当たりがあった。
(”人喰い”……!)
”人喰い”の女がおもむろに何かに牙を突き立てた。彼女の口元からだらりと垂れ下がる黒い糸状のものの正体に気づいたシュリは戦慄した。
女が食べているのはフウナの頭部の上半分だった。ばきばき、ぐちゃぐちゃ、と頭蓋骨を噛み砕き、咀嚼する音と共に、彼女の口の中にフウナの頭部が消えていく。見ないほうがいい、今すぐにこの場を離れるべきだと、脳内ではひっきりなしに警鐘が激しく打ち鳴らされているにも関わらず、シュリはその光景から目を逸らすことがどうしても出来なかった。
”人喰い”の女は最後に残った毛髪をずるずると啜ると、ごくりと嚥下(えんげ)する。口元に付着した血液をぬらぬらとした舌先で舐め取ると、彼女は獣のように鋭く発達した牙を覗かせながら、嫣然とした狂気的な笑みをシュリへと向けた。
「……ッ!」
圧倒的で倒錯的な艷容さに、幼いながらにシュリはぞくりとしたものを覚えた。目の前の”人喰い”の女には生き物の本能を刺激する艶めかしさがあって、恐ろしいのに目が離せない。
逃げないといけないのに身体が動かない。このままではこうなるのは次は自分だ。
(動け……! 動け動け動け動け……! 逃げないと死んじゃう……! 食べられちゃう……!)
シュリは恐怖で動かない身体を鞭打つように叱咤し、やっとのことで手近な木の幹を掴んで立ち上がると、ゆっくりと後ずさる。そして、身を翻すと、力の入らない足でシュリは走り出した。今のシュリにできるのは、”人喰い”に殺された両親を見捨てて逃げることだけだった。
(お父さんっ……! お母さん……っ!)
両親を喰らったあの人影が後を追いかけてきているかどうか、背後を確認する余裕などなかった。何度も躓き、転びながらも、シュリは森の中を出口へと向かって走り続けた。これがまだ夢の続きであるならばどうか覚めて欲しいと願いながら、シュリは何度も何度も両親を胸中で呼びつづけた。
気がつけば、シュリは森を抜け、ノルスへと繋がる街道へと出ていた。ぜえぜえと息は荒く、膝ががくがくと震えている。恐る恐るシュリは背後を確認したが、あの化け物が自分を追ってきている様子はなかった。
唐突に緊張の糸が切れ、シュリはその場に崩折れた。今しがた見聞きした恐ろしい光景が彼女の脳裏を渦巻いていた。
「うっ……うあっ……」
昼食に食べたサンドウィッチとパイが苦酸っぱい胃液とともに食道を逆流してきた。視界が涙で滲む。シュリはその場で蹲ったまま、胃の中のものを吐いた。
(何で……どうしてっ……)
何で、こんなことになってしまったのだろう。どうして、自分の両親はあんなふうに”人喰い”に食い殺されなければならなかったのだろう。ぐわんぐわんとそんな疑問が頭の中で反響を伴って大きくなっていく。
そんなことを考え続けるうちに、限界を迎えたシュリの意識はぶつりと途絶えた。
夜の藍色に染まり始めた空の下、黒々とした森の影が静かに倒れ伏す少女を見つめていた。
次に目を覚ましたとき、シュリはベッドの上にいた。とても恐ろしい夢を見た気がする、と思いながら目を開ける。
視界に映る天井が自分の家の寝室のものではないことにシュリは気づいた。ここは恐らく、同じ町に住む父方の伯母夫婦の家だ。何となく部屋の風景に見覚えがある。
自分が今何処にいるのかを認識するとともに、シュリはあの恐ろしい出来事は現実だったのだと実感した。あの恐ろしい化け物から逃げるときに負った擦り傷の数々が何よりの証拠だった。
シュリの脳裏に森の中で遭遇したあの”人喰い”の女のことや両親が遂げた最期が脳裏に蘇ってきて、彼女はベッドの上に身を横たえたまま、傷だらけの手のひらで顔を覆った。
あのとき、森の中で目にした惨状が、母の頭部が咀嚼されて消えていく様が、シュリを見て笑ってみせた凶暴性を湛えた凍てつくような双眸が、強烈過ぎるほど強烈に彼女の網膜に焼き付いていた。あの悍ましい光景は、目を閉じれば瞼の裏に鮮明に蘇ってくる。
母の断末魔が、骨が噛み砕かれていく音が聴覚の奥で繰り返し鳴り響いていた。今ここにあの”人喰い”はいないというのに、ベッドの上のシュリの身体は震え、歯ががちがちと音を立てていた。
”人喰い”に出会ったにも関わらず、シュリが大きな怪我もなく生き延びられたのはとても幸運なことだ。それでも、あの”人喰い”に喰われてしまった両親のことを思うと、鼻の奥がつんとした。
眼窩から熱く塩辛い液体が零れ落ち、頬を伝う。喉の奥から嗚咽が漏れ出し、それは細く痛ましい悲鳴じみた泣き声へと変わっていった。
「シュリ? 気が付いたのかい?」
彼女の泣き声を聞きつけたのか、疲れた顔の痩せた小柄な中年の女性が部屋へと入ってきた。伯母のエレヌだった。
エレヌは気遣わしげな面持ちでシュリのベッドに近づいてくると、大変な目に遭ったね、とシュリの細く小さな背を撫でた。両親のものとは違う手に、違う触れ方に、二人はもういないのだと嫌でも実感せざるを得なかった。
「隣のシュトレーの街からうちの自警団に、”人喰い”がエフォロスの森の方へ行ったっていう連絡が来てね。その後、森に出掛けたあんたたち一家が帰ってきていないって騒ぎになって、念のために自警団が探しに行ったんだ。そしたら、自警団の連中が森の入口で怪我をして倒れているあんたを見つけて、うちに運び込んできたんだよ」
シュリは寝間着の袖で涙を拭うと、洟を啜った。そして、そっかとシュリはひどく平板な口調で呟いた。あのね、と抑揚のない調子で彼女は言葉を続けていく。黒い眸は感情を森の中に置き忘れてきたかのように虚ろで、目の前のエレヌを映してはいなかった。
「お父さんとお母さんは……”人喰い”に食べられたの。あいつに身体を引きちぎられて。ばきばきって骨を噛み砕いて。あいつね、あたしのこと見て笑ったんだよ……お母さんの頭、食べながら……」
シュリ、とエレヌは幼い姪の名を呼ぶと首を横に振った。幼い子供が淡々と森で起きた惨劇を語る様が痛ましくて、エレヌは見ていられなかった。このままではシュリは壊れてしまうに違いないと彼女は思った。
エレヌは、自警団員である夫から森の中の惨状を聞かされていた。伝え聞いただけのエレヌですら吐き気を催すほどだったというのに、両親が食い殺される様を目の当たりにしてしまったシュリのショックはどれほどのものだったのだろう。
「全部……忘れなさい。たぶん、そのほうがあんたにとって幸せだから」
シュリは黙って首を横に振る。忘れることなどできないと思った。あの”人喰い”のしたことを許すことも、見なかったふりをすることもできるわけがないと思った。
頑として頷かないシュリに、エレヌは嘆息する。勝手にしな、と言うと、彼女は部屋を出ていった。ぱたん、と扉が閉まる音がした。
「……”人喰い”」
シュリは、そう呟くと、自分の傷ついた両手を見つめる。
殺してやる。両親を喰ったあの”人喰い”をいつか必ず、この手で殺してやる。暗く強い決意の炎が、傷つき、喪失感で満たされていた幼い心に揺れていた。
