── パァン、と。突然、東の方向で銃声がした。
「きゃあっ」
「なんだ!?」
一瞬の静寂の後、ぐわっと人波が押し寄せる。
「暴動だ!」
街中は大混乱になった。人々は悲鳴を上げ、押し合いながら一斉に反対方向へ走り出す。
手が離れている事に気付き視線を前に戻すと、ハルがその場に蹲って震えていた。
「おい、どうした?」
慌てて肩を抱く。彼女の顔は青白かった。
「ごめ、なさ……わたし……」
消え入りそうな声に紛れ、もう一発銃声が轟く。さっきよりも近い距離だ。
「とにかく逃げよう。立てるか?」
ほとんど抱えるようにして彼女をその場から連れ出した。
「……7歳の時に、初めてロシアに来たの。父に連れられて」
街を抜け、偶然見つけた無人の広場。古びた遊具の階段に二人で座った。
「生まれはどこなんだ」
「日本よ。父がロシア人で、母が日本人」
……アジアの血が入っていたのか。彼女の顔立ちと黒髪にも合点がいく。
「母は私を産んですぐに病気で亡くなったの。ずっと父で二人で暮らしてた」
どこを見るでもない瞳で。彼女は静かに語り出す。
「自分が昔お世話になった教会だ、って父はドゥーブル教会に連れていってくれた。でも私、そこで熱を出してしまって。シスターが看病してくれている間に、父がお医者さまを呼びに行こうとしたの。そうしたら……」
彼女の小さな手に、力が入るのがわかった。
「教会から出た途端に拳銃で撃たれた」
「どうして!?」
「後から知ったんだけど、革命に携わろうとして色々行動を起こしていたみたい。それをよく思わない、政府支持派の人たちに……」
ぞくり、と肌が粟だつ。衝撃的な告白だった。
「でも当時はそんな事わからないから。冷たくなった父にすがって泣いて、泣いて……。身寄りが無くなった私を教会がそのまま引き取ってくれたの。修道院で暮らしてるのはそういう訳よ」
「……前に言ってた修道女になれない、っていうのは?」
「革命に関わった父は、政府に罪人にされてしまったから。娘の私にその資格は無いの」
そんな、と思ったが口に出来なかった。そういうものであろう事は何となく想像がつく。
「教会の皆はとてもよくしてくれるのよ。子どもの頃は言葉もわからないし、心細くて毎日泣いてばかりいたけど。今はちっとも淋しくない」
控えめな笑顔に胸が痛む。本心か強がりかわからなかった。
「父が撃たれた時の事、今でもハッキリ覚えてるの。だから銃声が……怖くてたまらない」
俯いた彼女が、両手で顔を覆う。肩が小刻みに震えている。
「そうだったのか……」
故郷から遠く遠く離れた国で彼女が一人、背負ってきたもの。
修道服を着る事も許されず、これからも背負っていくもの。
その重さを思うと、どんな言葉も軽率な気がした。
「あなたに助けられてばかりね。恥ずかしいくらい」
彼女は指で目元を拭い、笑った。
立ち上がり、ワンピースに付着した土埃を払っている。
「今日はこれからお店番なの。もう行かなきゃ」
「……明日」
「え?」
「明日は仕事何時まで?」
丸い瞳が俺に向けられる。自分の口から出ようとしている言葉に、自分が一番驚いていた。
「8時までだけど」
「君に見せたい場所がある。8時ならちょうどいい。時計塔の下で待っていてくれないか」
……俺は、
本当に連れて行くんだろうか。
自分だけで大切にしてきた、あの場所に。明日、彼女を連れていくんだろうか。
赤々と燃える暖炉の炎を見ながら考える。
ダニーはまだ帰らない。今日は戻らないつもりかもしれない。
── 『あなたに助けられてばかりね』。
「……ありえない。情にほだされるなんて」
いつものソファに身を投げ目を閉じる。眠気はすぐにやってきて、夢の世界へずり落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ここから暗くなるから。手を貸すよ」
「ありがとう」
翌日の夜。
約束通り、俺と彼女は二人で山道を上っていた。
街灯の光が届かなくなる頃、手をとった。
「怖くないか?」
「大丈夫。あなたがいるから」
月明かりの下。ふわんと微笑む彼女に、俺も微笑みを返す。
何気なく発された言葉に違いないのだが妙に胸をくすぐって、繋いだ手に力を込めた。
……馬鹿だな。
こんなに初心なはず無いのに。
何で、
「ほら。着いた」
最後の急斜面は、引っ張り上げるようにして上らせた。
「わぁ……!」
目の前一面に広がる夜景に彼女の顔が輝く。
「良い場所だろ」
何度も頷きながら、目は夜景から離せないようだった。思った以上の反応に吹き出してしまう。
「ベンチがある」
「ガキの頃に俺が置いた」
「本当?」
「大変だったんだぜ?これ担いで上ってくるの」
並んで座ると、肩先が触れ合った。
……こんなに小さいベンチだったんだな。
初めて知った。ここに誰かと座った事なんて無かったから。
「こうして見ると、この街も広いのね」
「あぁ。あの辺が君と落ちた噴水」
顔を寄せ、あの辺、と指し示す。
「そしてあの辺りが、君が誘拐されかかった裏通り」
「もう」
くすくす笑いあい、また光の流れる街を眺めた。
夜景に照らされた彼女の横顔は本当に楽しそうで。あぁ、と思う。
……良かった。
やっぱり、連れてきて良かったんだ。
「実はさ。俺も家族がいないんだ」
彼女が振り向く気配がする。
「物心ついた時にはもういなかった。両親の記憶も残ってない」
「誰に育てられたの?」
「誰も。ずっと一人で生きてきた」
初冬の夜風が、冷たく頬を撫でていく。
「街中は騒がしいけど、ここに来ると落ち着くだろ。ここに座って、ただ夜景を見てるのが好きだった。ガキの頃からずっと」
「あなたの特別な場所なのね」
「そう」
自分の生まれを、人に話した事なんてなかった。
でも本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
一度溢れた言葉は止まらなかった。
「誰も生き方を教えてくれなかった。毎日必死だった。ただ、生きる為に」
そうだ。必死で必死で、必死でここまできた。
だって、知らなかった。他の生き方なんて知らなかった。
自分の気持ちに蓋をして。
他人の気持ちは見えないフリして。
「……俺は、君に言えないような事も随分やってる」
彼女は、静かに俺を見ている。
「過去は変えられないけど。ただ君と話してると、そんな自分がたまらなく嫌になるよ」
それきり。二人の間に長い長い沈黙が降りた。
「……悪い。俺、何言って」
「イーヴァン」
俺の言葉を遮って。
「それでも、あなたは何度も何度も私を助けてくれた」
体ごとこちらを向いた彼女にぎゅっと両手を握られる。
「過去に何があっても。私にとってのあなたは……ただ優しくて、とてもあたたかい人よ」
真剣な眼差しと、落ち着いた声と。妙に熱い手のせいで、ふいに涙腺が緩む。
「はは、」
顔を見られないように慌てて彼女の肩に顔を埋めた。
優しく背中をさすられて、声の震えが抑えられない。
「そんな訳……ないだろ」
