色づいた木々の間から漏れる眩しい光が、新しい一日の訪れを告げていた。顎の辺りで切り揃えた黒髪に利発そうな丸い黒瞳(こくとう)の、十代半ばほどの少女はチーク材の重い扉を開けると、朝日に目を細めた。
秋色に染め上げられた落ち葉をオークグレーのレースアップブーツの底でかさりと踏みしめながら、彼女――シュリは素焼きの甕(かめ)を抱えて歩き出した。喉がひりつくような冷たく尖った早朝の空気に深まる秋を感じながら、シュリは慣れた足取りで森の中を進んでいく。霜風に揺れる野草に降りた朝露が透明な輝きを放っていた。
清冽な朝の静けさの中、一日の始まりを歌い上げる野鳥の声が響いていた。森に住む動物たちが緩やかに活動を始め、今日という日が動き始めていく。
生き物たちの営みが息づく森の中をシュリは奥へと向かって歩いて行く。ニシキギの鮮やかな赤色の茂みをかき分けて、小川のほとりへと辿り着くと、シュリは膝を折ってかがみ込んだ。
腕に抱いていた甕を川の中に下ろして水を汲むと、シュリは凍てつく水面に手を突っ込んだ。寒さで赤く悴んだ手で水を掬いあげると、ぱしゃぱしゃと顔を洗う。ひどく冷たいけれど、清く甘やかな水の感触に、ほんの少し残っていた眠気の靄が晴れていく。
小さな花の刺繍が散りばめられた茶色のチュニックワンピースの袖で、ぽたぽたと雫が滴る顔を拭うと、ずっしりと重い甕(かめ)を抱えてシュリは立ち上がった。そういえば来るときに煮込むと美味しいキノコが生えていたな、などということを思い出しながら踵を返そうとして、シュリは違和感に気づいた。
妙に森の中がざわめいていた。本来ならばここにいないはずの異質な存在に、森に住まう獣たちが騒いでいるようにシュリには感じられた。
(何か、いる……? たぶん、そんなに遠くない)
シュリは水の入った甕を地面に下ろす。甕の中で水がちゃぷりと小さな音を立てた。
違和感の正体を確かめるべく、なるべく音を立てないように気を配りながら、シュリはニシキギの茂みをかき分けて、木立の中へと慎重に足を踏み入れた。気を張りながら、さざめきの中心へとシュリは歩を進めていく。
(……人? たぶん、怪我をしてる……!)
背の高い男がうつ伏せに倒れ伏せていた。身に纏った黒い外套は汚れてボロ同然にずたずたに裂けてしまっている。かなり出血したのか、男からは濃い血の匂いがした。
獣に襲われたときのために持ち歩いている短剣の存在をそっと右手で確かめながら、シュリは男へと近づき、身を屈めた。
ひどく美しい顔立ちの男だった。「っん……」薄い唇から時折漏れる息には思わしげな色気があって、冷たく圧倒的な美貌に対してアンバランスな艶めかしさを放っていた。
傷だらけの白い肌は、男性のものとは思えないほどにきめが細やかで整っていた。長く豊かな睫毛に覆われた瞼をそっとシュリは指で押し上げる。気を失っているらしく、開いた瞳孔の周りを縁取る虹彩は血と同じ赤色をしていた。
背に流れる長い黒髪は、適当にしか手入れしていないシュリのものとは異なり、艶やかでさらさらとしている。年齢は恐らく自分よりも一回り上くらい――二十代後半だろう。
シュリは男の体を仰向けにすると、彼の背中の下に膝を突っ込んだ。意識のない男の頭の下に自分の手を差し入れ、手首の辺りに重心を集めると、シュリは彼の重い上体を起こし、手近な木の幹へと寄り掛からせる。
男の足の下に自分の膝を差し入れると、シュリは脱力した男の両腕を自分の背へと乗せる。左手を膝の裏、右手を背中に回すと、男の頭を下に傾けながらシュリは立ち上がる。
(重っ……)
腕に感じるずっしりとした重さにふらつきながらも、シュリはよたよたと歩き出す。
こんな朝っぱらから何をしているのだろうと、自分のお人よしっぷりを苦々しく思いつつも、がさがさと落ち葉を踏み鳴らしながら、シュリは思いがけない拾得物を抱えて家路を辿った。
茂みを彩るオレンジ色の小さな花々が、ほのかに甘い秋の香りを漂わせていた。
シュリは自分の暮らす小屋へと帰り着くと、まだ微かに自分の温もりが残るベッドの上へと男の体を横たえた。ずっしりとした重みから解放されたシュリはふう、と息を吐いた。
ベッドに横たえた男の体へとシュリは視線を走らせる。まずは傷の具合を見ると同時にまずは傷口を洗ってしまいたかったが、甕(かめ)を河原に置いてきてしまったことをシュリは思い出した。
いけない、とシュリは再び扉を開けて外へ出る。足早に先ほどの河原に向かい、水の入った素焼きの甕を拾い上げたとき、自身のらしくなさに苦笑いが滲んだ。孤独な生活に自分以外の存在が急に入り込んだことで何故だか気持ちが浮ついてしまっているようだった。
(……らしくない。本当に、らしくない)
甕を抱いてかぶりを振ると、シュリは踵を返し、再び家への道を急いだ。
シュリは再び帰宅すると、ずっしりと重い甕を台所の隅に下ろした。部屋の奥にあるスギの無垢材の戸棚から、オフホワイトの琺瑯のたらいを持ってくると、甕の中身を注ぎ替えてシュリはベッドで眠る男の元へと向かった。ベッドサイドで膝立ちになり、たらいを足下に置くと、彼女は着せたままになっていた男のぼろぼろの外套を慎重に剥いでいく。
血のシミが大きくできたグレーのベスト。銀糸のストライプの入った黒のシャツにはところどころ大きな裂け目ができてしまっている。
血で赤黒く染まった上の肌着を脱がせると、シュリは続けて履かせたままだった黒いブーツの革紐を解いていく。紐を解き終えると、泥と血で汚れたブーツを男の足から脱がせてベッドの脇へと揃えて置いた。
シュリは無駄な肉のない男の腰へと手を回すと、黒い蛇革のベルトを引き抜いた。そのままシュリは躊躇うことなく、男の汚れてかぎ裂きのできた黒いテーパードパンツを脱がせていった。
下半身に肌着を一枚残すのみの姿になった男の、程よく引き締まり、うっすらと筋肉のついた体には、紫色に変色した打撲傷や切り付けられたり矢で射られたりしたのだろうと思われる傷があった。生まれて初めて目にする、亡くなった父のものではない若い男の裸体に少しどぎまぎしつつも、そんな場合ではないとシュリは頭の中から煩悩を追い払う。
シュリは傷の深さを目で測りながら、たらいの水で男の傷口をなるべく刺激しないように優しく洗っていった。
(血はほとんど止まりかけているみたいだから、消毒して、化膿しないように軟膏塗って……殴られたところは湿布貼っておいて、と……。起きた後に飲ませるために、痛み止めの薬も用意しておかないと)
シュリは立ち上がると、ダイニングの壁際にある戸棚からいくつかの薬品の瓶と包帯を持って男の眠るベッドへと戻ってきた。瓶の蓋を開け、ピンセットで綿を摘み上げて薬品に浸す。シュリはそれをぽんぽんと軽く傷口に叩き込み、清潔なガーゼを当てる。そして、打撲の傷には、ハーブの抽出液に浸して作った湿布を貼り、包帯を巻いていった。
こんな人の寄り付かない森の中で一人で暮らしている以上、誰に見られているわけではないが、その格好の美しく若い男と二人きりというのは何となく体裁が悪いような気がした。それに今の季節、このままにしておけばおそらく風邪をひいてしまう。
外の納屋に昔、父が着ていた服があったはずだと思いながら、シュリは立ち上がった。長らく仕舞い込んでいたので少し埃っぽいかもしれないが、ないよりはマシだろう。
(あの男のせいであたしの服も汚れちゃったし、後で着替えないと……。あいつが着てた服も血まみれだし、朝ごはんの後にあたしの服のついでに洗って……)
そんなことを考えながら、台所脇の裏口の扉から外へ出ようとしたシュリははたとして足を止める。自分の世話焼き具合にほとほと嫌気が差して、シュリは顎のラインで切りそろえた自分の黒髪をわしゃわしゃと書き毟った。
(あいつ……男のくせに髪も綺麗だったな……。あたしなんかとは大違い)
何だかなあ、と複雑な気分になりながら、シュリは台所の脇にある裏口の扉から外に出て、小屋の横の納屋を開ける。
鍬や小鎌などといった農作業に使う道具の類。季節ごとに整頓された今は着ていない衣類のかごたち。鋸や金槌などといった大工道具に使う工具類。普段は使っていないかごや食器類。幼いころ、両親がシュリのために作ってくれた薄汚れてくたびれた人形や玩具たち。
様々なものが綺麗に整頓されてしまわれた納屋の中に上体を突っ込んで、シュリは棚を漁り始める。埃っぽい空気にくしゅん、と小さくくしゃみが漏れ、近いうちに一度掃除と換気をしたほうが良さそうだなと頭の片隅をそんな思考が過った。
「あった」
上から二段目の棚の奥に、父親の古い衣類を纏めた籠を見つけたシュリは小さく呟いた。今の時期でも着られそうな服を見繕って埃を払い落とすと、彼女は桟がクロスした木製の扉を閉めた。
シュリは家の中に戻ると、あまり見ないようにしながら意識を失ったままの男に昔、父親が着ていた服を着せていった。男の顔は血の気を失ってひんやりと冷たいままだったが、シュリが処置をしたことで少し楽になったのか、穏やかな表情をしていた。
まあいいか、と半ば諦めた気分になりながら、シュリは自分も着替えようとベッドの下から着替えの入った籠を引っ張り出す。
(……大丈夫だよね。まだ寝てるみたいだし)
まだ意識の戻らない以上、この場で着替えたところでこの男に見られることはない。それに、もし仮に見られたとしてもなにか困るわけではない。
いつまでも男の血で汚れた服を身に纏っていたくなくて、ウエストラインに茶色の糸で刺繍が施されたベージュのチュニックワンピースを手に取ると、シュリはばさりと着ていた服をその場で脱ぐ。暖炉に火を入れているとはいえ、肌着から伸びた細い手足に寒さを覚え、彼女はすぐに着替えに頭を突っ込んだ。
チュニックワンピースの袖から手を出すと、シュリは自分と男の汚れた衣服を纏めて汚れ物用の籠に放り込む。男の血で汚れてしまったシーツも洗ってしまいたかったが、今朝のところは難しそうだった。
(それにしても、この人……誰も寄り付かないこの森の中で何をしてたんだろう? 切り傷に矢傷……うっかり迷い込んで、獣に襲われたってわけでもなさそうだし)
シュリは男の治療に使った薬品類を片付けようとして、ベッドの脇へと手を伸ばす。何とはなしに眠る男の髪にシュリが触れると、人間のものとは異なる特徴的な耳が露わになった。
「え……?」
思わず口をついて出た声が震えた。もしかして、とシュリは思った。彼女は自身の推測の裏付けを取るべく、男の上唇をそっと捲る。やたらと発達した犬歯が顔を出し、やっぱり、と彼女は小さく呟いた。
(尖った長い耳に鋭い牙、それに人間離れしたこの美貌……! この人は……!)
思い至った真実の悍ましさに、シュリの表情が強張っていく。
シュリが助けてしまったこの男は”人喰い”と呼ばれる化け物だった。彼の身体につけられた傷の数々は、人間たちに追われてつけられたものだったのだろうとシュリは遅まきながら理解する。
シュリはシャツの襟元から露出する男の首筋へと手を這わせる。ごつごつとした喉の感触と、頸動脈の拍動にシュリは怯む。しかし、今、彼を始末してしまわなければ、殺されるのは自分のほうだ。
(……駄目だ。たとえ”人喰い”でも、こんな寝込みを襲って殺すような卑怯な真似、あたしにはできない)
これだけの手負いだ。焦らずとも、彼を殺すのは今でなくても構わない。シュリはそう思い直して男の首から手を離すと、嘆息した。甘いという自覚はあった。
(知らなかったとはいえ、拾ってきちゃった以上、目が覚めるまで面倒を見るだけ。こいつの意識が戻ったら、すぐにでも叩き出してやる)
そう自分に言い聞かせると、シュリは薬品の瓶や包帯の残りをかき集めて立ち上がる。部屋の奥の戸棚に薬を片付けながら、これは仕方のないことなのだと自分の行動を正当化するように彼女は己に言い含めた。
とりあえず今は朝食にしてしまおうと、シュリは戸棚からマッチを取り出した。彼女は台所へ向かい、竈(かまど)に火を入れると、昨夜の残りもののスープの入った鍋を温め始めた。
ぺたり、と額に水気を含んだ冷たいものが触れたのを感じて、彼はうっすらと瞼を開いた。視界に木でできた天井が映り込む。すぐそばの窓から差し込んでくるオレンジ色の光が眩しくて、彼は思わず暗赤色の目を細める。
意識と共に身体に痛みが戻ってくるが、思っていたほどではない。頭と背に柔らかいものが触れており、身体にも清潔なシーツが掛けられていた。
知らない場所だった。ここは一体どこなのだろうと訝りながら彼は身体を起こした。どのくらいの時間気を失っていたのだろうか。骨が軋んだ。
「目が覚めた?」
そんな問いかけとともに、水の入った琺瑯のたらいを手にした小柄な少女が彼の顔を覗き込んだ。顎の下で切りそろえたぱさぱさの短い黒髪。小動物を思わせるくりくりとした黒い瞳。見たところ、年齢は十五、六といったところである。
「ここは……?」
彼は掠れた声で少女へ問うた。熱があったからなのか、喉が張り付いて上手く声が出ない。彼の様子に気づいた少女は、たらいを床に置くと、台所の隅にある素焼きの甕(かめ)から木の椀に水を汲んで持ってきた。
彼は彼女から椀を受け取ると口をつける。甘やかな水が喉を滑り落ちていく感覚が心地よかった。少女はベッドの脇で腰に手を当て、彼が水を飲むのを眺めながら、
「ここはあたしの家。今朝、川の近くであんたが倒れていたのを見つけて連れてきたんだ。よくわからないけど、何かいろいろ怪我してたみたいだったから、手当しといたよ。あと、あんたの服も汚れたり破れたりしてたから、洗って直しといた」
彼は少女の言葉に椀を手にしたまま、ガーネットの双眸を瞬いた。この非力そうな華奢な少女が自分をここまで連れてきたというのだろうか、と彼は意外に思った。いくら痩せ型なほうとはいえ、彼女が一人で男である自分を運んできたというのだろうか。しかし、家の中にこの少女以外が暮らしている気配が見受けられないことから、そういうことなのだろうと、彼は冷たい水とともに事実を飲み下す。
「すまない、すっかり世話になった。礼を言う」
そう言うと、彼は少女へと椀を返す。そして、身体に掛けられていたシーツを払い除け、簡素な作りのベッドを下りようとした。ぼとり、と額に乗せられていた濡れた布が床に落ちる。立ち上がろうとすると、右股の傷が彼の体重を受けて悲鳴を上げた。
あのねえ、と少女は呆れたように彼を押し留めると、
「そんなにいっぱい怪我してて、一体どこに行くつもり? 大人しくしていないと傷が開くよ。昼間はずっと熱だってあったんだし、本調子じゃないでしょ? 無茶は禁物」
「しかしだな……」
少女の指摘は的を射てはいた。口ごもった彼に、少女は彼の鼻先にぐいと細い人差し指を突きつけると、有無を言わせない口調で畳み掛けてきた。
「怪我人は黙って寝てなさい。何か反論があるなら治ってから言って。……それに、どうせここはあたし一人だし、傷が塞がるまでは何日でもいてくれて構わないから」
そう言うと、少女はわずかに表情を和らげ、口元ににっとした笑みを浮かべた。
「あたしはシュリ。薬師をしながら、この森に住んでるの。ちょっとの間になるだろうけど、これからよろしく」
「あ、ああ……。その、俺はドゥーエという。その……」
荒れた小さな手を差し出してきた少女へと、ドゥーエも自分の名を明かす。しかし、どれだけ自分の事情を明かしたものかと彼は逡巡した。
シュリの様子から察するに、自分の背に流れる黒髪に隠れた”人喰い”特有の尖った耳や口元の牙には気付かれていないようだ。面倒がないように気づかれる前に彼女を喰って始末してしまおうか、という物騒な思考が脳裏をちらりと過ったが、それは合理的ではあってもあまりにも忍びないと思えるだけの理性がドゥーエにはあった。
完全に厚意で助けてくれたのであろうこの少女に今この場で自分の正体と事情が知れ、彼女の顔が恐怖や憎悪に歪むのを見たくないとドゥーエは何となく思った。それに、しばらくここに逗留して傷を癒せるというのは、ドゥーエにとって悪くはない話だった。
(何にせよ、ここを去るときにはこの娘を”喰って”しまったほうがいいのは確かだ。しかし、今はこの娘に何をどこまで説明したものか……)
嘘が多くなればなるほど、言動は不自然になる。ならば、なるべく嘘はつかずに真実を伏せたほうがいい。どう答えたものかとドゥーエが考えあぐねているといると、シュリは見かねたように苦笑を浮かべ、
「……いいよ。あんまり人が寄り付かないこの森で、傷だらけの血まみれで倒れてたんだから、何か事情があるんでしょ。あんたが話したくないって言うなら、あたしも無理には聞かない」
「……すまないな」
「いいよ。変に嘘つかれるよりはよっぽどいい」
それよりさっさとベッドに戻りな、とシュリは床に落ちた布を拾い上げながら、ドゥーエをベッドへと追い立てる。ドゥーエは促されるまま、再びベッドに身を横たえると、
「ところで……俺は一体、どのくらいの間、気を失っていたんだ?」
「丸一日、かな。もう夕方だもん」
床に置いたたらいの水で布を濯ぎながら、シュリはそう答えた。
「そうか」
窓から差し込むオレンジ色の光は、朝日ではなく夕日だったらしいと得心すると、ドゥーエはベッドに身を横たえたまま、視線だけを動かして、室内の様子をつぶさに観察していく。
ドゥーエが横になっているベッドから見て、奥の方に台所らしきスペースがあり、作業台や火の焚かれた竈(かまど)が設えられていた。ベッドに横たわるドゥーエの後方の壁に沿って、食材などの生活に必要な品と、用途の分からない萎びた草の束や謎の液体の詰まった小瓶の数々が収納された簡素な木の戸棚が並んでいる。
ベッドと台所の間の手狭なスペースには落ち着いた色のオーク材のダイニングテーブルとチェアが置かれており、その背後の壁では小さな煉瓦の暖炉でちりちりと炎が揺れている。
生活する上で必要最低限のものしか置いていない、殺風景でどこか寒々しい印象を受ける家だった。年頃の娘が好みそうな雑貨や装飾の類は一切見受けられない。室内はそれほど広いとはいえないが、それでも人が一人暮らすには充分だった。
「……お前、ここに一人で住んでいるんだろう? 寂しくないのか?」
あまりにも年頃の少女らしい彩りに欠ける部屋の風景に、思わずドゥーエの口からそんな言葉がついて出た。一瞬の後、知り合って間もない相手に対し、無神経なことを聞いてしまったという後悔がひやりと彼の背筋を撫でる。
「……ううん、慣れたから」
シュリはドゥーエの言葉に一瞬驚いたように、丸く黒い双眸を見開くとかぶりを振った。彼女は己を嘲るようにやけに大人びた笑みを浮かべると、
「それにあたしは……この先もずっと、一人だから。だから……あたしは、これでいい」
諦観に満ちたその言葉に、ドゥーエは何も言えなかった。言葉尻からは悲しみの色が見え隠れしていて、なぜ、と問うのも憚られた。ドゥーエが今ここにいるのにも事情があるように、こんな森の中で年若い少女が一人で暮らしているのだから、何か相応の事情があるのだろう。
黙り込んでしまったドゥーエを特に気にしたふうもなく、シュリはベッドのそばを離れ、壁際の戸棚の前へと立つ。彼女はタマネギのしまわれた木箱の中を手でまさぐりながら、
「そんなことよりも、あたしはそろそろ夕飯の準備するけど、あんた、何か食べられないものとかある?」
とはいっても大したものはできないんだけど、とどこか楽しげに笑いながら、シュリはタマネギを手にドゥーエを振り返る。
「いや、特にないが、別に俺の飯など気にしなくても……」
ドゥーエは整った顔に困惑を露わにする。”人喰い”である彼は、誰かと食卓を囲むということをしたことがない。
”人喰い”は基本的には人間の血肉しか口にしない。嗜好品のような感覚で、人間の食べ物を口にする個体もいるらしいが、さしたる栄養があるわけでもなく、意味のない行為だと彼自身は思っていた。
人間に忌み嫌われる存在であるドゥーエは、もちろん誰かに手料理を振る舞ってもらった経験はなく、何だか不思議な心地だった。しかし、シュリにこのようなことを聞かれて、なぜか嫌な気はしなかった。
「それじゃあ、ドゥーエはしばらく休んでて。今日は冷えるし、身体が芯からあったまるあたしのとっておき、作ってあげる」
シュリは台所の壁に吊るしてあった包丁を手に取ると、作業台の上でタマネギを刻み始めた。とんとんと小気味良く単調な音がドゥーエの聴覚と室内を心地よく満たし、眠気の波が彼の意識へと押し寄せてきた。彼は訪れた眠気に己を委ねると、そのまま眠りへと落ちていった。
こうして、互いの事情も知らないままに、身寄りのない孤独な少女と”人喰い”の男の、束の間の共同生活が始まった。
妙なことになったものだ。暗闇の中、木の天井を眺めながらシュリは小さく息を吐いた。背中の下の木目の床はごつごつと固く、冷たい。
(本当に何やってんだろ、あたし……)
シュリが床で寝る羽目になった元凶たるドゥーエは、シュリのベッドの上で彼女に背を向けるようにして痩せた身体を横たえ、シーツに丸まって寝息を立てていた。傷が痛むのか、時折小さく呻き声を漏らしている。
今朝、川の近くの木立の中で見つけたドゥーエをこの家に運び込んだのは、仕方のないことだと言えなくもない。怪我の手当てをしたことだって、まだぎりぎり仕方ないで済ませられる範疇だと言えないこともない。
しかし、ドゥーエが”人喰い”だとわかっていながら、意識を取り戻した彼に『何日でもいてくれて構わない』などと言ってしまったのは、我ながらやり過ぎたと思った。目が覚めたらすぐにでも叩き出してやると決めていたはずなのに、何という体たらくだろうか。この家に自分以外の存在がいるのが物珍しくて、今日の自分は浮かれていたのだろうとシュリは己を苦々しく思う。
(だけど……今日は珍しく、夕飯が美味しかったような気がする)