身寄りを亡くしたシュリは、伯母夫妻の家で暮らすことになった。
弟の娘であるシュリは自分の子供も同然だとエレヌは言った。伯父のイレニオも、ここを自分の家だと思って過ごせばいいと言っていた。
しかし、それが口先だけのものであることにシュリは子供ながらに気づいていた。素性の知れない流れ者の薬師の女と結婚した弟のことをエレヌは快く思っていなかったし、既に子供が三人いるこの家には子供をもう一人余計に養育する経済的余裕などあるはずもなかった。
エフォロスの森に”人喰い”が現れた一件からしばらく立ったころ、ノルスの町に妙な風聞が出回るようになった。
シュリの母親であるフウナは禍いを招く魔女であり、セイレムが死ぬことになったのはフウナのせいである。そして、フウナの血を引くシュリもまた魔女である。そのような内容だった。
町の大人たちには心無い言葉を浴びせられ続けた。三人の従兄妹を始めとする町の子どもたちにも、石を投げられたり、棒で突き回されたり、井戸の中に突き落とされたりと嫌がらせをされ続けた。エレヌもイレニオも見て見ぬふりをするばかりで、シュリを庇おうとはしてくれなかった。
シュリが十一歳になった夏、嘔吐や下痢を主症状とする病がノルスで猛威を振るった。魔女の子が井戸に毒を入れたのではないかと、シュリは当然のように町の人々から疑われた。
この事件を機に、シュリは伯母夫婦の家を出ることにした。もうこれ以上傷ついてまで、無理に町の中で暮らしてはいたくなかった。両親を悪し様に言うような人たちと一緒にいたくはなかった。
エレヌもイレニオも家を出るというシュリのことを一応は引き留めようとしてはくれたものの、明らかにほっとしている様が見て取れた。従兄妹たちに至っては清々したと言わんばかりの態度を隠そうともしなかった。
ノルスを出奔したシュリは、昔、セイレムがエフォロスの森の中に建てた丸太小屋で暮らすことにした。何も持たない子供が一人で生きていくにはそうする以外、方法がなかった。
こうしてシュリは、両親を亡くした森で、彼らの痛々しい死を悼みながら、”人喰い”の女への復讐心を秘めて暮らし始めた。
◆◆◆
(――そうだったのか)
シュリの口から語られた話を聞き、ドゥーエは疑問に思っていたことがようやく腑に落ちた気分だった。
シュリのような年若い少女がこんな森の仲で一人で暮らしているのは妙だと思っていた。死んだという両親の話は多少は耳にした覚えがあったが、シュリが自分のことをあまり積極的に話したがらない以上、ドゥーエもこれまで踏み込まずにいた。しかし、そんなことがあったのであれば無理もないと思った。
(”人喰い”に両親を”喰われた”、か……)
シュリの話から察するに、彼女の両親を”喰った”という”人喰い”は自分ではない。それでも、ドゥーエは罪悪感を禁じえずにいた。
生きるために必要な行為だったとはいえ、自分の同胞が幼い彼女の人生を大きく狂わせてしまったのだという事実がドゥーエの心を刺した。自分たち”人喰い”は、彼女たち人間から大切なものを奪うことでしか生きられない。その業がひどく苦しかった。
(……俺が”人喰い”だと知れてしまうまでは、シュリと一緒にいよう。せめて、少しの間でも、今のシュリを一人にしないために……俺がシュリにしてやれることはそれだけしかない)
既に飢えによる渇きが現れつつあるドゥーエにとって、それは厳しい決断だった。それでも、ドゥーエは自分の知らないところでシュリがこんなふうに泣かないで済むのならそれでいいと思った。
腕の中で小刻みに震えていた少女の身体が、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。ドゥーエは涙の跡が残るシュリの頬に触れ、彼女の顔を覗き込むと、躊躇いがちに問うた。
「……少しは、落ち着いたか?」
「……うん」
シュリは、泣き腫らして真っ赤に充血した目を冷えた手で擦る。彼女はばつが悪そうに俯くと、
「……ごめん。こんな最後の最後に変な話して。明日ここを発つんだったら、ゆっくり寝たかったよね」
「いや、構わない。それに……別に、これが最後じゃない。明日も明後日も、話したいことがあればいくらでも言えばいい。俺が……いつだって、いくらだって聞いてやる」
へ、とシュリは濡れた目を瞬かせた。
「ドゥーエ……それって、どういうこと?」
ドゥーエは照れ隠しのように明後日の方向へと視線を逸らしながら、
「別に、少し気が変わっただけだ。あともう少し……いや、お前が俺を追い出したくなるまではここにいてやる」
「そっか」
ああもう、と居心地悪げにドゥーエは自分の髪を掻き毟る。
「そんなことはいい。落ち着いたのなら、もうさっさと寝ろ」
ドゥーエはベッドの下に手を伸ばすと、床に落ちたシーツを拾い上げ、ベッドの上に広げた。そうだね、とシュリは淡い笑みを浮かべると、シーツの間に冷え切った細い身体を滑り込ませる。シュリはドゥーエのシャツの袖口を引っ張り、
「ほら、ドゥーエも寝よう?」
「あー……俺はお前が寝てから寝る。お前がまた嫌な夢を見たら困るから、寝るまで見張っていてやる」
我ながら意味のわからないことを言っているとドゥーエは思いながら、視線を宙に彷徨わせる。そう、と頷くと、シュリは遠慮がちに冷え切った小さな手をドゥーエの手に這わせた。
ありがと、そうシュリが呟いた微かな声をドゥーエの聴覚が捉えた。ドゥーエは、何となく、重ねられたその手を離したくなくて、大事なものを壊さないように扱うかのように、そっと、握り返した。
翌朝、シュリが目を覚ますと、目の前に彫像のように美しい男の顔があった。繋いで眠ったはずの手はなぜか彼の首に回っており、乱れたネグリジェの裾から覗く素足は彼の足に絡みついている。ほんのりと筋肉のついた筋ばった彼の右腕は、シュリの体を抱き寄せるように腰に回され、左腕は背に添えられている。
(な、何でこんな……!)
自分の状態を認識したシュリは身体をドゥーエに密着させたまま顔を赤らめた。部屋の中はこんなにも冷え切っているにもかかわらず、なぜだか耳まで熱い。
これではまるで、情熱的に互いを求め合う恋人同士のようだ。互いの寝巻き越しにしか、肌の感触や温もりを感じられないことがもどかしいなどということが思考の隅を掠め、直後、シュリは慌ててその感情を打ち消した。今、自分は何かすごくはしたないことを考えかけなかっただろうか。
(そもそも、あたしとドゥーエはただの同居人みたいなもので、別にそういう関係じゃないし! だけど……)
それでもシュリは、今、ドゥーエとこうした状態になっているのが嫌ではなかった。彼の首に巻きつけた己の両腕を解く気にも、自分の身体を抱く彼の両腕を振り払う気にもなれなかった。今はまだ彼の存在をこうして限りなく近くで感じていたかった。
あと何度、彼とこうして朝を迎えることができるのだろう。あとどれだけ、彼とこんなふうに過ごしていられるのだろう。
(あたしにとって、ドゥーエってなんなんだろう……?)