まるで彼女そのものみたいな。柔らかくて、甘い匂いがする。
もうぐちゃぐちゃな感情のまま、そっと目を閉じた。
ハルを教会の側まで送り届けた後。家に戻った俺は、紙袋を開けた。
『お店のキッチンの有り物で作っただけだけど』
お腹が空いたら食べて、と別れ際に渡されたものだ。
「おぉ、」
中から出てきたのはプラスチックのパックに詰まったサンドイッチとナゲット。そしてボルシチだった。
濡れたナプキンで手を拭いていると
「いやぁ、また新しいカモになりそうな奴が見つかったぞー!」
上機嫌のダニーが帰宅した。
「あとは金持ちだといいんだが。ん?」
家に飛び込んだ勢いのまま俺の側まで来て立ち止まる。
「美味いよな。ここのホットドッグ」
ダニーは紙袋に書かれた店名を指さしている。
「知ってるのか」
「綺麗な女の子が売ってるって評判だったもんでね。一度食べてみた」
「評判?」
「そうだ。黒髪で、目のクリクリーっとした可愛い子じゃなかったか?」
「……あぁ」
完全にハルの事だ。
「彼女の時間にはいつも行列だそうだぞ。確かワゴン販売だろ?その日によって場所が変わるのもまた希少性があって良い」
ダニーの話を頬杖をつきながら聞く。何故か面白くない気分だ。
「でも、サンドイッチなんてあったかな?どれ、一つだけ」
手を伸ばしかけたダニーに、パックごと背を向ける。
「やめろ。特別メニューなんだよ!」
齧りついたサンドイッチは、香ばしく炒ったベーコンとレタスの味がした。
◇ ◇ ◇ ◇
彼女を次に見かけたのは一週間後だった。
出国許可証の不正受給の依頼があり、全ての手続きを終えた帰り道。通りがやけに賑わっていると思ったら、見覚えのある白いワゴンが停まっていた。
道理でさっきからホットドッグを手に持った奴とすれ違う訳だ。遠くから見てみるも、ハルは店頭には出ていないようだった。
辺りを見渡すと、反対側の通りに設置された花壇の縁に座って何か口に運ぶ彼女がいた。
店の制服を着ている。遅い昼休憩なのだろうか。
前回見せた醜態を思い返すと声をかけるのを何となく躊躇してしまう。少し離れた場所で二の足を踏んでいる間に、
「ん?」
花束を抱えた若い男が一人、彼女の元へ走り寄った。
男はハルに何やら声をかけ、彼女の胸に無理矢理それを押しつけて再び走って去っていく。
「……な、んだ今の」
ハルは花束を見つめたまま固まっていた。
『彼女の時間には、いつも行列だそうだぞ?』
ダニーの言葉はどうやら真実であるらしい。
ため息を吐いて歩き出す。
「随分繁盛してるんだな?君の店」
どかっと隣に腰かける。横に置かれた花束が目に入らぬよう、わざわざ逆側に座った。
「……なに怒ってるの?」
「別に?何も」
「うそ。怒ってる」
「だから怒ってな……むぐ、」
彼女の方を向いた瞬間、口に何か詰め込まれた。
「新作よ。美味しい?」
頷くしかない。そもそも口がパンで一杯で喋れない。
「良かった。メニューに追加してもらえないか頼んでみる」
笑顔でそう言った彼女は、一口分減った棒状のサンドイッチを自分も齧る。
「もう一本作ってきたから、あなたにあげる。試食してくれたお礼に」
「……いや。こっちでいい」
鞄を開ける彼女の左手から、すっと取る。
「え?食べかけよ」
「いいんだ。」
不思議そうな視線を無視し、残り半分くらいになったパンを口に入れた。
「……変な人。」
彼女はいつも、凪いだ海のように穏やかで
でも芯はとても強くて。
ハルの纏う、ふんわり柔らかな空気は
いつしか俺にとって心地の良いものになっていた。
「あっ」
「ん?」
「雪。」
空を見上げると、曇った空からちらちらと粉雪が落ちてくる。
「本当だ。初雪だな」
「綺麗。一緒に見られて良かった」
……あぁ、また。
そんな風に言うからいちいち調子が狂うんだよ。
「無意識なんだろ。どうせ」
「なに?」
「何でもない」
わざと、ぶっきらぼうにそう言った。
── この日。
彼女に声をかけた事を、後に死ぬほど後悔する。
詐欺師として緩みきっていた俺は、影から見られている事にも気付けなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日の夜。いつものように過ごしていると突然、ドアをノックされた。
隠れ家であるこの場所を知る人間はいないはずだ。ダニーと顔を見合わせる。
そうしているうちにまたコンコン、とドアを叩く音。
「……」
ダニーがワインボトルを後ろ手に隠し持ち、慎重にドアに近付いた。
「やぁ。邪魔するよ」
「アーサー!?」
その名を聞き、弾かれたように立ち上がる。
驚くダニーを押しのけどかどかと入ってきたのはロシアに幾つも存在する詐欺グループの実質的なリーダー、アーサーだった。
「久しぶりだな、イーヴァン。どうした?最近大人しいそうだが」
「……どうしてここを知ってる?」
「お前たちの縄張りは、金を持った観光客で溢れてる。今が稼ぎ時なんじゃないのか」
俺の問いに答える気は無いらしい。
金髪をオールバックに固め黒のスーツを着たアーサーは、我が物顔でソファに腰かけ煙草をふかす。
「何の用だ」
「君たちに協力を頼みたい。久しぶりにデカい案件だ」
「協力?」
アーサーの持つ威圧感に少々たじろぎつつ、ダニーが空き缶を差し出す。
「五日後。大通りのメインバンクに多額の金が運び込まれる」
煙草の煙が、細く天井に上る。
「ある大会社の社長が、月に一度車で乗り付け金を預けに来るんだ。そこに奇襲をかけて車ごと奪う」
「なっ……!?バカな。いよいよ大犯罪じゃないか」
「そうだ。だから人数が要る。相手は警備の人間も連れているが、大勢で一気に攻めれば簡単だ。報酬は山分け。君たちも大切な仲間たちも、当分食うに困らない」
「すごいじゃないか!」
ダニーは目を輝かせ、身を乗り出している。
「確かな筋の情報なんだろうな?」
「もちろん」
「詳しい話を聞いておいてくれ、イーヴァン!お、俺は仲間を集めておく!」
家を飛び出すダニーを、アーサーが笑いながら見送る。
「ははは、張り切ってやがる。まだあのジジイとツルんでるんだな?」
「……」
「まぁ奴には鞄持ち程度しか期待しちゃいない。せいぜい若い仲間を集めてくれればいいが」
沈黙が続き、部屋中に甘い匂いの煙が満ちる。
アーサーが二本目の煙草に火をつけた頃
「……捕まったら処刑だ。俺はのれない」
そう口を開いた。
アーサーが眉根を寄せる。射竦めるような視線から逃れるべく、立ち上がった。
「らしくないなぁ。怖いのか?」
「違う!」
「じゃあ、」
ねっとりした声が全身に絡みついてくる。
「命を懸けられない理由でも出来たか」
何も言えずにいる俺の背中に、
「── 彼女は恋人か?」
そんな言葉が飛んできた。
「何?」
「あの華奢で可愛らしい子だよ。ホットドッグ屋の」
耳を疑った。振り返る俺の顔を見て、アーサーは楽しげに笑う。
「異人をものにするとは。お前も隅に置けないなぁ」
心臓が早鐘を打っている。
まさか。まさか。
どこで、
どこで見られた?