夕方、シュリが作った玉ねぎと生姜のスープをドゥーエと一緒に食べた。どんなに腕によりをかけたとしても、普段ならどこか味気なく感じてしまうそれが、今日はやけに美味しく感じられた。
シュリは特段お喋りな性質ではない。ドゥーエも物静かな性質なのか、食事をしている間も、時折一言二言言葉を交わす程度で会話らしい会話もなかった。それでも、ドゥーエと囲む食卓はシュリにとって意外なほどに心地よかった。
(……駄目だ。あいつに――ドゥーエに気を許しちゃいけない)
夕方、シュリのベッドで目覚めたドゥーエは拍子抜けするくらい普通だった。シュリにとって”人喰い”はもっと獣じみた恐ろしい生き物だったにもかかわらず、ドゥーエとは普通に会話が成立したし、一人で暮らすシュリを気にかける素振りすらあった。”人喰い”だとはいえ、ドゥーエは普通の人間と大して変わらなかった。
(でも……あいつのあの態度は罠かもしれない。きっと、あたしをそうやって油断させて、”喰う”つもりなんだ)
現状、ドゥーエがシュリを”喰う”素振りはない。それでも、いつ彼がシュリに牙を剥くかわかったものではなかった。
絶対に油断しないようにしないと、とシュリは内心で己を戒めると、グレーのバイアスチェック柄があしらわれた厚手のブランケットの中に潜り込んだ。
「……おやすみ」
既に夢の中にいるドゥーエに聞こえるはずもないとわかっていながらも、シュリは小さな声でそう呟いた。一拍遅れて、もう何年も口にしていなかったその言葉がじわじわと胸の中を満たしていく。
なんだかなあ、と思いながらもシュリはブランケットの中で目を閉じる。閉じた瞼の裏では、ドゥーエと囲んだ食卓の暖かな情景がちらついていた。
儚く脆い泡沫の夢をあとほんの少しだけ見ていてもいいだろうか。ぼんやりとそんなことを考えたのを最後に、シュリの意識は穏やかな眠りの波間へと溶けていった。
◆◆◆
くつくつと鍋の中で液体が煮える音がしていた。立ち昇る湯気からはすうっとした薬草の香りがしている。
ドゥーエを拾った翌日の昼下がり、シュリは薬を煎じていた。軽い昼食の後に飲ませた抗生物質の影響か、ドゥーエはシュリのベッドで眠っている。
(意外。こんなにも何もないなんて)
”人喰い”であるはずのドゥーエが自分を”喰う”どころか、危害を加える素振りすらないことに、シュリは肩透かしを食らったような気分だった。昨夜だって、眠っているうちにシュリを喰ってしまうことだってできたはずなのに、なぜかドゥーエはそうはしなかった。
変なの、と呟きながらシュリは匙で鍋の中身が焦げつかないように掻き回す。今、シュリが作っているのは、ドゥーエに飲ませるための痛み止めの薬だった。
(変なのはあたしも同じなのかもしれない)
この家に自分以外の誰かがいる――それが”人喰い”であるにもかかわらず、そのことを少し嬉しく思ってしまっている自分がいる。ドゥーエに心を許しかけてしまっていることをシュリは自覚していた。
(だって……ドゥーエはあたしの思っていた”人喰い”とは何か違う)
”人喰い”など、人間を見れば問答無用で”喰らう”だけの化け物だとシュリは思っていた。実際、シュリは八年前に両親を”人喰い”の女によって喰い殺されている。噎せ返るようなあの血の匂いと恍惚とした笑みを浮かべて見せたあの女の姿をシュリは今でもありありと思い出すことができる。
しかし、昨日、シュリが拾ってきた彼はただの化け物と言い切ってしまうには随分と理性的だった。
人間と同じように”人喰い”にも個体差があるのだろうか、とシュリは思う。シュリが耳にしたことのある”人喰い”の話は、どれもあの女のように猟奇的で、ともすれば快楽のために人を喰い殺すようなものばかりだ。そういった一般的な”人喰い”の姿とドゥーエはかけ離れているように思えた。
(あたしに危害を加える気がないならそれでよし。ただ――あいつにあまり肩入れしないようにしないと。所詮はあたしたち人間とは違う生き物……裏切られたときにがっかりしたくないし、何よりあいつはずっとここにいるわけじゃない――怪我が治ったら出ていくんだから)
そう言い聞かせながら、シュリは緑色の液体の入った鍋を竃から下ろす。粗熱が取れたら、瓶に詰め替えて、夕飯の後にでもドゥーエに飲ませないといけない。
今日の夕飯は何にしようか。昨日、森の中に生えていたおいしいキノコを何種類か使って、リゾットでも作ろうか。頭の中で思案を巡らせながら、シュリは小さなカップでざるへともち麦を計って移し替えていく。
「……あ」
何も考えずに二人分の分量でもち麦を計っていたことに気づき、シュリは小さく声を漏らした。どうやら自分は、ドゥーエのせいで随分と浮ついてしまっているらしい。昨日といい、今日といい、彼と囲む食卓が思いがけず温かく居心地の良いものだったのが全て悪い。
ドゥーエが出ていくまでのほんの少しの間。自分の身に危険が及ばない範囲でなら、彼が自分のそばにいるこの状況を受け入れてもいいような気がした。
まずはドゥーエのことを知りたい。彼はあの女とは違うのだということを確かめたかった。
そのためにはもっとドゥーエと話をしないといけない。二人で囲む食卓を彩る食事を用意すべく、シュリはもち麦の入ったざるを流しへ持っていくと、甕から水を汲んできてふやかしはじめる。
ちろちろと竃の火が揺れる音とすうすうというドゥーエの安らかな寝息が家の中に響いている。窓から差し込む金色の日差しは西へと傾き、夕刻が近いことを知らせていた。
◆◆◆
シュリとドゥーエが共に暮らし始めてから数日が経った。床でブランケットに包まって眠っていたシュリがもぞもぞと早朝に起きだした音でドゥーエは目覚めた。火の消えた暖炉の上の壁に吊るしていたココアブラウンのケープを羽織り、外へ出ようとしている彼女を、まだ半分眠りの世界に意識を残したままのドゥーエは呼び止める。
「ん……シュリ、どうした?」
欠伸を噛み殺しながらむにゃむにゃとそんなことを問うたドゥーエにシュリは苦笑して、
「ごめん、起こしちゃった? まだ早いし、ドゥーエは寝てていいよ」
ドゥーエはベッドから上体を起こすと、肩の傷に障らないように気をつけながら伸びをした。眠りの妨げにならないように緩められたシャツの胸元や、腰まである寝乱れた黒髪、半ば伏せられたままの暗赤色の双眸がやけに蠱惑的に存在を主張していて、シュリは少しどきりとした。
「お前はいつも、こんなに早い時間に起きているのか?」
ドゥーエの疑問をシュリはまあね、と肯定した。先程の動揺を気取られないようにシュリは早口に、
「朝のうちにやらなきゃいけないことがいろいろあるから。川に水汲みに行ったり、薪(たきぎ)集めに行ったりとか」
「俺も行こう。ずっと寝たきりというのもあまり良くないからな。着替えるから、少し待っていてくれ」
自分のぬくもりと夢の名残の残るシーツの間からドゥーエは抜け出ると、オールドブルーのダブルガーゼのシャツをするりと脱いだ。治りかけの生々しい傷が残る、細身だが程よく筋肉の付いた均整の取れた背中が長い髪の間から覗き、シュリの心臓はどくりと鳴った。見てはいけないような気がするのに、男の素肌が放つ色香から目が離せなかった。
「シュリ?」
ベッドの背に掛けた黒いウールのアンダーシャツを手に取りながら、ドゥーエは訝しげにシュリを振り返った。名を呼ばれたシュリははっとして、剥き出しのドゥーエの背から慌てて視線を逸らす。何故か頬が熱かった。
「あっ、ドゥーエどうかした?」
「それは俺の台詞なんだが……ぼんやりしていたみたいだが、具合でも悪いのか?」
自分を案じるドゥーエの言葉に、シュリはぶんぶんと首を横に振る。彼の裸体にうっかり見入っていたなどとは言えるはずがなかった。
「ううん、何でもない。ちょっとまだ眠かっただけ。あ、そうだ、着替えのついでに傷口診ちゃうね」
適当な理由をでっち上げると、シュリは棚から傷薬の入った小瓶を取ってきて蓋を開ける。薄緑色の軟膏をシュリは右の人差し指に取ると、これはただの治療だと自分に言い聞かせながらドゥーエの背中へと触れる。しかし、男を感じさせる少しごつごつとした背中のぬくもりに、シュリの心臓がうるさくなる。
(あたし、なんか今日変……! 何でこんなに意識してるんだろ……)
自分の無意識の反応に混乱しながらも、シュリはドゥーエの左肩の傷に軟膏を塗っていく。傷口はまだ少しジュクジュクとしていて、周囲が腫れていたが、多少動く程度なら問題はないだろう。
「シュリ、終わったか?」
日に焼けた薄いコットン生地のカーテン越しに、朝の色を帯び始めた空を眺めていたドゥーエはそう訊ねた。シュリは羞恥と困惑で手を震わせながら、清潔なガーゼを傷口に貼り付けると、こくこくと頷いた。
「う、うん……っ」
「ありがとう。……シュリ、震えているみたいだが、どうかしたのか? 寒いのか?」
自分の背に触れるシュリの手が震えていることに気づいたドゥーエは、シュリを振り返る。仄かな色艶を感じさせる白皙の美貌と男らしい逞しさのある裸の胸元が視界に飛び込んできて、シュリは顔を赤らめた。ドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せると、膝を屈め、シュリの額に自分の額をくっつけた。
「シュリ、顔が真っ赤だぞ。熱は……無いみたいだが」
至近距離でドゥーエの赤い瞳に見つめられたシュリは、慌てて彼から距離を取ると、
「全部全部、ドゥーエのせいでしょ! 何でもいいからさっさと服着て! 早く!」
「あ、ああ……悪い」
何が何だかわからないまま、とりあえずドゥーエは詫びの言葉を口にすると、アンダーシャツの袖に腕を通す。大きな黒い目をわずかに潤ませてこちらを窺っているシュリのことを”喰って”しまいたいという食欲と紙一重の凶暴な欲求がむくりと大きくドゥーエの中で頭をもたげた。しかし、そんな彼女のことをどこかに大事にしまっておきたいような気もして、何だか変な感じだとドゥーエは思った。
体の中を下りていく欲望に馬鹿馬鹿しいとドゥーエは蓋をすると、シュリの父の物だったというチャコールグレーのニットカーディガンをアンダーシャツの上に羽織った。ドゥーエは自分の黒いブーツに足を滑り込ませると、
「すまない、待たせたな。それじゃあ、行こうか」
着替えを済ませると、ドゥーエはシュリに声をかける。うん、と頷くシュリの声は少し硬かった。
何か彼女の気分を害するようなことをしただろうか。シュリに対して妙な気を起こしかけたことを悟られたわけではないと思う。一体何が悪かったのだろうかと、先程のシュリの言葉のを頭の中で反芻しながら、ドゥーエはシュリと共に小屋を出た。
ザクッ、ザクッとドゥーエの古びたブーツの下で、かさかさに乾いた茶色い落ち葉が音を立てた。顔に触れる秋の朝の森の空気は、少し水気を帯びて湿っぽく、ひんやりとしている。
シュリは両手に甕を抱え、慣れた足取りで木立の続く森の中を歩いて行く。その後ろをドゥーエは微妙な距離感を保ちながらついていった。あまり近づきすぎると、なぜか先程のように彼女に怒られてしまいそうな気がしていた。
シュリに連れられて、しばらく森の中を歩き続けていると、ドゥーエは辺りの空気が変わったのを感じ取った。近くで水の流れる音がしている。シュリはドゥーエを振り返ると、
「この茂みの向こうが河原になってるの。それで、あたしがドゥーエを見つけたのはもう少しあっちの方」
森の奥へと続く細い道を手で指し示され、なるほど、とドゥーエは頷く。言われてみれば、シュリの示す先に広がる光景におぼろげに見覚えがあるような気がした。
「あたし、水汲んでくるから。ドゥーエは適当にこの辺散歩しててよ」
そう言うと、シュリは空の瓶を抱えて、赤いニシキギの茂みの中へと消えていった。どうしたものか、とドゥーエは軽く肩をすくめた。
(そういえば、薪も集めにいかないといけないようなことを言っていたな……)
手持ち無沙汰になったドゥーエは辺りに落ちている枝の中から、程よい太さのものを拾い集め始める。地面に降りた朝露を吸った枝は、少し湿ってしまってはいたが、しっかり乾かせば充分に使えそうだった。
薪に使う枝は一本一本は細く軽いため、それほど嵩張りはしないものの、量が増えてくると、水分を含んでいることもあって、ずっしりとした重さが腕にのしかかってくる。普段はシュリが非力なはずの少女の細腕でこういった力仕事をこなしているのだと思うと、彼女のことをいじらしく感じた。野に咲く花のように一人で強く生きようとするその在り方に、なぜかドゥーエは胸が締め付けられるような気がした。
(シュリといるのは危険だ。このままでは何か……取り返しのつかないことになるような気がする)
我ながららしくないと思った。”人喰い”であるドゥーエは、これまでただの捕食対象に過ぎない人間にこんなふうに心を傾けたことはなかった。喰えるかどうかという以外のことで人間に関心を持つことなどなかった。しかし、シュリと出会ってからのこの数日で、自分を自分たらしめていたはずのものが音もなく少しずつ崩れ去っていっているような不思議な感覚をドゥーエは味わっていた。
「ドゥーエ」
がさがさとニシキギの茂みが揺れ、両腕に水がなみなみと入った素焼きの瓶を抱えたシュリが姿を現した。彼女はドゥーエの手元を見やると、
「薪、集めておいてくれたんだ? ありがと、助かる」
「……別に礼を言われるほどのことではない」
シュリから向けられたはにかんだような笑顔と言葉が、何だかこそばゆくてドゥーエは顔を背けた。あまりにも素っ気なさ過ぎたかと思い直すと、ドゥーエはシュリが抱えた瓶へと手を伸ばし、
「それを貸せ。家まで持って行ってやる」
言うが早いか、ドゥーエは水が入った甕をシュリの腕の中から奪い取った。左手に瓶、右手に枝の束を抱えると、何をやっているのだろうと自分自身に呆れながら、ドゥーエは踵を返した。左肩の傷が痛みを訴えたが、ドゥーエは顔には出さなかった。
呆気にとられていたシュリはありがとうと小さく呟いた。ドゥーエは互いの不器用なそのやり取りが何故か尊く思えて、ふっと表情を和らげた。
(もう少し……身体の傷が癒えるまでなら、こういう時間が続くのも悪くないのかもしれない)
ドゥーエの心境を知ってか知らずか、シュリは先を歩く彼に追いついてきて横に並ぶと、
「ドゥーエ、帰ろっか。帰って朝ごはんにしよう」
「ああ」
言葉と視線を交わし合うと、二人は連れ立って家への道を引き返し始めた。秋色に色づいた木の葉の先で、朝日を受けた雫が無垢な煌めきを放っていた。
◆◆◆
「……何をしているんだ?」
ある日の午前中、シュリが家の奥で作業をしていると、ベッドの上に腰掛けていたドゥーエがそう聞いてきた。シュリは手を休めることなく、彼の疑問へと答える。
「これ? 今朝、薬草がたくさん採れたから乾かすための準備をしてるの」
そう言いながら、シュリは手早く薬草を紐で束ねていく。ほう、とドゥーエは立ち上がり、シュリのそばに近寄ってくると、興味深そうに彼女の手元を覗き込む。
「手慣れているんだな」
まあね、とシュリは得意げに口の端を釣り上げる。その間も彼女の手は動き続ける。
「もう何年もやってるからね。小さいころだって、お父さんやお母さんがこうやって作業してるの手伝ったりしてたし」
ドゥーエもやってみる、とシュリが聞くと、ドゥーエは首を横に振った。腰まである彼の長い黒髪が、首の動きに合わせてさらさらと揺れ動く。
「俺には違いが全然わからないから遠慮しておく。俺からしたらどれも草、草、草だ」
「草って」
ドゥーエの言い方がおかしくて、シュリは小さく吹き出した。
彼の傷が癒えるまでのほんの短い間とはいえ、こうして言葉を交わし、何でもないことで笑い合える相手がいることが嬉しかった。どこにでもあるようなそんなささやかなことが、シュリには新鮮で楽しかった。ドゥーエが”人喰い”であることも理解していたし、何が目的で彼が自分の元に居続けているのかもわからなかったが、それでも構わなかった。
(人間よりも”人喰い”のドゥーエのほうがよっぽど人間らしいなんて皮肉だよね)
両親が死んでから、ノルスの親戚の家で暮らしていたときのことを思い返しながら、シュリはそんなことを考えた。ドゥーエだって、いつ自分に牙を剥くかわかったものではないが、それでも陰口を叩いたり石を投げつけたりしてくるような陰湿な嫌がらせをしてこないだけ、シュリにとってはかなりましだった。
「さて、と」
シュリは薬草をすべて仕分けて束ね終えると立ち上がった。壁際の戸棚から長いロープを取り出し、シュリが手近にあった木箱の上に登ろうとしていると、脇から長く筋ばった手が伸びてきてロープをひったくった。
「これをそこの柱に結べばいいのか?」
程よく低い、心地の良いドゥーエの声がシュリの背後から響いた。シュリは木箱に片足を乗せたままの状態で、ドゥーエを振り返ると、
「うん。それで、逆側を向こうの柱に結んで欲しいんだけど、お願いできる?」
任せろ、とドゥーエはロープを片手に背伸びをする。ロープを結えようと腕を上に伸ばしたとき、「っつ!」肩の傷が痛んだのか、たたらを踏み、ドゥーエの体が傾ぐ。
「わっ、わああああっ!!」
自分の方へとドゥーエの体が倒れてきて、シュリは咄嗟に彼の体を支えようと手を伸ばす。彼を連れ帰ってきたときとは異なり、完全に油断していたこともあって、痩せ型とはいえ男一人分の体重を支えることは能わず、シュリを巻き込んでドゥーエの体は床へと倒れ込む。シュリは衝撃を覚悟して、黒い目を閉じる。
ごん、と重い打撃音が室内に響いた。しかし、覚悟していた痛みがシュリを襲う様子はない。シュリは恐る恐る瞼を開く。
「え……?」
シュリの体はドゥーエの右腕によって抱き込まれ、彼が下敷きになる形で守られていた。
「シュリ、無事か?」
間近でドゥーエの暗赤色の視線がシュリへと向けられた。その目はシュリのことを案じているのか、物憂げだ。
「あ、あたしは、大丈夫……」
シュリは自分の声が上ずるのを感じた。そうか、と言ったドゥーエの吐息混じりの安堵の声が、愛撫するように聴覚の奥深くまで入り込んでくる。
「ごめん、すぐにどくね。怪我してるのにこんなことさせちゃってごめん」
「気にするな。やるといったのは俺だ。それよりもシュリに怪我がなくてよかった」
少し空気を含んだ低い声に耳元で囁かれ、シュリは自分の中で心がとくんと音を立てるのを聞いた。シュリはドゥーエの怪我に障らないように気をつけながら、彼の腕を振り解く。彼の温もりが遠ざかっていくことをなぜかシュリは残念に思った。
(ドゥーエは”人喰い”だけど、いい人なんだ。今だってあたしのことなんて庇わなくてよかったのに、こうやって守ってくれたし、あたしに怪我がないかを真っ先に気にしてくれた。やっぱり、ドゥーエは、あたしの知ってる”人喰い”とは違う)
そう思いながら、シュリは立ち上がる。そして、ドゥーエに手を貸して床から起き上がらせる。
「ドゥーエは大丈夫? どこ打った?」
「背中は打ったが、一応受け身は取ったから問題ない」
「問題なくないでしょ。一応診るから、背中見せて」
シュリはすぐそばの戸棚から湿布薬を取り出す。互いに互いを気遣いあっている今の状況は何だか不思議だが、嫌な感じはしなかった。
(ドゥーエは……あの女と同じ”人喰い”なんだよね。なのに……あたし、ドゥーエのことは……)
嫌いじゃない。その事実がすとんとシュリの胸の裡にすとんと着地した。
ただ憎むばかりだった”人喰い”という種にそんな感情を抱いている自分を少し意外に思いながらも、シュリはドゥーエのシャツの背を捲る。彼女は薄くなりかけた数多の痣に混ざった真新しい紫色の内出血を見つけた。やはり、自分を守るためにこんな傷を拵えてしまうお人好しの”人喰い”を嫌いにはなれない気がした。
シュリは紫色に腫れ上がった傷に湿布薬をあてがう。彼がここにいるのは傷が良くなるまでという話だったが、いつまで彼とここで過ごしていられるのだろうとシュリは思った。
開け放った窓から入り込んできたばたばたと金風がカーテンを揺らしている。湿布のハーブの匂いが風に舞い上がり、すうっとした爽やかな香りで室内を満たしていった。
◆◆◆
まだ秋だというのに、全身が芯まで凍えるような夜だった。底冷えする部屋の中、眠れずにいたシュリはバイアスチェック柄のブランケットの中で小さく身体を縮こまらせて、赤く悴んだ手に息を吐きかける。
「……眠れないのか?」
暗い部屋の中でドゥーエの低い声が響いた。その声からはシュリのことを案じているような色が感じられた。
「うん……まあね。ドゥーエはあたしのことなんて気にしないで寝てて」
シュリが苦笑混じりにそう答えると、ベッドの上のドゥーエが身を起こす気配がした。ばさり、とドゥーエはシーツをめくってみせると、
「今夜は殊更に冷える。床ではなく、ベッドで寝たらどうだ」
ドゥーエの申し出は魅力的だった。しかし、シュリはううん、と首を横に張る。
「いいよ。怪我人をベッドから追い出すわけにもいかないし。いつも通り、あたしは床で寝る」
「変な意地を張っていると風邪を引くぞ」
ドゥーエの言うことは一理ある。しかし、だからといって、ドゥーエをベッドから追い出す気にはなれなかった。どうしたものかとシュリが頭を悩ませていると、
「なら、こうしよう。俺もシュリもベッドで寝る。シュリは小柄だし、俺が少し奥に詰めれば充分寝られるだろう?」
「それは、そうだけど……」
シュリは躊躇した。”人喰い”と一つのベッドで共寝するなど、喰ってくれと言っているようなものだ。ドゥーエは普段はシュリを喰おうとする素振りなど微塵も見せないが、目と鼻の先に獲物が無防備に眠っているともなれば、さすがに生きてシュリが朝を迎えられるとは思えない。
「どうした? もしかして、俺が何かするとでも思っているのか?」
「……っ!」