そんな疑問が頭を擡げる。ドゥーエのことは嫌いではない。自分を疎んじてくるノルスの人々のことを思えば、不器用な彼のことはどちらかといえば好きといってもいいかもしれない。
シュリにとってドゥーエの傍は不思議と居心地がいい。彼は人間にとって脅威といっていい存在のはずなのに、何故か一緒にいると安心できた。
自分たちは家族でもなければ、友達というのとも少し違う。人間と”人喰い”という本来ならば相容れないはずの自分たちの間に築かれつつあるこの関係性は一体何なのだろう。
しかし、その答えを求めて己の胸の裡を深掘りするのは躊躇われた。自分の中で存在を強めつつあるこの感情の名前を知ってしまえば、もう後戻りできなくなる、そんな気がしていた。
(……これ以上踏み込めば、絶対に後悔する。だって、あたしとドゥーエは絶対に相容れない存在だから。ドゥーエは……“人喰い”だから)
ドゥーエが”人喰い”である以上、こうして一緒にいられるのにもタイムリミットがある。”人喰い”であるドゥーエは、”食事”をしないことには生きていけないし、このままでは傷も癒えきらない。ドゥーエはシュリと共に形ばかりは同じものを毎食摂っているが、本来の意味での”食事”をしないことには、身体を苛まれ、いずれは衰弱して死に至る。
ドゥーエがシュリが傷ついたり苦しむのを望まないように、シュリも彼が苦しみ、死ぬようなことは望まない。彼が両親の仇である”人喰い”張本人であることを理解していても、それは変わらなかった。彼と一緒に過ごしてきた何にも変え難い大切な時間が、シュリをそうさせていた。
(それでも、まだあと少しだけ……)
もう少しだけドゥーエと過ごすこんな日々を続けていたいとシュリは願いながら、すぐそばで眠る白い横顔に唇をつける。そんなシュリの行為にも気づくことなく、彼はわずかに開いた鋭い牙が覗く口元からすうすうと心地よさげな寝息を漏らしていた。
シュリはドゥーエの顔から唇を離すと、彼を起こさないようにベッドを抜け出した。ベッドの下の籠から、ウエストに茶色の刺繍が施されたベージュのワンピースを取り出すと、シュリはネグリジェを脱いで着替えていく。
シュリは壁に吊るしたココアブラウンのケープに目をやる。先日、ノルスに赴いた際に汚れ、ぼろぼろになってしまったこれをシュリは洗濯こそしたものの、繕う時間が取れないままになっていた。ドゥーエが眠っている今のうちにやってしまおうとシュリはケープを手に取ると、部屋の奥のスギの戸棚から裁縫道具を出してくる。シュリはオーク材のダイニングチェアに腰を下ろすと、針の穴に茶色い縫い糸を通した。彼女は針を手に、ケープの破れた箇所を繕い始めた。
ズ、という分厚い生地を糸が抜ける小気味よい音。すう、すうと聞こえてくるドゥーエの穏やかな寝息。目覚めたばかりの鳥たちが少し眠たげに囀る声。色づいた木立の中を走り抜けていく鳩吹く風。一日が始まる直前の穏やかで心地よい音を耳朶(じだ)に捉えながら、シュリは手を動かし続ける。
(そういえば……今日、お父さんとお母さんの命日だ)
だからあんな夢を見たのか、とシュリは何かが腑に落ちた気分になった。しかし、昨夜、自分がドゥーエに対して晒してしまった醜態を思い返すと頭を抱えたくなる。
(あんなふうにドゥーエに抱きついて子供みたいに泣いて……しかも、よりにもよってドゥーエに対してあんな話を……)
ドゥーエは”人喰い”だ。あのように自分の同胞がしたことをつきつけられて、彼は何を思っただろう。
あの日、自分からすべてを奪った”人喰い”の女のことは、今でも殺してやりたいくらい憎い。しかし、ドゥーエに対しては、彼女に向けるのと同じだけの感情を向けられそうになかった。
ドゥーエと日々を過ごす中で、シュリは”人喰い”は恐ろしいだけの化け物ではないと知ってしまっていた。人間の血肉を喰らいこそすれ、彼らもまた、シュリと同じように感情を持つ存在なのだと知ってしまった。言葉を交わし合い、笑い会える存在なのだと知ってしまった。
ドゥーエはシュリのことを案じ、寄り添おうとしてくれる。理解を示そうとしてくれる。昨夜だって、聞いていて気分がいい話ではないはずなのに、最後まできちんと自分の話を聞いてくれた。泣くな、とシュリのことを抱きしめてくれた。
シュリを孤独にしたのは”人喰い”だが、孤独からこうして救ってくれたのもあの女と同じ”人喰い”であるドゥーエだった。いつの間にかシュリは、こうして彼に心を許し、彼のそばで過ごすことを望むようになってしまった。”人喰い”に絆されてしまった娘を両親はどう思うのだろう。罪悪感で胸がちくりと痛んだ。
(ごめん、お父さん、お母さん……あたし……)
そんなことを考えながら、シュリは針に糸をぐるぐると巻いていく。シュリが糸の間から針を引き抜いたとき、「ん……」ドゥーエがむくりとベッドの上で上体を起こした。
「あれ、シュリ……? もう朝か。すまない、少し寝過ごしてしまったみたいだな」
「ううん、あたしがちょっと早く起きちゃっただけだから。その……おはよう、ドゥーエ」
「ああ、おはよう。シュリ、もう水汲みは行ったのか?」
まだこれから、とシュリは首を横に振る。
「なら、一緒に行くか?」
「あの、今日は……」
「すぐ着替えるから、少し待っていろ」
ドゥーエに遮られ、行きたいところがあるから家にいて、というシュリの言葉は口の中で発されるタイミングを失った。
(今日は連れていきたくなかったんだけどな……今日はお父さんとお母さんのお墓参りに行きたかったから)
ベッドを出て着替え始めたドゥーエを見ないようにしながら、シュリは手元の余った糸を歯で切った。
シュリは椅子から立ち上がると、出かけるために繕ったばかりのケープを身に纏った。
ドゥーエの支度が整うと、二人は家を出た。
朝の澄んだ空気の中にはまだ少し雨の匂いが残っていたが、木の間から見える空の様子から、今日はもう雨は降らないであろうことが推して知れた。
昨夜の雨でぬかるんだいつもの道を歩きながら、シュリが時折何かを探しているのを見、ドゥーエは怪訝そうな顔をして、
「どうした、シュリ。今日は足元が滑るから、気をつけて歩かないと怪我をするぞ」
「ああ、うん。あ……あった、ちょっと待ってて」
シュリは少し道を外れたところに白い花が群生しているのを見つけると、木立の向こうへと足を踏み入れる。お待たせ、と何本か花を摘んでシュリが戻ってくると、
「花……?」
「うん。お父さんとお母さんが好きだった花。お父さん、お母さんに結婚を申し込んだとき、このアスターの花をお母さんに渡したんだって。その……今日、お父さんとお母さんの命日だから、この花をお供えしようと思って」
そうか、とドゥーエは思わしげに暗赤色の双眸を伏せる。それじゃあ行こっか、とシュリは素焼きの甕を抱くドゥーエの腕を掴み、歩き出した。
いつも水を汲んでいる川がせせらぎの音とともに近づいてくる。森と川を隔てるニシキギの茂みの前まで来ると、ドゥーエと別行動を取るべくシュリはさり気なさを装って話を切り出した。
「ドゥーエ。あたしはこの先に用事があるから、ドゥーエは水を汲んできてくれる?」
「あっちの方はオオカミの縄張りがあるだろう? 危ないから俺も行く」
「でも……」
シュリはどう断るべきかと言葉を探して逡巡する。ドゥーエではないとはいえ、あの”人喰い”の女が八年前に両親を”喰った”場所に、彼を連れて行くのは昨夜のこともあって気が引けた。しかし、シュリがドゥーエの正体を知っているということをドゥーエ自身が知らない以上、うまい言葉が見つからない。
「先日、危ない目にあったばかりだろう? 一人では行かせないからな」
ドゥーエの赤い目がシュリを見据える。その目からはシュリのことを真摯に案じていることが窺えて、彼女は渋々ながらも首を縦に振った。
「……わかった」
シュリと川の水音を背に、ドゥーエを伴って森の奥へと向かって進み始める。これより先はシュリもあまり足を踏み入れない獣たちの領域であることもあり、細く続いていた道が次第に薄くなっていく。
葉々が真っ赤に染まった大きなハゼノキの前まで来ると、シュリは足を止めた。森のさざめきが遠く、そこだけがひどく静かだった。
「……ここがお前の両親が亡くなった場所か」
うん、と頷くと、シュリはハゼノキの根本で膝を折ってしゃがみ込む。白いアスターの花束をその場に置くと、シュリは目を閉じ、両手を合わせた。
「あのね、ドゥーエ。あたしは八年前のあの日のことを忘れられないし、あの”人喰い”のことを許せるわけじゃない。だけど、あたしはそれでも生きないといけない。今日を、明日を、自分の足で立って、強くあたしは生きていかなきゃいけない。お父さんとお母さんと違って、あたしはまだここでこうやって生きているから。