「あの子のカラダ。一晩幾らくらい稼げるんだろうな?」
「……ふ、っざけんな!」
耳元で囁かれ我を忘れた俺は、アーサーに掴みかかっていた。
「調子に乗るなよ、イーヴァン?」
地の底を這うような、重たく低い声。
「詐欺のやり方を一から叩き込んでやったのは誰だと思ってる。貴様が今生きているのは誰のおかげか忘れたか?」
思わず手の力が緩んだ瞬間に襟首を掴まれ、思い切り投げ飛ばされた。
「今更、陽の当たる場所に出ていけると思うなよ!」
テーブルの角に顔を強打し、あまりの痛みに目が眩む。口内には瞬く間に血の味が広がった。
「五日後だ。協力してくれるだろ?親友」
俺の顎を掴んだアーサーがにやりと笑った。
── 果てしない絶望を感じていた。
どこまでいっても自分は自分である事に。
自分が、自分でしかない事に。
彼女が少しだけ見せてくれた希望の光は
もう全く届かなくなっていた。
それから二日間は闇市に店を出した。
道行く観光客に片っ端から声をかけ、手段を選ばず売りまくる。『別人みたいなやる気だな』と商店仲間からまた野次られたが、気にしない。
アーサーの作戦決行日まで頭を空っぽにしていたかった。金を稼ぐのが一番気が紛れた。
「いくら?」
三日目の昼、アメリカ人の団体旅行客を相手にしていた時の事だ。
冬だというのに大胆にスリットの入った黒のドレスを着た女が、店頭に立ち声をかけてきた。金髪がゴージャスに巻かれている。
「このブレスレット?安いよ。たった500ドルだ」
明らかに金持ちと見えたのでふっかけてみる。彼女は表情一つ変えずに言った。
「1000ドル出すわ」
「、は?」
「だから……」
肩を引き寄せられ、
「あなたごと買わせて?」
吐息のかかる距離で囁き声がした。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味よ。今夜一晩。どう?」
派手な雰囲気の美人だが、割と年は食っていそうだ。年齢を隠すためなのか信じられないほど化粧が濃い。
「バカバカしい。そういう商売じゃないんだよ」
「いいじゃない。若くて良い男と遊びたい気分なの」
「旦那と来てるんじゃないのか」
さっきまで彼女と連れだって歩いていた、小太りの中年男をちらっと見る。顎髭を触りながら他の店の店員と談笑していた。
「あれを潰すのは簡単よ。強い酒を飲ませればすぐに寝ちゃうの」
「……」
「お金が欲しいんでしょう?こーんなイミテーションで儲けようとするくらいだもの」
女が店頭に並んだ商品を摘み、せせら笑う。左腕は完全に捕まっていた。
「1200ドル出すから。ね?」
頭の中で誰かの声がする気がするが、靄がかかったみたいにハッキリしない。
何も深く考えたくない。何も。
「……いいよ。」
「いい……すごくいいわ。イーヴァン」
深夜。俺は女が別に用意したホテルの一室に呼ばれていた。
むせかえるような香水の匂い。サイドボードに置かれた純金の時計。真っ赤な鋭い爪。
魔女かよ、と思う。
「あぁっ」
肌に舌を這わせると、女は大げさによがってみせる。わざとらしく鼻にかかった声で俺の首に手をまわす。
「ねぇ。もっと……きて?」
上目遣いでそうねだられ、言われるままに体勢を変える。女をうつ伏せにして腰を抱え直した瞬間、アーサーの声が蘇る。
『今更、陽のあたる場所で生きていけると思うなよ!』
── あぁ、もう
どうにでも なれよ
「っ、あっ!」
「く……!」
後ろから一気に貫き、まるで八つ当たりのように激しく動いた。女が喘ぎながらめちゃくちゃにシーツを握る。
視界の端で揺れる胸を揉みしだく。
「はぁっ、は……っ」
俺の呼吸も荒くなる。終わりが見える。
頭を何かが過ぎりそうになる度、必死に必死に追い出した。
「朝帰りとは珍しい。忙しかったのか?」
すっかり陽も登りきった頃、体を引きずって家へ帰った。コーヒーを飲んでいるダニーの目の前に無言で札束を放る。
「どうしたんだ、この金!?」
素っ頓狂な声が部屋中に響いた。なおも無言を貫き、ダニーを見返す。
「こ……んの、色男!」
全てを悟ったらしいダニーが、満面の笑みで俺を指さした。
「寝る。」
それだけ返し、寝室へ引っ込んだ。
ドアを閉め、腕時計を外して香水臭いシャツを脱ぐ。
「1500ドルもあるぞ、おい!!」
はしゃいだ様子のダニーがそう声をかけてくるが、返事もできないほど疲れきっていた。
「……」
ぽつ、と雨が降るように。
自然にハルの事を考える。
夜景に照らされた横顔。俺に無理矢理パンを食べさせ『美味しい?』と笑った声。
一晩中思い出さないようにしていた彼女の姿が次から次へと浮かんでくる。
『あの子のカラダ。一晩幾らくらい稼げるんだろうな?』
「……くそったれ、」
右手に持っていたシャツを、ベッドに叩きつけた。
◇ ◇ ◇ ◇
アーサーの計画を実行する日がやってきた。
犯罪を犯すにはあまりに不似合いな、晴れた平日の昼下がり。この為に集まった大勢の詐欺師やマフィア達が四方向に散り散りになって銀行まわりに潜んでいる。
俺も仲間を従え、行き交う人々を路地裏から眺めていた。
「イーヴァン。間もなくだ」
「あぁ」
ピンと張りつめた空気が辺り一帯を包む。息を殺して合図を待った。
やがて銀色の高級車が現れ、銀行前に横付けされた。正面に潜んでいたアーサーが右手を挙げる。
「……いくぞ、」
「うわっ、なんだ!?」
「誰だ!?貴様ら!」
一斉に襲いかかる大勢の男達。その場は大混乱に陥った。
車に乗っていた警備員、秘書と思われる男を順番に殴り飛ばす。人数は既に調査済みだった。そしてアタッシュケースを抱えた社長自身を引きずり下ろし、ケースを奪ってアーサーに投げ渡した。
「やめろ!やめてくれ」
もみくちゃになりながら叫ぶのが聞こえるが、もう車に近付く事は不可能だろう。
「離れろ!怪我したくなかったらな!」
たまたまその場に居合わせた一般人もそう脅され逃げ惑う。大勢の援護を受けて悠々と車に乗り込んだアーサーが、運転席から俺に目配せした。
「散れ!」
俺の指示で仲間が一斉に引く。その瞬間、アーサーはアクセルを踏み込みあっという間に姿を消した。
「イーヴァン!」
少し離れた所に馬車を待機させていたダニーが、中から手を差し伸べる。掴んで一気に飛び乗った。
「やったな!大成功だ」
「あぁ」
本当に、笑ってしまうくらいスムーズに事が運んだ。
俺たちのように馬車で逃げる者。車で逃げる者。走って逃げる者が一番多いが、計画に携わった仲間も皆それぞれの方法でその場をずらかる。
あとは一人も捕まるような事が無ければ完璧だ。
俺たちも馬車を出そうとした瞬間、外から馬のいななく声が聞こえた。仲間の一人が咄嗟に奪った馬車馬が暴れているようだ。降り落とされないよう必死でしがみついている。
