「ごめんなさい。わたしばかり話して」

 一方的に話していた自分に気づいて恥ずかしくなり、慌てて桜田に頭を下げた。しかし、彼はなんにも言わなかった。笑みを湛えて柔らかな視線をわたしに向けているだけだった。
 その目に吸い込まれそうになった時、バックグラウンドミュージックが変わった。それを合図にするかのように彼はグラスを持ち上げて、オンザロックに口を付けた。すると、表情が変わった。何か思い詰めたような目になった。一度視線を落としたあと、緊張したような顔でわたしを正視した。

「貴真心さん」

 いきなり名前を呼ばれた。その声はわたしの心を射抜くような響きがあったが、次の言葉は衝撃と言ってもいいものだった。

「結婚を前提に付き合ってくれないか」

 突然のプロポーズだった。わたしは気絶しそうになった。

「君への想いがどんどん膨らんで、自分の気持ちが抑えきれなくなってしまった」

 切なそうな目で訴えられた。わたしはどうしていいかわからなくなった。

「君も知っている通り、私は結婚に一度失敗している。それに、一回り以上年上だ。だから、君に求婚する資格はないといつも自分に言い聞かせてきた。しかし、」

 彼の手がわたしの方へ伸びてきた。

「帰国する前にどうしても気持ちを伝えたくなった」

 わたしの指先に触れた。

「君の未来に私の未来を重ねたい」

 優しく柔らかくわたしの手を握った。

「一緒に人生を歩んでくれないか」

 わたしは動揺してどうしていいかわからなくなった。目を逸らして窓の外を見た。ライトアップされたフィレンツェの大聖堂が見えた。

 どうしたらいいの?

 大聖堂に問いかけたが、返事はなかった。わたしは視線を桜田に戻すことができず、窓の外を見続けた。

 横顔に何か熱いものを感じた。痛いほど強く感じた。それに促されるように視線を彼に戻すと、訴えるような眼差しがわたしを射った。
 何も反応できないでいると、手を強く握られた。その瞬間、時間が止まった。どうしていいかわからなくなった。わたしは彼の手をそっと外して、席を立った。
 トイレに向かって歩いたが、その足は自分のものではないように思えた。それでもなんとかトイレに辿り着いて、ドアを開けた。

 誰もいなかった。ホッとして鏡の前に立ち、映る顔を見つめた。困惑しているわたしがいた。
 彼のことを好ましく感じていた。尊敬もしていた。

 でも……、

 洗面台に水を貯めて両手を浸すと、冷たい水が動悸を静めてくれた。すると、落ち着いてきた。フ~っと息を吐いて、自分の気持ちを確かめた。

 目を上げると、困惑していないわたしが鏡の中にいた。深呼吸をして、もう一度鏡を見た。聖母の眼差しを思い浮かべると、柔らかい表情が鏡に映った。

 大丈夫だ、

 気持ちを確かめてトイレを出た。

 席に戻り、彼の目をまっすぐに見た。

「ありがとうございます。とても嬉しいです」

「それでは、」

「いえ、」

 わたしは首を横に振った。

「桜田さんのことは尊敬できる方だと思っています。でも、」

 わたしは胸に手を当てた。

「好きな人がいます。幼い頃からずっと好きな人がいます」