今のあたしを見て、お父さんとお母さんがどう思うかはわからない。それでもあたしは、あたしの選んだ道をしゃんと胸を張って歩いて行く。
そのことを自分に言い聞かせるためにも、あたしは毎年ここに来るんだ」
強くならざるを得なかった彼女のことを思うと、後悔と罪悪感で胸が苦しかった。自分のせいではないにもかかわらず、”人喰い”という種の業がシュリをこうしてしまったのだ、という事実と唇をドゥーエは噛み締める。
シュリの唇が祈りの言葉を紡ぎ始める。少女の華奢な背中を見つめながら、ドゥーエはせめて彼女の今後の人生が穏やかであるように願った。
背中に暖かなぬくもりと命の拍動を感じながら、ドゥーエはため息をついた。暖炉の火が消えた寒い室内に、彼の呼気がふわりと白く広がる。
自分の息が闇の中に消えていくのを見届けると、ドゥーエは何度目になるかわからない寝返りを打った。手足を折り、小さく丸まるようにして眠る華奢な背中が目に入る。
ドゥーエは明日、この家を出て行くことをシュリへ告げた。彼女は少し寂しそうな表情を覗かせはしたものの、拍子抜けするほどにあっさりとそのことを受け容れ、了承の意を示した。
傷が癒えきったわけではない。今もノルスの自警団につけられた傷は治りきらないまま、ドゥーエの身体に残り続けている。
(これ以上、シュリと一緒にい続けるのはよくない……俺にとっても、シュリにとっても)
空腹による渇きが、時折顔を覗かせるようになっていた。ちりちりと体内を灼くような痛みと”喰いたい”という本能を理性でねじ伏せてやり過ごしていたが、それだっていつまで保つかわかったものではない。
情が移りすぎた、とドゥーエは思う。遠からず、”人喰い”としての衝動を抑えきれなくなるときが来る。そうなったときにシュリを捕食対象として割り切るには、ドゥーエは彼女のことを知りすぎていた。自分がいつか彼女を喰ってしまうようなことになるのは嫌だと、”人喰い”の本能と相反する感情をいつの間にか抱くようにすらなってしまっていた。
(……潮時だろう。俺のような化け物には過ぎた夢を見ていたんだ)
思えば、シュリと出会ってから今までが異常だったのだ。”人喰い”は決して人間とは相容れることはできず、共存など出来はしない。それはドゥーエが今まで、何度も何度も自分自身に言い聞かせてきたことだった。
それなのに、シュリの様々な表情を知るほどに、何でもない他愛のない会話を交わし合う度に、彼女のそばから離れがたくなっていった。それほどにシュリのそばはドゥーエにとって居心地が良く、追い出されないのをいいことに長々と居座り続けてしまった。
緩やかに、穏やかに過ぎていく束の間の日常は、いつの間にかドゥーエの中で大きなものとなってしまっていた。
(俺はシュリを傷つけたくない。せめて、シュリにだけは化け物である俺の姿を知られないままでいたい)
二人で過ごしたこの日々を綺麗な思い出のままにしておきたかった。そのために、後ろ髪を引かれながらも、ドゥーエはこの家を離れることを決めた。短い間だったといえ、世話になり、共に過ごした彼女のためにドゥーエができるのはそれしかない。傷が浅くて済むうちに離れてしまうのがお互いのためだった。
この夜が明けて日が昇れば、行く当てもなく、いつまで続くとも知れない一人きりの旅暮らしに戻ることになる。自分にとっての当たり前が戻ってくるだけのことだとは思うのに、寂しいという感情が顔を出してはドゥーエの決意を阻もうとする。
くだらない感傷だとは思う。きっと、時が経てば、人間よりも遥かに長い時を生きていく自分にとっては記憶にも残らぬほどに些細な出来事でしかなくなり、彼女にとっても、繰り返される日常に埋もれて色褪せていく程度のことに過ぎない。そう思うことで、彼はどうにか自分を納得させようとしたものの、本当にそうなのだろうかという疑問を拭いきれないままでいた。
もう一緒に過ごすのも最後なのだと思うと、こちらに背を向けて眠っている彼女の温もりに無性に触れたいという衝動がこみ上げてきた。しかし、彼女に対しては最後まで誠実な紳士でありたいような気がして、シーツに包まれたその存在の輪郭を記憶に焼き付けるかのように視線でなぞるだけに留めておく。
(何をやっているんだろうな……)
自嘲めいた笑みを浮かべると、ドゥーエはシュリへと背を向け、目を閉じる。遠くにいる眠気の気配を手繰り寄せようとしながら、閉じた世界に身を委ねていると、ひくっ、と小さくしゃくり上げるような声を彼の聴覚が捕らえた。はっとしてドゥーエは己の内に向いていた意識を現実に引き戻すと、暗赤色の目を開く。
がばっと身を起こし、隣を見ると、シュリの華奢な細い身体が小刻みに震えていた。ドゥーエは訝しげに彼女の名を呼ぶ。
「シュリ……?」
シーツに包まったまま、啜り泣くばかりで反応らしい反応はない。ドゥーエはためらいがちにシュリへと手を伸ばすと、そっと彼女の短い黒髪に触れる。
「シュリ。どうした?」
寝乱れた髪を優しく撫でてやりながら、ドゥーエは低く落ち着いた声音で彼女へと問うた。何でもない、とシュリが身震いすると、ばさりとシーツが音を立ててベッドから床へと滑り落ちた。遠くで雷鳴が低く轟き、窓から入り込んできた稲光で涙に濡れたシュリの顔が凍えるような闇の中に一瞬浮かび上がる。
「ドゥー……エ……?」
シュリは涙で湿った声でそう呟くと、ドゥーエの首に両腕を回してしがみついてきた。彼女はドゥーエの胸に顔を埋めると、声を上げて泣きじゃくり始めた。いつの間にか強くなった雨音の中を細く甲高い、哀切に満ちた苦しげな悲鳴が貫く。
「おい、シュリ……?」
ドゥーエは戸惑いながら、シュリの華奢な背をそっと抱きしめてやる。腕の中の少女の身体は細く頼りないのに、その温かさと鼓動が彼女が今ここに存在していることをドゥーエへ確かに伝えていた。なぜか胸がひどく苦しくなって、ドゥーエはシュリの髪へと顔を埋める。
「シュリ……泣くな。俺がここにいる。俺がお前のそばにいるから……だから、少し落ち着け」
ドゥーエの言葉に反応するように、腕の中の少女の身体が小さく動く。それを見ながら、ドゥーエは参ったな、と思う。
(ああ、駄目だ……俺は、こんなふうに泣くシュリを置いて、どこかに行くことなんてできない……)
彼女をこの状態のまま放ってはおいてはいけないとドゥーエは強く感じた。こんな状態の彼女を一人にしたら壊れてしまうのではないかと怖かった。
「……夢を……見た、の……」
シュリはドゥーエの胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で呟いた。少しずつ様子は落ち着きつつあったが、声にはまだ嗚咽が混ざっている。
「夢?」
ドゥーエは聞き返すと、続きを促した。シュリはこくりと頷くと、ドゥーエの背に爪を突き立ててきた。さほど痛くはなかったが、シュリの指先が触れた場所から、彼女の恐怖や哀しみ、怒りや憎悪が複雑に混ざり合ったものが伝わってきて切なかった。再び溢れだした彼女の感情が、ドゥーエが寝巻き代わりにしているオールドブルーのシャツの胸元をじっとりと湿らせ、その痕跡を刻んでいく。
「あの、ね……お父さんと、お母さんが……死んだ、ときの……夢を見たんだ」
そうか、とドゥーエは目を伏せる。シュリの乾いた唇がぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。淡々とした彼女の声音がドゥーエの耳朶(じだ)に痛みを伴って響いた。
雨の音に混ざるようにして、季節外れの遠雷が聞こえ続けていた。
◆◆◆
シュリは八歳まではエフォロスの森の南にあるノルスで、薬師である両親とともに暮らしていた。母親のフウナが元々は素性の知れない流れ者であったことから、同じ町で暮らす父親のセイレムの姉一家からは疎んじられてはいたものの、八年前のその日が訪れるまで、シュリは普通の子供として幸せに過ごしていた。
森の木々が赤や黄色に色づき始め、金木犀が香り始めたころのことだった。シュリの一家はノルスで営んでいる薬の店を休み、エフォロスの森を訪れた。店で商う薬の材料の採集と幼いシュリのためのピクニックが目的だった。
仕事の延長とはいえ、両親と出かけられることを喜んだ幼いシュリは、森に自生する薬草を集める両親の後ろをついて歩きながら、木の実や美しい鳥の羽を拾い集めて遊んでいた。セイレムとフウナは時折手を止めては、無邪気に遊ぶ愛娘を優しい目で見守っていた。