「心配するな。お前が嫌がるなら、同じベッドに寝ているからといって、無理やり迫って犯すような真似はしない」
「ちょっ……犯す、って……!」
思っていたよりも斜め上のドゥーエの発言にシュリは顔を口をぱくぱくさせた。ドゥーエの美しい顔が自分に迫ってくる様を、ドゥーエの引き締まった身体が自分に覆い被さってくる様を思わず想像して、シュリは顔を真っ赤にした。
「さ、最っ低……! 変態!」
「そういうことを心配していたのではないのか?」
「っ……違っ……!」
ドゥーエはよくわからないとでも言いたげな顔をしながら、
「……それで、どうする?」
「……っ、あたしもベッドで寝る! それでいいんでしょ!」
シュリは厚手のブランケットの中から這い出ると、躊躇いがちにベッドの中へと入り込む。寝返りを打てばベッドから落ちてしまいそうな位置で横になるシュリに、ドゥーエは苦笑すると、
「もう少しこちらに来たらどうだ? 別に何もしない」
「うん……」
そういうことじゃないんだけどな、と思いながらシュリはほんの少しドゥーエに身体を近づける。近くに感じるドゥーエの体温は温かく、ムスクと古本の混ざったような匂いがした。
ドゥーエの赤い瞳と視線が絡み合った。ほのかな熱と艶を帯びて潤ったその目からシュリはなぜか視線を逸らせなかった。
小さく聞こえるドゥーエの息の音が悩ましげににシュリの耳朶を打つ。何かを憂うような表情を浮かべた白皙の美貌はひどく蠱惑的だ。容赦なく浴びせられる無意識の官能の暴力に、腹の奥を蠢き始めたものを封じ込めるようにシュリはぎゅっと強く脚を閉じた。
とくん、とくん、と互いの心臓の音がやけに大きく聞こえる気がした。ぴんと張り詰めた空気は今にも崩れてしまいそうになりながら、かろうじて均衡を保っていた。どちらかがほんの少し動けば、この状況を堰き止めているものが砂礫の城のように崩れ去ってしまう、そんな危うさがあった。
羞恥と怯えが入り混じったシュリの目がドゥーエを見ていた。ずきり、と心臓の拍動に合わせて、身体の内側にかすかな疼痛が走る。自分の本能がシュリの肉体を欲しているのだとドゥーエは思った。
(嗚呼……欲しい。――”喰いたい”)
ふいにドゥーエは自分を見る少女の顔をめちゃくちゃに歪めてやりたいような欲求に駆られた。ドゥーエは荒々しくシュリへと手を伸ばす。
「ドゥーエ……?」
戸惑うようにシュリが彼の名前を呼んだ。何でもない、とかぶりを振ると、ドゥーエはシュリの髪をごまかすようにかき混ぜた。シュリは不満げに頬を膨らませながら、
「……嘘つき。何もしないって言ったのに」
「……このくらい、何かしたうちには入らない」
まったく、とシュリは呆れたようにため息をつく。シュリは寝返りを打って、ドゥーエに背を向けると、
「あたし、もう寝るから。絶対、変なことしないでよ? ……おやすみ」
「おやすみ」
自分を突き動かしたのは食欲だったのか、はたまた情欲だったのか。そんなことを考えながら、ドゥーエはシュリのぱさついた短い髪を撫で続けた。彼女の寝息が聞こえ始めるまで、ドゥーエはずっとそうしていた。
ドゥーエは名残惜しく思いながらシュリの髪から手を離し、彼女へ背を向けると瞼を閉じる。
おやすみ、ともう一度小さく呟くと、ドゥーエは闇の彼方から打ち寄せてきた眠りの波に己の意識を預けた。
◆◆◆
暁闇の降りた森の木々の間から、白い光が静かに降り注いでいた。
紺碧の空に浮かぶ月は盈ち、尾のように残像を描きながらちらちらと星が走り抜けていく。
ダイニングテーブルで酒を垂らしたミルクをドゥーエが舐めていると、台所から何かが焼き上がる香ばしい香りが漂ってきた。
夕飯はとうに済み、片付けものが終わったシュリはベッドに腰掛けて紐で何かを編んでいる様子だった。
シュリは黄土色の紐を円状に編み上げると、ベッドから立ち上がった。台所へと向かい、彼女は竃の様子を確認する。
「うん、いい感じ」
シュリは焼き上がったものの具合を見て、そう独りごちた。ドゥーエはミルクを飲み干すと、椅子から立ち上がり、台所を覗き込む。
「こんな時間に何をやってるんだ? 夕飯ならさっき済んだだろう?」
「うん。今日はね、ちょっと特別」
シュリは部屋の奥の戸棚から温かみのあるクリームイエローのデザートディッシュを出してきて、こんがりとした狐色に焼き上がったそれを盛る。
「ドゥーエ。ちょっと外、付き合ってよ」
外、とドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せる。
「構わないが、どうかしたのか?」
行けばわかるから、とシュリはベッドの上に置いたままの紐の編み細工を拾い上げる。彼女は戸惑うドゥーエをよそに、左手に皿、右手に編み細工を持ってチーク材の扉を肘で押し開ける。ドゥーエはベッドの背にかかっていたグレーのバイアスチェックのブランケットを手に取ると、彼女の後を追った。
外に出ると、シュリは軒から円状の紐細工を吊るしていた。
「それは何なんだ?」
「ドゥーエ、見たことない? これは収穫祭の飾りなんだけど」
「収穫祭?」
シュリは足元に皿を置くと、軒下に座り込んだ。ほら、と木々の間から覗く玉輪を彼女は指差した。ドゥーエはシュリと視点を合わせるように、皿を挟んで彼女の隣に腰を下ろす。
「ほら、今日、満月でしょ? 毎年、この時期の満月の夜はどこの街も収穫祭が行なわれるんだけど、知らない?」
「いや……知らない。ずっと旅暮らしで、あまりひとところに留まることをしてこなかったからな」
ドゥーエは自分が”人喰い”であることには触れないようにしながら、収穫祭を知らない理由を曖昧にぼかす。ふうん、と相槌を打ったシュリはそれ以上、ドゥーエの事情を深掘りしようとはしなかった。
「町では本当は七面鳥の丸焼きとかいろいろなご馳走を食べてお祝いするんだけど、こんなところで一人で住んでるとさすがにそんな余裕はないから。
それでも気分くらいは収穫祭を味わいたいなって思って、毎年、飾りとスコーンくらいは作るようにしてるんだ」
あったかいうちに食べよう、とシュリは生地にとうもろこしが混ぜ込まれたスコーンをドゥーエへと勧める。「貰おう」ドゥーエはまだほくほくと温かいスコーンを手に取った。
シュリも自分の分のスコーンを手に取ると、二つに割る。宵闇を白い湯気がふわふわと漂い、空気の中に溶けていく。隣でそれをドゥーエがなんとはなしに眺めていると、シュリがくちゅんと小さなくしゃみをした。
「寒いのか?」
「うん……まあ、ちょっと。こんな薄着で出てきちゃったしね」
ドゥーエは傍らに置いていたブランケットを広げると、シュリの背にかけた。ありがと、とシュリははにかんだように笑う。
「ドゥーエは寒くない?」
「俺のことは気にしなくていい」
そんなこと言って、とシュリは肩をすくめる。シュリはスコーンを皿に戻すと、皿を自分の膝に置いた。そして、シュリはドゥーエへと体を寄せると、彼の背にもブランケットをかけてやった。
「こうすればあったかいでしょ?」
シュリは得意げにそう言うと、スコーンを齧る。まあな、とドゥーエは気恥ずかしいのか、シュリから視線を逸らす。
月明かりに照らされて彼の長い黒髪はしっとりとつやめき、赤の双眸は宝石のような美しさを帯びている。月を弄する白皙の美貌はどこか神々しく、シュリは一枚の絵画を見ているかのような錯覚に襲われた。
「……どうかしたか?」
シュリの視線に気づいたのか、口の中のスコーンを飲み下すと、ドゥーエは訝しげな声を向ける。
「何でもないよ」
シュリは二個目のスコーンを手に取りながら、ドゥーエの肩に自分の肩を触れさせる。彼と過ごすうちにこの温もりが心地よいとシュリはいつの間にか感じるようになっていた。
スコーンは毎年作るものと同じ味のはずなのに、今年はやけに美味しく感じられる。自分一人なのか、誰かと一緒なのかというだけで、こんなにも違うのかとシュリはしみじみと思う。
(もしかしたら……ドゥーエとだから、なのかもしれない)
シュリにとって、ドゥーエはだんだんと特別な存在になりつつあるのを感じていた。それは家族のようで家族でなく、友達のようで友達でない、他人ではない何かであった。
月影に照らされた夜空は、いつもよりも透き通って美しくシュリの目に映った。ぽろり、とこぼれ落ちるように星が視界を流れていく。
今年の月は一段と美しい。その理由をそのときのシュリはまだ深く考えようとはしなかった。
皓月が身を寄せ合う二人の姿を静かに照らしている。スコーンの香ばしい匂いが夜風によって持ち上げられ、うっすらとした湯気とともに辺りを揺蕩っていた。
◆◆◆
ノルスの自警団員たちにつけられたドゥーエの身体の傷は、一向に癒える様子はなかった。それでも、シュリに拾われた当初よりはまともに動けるようになってきていたドゥーエは、気まぐれにシュリの仕事を手伝うことも増えてきていた。
その日、昼食が済んだ後、ベッドで微睡んでいたドゥーエは、シュリが家の前の畑で忙しそうに立ち働いていることに気づいた。ふああ、と伸びをして身にまとわりつく眠気を追い払うと、ドゥーエはベッドから起き上がって履き古した黒いブーツに足を通す。
小屋の外に出ると、秋麗の陽気にうっすらと汗を浮かせながら、シュリが小鎌を手にほうれん草を収穫していた。ギィ、バタン、というドアの開閉音に気づいたらしいシュリは顔を上げる。シュリはドゥーエの姿を認めると、顔を綻ばせた。
「ドゥーエ。どうしたの?」
「いや……お前が何かやっていたから様子を見に来ただけだ」
そっか、とシュリは頷くと、いいことを思いついたと言わんばかりににっと笑みを浮かべながら、
「そうだ。ドゥーエもやってみない? あたし一人じゃちょっと手が回りそうにないし」
「わかった。手伝おう」
シュリの提案を快諾すると、ドゥーエは畑とシュリの顔を見比べながら、彼女へと指示を仰いだ。
「それで、俺は何をすればいい?」
「じゃあドゥーエはこれであそこのほうれん草を収穫してきてよ。それが終わったら向こうのブロッコリーね」
そう言うと、シュリは手に持っていた小鎌をドゥーエに手渡した。あたしはあっちでにんじんと芋をやってくるから、と言い置くと、シュリはすたすたと畝の間を歩き去っていった。その背を見送ると、ドゥーエは地面に座り込んで、ほうれん草の葉を手で弄り始める。
ほうれん草の株にはところどころ葉が刈り取られた形跡があった。ドゥーエは比較的大きな葉を選びながら小鎌で茎を一本一本刈り取っていく。
遅々として作業が進まないドゥーエに気づいたシュリは、収穫の済んだ野菜の山の向こうから声を張り上げた。
「ドゥーエ、一本一本やるんじゃなく、もっと葉っぱをまとめて持って、一気に刈り取っちゃって! 今日のうちに追肥までやっちゃわなきゃなんだから、そんなんじゃ全然終わらない!」
「お、おう……」
ドゥーエはシュリに言われた通り、ほうれん草の茎を何本もまとめて掴むと、鎌で刈り取っていく。ぶちぶちと茎の繊維が断たれる感触と共に、葉の束が土の中の根から切り離された。
ほうれん草を収穫し終えるころには、ドゥーエの額にも額に浮かんできていた。ドゥーエは鎌を地面に置き、土で汚れた手の甲で汗の粒を拭う。ドゥーエの何倍もの速度で野菜の収穫を済ませていくシュリを横目で見ながら、
「しかし、お前は本当によく働くな……」
シュリは大根のように太いにんじんを腰の入った動きで難なく地面から引き抜きながら、
「まあ、こんなところで一人で暮らしてたら、基本は自給自足だからね。全部自分でやらないと、野垂れ死ぬだけだから」
「そうか……」
「それに、こうやって畑仕事をするのは嫌いじゃないし。小さいころもお母さんと一緒に、ノルスの家の庭でハーブ育てたりしてたしね」
つくづくシュリは過酷な環境下で生きているのだとドゥーエは実感する。それでもこうして生き生きと生きているシュリは強くて眩しいとドゥーエは思った。
「さて、休憩したらもうひと頑張りしようか。ちょっと待ってて、おいしいもの食べさせてあげるから」
シュリは収穫したばかりの泥のついたにんじんを二本掴むと、裏口から家の中へ戻っていった。
一分もしないうちに、シュリはにんじんを手に再び姿を現した。台所で泥を洗い落としてきたのか、にんじんからはぽたぽたと透明な雫が滴り落ちている。
「ほら」
シュリは二本あるにんじんのうちの一本をドゥーエへと手渡した。シュリが生のままにんじんを齧っているのを見て、ドゥーエは眉間に皺を寄せる。
「それ、生だろう? 食えるのか?」
シュリはうん、と頷くと、
「食べられるよ。とれたてだし、甘くて美味しいよ」
ドゥーエも食べてみなよ、とシュリに促され、彼はにんじんを口に入れ、歯を立てた。ぼりぼりという気持ちのいい音と共に口内が控えめで穏やかな自然の甘さで満たされていく。
ちらりとドゥーエが隣を見ると、シュリは自分で収穫したにんじんを夢中で齧っていた。彼女自身の小動物じみた容貌も相まって、何だかうさぎみたいだなとドゥーエは思った。
シュリはいつだって一生懸命に生きている。それをもう少し近くで見ていたいような、守ってやりたいような気がした。シュリの元にいれば、長年自分が知らずに生きてきたいろいろなことを知ることができそうな気がした。
自分の中に芽生え始めた感情の名前をドゥーエはまだ知らない。それでも口の中のにんじんの甘さと、あたりに充満する土の香りを悪くないとドゥーエは思った。
◆◆◆
ふっと眠りの世界から意識を引き戻され、シュリは瞼を開いた。見慣れた家の天井が視界に像を結んでいく。背にはごつごつとした男の体の感触と温もりを感じる。
聴覚を満たすすうすうというドゥーエの寝息に心地よさと温かさを覚えながら、シュリはちらり、と窓の外へと視線をやる。まだ外は薄暗い。どうやら普段起きる時間よりも早く目覚めてしまったらしいと覚醒していくにつれてシュリは悟った。
現実を認識すると、すうっと波が引くように眠気が遠ざかっていく。再度目を閉じてみたが、寝直すことは叶いそうになかった。
(……そうだ)
隣で眠るドゥーエの寝息と鼓動を聞きながら、日が昇ってくるのを待つのも悪くはなかったが、せっかく目が覚めたのだからと、ドゥーエを起こしてしまわないように気をつけながら、シュリはそっとベッドを抜け出した。
すとん、と静かな部屋の中で微かな衣擦れの音を立てながら、シュリはベロア生地のスモーキーグリーンのネグリジェを脱いでいく。明け方の冷気に晒された肢体と頭をグレーのギンガムチェックのワンピースに通し、オークグレーのブーツに足を滑り込ませる。シュリはココアブラウンのケープを羽織り、自衛のためのナイフを腰に下げると、キィと小さくドアの蝶番を軋ませながら家の外へ出た。
朝が来る前の仄暗い闇を湛えた森の中をシュリは歩き出した。目覚めの刻(とき)を待つ森の中は静まり返っていて、金風が木々の間を吹き抜けていく音がやけに大きく聞こえた。
辺りには湿った土の匂いが充満している。夜露に濡れた落ち葉の下から覗く地面では、霜がきらきらと水晶のような無垢な光を放っていた。
出会ったときに深手を負っていたとはいえ、ドゥーエの傷の治りが遅いことにシュリは気づいていた。
基本的に自給自足の生活であることもあり、シュリが作る料理は野菜を使ったものに偏りがちだ。”人喰い”であるドゥーエには、人の肉を食べさせてやるのが一番であることくらい、シュリも知ってはいる。だからといって、ドゥーエのために誰かを殺すことも、自分の肉を分け与えることもシュリにはできそうになかった。
人の肉は無理だとしても、せめて何か少しでも栄養のあるものをドゥーエに食べさせてあげたいと思いながら、シュリは暗い森の中を危なげなく進んでいく。シュリは時折立ち止まっては、生い茂る木々の根元へと視線を走らせる。今の時期であれば、まだこの森に棲息する野鳥の卵が手に入るかもしれなかった。いつもよりも時間に余裕がある今日は、森の奥でドゥーエのために卵を探してみるつもりだった。
(こういう草むらの窪みに巣がありがちなはず……いくつか卵が手に入るようなら、じゃがいもとほうれん草を入れてオムレツに……)
時季が過ぎてほとんど花の落ちたハギの茂みをがさがさと探りながら歩き続けていると、ふいにシュリの聴覚にぐるるという低い唸り声が飛び込んできた。シュリははっとして背後を振り返り、顔を強張らせた。ふわふわと浮かれていた気分が焦りと緊張に呑み込まれていく。
(っ……オオカミっ……!)
食料が乏しくなる寒い時期、オオカミはパックと呼ばれる群れ単位で連携して狩りをする。今、シュリは自分を獲物として見定めたらしい八頭のオオカミたちに囲まれてしまっていた。卵探しに気を取られるあまりにオオカミに気づくことが遅れた己を呪い、シュリは歯噛みする。
オオカミたちによって、逃げ道はすべて封じられてしまっている。それに仮に逃げたとしても、自分とオオカミの足の速さを考えればすぐに追いつかれてしまうだろう。
(やるかしかない……!)
シュリは覚悟を決めて腰に吊るした短剣の柄に手をかける。手が恐怖にがたがたと震える。これで自分にできることなど高が知れてはいるものの、こんなところで無抵抗でオオカミたちの朝食になるのはごめんだった。
脳裏をちらりとドゥーエの顔が過った。なんでこんなときに、とシュリは戸惑いを覚えた。やだなあ、と小さく苦笑混じりに呟きながら、シュリは短剣を抜き放った。
(あたし……あいつと一緒に暮らすの、楽しいんだ。だから……)
こんな馬鹿な形でシュリが死んだと知ったら彼はどう思うのだろうか。どうするのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい。あいつがどうするかなんて、あたしの尺度なんかじゃ測れないっていうのに)
じわじわとオオカミたちが包囲を狭めてくる。彼らはシュリに飛びかかるタイミングを図っているように見えた。
ふいにシュリを取り囲むオオカミたちの一頭が地面を蹴って飛び上がった。こちらへ向かって、残像を描きながら滑空してくるその姿がやけにゆっくりと視界に映る。獰猛さを孕んだ静謐な金の双眸と視線が交錯する。冷たい死の気配が迫ってきているのを感じる。
オオカミから放たれる悠然とした空気感に圧倒されていたシュリは我に返ると、手にした短剣を構える。シュリに食らいつこうとするオオカミの大きく開けられた口腔の粘膜がぬらりとした赤い光沢を放っていた。
他のオオカミたちも、シュリを一網打尽にするべく、彼女へと向かって跳躍する。間近に迫ったオオカミへと向かって短剣を闇雲に突き出すが、多勢に無勢だ。とてもではないがこの場を生きて切り抜けられそうにはない。
そのとき、シュリへと向かってきていたオオカミが地面に叩きつけられた。え、とシュリは息を呑む。
「シュリ!」
切羽詰まった声で彼女の名を呼んだのは険しい表情を浮かべたドゥーエだった。オオカミたちとシュリの間に割って入ると、彼はシュリの手から有無を言わさずに短剣をもぎ取った。そして、彼は流れるような卓越した動きで、短剣を閃かせてオオカミたちを切り刻んでいく。やがて、シュリに襲いかかってきていたオオカミたちは、血溜まりの中に倒れ伏し、動かなくなった。
「シュリ……無事か?」
短剣の刃に付着したオオカミの血を外套の裾で拭いながら、ドゥーエはシュリを振り返った。機嫌の悪さを隠す気もないようで、その端正な顔は顰められている。
「ドゥーエ……助けて、くれたんだよね……? その……何か、怒ってる……?」
「お前な……」
そう言ったドゥーエの深紅の双眸の奥に怒りの炎が静かに揺れた。寝乱れたままの黒髪の隙間から覗く白い額には青筋が浮かんでいる。彼は怒気を孕んだ切れ長の目でシュリを睨み据えると、感情を押し殺した低い声で問うた。
「どうして、一人で出かけた? 森のこの辺りはオオカミたちの縄張りだ。迂闊に足を踏み入れれば、お前のような非力な小娘など、食われて当然だということくらいわかっているだろう?」
「それは……そう、だけど……」
ドゥーエの指摘にシュリは口籠る。
「でも、ドゥーエ、あたしが起きたとき、ぐっすり寝てたし……それに、今朝はちょっとうっかりしちゃったっていうか……」
「俺がこうしてお前を見つけられなかったら、今ごろどうなっていたかわかっているのか! 大体、目が覚めたらお前がいなくなっていて、家の近くやいつもの川の辺りを探しても見つからなかったときの俺の気持ちがわかるか!? どれだけ心配したと思っている! ああやってオオカミに襲われているのを見つけたとき、どれだけ肝が冷えたと思っているんだ!」
シュリの言葉を遮り、思わずといったふうにドゥーエは声を荒らげる。畳み掛けるように自分を心配する言葉を並べ立てていくドゥーエへとシュリは素直に頭を下げた。
「ごめん……」
ふう、と嘆息すると、ドゥーエは肩をすくめた。ふっと鋭さを帯びていた彼の表情が解け、柔らかく和らいでいく。ドゥーエは短剣をシュリに返しながら、
「ともかく、無事でよかった。だが、もうこんなふうに心配させないでくれ。何か用があって、危ない場所に立ち入らなければならないなら、俺を頼れ。仮に今朝みたいに俺が眠っていたとしても、起こしてくれて構わない。お前に何かあったら、俺は……」
ドゥーエの目が憂いで翳る。シュリは不思議そうに彼の顔を覗き込み、
「……ドゥーエ?」
「……何でもない」
気にするな、と言いながらドゥーエはごまかすように低い位置にあるシュリの頭へと手を伸ばすと、彼女の黒い髪をくしゃりとかき混ぜた。手に触れた彼女の存在とぬくもりが失われずに済んだことにドゥーエは安堵を覚えていた。
一体、自分は今、何を言いかけたのだろうか。なぜ自分はこんなにも彼女に執着してしまっているのだろうか。
(シュリのことなど、最後には”喰って”しまえばいいと思っていたはずなのに、シュリが危険な目に遭うことを看過できなくなっている……何故、こんな……?)
