『人生ラン♪ラン♪ラン♪』~妻に捧げるラヴソング~


 支社に戻った翌日から本格的な検討を始めたが、常務ほどの大きなハードルは存在しなかった。包装紙とJANコード、ネーミングを変えるだけなので、工場での追加投資は必要ない。だから、比較的短期間で初期ロットを確保する目途がついた。

 次はプロモーションのための広告案とキーワードだが、これは専門家がしっかりと準備を進めてくれていた。

「より良い広告案を見つけるために『ABテスト』を実施しようと思います。画像やコピーなどを2種類用意して、実際にターゲット層の反応を見るものです。それを何度か繰り返すことによって、より反応が良い画像やコピーを見つけ出すことができます。『クリック率』や『レスポンス率』を検証しながら、一定以上の結果が出るまで続けます」

 これには門外漢のわたしが口出しをすべきではないと思い、担当者と乾に任せることにした。
 二人はさっそく打ち合わせを開始し、着々と準備を進めた。簡易版の通販サイトを準備した上でリスティング広告を打って、2種類の広告案の反応を比較することになった。

        *

 製品の準備が整ったのに合わせて広告が始まった。そして1週間後、反応が良かった方の案を残し、新たな別の案との比較を行った。それを何度も繰り返して、最終案に辿り着いた。
 二人の感触ではかなり手応えがあるようだ。わたしは期待を持って日々の受注状況に目を凝らした。

 二人の感触は当たっていた。ABテストで選び抜いた広告だけに予想以上の注文が舞い込んできた。新規客が計画以上に増えていき、それは1か月経っても2か月経っても衰えることはなかった。わたしは胸を撫で下ろした。そして、工場に2ロットの追加注文を出した。

 好調な出足に気を良くしたわたしは二人に感謝の言葉を伝えたが、彼らはにこりともしなかった。

「でも、これからですよね。新規で購入していただいたお客様が1回限りでなく何回もリピートしていただくようにしなければならないですから」

 乾は気を引き締めていた。それは担当者も同じだったが、タイミングを見ていたのか、新たな提案が彼の口から飛び出した。

「その通りです。通販で売り上げと利益を伸ばすためにはリピート客をいかに増やすかが鍵と言っても過言ではありません。そこで、メールマガジンを始めたらどうかと思っています」

「えっ、メールマガジンって、あのメルマガですか?」

 乾の声の響きは賛同とはほど遠いもののように思えたが、彼が気にすることはなかった。

「そうです。顧客に対して定期的に情報を発信して関係を維持していくものです」

「お得な情報とか、新製品の発売案内とか、ですよね」

「それもあります」

「でも、私もメルマガを毎日のように受信しますけど、ほとんど読みませんよ」

「それは、興味がない情報だからではないですか」

「そうですね、確かに。何日までに申し込めば何十パーセント引きとか、今買っている商品にもう一品追加すればこういう特典がつきますとか、買わせようという意図が見え見えのメルマガが多いので、最近は開封さえしなくなりました」

「そうですよね。乾さんのご指摘の通りだと思います。でも、だからこそやる意味があるのです」

「えっ?」

「売ることしか考えていないメルマガが多い中、顧客の立場に立ったメルマガがあれば際立つと思いませんか?」

「そうですね~、でも、お客様の立場に立ったメルマガといっても……」

「顧客の悩み、不安、不満に寄り添うものだったらどうですか」

「悩み、不安、不満、ですか……」

「そうです。共働き女性の気持ちに寄り添って、理解し、共感し、共に考えるという姿勢でメルマガを発信するのです」

「そっか~、商品ではなく、お客様の気持ちに寄り添う内容にするのですね」

「そうです。商品に関する情報は最後でいいんです」

「なるほど。確かに、そんなメルマガがあれば読むかもしれません」

 その言葉を待っていたかのように、彼は単刀直入に切り出した。

「乾さんがやってみませんか?」

「えっ? 私?」

「そうです。乾さんはターゲットの女性たちと同じ共働きで、その大変さを実感されています。顧客そのものと言ってもいいくらいですから、お客様の気持ちに寄り添えると思うのです。共働きという同じ環境で生活している仲間として、共に悩み、共に不安を感じ、共に不満をぶつけ合う、そんなメルマガにしたら共感を呼ぶのではないでしょうか」

 二人のやり取りを聞いていてうまくいきそうな気がしたので、思わず口を出した。

「乾さん、どう?」

 すると彼女はちょっと躊躇ったようだったが、それでも、「そうですね~、自分が経験している日々の大変さをメルマガという形で発信するのなら……」と前向きに捉えようとした。

「それでいいと思います」

 すかさず担当者が背中を押した。

「やってみようよ」

 間髪容れず、わたしも背中を押した。それでもまだ決心がつかないようで、首を傾げて自信なさそうな声を出した。

「でも、上手くできるかどうか……」

 もう1回背中を押そうかと思ったが、それをすると逆効果になりかねないという気がしたので、彼女がその気になるのをじっと待つことにした。すると、わたしたちの顔を窺っていた彼女が「自信はありませんが……」と声を出したので、すかさず〈君なら大丈夫〉というように大袈裟なくらいに頷いた。それを察知したのか担当者が同じように大きく頷くと、覚悟を決めたように「わかりました。やってみようと思います。その代わり、一緒になって考えていただきたいので、お力添えを頂きたいのですが」と躊躇いを消した。

「もちろんです。私たちはチームですから」

 担当者が胸に手を置くと、彼女は初めて安堵するような表情を浮かべた。

        *

 その1週間後、メルマガのタイトルを決めた。

『ゆり通信:共働き女性の喜怒哀楽』

 これは担当者の発案だった。企業名を出すよりも、発信者の名前を出す方が親近感が湧くのではないかというのが理由だった。わたしはすぐに同意した。乾は照れ臭そうにしていたが、それでも嫌とは言わなかった。

        *

 その2週間後、満を持して第1回のメルマガを発信した。すると、とんでもない反応が返ってきた。100を超える返信が届いたのだ。余りの多さに目をむくほど驚いたが、手応えをずっしりと感じることができたことも確かだった。

 その一つ一つに目を通していくと、夫や家族に対するものが多いことに気がついた。特に、家事や育児を手伝ってくれない夫への不満が過半数を占めていた。酒を飲んで夜遅く帰ってくる夫への辛辣な言葉も少なくなかった。
 半面、自分自身に対することも綴られていた。忙しくてイライラして、夫や子供に当たってしまう自分が嫌になるといった内容や、子育てに向いていないんじゃないかという不安だった。
 また、上司や職場に対する不満も多かった。上司との人間関係が最悪で、ストレスが溜まって不眠が続いていることや、残業が多くて帰宅時間が遅いので疲れ切って体も心も悲鳴を上げている、といった切実な内容ばかりだった。

 乾はもちろんその返信をすべて読み込み、彼女たちの気持ちに寄り添ったメルマガを送り続けた。すると、メルマガへの返信数は増加を続け、それと共に売り上げも増えていった。すべては順調だった。