優しい金色の木漏れ日が降り注ぐ森の中をしばらく進んでいくと、小さな丸太小屋があった。普段は薬草の乾燥や、材料を管理する倉庫代わりに使用している場所であり、フウナと結婚してからセイレムが手ずから建てたものであった。
セイレムがズボンのポケットから出した真鍮の鍵を鍵穴へと差し込む。かちり、という小さな音とともに鍵が開いた。セイレムがチーク材の重い扉を開けると、待ちきれなかったかのように小さなシュリは扉の隙間から小屋の中へとするりと体を滑り込ませた。
くすくすと笑いながらフウナは娘より一歩遅れて小屋の中へ入ってくると、換気のために窓を開けていく。窓から入り込んできたからりと冷たい風に幼い娘と同じ色の彼女の長い髪がふわりと揺れた。
その間にセイレムは道中で集めてきた薬草を種類ごとに分けて紐で束ねていく。その様子をシュリは床にしゃがみこんで興味津々で覗き込んでいた。
天井の木目に沿って渡したロープへとフウナはセイレムが束ねた薬草を手際よく吊るしていく。道中で集めてきた薬草の処理が終わるころには、東南の空にあったはずの太陽は南の高い場所へと位置を変えていた。
昼食の入ったバスケットを持って家の外へ出ると、澄んだ青い空の下、三人は木立の続く細い道を森の奥へと向かって進んでいく。輪唱を繰り返す鳥たちの声に寄り添うように、爽籟の伴奏が響いている。
冬を越すための家をせっせと築いている虫の幼体。雪の季節に備えて粧いを変えるウサギやモモンガといった小動物たち。南へ向かう途中、木の上でひとときの休息を取っている普段見かけない色の鳥たち。少しずつ次の季節を迎える準備を進めている生き物たちの営みに、シュリは丸く大きな黒瞳を輝かせる。
頬袋いっぱいにどんぐりを詰め込んだリスの愛らしさに目を奪われていたシュリは、「あっ」木の葉の下にあったイタチの巣穴に足を取られて躓いた。横を歩いていたセイレムはとっさに腕を伸ばして、ひっくり返りかけた娘の体を支える。もう、とフウナは呆れたようにシュリを見やると、
「シュリ、浮かれすぎよ。あんまり浮かれていると危ないわ。きちんと前を向いて歩きなさい」
母親に釘を差され、シュリははあい、と頬を膨らませた。限界を超えた量のどんぐりを口に押し込もうと奮闘しているリスから視線を外し、顔を上げるとシュリは再び歩き始めた。
森の道をしばらく進み、茂みを抜けると川縁へと出た。細かな砂利の多い地面に大判の織物を敷くと、シュリたちはその上に腰を下ろし、バスケットの中の昼食を広げ始めた。
塩漬け肉とゆで卵のサンドウィッチ。黄金色の芋のペーストが乗った、バターの香りが芳醇なパイ。山羊革の水筒に入れられた、すっきりとした喉越しの冷たいりんごの絞り汁。
「いただきます!」
シュリは目を輝かせると、スイートポテトのパイへと手を伸ばした。サクッという音を立ててパイを頬張ると、口の中にねっとりとした自然な甘さが広がった。
白日の光を受けて、波紋を刻む川面がきらきらと光る。さわさわと冷たさを孕んだ風が森の木々を揺らしていく。頭上の枝からはらりと落ちてきた紅色の葉が小舟のように川を流れていく。律(りち)の調べに乗ってチィチィとどこかで鳥が歌う声がする。自然の中で摂る食事は、さして手の込んだものではないにもかかわらず、いつもより美味しく感じられた。ほんの少し、いつもの日常から外れた特別感がそうさせているのかもしれなかった。
食事を終えると、セイレムとフウナは立ち上がった。少し高く見える秋空の下から柔らかな昼の陽光が降り注ぎ、小川のせせらぎと木々の葉のそよぐ音の織りなすハーモニーが控えめな子守唄を奏でている。腹がくちくなったシュリは、幸福な眠気が押し寄せてくるのを感じていた。
「お父さんとお母さんは、もう少し奥の方まで行ってくるけれど、シュリはどうする? ここでお昼寝している?」
「うん……」
欠伸を噛み殺しながら、シュリはフウナへと返事をする。がくっ、がくっと不規則に舟を漕いでいる小さい娘に、フウナは自分が羽織っていた朱色と黒のチェック柄のショールを脱いで掛けてやる。
「それじゃあ行ってくるからな」
「お昼寝して、いい子で待っていてね。夕方までには戻ってくるから」
セイレムとフウナはそう言うと踵を返した。両親が落ち葉を踏むざくざくという音が遠ざかっていくのを聞いているうちに、イリスのような柔らかく甘い香りの母のショールの中でシュリの意識は眠りの中に落ちていった。
秋の日の昼はゆっくりと穏やかに過ぎていった。木々の間から覗く空がオレンジ色に色づき始めたころ、シュリはつんざくような甲高い女性の悲鳴が聞こえたような気がして目を覚ました。「お母さん……?」靄がかかったかのようにぼんやりとして、はっきりしない寝起きの頭で、シュリは半ばうわ言のように呟く。
川辺の風に晒され続けた肌はすっかり冷えきっており、彼女の口からくちゅんと小さなくしゃみが飛び出した。あれだけ自然の営みの音で溢れていたはずの森の中はしんと静まり返り、緊張の糸がぴんと張り詰めている。
少しずつ眠気が抜けていくに連れ、思考が段々と戻ってきて、シュリはそろそろ戻ってきているはずの両親の姿がどこにもないということに気付く。そして、先ほど、夢と現実の狭間を彷徨いながら聞いた母のものと思われる悲鳴のことへと思考を巡らせ、両親の身に何かあったのではないかという可能性にシュリは思い至った。
背筋にすっと冷たいものが走る。息が喉に引っかかる。シュリは、フウナのショールをその場に投げ捨てると、数時間前に両親が向かった森の奥へ向かって駆け出した。
嫌な予感に頭の中で警鐘が激しく打ち鳴らされている。痛く苦しいほどに鼓動が胸に打ち付けられる。もう肌寒い季節であるにも関わらず、首筋を冷たい水の珠が滑り落ちていき、薄緑色のエプロンドレスの布地を肌に張り付かせた。
シュリは土で少し薄汚れた服の袖口で、額に浮いた汗を拭いながら走る。時折、木の根に足を取られて倒れそうになりながらも、母の悲鳴が聞こえた方角へと急いだ。
ぜえはあと不規則に呼吸が乱れ、脇腹が疼痛を訴えていた。膨らみ続ける不安がつんと鼻の奥を突く。どうか杞憂であって欲しい――どうしたんだ、と頭を撫でてくれる土と汗の匂いが入り混じった骨ばった大きな父の手が、怖い夢でも見たの、と抱きしめてくれる薬草の匂いが仄かに香る母の優しい腕が恋しくて仕方がなかった。
どれくらい走り続けただろうか、膝ががくがくと震え、足が言うことを聞かなくなったころ、それは彼女の視界よりも先に、聴覚へと飛び込んできた。
ごきっごきっという低く、鈍い、固さのある何かが折れる音。そして、ぐちゃぐちゃくちゃくちゃと何かを咀嚼する音が続く。その異様さに、肌がぞわりと粟立つのをシュリは感じた。何かいてはいけないはずのものがここにいる、そんな気がした。
シュリは意を決して、音のする方へと恐る恐る視線を移した。刹那、視界に飛び込んできた光景に、反射的に飛び出した悲鳴が喉の奥に引っかかって細く掠れ、秋の黄昏時の冷え込み始めた空気を微かに震わせた。
むっと噎せ返るように生臭い暗赤色の液体。引きちぎられ、すうっとした独特の芳香を放っている薬草と赤褐色の双眸にありありと恐怖の色が浮かぶ男の頭部。シュリの目の前に広がる光景は、圧倒的な力による無慈悲な蹂躙が行われたことを意味していた。
(お父さん……お母さんっ……! いやっ……!)
視界に映る大切なものを壊し去った痕跡の数々。あまりのことにシュリは呆然とした。へなへなと身体から力が抜け、シュリは半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んだ。
目の前に突きつけられた現実を受け入れることを拒むかのように、がくがくと全身が震える。がちがち、がちがち、と歯が音を立てる。早く逃げなければ、今度は自分がああなるのだと、本能が警鐘を激しく打ち鳴らしていた。しかし、まるで自分のものではないかのように、冷たい地面へと投げ出されたままのシュリの両足は言うことを聞かなかった。
ふいに、木の根元で四つん這いになっていた人影がこちらを振り返った。冴え冴えと冷たい色をした双眸と目が合う。恐怖でひゅう、と喉が鳴った。
全身を血で汚した、圧倒的な美貌の妙齢の女だった。底冷えするアイスブルーの瞳には、酷薄さと妖美さが共存している。薄闇に浮かび上がる肌は雪のように白く、神々しいまでの美しさを放っていた。
しかし、彼女の姿で何よりも特徴的なのは、口元から覗く鋭い牙と白銀の髪の間から覗く長く尖った耳だった。この特徴を持つ存在に、シュリは心当たりがあった。
(”人喰い”……!)