「制御不能になってる。まずいぞ」
「様子を見てくる」
馬車から飛び降り、近くの建物の影に屈んだ。
通りには徐々に人が集まり出している。その先に目をやり、血の気が引いた。
ハルの店の白いワゴンが停まっていた。
「な……」
何でここに、と思ったが答えは簡単だった。
今日はたまたま銀行と同じ通りに出店していたのだろう。悪夢のような偶然だった。
「この!大人しく……っ」
仲間の一人がなおも諫めようと手綱を握っているが、馬は全くいう事をきかない。仲間の顔にも焦りが見える。
石でも投げて馬の気を引こうか考えているうちに、ハルが突然店の外に走り出てきた。驚いてそちらに目をやると太った老婆が店の前に座り込んでいる。彼女は立ち上がらせようとするが、婆さんは短く悲鳴を上げ首を振る。足でも挫いているのかもしれない。
ハルは馬の様子を見ながら必死に肩に担ごうとしている。が、あの体型の人間を彼女が支えられるはずもない。膝をついた状態からどうしても立ち上がる事が出来ない。
「バカ、早く逃げ……」
「うわあっ!」
どよめきにハッとし振り返ると、仲間が馬から振り落とされる瞬間だった。
自由になった馬はますます興奮し、
彼女に向かって一気に突っ込んでいった。
「どけろ、ハル!!」
気が付いたら、物陰から飛び出しそう叫んでいた。
なおも婆さんを背中に庇った彼女が一瞬こちらを見る。加速した馬が、彼女の姿を遮った。
── ダメだ
間に合わない、
「……っ!」
思わず目を逸らした時だった。
辺りに一発の銃声が轟き、動きを止めた馬がゆっくりと地面に倒れ込んだ。制服を着た警察官が銃を構えている。銃口からは煙が上っていた。
射殺された馬の向こう側で彼女がへたり込んでいる。
「……」
俺たち二人だけ時間が止まったかのようだった。警察官が駆け寄り何か声をかけているが、ハルは力の無い瞳でただこちらを見る。俺も目線を外せなかった。
「イーヴァン!警察に見られたらまずい。戻ろう!」
慌てたダニーに腕を引っ張られ、ようやくその場から離れた。
アーサーからの報酬は予想以上だった。
計画に加担した仲間達は初めて手にする額に狂喜乱舞し、早速連れ立って夜の街に繰り出した。
何も言わずに輪を抜け、一人で山道を上る。夜の山は冷え込みがきつくさっきから雪もちらついている。クリアに澄んだ空気のせいで、思考が延々とまわり続けた。
あの時。馬が銃殺されなければ、俺の目の前で彼女は死んだかもしれない。
そうなったら俺は。
俺は、どうしてたんだろう。
山頂に到着すると、いつものベンチに誰かの背中が見えた。
……いや、この場所を知っているのは一人だけだ。
しんしんと降る雪の中。微動だにせず夜景を眺めている。
一歩近付く度に、靴の下で枯れ葉が音を鳴らした。
彼女がゆっくりと振り返る。目が合ったところで足を止めた。
「……ここに来たら、あなたに会えるような気がして」
立ち上がった君はそう言った。真っ赤な両手と鼻の頭が朧月に照らされる。
「危ないだろ。こんな夜中に一人で」
驚きと呆れと。ほんの一匙、でも確かな嬉しさも。
ごちゃ混ぜの感情を持て余しながら足を進める。
「修道院を抜け出してきたのか」
君が頷く。
「悪い子だ。バチが当たるぞ」
自分のマフラーを外し、首に巻いてやった。男物のそれは当然大きく、彼女の顔の半分がほぼ隠れてしまう。
「私の心配なんかしてる場合じゃないでしょ?」
彼女は俯いたまま俺のコートの裾を握った。
「あの婆さんは、君には運べない」
泣きそうな表情をしたハルが俺を見上げる。
「無茶するなよ。わかるだろ?危うく一緒に死ぬところだ」
「でも。見捨てるなんて出来ない」
「……そうだな。君はそういう奴だ」
そういう君が
君の、事が
「── なぜ俺があの場にいたか聞きたいんだろ?銀行を襲撃したグループに手を貸していたんだ」
ハルは両目を大きく見開いた。
「ど……うして」
「どうしてって。仕事だからだよ。前にも話しただろ?俺は君に言えないような事ばかりやって生きてるって」
半ばやけくそになり、自嘲気味に続けた。
「この前なんか、金持ちのアメリカ女に1500ドルで買われたぞ。一晩好き放題された」
「やめて!」
普段物静かな彼女の
「そんな話……聞きたくない」
こんなに悲痛な声を聞いたのは、初めてだった。
「軽蔑した?」
俺のコートを握りしめる手をやんわり振り払い、そのまま背を向けた。
「縁が切れそうで良かったな。君の店にだっていつか忍び込んで、金を盗み出したかもしれない」
「あなたはそんな事しない……!」
「なぜ言い切れる!?」
思わず語気を強める。
何だか、もう全てに。全てに嫌気が差していた。
「俺の何を知ってる?」
「……っ」
「俺は詐欺師だぞ!君を騙すなんて……簡単なんだよ」
ハルは明らかに傷ついた顔をしていた。
瞳から、涙がひとつだけ落ちる。
「どうして泣くんだよ」
「わから、な……」
零れる涙が後から後から頬を伝う。
「あなたといると……ダメなの。心が乱れてばっかりで、苦しいの」
しゃくりあげた彼女は、俺のマフラーに顔を埋めた。
……なぁ。神様
今だけでいいから、
見ないふりしてくれないか。
そうしたら 今すぐ彼女を抱き寄せて
小さな手を引いて
このまま 二人で
このまま、
「俺も同じだよ」
濡れた瞳で見つめられ、胸が軋む。
「自分じゃないみたいだ。……おかしいよな」
彼女に抱く特別な感情の正体を、本当は知っていた。
向けられた想いに気が付かないほど子供でも鈍感でもなかった。
「ハル」
それでも。
「もうここには来るな。」
彼女の表情は変わらない。そう言われるのをわかっていたみたいに。
「街で会っても声をかけちゃダメだ。俺もそうする」
「……」
「いいよな?」
彼女が頷いた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
ベンチを挟み見つめ合ったまま、どれくらい時間が経ったのだろう。こちらに歩いてきたハルはマフラーを外し俺に差し出した。
「送っていくよ」
「大丈夫」
掠れ、震えた声だった。
「一人で帰れる……っ」
「おい!」
駆け出した背中は夕闇に溶けてすぐに見えなくなった。
世界に一人きりみたいな静けさの中。立ったまま見下ろした街の灯りが、目に染みる。
『良かった。また会えた』
『大丈夫。あなたがいるから』
『ただ優しくて、とてもあたたかい人よ。』
胸を巡るのは君に貰った言葉ばかりだ。
「……」
このベンチで近付いた彼女との距離は、
このベンチで他人以上に遠ざかる。
例えば違う場所で出会っていたら。
俺が詐欺師じゃなかったら、
君が教会暮らしじゃなかったら、
許されたのか?
