「なーんか降りそうだなぁ。こりゃ」

一緒に店番をしているジルの声に、野菜を切る手を止める。隣に立ちどんよりした曇り空を見上げた。
昼時の混み合う時間帯も過ぎ、夕方からの営業に向けて準備をしているところだ。

「夜までもつかしら」
「早いとこ売りきっちまおう。呼び込みでもしてくるか」

ジルが出て行き、私も仕込みを再開させた直後。ぴかっ、とワゴンの外が光った。

「わっ。」

一拍遅れてゴロゴロと雷鳴が届き、あっという間にすさまじい雨が降り出した。人々が足早に通りを駆けていく。

「ひゃー。すげえすげえ!」
「大丈夫?」
戻ったジルにタオルを手渡す。

「これじゃ今日はもう店仕舞いだな。オーナーに連絡してくるよ」
「じゃあ私は片付けをしておくね」
「あぁ。頼む」

ワゴンから外に出ると、1月の雨の冷たさに体が震えた。風も勢いを増すばかりで目をきちんと開けていられない。
ビニール袋を両手に抱え、反対通りにあるいつものゴミ捨て場に向かおうとした時。

「……危ないよ」

ふわっ、と何かで頭が覆われた。顔を上げると誰かがジャケットで雨を遮ってくれている。 

「このまま行こう。あそこだろ?」

聞き覚えの無い声に戸惑いつつ、促されるまま通りを渡った。

無事にゴミ捨てを終え、そのまま近くのアパートの軒下に避難した。

「ひどい雨だね」 

ジャケットを被せてくれたのは若い男の子だった。濡れたシャツが肌にぴったり張り付いている。

「大丈夫?あなたが濡れてしまって」
「何でもないよ。これくらい」 

金髪を後ろでくくった彼は人懐っこい笑顔を見せる。背は高いけれど、私より年下かもしれない。

「私、そこのワゴン店で働いてるの。お店ので良かったら、タオル使って?今持ってくるわね」
「、あー……」
彼はなぜか決まりが悪そうな顔で頭を掻いた。 

「やっぱり覚えてない、よね?僕の事」
「え?」
「何度かお店を利用してるんだ。それに、ほら。前に、君に花束を」

あっ、と思った。
そうだ。花壇の所で花束を渡してくれた男の子がいた。
その後すぐに、なぜか不機嫌そうなイーヴァンが話しかけてきた事まで思い出してしまう。

「ごめんなさい。すぐに行ってしまったから……よく顔が見られなくて」
「そうだよね。名乗りもしなかったし」
「あの時も、お花ありがとう。しばらく部屋に飾ってたの。結構もったのよ」
彼は照れくさそうな表情でそうか、と呟いた。

「じゃあ、いま名乗ってもいい?アレクサンドルだよ」
「アレクね。私はハルよ」

── 『変わった名だな』。

ふいに、頭の中でそんな声がして
目の前にいるアレクの顔がぼやけた。
「……ハル?」
「だ、大丈夫」
慌てて目を擦る。

「次にあなたを見かけたら、声をかけるわね。私、タオル取ってくるね。雨も少し弱くなったみたい」

軒先から出て行こうとした途端。腕を引かれ、体が反転した。
「っ、」
転びそうになった体はしっかり支えられ。気が付いたら唇が重なっていた。

「……ごめん」
アレクが呟く。

「いきなりこんな事して、ごめん。でも僕、本気なんだ。一目見た時から君の事……」
その時、彼の肩越しにワゴンに戻るジルの姿が見えた。無理矢理体を離しそちらへ走る。

「あ、」
後ろでアレクが何か言っていたけれど、雨音に紛れてよく聞こえなかった。

「ハル!びしょ濡れじゃねぇか」
ワゴンに飛び込んだ私を見てジルが目を丸くする。
「オーナーに許可取ってきたよ。今日はもう客も捕まらなさそうだし閉めていいってさ」
「……そう」
「ごめんな、片付け一人で任せて。って、どうした!?」
ジルの姿を見たら、安心して涙が溢れた。

「な、んでもな……」
「何でもない訳ねぇだろ!は、腹でも痛いのか?」

慌てふためくジル。笑いたいのに、嗚咽が止まらない。今さっき自分の身に起きた事が受けとめられなかった。

「だーっ!泣きやめ!誰だ、うちの看板娘泣かせた奴は?」

大きな手でわしゃわしゃ頭を撫でられる。ジルの不器用な優しさに、また涙が出てきてしまう。

胸が痛くて。
痛くて、痛くて。

もう記憶の中でしか聞けない声を
こんな風に思い出す度に辛くなるのは、嫌だった。

強くならなきゃ。ちゃんと。
強く、ならなきゃ。