心の深淵にあるはずのその答えを、ドゥーエは知らなくていいと己の思考に蓋をする。その正体を知ってしまえば、後戻りできなくなってしまうような気がした。
帰るぞ、と冷え切ったシュリの右手首を強引に掴むとドゥーエは踵を返した。
朝を迎えられなかったオオカミたちの骸の上に、金色の光とともに死の静寂が降り注いでいた。
その日の夕飯の後、シュリはダイニングテーブルで針と糸を手に繕い物をしていた。向かいに座ったドゥーエは、今朝、オオカミの群れに対処した際に汚してしまったシュリの短剣の手入れをしている。二人の間に置かれたランプの火が時折ゆらゆらと揺れる。
シュリの手に握られたドゥーエの外套には、オオカミに襲われた彼女を助けるために早朝に大立ち回りを演じた際に、どこかに引っ掛けたらしい裂け目ができていた。そのため、朝のうちに洗濯したそれをシュリは針を手に繕っていた。
(うーん……ここは前にも破れた跡があるし、裏から当て布をして補強するべきかな……?)
シュリは外套の袖にできた裂け目を見ながら思案を巡らせる。確か使っていない端切れが戸棚にあったはずだと彼女は椅子から立ち上がった。
部屋の奥のスギの戸棚を開け、シュリは一番上の段から端切れの入った紙袋を取り出す。ドゥーエの外套と合わせても目立たない黒い端切れを取り出しながら、シュリはふと今日の礼をドゥーエに言っていないことを思い出した。
(あたし……ドゥーエにごめんって謝りはしたけど、ありがとうって言ってないな……)
シュリは何とはなしに端切れの入った袋を漁る。白と赤のバイアスボーダーが走る紺色の布に目を止めると、シュリはそれを引っ張り出した。
(そうだ、これでハンカチでも作って、ドゥーエにあげようかな。今日のせめてものお礼に)
それはとてもいい思いつきなような気がして、シュリは紙袋を戸棚に押し込むと、軽い足取りでダイニングへと戻っていく。
「ん? どうした? 妙に機嫌がいいな」
羊毛で短剣の刀身を磨いていたドゥーエは不思議そうに顔を上げる。何でもない、と含み笑いをするとシュリは椅子に腰を下ろし、外套の裂け目を直し始める。
外套の裏から黒い布を当てると、シュリは同色の糸を通した針で裂け目の周りをかがっていく。慣れた手つきで針を運びながらも、心がそわそわとするのをシュリは感じていた。
(ハンカチ、どうしようかな。せっかくだから刺繍とか入れちゃおうかな)
シュリは布と布を縫い合わせながらもちらりと窓辺に目をやる。ベッドサイドの出窓では、鉢植えのポインセチアの苞葉が赤く色づき始めている。
(そういえば、お母さんが昔、ポインセチアの花言葉は『幸運を祈る』だって教えてくれたっけ……)
近い将来、ドゥーエはきっとここからいなくなる。ドゥーエと過ごす今を心地よく感じている以上、直視したくはないけれど、受け入れなければならない現実だった。
せめて、一緒にいられなくなる時が来ても、長く続く彼のこの先の幸せを祈りたかった。そして、あわよくばハンカチが彼がこの日々を思い出すためのよすがになればいいともシュリは心の隅で考えていた。
シュリはドゥーエの外套を直し終えると、紺色の端切れを手に取った。アクセントになるように、白い糸でぐるりと布の外周を一定の間隔で縫い上げていく。
糸の末端の始末をすると、シュリは針を縫針から刺繍針へと持ち替えた。針穴に赤い糸を通すと、フィッシュボーンステッチで苞葉を布の上に描き始める。
針が布を抜けていく音。短剣の刃が磨き上げられていく音。会話もなく、それぞれの時間を過ごしているだけなのに、それがかけがえのないもののようにシュリには思えた。
(ああ……無くしたくないなあ)
ドゥーエのいる日常を。二人でいる時間を。寄り添い合う暖かさを。
もう何年も忘れていたこの感覚をまた失いたくない、シュリはそう思いながら、黄色の糸でポインセチアの小さな花々を布に刻んでいく。
二人で過ごす秋の夜長の風景をダイニングテーブルの上のランプが温かく照らし出している。真鍮の砂時計が橙色の灯りを反射してきらきらと光っていた。
◆◆◆
夜明け前の森でシュリがオオカミに襲われた一件から、数日が経った。普段通り、朝食と洗濯を済ませた後、出かける支度をしているのをシュリはドゥーエに見咎められた。
「出かけるのか?」
シュリは部屋の奥の戸棚から薬の入った小瓶の数々を取り出して木箱に詰めながら、
「うん。薬をノルスに卸しにいくんだ」
「……そうか」
ノルスとは、この森の近くにある田舎町である。ドゥーエがこの森に逃げ込む前に人を襲って失敗した場所でもある。
ただでさえ“人喰い”という人間に忌まれる存在である上に、ノルスの自警団によって警戒されているであろうドゥーエは、シュリと共にノルスへ行くわけにはいかない。シュリがオオカミに襲われた先日の一件が頭を掠めたが、ドゥーエが彼女に同行を申し出るわけにはいかなかった。
「ドゥーエ、あたし、今日一日留守にするから、家のことお願いしていい? 掃除とか薪(たきぎ)割りとか、野菜や薬草の世話とかさ。あと、日が傾いてきたら、湿気る前に洗濯物片付けてくれると助かるかも」
ドゥーエの憂いと葛藤を知ってか知らずか、木箱に薬の瓶を詰める手を止めると明るい声でシュリはそう言った。
「……ああ」
「お土産何がいい? 何か欲しいものがあれば、買ってきてあげる」
「別にそんなことは気にしなくていい。それより、そちらの箱も持っていくんだろう? 荷車に積んでおいてやる」
シュリの横に積み上がった木箱の山をドゥーエは手で示すと、オーク材のダイニングチェアから立ち上がる。ドゥーエは箱の山を軽々と片手で持ち上げると、台所横の裏口の扉から外へ出ていった。
ありがと、とシュリは艶やかで美しい黒髪が流れる長身痩躯の背中を見送ると、中身を詰め終わった木箱の蓋を閉める。壁にかけた使い古したキャメルのサッチェルバッグを取ってくると、財布と昼食用のナッツの詰まった巾着、水の入った山羊革の水筒を放り込んだ。
ココアブラウンのケープを羽織って短剣を腰に吊ると、サッチェルバッグを背負う。シュリはずっしりと重い木箱を抱えると、ドゥーエを追って裏口から外へ出ていった。
「それで全部か?」
先に運んできた分の木箱を積み込んでいたドゥーエは、シュリに気づいて振り返る。うん、と頷くと、ドゥーエは手を伸ばしてシュリから木箱を奪い取った。
「ごめんね、寒いのにこんなことやらせちゃって」
「気にするな。別にこれは俺がやりたくてやっていることだしな」
「へ……?」
どういうこと、とシュリが聞き返そうとすると、ドゥーエは照れ臭いのか、居心地悪そうに顔を背けた。ドゥーエはシュリから奪った木箱を荷車に積み込むと、箱が動かないように縄で固定していく。できたぞ、と少し気恥ずかしそうにシュリに一瞥をくれるとぼそりと口の中で呟いた。
「……気をつけて行ってこい」
「うん、ありがと」
シュリは微笑んだ。荷車の持ち手を掴み、行ってきます、と彼女が口にすると、ドゥーエは呆気に取られた顔をした。そして、一瞬の後、彼は口の端を吊り上げると、ぎこちなくシュリへと対になる言葉を返す。
「……あ、ああ。その……いってらっしゃい」
慣れない言葉の響きにくすぐったさを覚えてシュリはくすりと小さく笑った。つられてふっと声を漏らしたドゥーエの顔は、冬の蒼穹のように透明に澄んで美しかった。
(ドゥーエってこんなふうにも笑えるんだ)
きれいだ、と思いながらシュリはドゥーエへと小さく手を上げて見せる。そして、持ち手を掴み直すと、シュリはずっしりと重い荷車を引いて、森の出口へと向かって歩き出した。
ノルスの町外れにある薬問屋の前に荷車を止めたシュリは、コツコツと扉を叩いた。
「キサラさん、シュリです。今月分の薬の納品に来ました」
あいよ、と扉の向こうで嗄れた声が返事をした。程なくして、キィと扉が開き、一枚の書類を手にした小柄な老婆が姿を現した。
シュリは通常の相場の三割引きという条件で、キサラの店と契約をしている。シュリにとって不利な契約内容であることは間違いないが、それでも他に生きていく手段を持たないシュリにとって、このノルスの町では破格の条件であることは間違いなかった。
「キサラさん、こちらが今月分です。確認をお願いできますか?」
シュリは荷車に積まれた木箱の蓋をすべて開くと、キサラに納入内容の確認を促した。キサラは銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーの双眸を細めると、手に持った書類の内容と荷車の薬品を照らし合わせていく。彼女はシュリが持ってきた薬を確認し終えると、
「今月分も問題ないよ。裏の倉庫に運び入れておいておくれ」
「わかりました」
シュリは荷車から木箱を下ろすと、店舗裏にある倉庫へと運んでいく。シュリが倉庫と荷車の往復を終えると、店の前でシュリの作業が終わるのを待っていたキサラから金貨の入った布袋を手渡された。袋の口を開けて中を確認すると、いつも通り金貨が十枚入っている。
「確かに受け取りました。キサラさん、もうしばらくここに荷車を止めておいてもいいですか? 帰る前に少し買い物をしてきたくて」
シュリの言葉にキサラは露骨に嫌そうな表情を浮かべると、
「構わないが、何かされてもわたしゃ責任取らないからね。それでもいいなら勝手にしな」
ありがとうございます、と頭を下げるとシュリはその場を後にした。
ドゥーエは土産など気にしなくてもいいと言っていたが、彼のために何か買って帰りたかった。普段なら因縁のあるこの町でなく、ひとつ先のシュトレーの街で必要な買い物をしていたが、今日は移動のための時間をドゥーエの喜びそうなものをじっくりと吟味する時間に充てたかった。
(人間のものは無理だとしても、ドゥーエはやっぱりお肉がいいのかな? 奮発していいお肉買って帰ってワインで煮込んで……そうだ、チーズも用意して、上にかけて焼いたら美味しいかも)
そんなことを考えながら、シュリは軽い足取りで町の通りを進んでいく。ドゥーエがどんな反応をするか、想像するだけで心が自然と弾んだ。
商店が軒を連ねる界隈に足を踏み入れると、肉を扱う店をシュリは探した。
きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら歩いていると、シュリは突然肩口に衝撃を覚えてたたらを踏んだ。背後を振り返ると、シュリにぶつかったらしいネイビーのキルティングコートの男が立ち去っていくのが視界に入った。聞こえよがしに舌打ちをするその男は、どうやらわざとぶつかってきたようで、悪びれる様子もない。
辺りの店からちらちらと無遠慮な視線がシュリへと投げかけられていた。通りすがりの人々も足を止め、悪意を孕んだ目を向けてくる。
「ほら、あの子……エフォロスの森に住み着いてる……」
「ああ、気味が悪いわよね……関わると不幸が訪れるとかっていう……あの子のせいでエレヌさんは弟さんを亡くしたっていうし……」
「何でもあの子の母親って禍いを振り撒く魔女だったって言うわよ……魔女の子は魔女だもの、何しにきたか知らないけど、早くこの町から出て行ってくれないかしら。安心して外を出歩けないわ」
ひそひそと漏れ聞こえてくるシュリを嫌悪する言葉に、彼女はすっと現実に引き戻された。ドゥーエのことを考えて高揚していた気持ちが、冷や水を浴びせられたかのようにすうっと急速に冷えていく。
こつん、とシュリの背中に何かがぶつけられた。足元を見ると石が転がっている。
それを皮切りに、シュリへと一斉に物が投げつけられ始めた。出ていけという言葉と共に心身に与えられる容赦のない痛みにシュリは歯を食いしばって耐える。目の奥が熱くなり、鼻腔につんと塩辛いものを感じる。
(駄目、泣いたら駄目だ。あたしは何もしていない。なのに、ここで泣いたりしたら、ノルスの人たちが言っていることが事実だって認めたことになる)
浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。自分がノルスをうろつけば、嫌な思いをすることくらいわかりきったことのはずだった。買い物であれば、日を改めていつも通りもう少し足を伸ばし、シュリのことを知る人の少ない隣街のシュトレーまで行くべきだった。
料理に使う酒の瓶が飛んできて、シュリの左頬に叩きつけられた。痛みを感じた頬に手をやると、小さなガラスの破片が突き立っていた。シュリは頬に手をやってガラスを取り除くと、無造作に地面に放り捨てた。頬を濡らしているぬるりとした液体が酒なのか、傷口から流れる血液なのか確かめる気にはなれなかった。
シュリは痛みに耐えながらも、背筋をしゃんと伸ばした。相乗的に激しくなっていく、振るわれる覚えのない二種類の暴力に曝されながら、無言で前を見据えてシュリは大股にその場を歩き去った。
遠くから車輪の音と一人分の足音が聞こえてくるのを聴覚に捉え、ドゥーエは鍋をかき混ぜる手を止めた。そのときのドゥーエは、留守にしているシュリのために、彼女が育てているカブとブロッコリーでスープを作っているところだった。
(シュリが帰ってきたか……? だが、それにしては、どこかを庇っているような歩き方なような……)
嫌な予感が頭を過り、ドゥーエは手にしていた匙を投げ出した。長い脚で大股に台所を横切り、半ば叩きつけるようにして裏口の扉を開けると、彼は外へと飛び出した。
ちょうど家に着いたところだったのか、家の横にシュリが引いていった荷車が止まっていた。
「シュリ!」
黒髪の少女の姿を認めると、ドゥーエは彼女の名を呼んだ。痛いほどに冷たい空気に、声と共に白い息が霧散していく。
「ドゥーエ……」
へたり、とシュリの華奢な体がその場に頽れる。ドゥーエは彼女に駆け寄るとその体を抱き止めた。
「シュリ、お前どうしたんだ、それは……!」
シュリは全身に傷を負っていた。今朝はきちんとしていたはずの服が、あちこち汚れたり裂けたりしている。左肩がぐっしょりと濡れ、酒精と血液の入り混じった匂いが漂っている。彼女の頬を伝う血の色に、ごくりとドゥーエの喉が鳴る。
美味そうな匂いがする。口の中に唾が込み上げてくる。シュリの頬を汚す赤い色は、ドゥーエの”人喰い”としての本能を刺激するに充分なものだった。
ノルスの自警団の男を”喰って”からしばらくが経っていた。そろそろ次の”食事”をするべきタイミングが近づいていた。
シュリの肉はきっと柔らかくて甘いだろう。流れる血は極上の美酒のように芳醇で美味いに違いない。彼女を”喰え”ば、治りの遅い身体の傷の数々も癒えるだろう。
けれど、ただでさえ傷ついている、腕の中のこのか弱い生き物の顔がこれ以上絶望に歪むのを見たくない気がした。ドゥーエは頭の中を占拠する煩悩をかぶりを振って追い払う。
かすかな渇きの気配がちろりと指先を灼くような感触があったが無視をする。今はそんなことを気にしている場合ではない。シュリになにがあったのか、それが今のドゥーエにとっては何より重要だった。
「ノルスで何があった! 何をされた!」
何でもないよ、とシュリは力なく微笑んだ。その顔がドゥーエには泣き出す寸前の顔に見えた。ドゥーエはたまらなくなって、シュリの冷え切った傷だらけの体を抱きしめた。
「何でもない。あたしは大丈夫だから」
「大丈夫って顔じゃないだろう!」
思わずドゥーエの語気が荒くなる。腕の中のシュリの黒い瞳には痛みと悲しみの入り混じった色が揺れている。
とん、とシュリはドゥーエの胸元に血で汚れた額をつける。冷えた肌に伝わるドゥーエの鼓動と温もりに、シュリは自分の中を渦巻いていた感情が解けて和らいでいくのを感じた。
「心配させてごめんね。あたしのこと、気にしてくれてありがとう」
シュリは小さくそう呟いた。まったくだ、とドゥーエは苦々しく溜息を漏らす。無防備に自分の胸に身を預ける少女を何となく持て余して、ドゥーエは彼女の髪を壊れものを扱うようにそっと撫でた。
「何はともあれ、そのままでは風邪を引く。さっさと家の中に入って着替えて、温かい茶でも飲め」
そう言ってドゥーエが自分からシュリを引き剥がそうとすると、くりくりとした小動物めいた目で彼女は彼を見上げ、少し甘えたような声音で、
「ドゥーエが淹れてくれるの?」
「味は保証しないがな。薄かったり渋かったりしても文句は受け付けない」
ドゥーエはぶっきらぼうにそう言うと、シュリの冷たい手を握って立ち上がらせる。行くぞ、と彼は少し荒れた小さな手を引いて、彼女と共に家の中へと戻っていった。
終わりかけた秋の夜の闇に冷たく透き通った静寂が降りていた。
「ほら、飲め」
色褪せてはいるけれど清潔なリネンのラベンダー色のワンピースにシュリが着替え終えると、ドゥーエは茶の入ったカップをダイニングテーブルに置いた。シュリはウエストラインのリボンを結び、汚れた衣服をかごに放り込むと、テーブルへと着く。
「あったかい……」
カップの中の琥珀色の液体に口をつけたシュリの口から、思わずそんな言葉がこぼれ落ちた。冷え切った心と体に、ドゥーエの優しい心遣いが染み渡っていく気がした。
「……夕飯。スープがあるが、食うか?」
ぼそりとドゥーエがそんなことを聞いてきて、シュリは目を瞬かせた。
「ドゥーエが作ってくれたの?」
「美味いかどうかは知らんがな。それで、どうする?」
もちろん食べる、とシュリは大きく頷いた。ドゥーエが自分のために食事を用意して待っていてくれたことが少し意外でもあり、その心遣いが嬉しくもあった。
「なら、少し待っていろ」
照れくさいのか、ドゥーエはシュリと目を合わさずにそう言うと、壁際のスギの戸棚から木の椀と匙を二つずつ取り出した。ドゥーエは台所の竃にかけられた鍋からスープをよそって持ってくると、シュリの手に椀と匙を渡した。ドゥーエも自分の分の椀と匙を手に、テーブルを挟んでシュリの向かい側に腰を下ろした。
「いただきます」
シュリは両手を合わせ、食前の祈りを捧げると、匙を手に取る。匙で椀の中の液体を掬うと、シュリはそれを口に運んだ。
「美味しいね。優しい味がする」
喉を滑り落ちていくカブとブロッコリーのスープの味を感じながらシュリがしみじみとそう口にすると、ふん、とドゥーエは鼻を鳴らす。
「……塩辛いだけだろう」
「そんなことないよ。食べたらわかるもん。ドゥーエがあたしのために作ってくれたんだって」
「俺の分のついでだ。そもそも食事など、一人分作るのも二人分作るのも大して手間は変わらんからな」
その言葉は嘘だとシュリは思った。”人喰い”のドゥーエにとって、普通の人間と同じ食事など嗜好品程度の意味しかなく、必ずしも必要なものではない。けれど、その優しく不器用な嘘を糾弾する気にはなれなかった。
「いいよ、そういうことにしておいてあげる」
「お前なあ……」
ドゥーエは何か言いたげに憮然とした顔をしていたが、諦めたようにスープを啜り始めた。
いつの間にか自分の日常にいるのが当たり前になっていた彼の存在。誰かと囲む食卓。質素でも一人でないというだけで豊かな味わいに変わる食事。
何気ないはずなのに自分にとっては何よりも得難いそんな一つひとつに心が緩んでいき、シュリの口からぽろりと言葉が転がり出た。
「あのね、あたしさ」
「……ん?」
短く相槌を打つと、ドゥーエはシュリに言葉の続きを促した。
「この森にこうやって一人で住んでるせいでノルスの人たちには気持ち悪がられてるんだよね。死んだお母さんが流れ者の薬師だったのもあってさ。あたしは禍いを振り撒く魔女の子だって、ノルスでは言われてる。
ノルスで生まれ育ったお父さんが”人喰い”に喰われて殺されたのは、悪い魔女であるお母さんなんかと結婚したからだって、お母さんの娘であるあたしも魔女だからだって言われてるんだ」
ぽつぽつとシュリの口から紡がれる言葉に、ドゥーエは食事の手を止め、眉を顰める。
「そんなの言いがかりもいいところだろう。無茶苦茶だ」
「あたしもそう思うよ。だけど、人は何かあれば、それに原因や理由をわかりやすい形で求めずにはいられないものだから。だから……弱い存在――流れ者のお母さんや身寄りの亡くなったあたしがその標的になったっていうだけ」
「つまり、今日のあれは……」
うん、と悲しげにシュリの目が翳った。
「薬を納品に行った後、ちょっと用事があって町の中を歩いてたら、あたしのことをよく思わない人たちに物を投げつけられちゃって。まあ、ノルスに行くとたまにあることだから、あのくらいのこと、あたしはどうでもいいって思ってる」
「よくない」
ドゥーエはシュリの言葉を遮ると、じっと真摯な目で彼女を見据えた。
「俺がよくない。謂れのないことでそうやってお前が傷つくのは俺は嫌だ。それにお前がそんな顔をするのを俺は黙って見ていられない」
ありがと、とシュリは淡くはにかんだような笑みを浮かべると、ドゥーエの方へ手を伸ばす。彼女はかさついた小さな手でドゥーエの手にそっと触れると、
「そんなふうに言ってくれて、何より今ここにドゥーエ――ありがとうって言える人がいてくれることが嬉しい。あたしがノルスで何て言われてようと、どう思われていようと、ただそれだけのことでどんなことだってちっぽけなことだって思えちゃう」
「……そうか」
今し方自分が口走った小っ恥ずかしい台詞のらしくなさに、髪の中で尖った耳の先をほんのりと赤らめながら、ドゥーエは再びスープに口をつける。すっから冷めてしまったそれは、味付けを間違えたせいで塩辛いはずなのに、なぜか砂糖を入れすぎたレモンティーのような味がする気がした。
あと少し踏み込めば均衡が崩れてしまいそうな危うさと、一匙のくすぐったさを孕んだ空気が暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる室内で揺れていた。
秋色に染め上げられた落ち葉をオークグレーのレースアップブーツの底でかさりと踏みしめながら、彼女――シュリは素焼きの甕(かめ)を抱えて歩き出した。喉がひりつくような冷たく尖った早朝の空気に深まる秋を感じながら、シュリは慣れた足取りで森の中を進んでいく。霜風に揺れる野草に降りた朝露が透明な輝きを放っていた。
清冽な朝の静けさの中、一日の始まりを歌い上げる野鳥の声が響いていた。森に住む動物たちが緩やかに活動を始め、今日という日が動き始めていく。
生き物たちの営みが息づく森の中をシュリは奥へと向かって歩いて行く。ニシキギの鮮やかな赤色の茂みをかき分けて、小川のほとりへと辿り着くと、シュリは膝を折ってかがみ込んだ。
腕に抱いていた甕を川の中に下ろして水を汲むと、シュリは凍てつく水面に手を突っ込んだ。寒さで赤く悴んだ手で水を掬いあげると、ぱしゃぱしゃと顔を洗う。ひどく冷たいけれど、清く甘やかな水の感触に、ほんの少し残っていた眠気の靄が晴れていく。
小さな花の刺繍が散りばめられた茶色のチュニックワンピースの袖で、ぽたぽたと雫が滴る顔を拭うと、ずっしりと重い甕(かめ)を抱えてシュリは立ち上がった。そういえば来るときに煮込むと美味しいキノコが生えていたな、などということを思い出しながら踵を返そうとして、シュリは違和感に気づいた。
妙に森の中がざわめいていた。本来ならばここにいないはずの異質な存在に、森に住まう獣たちが騒いでいるようにシュリには感じられた。
(何か、いる……? たぶん、そんなに遠くない)
シュリは水の入った甕を地面に下ろす。甕の中で水がちゃぷりと小さな音を立てた。
違和感の正体を確かめるべく、なるべく音を立てないように気を配りながら、シュリはニシキギの茂みをかき分けて、木立の中へと慎重に足を踏み入れた。気を張りながら、さざめきの中心へとシュリは歩を進めていく。
(……人? たぶん、怪我をしてる……!)