「泣かせたな。最後に」
独り言が夜風にのって消える。
泣く資格すら持ち合わせていないのに。今夜はこの場から動けそうもなかった。
「きゃあっ」
「なんだ!?」
一瞬の静寂の後、ぐわっと人波が押し寄せる。
「暴動だ!」
街中は大混乱になった。人々は悲鳴を上げ、押し合いながら一斉に反対方向へ走り出す。
手が離れている事に気付き視線を前に戻すと、ハルがその場に蹲って震えていた。
「おい、どうした?」
慌てて肩を抱く。彼女の顔は青白かった。
「ごめ、なさ……わたし……」
消え入りそうな声に紛れ、もう一発銃声が轟く。さっきよりも近い距離だ。
「とにかく逃げよう。立てるか?」
ほとんど抱えるようにして彼女をその場から連れ出した。
「……7歳の時に、初めてロシアに来たの。父に連れられて」
街を抜け、偶然見つけた無人の広場。古びた遊具の階段に二人で座った。
「生まれはどこなんだ」
「日本よ。父がロシア人で、母が日本人」
……アジアの血が入っていたのか。彼女の顔立ちと黒髪にも合点がいく。
「母は私を産んですぐに病気で亡くなったの。ずっと父で二人で暮らしてた」
どこを見るでもない瞳で。彼女は静かに語り出す。
「自分が昔お世話になった教会だ、って父はドゥーブル教会に連れていってくれた。でも私、そこで熱を出してしまって。シスターが看病してくれている間に、父がお医者さまを呼びに行こうとしたの。そうしたら……」
彼女の小さな手に、力が入るのがわかった。
「教会から出た途端に拳銃で撃たれた」
「どうして!?」
「後から知ったんだけど、革命に携わろうとして色々行動を起こしていたみたい。それをよく思わない、政府支持派の人たちに……」
ぞくり、と肌が粟だつ。衝撃的な告白だった。
「でも当時はそんな事わからないから。冷たくなった父にすがって泣いて、泣いて……。身寄りが無くなった私を教会がそのまま引き取ってくれたの。修道院で暮らしてるのはそういう訳よ」
「……前に言ってた修道女になれない、っていうのは?」
「革命に関わった父は、政府に罪人にされてしまったから。娘の私にその資格は無いの」
そんな、と思ったが口に出来なかった。そういうものであろう事は何となく想像がつく。
「教会の皆はとてもよくしてくれるのよ。子どもの頃は言葉もわからないし、心細くて毎日泣いてばかりいたけど。今はちっとも淋しくない」
控えめな笑顔に胸が痛む。本心か強がりかわからなかった。
「父が撃たれた時の事、今でもハッキリ覚えてるの。だから銃声が……怖くてたまらない」
俯いた彼女が、両手で顔を覆う。肩が小刻みに震えている。
「そうだったのか……」
故郷から遠く遠く離れた国で彼女が一人、背負ってきたもの。
修道服を着る事も許されず、これからも背負っていくもの。
その重さを思うと、どんな言葉も軽率な気がした。
「あなたに助けられてばかりね。恥ずかしいくらい」
彼女は指で目元を拭い、笑った。
立ち上がり、ワンピースに付着した土埃を払っている。
「今日はこれからお店番なの。もう行かなきゃ」
「……明日」
「え?」
「明日は仕事何時まで?」
丸い瞳が俺に向けられる。自分の口から出ようとしている言葉に、自分が一番驚いていた。
「8時までだけど」
「君に見せたい場所がある。8時ならちょうどいい。時計塔の下で待っていてくれないか」
……俺は、
本当に連れて行くんだろうか。
自分だけで大切にしてきた、あの場所に。明日、彼女を連れていくんだろうか。
赤々と燃える暖炉の炎を見ながら考える。
ダニーはまだ帰らない。今日は戻らないつもりかもしれない。
── 『あなたに助けられてばかりね』。
「……ありえない。情にほだされるなんて」
いつものソファに身を投げ目を閉じる。眠気はすぐにやってきて、夢の世界へずり落ちた。
◇ ◇ ◇ ◇
「ここから暗くなるから。手を貸すよ」
「ありがとう」
翌日の夜。
約束通り、俺と彼女は二人で山道を上っていた。
街灯の光が届かなくなる頃、手をとった。
「怖くないか?」
「大丈夫。あなたがいるから」
月明かりの下。ふわんと微笑む彼女に、俺も微笑みを返す。
何気なく発された言葉に違いないのだが妙に胸をくすぐって、繋いだ手に力を込めた。
……馬鹿だな。
こんなに初心なはず無いのに。
何で、
「ほら。着いた」
最後の急斜面は、引っ張り上げるようにして上らせた。
「わぁ……!」
目の前一面に広がる夜景に彼女の顔が輝く。
「良い場所だろ」
何度も頷きながら、目は夜景から離せないようだった。思った以上の反応に吹き出してしまう。
「ベンチがある」
「ガキの頃に俺が置いた」
「本当?」
「大変だったんだぜ?これ担いで上ってくるの」
並んで座ると、肩先が触れ合った。
……こんなに小さいベンチだったんだな。
初めて知った。ここに誰かと座った事なんて無かったから。
「こうして見ると、この街も広いのね」
「あぁ。あの辺が君と落ちた噴水」
顔を寄せ、あの辺、と指し示す。
「そしてあの辺りが、君が誘拐されかかった裏通り」
「もう」
くすくす笑いあい、また光の流れる街を眺めた。
夜景に照らされた彼女の横顔は本当に楽しそうで。あぁ、と思う。
……良かった。
やっぱり、連れてきて良かったんだ。
「実はさ。俺も家族がいないんだ」
彼女が振り向く気配がする。
「物心ついた時にはもういなかった。両親の記憶も残ってない」
「誰に育てられたの?」
「誰も。ずっと一人で生きてきた」
初冬の夜風が、冷たく頬を撫でていく。
「街中は騒がしいけど、ここに来ると落ち着くだろ。ここに座って、ただ夜景を見てるのが好きだった。ガキの頃からずっと」
「あなたの特別な場所なのね」
「そう」
自分の生まれを、人に話した事なんてなかった。
でも本当は誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
一度溢れた言葉は止まらなかった。
「誰も生き方を教えてくれなかった。毎日必死だった。ただ、生きる為に」
そうだ。必死で必死で、必死でここまできた。
だって、知らなかった。他の生き方なんて知らなかった。
自分の気持ちに蓋をして。
他人の気持ちは見えないフリして。
「……俺は、君に言えないような事も随分やってる」
彼女は、静かに俺を見ている。
「過去は変えられないけど。ただ君と話してると、そんな自分がたまらなく嫌になるよ」
それきり。二人の間に長い長い沈黙が降りた。
「……悪い。俺、何言って」
「イーヴァン」
俺の言葉を遮って。
「それでも、あなたは何度も何度も私を助けてくれた」
体ごとこちらを向いた彼女にぎゅっと両手を握られる。
「過去に何があっても。私にとってのあなたは……ただ優しくて、とてもあたたかい人よ」
真剣な眼差しと、落ち着いた声と。妙に熱い手のせいで、ふいに涙腺が緩む。
「はは、」
顔を見られないように慌てて彼女の肩に顔を埋めた。
優しく背中をさすられて、声の震えが抑えられない。
「そんな訳……ないだろ」
