「っと、ごめんよ!」

外国からの観光客と思しき中年紳士は、こちらを一瞥した後特に気にする様子もなく歩き出した。

……やった。

つい緩みそうになる口元を引き締め、路地裏へ滑り込む。掏ったばかりの財布から紙幣を抜き取った。

「1、2、3、4……10万!大当たりだ」

いつものように金だけジャケットのポケットに突っ込み、財布は適当に放り捨てた。

冬間近のロシアには、連日多くの観光客が訪れる。
人、人、人でごった返すこの大通りは、俺たち掏摸にとってまさに宝島だ。

狙うべきは今みたいな男。
中途半端な富裕層にはガードが甘い馬鹿が多い。20世紀を迎えたというのに、胸ポケットに財布を仕舞ってしまうくらいに。

「今日はこんなところか。」

ざっと辺りを見回し、人混みに紛れようとした時だった。

「め、て……っ!」

くぐもった悲鳴に振り返る。

「大人しくしろ、この!」

がしゃあん、と派手な音に紛れ、また女の声がした。道行く人々は誰も気付かない。

……やってんな。面倒な現場に居合わせた。

曇り空を見上げ、思わずため息を吐く。

「やった、異人だ。来い!」

── どうするかな。
一瞬考えた後、物音のする方へ足を進めた。


「やーめとけよ。」

待っていたのは予想通りの光景だった。口をガムテープで塞がれた女が、男二人に車に連れ込まれそうになっている。

「な、んだテメェは?」

突然登場した俺に少々面食らった様子で、男たちは動きを止めた。

「兄さん、同業か?こいつは俺らの獲物なんだよ。異人は高く売れるんでね」
「そうか。ホラ」
一人の胸にくしゃくしゃの札を押しつける。

「今回はこれで見逃してやれ」
「な!?」

顔を見合わせた男たちは、やがてニヤニヤしながら車に乗り込んだ。

「へへ。人がいいぜ、あんた」
「いいから行けよ。どうせその車もかっぱらったモンだろうしな」

ボディを蹴りつけると、車は耳障りな音をたてながら走り去った。


「大丈夫か?」

後ろで両手を縛られ尻餅をついたままの彼女は、怯えきった目で俺を見上げる。

「安心しろよ。純然たる人助けだ」

ロープを解いてやりながら顔を覗き込んだ。

若い女だ。
黒い髪に黒い瞳。
なるほど、あいつらの言うとおり異人らしい。ただ顔立ちはロシア系統のようにも見える。

そのアンバランスさゆえか、彼女の最初の印象はとても儚いものだった。

「ありが、とう……」
「怪我は無いか」

自分で口のテープを貼がした彼女は俺の問いに頷く。腕をとって立たせてやった。

「この辺の裏通りは何かと物騒だ。次は一人で歩くなよ」

壁を伝い去っていく背中を見送りながら、
自分でも信じ難い気持ちになっていた。

『人が良いぜ、あんた』。

「……おかげでもう一仕事だよ。」

空になったポケットに両手を突っ込んだまま、踵を返した。




「随分遅くまで頑張ったんだな?」

隠れ家に帰った途端、同居人のダニールがからかうような視線を寄越した。シャワーを浴びた直後らしく、鏡の前で白髪混じりの頭を撫でつけている。

「柄でもない事をした」
「なんだ」
「女が誘拐されそうな現場に居合わせたんで、金を払って解放してやった。今日の稼ぎはそこでパー」

へぇえ、とダニーが大げさに仰け反った。

「君がそんな真似をするとは。人間が出来てきたんだな。詐欺師に向いてないんじゃないか」
「別に。ただの気まぐれだよ」

ソファに腰かけ、テーブルの上に置いてあったパンを適当にかじる。

「まぁ、たまには良いんじゃないか。そのまま放っておけばその女はどこか外国にでも売り飛ばされて、酷い目に遭っていただろう。神様は見ていてくれる」
「神様ねぇ……」

頬杖をつきながら窓の外に目をやる。雲間に浮かんだ半月が鈍く光っていた。


◇ ◇ ◇ ◇

それきりだと思っていた彼女との再会は、割とあっさり訪れた。

「ん?」

いつも通る広場を横切ろうとした時。視界の端に黒い頭が映り思わず足を止めた。

「あれはこの間の……」

ブロンドの髪の人間が多いロシアで彼女の黒髪は一際目立つ。大きな噴水の縁に立ち、中央に生える木に向かって手を伸ばしている。

「あ、危ないよお姉ちゃん!」
「大丈夫。もう少し」

高い枝に引っかかる風船。側には子ども。
一目で状況が把握できた。限界まで背伸びをしているが、その指先はあと少しの所で空を切る。

「……」

おいおい、またか。何かの縁か?

