「横河原君は誰が好きなの?」

「当然、本多(ほんだ)。カッコいいんだよな」

「そっか~、本多選手が好きなんだ」

「当然だよ。サッカーやってる奴で本多が嫌いな奴はいないよ」

 ふ~ん、本多選手か……、

 彼と別れてから図書館へ行って、本多選手のことを調べてみた。高校の時、インターハイで優勝して、Jリーグのチームに入団し、20歳の時にイギリスへ渡った。それから、ドイツのチームに移籍して、更にスペインへ行って、その後移ったイタリアのチームではキャプテンという大役を務めた。今はオーストリアで活躍している。おまけに、世界各国でサッカー教室を開催しているらしい。

 凄い!

 サッカー選手として活躍するだけでなく、次世代の育成に力を入れている。それに、英語がペラペラらしい。ドイツ語とスペイン語、イタリア語も話せるらしい。

 凄すぎる!

 わたしの想像を超えていた。でも、これが使えるのではないかと思った。早速、翌日、このことを横河原に教えた。

「本多選手って英語ペラペラらしいよ」

「ふ~ん」

「本多選手みたいに海外に行きたい?」

「当たり前だよ。プロになって海外へ行くのが夢」

「だったら英語を話せるようにならないと」

「う~ん……」

 彼の顔が一気に曇った。

「授業つまんないから、やる気出ないし、だから、覚えられないし、無理だよ」

「そんなことないよ。横河原君ならできるよ。そうだ、わたしと英語で話そうよ」

 5年生の時から英語の授業が始まっていた。海外への興味を募らせていたわたしは必死になって勉強した。それだけでなく、お母さんが買ってくれた英会話の本とCDにも夢中になった。NHK教育チャンネルの英語番組もできるだけ見るようにした。すると、簡単な日常会話ならなんとなくわかるようになった。だから英語にはちょっと自信があった。

「貴真心と?」

「そう。わたしが海外のチームの監督で、横河原君が移籍してきた選手よ。今日初めて会ったの。監督に挨拶しなきゃダメでしょ。わたしを監督だと思って挨拶してみて」

「『こんにちは』ってなんて言うんだっけ」

「ハローよ」

「へへへ、ハロー」

「へへへはいらないの。もう一度」

「ハロー」

「その次は、『初めまして』って言うのよ」

「そんなのわかんないよ」

「『ナイス・トゥー・ミーチュー』よ」

「ナイス……、チューチュー♪」

「もう、真面目にやって!」

 彼は、へへへと笑って、頭を掻いた。

「もう一度言うわよ。ナイス・トゥー・ミーチュー」

「ナイス?」

「トゥー」

「ナイス・ツー」

「ツーじゃなくて、トゥー」

「トゥー」

「そう」

「ナイス・トゥー?」

「ミーチュー」

「ナイス・トゥー・ミーチュー」

「ナイス・トゥー・ミーチュー・トゥー」

 わたしは思い切り拍手をした。

「横河原君は頭いいんだから、すぐに英語喋れるようになるよ」

「そうか~」

 彼は照れたように頭を掻いた。でも、めちゃくちゃ嬉しそうだった。

        *

 翌朝学校に着くと、校門の裏手の陰になっているところに横河原がいた。わたしに向かって手招きをしたので、何かと思って近づくと、

「へへへ、ハロー。ナイス・トゥー・ミーチュー」

 得意げな顔をした途端、彼は教室の方へダッシュした。その後姿を目で追いながら、お母さんが言っていたことを思い出した。

「興味のあることから始めてみたらど~お」

 その通りだった。わたしは大きく頷いた。

        *

 その週の日曜日の午後、お母さんに頼んでサッカーの月刊誌を買ってもらった。その中に写っている選手の写真を切り抜いて、大きな封筒の表紙に貼り付けた。メッスとロナウデがシュートを決めた瞬間や、笑顔で握手をしている写真だった。その封筒の中に英会話のCDと本を入れた。

 翌日の放課後、彼に封筒を渡した。

「英会話のCDと本が入っているの」

 横河原は一瞬、ん? というような顔をしたが、写真を見て瞳を輝かせた。

「メッスとロナウデだ」

 写真に手を這わせた。

「憧れの選手と話ができたら嬉しいでしょ?」

 彼はすぐに頷いた。

「メッスやロナウデの写真を見ながら毎日10分でいいからCDを聞いてみて」

「10分?」

 彼は、どうしようかな、というような表情になったが、「聞くだけでいいのか?」と疑わしそうな声を出した。

「うん、聞くだけよ。1日に10分聞くだけ」

「ふ~ん」

 口をとんがらかせて考えているようだったが、〈まあ、いいか〉という感じで自分を納得させるように頷いた。

「で、ね、聞いて覚えたらメッスやロナウデに話しかけてみて」

「話しかける?」

「そう。ハローとか、ナイス・トゥー・ミーチューとか、話しかけるの」

 彼は写真に向かって小さな声で話しかけた。しかし、当然のことながら写真が返事をするわけはなかった。すぐに彼は渋い顔をしたが、それは、わたしにとってはチャンスだった。

「わたしがメッスやロナウデになってあげる」

 ランドセルからお面を2つ取り出した。メッスとロナウデの顔写真を貼り付けたお面だった。寝る前に急に思い付いたので上手には作れなかったが、それを被って、目のところに開けた小さな穴から横河原を見た。

「わたしがメッスやロナウデだと思って話しかけてよ」

 彼は吹き出しそうになったが、真剣なわたしの想いが伝わったのか、「わかった」と言って、「ハロー、ナイス・トゥー・ミーチュー」と大きな声で話しかけてくれた。そして、宝物のように封筒を胸に抱いて、「サンキュー・ベリ・マッチ」と言うなり、コクンと頷いた。「ユア・ウェルカム」と返すと、日本語で「ありがとう」と言いながら走り去っていった。その後姿は未来への希望が満ち溢れているように見えた。

        *

 その後の彼の英会話の上達には目を見張るものがあった。驚くほどの速さで上達していった。それは、はっきりした目標があるからだと思った。

「メッスやロナウデと同じチームになって英語で話している自分を想像したら、楽しくて、毎日1時間以上CDを聞いているんだ」

 スポーツマンの集中力と持続力は凄いと思った。でも、上達の原因はそれだけではなかった。建十字と奈々芽に英語を教えているところを見たのだ。

「球人は大リーグに行きたいんだろ。メジャーで活躍するためには監督やチームメイトの言うことがわからないと困るだろ。だったら、英会話できるようにならないと」

「速人はオリンピックに出たいんだろ。金メダル取りたいんだろ。だったら、日本を出て強い外国人と勝負しないと。そのためには英会話ができないと」

 横河原は自分が覚えた英会話のフレーズを建十字と奈々芽に毎日話しているようだった。そして、3人で会話をしているらしい。

 わたしは家に帰って、お母さんにそのことを話した。すると、「良かったわね」と喜んでくれたあと、「自分がわかっていないと他人に教えられないから、一生懸命勉強するようになるのよ。だから、他人に教えるということは、自分に教えるということでもあるのよ」とわたしと目線を合わせるように屈んでニコッと笑った。そして、「よく覚えておきなさい。教え上手は学び上手! って言うのよ」とまた笑った。