まるで彼女そのものみたいな。柔らかくて、甘い匂いがする。
もうぐちゃぐちゃな感情のまま、そっと目を閉じた。
ハルを教会の側まで送り届けた後。家に戻った俺は、紙袋を開けた。
『お店のキッチンの有り物で作っただけだけど』
お腹が空いたら食べて、と別れ際に渡されたものだ。
「おぉ、」
中から出てきたのはプラスチックのパックに詰まったサンドイッチとナゲット。そしてボルシチだった。
濡れたナプキンで手を拭いていると
「いやぁ、また新しいカモになりそうな奴が見つかったぞー!」
上機嫌のダニーが帰宅した。
「あとは金持ちだといいんだが。ん?」
家に飛び込んだ勢いのまま俺の側まで来て立ち止まる。
「美味いよな。ここのホットドッグ」
ダニーは紙袋に書かれた店名を指さしている。
「知ってるのか」
「綺麗な女の子が売ってるって評判だったもんでね。一度食べてみた」
「評判?」
「そうだ。黒髪で、目のクリクリーっとした可愛い子じゃなかったか?」
「……あぁ」
完全にハルの事だ。
「彼女の時間にはいつも行列だそうだぞ。確かワゴン販売だろ?その日によって場所が変わるのもまた希少性があって良い」
ダニーの話を頬杖をつきながら聞く。何故か面白くない気分だ。
「でも、サンドイッチなんてあったかな?どれ、一つだけ」
手を伸ばしかけたダニーに、パックごと背を向ける。
「やめろ。特別メニューなんだよ!」
齧りついたサンドイッチは、香ばしく炒ったベーコンとレタスの味がした。
◇ ◇ ◇ ◇
彼女を次に見かけたのは一週間後だった。
出国許可証の不正受給の依頼があり、全ての手続きを終えた帰り道。通りがやけに賑わっていると思ったら、見覚えのある白いワゴンが停まっていた。
道理でさっきからホットドッグを手に持った奴とすれ違う訳だ。遠くから見てみるも、ハルは店頭には出ていないようだった。
辺りを見渡すと、反対側の通りに設置された花壇の縁に座って何か口に運ぶ彼女がいた。
店の制服を着ている。遅い昼休憩なのだろうか。
前回見せた醜態を思い返すと声をかけるのを何となく躊躇してしまう。少し離れた場所で二の足を踏んでいる間に、
「ん?」
花束を抱えた若い男が一人、彼女の元へ走り寄った。
男はハルに何やら声をかけ、彼女の胸に無理矢理それを押しつけて再び走って去っていく。
「……な、んだ今の」
ハルは花束を見つめたまま固まっていた。
『彼女の時間には、いつも行列だそうだぞ?』
ダニーの言葉はどうやら真実であるらしい。
ため息を吐いて歩き出す。
「随分繁盛してるんだな?君の店」
どかっと隣に腰かける。横に置かれた花束が目に入らぬよう、わざわざ逆側に座った。
「……なに怒ってるの?」
「別に?何も」
「うそ。怒ってる」
「だから怒ってな……むぐ、」
彼女の方を向いた瞬間、口に何か詰め込まれた。
「新作よ。美味しい?」
頷くしかない。そもそも口がパンで一杯で喋れない。
「良かった。メニューに追加してもらえないか頼んでみる」
笑顔でそう言った彼女は、一口分減った棒状のサンドイッチを自分も齧る。
「もう一本作ってきたから、あなたにあげる。試食してくれたお礼に」
「……いや。こっちでいい」
鞄を開ける彼女の左手から、すっと取る。
「え?食べかけよ」
「いいんだ。」
不思議そうな視線を無視し、残り半分くらいになったパンを口に入れた。
「……変な人。」
彼女はいつも、凪いだ海のように穏やかで
でも芯はとても強くて。
ハルの纏う、ふんわり柔らかな空気は
いつしか俺にとって心地の良いものになっていた。
「あっ」
「ん?」
「雪。」
空を見上げると、曇った空からちらちらと粉雪が落ちてくる。
「本当だ。初雪だな」
「綺麗。一緒に見られて良かった」
……あぁ、また。
そんな風に言うからいちいち調子が狂うんだよ。
「無意識なんだろ。どうせ」
「なに?」
「何でもない」
わざと、ぶっきらぼうにそう言った。
── この日。
彼女に声をかけた事を、後に死ぬほど後悔する。
詐欺師として緩みきっていた俺は、影から見られている事にも気付けなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日の夜。いつものように過ごしていると突然、ドアをノックされた。
隠れ家であるこの場所を知る人間はいないはずだ。ダニーと顔を見合わせる。
そうしているうちにまたコンコン、とドアを叩く音。
「……」
ダニーがワインボトルを後ろ手に隠し持ち、慎重にドアに近付いた。
「やぁ。邪魔するよ」
「アーサー!?」
その名を聞き、弾かれたように立ち上がる。
驚くダニーを押しのけどかどかと入ってきたのはロシアに幾つも存在する詐欺グループの実質的なリーダー、アーサーだった。
「久しぶりだな、イーヴァン。どうした?最近大人しいそうだが」
「……どうしてここを知ってる?」
「お前たちの縄張りは、金を持った観光客で溢れてる。今が稼ぎ時なんじゃないのか」
俺の問いに答える気は無いらしい。
金髪をオールバックに固め黒のスーツを着たアーサーは、我が物顔でソファに腰かけ煙草をふかす。
「何の用だ」
「君たちに協力を頼みたい。久しぶりにデカい案件だ」
「協力?」
アーサーの持つ威圧感に少々たじろぎつつ、ダニーが空き缶を差し出す。
「五日後。大通りのメインバンクに多額の金が運び込まれる」
煙草の煙が、細く天井に上る。
「ある大会社の社長が、月に一度車で乗り付け金を預けに来るんだ。そこに奇襲をかけて車ごと奪う」
「なっ……!?バカな。いよいよ大犯罪じゃないか」
「そうだ。だから人数が要る。相手は警備の人間も連れているが、大勢で一気に攻めれば簡単だ。報酬は山分け。君たちも大切な仲間たちも、当分食うに困らない」
「すごいじゃないか!」
ダニーは目を輝かせ、身を乗り出している。
「確かな筋の情報なんだろうな?」
「もちろん」
「詳しい話を聞いておいてくれ、イーヴァン!お、俺は仲間を集めておく!」
家を飛び出すダニーを、アーサーが笑いながら見送る。
「ははは、張り切ってやがる。まだあのジジイとツルんでるんだな?」
「……」
「まぁ奴には鞄持ち程度しか期待しちゃいない。せいぜい若い仲間を集めてくれればいいが」
沈黙が続き、部屋中に甘い匂いの煙が満ちる。
アーサーが二本目の煙草に火をつけた頃
「……捕まったら処刑だ。俺はのれない」
そう口を開いた。
アーサーが眉根を寄せる。射竦めるような視線から逃れるべく、立ち上がった。
「らしくないなぁ。怖いのか?」
「違う!」
「じゃあ、」
ねっとりした声が全身に絡みついてくる。
「命を懸けられない理由でも出来たか」
何も言えずにいる俺の背中に、
「── 彼女は恋人か?」
そんな言葉が飛んできた。
「何?」
「あの華奢で可愛らしい子だよ。ホットドッグ屋の」
耳を疑った。振り返る俺の顔を見て、アーサーは楽しげに笑う。
「異人をものにするとは。お前も隅に置けないなぁ」
心臓が早鐘を打っている。
まさか。まさか。
どこで、
どこで見られた?