── 『神様は見ていてくれる』。

本当だろうな?ダニー。


「いいよ。俺がとる」

彼女の背後から手を伸ばした。

「あなたは……」

驚いた顔で振り返った彼女に目配せをする。枝に絡まった風船は難なく回収できた。

「ほら。ボウズ」
「ありがと……うわぁっ!」

子どもに渡した瞬間、突風が吹いた。小さな手から離れた風船を再びさらっていく。

「あっ」
「おい!」

風船を捕まえようとした彼女がバランスを崩した時。ほとんど反射的に手を出していた。


……柄じゃない。本当に。
仲良く噴水に落ちた俺たちは、ベンチに並んで腰かけ体を拭いていた。

「随分お人好しなんだな?」
「そっちも同じでしょ」

彼女はワンピースの裾を絞りながら言う。それでも後から後から垂れてくる水滴。塗れた黒髪が艶めいている。

「修道女としては放っておけなかったって訳か」
「え?」
「これ。ドゥーブル教会のだろ?」

渡されたタオルには、街で何度も見かけた事のあるマークの刺繍が入っている。

「……修道女じゃないわ」
「え?」
「仕事を手伝っているだけ。私は修道女にはなれないの」
どういう意味だ、と尋ねる前に彼女はサッと立ち上がった。

「今日はどうもありがとう。」

凛とした声の中に、少しだけ淋しさが混じっている気がした。

「俺はイーヴァン。君は?」

彼女が俺を見下ろす。

「ハルよ」
「……ハル?変わった名だな」
「言いやすいでしょ?」
「確かに」

ふふ、なんて。はにかんだ笑顔を見た時なぜかホッとした。
笑うと幼い印象に変わる。

「風邪ひくなよ」
「あなたもね。」

遠ざかっていく背中が、やがて人混みに消えるまで。その場で何となく眺めていた。


◇ ◇ ◇ ◇

数日後。
闇市で売るための商品を物色していた俺に、二人の女が暴走機関車のようなスピードで駆け寄ってきた。

「ちょぉぉっと!イーヴァン!」

第一声からもう怒号だ。思わず小指で片耳を塞ぐ。

「なんだなんだ。うるっさいな」
「なんだじゃないわよ!あんた、私達の友達泣かしたらしいじゃない!」
「は?誰?」
「マリナよ、マリナ!」
「あぁ。君を恋人にする気は無いって言っただけだ。これ以上付き纏われるのも迷惑だったんでね」

正直に返答したが、それがまたお気に召さなかったらしい。

「信じられない!これで何人目よ」
「そうよ、女の敵!贅沢者!」
「そう言われても」

両サイドから責められ続け、げんなりしてきた。反論するのも面倒だ。口を噤んでやり過ごす。

「ちょっと、何とか言ったらどうなのよ」
「別に?言いたい事なんて無い。ただ口から産まれてきたんだなぁと思ってるだけ」
「はぁ!?」

二人の女が顔を見合わせる。

「おっ、女なんて大体皆こんなもんよ!ねっ?」
「ねー!」
「……そうかな」

「あ、見つけた!イーヴァン!」

詐欺師仲間の一人が近付いてくるのが見えた。ようやく解放されそうだ。

「じゃ、呼ばれてるから」

まだ文句を言い足りなさそうな二人を振り切り、その場を後にする。

「助かったよ。今度一杯奢る」
「何の事だ?それより良い話を持ってきたぞ。こっちで」

人目に付かぬよう建物の影に隠れて話を聞いた。
彼が持ってきたのは盗みの計画だった。

「それじゃ、ほとんど毎日その家に金が届けられてるんだな?」
「あぁ。店のオーナーか雇い主の家なんじゃないか」
「その日の売上げを納めにいってるって訳か」
「狭い夜道、しかも大抵は女が一人だ。途中でかっぱらっちまうのは簡単だろう」
「よく見つけたな。そんな都合のいい店」
「ワゴン販売のホットドッグ店だ。最近は毎日同じ場所で出店してる」

小柄な彼が自慢げに胸をはるもんだから、吹き出してしまう。

「いいね。今夜、早速下見だ」


「あれか?」「そうだ」
午後10時過ぎ。
人通りもまばらになってきた街角に白いワゴンが停まっている。店の明かりが微かに路地裏まで届いてくる。
俺は仲間たち三人と共に様子を窺っていた。この街じゃ移動販売は珍しくないが、ホットドッグ屋の存在は知らなかった。
しばらくして客が途切れると、ワゴン内の明かりがふっと消えた。

「やっと店仕舞いか」
「女が一人、出てくるはずだ」
「よし。お前らもしっかり見ておけよ」

帽子を被り直し、ますます姿勢を低くする。
いざ計画を実行する日の為にも相手の観察は基本中の基本だ。間もなくして、ワゴンの後ろ側の扉が開いた。

「…………え?」

一瞬、思考が停止する。
中から出てきたのはハルだった。

「何だ、あんな細っこい女じゃないか。しかも結構可愛いぞ」
「本当か?見えねぇよ、暗すぎて」
「どうだ?イーヴァン。楽勝だろ?」
「……ダメだ」

手際よく看板を畳む彼女から目を離せぬまま。気付けばそう呟いていた。

「この店は無しだ」
「な、」

話を持ってきた男が驚愕の表情を浮かべ俺に詰め寄った。

「何でだよ!?絶対成功するって!」
「そうだよ、勿体ない」
「俺が無しって言ったら無しなんだ!帰るぞ」

口々に文句を垂れる仲間たちの背中を無理矢理奥へ押しやる。
最後に一度だけ振り返ると、何も知らない彼女が店の片付けを続けているのが見えた。

……本当に修道女じゃなかったんだな。

「ったく。だから一人で歩くなって言ったのに」
「イーヴァンー?」

名前を呼ばれ、慌てて駆けだした。


◇ ◇ ◇ ◇

「イーヴァン」
ある日の昼時だった。聞き慣れない声に振り返る。

「良かった。また会えた」

走って追いかけてきたのか、ハルの息は弾んでいた。
白いシャツに黒いパンツ。髪は後ろで纏められ、店名と思しきロゴが入ったキャップを被っている。
この前の夜と同じ服装だ。