背の高い男がうつ伏せに倒れ伏せていた。身に纏った黒い外套は汚れてボロ同然にずたずたに裂けてしまっている。かなり出血したのか、男からは濃い血の匂いがした。
獣に襲われたときのために持ち歩いている短剣の存在をそっと右手で確かめながら、シュリは男へと近づき、身を屈めた。
ひどく美しい顔立ちの男だった。「っん……」薄い唇から時折漏れる息には思わしげな色気があって、冷たく圧倒的な美貌に対してアンバランスな艶めかしさを放っていた。
傷だらけの白い肌は、男性のものとは思えないほどにきめが細やかで整っていた。長く豊かな睫毛に覆われた瞼をそっとシュリは指で押し上げる。気を失っているらしく、開いた瞳孔の周りを縁取る虹彩は血と同じ赤色をしていた。
背に流れる長い黒髪は、適当にしか手入れしていないシュリのものとは異なり、艶やかでさらさらとしている。年齢は恐らく自分よりも一回り上くらい――二十代後半だろう。
シュリは男の体を仰向けにすると、彼の背中の下に膝を突っ込んだ。意識のない男の頭の下に自分の手を差し入れ、手首の辺りに重心を集めると、シュリは彼の重い上体を起こし、手近な木の幹へと寄り掛からせる。
男の足の下に自分の膝を差し入れると、シュリは脱力した男の両腕を自分の背へと乗せる。左手を膝の裏、右手を背中に回すと、男の頭を下に傾けながらシュリは立ち上がる。
(重っ……)
腕に感じるずっしりとした重さにふらつきながらも、シュリはよたよたと歩き出す。
こんな朝っぱらから何をしているのだろうと、自分のお人よしっぷりを苦々しく思いつつも、がさがさと落ち葉を踏み鳴らしながら、シュリは思いがけない拾得物を抱えて家路を辿った。
茂みを彩るオレンジ色の小さな花々が、ほのかに甘い秋の香りを漂わせていた。
シュリは自分の暮らす小屋へと帰り着くと、まだ微かに自分の温もりが残るベッドの上へと男の体を横たえた。ずっしりとした重みから解放されたシュリはふう、と息を吐いた。
ベッドに横たえた男の体へとシュリは視線を走らせる。まずは傷の具合を見ると同時にまずは傷口を洗ってしまいたかったが、甕(かめ)を河原に置いてきてしまったことをシュリは思い出した。
いけない、とシュリは再び扉を開けて外へ出る。足早に先ほどの河原に向かい、水の入った素焼きの甕を拾い上げたとき、自身のらしくなさに苦笑いが滲んだ。孤独な生活に自分以外の存在が急に入り込んだことで何故だか気持ちが浮ついてしまっているようだった。
(……らしくない。本当に、らしくない)
甕を抱いてかぶりを振ると、シュリは踵を返し、再び家への道を急いだ。
シュリは再び帰宅すると、ずっしりと重い甕を台所の隅に下ろした。部屋の奥にあるスギの無垢材の戸棚から、オフホワイトの琺瑯のたらいを持ってくると、甕の中身を注ぎ替えてシュリはベッドで眠る男の元へと向かった。ベッドサイドで膝立ちになり、たらいを足下に置くと、彼女は着せたままになっていた男のぼろぼろの外套を慎重に剥いでいく。
血のシミが大きくできたグレーのベスト。銀糸のストライプの入った黒のシャツにはところどころ大きな裂け目ができてしまっている。
血で赤黒く染まった上の肌着を脱がせると、シュリは続けて履かせたままだった黒いブーツの革紐を解いていく。紐を解き終えると、泥と血で汚れたブーツを男の足から脱がせてベッドの脇へと揃えて置いた。
シュリは無駄な肉のない男の腰へと手を回すと、黒い蛇革のベルトを引き抜いた。そのままシュリは躊躇うことなく、男の汚れてかぎ裂きのできた黒いテーパードパンツを脱がせていった。
下半身に肌着を一枚残すのみの姿になった男の、程よく引き締まり、うっすらと筋肉のついた体には、紫色に変色した打撲傷や切り付けられたり矢で射られたりしたのだろうと思われる傷があった。生まれて初めて目にする、亡くなった父のものではない若い男の裸体に少しどぎまぎしつつも、そんな場合ではないとシュリは頭の中から煩悩を追い払う。
シュリは傷の深さを目で測りながら、たらいの水で男の傷口をなるべく刺激しないように優しく洗っていった。
(血はほとんど止まりかけているみたいだから、消毒して、化膿しないように軟膏塗って……殴られたところは湿布貼っておいて、と……。起きた後に飲ませるために、痛み止めの薬も用意しておかないと)
シュリは立ち上がると、ダイニングの壁際にある戸棚からいくつかの薬品の瓶と包帯を持って男の眠るベッドへと戻ってきた。瓶の蓋を開け、ピンセットで綿を摘み上げて薬品に浸す。シュリはそれをぽんぽんと軽く傷口に叩き込み、清潔なガーゼを当てる。そして、打撲の傷には、ハーブの抽出液に浸して作った湿布を貼り、包帯を巻いていった。
こんな人の寄り付かない森の中で一人で暮らしている以上、誰に見られているわけではないが、その格好の美しく若い男と二人きりというのは何となく体裁が悪いような気がした。それに今の季節、このままにしておけばおそらく風邪をひいてしまう。
外の納屋に昔、父が着ていた服があったはずだと思いながら、シュリは立ち上がった。長らく仕舞い込んでいたので少し埃っぽいかもしれないが、ないよりはマシだろう。
(あの男のせいであたしの服も汚れちゃったし、後で着替えないと……。あいつが着てた服も血まみれだし、朝ごはんの後にあたしの服のついでに洗って……)
そんなことを考えながら、台所脇の裏口の扉から外へ出ようとしたシュリははたとして足を止める。自分の世話焼き具合にほとほと嫌気が差して、シュリは顎のラインで切りそろえた自分の黒髪をわしゃわしゃと書き毟った。
(あいつ……男のくせに髪も綺麗だったな……。あたしなんかとは大違い)
何だかなあ、と複雑な気分になりながら、シュリは台所の脇にある裏口の扉から外に出て、小屋の横の納屋を開ける。
鍬や小鎌などといった農作業に使う道具の類。季節ごとに整頓された今は着ていない衣類のかごたち。鋸や金槌などといった大工道具に使う工具類。普段は使っていないかごや食器類。幼いころ、両親がシュリのために作ってくれた薄汚れてくたびれた人形や玩具たち。
様々なものが綺麗に整頓されてしまわれた納屋の中に上体を突っ込んで、シュリは棚を漁り始める。埃っぽい空気にくしゅん、と小さくくしゃみが漏れ、近いうちに一度掃除と換気をしたほうが良さそうだなと頭の片隅をそんな思考が過った。
「あった」
上から二段目の棚の奥に、父親の古い衣類を纏めた籠を見つけたシュリは小さく呟いた。今の時期でも着られそうな服を見繕って埃を払い落とすと、彼女は桟がクロスした木製の扉を閉めた。
シュリは家の中に戻ると、あまり見ないようにしながら意識を失ったままの男に昔、父親が着ていた服を着せていった。男の顔は血の気を失ってひんやりと冷たいままだったが、シュリが処置をしたことで少し楽になったのか、穏やかな表情をしていた。
まあいいか、と半ば諦めた気分になりながら、シュリは自分も着替えようとベッドの下から着替えの入った籠を引っ張り出す。
(……大丈夫だよね。まだ寝てるみたいだし)
まだ意識の戻らない以上、この場で着替えたところでこの男に見られることはない。それに、もし仮に見られたとしてもなにか困るわけではない。
いつまでも男の血で汚れた服を身に纏っていたくなくて、ウエストラインに茶色の糸で刺繍が施されたベージュのチュニックワンピースを手に取ると、シュリはばさりと着ていた服をその場で脱ぐ。暖炉に火を入れているとはいえ、肌着から伸びた細い手足に寒さを覚え、彼女はすぐに着替えに頭を突っ込んだ。
チュニックワンピースの袖から手を出すと、シュリは自分と男の汚れた衣服を纏めて汚れ物用の籠に放り込む。男の血で汚れてしまったシーツも洗ってしまいたかったが、今朝のところは難しそうだった。
(それにしても、この人……誰も寄り付かないこの森の中で何をしてたんだろう? 切り傷に矢傷……うっかり迷い込んで、獣に襲われたってわけでもなさそうだし)
シュリは男の治療に使った薬品類を片付けようとして、ベッドの脇へと手を伸ばす。何とはなしに眠る男の髪にシュリが触れると、人間のものとは異なる特徴的な耳が露わになった。
「え……?」
思わず口をついて出た声が震えた。もしかして、とシュリは思った。彼女は自身の推測の裏付けを取るべく、男の上唇をそっと捲る。やたらと発達した犬歯が顔を出し、やっぱり、と彼女は小さく呟いた。
(尖った長い耳に鋭い牙、それに人間離れしたこの美貌……! この人は……!)
思い至った真実の悍ましさに、シュリの表情が強張っていく。
シュリが助けてしまったこの男は”人喰い”と呼ばれる化け物だった。彼の身体につけられた傷の数々は、人間たちに追われてつけられたものだったのだろうとシュリは遅まきながら理解する。
シュリはシャツの襟元から露出する男の首筋へと手を這わせる。ごつごつとした喉の感触と、頸動脈の拍動にシュリは怯む。しかし、今、彼を始末してしまわなければ、殺されるのは自分のほうだ。
(……駄目だ。たとえ”人喰い”でも、こんな寝込みを襲って殺すような卑怯な真似、あたしにはできない)
これだけの手負いだ。焦らずとも、彼を殺すのは今でなくても構わない。シュリはそう思い直して男の首から手を離すと、嘆息した。甘いという自覚はあった。
(知らなかったとはいえ、拾ってきちゃった以上、目が覚めるまで面倒を見るだけ。こいつの意識が戻ったら、すぐにでも叩き出してやる)
そう自分に言い聞かせると、シュリは薬品の瓶や包帯の残りをかき集めて立ち上がる。部屋の奥の戸棚に薬を片付けながら、これは仕方のないことなのだと自分の行動を正当化するように彼女は己に言い含めた。
とりあえず今は朝食にしてしまおうと、シュリは戸棚からマッチを取り出した。彼女は台所へ向かい、竈(かまど)に火を入れると、昨夜の残りもののスープの入った鍋を温め始めた。
ぺたり、と額に水気を含んだ冷たいものが触れたのを感じて、彼はうっすらと瞼を開いた。視界に木でできた天井が映り込む。すぐそばの窓から差し込んでくるオレンジ色の光が眩しくて、彼は思わず暗赤色の目を細める。
意識と共に身体に痛みが戻ってくるが、思っていたほどではない。頭と背に柔らかいものが触れており、身体にも清潔なシーツが掛けられていた。
知らない場所だった。ここは一体どこなのだろうと訝りながら彼は身体を起こした。どのくらいの時間気を失っていたのだろうか。骨が軋んだ。
「目が覚めた?」
そんな問いかけとともに、水の入った琺瑯のたらいを手にした小柄な少女が彼の顔を覗き込んだ。顎の下で切りそろえたぱさぱさの短い黒髪。小動物を思わせるくりくりとした黒い瞳。見たところ、年齢は十五、六といったところである。
「ここは……?」
彼は掠れた声で少女へ問うた。熱があったからなのか、喉が張り付いて上手く声が出ない。彼の様子に気づいた少女は、たらいを床に置くと、台所の隅にある素焼きの甕(かめ)から木の椀に水を汲んで持ってきた。
彼は彼女から椀を受け取ると口をつける。甘やかな水が喉を滑り落ちていく感覚が心地よかった。少女はベッドの脇で腰に手を当て、彼が水を飲むのを眺めながら、
「ここはあたしの家。今朝、川の近くであんたが倒れていたのを見つけて連れてきたんだ。よくわからないけど、何かいろいろ怪我してたみたいだったから、手当しといたよ。あと、あんたの服も汚れたり破れたりしてたから、洗って直しといた」
彼は少女の言葉に椀を手にしたまま、ガーネットの双眸を瞬いた。この非力そうな華奢な少女が自分をここまで連れてきたというのだろうか、と彼は意外に思った。いくら痩せ型なほうとはいえ、彼女が一人で男である自分を運んできたというのだろうか。しかし、家の中にこの少女以外が暮らしている気配が見受けられないことから、そういうことなのだろうと、彼は冷たい水とともに事実を飲み下す。
「すまない、すっかり世話になった。礼を言う」
そう言うと、彼は少女へと椀を返す。そして、身体に掛けられていたシーツを払い除け、簡素な作りのベッドを下りようとした。ぼとり、と額に乗せられていた濡れた布が床に落ちる。立ち上がろうとすると、右股の傷が彼の体重を受けて悲鳴を上げた。
あのねえ、と少女は呆れたように彼を押し留めると、
「そんなにいっぱい怪我してて、一体どこに行くつもり? 大人しくしていないと傷が開くよ。昼間はずっと熱だってあったんだし、本調子じゃないでしょ? 無茶は禁物」
「しかしだな……」
少女の指摘は的を射てはいた。口ごもった彼に、少女は彼の鼻先にぐいと細い人差し指を突きつけると、有無を言わせない口調で畳み掛けてきた。
「怪我人は黙って寝てなさい。何か反論があるなら治ってから言って。……それに、どうせここはあたし一人だし、傷が塞がるまでは何日でもいてくれて構わないから」
そう言うと、少女はわずかに表情を和らげ、口元ににっとした笑みを浮かべた。
「あたしはシュリ。薬師をしながら、この森に住んでるの。ちょっとの間になるだろうけど、これからよろしく」
「あ、ああ……。その、俺はドゥーエという。その……」
荒れた小さな手を差し出してきた少女へと、ドゥーエも自分の名を明かす。しかし、どれだけ自分の事情を明かしたものかと彼は逡巡した。
シュリの様子から察するに、自分の背に流れる黒髪に隠れた”人喰い”特有の尖った耳や口元の牙には気付かれていないようだ。面倒がないように気づかれる前に彼女を喰って始末してしまおうか、という物騒な思考が脳裏をちらりと過ったが、それは合理的ではあってもあまりにも忍びないと思えるだけの理性がドゥーエにはあった。
完全に厚意で助けてくれたのであろうこの少女に今この場で自分の正体と事情が知れ、彼女の顔が恐怖や憎悪に歪むのを見たくないとドゥーエは何となく思った。それに、しばらくここに逗留して傷を癒せるというのは、ドゥーエにとって悪くはない話だった。
(何にせよ、ここを去るときにはこの娘を”喰って”しまったほうがいいのは確かだ。しかし、今はこの娘に何をどこまで説明したものか……)
嘘が多くなればなるほど、言動は不自然になる。ならば、なるべく嘘はつかずに真実を伏せたほうがいい。どう答えたものかとドゥーエが考えあぐねているといると、シュリは見かねたように苦笑を浮かべ、
「……いいよ。あんまり人が寄り付かないこの森で、傷だらけの血まみれで倒れてたんだから、何か事情があるんでしょ。あんたが話したくないって言うなら、あたしも無理には聞かない」
「……すまないな」
「いいよ。変に嘘つかれるよりはよっぽどいい」
それよりさっさとベッドに戻りな、とシュリは床に落ちた布を拾い上げながら、ドゥーエをベッドへと追い立てる。ドゥーエは促されるまま、再びベッドに身を横たえると、
「ところで……俺は一体、どのくらいの間、気を失っていたんだ?」
「丸一日、かな。もう夕方だもん」
床に置いたたらいの水で布を濯ぎながら、シュリはそう答えた。
「そうか」
窓から差し込むオレンジ色の光は、朝日ではなく夕日だったらしいと得心すると、ドゥーエはベッドに身を横たえたまま、視線だけを動かして、室内の様子をつぶさに観察していく。
ドゥーエが横になっているベッドから見て、奥の方に台所らしきスペースがあり、作業台や火の焚かれた竈(かまど)が設えられていた。ベッドに横たわるドゥーエの後方の壁に沿って、食材などの生活に必要な品と、用途の分からない萎びた草の束や謎の液体の詰まった小瓶の数々が収納された簡素な木の戸棚が並んでいる。
ベッドと台所の間の手狭なスペースには落ち着いた色のオーク材のダイニングテーブルとチェアが置かれており、その背後の壁では小さな煉瓦の暖炉でちりちりと炎が揺れている。
生活する上で必要最低限のものしか置いていない、殺風景でどこか寒々しい印象を受ける家だった。年頃の娘が好みそうな雑貨や装飾の類は一切見受けられない。室内はそれほど広いとはいえないが、それでも人が一人暮らすには充分だった。
「……お前、ここに一人で住んでいるんだろう? 寂しくないのか?」
あまりにも年頃の少女らしい彩りに欠ける部屋の風景に、思わずドゥーエの口からそんな言葉がついて出た。一瞬の後、知り合って間もない相手に対し、無神経なことを聞いてしまったという後悔がひやりと彼の背筋を撫でる。
「……ううん、慣れたから」
シュリはドゥーエの言葉に一瞬驚いたように、丸く黒い双眸を見開くとかぶりを振った。彼女は己を嘲るようにやけに大人びた笑みを浮かべると、
「それにあたしは……この先もずっと、一人だから。だから……あたしは、これでいい」
諦観に満ちたその言葉に、ドゥーエは何も言えなかった。言葉尻からは悲しみの色が見え隠れしていて、なぜ、と問うのも憚られた。ドゥーエが今ここにいるのにも事情があるように、こんな森の中で年若い少女が一人で暮らしているのだから、何か相応の事情があるのだろう。
黙り込んでしまったドゥーエを特に気にしたふうもなく、シュリはベッドのそばを離れ、壁際の戸棚の前へと立つ。彼女はタマネギのしまわれた木箱の中を手でまさぐりながら、
「そんなことよりも、あたしはそろそろ夕飯の準備するけど、あんた、何か食べられないものとかある?」
とはいっても大したものはできないんだけど、とどこか楽しげに笑いながら、シュリはタマネギを手にドゥーエを振り返る。
「いや、特にないが、別に俺の飯など気にしなくても……」
ドゥーエは整った顔に困惑を露わにする。”人喰い”である彼は、誰かと食卓を囲むということをしたことがない。
”人喰い”は基本的には人間の血肉しか口にしない。嗜好品のような感覚で、人間の食べ物を口にする個体もいるらしいが、さしたる栄養があるわけでもなく、意味のない行為だと彼自身は思っていた。
人間に忌み嫌われる存在であるドゥーエは、もちろん誰かに手料理を振る舞ってもらった経験はなく、何だか不思議な心地だった。しかし、シュリにこのようなことを聞かれて、なぜか嫌な気はしなかった。
「それじゃあ、ドゥーエはしばらく休んでて。今日は冷えるし、身体が芯からあったまるあたしのとっておき、作ってあげる」
シュリは台所の壁に吊るしてあった包丁を手に取ると、作業台の上でタマネギを刻み始めた。とんとんと小気味良く単調な音がドゥーエの聴覚と室内を心地よく満たし、眠気の波が彼の意識へと押し寄せてきた。彼は訪れた眠気に己を委ねると、そのまま眠りへと落ちていった。
こうして、互いの事情も知らないままに、身寄りのない孤独な少女と”人喰い”の男の、束の間の共同生活が始まった。
妙なことになったものだ。暗闇の中、木の天井を眺めながらシュリは小さく息を吐いた。背中の下の木目の床はごつごつと固く、冷たい。
(本当に何やってんだろ、あたし……)
シュリが床で寝る羽目になった元凶たるドゥーエは、シュリのベッドの上で彼女に背を向けるようにして痩せた身体を横たえ、シーツに丸まって寝息を立てていた。傷が痛むのか、時折小さく呻き声を漏らしている。
今朝、川の近くの木立の中で見つけたドゥーエをこの家に運び込んだのは、仕方のないことだと言えなくもない。怪我の手当てをしたことだって、まだぎりぎり仕方ないで済ませられる範疇だと言えないこともない。
しかし、ドゥーエが”人喰い”だとわかっていながら、意識を取り戻した彼に『何日でもいてくれて構わない』などと言ってしまったのは、我ながらやり過ぎたと思った。目が覚めたらすぐにでも叩き出してやると決めていたはずなのに、何という体たらくだろうか。この家に自分以外の存在がいるのが物珍しくて、今日の自分は浮かれていたのだろうとシュリは己を苦々しく思う。
(だけど……今日は珍しく、夕飯が美味しかったような気がする)
夕方、シュリが作った玉ねぎと生姜のスープをドゥーエと一緒に食べた。どんなに腕によりをかけたとしても、普段ならどこか味気なく感じてしまうそれが、今日はやけに美味しく感じられた。
シュリは特段お喋りな性質ではない。ドゥーエも物静かな性質なのか、食事をしている間も、時折一言二言言葉を交わす程度で会話らしい会話もなかった。それでも、ドゥーエと囲む食卓はシュリにとって意外なほどに心地よかった。
(……駄目だ。あいつに――ドゥーエに気を許しちゃいけない)
夕方、シュリのベッドで目覚めたドゥーエは拍子抜けするくらい普通だった。シュリにとって”人喰い”はもっと獣じみた恐ろしい生き物だったにもかかわらず、ドゥーエとは普通に会話が成立したし、一人で暮らすシュリを気にかける素振りすらあった。”人喰い”だとはいえ、ドゥーエは普通の人間と大して変わらなかった。
(でも……あいつのあの態度は罠かもしれない。きっと、あたしをそうやって油断させて、”喰う”つもりなんだ)
現状、ドゥーエがシュリを”喰う”素振りはない。それでも、いつ彼がシュリに牙を剥くかわかったものではなかった。
絶対に油断しないようにしないと、とシュリは内心で己を戒めると、グレーのバイアスチェック柄があしらわれた厚手のブランケットの中に潜り込んだ。
「……おやすみ」
既に夢の中にいるドゥーエに聞こえるはずもないとわかっていながらも、シュリは小さな声でそう呟いた。一拍遅れて、もう何年も口にしていなかったその言葉がじわじわと胸の中を満たしていく。