”人喰い”の女がおもむろに何かに牙を突き立てた。彼女の口元からだらりと垂れ下がる黒い糸状のものの正体に気づいたシュリは戦慄した。
女が食べているのはフウナの頭部の上半分だった。ばきばき、ぐちゃぐちゃ、と頭蓋骨を噛み砕き、咀嚼する音と共に、彼女の口の中にフウナの頭部が消えていく。見ないほうがいい、今すぐにこの場を離れるべきだと、脳内ではひっきりなしに警鐘が激しく打ち鳴らされているにも関わらず、シュリはその光景から目を逸らすことがどうしても出来なかった。
”人喰い”の女は最後に残った毛髪をずるずると啜ると、ごくりと嚥下(えんげ)する。口元に付着した血液をぬらぬらとした舌先で舐め取ると、彼女は獣のように鋭く発達した牙を覗かせながら、嫣然とした狂気的な笑みをシュリへと向けた。
「……ッ!」
圧倒的で倒錯的な艷容さに、幼いながらにシュリはぞくりとしたものを覚えた。目の前の”人喰い”の女には生き物の本能を刺激する艶めかしさがあって、恐ろしいのに目が離せない。
逃げないといけないのに身体が動かない。このままではこうなるのは次は自分だ。
(動け……! 動け動け動け動け……! 逃げないと死んじゃう……! 食べられちゃう……!)
シュリは恐怖で動かない身体を鞭打つように叱咤し、やっとのことで手近な木の幹を掴んで立ち上がると、ゆっくりと後ずさる。そして、身を翻すと、力の入らない足でシュリは走り出した。今のシュリにできるのは、”人喰い”に殺された両親を見捨てて逃げることだけだった。
(お父さんっ……! お母さん……っ!)
両親を喰らったあの人影が後を追いかけてきているかどうか、背後を確認する余裕などなかった。何度も躓き、転びながらも、シュリは森の中を出口へと向かって走り続けた。これがまだ夢の続きであるならばどうか覚めて欲しいと願いながら、シュリは何度も何度も両親を胸中で呼びつづけた。
気がつけば、シュリは森を抜け、ノルスへと繋がる街道へと出ていた。ぜえぜえと息は荒く、膝ががくがくと震えている。恐る恐るシュリは背後を確認したが、あの化け物が自分を追ってきている様子はなかった。
唐突に緊張の糸が切れ、シュリはその場に崩折れた。今しがた見聞きした恐ろしい光景が彼女の脳裏を渦巻いていた。
「うっ……うあっ……」
昼食に食べたサンドウィッチとパイが苦酸っぱい胃液とともに食道を逆流してきた。視界が涙で滲む。シュリはその場で蹲ったまま、胃の中のものを吐いた。
(何で……どうしてっ……)
何で、こんなことになってしまったのだろう。どうして、自分の両親はあんなふうに”人喰い”に食い殺されなければならなかったのだろう。ぐわんぐわんとそんな疑問が頭の中で反響を伴って大きくなっていく。
そんなことを考え続けるうちに、限界を迎えたシュリの意識はぶつりと途絶えた。
夜の藍色に染まり始めた空の下、黒々とした森の影が静かに倒れ伏す少女を見つめていた。
次に目を覚ましたとき、シュリはベッドの上にいた。とても恐ろしい夢を見た気がする、と思いながら目を開ける。
視界に映る天井が自分の家の寝室のものではないことにシュリは気づいた。ここは恐らく、同じ町に住む父方の伯母夫婦の家だ。何となく部屋の風景に見覚えがある。
自分が今何処にいるのかを認識するとともに、シュリはあの恐ろしい出来事は現実だったのだと実感した。あの恐ろしい化け物から逃げるときに負った擦り傷の数々が何よりの証拠だった。
シュリの脳裏に森の中で遭遇したあの”人喰い”の女のことや両親が遂げた最期が脳裏に蘇ってきて、彼女はベッドの上に身を横たえたまま、傷だらけの手のひらで顔を覆った。
あのとき、森の中で目にした惨状が、母の頭部が咀嚼されて消えていく様が、シュリを見て笑ってみせた凶暴性を湛えた凍てつくような双眸が、強烈過ぎるほど強烈に彼女の網膜に焼き付いていた。あの悍ましい光景は、目を閉じれば瞼の裏に鮮明に蘇ってくる。
母の断末魔が、骨が噛み砕かれていく音が聴覚の奥で繰り返し鳴り響いていた。今ここにあの”人喰い”はいないというのに、ベッドの上のシュリの身体は震え、歯ががちがちと音を立てていた。
”人喰い”に出会ったにも関わらず、シュリが大きな怪我もなく生き延びられたのはとても幸運なことだ。それでも、あの”人喰い”に喰われてしまった両親のことを思うと、鼻の奥がつんとした。
眼窩から熱く塩辛い液体が零れ落ち、頬を伝う。喉の奥から嗚咽が漏れ出し、それは細く痛ましい悲鳴じみた泣き声へと変わっていった。
「シュリ? 気が付いたのかい?」
彼女の泣き声を聞きつけたのか、疲れた顔の痩せた小柄な中年の女性が部屋へと入ってきた。伯母のエレヌだった。
エレヌは気遣わしげな面持ちでシュリのベッドに近づいてくると、大変な目に遭ったね、とシュリの細く小さな背を撫でた。両親のものとは違う手に、違う触れ方に、二人はもういないのだと嫌でも実感せざるを得なかった。
「隣のシュトレーの街からうちの自警団に、”人喰い”がエフォロスの森の方へ行ったっていう連絡が来てね。その後、森に出掛けたあんたたち一家が帰ってきていないって騒ぎになって、念のために自警団が探しに行ったんだ。そしたら、自警団の連中が森の入口で怪我をして倒れているあんたを見つけて、うちに運び込んできたんだよ」
シュリは寝間着の袖で涙を拭うと、洟を啜った。そして、そっかとシュリはひどく平板な口調で呟いた。あのね、と抑揚のない調子で彼女は言葉を続けていく。黒い眸は感情を森の中に置き忘れてきたかのように虚ろで、目の前のエレヌを映してはいなかった。
「お父さんとお母さんは……”人喰い”に食べられたの。あいつに身体を引きちぎられて。ばきばきって骨を噛み砕いて。あいつね、あたしのこと見て笑ったんだよ……お母さんの頭、食べながら……」
シュリ、とエレヌは幼い姪の名を呼ぶと首を横に振った。幼い子供が淡々と森で起きた惨劇を語る様が痛ましくて、エレヌは見ていられなかった。このままではシュリは壊れてしまうに違いないと彼女は思った。
エレヌは、自警団員である夫から森の中の惨状を聞かされていた。伝え聞いただけのエレヌですら吐き気を催すほどだったというのに、両親が食い殺される様を目の当たりにしてしまったシュリのショックはどれほどのものだったのだろう。
「全部……忘れなさい。たぶん、そのほうがあんたにとって幸せだから」
シュリは黙って首を横に振る。忘れることなどできないと思った。あの”人喰い”のしたことを許すことも、見なかったふりをすることもできるわけがないと思った。
頑として頷かないシュリに、エレヌは嘆息する。勝手にしな、と言うと、彼女は部屋を出ていった。ぱたん、と扉が閉まる音がした。
「……”人喰い”」
シュリは、そう呟くと、自分の傷ついた両手を見つめる。
殺してやる。両親を喰ったあの”人喰い”をいつか必ず、この手で殺してやる。暗く強い決意の炎が、傷つき、喪失感で満たされていた幼い心に揺れていた。