「あの子のカラダ。一晩幾らくらい稼げるんだろうな?」
「……ふ、っざけんな!」
耳元で囁かれ我を忘れた俺は、アーサーに掴みかかっていた。
「調子に乗るなよ、イーヴァン?」
地の底を這うような、重たく低い声。
「詐欺のやり方を一から叩き込んでやったのは誰だと思ってる。貴様が今生きているのは誰のおかげか忘れたか?」
思わず手の力が緩んだ瞬間に襟首を掴まれ、思い切り投げ飛ばされた。
「今更、陽の当たる場所に出ていけると思うなよ!」
テーブルの角に顔を強打し、あまりの痛みに目が眩む。口内には瞬く間に血の味が広がった。
「五日後だ。協力してくれるだろ?親友」
俺の顎を掴んだアーサーがにやりと笑った。
── 果てしない絶望を感じていた。
どこまでいっても自分は自分である事に。
自分が、自分でしかない事に。
彼女が少しだけ見せてくれた希望の光は
もう全く届かなくなっていた。
それから二日間は闇市に店を出した。
道行く観光客に片っ端から声をかけ、手段を選ばず売りまくる。『別人みたいなやる気だな』と商店仲間からまた野次られたが、気にしない。
アーサーの作戦決行日まで頭を空っぽにしていたかった。金を稼ぐのが一番気が紛れた。
「いくら?」
三日目の昼、アメリカ人の団体旅行客を相手にしていた時の事だ。
冬だというのに大胆にスリットの入った黒のドレスを着た女が、店頭に立ち声をかけてきた。金髪がゴージャスに巻かれている。
「このブレスレット?安いよ。たった500ドルだ」
明らかに金持ちと見えたのでふっかけてみる。彼女は表情一つ変えずに言った。
「1000ドル出すわ」
「、は?」
「だから……」
肩を引き寄せられ、
「あなたごと買わせて?」
吐息のかかる距離で囁き声がした。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味よ。今夜一晩。どう?」
派手な雰囲気の美人だが、割と年は食っていそうだ。年齢を隠すためなのか信じられないほど化粧が濃い。
「バカバカしい。そういう商売じゃないんだよ」
「いいじゃない。若くて良い男と遊びたい気分なの」
「旦那と来てるんじゃないのか」
さっきまで彼女と連れだって歩いていた、小太りの中年男をちらっと見る。顎髭を触りながら他の店の店員と談笑していた。
「あれを潰すのは簡単よ。強い酒を飲ませればすぐに寝ちゃうの」
「……」
「お金が欲しいんでしょう?こーんなイミテーションで儲けようとするくらいだもの」
女が店頭に並んだ商品を摘み、せせら笑う。左腕は完全に捕まっていた。
「1200ドル出すから。ね?」
頭の中で誰かの声がする気がするが、靄がかかったみたいにハッキリしない。
何も深く考えたくない。何も。
「……いいよ。」
「いい……すごくいいわ。イーヴァン」
深夜。俺は女が別に用意したホテルの一室に呼ばれていた。
むせかえるような香水の匂い。サイドボードに置かれた純金の時計。真っ赤な鋭い爪。
魔女かよ、と思う。
「あぁっ」
肌に舌を這わせると、女は大げさによがってみせる。わざとらしく鼻にかかった声で俺の首に手をまわす。
「ねぇ。もっと……きて?」
上目遣いでそうねだられ、言われるままに体勢を変える。女をうつ伏せにして腰を抱え直した瞬間、アーサーの声が蘇る。
『今更、陽のあたる場所で生きていけると思うなよ!』
── あぁ、もう
どうにでも なれよ
「っ、あっ!」
「く……!」
後ろから一気に貫き、まるで八つ当たりのように激しく動いた。女が喘ぎながらめちゃくちゃにシーツを握る。
視界の端で揺れる胸を揉みしだく。
「はぁっ、は……っ」
俺の呼吸も荒くなる。終わりが見える。
頭を何かが過ぎりそうになる度、必死に必死に追い出した。
「朝帰りとは珍しい。忙しかったのか?」
すっかり陽も登りきった頃、体を引きずって家へ帰った。コーヒーを飲んでいるダニーの目の前に無言で札束を放る。
「どうしたんだ、この金!?」
素っ頓狂な声が部屋中に響いた。なおも無言を貫き、ダニーを見返す。
「こ……んの、色男!」
全てを悟ったらしいダニーが、満面の笑みで俺を指さした。
「寝る。」
それだけ返し、寝室へ引っ込んだ。
ドアを閉め、腕時計を外して香水臭いシャツを脱ぐ。
「1500ドルもあるぞ、おい!!」
はしゃいだ様子のダニーがそう声をかけてくるが、返事もできないほど疲れきっていた。
「……」
ぽつ、と雨が降るように。
自然にハルの事を考える。
夜景に照らされた横顔。俺に無理矢理パンを食べさせ『美味しい?』と笑った声。
一晩中思い出さないようにしていた彼女の姿が次から次へと浮かんでくる。
『あの子のカラダ。一晩幾らくらい稼げるんだろうな?』
「……くそったれ、」
右手に持っていたシャツを、ベッドに叩きつけた。
◇ ◇ ◇ ◇
アーサーの計画を実行する日がやってきた。
犯罪を犯すにはあまりに不似合いな、晴れた平日の昼下がり。この為に集まった大勢の詐欺師やマフィア達が四方向に散り散りになって銀行まわりに潜んでいる。
俺も仲間を従え、行き交う人々を路地裏から眺めていた。
「イーヴァン。間もなくだ」
「あぁ」
ピンと張りつめた空気が辺り一帯を包む。息を殺して合図を待った。
やがて銀色の高級車が現れ、銀行前に横付けされた。正面に潜んでいたアーサーが右手を挙げる。
「……いくぞ、」
「うわっ、なんだ!?」
「誰だ!?貴様ら!」
一斉に襲いかかる大勢の男達。その場は大混乱に陥った。
車に乗っていた警備員、秘書と思われる男を順番に殴り飛ばす。人数は既に調査済みだった。そしてアタッシュケースを抱えた社長自身を引きずり下ろし、ケースを奪ってアーサーに投げ渡した。
「やめろ!やめてくれ」
もみくちゃになりながら叫ぶのが聞こえるが、もう車に近付く事は不可能だろう。
「離れろ!怪我したくなかったらな!」
たまたまその場に居合わせた一般人もそう脅され逃げ惑う。大勢の援護を受けて悠々と車に乗り込んだアーサーが、運転席から俺に目配せした。
「散れ!」
俺の指示で仲間が一斉に引く。その瞬間、アーサーはアクセルを踏み込みあっという間に姿を消した。
「イーヴァン!」
少し離れた所に馬車を待機させていたダニーが、中から手を差し伸べる。掴んで一気に飛び乗った。
「やったな!大成功だ」
「あぁ」
本当に、笑ってしまうくらいスムーズに事が運んだ。
俺たちのように馬車で逃げる者。車で逃げる者。走って逃げる者が一番多いが、計画に携わった仲間も皆それぞれの方法でその場をずらかる。
あとは一人も捕まるような事が無ければ完璧だ。
俺たちも馬車を出そうとした瞬間、外から馬のいななく声が聞こえた。仲間の一人が咄嗟に奪った馬車馬が暴れているようだ。降り落とされないよう必死でしがみついている。