なんだかなあ、と思いながらもシュリはブランケットの中で目を閉じる。閉じた瞼の裏では、ドゥーエと囲んだ食卓の暖かな情景がちらついていた。
儚く脆い泡沫の夢をあとほんの少しだけ見ていてもいいだろうか。ぼんやりとそんなことを考えたのを最後に、シュリの意識は穏やかな眠りの波間へと溶けていった。
◆◆◆
くつくつと鍋の中で液体が煮える音がしていた。立ち昇る湯気からはすうっとした薬草の香りがしている。
ドゥーエを拾った翌日の昼下がり、シュリは薬を煎じていた。軽い昼食の後に飲ませた抗生物質の影響か、ドゥーエはシュリのベッドで眠っている。
(意外。こんなにも何もないなんて)
”人喰い”であるはずのドゥーエが自分を”喰う”どころか、危害を加える素振りすらないことに、シュリは肩透かしを食らったような気分だった。昨夜だって、眠っているうちにシュリを喰ってしまうことだってできたはずなのに、なぜかドゥーエはそうはしなかった。
変なの、と呟きながらシュリは匙で鍋の中身が焦げつかないように掻き回す。今、シュリが作っているのは、ドゥーエに飲ませるための痛み止めの薬だった。
(変なのはあたしも同じなのかもしれない)
この家に自分以外の誰かがいる――それが”人喰い”であるにもかかわらず、そのことを少し嬉しく思ってしまっている自分がいる。ドゥーエに心を許しかけてしまっていることをシュリは自覚していた。
(だって……ドゥーエはあたしの思っていた”人喰い”とは何か違う)
”人喰い”など、人間を見れば問答無用で”喰らう”だけの化け物だとシュリは思っていた。実際、シュリは八年前に両親を”人喰い”の女によって喰い殺されている。噎せ返るようなあの血の匂いと恍惚とした笑みを浮かべて見せたあの女の姿をシュリは今でもありありと思い出すことができる。
しかし、昨日、シュリが拾ってきた彼はただの化け物と言い切ってしまうには随分と理性的だった。
人間と同じように”人喰い”にも個体差があるのだろうか、とシュリは思う。シュリが耳にしたことのある”人喰い”の話は、どれもあの女のように猟奇的で、ともすれば快楽のために人を喰い殺すようなものばかりだ。そういった一般的な”人喰い”の姿とドゥーエはかけ離れているように思えた。
(あたしに危害を加える気がないならそれでよし。ただ――あいつにあまり肩入れしないようにしないと。所詮はあたしたち人間とは違う生き物……裏切られたときにがっかりしたくないし、何よりあいつはずっとここにいるわけじゃない――怪我が治ったら出ていくんだから)
そう言い聞かせながら、シュリは緑色の液体の入った鍋を竃から下ろす。粗熱が取れたら、瓶に詰め替えて、夕飯の後にでもドゥーエに飲ませないといけない。
今日の夕飯は何にしようか。昨日、森の中に生えていたおいしいキノコを何種類か使って、リゾットでも作ろうか。頭の中で思案を巡らせながら、シュリは小さなカップでざるへともち麦を計って移し替えていく。
「……あ」
何も考えずに二人分の分量でもち麦を計っていたことに気づき、シュリは小さく声を漏らした。どうやら自分は、ドゥーエのせいで随分と浮ついてしまっているらしい。昨日といい、今日といい、彼と囲む食卓が思いがけず温かく居心地の良いものだったのが全て悪い。
ドゥーエが出ていくまでのほんの少しの間。自分の身に危険が及ばない範囲でなら、彼が自分のそばにいるこの状況を受け入れてもいいような気がした。
まずはドゥーエのことを知りたい。彼はあの女とは違うのだということを確かめたかった。
そのためにはもっとドゥーエと話をしないといけない。二人で囲む食卓を彩る食事を用意すべく、シュリはもち麦の入ったざるを流しへ持っていくと、甕から水を汲んできてふやかしはじめる。
ちろちろと竃の火が揺れる音とすうすうというドゥーエの安らかな寝息が家の中に響いている。窓から差し込む金色の日差しは西へと傾き、夕刻が近いことを知らせていた。
◆◆◆
シュリとドゥーエが共に暮らし始めてから数日が経った。床でブランケットに包まって眠っていたシュリがもぞもぞと早朝に起きだした音でドゥーエは目覚めた。火の消えた暖炉の上の壁に吊るしていたココアブラウンのケープを羽織り、外へ出ようとしている彼女を、まだ半分眠りの世界に意識を残したままのドゥーエは呼び止める。
「ん……シュリ、どうした?」
欠伸を噛み殺しながらむにゃむにゃとそんなことを問うたドゥーエにシュリは苦笑して、
「ごめん、起こしちゃった? まだ早いし、ドゥーエは寝てていいよ」
ドゥーエはベッドから上体を起こすと、肩の傷に障らないように気をつけながら伸びをした。眠りの妨げにならないように緩められたシャツの胸元や、腰まである寝乱れた黒髪、半ば伏せられたままの暗赤色の双眸がやけに蠱惑的に存在を主張していて、シュリは少しどきりとした。
「お前はいつも、こんなに早い時間に起きているのか?」
ドゥーエの疑問をシュリはまあね、と肯定した。先程の動揺を気取られないようにシュリは早口に、
「朝のうちにやらなきゃいけないことがいろいろあるから。川に水汲みに行ったり、薪(たきぎ)集めに行ったりとか」
「俺も行こう。ずっと寝たきりというのもあまり良くないからな。着替えるから、少し待っていてくれ」
自分のぬくもりと夢の名残の残るシーツの間からドゥーエは抜け出ると、オールドブルーのダブルガーゼのシャツをするりと脱いだ。治りかけの生々しい傷が残る、細身だが程よく筋肉の付いた均整の取れた背中が長い髪の間から覗き、シュリの心臓はどくりと鳴った。見てはいけないような気がするのに、男の素肌が放つ色香から目が離せなかった。
「シュリ?」
ベッドの背に掛けた黒いウールのアンダーシャツを手に取りながら、ドゥーエは訝しげにシュリを振り返った。名を呼ばれたシュリははっとして、剥き出しのドゥーエの背から慌てて視線を逸らす。何故か頬が熱かった。
「あっ、ドゥーエどうかした?」
「それは俺の台詞なんだが……ぼんやりしていたみたいだが、具合でも悪いのか?」
自分を案じるドゥーエの言葉に、シュリはぶんぶんと首を横に振る。彼の裸体にうっかり見入っていたなどとは言えるはずがなかった。
「ううん、何でもない。ちょっとまだ眠かっただけ。あ、そうだ、着替えのついでに傷口診ちゃうね」
適当な理由をでっち上げると、シュリは棚から傷薬の入った小瓶を取ってきて蓋を開ける。薄緑色の軟膏をシュリは右の人差し指に取ると、これはただの治療だと自分に言い聞かせながらドゥーエの背中へと触れる。しかし、男を感じさせる少しごつごつとした背中のぬくもりに、シュリの心臓がうるさくなる。
(あたし、なんか今日変……! 何でこんなに意識してるんだろ……)
自分の無意識の反応に混乱しながらも、シュリはドゥーエの左肩の傷に軟膏を塗っていく。傷口はまだ少しジュクジュクとしていて、周囲が腫れていたが、多少動く程度なら問題はないだろう。
「シュリ、終わったか?」
日に焼けた薄いコットン生地のカーテン越しに、朝の色を帯び始めた空を眺めていたドゥーエはそう訊ねた。シュリは羞恥と困惑で手を震わせながら、清潔なガーゼを傷口に貼り付けると、こくこくと頷いた。
「う、うん……っ」
「ありがとう。……シュリ、震えているみたいだが、どうかしたのか? 寒いのか?」
自分の背に触れるシュリの手が震えていることに気づいたドゥーエは、シュリを振り返る。仄かな色艶を感じさせる白皙の美貌と男らしい逞しさのある裸の胸元が視界に飛び込んできて、シュリは顔を赤らめた。ドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せると、膝を屈め、シュリの額に自分の額をくっつけた。
「シュリ、顔が真っ赤だぞ。熱は……無いみたいだが」
至近距離でドゥーエの赤い瞳に見つめられたシュリは、慌てて彼から距離を取ると、
「全部全部、ドゥーエのせいでしょ! 何でもいいからさっさと服着て! 早く!」
「あ、ああ……悪い」
何が何だかわからないまま、とりあえずドゥーエは詫びの言葉を口にすると、アンダーシャツの袖に腕を通す。大きな黒い目をわずかに潤ませてこちらを窺っているシュリのことを”喰って”しまいたいという食欲と紙一重の凶暴な欲求がむくりと大きくドゥーエの中で頭をもたげた。しかし、そんな彼女のことをどこかに大事にしまっておきたいような気もして、何だか変な感じだとドゥーエは思った。
体の中を下りていく欲望に馬鹿馬鹿しいとドゥーエは蓋をすると、シュリの父の物だったというチャコールグレーのニットカーディガンをアンダーシャツの上に羽織った。ドゥーエは自分の黒いブーツに足を滑り込ませると、
「すまない、待たせたな。それじゃあ、行こうか」
着替えを済ませると、ドゥーエはシュリに声をかける。うん、と頷くシュリの声は少し硬かった。
何か彼女の気分を害するようなことをしただろうか。シュリに対して妙な気を起こしかけたことを悟られたわけではないと思う。一体何が悪かったのだろうかと、先程のシュリの言葉のを頭の中で反芻しながら、ドゥーエはシュリと共に小屋を出た。
ザクッ、ザクッとドゥーエの古びたブーツの下で、かさかさに乾いた茶色い落ち葉が音を立てた。顔に触れる秋の朝の森の空気は、少し水気を帯びて湿っぽく、ひんやりとしている。
シュリは両手に甕を抱え、慣れた足取りで木立の続く森の中を歩いて行く。その後ろをドゥーエは微妙な距離感を保ちながらついていった。あまり近づきすぎると、なぜか先程のように彼女に怒られてしまいそうな気がしていた。
シュリに連れられて、しばらく森の中を歩き続けていると、ドゥーエは辺りの空気が変わったのを感じ取った。近くで水の流れる音がしている。シュリはドゥーエを振り返ると、
「この茂みの向こうが河原になってるの。それで、あたしがドゥーエを見つけたのはもう少しあっちの方」
森の奥へと続く細い道を手で指し示され、なるほど、とドゥーエは頷く。言われてみれば、シュリの示す先に広がる光景におぼろげに見覚えがあるような気がした。
「あたし、水汲んでくるから。ドゥーエは適当にこの辺散歩しててよ」
そう言うと、シュリは空の瓶を抱えて、赤いニシキギの茂みの中へと消えていった。どうしたものか、とドゥーエは軽く肩をすくめた。
(そういえば、薪も集めにいかないといけないようなことを言っていたな……)
手持ち無沙汰になったドゥーエは辺りに落ちている枝の中から、程よい太さのものを拾い集め始める。地面に降りた朝露を吸った枝は、少し湿ってしまってはいたが、しっかり乾かせば充分に使えそうだった。
薪に使う枝は一本一本は細く軽いため、それほど嵩張りはしないものの、量が増えてくると、水分を含んでいることもあって、ずっしりとした重さが腕にのしかかってくる。普段はシュリが非力なはずの少女の細腕でこういった力仕事をこなしているのだと思うと、彼女のことをいじらしく感じた。野に咲く花のように一人で強く生きようとするその在り方に、なぜかドゥーエは胸が締め付けられるような気がした。
(シュリといるのは危険だ。このままでは何か……取り返しのつかないことになるような気がする)
我ながららしくないと思った。”人喰い”であるドゥーエは、これまでただの捕食対象に過ぎない人間にこんなふうに心を傾けたことはなかった。喰えるかどうかという以外のことで人間に関心を持つことなどなかった。しかし、シュリと出会ってからのこの数日で、自分を自分たらしめていたはずのものが音もなく少しずつ崩れ去っていっているような不思議な感覚をドゥーエは味わっていた。
「ドゥーエ」
がさがさとニシキギの茂みが揺れ、両腕に水がなみなみと入った素焼きの瓶を抱えたシュリが姿を現した。彼女はドゥーエの手元を見やると、
「薪、集めておいてくれたんだ? ありがと、助かる」
「……別に礼を言われるほどのことではない」
シュリから向けられたはにかんだような笑顔と言葉が、何だかこそばゆくてドゥーエは顔を背けた。あまりにも素っ気なさ過ぎたかと思い直すと、ドゥーエはシュリが抱えた瓶へと手を伸ばし、
「それを貸せ。家まで持って行ってやる」
言うが早いか、ドゥーエは水が入った甕をシュリの腕の中から奪い取った。左手に瓶、右手に枝の束を抱えると、何をやっているのだろうと自分自身に呆れながら、ドゥーエは踵を返した。左肩の傷が痛みを訴えたが、ドゥーエは顔には出さなかった。
呆気にとられていたシュリはありがとうと小さく呟いた。ドゥーエは互いの不器用なそのやり取りが何故か尊く思えて、ふっと表情を和らげた。
(もう少し……身体の傷が癒えるまでなら、こういう時間が続くのも悪くないのかもしれない)
ドゥーエの心境を知ってか知らずか、シュリは先を歩く彼に追いついてきて横に並ぶと、
「ドゥーエ、帰ろっか。帰って朝ごはんにしよう」
「ああ」
言葉と視線を交わし合うと、二人は連れ立って家への道を引き返し始めた。秋色に色づいた木の葉の先で、朝日を受けた雫が無垢な煌めきを放っていた。
◆◆◆
「……何をしているんだ?」
ある日の午前中、シュリが家の奥で作業をしていると、ベッドの上に腰掛けていたドゥーエがそう聞いてきた。シュリは手を休めることなく、彼の疑問へと答える。
「これ? 今朝、薬草がたくさん採れたから乾かすための準備をしてるの」
そう言いながら、シュリは手早く薬草を紐で束ねていく。ほう、とドゥーエは立ち上がり、シュリのそばに近寄ってくると、興味深そうに彼女の手元を覗き込む。
「手慣れているんだな」
まあね、とシュリは得意げに口の端を釣り上げる。その間も彼女の手は動き続ける。
「もう何年もやってるからね。小さいころだって、お父さんやお母さんがこうやって作業してるの手伝ったりしてたし」
ドゥーエもやってみる、とシュリが聞くと、ドゥーエは首を横に振った。腰まである彼の長い黒髪が、首の動きに合わせてさらさらと揺れ動く。
「俺には違いが全然わからないから遠慮しておく。俺からしたらどれも草、草、草だ」
「草って」
ドゥーエの言い方がおかしくて、シュリは小さく吹き出した。
彼の傷が癒えるまでのほんの短い間とはいえ、こうして言葉を交わし、何でもないことで笑い合える相手がいることが嬉しかった。どこにでもあるようなそんなささやかなことが、シュリには新鮮で楽しかった。ドゥーエが”人喰い”であることも理解していたし、何が目的で彼が自分の元に居続けているのかもわからなかったが、それでも構わなかった。
(人間よりも”人喰い”のドゥーエのほうがよっぽど人間らしいなんて皮肉だよね)
両親が死んでから、ノルスの親戚の家で暮らしていたときのことを思い返しながら、シュリはそんなことを考えた。ドゥーエだって、いつ自分に牙を剥くかわかったものではないが、それでも陰口を叩いたり石を投げつけたりしてくるような陰湿な嫌がらせをしてこないだけ、シュリにとってはかなりましだった。
「さて、と」
シュリは薬草をすべて仕分けて束ね終えると立ち上がった。壁際の戸棚から長いロープを取り出し、シュリが手近にあった木箱の上に登ろうとしていると、脇から長く筋ばった手が伸びてきてロープをひったくった。
「これをそこの柱に結べばいいのか?」
程よく低い、心地の良いドゥーエの声がシュリの背後から響いた。シュリは木箱に片足を乗せたままの状態で、ドゥーエを振り返ると、
「うん。それで、逆側を向こうの柱に結んで欲しいんだけど、お願いできる?」
任せろ、とドゥーエはロープを片手に背伸びをする。ロープを結えようと腕を上に伸ばしたとき、「っつ!」肩の傷が痛んだのか、たたらを踏み、ドゥーエの体が傾ぐ。
「わっ、わああああっ!!」
自分の方へとドゥーエの体が倒れてきて、シュリは咄嗟に彼の体を支えようと手を伸ばす。彼を連れ帰ってきたときとは異なり、完全に油断していたこともあって、痩せ型とはいえ男一人分の体重を支えることは能わず、シュリを巻き込んでドゥーエの体は床へと倒れ込む。シュリは衝撃を覚悟して、黒い目を閉じる。
ごん、と重い打撃音が室内に響いた。しかし、覚悟していた痛みがシュリを襲う様子はない。シュリは恐る恐る瞼を開く。
「え……?」
シュリの体はドゥーエの右腕によって抱き込まれ、彼が下敷きになる形で守られていた。
「シュリ、無事か?」
間近でドゥーエの暗赤色の視線がシュリへと向けられた。その目はシュリのことを案じているのか、物憂げだ。
「あ、あたしは、大丈夫……」
シュリは自分の声が上ずるのを感じた。そうか、と言ったドゥーエの吐息混じりの安堵の声が、愛撫するように聴覚の奥深くまで入り込んでくる。
「ごめん、すぐにどくね。怪我してるのにこんなことさせちゃってごめん」
「気にするな。やるといったのは俺だ。それよりもシュリに怪我がなくてよかった」
少し空気を含んだ低い声に耳元で囁かれ、シュリは自分の中で心がとくんと音を立てるのを聞いた。シュリはドゥーエの怪我に障らないように気をつけながら、彼の腕を振り解く。彼の温もりが遠ざかっていくことをなぜかシュリは残念に思った。
(ドゥーエは”人喰い”だけど、いい人なんだ。今だってあたしのことなんて庇わなくてよかったのに、こうやって守ってくれたし、あたしに怪我がないかを真っ先に気にしてくれた。やっぱり、ドゥーエは、あたしの知ってる”人喰い”とは違う)
そう思いながら、シュリは立ち上がる。そして、ドゥーエに手を貸して床から起き上がらせる。
「ドゥーエは大丈夫? どこ打った?」
「背中は打ったが、一応受け身は取ったから問題ない」
「問題なくないでしょ。一応診るから、背中見せて」
シュリはすぐそばの戸棚から湿布薬を取り出す。互いに互いを気遣いあっている今の状況は何だか不思議だが、嫌な感じはしなかった。
(ドゥーエは……あの女と同じ”人喰い”なんだよね。なのに……あたし、ドゥーエのことは……)
嫌いじゃない。その事実がすとんとシュリの胸の裡にすとんと着地した。
ただ憎むばかりだった”人喰い”という種にそんな感情を抱いている自分を少し意外に思いながらも、シュリはドゥーエのシャツの背を捲る。彼女は薄くなりかけた数多の痣に混ざった真新しい紫色の内出血を見つけた。やはり、自分を守るためにこんな傷を拵えてしまうお人好しの”人喰い”を嫌いにはなれない気がした。
シュリは紫色に腫れ上がった傷に湿布薬をあてがう。彼がここにいるのは傷が良くなるまでという話だったが、いつまで彼とここで過ごしていられるのだろうとシュリは思った。
開け放った窓から入り込んできたばたばたと金風がカーテンを揺らしている。湿布のハーブの匂いが風に舞い上がり、すうっとした爽やかな香りで室内を満たしていった。
◆◆◆
まだ秋だというのに、全身が芯まで凍えるような夜だった。底冷えする部屋の中、眠れずにいたシュリはバイアスチェック柄のブランケットの中で小さく身体を縮こまらせて、赤く悴んだ手に息を吐きかける。
「……眠れないのか?」
暗い部屋の中でドゥーエの低い声が響いた。その声からはシュリのことを案じているような色が感じられた。
「うん……まあね。ドゥーエはあたしのことなんて気にしないで寝てて」
シュリが苦笑混じりにそう答えると、ベッドの上のドゥーエが身を起こす気配がした。ばさり、とドゥーエはシーツをめくってみせると、
「今夜は殊更に冷える。床ではなく、ベッドで寝たらどうだ」
ドゥーエの申し出は魅力的だった。しかし、シュリはううん、と首を横に張る。
「いいよ。怪我人をベッドから追い出すわけにもいかないし。いつも通り、あたしは床で寝る」
「変な意地を張っていると風邪を引くぞ」
ドゥーエの言うことは一理ある。しかし、だからといって、ドゥーエをベッドから追い出す気にはなれなかった。どうしたものかとシュリが頭を悩ませていると、
「なら、こうしよう。俺もシュリもベッドで寝る。シュリは小柄だし、俺が少し奥に詰めれば充分寝られるだろう?」
「それは、そうだけど……」
シュリは躊躇した。”人喰い”と一つのベッドで共寝するなど、喰ってくれと言っているようなものだ。ドゥーエは普段はシュリを喰おうとする素振りなど微塵も見せないが、目と鼻の先に獲物が無防備に眠っているともなれば、さすがに生きてシュリが朝を迎えられるとは思えない。
「どうした? もしかして、俺が何かするとでも思っているのか?」
「……っ!」
「心配するな。お前が嫌がるなら、同じベッドに寝ているからといって、無理やり迫って犯すような真似はしない」
「ちょっ……犯す、って……!」
思っていたよりも斜め上のドゥーエの発言にシュリは顔を口をぱくぱくさせた。ドゥーエの美しい顔が自分に迫ってくる様を、ドゥーエの引き締まった身体が自分に覆い被さってくる様を思わず想像して、シュリは顔を真っ赤にした。
「さ、最っ低……! 変態!」
「そういうことを心配していたのではないのか?」
「っ……違っ……!」
ドゥーエはよくわからないとでも言いたげな顔をしながら、
「……それで、どうする?」
「……っ、あたしもベッドで寝る! それでいいんでしょ!」