身寄りを亡くしたシュリは、伯母夫妻の家で暮らすことになった。
弟の娘であるシュリは自分の子供も同然だとエレヌは言った。伯父のイレニオも、ここを自分の家だと思って過ごせばいいと言っていた。
しかし、それが口先だけのものであることにシュリは子供ながらに気づいていた。素性の知れない流れ者の薬師の女と結婚した弟のことをエレヌは快く思っていなかったし、既に子供が三人いるこの家には子供をもう一人余計に養育する経済的余裕などあるはずもなかった。
エフォロスの森に”人喰い”が現れた一件からしばらく立ったころ、ノルスの町に妙な風聞が出回るようになった。
シュリの母親であるフウナは禍いを招く魔女であり、セイレムが死ぬことになったのはフウナのせいである。そして、フウナの血を引くシュリもまた魔女である。そのような内容だった。
町の大人たちには心無い言葉を浴びせられ続けた。三人の従兄妹を始めとする町の子どもたちにも、石を投げられたり、棒で突き回されたり、井戸の中に突き落とされたりと嫌がらせをされ続けた。エレヌもイレニオも見て見ぬふりをするばかりで、シュリを庇おうとはしてくれなかった。
シュリが十一歳になった夏、嘔吐や下痢を主症状とする病がノルスで猛威を振るった。魔女の子が井戸に毒を入れたのではないかと、シュリは当然のように町の人々から疑われた。
この事件を機に、シュリは伯母夫婦の家を出ることにした。もうこれ以上傷ついてまで、無理に町の中で暮らしてはいたくなかった。両親を悪し様に言うような人たちと一緒にいたくはなかった。
エレヌもイレニオも家を出るというシュリのことを一応は引き留めようとしてはくれたものの、明らかにほっとしている様が見て取れた。従兄妹たちに至っては清々したと言わんばかりの態度を隠そうともしなかった。
ノルスを出奔したシュリは、昔、セイレムがエフォロスの森の中に建てた丸太小屋で暮らすことにした。何も持たない子供が一人で生きていくにはそうする以外、方法がなかった。
こうしてシュリは、両親を亡くした森で、彼らの痛々しい死を悼みながら、”人喰い”の女への復讐心を秘めて暮らし始めた。
◆◆◆
(――そうだったのか)
シュリの口から語られた話を聞き、ドゥーエは疑問に思っていたことがようやく腑に落ちた気分だった。
シュリのような年若い少女がこんな森の仲で一人で暮らしているのは妙だと思っていた。死んだという両親の話は多少は耳にした覚えがあったが、シュリが自分のことをあまり積極的に話したがらない以上、ドゥーエもこれまで踏み込まずにいた。しかし、そんなことがあったのであれば無理もないと思った。
(”人喰い”に両親を”喰われた”、か……)
シュリの話から察するに、彼女の両親を”喰った”という”人喰い”は自分ではない。それでも、ドゥーエは罪悪感を禁じえずにいた。
生きるために必要な行為だったとはいえ、自分の同胞が幼い彼女の人生を大きく狂わせてしまったのだという事実がドゥーエの心を刺した。自分たち”人喰い”は、彼女たち人間から大切なものを奪うことでしか生きられない。その業がひどく苦しかった。
(……俺が”人喰い”だと知れてしまうまでは、シュリと一緒にいよう。せめて、少しの間でも、今のシュリを一人にしないために……俺がシュリにしてやれることはそれだけしかない)
既に飢えによる渇きが現れつつあるドゥーエにとって、それは厳しい決断だった。それでも、ドゥーエは自分の知らないところでシュリがこんなふうに泣かないで済むのならそれでいいと思った。
腕の中で小刻みに震えていた少女の身体が、いつの間にか落ち着きを取り戻していた。ドゥーエは涙の跡が残るシュリの頬に触れ、彼女の顔を覗き込むと、躊躇いがちに問うた。
「……少しは、落ち着いたか?」
「……うん」
シュリは、泣き腫らして真っ赤に充血した目を冷えた手で擦る。彼女はばつが悪そうに俯くと、
「……ごめん。こんな最後の最後に変な話して。明日ここを発つんだったら、ゆっくり寝たかったよね」
「いや、構わない。それに……別に、これが最後じゃない。明日も明後日も、話したいことがあればいくらでも言えばいい。俺が……いつだって、いくらだって聞いてやる」
へ、とシュリは濡れた目を瞬かせた。
「ドゥーエ……それって、どういうこと?」
ドゥーエは照れ隠しのように明後日の方向へと視線を逸らしながら、
「別に、少し気が変わっただけだ。あともう少し……いや、お前が俺を追い出したくなるまではここにいてやる」
「そっか」
ああもう、と居心地悪げにドゥーエは自分の髪を掻き毟る。
「そんなことはいい。落ち着いたのなら、もうさっさと寝ろ」
ドゥーエはベッドの下に手を伸ばすと、床に落ちたシーツを拾い上げ、ベッドの上に広げた。そうだね、とシュリは淡い笑みを浮かべると、シーツの間に冷え切った細い身体を滑り込ませる。シュリはドゥーエのシャツの袖口を引っ張り、
「ほら、ドゥーエも寝よう?」
「あー……俺はお前が寝てから寝る。お前がまた嫌な夢を見たら困るから、寝るまで見張っていてやる」
我ながら意味のわからないことを言っているとドゥーエは思いながら、視線を宙に彷徨わせる。そう、と頷くと、シュリは遠慮がちに冷え切った小さな手をドゥーエの手に這わせた。
ありがと、そうシュリが呟いた微かな声をドゥーエの聴覚が捉えた。ドゥーエは、何となく、重ねられたその手を離したくなくて、大事なものを壊さないように扱うかのように、そっと、握り返した。
翌朝、シュリが目を覚ますと、目の前に彫像のように美しい男の顔があった。繋いで眠ったはずの手はなぜか彼の首に回っており、乱れたネグリジェの裾から覗く素足は彼の足に絡みついている。ほんのりと筋肉のついた筋ばった彼の右腕は、シュリの体を抱き寄せるように腰に回され、左腕は背に添えられている。
(な、何でこんな……!)
自分の状態を認識したシュリは身体をドゥーエに密着させたまま顔を赤らめた。部屋の中はこんなにも冷え切っているにもかかわらず、なぜだか耳まで熱い。
これではまるで、情熱的に互いを求め合う恋人同士のようだ。互いの寝巻き越しにしか、肌の感触や温もりを感じられないことがもどかしいなどということが思考の隅を掠め、直後、シュリは慌ててその感情を打ち消した。今、自分は何かすごくはしたないことを考えかけなかっただろうか。
(そもそも、あたしとドゥーエはただの同居人みたいなもので、別にそういう関係じゃないし! だけど……)
それでもシュリは、今、ドゥーエとこうした状態になっているのが嫌ではなかった。彼の首に巻きつけた己の両腕を解く気にも、自分の身体を抱く彼の両腕を振り払う気にもなれなかった。今はまだ彼の存在をこうして限りなく近くで感じていたかった。
あと何度、彼とこうして朝を迎えることができるのだろう。あとどれだけ、彼とこんなふうに過ごしていられるのだろう。
(あたしにとって、ドゥーエってなんなんだろう……?)