「はい。これ」

何も言えずにいる俺に紙袋を手渡し、微笑んでいる。

「あなたにお礼がしたかったの。迷惑じゃなければどうぞ」
「お礼、って」

掌に伝わる熱。美味そうな匂い。
数日前未遂に終わった襲撃計画を彼女は知らないとはいえ、何ともばつが悪い。

「あ。もしかして、お腹空いてない?」
「いや!?ペコペコ」
本当だった。いつもの事だが、朝食もろくに食べていない。

「良かった。じゃあ戻るね。あなたの姿が見えたから、仕事抜けてきちゃったの」
「あぁ……わざわざありがとう。頂くよ」
「こちらこそ。何度も助けてくれてありがとう」

俺に小さく手を振り、君は通りを引き返す。


複雑な気分だ。
適当なベンチに腰かけ袋の中を覗くと、大きなホットドッグと野菜スープが入っていた。まだ湯気がたっている。

「う、っま」

どちらも思わず笑ってしまうほど美味い。夢中でかぶりつき、あっという間にたいらげる。


── ゆるゆると時間の流れる午後の街。

警戒心がまるでない人々が、絶えず目の前を行き交っている。財布を尻のポケットから覗かせる馬鹿も見える。
ターゲットは掃いて捨てるほどいるはずなのに。なぜここから立ち上がれないんだろう。

「助けてくれてありがとう、か」

満たされたのは、腹だけじゃない気がした。
感じていたのは、空腹だけじゃない気がした。


夜。
ソファで新聞を読んでいると、ダニーが嬉々として走り込んできた。

「これを見ろ、イーヴァン!ダイヤモンドだよダイヤモンド!」

彼の手の中ではアーモンド大の宝石が輝いている。

「まーた金持ちの婆さんの家から盗んできたのか」
「マダムと言え。甘〜い言葉をかけて心を開かせれば、家に入り込める仲になるのは意外と簡単だ。未亡人なら特に」

楽しそうにダイヤを照明にかざしている。こっそり吐いたため息も、この興奮ぶりでは聞こえていないだろう。

「で、君の方の成果は?」

テーブルの上に札束を放り投げた。

「今日もすごいじゃないか!この時期は特に掏摸がしやすいからな。そこらじゅう、浮かれた観光客だらけだ。明日は良いワインでも買ってこようか」
「なぁ」

いつにも増して饒舌なダニーが、金を数える手を止め俺を見る。

「まともに生きていく、って難しいんだろうな?」
「難しいよ。俺たちみたいなのにはもう無理だ」

笑顔でそう言い切られ、

「……だよなぁ。」

ソファに深く身を沈めた。


◇ ◇ ◇ ◇

「おいくら?」
「安いよ。7万4000ルーブル」

俺の勧めるネックレスを眺めていた婦人があら、と手を引っ込める。今日はマーケット街に店を出していた。

「結構するわね。小さい宝石なのに」
「それだけ希少なんですよ。ほら、こんなに輝いてるでしょう」

肩を抱き距離をグッと詰めると、俺を見る目が急に熱っぽくなった。
上質な布で仕立てられたドレスに、美しく染められたグレーヘア。唇には真っ赤なルージュがオーバー気味に引いてあり、若すぎるデザインの耳飾りをしている。明らかに上流層の人間だ。

「マダムの華奢な首元によーくお似合いですよ?」

すっ、と指で首筋をなぞってやるとわかりやすく頬が紅潮した。いくつになっても女は女であるらしい。

「そうね……頂くわ」


早々に店を閉めた後、夕方まであてもなく街を彷徨った。

『なーにが華奢な首元だ。どう見たってデブじゃねーか』
『ハンサムは得だねぇ。色目使えば女が買ってくれるんだから』
『そうそう。例えただのプラスチックでもな』

商売敵からの揶揄もいつもなら軽く受け流すのに、今日は無性に心に刺さる。

「馬鹿だよな。本当に」

苛立ちが募る。客にも、自分のやり方にも。
こんな事、今まで無かった。詐欺師としての自分に疑問を抱くなんて。

頭を空っぽにする為ひたすら歩いていると、そこかしこで紺色の修道服を着た女たちが固まっているのが見えた。

「……」

無意識に辺りを見回してしまう。
大勢のシスター達の中。一人だけワンピース姿の彼女を見つけるまで、さほど時間はかからなかった。