シュリは厚手のブランケットの中から這い出ると、躊躇いがちにベッドの中へと入り込む。寝返りを打てばベッドから落ちてしまいそうな位置で横になるシュリに、ドゥーエは苦笑すると、
「もう少しこちらに来たらどうだ? 別に何もしない」
「うん……」
そういうことじゃないんだけどな、と思いながらシュリはほんの少しドゥーエに身体を近づける。近くに感じるドゥーエの体温は温かく、ムスクと古本の混ざったような匂いがした。
ドゥーエの赤い瞳と視線が絡み合った。ほのかな熱と艶を帯びて潤ったその目からシュリはなぜか視線を逸らせなかった。
小さく聞こえるドゥーエの息の音が悩ましげににシュリの耳朶を打つ。何かを憂うような表情を浮かべた白皙の美貌はひどく蠱惑的だ。容赦なく浴びせられる無意識の官能の暴力に、腹の奥を蠢き始めたものを封じ込めるようにシュリはぎゅっと強く脚を閉じた。
とくん、とくん、と互いの心臓の音がやけに大きく聞こえる気がした。ぴんと張り詰めた空気は今にも崩れてしまいそうになりながら、かろうじて均衡を保っていた。どちらかがほんの少し動けば、この状況を堰き止めているものが砂礫の城のように崩れ去ってしまう、そんな危うさがあった。
羞恥と怯えが入り混じったシュリの目がドゥーエを見ていた。ずきり、と心臓の拍動に合わせて、身体の内側にかすかな疼痛が走る。自分の本能がシュリの肉体を欲しているのだとドゥーエは思った。
(嗚呼……欲しい。――”喰いたい”)
ふいにドゥーエは自分を見る少女の顔をめちゃくちゃに歪めてやりたいような欲求に駆られた。ドゥーエは荒々しくシュリへと手を伸ばす。
「ドゥーエ……?」
戸惑うようにシュリが彼の名前を呼んだ。何でもない、とかぶりを振ると、ドゥーエはシュリの髪をごまかすようにかき混ぜた。シュリは不満げに頬を膨らませながら、
「……嘘つき。何もしないって言ったのに」
「……このくらい、何かしたうちには入らない」
まったく、とシュリは呆れたようにため息をつく。シュリは寝返りを打って、ドゥーエに背を向けると、
「あたし、もう寝るから。絶対、変なことしないでよ? ……おやすみ」
「おやすみ」
自分を突き動かしたのは食欲だったのか、はたまた情欲だったのか。そんなことを考えながら、ドゥーエはシュリのぱさついた短い髪を撫で続けた。彼女の寝息が聞こえ始めるまで、ドゥーエはずっとそうしていた。
ドゥーエは名残惜しく思いながらシュリの髪から手を離し、彼女へ背を向けると瞼を閉じる。
おやすみ、ともう一度小さく呟くと、ドゥーエは闇の彼方から打ち寄せてきた眠りの波に己の意識を預けた。
◆◆◆
暁闇の降りた森の木々の間から、白い光が静かに降り注いでいた。
紺碧の空に浮かぶ月は盈ち、尾のように残像を描きながらちらちらと星が走り抜けていく。
ダイニングテーブルで酒を垂らしたミルクをドゥーエが舐めていると、台所から何かが焼き上がる香ばしい香りが漂ってきた。
夕飯はとうに済み、片付けものが終わったシュリはベッドに腰掛けて紐で何かを編んでいる様子だった。
シュリは黄土色の紐を円状に編み上げると、ベッドから立ち上がった。台所へと向かい、彼女は竃の様子を確認する。
「うん、いい感じ」
シュリは焼き上がったものの具合を見て、そう独りごちた。ドゥーエはミルクを飲み干すと、椅子から立ち上がり、台所を覗き込む。
「こんな時間に何をやってるんだ? 夕飯ならさっき済んだだろう?」
「うん。今日はね、ちょっと特別」
シュリは部屋の奥の戸棚から温かみのあるクリームイエローのデザートディッシュを出してきて、こんがりとした狐色に焼き上がったそれを盛る。
「ドゥーエ。ちょっと外、付き合ってよ」
外、とドゥーエは怪訝そうに眉根を寄せる。
「構わないが、どうかしたのか?」
行けばわかるから、とシュリはベッドの上に置いたままの紐の編み細工を拾い上げる。彼女は戸惑うドゥーエをよそに、左手に皿、右手に編み細工を持ってチーク材の扉を肘で押し開ける。ドゥーエはベッドの背にかかっていたグレーのバイアスチェックのブランケットを手に取ると、彼女の後を追った。
外に出ると、シュリは軒から円状の紐細工を吊るしていた。
「それは何なんだ?」
「ドゥーエ、見たことない? これは収穫祭の飾りなんだけど」
「収穫祭?」
シュリは足元に皿を置くと、軒下に座り込んだ。ほら、と木々の間から覗く玉輪を彼女は指差した。ドゥーエはシュリと視点を合わせるように、皿を挟んで彼女の隣に腰を下ろす。
「ほら、今日、満月でしょ? 毎年、この時期の満月の夜はどこの街も収穫祭が行なわれるんだけど、知らない?」
「いや……知らない。ずっと旅暮らしで、あまりひとところに留まることをしてこなかったからな」
ドゥーエは自分が”人喰い”であることには触れないようにしながら、収穫祭を知らない理由を曖昧にぼかす。ふうん、と相槌を打ったシュリはそれ以上、ドゥーエの事情を深掘りしようとはしなかった。
「町では本当は七面鳥の丸焼きとかいろいろなご馳走を食べてお祝いするんだけど、こんなところで一人で住んでるとさすがにそんな余裕はないから。
それでも気分くらいは収穫祭を味わいたいなって思って、毎年、飾りとスコーンくらいは作るようにしてるんだ」
あったかいうちに食べよう、とシュリは生地にとうもろこしが混ぜ込まれたスコーンをドゥーエへと勧める。「貰おう」ドゥーエはまだほくほくと温かいスコーンを手に取った。
シュリも自分の分のスコーンを手に取ると、二つに割る。宵闇を白い湯気がふわふわと漂い、空気の中に溶けていく。隣でそれをドゥーエがなんとはなしに眺めていると、シュリがくちゅんと小さなくしゃみをした。
「寒いのか?」
「うん……まあ、ちょっと。こんな薄着で出てきちゃったしね」
ドゥーエは傍らに置いていたブランケットを広げると、シュリの背にかけた。ありがと、とシュリははにかんだように笑う。
「ドゥーエは寒くない?」
「俺のことは気にしなくていい」
そんなこと言って、とシュリは肩をすくめる。シュリはスコーンを皿に戻すと、皿を自分の膝に置いた。そして、シュリはドゥーエへと体を寄せると、彼の背にもブランケットをかけてやった。
「こうすればあったかいでしょ?」
シュリは得意げにそう言うと、スコーンを齧る。まあな、とドゥーエは気恥ずかしいのか、シュリから視線を逸らす。
月明かりに照らされて彼の長い黒髪はしっとりとつやめき、赤の双眸は宝石のような美しさを帯びている。月を弄する白皙の美貌はどこか神々しく、シュリは一枚の絵画を見ているかのような錯覚に襲われた。
「……どうかしたか?」
シュリの視線に気づいたのか、口の中のスコーンを飲み下すと、ドゥーエは訝しげな声を向ける。
「何でもないよ」
シュリは二個目のスコーンを手に取りながら、ドゥーエの肩に自分の肩を触れさせる。彼と過ごすうちにこの温もりが心地よいとシュリはいつの間にか感じるようになっていた。
スコーンは毎年作るものと同じ味のはずなのに、今年はやけに美味しく感じられる。自分一人なのか、誰かと一緒なのかというだけで、こんなにも違うのかとシュリはしみじみと思う。
(もしかしたら……ドゥーエとだから、なのかもしれない)
シュリにとって、ドゥーエはだんだんと特別な存在になりつつあるのを感じていた。それは家族のようで家族でなく、友達のようで友達でない、他人ではない何かであった。
月影に照らされた夜空は、いつもよりも透き通って美しくシュリの目に映った。ぽろり、とこぼれ落ちるように星が視界を流れていく。
今年の月は一段と美しい。その理由をそのときのシュリはまだ深く考えようとはしなかった。
皓月が身を寄せ合う二人の姿を静かに照らしている。スコーンの香ばしい匂いが夜風によって持ち上げられ、うっすらとした湯気とともに辺りを揺蕩っていた。
◆◆◆
ノルスの自警団員たちにつけられたドゥーエの身体の傷は、一向に癒える様子はなかった。それでも、シュリに拾われた当初よりはまともに動けるようになってきていたドゥーエは、気まぐれにシュリの仕事を手伝うことも増えてきていた。
その日、昼食が済んだ後、ベッドで微睡んでいたドゥーエは、シュリが家の前の畑で忙しそうに立ち働いていることに気づいた。ふああ、と伸びをして身にまとわりつく眠気を追い払うと、ドゥーエはベッドから起き上がって履き古した黒いブーツに足を通す。
小屋の外に出ると、秋麗の陽気にうっすらと汗を浮かせながら、シュリが小鎌を手にほうれん草を収穫していた。ギィ、バタン、というドアの開閉音に気づいたらしいシュリは顔を上げる。シュリはドゥーエの姿を認めると、顔を綻ばせた。
「ドゥーエ。どうしたの?」
「いや……お前が何かやっていたから様子を見に来ただけだ」
そっか、とシュリは頷くと、いいことを思いついたと言わんばかりににっと笑みを浮かべながら、
「そうだ。ドゥーエもやってみない? あたし一人じゃちょっと手が回りそうにないし」
「わかった。手伝おう」
シュリの提案を快諾すると、ドゥーエは畑とシュリの顔を見比べながら、彼女へと指示を仰いだ。
「それで、俺は何をすればいい?」
「じゃあドゥーエはこれであそこのほうれん草を収穫してきてよ。それが終わったら向こうのブロッコリーね」
そう言うと、シュリは手に持っていた小鎌をドゥーエに手渡した。あたしはあっちでにんじんと芋をやってくるから、と言い置くと、シュリはすたすたと畝の間を歩き去っていった。その背を見送ると、ドゥーエは地面に座り込んで、ほうれん草の葉を手で弄り始める。
ほうれん草の株にはところどころ葉が刈り取られた形跡があった。ドゥーエは比較的大きな葉を選びながら小鎌で茎を一本一本刈り取っていく。
遅々として作業が進まないドゥーエに気づいたシュリは、収穫の済んだ野菜の山の向こうから声を張り上げた。
「ドゥーエ、一本一本やるんじゃなく、もっと葉っぱをまとめて持って、一気に刈り取っちゃって! 今日のうちに追肥までやっちゃわなきゃなんだから、そんなんじゃ全然終わらない!」
「お、おう……」
ドゥーエはシュリに言われた通り、ほうれん草の茎を何本もまとめて掴むと、鎌で刈り取っていく。ぶちぶちと茎の繊維が断たれる感触と共に、葉の束が土の中の根から切り離された。
ほうれん草を収穫し終えるころには、ドゥーエの額にも額に浮かんできていた。ドゥーエは鎌を地面に置き、土で汚れた手の甲で汗の粒を拭う。ドゥーエの何倍もの速度で野菜の収穫を済ませていくシュリを横目で見ながら、
「しかし、お前は本当によく働くな……」
シュリは大根のように太いにんじんを腰の入った動きで難なく地面から引き抜きながら、
「まあ、こんなところで一人で暮らしてたら、基本は自給自足だからね。全部自分でやらないと、野垂れ死ぬだけだから」
「そうか……」
「それに、こうやって畑仕事をするのは嫌いじゃないし。小さいころもお母さんと一緒に、ノルスの家の庭でハーブ育てたりしてたしね」
つくづくシュリは過酷な環境下で生きているのだとドゥーエは実感する。それでもこうして生き生きと生きているシュリは強くて眩しいとドゥーエは思った。
「さて、休憩したらもうひと頑張りしようか。ちょっと待ってて、おいしいもの食べさせてあげるから」
シュリは収穫したばかりの泥のついたにんじんを二本掴むと、裏口から家の中へ戻っていった。
一分もしないうちに、シュリはにんじんを手に再び姿を現した。台所で泥を洗い落としてきたのか、にんじんからはぽたぽたと透明な雫が滴り落ちている。
「ほら」
シュリは二本あるにんじんのうちの一本をドゥーエへと手渡した。シュリが生のままにんじんを齧っているのを見て、ドゥーエは眉間に皺を寄せる。
「それ、生だろう? 食えるのか?」
シュリはうん、と頷くと、
「食べられるよ。とれたてだし、甘くて美味しいよ」
ドゥーエも食べてみなよ、とシュリに促され、彼はにんじんを口に入れ、歯を立てた。ぼりぼりという気持ちのいい音と共に口内が控えめで穏やかな自然の甘さで満たされていく。
ちらりとドゥーエが隣を見ると、シュリは自分で収穫したにんじんを夢中で齧っていた。彼女自身の小動物じみた容貌も相まって、何だかうさぎみたいだなとドゥーエは思った。
シュリはいつだって一生懸命に生きている。それをもう少し近くで見ていたいような、守ってやりたいような気がした。シュリの元にいれば、長年自分が知らずに生きてきたいろいろなことを知ることができそうな気がした。
自分の中に芽生え始めた感情の名前をドゥーエはまだ知らない。それでも口の中のにんじんの甘さと、あたりに充満する土の香りを悪くないとドゥーエは思った。
◆◆◆
ふっと眠りの世界から意識を引き戻され、シュリは瞼を開いた。見慣れた家の天井が視界に像を結んでいく。背にはごつごつとした男の体の感触と温もりを感じる。
聴覚を満たすすうすうというドゥーエの寝息に心地よさと温かさを覚えながら、シュリはちらり、と窓の外へと視線をやる。まだ外は薄暗い。どうやら普段起きる時間よりも早く目覚めてしまったらしいと覚醒していくにつれてシュリは悟った。
現実を認識すると、すうっと波が引くように眠気が遠ざかっていく。再度目を閉じてみたが、寝直すことは叶いそうになかった。
(……そうだ)
隣で眠るドゥーエの寝息と鼓動を聞きながら、日が昇ってくるのを待つのも悪くはなかったが、せっかく目が覚めたのだからと、ドゥーエを起こしてしまわないように気をつけながら、シュリはそっとベッドを抜け出した。
すとん、と静かな部屋の中で微かな衣擦れの音を立てながら、シュリはベロア生地のスモーキーグリーンのネグリジェを脱いでいく。明け方の冷気に晒された肢体と頭をグレーのギンガムチェックのワンピースに通し、オークグレーのブーツに足を滑り込ませる。シュリはココアブラウンのケープを羽織り、自衛のためのナイフを腰に下げると、キィと小さくドアの蝶番を軋ませながら家の外へ出た。
朝が来る前の仄暗い闇を湛えた森の中をシュリは歩き出した。目覚めの刻(とき)を待つ森の中は静まり返っていて、金風が木々の間を吹き抜けていく音がやけに大きく聞こえた。
辺りには湿った土の匂いが充満している。夜露に濡れた落ち葉の下から覗く地面では、霜がきらきらと水晶のような無垢な光を放っていた。
出会ったときに深手を負っていたとはいえ、ドゥーエの傷の治りが遅いことにシュリは気づいていた。
基本的に自給自足の生活であることもあり、シュリが作る料理は野菜を使ったものに偏りがちだ。”人喰い”であるドゥーエには、人の肉を食べさせてやるのが一番であることくらい、シュリも知ってはいる。だからといって、ドゥーエのために誰かを殺すことも、自分の肉を分け与えることもシュリにはできそうになかった。
人の肉は無理だとしても、せめて何か少しでも栄養のあるものをドゥーエに食べさせてあげたいと思いながら、シュリは暗い森の中を危なげなく進んでいく。シュリは時折立ち止まっては、生い茂る木々の根元へと視線を走らせる。今の時期であれば、まだこの森に棲息する野鳥の卵が手に入るかもしれなかった。いつもよりも時間に余裕がある今日は、森の奥でドゥーエのために卵を探してみるつもりだった。
(こういう草むらの窪みに巣がありがちなはず……いくつか卵が手に入るようなら、じゃがいもとほうれん草を入れてオムレツに……)
時季が過ぎてほとんど花の落ちたハギの茂みをがさがさと探りながら歩き続けていると、ふいにシュリの聴覚にぐるるという低い唸り声が飛び込んできた。シュリははっとして背後を振り返り、顔を強張らせた。ふわふわと浮かれていた気分が焦りと緊張に呑み込まれていく。
(っ……オオカミっ……!)
食料が乏しくなる寒い時期、オオカミはパックと呼ばれる群れ単位で連携して狩りをする。今、シュリは自分を獲物として見定めたらしい八頭のオオカミたちに囲まれてしまっていた。卵探しに気を取られるあまりにオオカミに気づくことが遅れた己を呪い、シュリは歯噛みする。
オオカミたちによって、逃げ道はすべて封じられてしまっている。それに仮に逃げたとしても、自分とオオカミの足の速さを考えればすぐに追いつかれてしまうだろう。
(やるかしかない……!)
シュリは覚悟を決めて腰に吊るした短剣の柄に手をかける。手が恐怖にがたがたと震える。これで自分にできることなど高が知れてはいるものの、こんなところで無抵抗でオオカミたちの朝食になるのはごめんだった。
脳裏をちらりとドゥーエの顔が過った。なんでこんなときに、とシュリは戸惑いを覚えた。やだなあ、と小さく苦笑混じりに呟きながら、シュリは短剣を抜き放った。
(あたし……あいつと一緒に暮らすの、楽しいんだ。だから……)
こんな馬鹿な形でシュリが死んだと知ったら彼はどう思うのだろうか。どうするのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい。あいつがどうするかなんて、あたしの尺度なんかじゃ測れないっていうのに)
じわじわとオオカミたちが包囲を狭めてくる。彼らはシュリに飛びかかるタイミングを図っているように見えた。
ふいにシュリを取り囲むオオカミたちの一頭が地面を蹴って飛び上がった。こちらへ向かって、残像を描きながら滑空してくるその姿がやけにゆっくりと視界に映る。獰猛さを孕んだ静謐な金の双眸と視線が交錯する。冷たい死の気配が迫ってきているのを感じる。
オオカミから放たれる悠然とした空気感に圧倒されていたシュリは我に返ると、手にした短剣を構える。シュリに食らいつこうとするオオカミの大きく開けられた口腔の粘膜がぬらりとした赤い光沢を放っていた。
他のオオカミたちも、シュリを一網打尽にするべく、彼女へと向かって跳躍する。間近に迫ったオオカミへと向かって短剣を闇雲に突き出すが、多勢に無勢だ。とてもではないがこの場を生きて切り抜けられそうにはない。
そのとき、シュリへと向かってきていたオオカミが地面に叩きつけられた。え、とシュリは息を呑む。
「シュリ!」
切羽詰まった声で彼女の名を呼んだのは険しい表情を浮かべたドゥーエだった。オオカミたちとシュリの間に割って入ると、彼はシュリの手から有無を言わさずに短剣をもぎ取った。そして、彼は流れるような卓越した動きで、短剣を閃かせてオオカミたちを切り刻んでいく。やがて、シュリに襲いかかってきていたオオカミたちは、血溜まりの中に倒れ伏し、動かなくなった。
「シュリ……無事か?」
短剣の刃に付着したオオカミの血を外套の裾で拭いながら、ドゥーエはシュリを振り返った。機嫌の悪さを隠す気もないようで、その端正な顔は顰められている。
「ドゥーエ……助けて、くれたんだよね……? その……何か、怒ってる……?」
「お前な……」
そう言ったドゥーエの深紅の双眸の奥に怒りの炎が静かに揺れた。寝乱れたままの黒髪の隙間から覗く白い額には青筋が浮かんでいる。彼は怒気を孕んだ切れ長の目でシュリを睨み据えると、感情を押し殺した低い声で問うた。
「どうして、一人で出かけた? 森のこの辺りはオオカミたちの縄張りだ。迂闊に足を踏み入れれば、お前のような非力な小娘など、食われて当然だということくらいわかっているだろう?」
「それは……そう、だけど……」
ドゥーエの指摘にシュリは口籠る。
「でも、ドゥーエ、あたしが起きたとき、ぐっすり寝てたし……それに、今朝はちょっとうっかりしちゃったっていうか……」
「俺がこうしてお前を見つけられなかったら、今ごろどうなっていたかわかっているのか! 大体、目が覚めたらお前がいなくなっていて、家の近くやいつもの川の辺りを探しても見つからなかったときの俺の気持ちがわかるか!? どれだけ心配したと思っている! ああやってオオカミに襲われているのを見つけたとき、どれだけ肝が冷えたと思っているんだ!」
シュリの言葉を遮り、思わずといったふうにドゥーエは声を荒らげる。畳み掛けるように自分を心配する言葉を並べ立てていくドゥーエへとシュリは素直に頭を下げた。
「ごめん……」
ふう、と嘆息すると、ドゥーエは肩をすくめた。ふっと鋭さを帯びていた彼の表情が解け、柔らかく和らいでいく。ドゥーエは短剣をシュリに返しながら、
「ともかく、無事でよかった。だが、もうこんなふうに心配させないでくれ。何か用があって、危ない場所に立ち入らなければならないなら、俺を頼れ。仮に今朝みたいに俺が眠っていたとしても、起こしてくれて構わない。お前に何かあったら、俺は……」
ドゥーエの目が憂いで翳る。シュリは不思議そうに彼の顔を覗き込み、
「……ドゥーエ?」
「……何でもない」
気にするな、と言いながらドゥーエはごまかすように低い位置にあるシュリの頭へと手を伸ばすと、彼女の黒い髪をくしゃりとかき混ぜた。手に触れた彼女の存在とぬくもりが失われずに済んだことにドゥーエは安堵を覚えていた。
一体、自分は今、何を言いかけたのだろうか。なぜ自分はこんなにも彼女に執着してしまっているのだろうか。
(シュリのことなど、最後には”喰って”しまえばいいと思っていたはずなのに、シュリが危険な目に遭うことを看過できなくなっている……何故、こんな……?)