「制御不能になってる。まずいぞ」
「様子を見てくる」
馬車から飛び降り、近くの建物の影に屈んだ。
通りには徐々に人が集まり出している。その先に目をやり、血の気が引いた。
ハルの店の白いワゴンが停まっていた。
「な……」
何でここに、と思ったが答えは簡単だった。
今日はたまたま銀行と同じ通りに出店していたのだろう。悪夢のような偶然だった。
「この!大人しく……っ」
仲間の一人がなおも諫めようと手綱を握っているが、馬は全くいう事をきかない。仲間の顔にも焦りが見える。
石でも投げて馬の気を引こうか考えているうちに、ハルが突然店の外に走り出てきた。驚いてそちらに目をやると太った老婆が店の前に座り込んでいる。彼女は立ち上がらせようとするが、婆さんは短く悲鳴を上げ首を振る。足でも挫いているのかもしれない。
ハルは馬の様子を見ながら必死に肩に担ごうとしている。が、あの体型の人間を彼女が支えられるはずもない。膝をついた状態からどうしても立ち上がる事が出来ない。
「バカ、早く逃げ……」
「うわあっ!」
どよめきにハッとし振り返ると、仲間が馬から振り落とされる瞬間だった。
自由になった馬はますます興奮し、
彼女に向かって一気に突っ込んでいった。
「どけろ、ハル!!」
気が付いたら、物陰から飛び出しそう叫んでいた。
なおも婆さんを背中に庇った彼女が一瞬こちらを見る。加速した馬が、彼女の姿を遮った。
── ダメだ
間に合わない、
「……っ!」
思わず目を逸らした時だった。
辺りに一発の銃声が轟き、動きを止めた馬がゆっくりと地面に倒れ込んだ。制服を着た警察官が銃を構えている。銃口からは煙が上っていた。
射殺された馬の向こう側で彼女がへたり込んでいる。
「……」
俺たち二人だけ時間が止まったかのようだった。警察官が駆け寄り何か声をかけているが、ハルは力の無い瞳でただこちらを見る。俺も目線を外せなかった。
「イーヴァン!警察に見られたらまずい。戻ろう!」
慌てたダニーに腕を引っ張られ、ようやくその場から離れた。
アーサーからの報酬は予想以上だった。
計画に加担した仲間達は初めて手にする額に狂喜乱舞し、早速連れ立って夜の街に繰り出した。
何も言わずに輪を抜け、一人で山道を上る。夜の山は冷え込みがきつくさっきから雪もちらついている。クリアに澄んだ空気のせいで、思考が延々とまわり続けた。
あの時。馬が銃殺されなければ、俺の目の前で彼女は死んだかもしれない。
そうなったら俺は。
俺は、どうしてたんだろう。
山頂に到着すると、いつものベンチに誰かの背中が見えた。
……いや、この場所を知っているのは一人だけだ。
しんしんと降る雪の中。微動だにせず夜景を眺めている。
一歩近付く度に、靴の下で枯れ葉が音を鳴らした。
彼女がゆっくりと振り返る。目が合ったところで足を止めた。
「……ここに来たら、あなたに会えるような気がして」
立ち上がった君はそう言った。真っ赤な両手と鼻の頭が朧月に照らされる。
「危ないだろ。こんな夜中に一人で」
驚きと呆れと。ほんの一匙、でも確かな嬉しさも。
ごちゃ混ぜの感情を持て余しながら足を進める。
「修道院を抜け出してきたのか」
君が頷く。
「悪い子だ。バチが当たるぞ」
自分のマフラーを外し、首に巻いてやった。男物のそれは当然大きく、彼女の顔の半分がほぼ隠れてしまう。
「私の心配なんかしてる場合じゃないでしょ?」
彼女は俯いたまま俺のコートの裾を握った。
「あの婆さんは、君には運べない」
泣きそうな表情をしたハルが俺を見上げる。
「無茶するなよ。わかるだろ?危うく一緒に死ぬところだ」
「でも。見捨てるなんて出来ない」
「……そうだな。君はそういう奴だ」
そういう君が
君の、事が
「── なぜ俺があの場にいたか聞きたいんだろ?銀行を襲撃したグループに手を貸していたんだ」
ハルは両目を大きく見開いた。
「ど……うして」
「どうしてって。仕事だからだよ。前にも話しただろ?俺は君に言えないような事ばかりやって生きてるって」
半ばやけくそになり、自嘲気味に続けた。
「この前なんか、金持ちのアメリカ女に1500ドルで買われたぞ。一晩好き放題された」
「やめて!」
普段物静かな彼女の
「そんな話……聞きたくない」
こんなに悲痛な声を聞いたのは、初めてだった。
「軽蔑した?」
俺のコートを握りしめる手をやんわり振り払い、そのまま背を向けた。
「縁が切れそうで良かったな。君の店にだっていつか忍び込んで、金を盗み出したかもしれない」
「あなたはそんな事しない……!」
「なぜ言い切れる!?」
思わず語気を強める。
何だか、もう全てに。全てに嫌気が差していた。
「俺の何を知ってる?」
「……っ」
「俺は詐欺師だぞ!君を騙すなんて……簡単なんだよ」
ハルは明らかに傷ついた顔をしていた。
瞳から、涙がひとつだけ落ちる。
「どうして泣くんだよ」
「わから、な……」
零れる涙が後から後から頬を伝う。
「あなたといると……ダメなの。心が乱れてばっかりで、苦しいの」
しゃくりあげた彼女は、俺のマフラーに顔を埋めた。
……なぁ。神様
今だけでいいから、
見ないふりしてくれないか。
そうしたら 今すぐ彼女を抱き寄せて
小さな手を引いて
このまま 二人で
このまま、
「俺も同じだよ」
濡れた瞳で見つめられ、胸が軋む。
「自分じゃないみたいだ。……おかしいよな」
彼女に抱く特別な感情の正体を、本当は知っていた。
向けられた想いに気が付かないほど子供でも鈍感でもなかった。
「ハル」
それでも。
「もうここには来るな。」
彼女の表情は変わらない。そう言われるのをわかっていたみたいに。
「街で会っても声をかけちゃダメだ。俺もそうする」
「……」
「いいよな?」
彼女が頷いた気がしたが、気のせいかもしれなかった。
ベンチを挟み見つめ合ったまま、どれくらい時間が経ったのだろう。こちらに歩いてきたハルはマフラーを外し俺に差し出した。
「送っていくよ」
「大丈夫」
掠れ、震えた声だった。
「一人で帰れる……っ」
「おい!」
駆け出した背中は夕闇に溶けてすぐに見えなくなった。
世界に一人きりみたいな静けさの中。立ったまま見下ろした街の灯りが、目に染みる。
『良かった。また会えた』
『大丈夫。あなたがいるから』
『ただ優しくて、とてもあたたかい人よ。』
胸を巡るのは君に貰った言葉ばかりだ。
「……」
このベンチで近付いた彼女との距離は、
このベンチで他人以上に遠ざかる。
例えば違う場所で出会っていたら。
俺が詐欺師じゃなかったら、
君が教会暮らしじゃなかったら、
許されたのか?
「泣かせたな。最後に」
独り言が夜風にのって消える。
泣く資格すら持ち合わせていないのに。今夜はこの場から動けそうもなかった。