そんな疑問が頭を擡げる。ドゥーエのことは嫌いではない。自分を疎んじてくるノルスの人々のことを思えば、不器用な彼のことはどちらかといえば好きといってもいいかもしれない。
シュリにとってドゥーエの傍は不思議と居心地がいい。彼は人間にとって脅威といっていい存在のはずなのに、何故か一緒にいると安心できた。
自分たちは家族でもなければ、友達というのとも少し違う。人間と”人喰い”という本来ならば相容れないはずの自分たちの間に築かれつつあるこの関係性は一体何なのだろう。
しかし、その答えを求めて己の胸の裡を深掘りするのは躊躇われた。自分の中で存在を強めつつあるこの感情の名前を知ってしまえば、もう後戻りできなくなる、そんな気がしていた。
(……これ以上踏み込めば、絶対に後悔する。だって、あたしとドゥーエは絶対に相容れない存在だから。ドゥーエは……“人喰い”だから)
ドゥーエが”人喰い”である以上、こうして一緒にいられるのにもタイムリミットがある。”人喰い”であるドゥーエは、”食事”をしないことには生きていけないし、このままでは傷も癒えきらない。ドゥーエはシュリと共に形ばかりは同じものを毎食摂っているが、本来の意味での”食事”をしないことには、身体を苛まれ、いずれは衰弱して死に至る。
ドゥーエがシュリが傷ついたり苦しむのを望まないように、シュリも彼が苦しみ、死ぬようなことは望まない。彼が両親の仇である”人喰い”張本人であることを理解していても、それは変わらなかった。彼と一緒に過ごしてきた何にも変え難い大切な時間が、シュリをそうさせていた。
(それでも、まだあと少しだけ……)
もう少しだけドゥーエと過ごすこんな日々を続けていたいとシュリは願いながら、すぐそばで眠る白い横顔に唇をつける。そんなシュリの行為にも気づくことなく、彼はわずかに開いた鋭い牙が覗く口元からすうすうと心地よさげな寝息を漏らしていた。
シュリはドゥーエの顔から唇を離すと、彼を起こさないようにベッドを抜け出した。ベッドの下の籠から、ウエストに茶色の刺繍が施されたベージュのワンピースを取り出すと、シュリはネグリジェを脱いで着替えていく。
シュリは壁に吊るしたココアブラウンのケープに目をやる。先日、ノルスに赴いた際に汚れ、ぼろぼろになってしまったこれをシュリは洗濯こそしたものの、繕う時間が取れないままになっていた。ドゥーエが眠っている今のうちにやってしまおうとシュリはケープを手に取ると、部屋の奥のスギの戸棚から裁縫道具を出してくる。シュリはオーク材のダイニングチェアに腰を下ろすと、針の穴に茶色い縫い糸を通した。彼女は針を手に、ケープの破れた箇所を繕い始めた。
ズ、という分厚い生地を糸が抜ける小気味よい音。すう、すうと聞こえてくるドゥーエの穏やかな寝息。目覚めたばかりの鳥たちが少し眠たげに囀る声。色づいた木立の中を走り抜けていく鳩吹く風。一日が始まる直前の穏やかで心地よい音を耳朶(じだ)に捉えながら、シュリは手を動かし続ける。
(そういえば……今日、お父さんとお母さんの命日だ)
だからあんな夢を見たのか、とシュリは何かが腑に落ちた気分になった。しかし、昨夜、自分がドゥーエに対して晒してしまった醜態を思い返すと頭を抱えたくなる。
(あんなふうにドゥーエに抱きついて子供みたいに泣いて……しかも、よりにもよってドゥーエに対してあんな話を……)
ドゥーエは”人喰い”だ。あのように自分の同胞がしたことをつきつけられて、彼は何を思っただろう。
あの日、自分からすべてを奪った”人喰い”の女のことは、今でも殺してやりたいくらい憎い。しかし、ドゥーエに対しては、彼女に向けるのと同じだけの感情を向けられそうになかった。
ドゥーエと日々を過ごす中で、シュリは”人喰い”は恐ろしいだけの化け物ではないと知ってしまっていた。人間の血肉を喰らいこそすれ、彼らもまた、シュリと同じように感情を持つ存在なのだと知ってしまった。言葉を交わし合い、笑い会える存在なのだと知ってしまった。
ドゥーエはシュリのことを案じ、寄り添おうとしてくれる。理解を示そうとしてくれる。昨夜だって、聞いていて気分がいい話ではないはずなのに、最後まできちんと自分の話を聞いてくれた。泣くな、とシュリのことを抱きしめてくれた。
シュリを孤独にしたのは”人喰い”だが、孤独からこうして救ってくれたのもあの女と同じ”人喰い”であるドゥーエだった。いつの間にかシュリは、こうして彼に心を許し、彼のそばで過ごすことを望むようになってしまった。”人喰い”に絆されてしまった娘を両親はどう思うのだろう。罪悪感で胸がちくりと痛んだ。
(ごめん、お父さん、お母さん……あたし……)
そんなことを考えながら、シュリは針に糸をぐるぐると巻いていく。シュリが糸の間から針を引き抜いたとき、「ん……」ドゥーエがむくりとベッドの上で上体を起こした。
「あれ、シュリ……? もう朝か。すまない、少し寝過ごしてしまったみたいだな」
「ううん、あたしがちょっと早く起きちゃっただけだから。その……おはよう、ドゥーエ」
「ああ、おはよう。シュリ、もう水汲みは行ったのか?」
まだこれから、とシュリは首を横に振る。
「なら、一緒に行くか?」
「あの、今日は……」
「すぐ着替えるから、少し待っていろ」
ドゥーエに遮られ、行きたいところがあるから家にいて、というシュリの言葉は口の中で発されるタイミングを失った。
(今日は連れていきたくなかったんだけどな……今日はお父さんとお母さんのお墓参りに行きたかったから)
ベッドを出て着替え始めたドゥーエを見ないようにしながら、シュリは手元の余った糸を歯で切った。
シュリは椅子から立ち上がると、出かけるために繕ったばかりのケープを身に纏った。
ドゥーエの支度が整うと、二人は家を出た。
朝の澄んだ空気の中にはまだ少し雨の匂いが残っていたが、木の間から見える空の様子から、今日はもう雨は降らないであろうことが推して知れた。
昨夜の雨でぬかるんだいつもの道を歩きながら、シュリが時折何かを探しているのを見、ドゥーエは怪訝そうな顔をして、
「どうした、シュリ。今日は足元が滑るから、気をつけて歩かないと怪我をするぞ」
「ああ、うん。あ……あった、ちょっと待ってて」
シュリは少し道を外れたところに白い花が群生しているのを見つけると、木立の向こうへと足を踏み入れる。お待たせ、と何本か花を摘んでシュリが戻ってくると、
「花……?」
「うん。お父さんとお母さんが好きだった花。お父さん、お母さんに結婚を申し込んだとき、このアスターの花をお母さんに渡したんだって。その……今日、お父さんとお母さんの命日だから、この花をお供えしようと思って」
そうか、とドゥーエは思わしげに暗赤色の双眸を伏せる。それじゃあ行こっか、とシュリは素焼きの甕を抱くドゥーエの腕を掴み、歩き出した。
いつも水を汲んでいる川がせせらぎの音とともに近づいてくる。森と川を隔てるニシキギの茂みの前まで来ると、ドゥーエと別行動を取るべくシュリはさり気なさを装って話を切り出した。
「ドゥーエ。あたしはこの先に用事があるから、ドゥーエは水を汲んできてくれる?」
「あっちの方はオオカミの縄張りがあるだろう? 危ないから俺も行く」
「でも……」
シュリはどう断るべきかと言葉を探して逡巡する。ドゥーエではないとはいえ、あの”人喰い”の女が八年前に両親を”喰った”場所に、彼を連れて行くのは昨夜のこともあって気が引けた。しかし、シュリがドゥーエの正体を知っているということをドゥーエ自身が知らない以上、うまい言葉が見つからない。
「先日、危ない目にあったばかりだろう? 一人では行かせないからな」
ドゥーエの赤い目がシュリを見据える。その目からはシュリのことを真摯に案じていることが窺えて、彼女は渋々ながらも首を縦に振った。
「……わかった」
シュリと川の水音を背に、ドゥーエを伴って森の奥へと向かって進み始める。これより先はシュリもあまり足を踏み入れない獣たちの領域であることもあり、細く続いていた道が次第に薄くなっていく。
葉々が真っ赤に染まった大きなハゼノキの前まで来ると、シュリは足を止めた。森のさざめきが遠く、そこだけがひどく静かだった。
「……ここがお前の両親が亡くなった場所か」
うん、と頷くと、シュリはハゼノキの根本で膝を折ってしゃがみ込む。白いアスターの花束をその場に置くと、シュリは目を閉じ、両手を合わせた。
「あのね、ドゥーエ。あたしは八年前のあの日のことを忘れられないし、あの”人喰い”のことを許せるわけじゃない。だけど、あたしはそれでも生きないといけない。今日を、明日を、自分の足で立って、強くあたしは生きていかなきゃいけない。お父さんとお母さんと違って、あたしはまだここでこうやって生きているから。
今のあたしを見て、お父さんとお母さんがどう思うかはわからない。それでもあたしは、あたしの選んだ道をしゃんと胸を張って歩いて行く。
そのことを自分に言い聞かせるためにも、あたしは毎年ここに来るんだ」
強くならざるを得なかった彼女のことを思うと、後悔と罪悪感で胸が苦しかった。自分のせいではないにもかかわらず、”人喰い”という種の業がシュリをこうしてしまったのだ、という事実と唇をドゥーエは噛み締める。
シュリの唇が祈りの言葉を紡ぎ始める。少女の華奢な背中を見つめながら、ドゥーエはせめて彼女の今後の人生が穏やかであるように願った。