心の深淵にあるはずのその答えを、ドゥーエは知らなくていいと己の思考に蓋をする。その正体を知ってしまえば、後戻りできなくなってしまうような気がした。
帰るぞ、と冷え切ったシュリの右手首を強引に掴むとドゥーエは踵を返した。
朝を迎えられなかったオオカミたちの骸の上に、金色の光とともに死の静寂が降り注いでいた。
その日の夕飯の後、シュリはダイニングテーブルで針と糸を手に繕い物をしていた。向かいに座ったドゥーエは、今朝、オオカミの群れに対処した際に汚してしまったシュリの短剣の手入れをしている。二人の間に置かれたランプの火が時折ゆらゆらと揺れる。
シュリの手に握られたドゥーエの外套には、オオカミに襲われた彼女を助けるために早朝に大立ち回りを演じた際に、どこかに引っ掛けたらしい裂け目ができていた。そのため、朝のうちに洗濯したそれをシュリは針を手に繕っていた。
(うーん……ここは前にも破れた跡があるし、裏から当て布をして補強するべきかな……?)
シュリは外套の袖にできた裂け目を見ながら思案を巡らせる。確か使っていない端切れが戸棚にあったはずだと彼女は椅子から立ち上がった。
部屋の奥のスギの戸棚を開け、シュリは一番上の段から端切れの入った紙袋を取り出す。ドゥーエの外套と合わせても目立たない黒い端切れを取り出しながら、シュリはふと今日の礼をドゥーエに言っていないことを思い出した。
(あたし……ドゥーエにごめんって謝りはしたけど、ありがとうって言ってないな……)
シュリは何とはなしに端切れの入った袋を漁る。白と赤のバイアスボーダーが走る紺色の布に目を止めると、シュリはそれを引っ張り出した。
(そうだ、これでハンカチでも作って、ドゥーエにあげようかな。今日のせめてものお礼に)
それはとてもいい思いつきなような気がして、シュリは紙袋を戸棚に押し込むと、軽い足取りでダイニングへと戻っていく。
「ん? どうした? 妙に機嫌がいいな」
羊毛で短剣の刀身を磨いていたドゥーエは不思議そうに顔を上げる。何でもない、と含み笑いをするとシュリは椅子に腰を下ろし、外套の裂け目を直し始める。
外套の裏から黒い布を当てると、シュリは同色の糸を通した針で裂け目の周りをかがっていく。慣れた手つきで針を運びながらも、心がそわそわとするのをシュリは感じていた。
(ハンカチ、どうしようかな。せっかくだから刺繍とか入れちゃおうかな)
シュリは布と布を縫い合わせながらもちらりと窓辺に目をやる。ベッドサイドの出窓では、鉢植えのポインセチアの苞葉が赤く色づき始めている。
(そういえば、お母さんが昔、ポインセチアの花言葉は『幸運を祈る』だって教えてくれたっけ……)
近い将来、ドゥーエはきっとここからいなくなる。ドゥーエと過ごす今を心地よく感じている以上、直視したくはないけれど、受け入れなければならない現実だった。
せめて、一緒にいられなくなる時が来ても、長く続く彼のこの先の幸せを祈りたかった。そして、あわよくばハンカチが彼がこの日々を思い出すためのよすがになればいいともシュリは心の隅で考えていた。
シュリはドゥーエの外套を直し終えると、紺色の端切れを手に取った。アクセントになるように、白い糸でぐるりと布の外周を一定の間隔で縫い上げていく。
糸の末端の始末をすると、シュリは針を縫針から刺繍針へと持ち替えた。針穴に赤い糸を通すと、フィッシュボーンステッチで苞葉を布の上に描き始める。
針が布を抜けていく音。短剣の刃が磨き上げられていく音。会話もなく、それぞれの時間を過ごしているだけなのに、それがかけがえのないもののようにシュリには思えた。
(ああ……無くしたくないなあ)
ドゥーエのいる日常を。二人でいる時間を。寄り添い合う暖かさを。
もう何年も忘れていたこの感覚をまた失いたくない、シュリはそう思いながら、黄色の糸でポインセチアの小さな花々を布に刻んでいく。
二人で過ごす秋の夜長の風景をダイニングテーブルの上のランプが温かく照らし出している。真鍮の砂時計が橙色の灯りを反射してきらきらと光っていた。
◆◆◆
夜明け前の森でシュリがオオカミに襲われた一件から、数日が経った。普段通り、朝食と洗濯を済ませた後、出かける支度をしているのをシュリはドゥーエに見咎められた。
「出かけるのか?」
シュリは部屋の奥の戸棚から薬の入った小瓶の数々を取り出して木箱に詰めながら、
「うん。薬をノルスに卸しにいくんだ」
「……そうか」
ノルスとは、この森の近くにある田舎町である。ドゥーエがこの森に逃げ込む前に人を襲って失敗した場所でもある。
ただでさえ“人喰い”という人間に忌まれる存在である上に、ノルスの自警団によって警戒されているであろうドゥーエは、シュリと共にノルスへ行くわけにはいかない。シュリがオオカミに襲われた先日の一件が頭を掠めたが、ドゥーエが彼女に同行を申し出るわけにはいかなかった。
「ドゥーエ、あたし、今日一日留守にするから、家のことお願いしていい? 掃除とか薪(たきぎ)割りとか、野菜や薬草の世話とかさ。あと、日が傾いてきたら、湿気る前に洗濯物片付けてくれると助かるかも」
ドゥーエの憂いと葛藤を知ってか知らずか、木箱に薬の瓶を詰める手を止めると明るい声でシュリはそう言った。
「……ああ」
「お土産何がいい? 何か欲しいものがあれば、買ってきてあげる」
「別にそんなことは気にしなくていい。それより、そちらの箱も持っていくんだろう? 荷車に積んでおいてやる」
シュリの横に積み上がった木箱の山をドゥーエは手で示すと、オーク材のダイニングチェアから立ち上がる。ドゥーエは箱の山を軽々と片手で持ち上げると、台所横の裏口の扉から外へ出ていった。
ありがと、とシュリは艶やかで美しい黒髪が流れる長身痩躯の背中を見送ると、中身を詰め終わった木箱の蓋を閉める。壁にかけた使い古したキャメルのサッチェルバッグを取ってくると、財布と昼食用のナッツの詰まった巾着、水の入った山羊革の水筒を放り込んだ。
ココアブラウンのケープを羽織って短剣を腰に吊ると、サッチェルバッグを背負う。シュリはずっしりと重い木箱を抱えると、ドゥーエを追って裏口から外へ出ていった。
「それで全部か?」
先に運んできた分の木箱を積み込んでいたドゥーエは、シュリに気づいて振り返る。うん、と頷くと、ドゥーエは手を伸ばしてシュリから木箱を奪い取った。
「ごめんね、寒いのにこんなことやらせちゃって」
「気にするな。別にこれは俺がやりたくてやっていることだしな」
「へ……?」
どういうこと、とシュリが聞き返そうとすると、ドゥーエは照れ臭いのか、居心地悪そうに顔を背けた。ドゥーエはシュリから奪った木箱を荷車に積み込むと、箱が動かないように縄で固定していく。できたぞ、と少し気恥ずかしそうにシュリに一瞥をくれるとぼそりと口の中で呟いた。
「……気をつけて行ってこい」
「うん、ありがと」
シュリは微笑んだ。荷車の持ち手を掴み、行ってきます、と彼女が口にすると、ドゥーエは呆気に取られた顔をした。そして、一瞬の後、彼は口の端を吊り上げると、ぎこちなくシュリへと対になる言葉を返す。
「……あ、ああ。その……いってらっしゃい」
慣れない言葉の響きにくすぐったさを覚えてシュリはくすりと小さく笑った。つられてふっと声を漏らしたドゥーエの顔は、冬の蒼穹のように透明に澄んで美しかった。
(ドゥーエってこんなふうにも笑えるんだ)
きれいだ、と思いながらシュリはドゥーエへと小さく手を上げて見せる。そして、持ち手を掴み直すと、シュリはずっしりと重い荷車を引いて、森の出口へと向かって歩き出した。
ノルスの町外れにある薬問屋の前に荷車を止めたシュリは、コツコツと扉を叩いた。
「キサラさん、シュリです。今月分の薬の納品に来ました」
あいよ、と扉の向こうで嗄れた声が返事をした。程なくして、キィと扉が開き、一枚の書類を手にした小柄な老婆が姿を現した。
シュリは通常の相場の三割引きという条件で、キサラの店と契約をしている。シュリにとって不利な契約内容であることは間違いないが、それでも他に生きていく手段を持たないシュリにとって、このノルスの町では破格の条件であることは間違いなかった。
「キサラさん、こちらが今月分です。確認をお願いできますか?」
シュリは荷車に積まれた木箱の蓋をすべて開くと、キサラに納入内容の確認を促した。キサラは銀縁の眼鏡の奥のアイスブルーの双眸を細めると、手に持った書類の内容と荷車の薬品を照らし合わせていく。彼女はシュリが持ってきた薬を確認し終えると、
「今月分も問題ないよ。裏の倉庫に運び入れておいておくれ」
「わかりました」
シュリは荷車から木箱を下ろすと、店舗裏にある倉庫へと運んでいく。シュリが倉庫と荷車の往復を終えると、店の前でシュリの作業が終わるのを待っていたキサラから金貨の入った布袋を手渡された。袋の口を開けて中を確認すると、いつも通り金貨が十枚入っている。
「確かに受け取りました。キサラさん、もうしばらくここに荷車を止めておいてもいいですか? 帰る前に少し買い物をしてきたくて」
シュリの言葉にキサラは露骨に嫌そうな表情を浮かべると、
「構わないが、何かされてもわたしゃ責任取らないからね。それでもいいなら勝手にしな」
ありがとうございます、と頭を下げるとシュリはその場を後にした。
ドゥーエは土産など気にしなくてもいいと言っていたが、彼のために何か買って帰りたかった。普段なら因縁のあるこの町でなく、ひとつ先のシュトレーの街で必要な買い物をしていたが、今日は移動のための時間をドゥーエの喜びそうなものをじっくりと吟味する時間に充てたかった。
(人間のものは無理だとしても、ドゥーエはやっぱりお肉がいいのかな? 奮発していいお肉買って帰ってワインで煮込んで……そうだ、チーズも用意して、上にかけて焼いたら美味しいかも)
そんなことを考えながら、シュリは軽い足取りで町の通りを進んでいく。ドゥーエがどんな反応をするか、想像するだけで心が自然と弾んだ。
商店が軒を連ねる界隈に足を踏み入れると、肉を扱う店をシュリは探した。
きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら歩いていると、シュリは突然肩口に衝撃を覚えてたたらを踏んだ。背後を振り返ると、シュリにぶつかったらしいネイビーのキルティングコートの男が立ち去っていくのが視界に入った。聞こえよがしに舌打ちをするその男は、どうやらわざとぶつかってきたようで、悪びれる様子もない。
辺りの店からちらちらと無遠慮な視線がシュリへと投げかけられていた。通りすがりの人々も足を止め、悪意を孕んだ目を向けてくる。
「ほら、あの子……エフォロスの森に住み着いてる……」
「ああ、気味が悪いわよね……関わると不幸が訪れるとかっていう……あの子のせいでエレヌさんは弟さんを亡くしたっていうし……」
「何でもあの子の母親って禍いを振り撒く魔女だったって言うわよ……魔女の子は魔女だもの、何しにきたか知らないけど、早くこの町から出て行ってくれないかしら。安心して外を出歩けないわ」
ひそひそと漏れ聞こえてくるシュリを嫌悪する言葉に、彼女はすっと現実に引き戻された。ドゥーエのことを考えて高揚していた気持ちが、冷や水を浴びせられたかのようにすうっと急速に冷えていく。
こつん、とシュリの背中に何かがぶつけられた。足元を見ると石が転がっている。
それを皮切りに、シュリへと一斉に物が投げつけられ始めた。出ていけという言葉と共に心身に与えられる容赦のない痛みにシュリは歯を食いしばって耐える。目の奥が熱くなり、鼻腔につんと塩辛いものを感じる。
(駄目、泣いたら駄目だ。あたしは何もしていない。なのに、ここで泣いたりしたら、ノルスの人たちが言っていることが事実だって認めたことになる)
浮かれていた自分が馬鹿みたいだと思った。自分がノルスをうろつけば、嫌な思いをすることくらいわかりきったことのはずだった。買い物であれば、日を改めていつも通りもう少し足を伸ばし、シュリのことを知る人の少ない隣街のシュトレーまで行くべきだった。
料理に使う酒の瓶が飛んできて、シュリの左頬に叩きつけられた。痛みを感じた頬に手をやると、小さなガラスの破片が突き立っていた。シュリは頬に手をやってガラスを取り除くと、無造作に地面に放り捨てた。頬を濡らしているぬるりとした液体が酒なのか、傷口から流れる血液なのか確かめる気にはなれなかった。
シュリは痛みに耐えながらも、背筋をしゃんと伸ばした。相乗的に激しくなっていく、振るわれる覚えのない二種類の暴力に曝されながら、無言で前を見据えてシュリは大股にその場を歩き去った。
遠くから車輪の音と一人分の足音が聞こえてくるのを聴覚に捉え、ドゥーエは鍋をかき混ぜる手を止めた。そのときのドゥーエは、留守にしているシュリのために、彼女が育てているカブとブロッコリーでスープを作っているところだった。
(シュリが帰ってきたか……? だが、それにしては、どこかを庇っているような歩き方なような……)
嫌な予感が頭を過り、ドゥーエは手にしていた匙を投げ出した。長い脚で大股に台所を横切り、半ば叩きつけるようにして裏口の扉を開けると、彼は外へと飛び出した。
ちょうど家に着いたところだったのか、家の横にシュリが引いていった荷車が止まっていた。
「シュリ!」
黒髪の少女の姿を認めると、ドゥーエは彼女の名を呼んだ。痛いほどに冷たい空気に、声と共に白い息が霧散していく。
「ドゥーエ……」
へたり、とシュリの華奢な体がその場に頽れる。ドゥーエは彼女に駆け寄るとその体を抱き止めた。
「シュリ、お前どうしたんだ、それは……!」
シュリは全身に傷を負っていた。今朝はきちんとしていたはずの服が、あちこち汚れたり裂けたりしている。左肩がぐっしょりと濡れ、酒精と血液の入り混じった匂いが漂っている。彼女の頬を伝う血の色に、ごくりとドゥーエの喉が鳴る。
美味そうな匂いがする。口の中に唾が込み上げてくる。シュリの頬を汚す赤い色は、ドゥーエの”人喰い”としての本能を刺激するに充分なものだった。
ノルスの自警団の男を”喰って”からしばらくが経っていた。そろそろ次の”食事”をするべきタイミングが近づいていた。
シュリの肉はきっと柔らかくて甘いだろう。流れる血は極上の美酒のように芳醇で美味いに違いない。彼女を”喰え”ば、治りの遅い身体の傷の数々も癒えるだろう。
けれど、ただでさえ傷ついている、腕の中のこのか弱い生き物の顔がこれ以上絶望に歪むのを見たくない気がした。ドゥーエは頭の中を占拠する煩悩をかぶりを振って追い払う。
かすかな渇きの気配がちろりと指先を灼くような感触があったが無視をする。今はそんなことを気にしている場合ではない。シュリになにがあったのか、それが今のドゥーエにとっては何より重要だった。
「ノルスで何があった! 何をされた!」
何でもないよ、とシュリは力なく微笑んだ。その顔がドゥーエには泣き出す寸前の顔に見えた。ドゥーエはたまらなくなって、シュリの冷え切った傷だらけの体を抱きしめた。
「何でもない。あたしは大丈夫だから」
「大丈夫って顔じゃないだろう!」
思わずドゥーエの語気が荒くなる。腕の中のシュリの黒い瞳には痛みと悲しみの入り混じった色が揺れている。
とん、とシュリはドゥーエの胸元に血で汚れた額をつける。冷えた肌に伝わるドゥーエの鼓動と温もりに、シュリは自分の中を渦巻いていた感情が解けて和らいでいくのを感じた。
「心配させてごめんね。あたしのこと、気にしてくれてありがとう」
シュリは小さくそう呟いた。まったくだ、とドゥーエは苦々しく溜息を漏らす。無防備に自分の胸に身を預ける少女を何となく持て余して、ドゥーエは彼女の髪を壊れものを扱うようにそっと撫でた。
「何はともあれ、そのままでは風邪を引く。さっさと家の中に入って着替えて、温かい茶でも飲め」
そう言ってドゥーエが自分からシュリを引き剥がそうとすると、くりくりとした小動物めいた目で彼女は彼を見上げ、少し甘えたような声音で、
「ドゥーエが淹れてくれるの?」
「味は保証しないがな。薄かったり渋かったりしても文句は受け付けない」
ドゥーエはぶっきらぼうにそう言うと、シュリの冷たい手を握って立ち上がらせる。行くぞ、と彼は少し荒れた小さな手を引いて、彼女と共に家の中へと戻っていった。
終わりかけた秋の夜の闇に冷たく透き通った静寂が降りていた。
「ほら、飲め」
色褪せてはいるけれど清潔なリネンのラベンダー色のワンピースにシュリが着替え終えると、ドゥーエは茶の入ったカップをダイニングテーブルに置いた。シュリはウエストラインのリボンを結び、汚れた衣服をかごに放り込むと、テーブルへと着く。
「あったかい……」
カップの中の琥珀色の液体に口をつけたシュリの口から、思わずそんな言葉がこぼれ落ちた。冷え切った心と体に、ドゥーエの優しい心遣いが染み渡っていく気がした。
「……夕飯。スープがあるが、食うか?」
ぼそりとドゥーエがそんなことを聞いてきて、シュリは目を瞬かせた。
「ドゥーエが作ってくれたの?」
「美味いかどうかは知らんがな。それで、どうする?」
もちろん食べる、とシュリは大きく頷いた。ドゥーエが自分のために食事を用意して待っていてくれたことが少し意外でもあり、その心遣いが嬉しくもあった。
「なら、少し待っていろ」
照れくさいのか、ドゥーエはシュリと目を合わさずにそう言うと、壁際のスギの戸棚から木の椀と匙を二つずつ取り出した。ドゥーエは台所の竃にかけられた鍋からスープをよそって持ってくると、シュリの手に椀と匙を渡した。ドゥーエも自分の分の椀と匙を手に、テーブルを挟んでシュリの向かい側に腰を下ろした。
「いただきます」
シュリは両手を合わせ、食前の祈りを捧げると、匙を手に取る。匙で椀の中の液体を掬うと、シュリはそれを口に運んだ。
「美味しいね。優しい味がする」
喉を滑り落ちていくカブとブロッコリーのスープの味を感じながらシュリがしみじみとそう口にすると、ふん、とドゥーエは鼻を鳴らす。
「……塩辛いだけだろう」
「そんなことないよ。食べたらわかるもん。ドゥーエがあたしのために作ってくれたんだって」
「俺の分のついでだ。そもそも食事など、一人分作るのも二人分作るのも大して手間は変わらんからな」
その言葉は嘘だとシュリは思った。”人喰い”のドゥーエにとって、普通の人間と同じ食事など嗜好品程度の意味しかなく、必ずしも必要なものではない。けれど、その優しく不器用な嘘を糾弾する気にはなれなかった。
「いいよ、そういうことにしておいてあげる」
「お前なあ……」
ドゥーエは何か言いたげに憮然とした顔をしていたが、諦めたようにスープを啜り始めた。
いつの間にか自分の日常にいるのが当たり前になっていた彼の存在。誰かと囲む食卓。質素でも一人でないというだけで豊かな味わいに変わる食事。
何気ないはずなのに自分にとっては何よりも得難いそんな一つひとつに心が緩んでいき、シュリの口からぽろりと言葉が転がり出た。
「あのね、あたしさ」
「……ん?」
短く相槌を打つと、ドゥーエはシュリに言葉の続きを促した。
「この森にこうやって一人で住んでるせいでノルスの人たちには気持ち悪がられてるんだよね。死んだお母さんが流れ者の薬師だったのもあってさ。あたしは禍いを振り撒く魔女の子だって、ノルスでは言われてる。
ノルスで生まれ育ったお父さんが”人喰い”に喰われて殺されたのは、悪い魔女であるお母さんなんかと結婚したからだって、お母さんの娘であるあたしも魔女だからだって言われてるんだ」
ぽつぽつとシュリの口から紡がれる言葉に、ドゥーエは食事の手を止め、眉を顰める。
「そんなの言いがかりもいいところだろう。無茶苦茶だ」
「あたしもそう思うよ。だけど、人は何かあれば、それに原因や理由をわかりやすい形で求めずにはいられないものだから。だから……弱い存在――流れ者のお母さんや身寄りの亡くなったあたしがその標的になったっていうだけ」
「つまり、今日のあれは……」
うん、と悲しげにシュリの目が翳った。
「薬を納品に行った後、ちょっと用事があって町の中を歩いてたら、あたしのことをよく思わない人たちに物を投げつけられちゃって。まあ、ノルスに行くとたまにあることだから、あのくらいのこと、あたしはどうでもいいって思ってる」
「よくない」
ドゥーエはシュリの言葉を遮ると、じっと真摯な目で彼女を見据えた。
「俺がよくない。謂れのないことでそうやってお前が傷つくのは俺は嫌だ。それにお前がそんな顔をするのを俺は黙って見ていられない」
ありがと、とシュリは淡くはにかんだような笑みを浮かべると、ドゥーエの方へ手を伸ばす。彼女はかさついた小さな手でドゥーエの手にそっと触れると、
「そんなふうに言ってくれて、何より今ここにドゥーエ――ありがとうって言える人がいてくれることが嬉しい。あたしがノルスで何て言われてようと、どう思われていようと、ただそれだけのことでどんなことだってちっぽけなことだって思えちゃう」
「……そうか」
今し方自分が口走った小っ恥ずかしい台詞のらしくなさに、髪の中で尖った耳の先をほんのりと赤らめながら、ドゥーエは再びスープに口をつける。すっから冷めてしまったそれは、味付けを間違えたせいで塩辛いはずなのに、なぜか砂糖を入れすぎたレモンティーのような味がする気がした。
あと少し踏み込めば均衡が崩れてしまいそうな危うさと、一匙のくすぐったさを孕んだ空気が暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる室内で揺れていた。



